イノセントラブの盗み見 日本文学の伝統

浅野妙子脚本作の特徴の一つは覗き見・盗み聞き・偶然の発見の多用だ。

前作「ラストフレンズ」でも、ほぼ毎回1回はそのようなシーンがあり、ストーリーを転がしていた。(本ブログ6/20の「ラストフレンズは盗聴ドラマだ」参照の事)

それでは最新作「イノセント・ラヴ」はどうだろうか。
第1回放送では早くも4回もあった。

佳音(堀北真希)が喫茶店の女主人と客との間での佳音兄妹の悪い噂しているのを覗き見る。
春江(宮崎美子)がハウスクリーニング先で現金を盗むところを佳音が発見。
佳音が殉也(北川悠仁)の写真を盗もうとしたところを殉也が発見。
ハウスクリーニング事務所で佳音の過去の事件が表示されているPC画面を春江が盗み見る。

これはちょっと多すぎやしないか。普通の人生で、こういった劇的な盗み見ってそんなにあるもんじゃないからね。
まぁ、これらの仕掛けが悪いわけじゃない。それでドラマが面白くなってくれればいいんだけどね。

考えてみれば、この覗き見・盗み聞き・偶然の発見っていうのは、日本の文学作品を振り返ってみても重要な物語転換点になっている。

例えば、「古事記」で、黄泉の国でイザナギノミコトがイザナミノミコトの死後の姿を見ちゃうとか、アマテラスが天岩戸に隠れた後、他の神々の饗宴を岩戸の中から覗いたりする。
この2つのシーンは、「古事記」の中でも凄く有名でしょ。

また、「源氏物語」でも、乳母の家の隣の家で、夕顔を覗き見るシーン、光源氏が紫の上を始めて見つけるシーン、柏木が、飼い猫が御簾の中から出てきた瞬間、女三宮を見てしまうシーンが有名。
偶然かもしれないけど、この3シーンは、後に作られた源氏絵巻、源氏蒔絵、浮世絵の題材等でも人気ベスト3の絵柄として人々の印象に残ってるっていうのも面白い。

その後の文学史を見ても、今昔物語、能の題材(「黒塚」)、おとぎ話(「鶴の恩返し」)から、谷崎潤一郎(「鍵」)の近代文学まで、覗き見は、日本文学の主題の一つとして生き続ける。

実は、日本人ってこういうの好きな民族なのかも。
ちなみに、ある調査によると、現代でも、20代で恋人の携帯の記録を勝手に、見たことある人って6割くらいいるんだってさ。

まさむね

「イノセント・ラヴ」と「流星の絆」の共通性

昨日、TBSドラマ「流星の絆」はふるさとを喪失した兄弟の物語だと書いたんだけど、本日放映されたフジの月9ドラマ「イノセント・ラヴ」も同様の主題だった。

人気ドラマが偶然にしても同様の主題を扱うと言う事自体、根っ子が無くなってしまった人々、政治のみならず地域からも阻害された人々をどうするのかという事が社会的なテーマとなりつつある事情が背景になっているのではないかな。

さて、この「イノセント・ラヴ」だけど、堀北真希演じる秋山佳音のキャラクタがちょっと固まっていない感じがするよね。
よく働くいい娘なのだが、突然別の面を見せる。
携帯で他人を盗み撮りするは、写真自体を盗もうとするは、と倫理観が無いようなのだ。
しかも、写真を盗むところを見られ、逆に優しくされた相手(北川 悠仁演じる長崎 殉也)を好きになり、彼の家に突然、プレゼントを持って会いに行く。

動機が純粋であればいいということか?
だからイノセントなのか?

まぁその他、北川悠仁が”棒”だって問題もあるけど、このドラマ、「ラストフレンズ」と同じく浅野妙子が脚本なのでしばらく見続けてみようかな。

ちなみに、最近の堀北真希といえば、「篤姫」の和宮役のイメージが強いんだけど、ここ数週間、長州征伐で大阪に行ってしまった愛する夫の徳川家茂の写真を見ながら、モンモンと過ごす可憐な和宮のイメージを、「イノセント・ラブ」は見事に引き継いでいるなぁと感心した。その辺りはフジってさすがだよね。

まさむね

「流星の絆」ふるさとを喪失した兄弟の復讐物語

地域格差が言われて久しい。
それは都会VS地方という図式で語られる事が多い。

しかし、より問題なのは、地域内部の格差ではないかと、僕は思っている。
地域社会で一番力を持っているのは、いわゆる「ヨネスケの隣の晩御飯」において訪問対象となる人々だ。
彼らは、地域のコミュニティ(農協、漁協、商工会議所、氏子等)の重要な地位を占める既得権益者と言ってもいいだろう。
恐らく、小沢一郎とか、麻生太郎が日本全国を行脚したなんて言ってるけど、彼らが会っているのは、この隣の晩御飯組に所属する人々だけだろう。
公共事業とか、地域活性化事業等が行われる場合、利権は、この人達に一次的に落ちるような仕組みになっていると想像されるような人々だ。

次に地域に根付いているのが、いわゆる「木更津キャッツアイ」的なジモティ仲間のコミュニティに所属する人々だ。
彼らは、利権があるから地域にしがみ付くのではなく、仲間がいるから地域にとどまり続ける。
彼らにとっては東京は遠い存在だ。自分達の世界とは別の世界なのである。

そして、最後に、格差社会の最下層にいるのが、隣の晩御飯的なコミュニティからも、ジモティ的仲間からも阻害されたバラバラになった人々である。
彼らの所には決して小沢一郎も麻生太郎もヨネスケも訪れない。

恐らく、秋田の連続児童殺害事件で逮捕された畠山鈴香被告とか、秋葉原の通り魔事件の加藤智大容疑者は、こういった人々だったのではないか。
例えば、鈴香被告は、高校の頃、クラスの人々から痛恨のイジメにあっていたという。彼女の卒業文集に書かれていた同級生からのメッセージだ。

会ったら殺す!/顔をださないよーに!/もうこの秋田には帰ってくるなョ/秋田から永久追放/いつもの声で男ひっかけんなよ/山奥で一生過ごすんだ!/今までいじめられた分、強くなったべ 俺達にかんしゃしなさい。

こういった周りの目の中で、ひっそり生きるっていうのも辛いだろうな。
僕は、彼女が犯した罪とは別次元で、そういった生き方をせざるを得ない人々に、一定のシンパシィを感じてしまう。

さて、宮藤官九郎脚本の「流星の絆」が始まった。
これは殺人事件によって両親を殺された3人兄弟(二宮和也、錦戸亮、 戸田恵梨香)がその復讐をする物語だ。子供たちは両親とともに過ごした横須賀を離れ、その後、施設で育ち、現在は、吉祥寺に住んでいる。
「池袋ウエストゲートパーク」や「木更津キャッツアイ」においてジモティ仲間の青春を描いたクドカンの視線がその下の層に届いた作品と言っていいのだろうか?
ふるさと(地域社会)を喪失した兄弟を、彼がどのように描くのか、楽しみだ。

まさむね

野田聖子はエドはるみに話し方を教わった方がいい

選挙が段々近くなってきたようだ。
11月30日が有力らしい。

新聞とかテレビでは、解散風を察知しての、いろんな噂話がそのまま記事になってタレ流されている。
しかし、メディアは、取材源の秘匿という錦の御旗に隠れて、勝手に自分の会社に都合のいい流れを創作してるのがミエミエ?(解散・総選挙とかになると、大騒ぎになってテレビの視聴率は上がるし、新聞もそれなりに読まれるからね。)

町村派幹部って誰?
麻生総理周辺って誰?
小沢氏側近って誰?

そういった視聴者(読者)の???の目に、彼らは気付かないのかな?

でもよく考えてみれば、福田さんはその辞任会見で、経済対策、新テロ特措法、消費者庁創設に関して、自分が首相をしていたら、もうニッチもサッチ動かなくなったから、後に託したいっていう事だったんだけど、その作戦は見事に成功したよね。
福田って意外に読みが鋭いのかな?(自分の事、客観的に見られるし。)

しかし、本当に11月30日に総選挙はあるのだろうか?
民主党の思惑通りに世論が「総選挙をすべし」っていう流れにならないのが辛い。
総選挙よりも景気対策っていう麻生論理を論破出来ないのだ。

そうこうしているうちに、自民党、民主党、に、マルチ商法スキャンダルが出てきて、さらに国民はウンザリしはじめた。

特に迷走しているのが野田聖子消費者担当相だ。
筋から言えば、野田さんは日本アムウェイからのパーティ券の代金を返すべきじゃない。彼女の12年前の質問はなんらおかしい事はないと僕は思う。だって質問なんだもん。
また、同時に彼女は、マンナンライフの蒟蒻畑を一時、製造中止に追い込む(結果的にではあるが)べきではなかった。
一見無難な(リスクを負わなくて済む)解決法に寄り添って、筋の通った少数への抑圧ばかりやってる野田さんだが、それよりも、話し方にどうも愛嬌がない。

老婆心ながら言う。
エド・はるみさんあたりに、人前での話し方とか教えてもらった方がいいのではないか。

まさむね

若者世代の団塊世代以上に対する怨嗟は凄いのかも

今月は、東京都の「振り込め詐欺撲滅月間」だったらしく、警察は都内のATMとかに、6000人の警察官を配置しているらしいんだけど、それでも被害は無くならない。
14日までにすでに94件(約1億7000万円)の被害。そのうち16件は警察官の目の前で振込みが行われたという。

各局の報道・情報番組では、さらなる注意を呼びかける。
「手口はどんどん巧妙になっています。皆さん、くれぐれもお気をつけください。」
「でも、そういう状況になっちゃうと、振り込んじゃうんですよね。お気の毒に。」だってさ。
昔は、日常社会では、詐欺に騙される奴の事を単純に”馬鹿”と言ったものだが...昨今のメディアでは当たり前だけど、そんな事、言えない。

一方、2chとかでは、こういう被害者に対して、気の毒っていう人は少数派。大多数は残酷な言説だ。
「老婆が溜め込んだお金が市場に流れるのはいい事だ」とか「ついでにショック死してくれるとそいつに年金払わなくて済む」とか、そこまで言うか。
しかし、2chユーザー(30才が40%と言われている)の団塊以上の世代に対しての恨みにも似た嫌悪は凄いな。

一般に、格差の中には、地域格差や所得格差、教育格差等、いろいろとあるけど、若者にとっては、年代格差っていうのが一番切実かもしれないね。

バブルを謳歌した団塊世代、それがはじけて、大借金(赤字国債)がなんと800兆円。
そのツケは下の世代に押し付けて、自分達は定年退職、年金生活者に。
そのあおりを受けて、若者世代は、非正規雇用が1/3。その多くがワーキングプア状態。
ちなみに、現在、日本の貯蓄総額は1500兆円だっていうけど、そのうち3/4が60才以上に集中しているって言われてるよね。
そんなに溜め込んでて、高齢者医療制度に関して、”天引き”が嫌だって、何、眠いこといってんだろう。で、それでなんで政府がそのくらい説得できないんだろう?

彼らは若者に「辛抱しろ」と言うけど、もう時代は我慢していればいいことがあるような時代じゃないんだよ。年功序列・終身雇用の時代は終わってしまったのだ。

先日、石原都知事がネットカフェ難民が1500円でネカフェに泊まるのはファッションの一種だ。山谷に行けば300円で泊まれるのに、って発言してネット上で大顰蹙を買ったけど、その彼は今、オリンピック誘致を推進しようとしている。
自分は決めて(手柄だけ取って)、作業は下の世代に押し付けとしているのだ。勘弁してほしい。僕は大反対だ。
石原軍団で、準備から警備まで勝手にやってくれというのが本音。

一方、こんな時期にあの星野仙一のWBC監督案が浮上しているという。
ネットにおける彼への嫌悪感は、若い世代の団塊の世代への本能的な恨みが背景にあるんじゃないかな。
星野さんの行動パターン、口先ばかりで大きな事言って、、仲間とつるんで大騒ぎして、しかし結果を出せない。全共闘の学生運動思い出すよ。
尤も、星野さん自身は、68年の明大闘争では、当局の要員としてデモを潰す側だったらしいけどね。

いずれ若い世代はなんらかの反乱を起すのだろうか。気持ち、既にグツグツかも。

まさむね

瑛太が演じる草食系男子(タケルと帯刀)に注目

結婚しない、あるいは出来ない男性が増えてるという話を昨日したが、その前段には、恋愛が苦手な男子が増えてるっていう要因もある。

流行の言葉で言えば、草食系男子増殖っていうことか...
この草食系男子というは女の子に対して、恋愛関係にはなりたくない(なれない)、けど、マッたりと一緒の時間を過ごすのは大得意っていうタイプの男の子の事だ(詳細は、「草食系男子の恋愛学」(森岡正博著)参照の事)。

恐らく、若い男っていうものは、好きな女の子と二人っきりになると、いかにヤるかっていう欲望+戦略+妄想で頭が一杯になるっていうのは、昔の話。
最近は、こういうタイプが目立ってきているらしいのだ。

それは、別の言い方をするならば、そういうタイプの男の子に対して、「それもいいんだよ」って、やっと言えるような時代になってきたっていう事かもしれない。

具体的なイメージで言うならば、今、フジテレビで再放送している「ラスト・フレンズ」で、瑛太が演じているタケルっていうのがまさしくこのタイプなんだよね。
タケルは、子供の頃に実姉から受けた性的暴行をトラウマにしていて、SEX恐怖症になっているっていう背景はあるんだけど、シェアハウスにいる他の女の子達に対する扱いが完璧に上手い。
気が弱いんだけど、気が利くし、気が回るし、優しいし、聞き上手なのだ。
だから、「タケルは、他人を幸せにする才能があるよね」って言われたりする。
しかし、”恋愛”は、いつも上手くいかないのだ。
エリ(水川あさみ)からのSEXの誘いには応じられないし、ルカ(上野樹里)への告白は空振りに終わる(これにはルカがレズだという理由があるんだけど)し、ミチル(長澤まさみ)からの告白は受け入れられない。
それでも、そんないろんな事がありながらも、彼女達から絶大に好かれている。上手くやっていけるのだ。凄い才能だ。

一般論で言うならば、恋愛下手な草食系男子が増える事に関して、少子化の視点から眉をしかめる向きもあるのかもしれないけど、周りの人々、社会にとっては、むしろ歓迎すべきことだと思う。
消費しない若者と同時に、周りにストレスを与えない若者像っていうのも、新時代の生き方として、肯定したいところだ。

さて、瑛太が出演しているもう一つのドラマ「篤姫」だが、ここでの彼の役どころは、薩摩藩家老・小松帯刀である。
明治維新の立役者として歴史上では大活躍する彼だが、女性に対してはタケルと同じような、いつも上手くいかなく、情けないスタンスなのが面白い。
篤姫(宮崎あおい)に対しては、結局、愛を伝えることは出来ず、姉さん女房のお近(ともさかりえ)とは、(小松家の養子となる事によって)半ば強制的に結婚させられる。また、京都の屋敷には、芸者のお琴(原田夏希)に上がりこまれるのだ。

次の放送では、このお近に、お琴との同居生活がバレるらしい。
幕末の草食系男子・小松帯刀のアタフタした姿が楽しみだ。

まさむね

少子化を踏まえて日本はどうなっていくべきか

現在、30代前半の男性の半数、女性の3割が未婚であるという。
しかし、彼らは決して結婚したくないわけではない。9割の人に、結婚願望があるのである。
では、どうして結婚が進まないのであろうか。

それは、現状、男女の結婚観に大きな隔たりがあるからである。
簡単に言ってしまうと、女性の方は、高収入のイイ男と結婚して、結婚後は専業主婦になりたいと思っている。
一般的に年収二倍の法則(白河桃子さんの説より)といって、独身時代の自分の年収の最低2倍の年収の相手を求めているという。独身時代の生活レベルはキープしたいのだ。
しかも、結婚しても現在の仕事を続けたいと思っている女性は、それなりに社会的地位の高い職業の人々だけで、一般的には、多くの女性は、「結婚したらこんな仕事を早く辞めたい」と思っているらしい。

ちょっと前までは、結婚しても仕事を続けたいから結婚しないという女性がそれなりにいたように思うのだが、最近では、そういったキャリアウーマンタイプが減ってきているのか。
ドラマで言えば、「Around 40」で天海祐希扮する聡子や「四つの嘘」で高島礼子扮するネリ(両方とも女医)、「モンスターピアレンツ」で米倉涼子扮する高村樹季(弁護士)のような女性が羨ましく思えなくなってきている女性が増えているのかもしれない。

しかし、一方で、彼女達の結婚対象である男性の方の状況はどうだろうか。
彼らの状況は決して明るくはない。年収は減って来ており、しかも将来も不安定になってきているのだ。
(勿論、年収も将来も約束されたような階層の男性もいることはいるのだが、多くは20代で結婚してしまっている。)
だから男性は男性で、女性に対して結婚後も仕事を続けてもらいたい。でも、出産、育児に関しては女性に任せたいと思っている。
ようするに、女性に対して、そこそこの収入プラス家事・育児を期待しているのだ。

こうした、男女の結婚観のミスマッチが未婚化の根本原因となっているようだ。現代の多くの若者は結婚しないのではなく、結婚出来ないのである。

しかし、行政の少子化対策は、少子化の主因である未婚化の方は、とりあえず横に置いておいて、子育て支援(保育所整備、育児休業制度、児童手当)にのみに偏っている(山田昌弘・中央大学教授)という。
だから、90年代中盤から行ってきた少子化対策はほとんど成果を上げられていないのだ。

だからと言って、国家が国民の結婚に介入するというのは余計なお世話という感じがしないでもない。
それぞれの個人の生き方を尊重しましょうという価値観の大きな流れの中で、露骨な結婚奨励策は取るのもどうかと思われるのだ。
結局、現代においては、政策によってでは、人の生き方は、強制は出来ないということなのだろうか。
例えば、世の中には、いろんな人がいて、先日、京都である女性が「結婚が『おめでとう』の社会は、非婚の人が生きづらい」「婚姻制度には差別がいっぱい」と、「反婚」を掲げてデモをしたという。
こういう思想は、認めざるを得ないのだ。(でも、この思想を踏まえた上で、例えば、40歳の独身者をつかまえて、「独身、おめでとう!!」という勇気は僕にはまだないけどね。)

上記のような状況があって、非婚化=少子化が止められないとしたら、僕は、日本には2つの選択肢しかないように思える。
一つは、現在のあらゆる面での水準(生活、国力等)を落とさないように、高齢者も女性も働き続けたり、新しい技術革新したりして、ひたすら頑張っていく方向。大量の移民を受けるというのもこの方向に沿った政策だ。
そして、もう一つは、日本の国力や生活水準を徐々に落としつつ、それにあった新しい国民意識(価値観)を模索していく方向だ。

恐らく、現在の政治は、自民党にしても、民主党にしても、明らかに前者の方向を無自覚に志向しているように思える。

しかし、最近の20代の人々は、自動車の購入数、アルコールの消費量が段々減ってきている、貯金が増えてきている。明らかに自ら生活水準を落とし始めているのだ。
もしかしたら、新しい世代は無意識的に後者の新しい価値観を模索し始めているのかもしれない。

まさむね

人気少年アニメにおけるそれぞれの父親達

日曜日の19:30から、MXで「ムーミン」の再放送をやっていた。

実は僕が一番好きだったアニメはこの「ムーミン」だったのだ。
「巨人の星」とか「あしたのジョー」っていう梶原一騎物の手塚治虫の「どろろ」とか「ジャングル大帝」とかも勿論好きだったけど、どれか一つを選びなさいと言われたら、僕は「ムーミン」をあげる。

ムーミン谷では毎回、日常世界異物が入り込む事によって、ささやかな事件が起きる。
それは、時に、村人達の欲望に火をつけたり、お互いを疑心暗鬼にさせたりして、彼らの心をかき乱すんだけど、最終的には、その”謎の異物”が排除されると村人は、「あれは何だったんだろう」的な置かれて、元のボーッとした善良な人々に戻るのだ。

みんなが同じ観念に取り付かれて暴走していく事の危険性を、裏返して言えば、たった一人でも正しいと思ったことは主張すべきだって事を言っていたんだろうなって、今更になってみると思うよ。

そんなムーミンにはいろんな登場人物が出てくるが、僕がいつも気になっていたのがムーミンパパだ。
ムーミンパパの職業は小説家だ。しかも、いつまでも最初の1行が書けないでいる小説家だ。
(先日見た、現在、再放送されている新バージョン(1990年版)では、自分の過去の伝記を書いていたが。以前のバージョンでは、そうだったはずだ)
ムーミンにとってパパはいつも、どこかにはかり知れない未知の存在だ。
ムーミンがパパの事を質問するとパパは、「それは大人になると分かることだよ」とニコニコ顔ではぐらかす。
そういえばアニメにおける父と息子の関係ってそれぞれ見てみると面白いよ。

例えば、「巨人の星」では、飛雄馬にとっての一徹は、権威そのものだった。
「オバケのQ太郎」の正ちゃんにとってパパさんは、頼りない存在。
「天才バカボン」におけるバカボンとパパの関係は、友達関係。
そして、「ゲゲゲの鬼太郎」では、鬼太郎にとって、目玉オヤジは何でも教えてくれる知恵袋だ。

男の子にとって、父親とは何か?未知の存在?権威そのもの?頼りない存在?友達?知恵袋?

これらのアニメが放映されていた60年代後半~70年代最初にかけてだけど、戦後、標準的な親子関係のイメージは、どんどん分裂して、本当にバラバラになっちゃったんだね。
これらの有名な少年アニメにおける父親像のバラバラさは、その事を表わしているのかもね。

まさむね

聖子とヨーコ

seiko.gifいまの私がいちばん好き
もっと自分を好きになる

最近、松田聖子が出演するDiosa(ヘアカラー)のCMのコピーである。
いまだに輝き続ける彼女に相応しいキャッチだ。

「自分らしく生きる」という誰でも出来そうで誰にも出来ないスタイルを貫く松田聖子。
彼女には、支持するファンが存在すると同時に、彼女に対して、嫌悪感を隠さない人々もいる。その人生は、その嫌悪感に対する闘いの歴史でもあった。
しかし、彼女が立派なのは、どんなに逆風が吹いても彼女は逃げなかった事だ。
ある芸能記者によると、「どんな状況でも松田聖子は取材に応じる」そうである。
そして、彼女はいつも”松田聖子”であり続けるそうだ。

闘い続けた女性だけが表現できる迫力、今回のCMにはそんなものを感じる。
来週22日(水)に発売予定のニューシングル「あの輝いた季節」は、またヒットチャートを賑わしてくれる事だろう。


世界中のすべての時計を二秒ずつ早めなさい。
誰にも気づかれないように。

これは、松田聖子がデビューする30年程前に、アメリカに渡り、前衛芸術家として活躍、後にビートルズのリーダー、ジョン=レノンと結婚、ビートルズ解散の元凶と言われ、世界中からバッシングを受けたオノ・ヨーコが、60年代初頭に著したインストラクションアート(命令文による詩集)「グレープフルーツジュース」の中の
一節だ。
彼女は一般的にはジョンの妻としてのみ有名であるが、ジョンと出会う前から芸術家として素晴らしかったのだ。
この2行を読んでもらえば、分かる人にはわかるよね。

ちなみに、彼女は今でも毎年、日本のアーティストを集めて武道館でチャリティコンサートを行っている。
今年も12月8日にあるらしい。奥田民生、斉藤和義、ボニピン達に加えて、今年は、Salyu、絢香や宮崎あおい達も出るらしい。
ヨーコもまた闘い続けた女のみが出せるオーラをいまだに持っている。今年のステージも今から楽しみだ。

さて、松田聖子とオノ・ヨーコは実はある共通点があるのだ。
知る人ぞ知る事実なのだが、二人とも九州の柳川・立花藩の家老の家の末裔なのだ。
ちなみに、松田聖子の蒲池家の家紋は左三つ巴(一番上)、オノヨーコの小野家の家紋(一番下)は一つ引両だ。
世が世なら、この二人の家老の姫達がそれぞれの立場で顔を合わせていたかと想像するのも一興か。
そんな城内ってもしかしたら、まわりは大変だったかも…

それにしても、柳川って僕も一度行った事があるんだけど、大林宣彦監督の「廃市」の舞台になった、美しい運河(写真中)の街だ。
この映画のタイトルでもイメージ出来るように、ある意味、消えゆく日本美の象徴みたいな街なんだよね。

ちなみに、この「廃市」には先ごろ亡くなられた峰岸徹さんも出演されておりました。合掌。

まさむね

虚実の狭間に生息していた三浦和義の死

ロス疑惑銃撃事件、共謀罪の容疑でロサンゼルスに移送された後、拘留中に三浦和義が自殺した。

しかし、この人、ロス銃撃事件(1981年)から、この自殺まで何が本当で何が嘘かという曖昧なエリア、すなわち虚実の狭間に居続けた存在だった。

彼は、TV取材に対して、積極的に顔を出し、子供の頃の石原裕次郎との浅からぬ因縁を自慢げに語ったり、不良で、少年院に7年間、お世話になった伝説をもったいぶって披露する。
また、日本での無罪が確定した後、くだらない万引きを繰り返す。
こういった三浦氏の、疑惑をさらに膨らますその胡散臭い振る舞いには、注目される事を運命付けられた者のみが持つ独特のセンスが感じられたものだ。

ちなみに、虚構と現実が最も華やかに交錯したあの80年代、テレビのワイドショー登場回数で群を抜いたのは、男性では三浦和義だったが、女性では圧倒的に松田聖子だった。
恐らく、三浦和義が虚実の狭間に存在した事によって、視聴者の興味を引き続けたのと同様に、松田聖子も似たようなポジションに存在したのだ。
あの泣きは本当だったのかどうかとか、涙が流れたかどうかみたいな(ブリッ子)論議があったり、結婚だの、出産(ママドル)だの、浮気だの、不倫だの、離婚だの、再婚(ビビビ婚)だの、そしてバッシングだの、ワイドショー視聴者は十分に彼女自身の生き方を消費したのである。

大雑把な言い方だが、90年代まで、僕たちも、芸能界的虚実の世界を余裕を持って楽しむセンスを持っていたような気がする。

実はこの虚実を股をかけたエンタテイメントって日本芸能の伝統なんだよね。
例えば、「源氏物語」だって、紫式部によって書かれた当初は登場人物が、実際にあった貴族社会の噂話が上手くアレンジして散りばめられていたそうだ。この書物がそれまでの物語とは一線を画す名作として評価されたのは、この虚実の扱いの絶妙さがあったんだよね。
また、近代の小説だって、例えば、三島由紀夫の「仮面の告白」なんて、どこまで本当?みたいなスキャンダラスな視線が、この作品をベストセラーに押し上げている。

しかし、最近、こういった虚実の世界を楽しむという”粋”な作法が、だんだん衰退してきているのではないか。
一方、虚と実を判然と分けないといけないみたいな倫理観が跋扈しているのだ。
大相撲の八百長論議等を聞いていても、協会側の余裕の無さ、視聴者側の野暮な振る舞いが、僕には気になる。

そんな中で、突然、三浦氏の自殺が報道された。

ロマンチックな言い方をするならば、虚実の狭間で生息し続けた三浦という生き物が、そんな時代風潮の中、白黒はっきりさせられる直前に自らの命を絶った。

泥沼でしか生きられないウナギ犬が陸にあげられて死んじゃった、みたいな哀れさを感じる。

まさむね