ROOKIES の思想の起源

遂に、入院が明日に迫った。
本ブログも最低、2週間程度、休止させていただきます。

さて「ROOKIES」の最終回で川藤先生はナインに向かって檄を飛ばした。

臆病でためらいがちな人間にとっては一切が不可能だ。
なぜなら、一切が不可能のように見えてしまうからだ。
あきらめて振ったバットには絶対、ボールはあたってくれない。
だが、自信を持って振れば目をつぶってだってあたることがある。
お前たちが努力して、手にした最大の宝、可能性だ。

確かに素晴らしい言葉だ。

でも、これは自分の悪い癖なのだが、素晴らしい言葉は、そのまま受け取ればいいものの、この思想の起源は何か?などと余計な事を考えてしまう。
恐らく、この発想は、アメリカ発祥のニューソート思想(気持ちを前向きに持つ事によって運命が開けるという考え方)が、生長の家等の新宗教や、自己啓発セミナー等に乗って入ってきたもので、日本の伝統社会の中から自然に出てきたものではないだろう。

僕も大好きな「ROOKIES」であるが、上記の川藤先生の言葉に対して、「じゃあ、その可能性を保証するのは何?」という疑問をぶつけてみれば、容易に「神」という発想に行き当たるような気がする。そして、この発想は「大事なのは、信じる事だ」という信仰にも近いように思える。

心の中にすんなりと入り込んで来る考え方でも、ちょっと距離を置いて見てみると、微妙な問題が透けて見える事がある。

まさむね

源氏物語を世界遺産に

oosawa.gif先日、源氏物語の写本が見つかった。

これは、藤原定家がまとめた「青表紙本」とは別の系統の写本も含まれており、大沢という人物が豊臣秀吉から拝領したもので「大沢本」(写真)と呼ばれている。
今回、この写本の発見が重要と思われるのは、現在、流布している写本とは異なる記述の箇所がある事。今後の研究が楽しみだ。

さて、この源氏物語、今から約1000年前に書かれた奇跡の文学である。現代にいたるまで、多くの研究者がこぞって、研究しているが未だに定説が存在しない、その奥深さは尋常ではないのだ。

一般的にこの物語は光源氏という色男の恋の話として通っているが、見方を180度替えると、それは、源氏と右大臣家と左大臣家、三つ巴の政治闘争の話だ。
例えば、光源氏の朧月夜(右大臣家系)への誘惑は、右大臣家に対する挑戦に他ならないし、左大臣家に対する秘密兵器は、源氏が密かに後見していた玉鬘(左大臣家系)である。
一方、朱雀院(右大臣家系)は、出家を機会に娘の女三宮を光源氏に降嫁させるが、この女三宮は源氏と紫の上との関係に微妙なヒビを入れ、しかも、柏木(左大臣家系)との間に不義の子をもうけてしまう。源氏、晩年の暗転の物語は、女三宮の降嫁から始まるのである。
これは、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった源氏に対する右大臣家と左大臣家が連携した周到な復讐という見方も出来る。

勿論、上記は僕のオタク的な勝手な解釈であるが、そういった解釈の幅を許す豊かな物語。

日本が誇る文化的世界遺産を一つ上げろと言われれば、建物でも彫刻でもなくこの文学かもしれない。

まさむね

ROOKIES に心奪われた俺って何?

ROOKIES最終回は感動的だった。

一人の主人公の人気で引っ張るのではなく、各メンバーがそれぞれの見せ場を作った脚本と演出の力量は素晴らしかった。

個人的には、安仁屋(市原隼人)がベンチ裏で泣くシーンが一番。
野球帽のひさしが、男の涙を隠すためにあるという事を改めて思い出させてくれた。
また、御子柴(小出恵介)が奇跡の満塁ホームランを打って、感動のあまり歩きながらダイヤモンドを一周するシーンが二番。
実際に虫垂炎で入院したという小出君。本当に痛くて走れなかったのかも。
そして、球場に入れず、携帯ラジオを聴く川藤先生(佐藤隆太)が、不良達に絡まれた場面で、彼を救った上坂(遠藤要)の男気もGJ。
こういったサイドストーリーがこの物語を豊かにしてくれている。

恐らく視聴率では、「ごくせん」や「CHANGE」のほうが上であろうが、視聴率では計れないインパクトこそ、今の時代、重要だ。
例えば、そのインパクトは、2chのテレビドラマ板のスレ数に現れる。
「ROOKIES」は91にまで伸びた。通常のヒットドラマのスレ数の3倍以上だ。ちなみに、「CHANGE」は30、「ごくせん」は25だった。

しかし、一方で、今回の「ROOKIES」にかけるTBSの番宣攻勢は辟易の感がある。
ドラマの全放送時間が13時間位なのに、なにせ番宣に40時間以上かけたそうだ。
去年、今年とスポット広告料の激減という現実的な背景はあるにしても、一昔前まではあった「公共の電波でこんなことを…」という自制心はどこへいったのか。
しかも、その、なりふり構わない力の入れ方を番宣内で自慢する。
恥じらいのカケラも無い。

しかし、本放送は勿論の事、番宣(再放送やダイジェスト版も含)もほとんど、全て視聴し、さらにYoutubeで各本放送をそれぞれ3回は再確認(再涙)してた俺って、何?

まさむね

ドラマに見る階層とテレビ

テレビ各局で地デジキャンペーンが激しい。

僕個人的には、デジタルになって画像の質がよくなることによって、葬式時に紋付を着た芸能人の家紋が確認しやするくなる(だろう)という楽しみがあるが、一般の人にとってはどうなんだろう。面倒くさいというデメリットの方が大きいような気もする。まぁ、あと3年後だから、その時の混乱は別の意味で楽しみだ。

さて、その地デジと連動して、一方で徐々に普及しつつあるのが、薄型テレビだ。
総務省の統計によると2008年に入って、約3分の1の世帯に普及しているという。(本当か?)

最近のドラマで気になるのが、所有するテレビによって登場人物の所属階層を表現しているという巧妙な嫌らしさだ。
無意識的に薄型=上流、ブラウン管=下流というメッセージ(すなわち、早く買い換えろメッセージ)が送られているような気がする。

典型的なのは、テレビ朝日の「四つの嘘」だ。

高級官僚の家=巨大な薄型テレビ(※しかも背面はガラス張りの庭)
独身の女医の高級マンション=巨大な薄型テレビ
仏壇屋のリビング=普通の薄型テレビ
ボクサーのアパート=普通のブラウン管テレビ
古本屋の奥の居間=テレビ確認できず

今後、他のドラマでもチェックしていきたいと思う。

まさむね

大相撲、この愛すべき見世物の伝統

大相撲.名古屋場所、琴欧洲の横綱昇進も無くなり、ほぼ、白鵬の優勝が決まってしまった。場所前の稽古で朝青龍に5連勝したという琴光喜に期待したが、大爆発とはいかなかった。

一方で、現在幕下筆頭の山本山という力士の調子がいい。恐らく、来場所は十両昇進するには間違いない。期待大だ。
さて、この山本山、どこが期待大かといえば、とにかく体が大きいのだ。体重が230Kgもあるのだ。

元々、大相撲の起源は、相撲を見せる勝負事というよりも、力士のふくよかな肉体を見せる事がメインの見世物だった。
そして、恐らく、そのふくよかな肉体を見せながら、格闘技として興行として成立させるために、丸い土俵を発明したのだ。
およそ、世界中に格闘技で、戦闘エリアから外に出た瞬間に負け、というのは相撲だけである。
柔道、空手、レスリング、ボクシング、シムル、サンボ、カポエラ…どんな格闘技だって、エリアから出たらやり直しである。
ところが、大相撲は、土俵(というルール)を考え出す事によって、極めてユニークな格闘技になった。
これで、”ふくよかな肉体”と”格闘技”という本来、矛盾するものが融合したのだから、土俵というルールを考え出した人は天才である。

さて、極論するならば、日本人は、異界からやって来るふくよかな肉体に幸せを感じ、憧れ続けた歴史を持っている。
古くは達磨さん、布袋、恵比寿から、最近ではビリケン、ドラエモン、トトロから江原さんまで…

最近、外国人力士の増加をいぶかる声もあるが、僕はそうは思わない。
彼らの肉体を見ることこそ、日本の見世物の伝統に沿っているからだ。

大相撲は続いていく。大丈夫だ。

まさむね

C 型肝炎。再入院決定

来週の火曜日から再入院する事になった。

4月にも、人工透析治療をして、ウィルス値がかなり減ったんだけど、5月、6月、7月と、あと一歩のところで、ウィルスを殲滅できずに推移していたので、今回、2度目の人工透析治療が解禁されたのを受け、入院を決意した。

同じくC型肝炎から肝硬変をわずらった寺山修司は、死の間際に舞台「奴婢訓」の演出のため、入院をしなかったという。伝説として語り継がれているのは、現場で、劇団員に看護婦の格好をさせて、体調の管理をさせていたという。日常世界と演劇空間の境界のゆらぎにこだわった寺山らしい伝説である。

しかし、寺山がこの世を去ったのが、享年47歳。
私は、48歳になる。今度こそ、ウィルス殲滅といきたいところだ。

まさむね

篤姫と世界に一つだけの花

先日、篤姫の「己の心に従って行動せよ。」という行動原理に関して話をした。

この行動原理の基となる価値観は、我々の”外”のどこかに普遍的な真実が存在しているのではないということだ。

逆に言えば、真実はそれぞれの個人の中にある、尊重されるべきは個性だという事にもつながる。

2003年3月に発売され、今世紀最大のヒット曲となったSMAPの「世界に一つだけの花」は、このような”個性主義”の応援歌としてあまりにも大きな影響を社会に与えた。最近では、学校の卒業式などでも歌われるという。
でも、この歌を歌わせて、ハイさようならっていう学校はいいかもしれないが、現実社会は、この歌のようにはいかない。(元々、花屋の店先に並んでいる花は品種改良をされ、間引きを逃げ抜けたエリートじゃないかっていう批判もある。)

先日、家の近くの花屋の店先で、店長が店員に花を投げつけて、なにやら怒っていた。悲しすぎる光景であった。

最初は、ナンバーワンになろうと思ったけど、この歌の影響でオンリーワンでもいいかって悟り、競争から降りたはいいけど、社会から、オンリーワンなんて不要ってNoを突きつけられた挙句、就職できなくて、ロンリーワンという名のニートになってしまった人、多いんじゃないかな。

現実はいつも残酷だ。

まさむね

篤姫の行動原理は極めて現代的だ。

NHK大河ドラマの主人公の思想には放送当時の社会の価値観が反映されている。

例えば、私が見た限り、何度もドラマ化された戦国時代の信長や秀吉、家康達は、例外なく、「いくさの無い平和な世の中」を最終目標としていた。そこでは、”家”を存続させるためには、敵は滅ぼさなければらないという、当時としては当然の価値観は周到に隠されているのである。

そして、現在、放映されている「篤姫」においても、歴史上人物の行動原理に、現代の価値が入り込んでいるという現象はいくつか見られる。
気付いたものの一つ目。篤姫の薩摩時代、義父の島津斉彬に「何故、薩摩が軍備増強するのかわかるか?」と問われた篤姫は「それは戦をしないためです」と明確に回答し、斉彬を驚かせるという場面があった。
これは、(いい悪いは別にして、)明らかに、現在の自衛隊を正当化する理論と一致する。

もしかしたら、このような価値は、ここ10年位前から、ようやく表明できるようになったのではないだろうか。
例えば、1973年の「国盗り物語」における信長、1981年の「おんな太閤記」における秀吉が、このような価値表明をしていただろうか。興味深いところだ。

そして二つ目は、篤姫の「己の心に従って行動せよ。」という行動原理だ。これは、何度も繰り返し放送されているが、母からの言葉であり、先週放送の「二つの遺言」では斉彬からの最後の手紙にも記されていた。

恐らく、この行動原理は、砕いて言えば、「価値観は人それぞれだ」「自分が何をしたいのかを考えろ」「自分の感性に従って行動しろ」「自分の行動は自分で責任を持て」という極めて現代的、民主的なものだ。
今回の「篤姫」の人気の秘密は、彼女のこうした現代的行動原理が、様々な旧弊かつ閉塞的な状況を打破していく痛快さにあるに違いない。

さて、本日(20日)の放送でも、他言は禁止されていた将軍の死という秘密を、自分の感性のおもむくままに側室と生母に伝える事によって、それぞれのギクシャクした女同士の関係を修復し、篤姫から天璋院へと成長していく。

今後、ドラマは、大老の暗殺、和宮降下、江戸城開城というように劇的な展開を迎えることが予想されるが、その都度、彼女の行動原理はどのように状況を打開していくのか。楽しみである。

まさむね

大相撲のしごき問題に関して

大相撲.名古屋場所は7日目を終えた。
朝青龍の途中休場、琴欧洲の不振もあり、戦前の興味はかなりそがれたが、後半は、白鵬を追う形となった1敗の安馬、琴光喜の両脇役の活躍を期待したい。

さて、今回は、大相撲のいわゆる「しごき問題」に関して。

僕らの世代のイメージでは、大相撲といえば、厳しさの象徴だった。そして、その厳しさには当然のように竹刀やゲンコツでのしごきも入っていたように思う。
「無理ヘンにゲンコツと書いて、兄弟子と読む」みたいな相撲格言が我々の耳にも自然と、しかし確かに届いていた。

それが平成のここに来て、「しごき問題」だ。勿論、そのしごきが度を越して弟子を死なすというのは論外だが、相撲社会が一般社会と同じ価値観で運営されるようになる事を誰が望んでいるのか。その根本的なところももう一度再考してらいたい。

己の巨体を、自分も、そして家族も持て余した少年が、偶然に親方の目に止まり、「メシは腹一杯食わせてやる」的に半分、騙されて一人で上京し、中卒だから、大きすぎるからと他に行くところもなく、それゆえに不条理なしごきに耐え、一人前の関取になって、巨額の富を築いていく。
そういった、どこかうら寂しくも理想的な物語を背中に貼り付けているからこそ、相撲は残酷な視線を持つ大衆に支持されてきたのではなかったのか。

インターネットかなんかで新弟子が公募され、科学的なトレーニングをして、民主的に運営される相撲部屋から出た力士が、見世物としての物語性を身にまとう事など可能なのであろうか。
相撲界に対して思いやりのかけらもないような、世間の表面的な建前論にあらゆる場面で土俵際まで追い詰められた相撲界は今後、どうなっていくのであろうか。

角界の内情を少しでも知っている自称相撲通(会友)の方々には、こういう時こそ、世間側に擦り寄らずに「しごきなど当然です。だって、相撲ですから。」という、あたり前の論陣を張ってもらいたい。

やくさん、デイモンさん、杉山さん、あなた達のことですよ。

まさむね

外務省って何をする所なの?

外務省という役所は何をするところなのであろうか。

皮肉ではなく、私はそう思ってしまう。
先日、文部省が中学校の教科書の指導要領の解説書に「日本と韓国の間に竹島をめぐって主張に相違がある」と明記したことを契機にして、韓国側から正式抗議があり、ソウルの日本大使館前で大規模なデモが発生したとの報道がなされた。
多くの日本人はこの一連の騒動に対して、「またか」とウンザリしている。
よく考えてみれば、ロシアとの北方領土、中国.台湾との尖閣問題といった領土問題、そして、勿論、北朝鮮との拉致問題もそうだが、東アジアにおける日本の外交的重要な問題は、ほとんど解決していないとの印象すら受けてしまう。これでは、難しい問題を後回しにする受験生みたいなもんだ。

一般的に考えれば、外務省というところはそういった問題を解決するためのところだろう。
確かに外交というものは100%、国民に状況を明かせる類のものではない事は理解できる。ただ、解決に向けての方向くらいは示せるだろう。

例えば、竹島問題に関して言えば、日韓どちらの領土化ということに関して、お互いの話がつかないのであるなら、それこそ何度でも何度でも、国際司法裁判所への提訴を日本国民、韓国政府.国民に向けアピールしていくべきではないのか。日韓首脳会談とかも、何度もやってるんだから、「竹島は日本の領土だ」という主張
があまりにもストレートすぎてビビるというのであれば、そのたびに、提訴を内外にアピールすればいいじゃない。
もしも、韓国が対馬が韓国領だと主張するならば、どうぞ提訴してください。多分、そちらの恥になりますがと言ってやればいいのだ。
恐らく、日本人の多くは、もしも国際司法裁判所での判決が出れば、それに異をとなえる人は少数だと思う。
その位日本人は理性的に物事に対して対処できる国民だと思う。(また、韓国人もそうである事を希望する)

それよりも、解決の道筋すら国民に知らされず、何かあるたびに、大使送還だとか反日デモとかを見せられて嫌な思いだけさせられるのは明らかに国民の利益に反している。

あの外務省のラスプーチンと呼ばれた佐藤優氏が以前、皮肉交じりに言っていた。
「外国から見た日本の外交官は評判いいですよ。頭と性格以外は。」と。
すなわち、「語学が出来ない、戦略がない、人脈を作れない、でも、援助はくれる。」という事らしい。

再び問う。外務省という役所は何をするところなのであろうか。

まさむね