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梶紋 -永遠の敗者として奉られた軍神の紋- 小松帯刀、加山雄三、安倍晋三...

梶紋は、諏訪大社の神紋と知られている。

ご存知の通り、諏訪大社は、建御名方神(たけみなかたのかみ)を奉ってる。
この建御名方神は天孫降臨の際に、大国主神(おおくにぬしのかみ) の子として、建御雷神(たけみかづちのかみ)と戦うが、敗れ、諏訪の地に逃れ、奉られたという。
実は、建御名方神が奉られてある諏訪大社は、ちょうど、ライバル、建御雷神が奉られてある鹿島神宮の真西にある。
建御雷神は、建御名方神に対する優位を永遠のものにしようとしたのだ。
東と西、大相撲でも東の方が西よりも格上とされる伝統はここから来ている。

しかし、不思議なのは、むしろ多くの武士にとって人気を博したのはこの敗れた神(建御名方神)だったということだ。
梶紋は、この建御名方神を軍神として崇めた武士たちの発展とともに広まったのである。

全体としては、30位に入っていないが、諏訪大社のお膝元の長野県(15位)、山梨県(8位)。群馬県、愛知県、東京都、岐阜県、徳島県、鹿児島県では30位に入っている。

梶紋を持つ有名人は以下。


諏訪頼重。1516年 – 1542年8月31日、信濃国の戦国大名。
諏訪頼満の嫡孫・諏訪頼隆の子。上原城城主。武田信玄によって上原城を攻められ降伏。弟の頼高と共に武田氏の本拠・甲府に連行され東光寺に幽閉された後に自刃。2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」では小日向文世(画像)が演じた。家紋は梶の葉紋。


安島帯刀。1811年 – 1859年9月23日、政治家。
三河譜代の名門、戸田氏の嫡流・戸田松平家の分家の出自。幕府内の海防掛に徳川斉昭、戸田忠太夫、藤田東湖らと共に参与。また水戸藩で日本発の軍艦 旭日丸の建造に参与するなどして日本の海防に功績を残す。回天神社祭神。家紋は丸に立ち梶の葉。


松浦武四郎。1818年3月12日 – 1888年2月10日、探検家。
伊勢国一志郡須川村の郷士松浦桂介の四男。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。1844年に蝦夷地探検に出発。その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。北海道という名前を考案した。画像は染井霊園にて撮影。


手塚律蔵。1822年7月25日 – 1878年11月29日、蘭・英学者。
防州小周防村生まれ。父は医師の手塚治孝,母は瀬脇氏。墓所には後に改名した瀬脇寿人の名前が見える。英語の重要性を早くから認識。桂小五郎にも英語を教えた。門人から西周、津田仙など優れた英学者を輩出。家紋は立ち梶の葉紋。青山霊園にて撮影。


小松帯刀。1835年12月3日 - 1870年8月16日、幕末の薩摩藩士。
島津久光に重用され西郷、大久保などの下級藩士と藩主とを繋ぐ役として幕末の薩摩では重要なポジションをこなした。帯刀の紋は一般的には抱き鬼菊の葉とも言われているが小松家は禰寝氏の流れのため梶紋の流れを汲む抱き鬼梶の葉とみなす。


鮫島尚信。1845年4月4日 – 1880年12月4日、外交官。
薩摩国鹿児島城下山之口馬場町の薩摩藩藩医、鮫島淳愿の子として生まれる。薩摩藩の留学生としてロンドンで学ぶ。「外国交法案内」を著す。仏特命全権公使時代に、条約改正に尽力。家紋は丸に立ち梶の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


山本権兵衛。1852年11月26日 – 1933年12月8日、政治家。
薩摩国鹿児島郡出身。数々の軍政改革を行い日清戦争・日露戦争を屋台骨から支え日本海軍のオーナーと言われた。また第16、22代内閣総理大臣も務める。最終階級は海軍大将。家紋は抱き鬼梶の葉紋。画像は青山霊園にて撮影。


有賀長雄。1860年11月13日 – 1921年5月17日、法学、社会学者。
家は大坂の国学者の家系。陸軍大学校、東京帝国大学、早稲田大学などで憲法、国際法を講じる。日清戦争、日露戦争には法律顧問として従軍。著書『社会学』は日本初の体系的な社会学的著作。家紋は鬼梶の葉に二本筆紋。青山霊園の墓所にて撮影。


横河民輔。1864年10月28日 – 1945年6月25日、建築家・実業家。
兵庫県明石市出身。医師の息子。建築家としては帝国劇場、三越日本橋本店等を設計。実業家としては計測・制御機器メーカーの電気計器研究所(現横河電機)を創業した。墓所の家紋の梶の葉は、葉が七枚の変わり紋。画像は多磨霊園にて撮影。


小坂梅吉。1873年11月8日 – 1944年12月2日、実業家、政治家。
信州・伊那出身。上京し上野輪王寺の御用商人となる。銀座に小松食堂を開業。 日比谷公園の内の松本楼を入手。孫文の支援者で日活の創業者・梅屋庄吉とは姻戚関係。衆議院議員、貴族院議員を務める。家紋は丸に梶の葉紋。画像は谷中霊園にて撮影。


有賀幸作。1897年8月21日 – 1945年4月7日、海軍軍人。
長野県上伊那郡朝日村出身。読みは、あるがこうさく。戦艦大和最後の艦長として有名。坊ノ岬沖海戦にて米海軍空母艦載機386機の攻撃を受け、「大和」は沈没。有賀も沈没した大和と運命を共にした。。戦死後、海軍中将に昇格。家紋は梶の葉紋。


白井勇。1898年6月19日 – 1984年4月12日、政治家。
山形県鶴岡市出身。東京帝大出身。農林省に入省後、米穀局で食程政策を担当。終戦とともに食糧庁の検査課長として食糧行政機構と農産物検査制度の確立に尽力。後に参議院議員を4期務め大蔵政務次官、逓信委員長等を歴任。画像は多磨霊園にて撮影。


新田潤。1904年9月18日 – 1978年5月14日、小説家。
長野県上田市出身。本名は半田祐一。高見順らと『人民文庫』を創刊、プロレタリア作家として活動。戦後は風俗小説も書いた。代表作は『片意地な街』『太陽のある附近』『禁断の果実』『色事師と女』等。家紋は梶紋。画像は谷中・瑞松院にて撮影。


諏訪望。1912年7月20日 – 1999年10月6日、精神科医。
信濃国の医家の家系。読みは、すわのぞむ。キリスト者として深い信仰に生きた。著書は『急がずに休まずに ―精神医学とキリスト教 』 『最新精神医学』『精神科臨床の基本』『精神医学とともに60年』。家紋は丸に梶紋。画像は多磨霊園にて撮影。


瀬川昌治。1925年10月26日 -、映画監督、脚本家。
東京市神田区神保町の官吏の家に出生。『ぽんこつ』で監督デビュー。1960年代に数多くの喜劇シリーズを監督。代表監督作は『図々しい奴』『乾杯!ごきげん野郎』等。また、テレビドラマ『赤いシリーズ』『スチュワーデス物語』等の脚本も手がける。


里見浩太朗。1936年11月28日 – 、俳優、歌手。
静岡県富士宮市出身。本名は佐野邦俊。芸歴が半世紀を越える時代劇俳優。代表出演作は『大江戸捜査網』『闇を斬る!大江戸犯科帳』『松平右近事件帳』『水戸黄門』等。また、演歌歌手としても多数リリースしている。家紋は立ち梶の葉紋。


加山雄三。1937年4月11日 – 、俳優、歌手。
神奈川県横浜市出身。祖父は鹿児島出身の陸軍大佐。父親は俳優の上原謙。母は女優の小桜葉子(岩倉具視のひ孫)。代表出演作は『若大将シリーズ』。『君といつまでも』『サライ』の作曲者としても有名。画像は多磨霊園にある父親・上原謙の墓所より。


米長邦雄。1943年6月10日 – 、将棋棋士。
山梨県南巨摩郡増穂町出身。タイトル獲得数19期は歴代5位。永世棋聖の称号を保持。2003年11月、紫綬褒章受章。3人の兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになったという言葉は有名。家紋は丸に立ち梶の葉紋。


中沢新一。1950年5月28日 – 、宗教学者、評論家、文化人類学者。
山梨県山梨市出身、歴史学者の網野善彦は叔父。東京大学大学院人文科学研究科へ入学後、ネパールでチベット仏教の修行を行い帰国後現代思想研究の成果を駆使して著作活動を開始。代表作は『チベットのモーツァルト』『悪党的思考』『哲学の東北』。


安倍晋三。1954年9月21日 – 、政治家。
東京都出身。安倍家は山口県長門市の豪家。父親の晋太郎も有力政治家であったが志半ばで亡くなる。第90代内閣総理大臣となり「戦後レジュームからの脱却」を旗印に本格的保守政権を目指す。画像は冨士霊園・安倍家の墓所にて撮影。


下条みつ。1955年12月29日 – 、政治家。
長野県松本市出身。祖父・下条康麿は文部大臣、父・下条進一郎は厚生大臣を務めた。また母方の祖父は、経団連初代会長・石川一郎。衆議院議員(3期)。羽田グループに所属。家紋は松皮菱に梶紋。画像は染井霊園の下条康麿の墓所にて撮影。

まさむね



鱗紋 -北条家とモンゴル、その因縁の紋- 正岡子規、川端康成、白鵬...

三つ鱗紋は北条家の紋として知られている。

その昔、北条時宗が家運興隆を祈念して、江ノ島弁才天に参った際に、女房が現れた。
その女房が北条家の家運上昇を予言した後、大蛇になって海中に姿を消した。
そして、その後に残った鱗三枚を持ち帰って北条家の家紋としたというのである。

この三つ鱗は、北条氏が滅びた後も、戦国時代の後北条家も含め家紋として採用した。
今でも、弁財天では波と組み合わせて三つ鱗紋を定紋としている。
写真は、吉祥寺の弁財天の提灯。

さて、この三つ鱗だが、モンゴル出身の横綱・白鵬の紋である。
今から700年前の元寇を迎え撃った北条時宗と同紋というのは、これいかに。

横綱になったことで、日本を制圧したことの印として元寇の復讐を果し、念願の相手の大将の家紋を奪い取ったということなのだろうか。
あるいは、この三つ鱗を身に付けることによって、日本の味方になり、もう一人の横綱・朝青龍を迎え撃つ覚悟の印として三つ鱗を採用したということなのか。

いずれにしても、興味深い。

また、19世紀初末のウィーン分離派の巨匠・クリムトの「幸福への憧れ」にも三つ鱗と同様の文様が見られる。
実際、日本の家紋台帳はヨーロッパに輸出され、アール・デコの芸術家のネタ本になっていたという。
もしかしたら、この絵画に描かれている三つ鱗は、クリムトが、日本美術に影響を受ていたということの証なのかもしれない。

さて、鱗紋の全国分布だが、福岡、大分、大阪、和歌山、三重、神奈川で30位に入っている。
ちょうど、瀬戸内海を通って、太平洋に出て関東までのルートにこの紋が散見されるというのも、面白い。
元々、海上民のシンボルだったのかもしれない。

鱗紋を持つ有名人は以下だ。


北条高時。1303年 – 1333年7月4日、武士。
第9代執権北条貞時の3男。鎌倉幕府第14代執権在任中に奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱、正中の変、元弘の変が起きる。新田義貞の鎌倉へ侵攻の際、菩提寺の鎌倉・東勝寺にて自刃。画像はその東慶寺にて撮影した北条鱗紋。


北条早雲。1432年 – 1519年9月8日、武将、戦国大名。
室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自とみられる。関東一円を支配する戦国大名に成長する北条氏の基礎を築いた。早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。後北条家の家紋は北条鱗(ただし早雲は不使用とも言われている)。


種子島時堯。1528年 - 1579年10月21日、種子島の領主。
島津氏に属し時尭は種子島氏の第十四代領主。種子島に漂着したポルトガル商人から鉄砲を購入。鉄砲を分解させて調べさせ鉄砲製造に成功する。鉄砲は種子島銃とも呼ばれ戦国時代に大きな影響を及ぼす。画像は青山霊園の種子島家分家の墓所にて撮影。


平野長泰。1559年 - 1628年6月8日、武将。
尾張津島の出身で、若年にて秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」と称えられた。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。徳川秀忠旗下で旗本として仕え、子孫は九代続いて明治まで生き残る。


横井小楠。1809年9月22日 – 1869年2月15日、熊本藩士、儒学者。
諱は「時存」。横井家は桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発する。松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕政改革をする。また、私塾「四時軒」を開き、多くの門弟を輩出した。新政府も出仕するが、翌年暗殺される。


島田魁。1828年2月29日 – 1900年3月20日、新選組隊長。
美濃国方県郡雄総村出身。庄屋近藤伊右衛門の次男。名古屋城内の御前試合で優勝し大垣藩の嶋田才に見初められ養子となり嶋田家を継ぐ。江戸に出て心形刀流を修得。箱館まで戊辰戦争を戦い抜いた。西本願寺の夜間警備員として一生を終える。


児島惟謙。1837年3月7日 – 1908年7月1日、司法官。
愛媛県宇和島市で宇和島藩士の金子惟彬の二男として出生。大津事件(ロシア皇太子暗殺未遂事件)の際には大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き「護法の神」などと高く評価された。家紋は三つ鱗紋。画像は品川・海晏寺にて撮影。


山県有朋。1838年6月14日- 1922年2月1日、政治家、陸軍軍人。
萩城下近郊の阿武郡出身。長州藩の中間・山縣有稔の長男。奇兵隊に入って頭角を現し新政府では日本陸軍の基礎を築き国軍の父と称される。内閣総理大臣(第3、9代)。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に大和桜紋と三つ鱗紋。画像は護国寺にて撮影。


横井時敬。1860年1月29日 – 1927年11月1日、農学者。
肥後熊本藩士横井久右衛門時教の四男。種籾の塩水選種法を考案。東京農業大学学長として日本最初の私立農学校を大学に昇格させる。「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」という名言を残す。家紋は丸に三つ鱗紋。画像は多磨霊園にて撮影。


入沢達吉。1865年1月31日 – 1938年11月8日、医師。
越後国出身。父恭平は藩医。宮内省侍医局勤務後、入沢内科を創始・主宰。日本内科学の確立に貢献。十二指腸虫の感染経路追究などの寄生虫症、レントゲン診断学応用、血色素測定法などの研究をする。家紋は北条鱗紋。画像は谷中霊園にて撮影。


正岡子規。1867年10月14日 – 1902年9月19日、俳人・歌人。
伊予国温泉郡藤原新町出身。松山藩士・正岡常尚の長男。本名は常規。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。家紋は丸に鷹の羽紋と丸に三つ鱗紋。画像は子規系図より。


川崎卓吉。1871年3月8日 – 1936年3月27日、官僚、政治家。
広島県賀茂郡広村に医師の二男として出生。福島県知事、台湾総督府内務局長、殖産局長を歴任。第1回選抜中等学校野球大会の始球式を務めた。政治家としては民政党幹事長、文部大臣、商工大臣を務める。家紋は丸に三つ鱗紋。青山霊園にて撮影。


河東碧梧桐。1873年2月26日 – 1937年2月1日、俳人・随筆家。
愛媛県温泉郡千船町にて河東坤の五男として出生。正岡子規に野球を教わる。同級生の高浜虚子を誘い子規より俳句を学ぶ。子規が没すると新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。家紋は丸に三つ鱗紋、副紋は笹竜胆紋。


南俊二。1882年9月28日 – 1961年12月29日、実業家。
大阪府出身。製鉄業、砂金鉱業、セメント業に携わった後に、大阪造船所設立。戦後は南氷洋漁業権を確保。億万長者の一人に数えられた。合理的節倹主義の経営方針をつらぬく。日本造船工業常任理事。横木瓜に三つ鱗紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


御船千鶴子。1886年7月17日 – 1911年1月19日、超能力者。
熊本県宇土郡松合村にて、漢方医・御船秀益の二女として生まれる。三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見して謝礼2万円を得る。東京帝国大学の福来友吉助教授が「透視」の研究に彼女を使う。家紋は六つ鱗紋。


川端康成。1899年6月14日 – 1972年4月16日、小説家。
大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に医師の子として生れる。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『古都』など日本の美を表現した作品を発表。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞。家紋は北条鱗、画像は鎌倉霊園にて撮影。


西竹一。1902年7月12日 – 1945年3月22日、陸軍軍人。
東京市麻布区麻布笄町に男爵西徳二郎の三男として出生。通称:バロン西。ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。第二次世界大戦に従軍、硫黄島の戦いで戦死。家紋は三つ鱗紋。鱗の背景の草は月桂樹か。青山霊園にて撮影。


横井英樹。1913年7月1日 – 1998年11月30日、実業家。
愛知県中島郡の貧しい農家に生まれ東京日本橋の繊維問屋に丁稚奉公。進駐軍出入りの商人となり一財産を築く。白木屋の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出を行う。ホテルニュージャパンの買収で脚光を浴びた。画像は多磨霊園にて撮影。


高倉健。1931年2月16日 – 、俳優。
福岡県中間市出身。父は旧海軍軍人で裕福な一家に生まれる。本名は小田剛一。東映に第2期ニューフェイスとして入社。代表出演作『網走番外地』『八甲田山』『南極物語』『鉄道員』等。家紋は、北条三つ鱗紋といわれている。


白鵬翔。1985年3月11日 – 、第69代横綱
モンゴル国ウランバートル市出身。父ジグジドゥ・ムンフバトはモンゴル相撲で6度の優勝をした元アヴァルガ(モンゴル相撲の横綱)でメキシコ五輪のレスリング重量級銀メダリスト。歴代の不知火型・横綱では史上最多の優勝回数を誇る。家紋は丸に三つ鱗紋。

まさむね



月星紋 -狩猟、漁労、海上の民の痕跡紋- 新渡戸稲造、中原中也、橋本龍太郎...

江戸時代、ほとんどの日本人は農民であった。

おそらく、農民にとって星という存在はそれほど重要なものではない。
星が重要性を持つのは、山野を飛び回る狩猟の民、あるいは漁労の民、海上の民にとってであろう。

おそらく、月、星をシンボルにした人々はそんな狩猟・漁労民の流れを汲んでいたのではないだろうか。
例えば、平安時代、摂津の国に海に生きる人々がいた。
彼らは海上交通を請け負う、「渡り部」として名を馳せた。その渡り部から渡辺という姓が生れた。
そして渡辺家の代表家紋が、渡辺星である。
墓地等に行くと分かるが、いろんな渡辺氏(渡部氏などを含む)の墓の8~9割に、この渡辺星紋が付いている。
名字と家紋との結び付きがこれほどはっきりしている例を他には知らない。

さて、月星紋だが、東日本に多い。
全国では15位だが、宮城県で8位、新潟県で9位、岩手県、福島県、千葉県では10位となっている。
逆に少ないところでは、富山県で26位。和歌山県で22位、大阪府で20位。
月星紋を持つ有名人は以下。

毛利元就。1497年4月16日 – 1571年7月6日、戦国大名。
本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする。安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。毛利家は大名として幕末まで続く。家紋は毛利沢潟と一文字三星紋。


保科正俊。1509年- 1593年、戦国時代の武将。
父は保科正則で、信濃国高遠城を領していた国人であった。武田氏の信濃先方衆の一人として活躍し、特に槍に優れた使い手であったため、戦国の三弾正に数えられ、「槍弾正」と称された。家紋は平方九星。画像は保科家墓所にて撮影。


高坂昌信。1527年 – 1578年6月12日、武田氏の家臣。
甲斐八代郡石和の豪農・春日大隅の子として生まれる。武田信玄、武田勝頼の2代に仕え、武田四名臣の一人として数えられる。信玄の衆道の相手も務めた。画像は大河ドラマ「天地人」での高坂昌信(大出俊演)。総合格闘家の高阪剛は子孫(wikiより)。


千葉胤頼。1532年 – 1559年2月18日、武将、九州千葉氏当主。
少弐資元の次男。千葉喜胤(祇園千葉氏)の婿養子。千葉胤誠の父。胤頼は実兄・少弐冬尚が重臣龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援した。龍造寺隆信・千葉胤連に攻められ、肥前国勢福寺城で少弐冬尚とともに自害。家紋は八曜に三日月。


渡辺守綱。1542年 – 1620年5月11日、武将。
渡辺氏は松平氏の譜代家臣で嵯峨源氏の武将渡辺綱の後裔。槍が得手で「槍半蔵」と称された。三方ヶ原の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めた。その功績から家康配下の徳川十六神将の一人として顕彰された。


九鬼嘉隆。1542年 – 1600年11月17日、武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)の水軍武将として活躍し、3万5000石の禄を得た。九鬼氏の第8代当主である。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。家紋は左三巴紋と七曜紋。


高山右近。1552年 – 1615年2月4日、武将。
高山氏は摂津国三島郡高山庄出身の国人領主である。信長、秀吉の家臣として活躍。山崎の戦い、四国攻め等に参戦。代表的なキリシタン大名として知られる。伴天連追放令の後、ルソンへ追放され、マニラで病没。家紋は七つ星。


佐久間盛政。1554年 – 1583年7月1日、戦国武将。
尾張国御器所に生まれた。織田氏の家臣。御器所西城主。佐久間氏の一族。勇猛さから鬼玄蕃と称された。本能寺の変による信長の没後は柴田勝家に従ったが、賤ヶ岳の戦いで敗れる。子孫は現在まで大分市で続いている。家紋は九曜。


片倉景綱。1557年 – 1615年12月4日、伊達氏家臣。
米沢の成島八幡神社の神職・片倉景長の次男。伊達政宗の軍師役を長年務めた。仙台藩片倉氏の初代。小田原参陣、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど政宗の主要戦に参戦。白石城一万三千石の城主となり以後、片倉家は明治まで11代に亘って白石の地を治める。


石田三成。1560年 – 1600年11月6日、武将・大名。
石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生まれる。秀吉の小姓として仕える。豊臣政権の五奉行の一人。家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図るが関が原の戦いで破れる。家紋は九曜紋と大一大万大吉紋。


細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
室町幕府・幕臣・細川藤孝の長男として京都で出生。丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相・細川護熙は末裔。家紋の細川九曜は星が離れているのが特徴。


伊達政宗。1567年9月5日 – 1636年6月27日、戦国武将。
家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。本姓は藤原氏。出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。九曜紋は細川氏から使用許可される。他に竹笹に雀紋(仙台笹)、牡丹紋(仙台牡丹)、竪三つ引両紋等の家紋も使用。


小幡景憲。1572年 – 1663年4月3日、兵学者。
父は甲斐国の戦国大名である武田氏家臣の小幡昌盛。武田滅亡後は、他の武田遺臣とともに武田遺領を確保した徳川氏に仕える。関ヶ原の戦いでは井伊直政に属して戦功を挙げ、大坂の陣では豊臣方に与するが徳川氏に内通していた。墓所は池袋の法明寺。


松倉重政。1574年 - 1630年12月19日、大名。
松倉家はもともとは大和の筒井家の家臣であった。重政は大和に残って豊臣家の配下となる。関ヶ原の戦い、大坂夏の陣で功あり、肥前日野江4万3千石を与えられて入封したが苛政と搾取を行い、島原の乱の主因を作った。家紋は九曜。


豊島信満。1579年 – 1628年9月7日、旗本。
豊島氏は平姓秩父氏の一族で武蔵国の名族であるが、室町時代に太田道灌に敗れて没落。江戸城での初の刃傷事件を起こすが、一族の連座はまぬがれ、後に遺児は紀州藩に仕え、吉宗が将軍になった際に御家人になっている。画像は墓所のある法明寺本堂。


木村貞行。1658年 – 1703年3月20日、赤穂浪士47士の1人。
赤穂浅野家家臣木村惣兵衛の子として赤穂に出生。赤穂藩では馬廻り役・絵図奉行150石。通称は岡右衛門。はじめ大石良雄に神文血判書は提出せず、盟約には加わらなかった。家紋は三つ盛九曜紋。画像は高輪・泉岳寺の墓所にて撮影。


田沼意次。1719年9月11日 - 1788年7月27日、武士・大名。
田沼意行(徳川吉宗に登用された旗本)の長男として江戸の田安屋敷で出生。家治の治世、側用人として権力を掌握。株仲間の結成、印旛沼開拓等の幕政改革を行う。父の代に七面大明神に帰依し家紋を七曜紋とする。画像は巣鴨の勝林寺にて撮影。


千葉周作。1793年 – 1856年1月17日、武士。
出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の二説。江戸時代の剣術の流派北辰一刀流の創始者で千葉道場・総師範。門下には浪士組幹部の山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助地、弟・定吉の弟子には坂本龍馬がいた。画像は本妙寺にて撮影。


川路聖謨。1801年6月6日 – 1868年4月7日、旗本、勘定奉行。
豊後国日田出身。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ12歳で小普請組の川路家の養子となる。公海岸防禦御用掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺にて撮影。


浅田宗伯。1815年6月29日 – 1894年3月16日、漢方医、儒学者。
信濃国筑摩郡栗林村(現在の長野県松本市島立)出身。家紋は七曜星紋。代々医業と手習師匠を業とする家に生まれる。徳川将軍家の典医、宮内省侍医を拝命。 浅田飴(ノド飴、医薬品。)のルーツとなる処方を考案した。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


谷口藍田。1822年8月15日 – 1902年11月14日、儒者。
肥前有田出身。名は中秋。読みは、たにぐちらんでん。豊後の広瀬淡窓、江戸の羽倉簡堂らに学ぶ。肥前鹿島藩の藩校弘文館の教授、権大参事を務める。晩年は東京に私塾藍田書院を開いた。家紋は丸に三つ星紋。画像は青山霊園にて撮影。


秋月悌次郎。1824年- 1900年1月5日、会津藩藩士。
会津若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ悌次郎は別家として秋月姓を称する。会津と薩摩藩が結託した宮中クーデターである八月十八日の政変では藩兵を率い実質的指導者として活躍した。家紋は九曜。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


ジョン万次郎。1827年1月27日 – 1898年11月12日、通訳・教師。
土佐国中浜村の貧しい漁師の次男に生まれた。漁に出て遭難、漂着して、アメリカの捕鯨船に救助され、先方で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。帰国後、薩摩藩、幕府などで通訳として活躍。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


飯田武郷。1828年1月22日 – 1900年8月26日、国学者。
高島藩出身。読みは、いいだたけさと。脱藩して上京し尊王攘夷運動に参加。48年かけて執筆した『日本書紀』の注釈書「日本書紀通釈」70巻を完成させた。東京大学、慶應義塾、國學院などで古典を教えた。家紋は七曜紋。画像は青山霊園にて撮影。


西周。1829年3月7日 – 1897年1月31日、啓蒙家、教育者。
石見国津和野藩の御典医の家柄。森有礼・福澤諭吉らと共に明六社を結成。哲学、芸術、理性、科学、技術など多くの哲学・科学関係の言葉を考案。著書は、『百学連環』『致知啓蒙』など。家紋は、変わり連子に月。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


前島密。1835年2月4日 – 1919年4月27日、官僚、政治家。
越後国頸城郡津有村に豪農、上野助右衛門の二男。江戸遷都を建白した。日本の近代郵便制度の創設者。1円切手の肖像になる。「郵便」「切手」「葉書」という名称を定め「郵便制度の父」と呼ばれる。家紋は九曜紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


永山武四郎。1837年5月28日 – 1904年5月27日、陸軍軍人。
鹿児島藩士・永山盛広の四男として出生。北海道庁長官となり、北海道の開拓と防衛に情熱を傾け、「屯田兵の父」と呼ばれた。軍人としての最終階級は陸軍中将。家紋は丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋。画像は青山霊園の弟・永山盛輝の墓所にて撮影。


渡邊昇。1838年5月1日 – 1913年11月7日、剣術家・政治家。
肥前国大村藩士・渡辺巖の二男として生まれた。坂本龍馬の依頼により薩長同盟締結実現のため、長州藩と薩摩藩の橋渡しをする。武術振興団体・大日本武徳会を結成。近代剣道の確立に尽力。家紋は三つ星に一つ引紋。青山霊園の墓所にて撮影。


司馬凌海。1840年1月2日 – 1879年3月11日、医学者・語学者。
佐渡島真野町新町生まれ。独語学者の司馬亨太郎は長男。独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じ、医学用語の日本語訳(蛋白質(Eiweiss)、窒素(Stickstoff)、十二指腸(Zwolffingerdarm)など)を多く作っている。家紋は十三曜紋。画像は青山霊園にて撮影。


松尾臣善。1843年3月6日 – 1916年4月7日、官僚。
姫路の郷士の子として出生。読みは、まつおしげよし。次女の乕は北里柴三郎の妻。大蔵省出納局長、主計局長、理財局長などを務めた後、第6代日本銀行総裁を務めた。家紋は丸に三つ星紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


渡辺国武。1846年3月29日 – 1919年5月11日、官僚、政治家。
信濃国諏訪郡東堀村に諏訪高島藩士の家に生まれた。読みは、わたなべくにたけ。兄は伯爵・渡辺千秋。独身であった。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。家紋は渡辺星紋。画像は多磨霊園にて撮影。


阪井重季。1847年1月10日 – 1922年3月1日、陸軍軍人。
土佐藩馬廻役・二川周五郎の長男。後に阪井に改姓。読みは、さかいしげすえ。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争に従軍。日露戦争では後備第1師団長として奉天会戦を指揮。最終階級は陸軍中将。後に富士生命社長となる。家紋は四つ星紋。青山霊園にて撮影。


阿部泰蔵。1849年5月19日 – 1924年10月22日、実業家。
三河国吉田に生まれ。旧姓は豊田。豊田家は藩の医家。17歳で上京,蘭学,英学を研究。慶応義塾に学び、卒業後同校教授、次いで塾頭となる。後に明治生命保険会社、明治火災保険会社を設立し社長となる。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の場所にて撮影。


星亨。1850年5月19日 – 1901年6月21日、政治家。
江戸の左官屋として出生。母の星姓を名乗る。1892年に衆議院議員当選、同議長に就任。伊藤博文と結んで立憲政友会に勢力を張る。第4次伊藤内閣の逓相に就任。東京市会汚職事件により辞任。東京市会議長在職中に暗殺される。画像は池上本門寺にて。


戸田欽堂。1850年8月26日 – 1890年8月10日、実業家、活動家。
大垣藩主戸田氏正の四男として生まれた。渡米し洗礼を受ける。キリスト教書店「十字屋」を設立。その後、日本独立長老教会を設立し自由民権運動の拠点になった。家紋は九曜紋。画像は本駒込・蓮光寺の墓所にて撮影。


相馬永胤。1850年12月25日 – 1924年1月26日、教育者、実業家。
彦根藩士の家に生まれ戊辰戦争では官軍側で奮闘。読みは、そうまながたね。専修学校(後の専修大学)を創立。初代校長、初代学長を勤めた。横浜正金銀行(後の三菱東京UFJ銀行)取締役、頭取を歴任。家紋は九曜紋。青山霊園にて撮影。


渡辺廉吉。1854年1月8日 – 1925年2月14日、法学者。
越後出身。オーストリアにわたり、シュタインに公法、行政学をまなび、憲法調査のため渡欧した伊藤博文を助けた。帰国後、憲法、民事訴訟法の制定に参画。行政裁判所評定官、貴族院議員。家紋は丸に渡辺星紋。画像は青山霊園にて撮影。


中島鋭治。1859年1月15日 – 1925年2月16日、土木工学者。
宮城県出身。東京帝国大学教授、東京市技師長を兼任。衛生工学を研究し、東京、仙台、名古屋、高崎、鹿児島、漢口(中国)、釜山(朝鮮)などの水道敷設を指導。著作に「英和工学辞典」(共著)。家紋は九曜紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。


岡野知十。1860年3月11日 – 1932年8月13日、俳人。
北海道日高様似に生まれる。本名は岡野敬胤。『半面』を創刊し新々派俳風を鼓吹した。俳書の収集に努め、集めた俳書は東京帝国大学の図書館に寄贈され「知十文庫」として収められた。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


新渡戸稲造。1862年9月1日 – 1933年10月15日、農学者、教育者。
現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男として出生。拓大学監、東京女子大学学長、 国際連盟事務次長、貴族院議員を歴任。著書『武士道』は日本紹介の書として広く海外で読まれた。旧五千円札の肖像となる。画像は多磨霊園にて撮影。


臼井甕男。1865年8月15日 – 1926年3月9日、レイキ創始者。
岐阜県山県郡谷合村出身。読みは、うすいみかお。公務員、実業家、新聞記者など様々な職業を経験した後、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種・臼井霊気療法を創始する。家紋は月星紋。


若槻礼次郎。1866年3月21日 – 1949年11月20日、政治家。
松江藩の足軽奥村仙三郎の次男。東京帝大仏法科を首席で卒業。その成績は東大始まって以来、最高という。第28代内閣総理大臣任期中に昭和金融恐慌、満州事変の発端となった柳条湖事件が起きている。画像は染井霊園にて撮影。


菊池慎之助。1866年3月31日 – 1927年8月22日、陸軍軍人。
水戸藩士・戸田道守の子として生れ菊池敬之進の養子となる。日露戦争では第4軍副官として出征し同軍参謀となった。軍事参議官、東京警備司令官を経て教育総監在職中に死去。最終階級は陸軍大将。家紋は九曜紋。青山霊園の墓所にて撮影。


宮武外骨。1867年2月22日 – 1955年7月28日、ジャーナリスト。
讃岐国阿野郡小野村に庄屋宮武家の四男として生まれた。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


山本悌二郎。1870年2月10日 – 1937年12月14日、政治家。
新潟県佐渡郡真野町出身。漢方医・山本桂の二男。有田八郎の兄。立憲政友会から旧新潟1区にて立候補し当選。田中義一内閣、犬養内閣にてそれぞれ農林大臣として入閣。国粋主義的な政治思想の持ち主。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


高浜虚子。1874年2月22日 – 1959年4月8日、俳人、小説家。
愛媛県松山市長町新町に旧松山藩士・池内政忠の4男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。本名・高濱清。俳誌『ほとゝぎす』に参加。俳壇に君臨する。家紋は九曜紋。画像は鎌倉・寿福寺の墓所にて撮影した水桶。九曜が微妙にわかる。


渡辺錠太郎。1874年4月16日 – 1936年2月26日、陸軍軍人。
愛知県出身。煙草店・和田武右衛門の長男。後に農家・渡辺庄兵衛の養子となる。天皇機関説を擁護するなど、渡辺の自由主義的な意見は青年将校の憎悪を生む。二・二六事件の犠牲者。最終階級は陸軍大将。家紋は渡辺星。画像は多磨霊園にて撮影。


左近司政三。1879年6月27日 – 1969年8月30日、海軍軍人。
米沢市出身。父は米沢藩士。ロンドン海軍軍縮会議では首席随員を務め条約締結に貢献。近衛内閣で商工大臣、鈴木内閣で国務大臣を務めた。第二次世界大戦末期、昭和天皇の聖断を仰ぐよう鈴木首相や米内海相に進言。最終階級は海軍中将


永井荷風。1879年12月3日 – 1959年4月30日、小説家。
愛知県士族で内務省衛生局事務取扱の永井久一郎・つね夫妻の長男として生れる。永井家の氏は、大名・毛利家と同じ大江氏。また、三島由紀夫とは遠い親戚に当たる。代表作は、『ふらんす物語』『ぼく東綺譚』など。家紋画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


千葉亀雄。1878年9月24日 – 1935年10月4日、ジャーナリスト。
山形県出身。「読売新聞」「時事新報」「東京日日新聞」など新聞の社会部長、学芸部長を務める。「新感覚派」の命名者として知られる。宮城県遠田郡美里町の近代文学館に千葉亀雄記念文学室がある。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園墓所にて撮影。


有田八郎。1884年9月21日 – 1965年3月4日、外交官、政治家。
新潟県佐渡郡真野町出身。山本家に生まれ有田家の養子となった。山本悌二郎の実弟。戦前は欧米協調派に対するアジア派の外交官として知られ日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放された。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


下村湖人。1884年10月3日 – 1955年4月20日、小説家。
佐賀県神埼郡千歳村大字崎村出身。本名、虎六郎。東京帝国大学卒業後に母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任。講演や文筆活動で社会教育に尽力。青少年に影響を与えた『次郎物語』の執筆で知られる。家紋は九曜紋。


宮地直一。1886年1月24日-1949年5月16日、神道学者。
高知県出身。読みは、みやじなおかず。内務省神社局考証課長、東京帝大講師(国史)、東京帝大教授(神道講座)等を歴任。戦後はGHQと折衝し神社存続に尽力した。代表著作は「神祇史」。家紋は丸に剣三つ星紋。画像は青山霊園にて撮影。


松井須磨子。1886年3月8日 – 1919年1月5日、新劇女優。
長野県埴科郡の士族小林藤太の五女。本名は小林正子。坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生。島村抱月と芸術座を旗揚げし『復活』のカチューシャ役で人気女優となる。『今度生まれたら』は日本における発禁レコード第1号となる。画像は多聞院にて撮影。


萩原朔太郎。1886年11月1日 – 1942年5月11日、俳詩人、作家。
群馬県東群馬郡出身。開業医の長子。高村光太郎と共に口語自由詩を確立した。近代詩の頂点に立つ詩人として日本近代詩の父と称される。代表作は『月に吠える』『青猫』など。演出家の萩原朔美は孫。家紋は九曜紋。画像は政淳寺にて撮影。


星野直樹。1892年4月10日 – 1978年1月26日、政治家、実業家。
神奈川県横浜市出身。東條内閣時は内閣書記官長に起用され東條英機の側近として活躍。戦後、東京裁判で終身刑を宣告されたが、釈放後は東京ヒルトンホテル副社長、東急電鉄取締役等、実業家として活躍。家紋は丸に七曜紋。画像は多磨霊園にて。


野田高梧。1893年11月19日 – 1968年9月23日、脚本家。
税官吏の子として北海道函館市に出生。小津安二郎とは公私ともに良きパートナー。共作という形で『晩春』から『秋刀魚の味』までの全作品を手がける。日本脚本家協会・初代会長を務めた。家紋は八曜に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


米川文子。1894年6月15日 – 1995年5月31日、地歌・箏曲家。
岡山県生まれ。ロシア文学者・米川正夫の妹。幼い頃から箏を姉の暉寿(てるじゅ)に学ぶ。第一回地歌舞研究会を開催、関西の芸である地歌を東京に広めた。1966年、人間国宝、1981年、文化功労者。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


北村寿夫。1895年1月8日 – 1982年1月3日、児童文学作家。
東京出身。本名は寿雄。小山内薫に師事する。「劇と評論」の同人。昭和11年NHK文芸部主事。放送劇「新諸国物語」シリーズは人気を博す。代表作「笛吹童子」「白鳥の騎士」「紅孔雀」。家紋は丸に三つ星。画像は雑司が谷墓地にて撮影。


北川冬彦。1900年6月3日 – 1990年4月12日、詩人、評論家。
滋賀県に生まれながら、父親の仕事関係で満州で育った。本名は田畔忠彦。雑誌「詩と詩論」創刊に参加し、詩集「戦争」で脚光を浴びる。戦後、詩、映画ともに対してネオリアリズムを標榜し、第2次「時間」を主宰。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて。


中原中也。1907年4月29日 – 1937年10月22日、詩人。
山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村に生まれる。中原家は代々吉敷毛利家の家臣だったという。旧姓は柏村。父・謙助は医師だった。夭折したが350篇以上もの詩を残す。代表作は『山羊の歌』『在りし日の歌』。家紋は九曜紋。中原中也記念館にて確認。


伴淳三郎。1908年1月10日 – 1981年10月26日、芸人、俳優。
山形県米沢市に南画家の息子として生れる。本名:鈴木寛定。息子はスタイリストの山本康一郎。「アジャパー」が大流行させる。代表出演作『てなもんや三度笠』『アジャパー天国』『駅前シリーズ』など。1978年、紫綬褒章受章。家紋は丸に三つ星。


東山魁夷。1908年7月8日 – 1999年5月6日、日本画家。
横浜市に生まれ、船具商であった父の仕事の関係で3歳の時に神戸へ転居する。本名は東山新吉。昭和を代表する日本画家の一人であった。代表作品は『残照』『白馬の森』『黄山暁雲』など。家紋は丸に三ツ星紋。祖父の東山新吉の肖像写真より推測。


鹿内信隆。1911年11月17日 – 1990年10月28日、実業家。
北海道夕張郡由仁町に生まれる。実家は写真館。1957年文化放送にいた水野と協力してフジテレビジョンを開局させた。産業経済新聞社社長・フジテレビ会長に就任し、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。家紋は九曜紋。画像は小平霊園墓所。


鶴田安雄。1914年1月22日 – 1975年8月11日、テニス選手。
佐賀県出身。昭和6年兄登と組んで全国中等学校庭球大会ダブルスに優勝。戦前、戦後にかけて全日本ダブルス優勝3回、全日本学生ダブルス優勝4回。32年以来3回、デビス-カップ監督となる。家紋は丸に三つ星に一つ引紋。画像は上川霊園の墓所にて撮影。


金丸信。1914年9月17日 – 1996年3月28日、政治家。
山梨県中巨摩郡今諏訪村に生まれる。金丸家は、金丸氏は武田氏の庶流。酒造業を営む裕福な家柄。衆議院議員(12期)、国務大臣・副総理、防衛庁長官(第35代)、国土庁長官(第3代)、建設大臣(第34代)を歴任。家紋は九曜紋。


結城信一。1916年3月6日 – 1984年10月26日、作家。
東京出身。早稲田大学英文科卒。デビュー作は「秋祭」。老人と少女の交流を描いた「空の細道」で日本文学大賞受賞。代表作は「夜明けのランプ」「不吉な港」等。画像は本行寺の墓所にて撮影。家紋は九曜紋。画像は本行寺にて撮影。


照国萬藏。1919年1月10日 – 1977年3月20日、第38代横綱
秋田県雄勝郡秋ノ宮村出身。本名は大野萬藏。幕内戦歴:271勝91敗74休。幕内優勝2回。横綱時代は休場ばかりだった武藏山を除けばただ1人双葉山に勝ち越した力士である。家紋は丸に五つ星紋。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。


徳間康快。1921年10月25日 – 2000年9月20日、実業家。
神奈川県横須賀市出身。読みは、とくまやすよし。ワンマンで豪快な手腕で徳間書店、大映、スタジオジブリの社長を務める。代表総指揮作は『敦煌』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』。家紋は丸に三つ星に二引き。画像は青山・長谷寺にて撮影。


千葉信男。1923年12月10日 – 、俳優、司会者。
NHK放送劇団、マイクフロントを経て 三木鶏郎グループに参加。ダイビングクイズの初代司会者。元祖デブキャラ。代表出演作「赤ひげ」「幕末残酷物語」「森繁の新婚旅行」等。家紋は丸に八曜に月紋。画像は小平霊園にて撮影。


春日八郎。1924年10月9日 – 1991年10月22日、歌手。
福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身。本名は渡部実。流行歌とは質の異なる望郷歌謡をヒットさせ、「演歌」という新天地を築いた戦後日本を代表する歌手の一人。代表曲は『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』等。家紋は丸に渡辺星。


巌本真理。1926年1月19日 – 1979年5月11日、ヴァイオリニスト。
教育者巌本善治の長男である巌本荘民と、米国人マーグリトの間の長女として西巣鴨に生まれる。日本初の室内楽定期演奏会94回の偉業を達成。芸術選奨文部大臣賞、芸術祭奨励賞、毎日芸術賞などを受賞。家紋は九曜紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


星新一。1926年9月6日 – 1997年12月30日、SF作家。
東京府東京市本郷区曙町に生まれ育つ。ショートショートの神様と呼ばれ、生涯で1001編以上の作品を残す。小松左京・筒井康隆と並んで「御三家」と称される。星姓にはこの九曜紋が多い。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


渡辺晋。1927年3月2日 – 1987年1月31日、実業家・プロモータ。
東京都出身。渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。『渡辺晋とシックス・ジョーズ』を結成。レコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、巨大化なナベプロ帝国を築く。家紋は丸に三つ星紋。


ロイ・ジェームス。1929年3月9日 – 1982年12月29日、タレント。
東京市下谷区出身。出生名はハンナン・サファ。日本名は六条祐道、結婚し湯浅姓となる。父親は、亡命カザン・タタール人。映画俳優や放送タレントとして活躍。多磨霊園の墓所にあるイスラムの象徴「三日月と星」を月星紋として拡大解釈した。


渡辺文雄。1929年10月31日 – 2004年8月4日、俳優。
東京市神田区東松下町出身。映画『泉』で役者デビュー。1960年代後半から1970年代前半にかけての東映ヤクザ映画にて名悪役として出演。「連想ゲーム」「遠くへ行きたい」「くいしん坊!万才」等のバラエティ番組にも多数出演。家紋は渡辺星。


渡辺淳一。1933年10月24日 – 、作家。
北海道上砂川町出身。医学博士。『光と影』で第63回直木賞を受賞。医療関連および中年男女の性愛を大胆に描いた作品が特徴。代表作は『光と影』『遠き落日』『失楽園』『鈍感力』など。家紋は丸に渡辺星。渡辺淳一記念館にて情報提供頂きました。


正田美智子。1934年10月20日 – 、明仁(今上天皇)の皇后。
東京府出身。日清製粉勤務の正田英三郎・冨美夫妻の長女。浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の母親。日本赤十字社名誉総裁、国際児童図書評議会名誉総裁を務める。家紋は九曜紋。本家筋の正田記念館にある提灯より判断。


江利チエミ。1937年1月11日 – 1982年2月13日、歌手・女優。
東京市下谷区出身。本名は久保智恵美。進駐軍のアイドルから、「テネシーワルツ」でデビューを果たす。女優としても『サザエさん』『唄祭りロマンス道中』等で活躍。私生活では高倉健と結婚、すぐに離婚。家紋は丸に剣三つ星紋。


橋本龍太郎。1937年7月29日 – 2006年7月1日、政治家。
東京市渋谷区に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男。祖父は岡山県吉備郡秦村出身。厚生大臣、運輸大臣、大蔵大臣を歴任後、第82内閣総理大臣に就任。行政改革、消費増税、普天間基地移転同意等に取り組む。家紋は七曜紋。画像は青山霊園にて撮影。


柏戸剛。1938年11月29日 – 1996年12月8日、第47代横綱
本名:富樫剛。山形県東田川郡山添村に果樹園などを営む豪農の家に生まれる。大鵬とともに、「柏鵬時代」を築く。幕内在位:66場所。幕内最高優勝:5回。幕内成績:599勝240敗140休 勝率.714。谷中墓地の富樫家の墓の家紋は九曜紋。


安西水丸。1942年7月22日 – 、イラストレーター。
東京都葛飾区出身。幼少期を千葉県千倉町で暮らす。本名は渡辺昇。電通退社後フリーとなる。ガロ等で多数の漫画も発表。村上春樹との共著に「村上朝日堂」「ランゲルハンス島の午後」等がある。家紋は渡辺星であることを自身のブログにて告白。


西村幸祐。1952年 – 、作家、評論家。
東京都出身。祖父は歴史学者の西村眞次。スポーツ、サブカル、政治、マスコミ論等の評論を行う。代表作は 『反日マスコミの真実2009』等。雑誌「ジャパニズム」の責任編集者。家紋は石持ち地抜き三日月に星紋。画像は多磨霊園の西村家の墓所にて撮影。


水戸泉眞幸。1962年9月2日 – 、元大相撲力士。
茨城県水戸市出身。本名は小泉政人。現役時代は高砂部屋所属。現在は年寄・錦戸。パワフルな吊り気味の寄りを得意とし走る起重機の異名をとった。また大量の塩を撒くことも有名。幕内戦歴は530勝556敗99休。幕内最高優勝1回。家紋は九曜紋。


東貴博。1969年12月31日 – 、お笑いタレント。
東京都台東区浅草出身。コメディアンの東八郎の次男。本名は飛田貴博。萩本欽一の勧めで欽塾へ弟子入り。深沢邦之とtake2を結成。テレビタレントとして幅広く活躍。2012年5月に安めぐみと結婚。家紋は九曜紋。結婚式の紋付にて確認。


月形半平太。江戸時代、侍。
行友李風作の戯曲、及びそれを原作にした映画・テレビドラマの主人公。『国定忠治』とならび新国劇を代表する作品として知られる。雛菊「月様、雨が…」月形「春雨じゃ、濡れてまいろう」 という台詞が有名。家紋は名前から取られたと思われる月星紋。

西周の紋に関しては、「家紋の真実」を主宰されている日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。

まさむね



扇紋 -佐竹家を800年以上も守った魔除け紋- 佐竹義宣、福田康夫、タモリ...

昔の貴人は、いつも扇で顔を隠していた。
そして、骨の隙間から外を見ていた。

扇というのは、魔除け用グッズだったのである。
ちなみに、とげ抜き地蔵で有名な巣鴨・高岩寺の寺紋は檜扇紋である。
同時に巣鴨通り商店街の提灯にも檜扇が描かれている。
そのデザインは”おばあちゃんの原宿”を演出しているのだ。
左写真は、高岩寺内で撮影。

一方、鎌倉時代の最初から、大政奉還まで生き延びた大名の佐竹家の家紋は代々扇に月丸紋であった。
「吾妻鏡」には、佐竹四郎が、源頼朝からこの紋を賜ったとの記述がある。
佐竹家を守ってきたのは、その扇の魔力だったのかもしれない。

扇紋は全国では、23位だ。特に突出して多い地域は無いが比較的西日本に多い。京都府、山口県、熊本県で18位が最高、和歌山県(19位)、高知県(20位)といったところが目立つ。佐竹藩のお膝元の秋田県は27位と少ないが、元お膝元の茨城県は21位と比較的多い。

扇紋を使用した有名人は以下。


長野業政。1491年 – 1561年12月28日、戦国時代の武将。
長野憲業の子として出生。本姓は在原氏で、祖先は在原業平と称する。官位は伊予守。長野氏は上野西部の豪族で、周囲の国人の取りまとめ役のような立場であった。勢力としては関東管領・山内上杉家に属していた。上野国・箕輪城主。家紋は檜扇。


角倉了以。1554年 – 1614年8月17日、豪商。
近江国犬上郡吉田村出身。本姓は吉田氏。佐々木氏の分家。朱印船貿易の開始とともに安南国などとの貿易を行う。幕命により大堰川、富士川、高瀬川、天竜川等の開削を行った。家紋は扇地紙に片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園の別の角倉家墓所にて撮影。


佐竹義宣。1570年8月17日 – 1633年3月5日、武将、大名。
父・義重の隠居により家督を相続し、佐竹氏十九代当主となる。豊臣秀吉の小田原征伐の際に参陣し所領を安堵された。関ヶ原の戦い時に西軍の立場に立つが、父が東軍についたため出羽・久保田21万石へ減転封されるものの家名存続は許された。


秋田実季。1576年 – 1660年1月11日、武将、大名。
安東愛季の長男。読みは、あきたさねすえ。豊臣秀吉より出羽・秋田5万2千石の安堵を認められたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康に常陸・宍戸に転封される。嫡男の俊季の代に陸奥・三春に移され、幕末まで存続した。家紋は檜扇に違い鷲の羽紋。


貝賀友信。1650年 – 1703年3月20日、侍。
赤穂藩浅野家家臣吉田助兵衛の二男として誕生。本姓は藤原氏。貝賀新兵衛の養子となる。穂藩では中小姓・蔵奉行。赤穂四十七士の一人。吉良邸討ち入りでは弥左衛門は表門隊に属し、門の警戒にあたった。家紋は重ね扇。


岡本黄石。1811年 – 1898年4月12日、家老。
彦根藩家老・宇津木久純の子。岡本業常の養子。読みは、おかもとこうせき。攘夷を促す建白を行い、藩主・井伊直弼に疎まれるが桜田門外の変の後は藩政を主導。戊辰戦争の際には藩論を新政府軍側にまとめた。家紋は檜扇紋。画像は豪徳寺にて撮影。


仁礼景範。1831年4月6日 – 1900年11月22日、海軍軍人。
薩摩藩士の子弟。読みは、にれかげのり。薩英戦争に参加。海軍中将として、横須賀鎮守府長官、海軍大学校長などを歴任。第2次伊藤内閣の海軍大臣に就任し、海軍備の充実に力を注いだ。家紋は筋入り三本骨三つ扇紋。画像は青山霊園にて撮影。


三遊亭圓朝(初代)。1839年5月13日 – 1900年8月11日、落語家。
橘屋円太郎の子として江戸に出生。本名は出淵次郎吉。歴代の名人の中でも筆頭に巧いとされる。「芝浜」「文七元結」「牡丹燈籠」等を創作。言文一致体を一代で完成させ現代の日本語の祖といわれる。家紋は高崎扇。画像は全生庵にて撮影。


渡辺洪基。1848年1月28日 – 1901年5月24日、政治家、教育者。
福井藩士の医者の長男。読みは、わたなべひろもと。衆議院議員、貴族院議員、東京府知事、東京帝国大学初代総長などを務める。工手学校(工学院大学の前身)を築地に設立。家紋は三つ日の丸雁木扇紋。画像は青山・長谷寺にて撮影。


矢野龍渓。1851年1月2日 – 1931年6月18日、官吏、著作家。
豊後・佐伯藩の中級武士の家系。本名は矢野文雄。読みは、やのりゅうけい。大蔵省に入るが、明治十四年の政変で政界を追われる。東京専門学校設立に携わり役員に就任。主著は『経国美談』。家紋は三つ追い雁木扇紋。画像は多磨霊園にて撮影。


北里柴三郎。1853年1月29日 – 1931年6月13日、医学・細菌学者。
熊本県阿蘇郡小国町に出生。破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。「日本の細菌学の父」として知られる。北里研究所、慶應義塾大学医学部を創設。家紋は檜扇に左三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


金子堅太郎。1853年3月13日 – 1942年5月16日、官僚・政治家。
福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男。岩倉具視欧米使節団に同行して米国留学。伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に参画。専修大学創立に携わる。日本大学初代校長、二松學舍大学舎長も務める。画像は青山霊園にて撮影。


小藤文次郎。1856年4月8日 – 昭和10年3月8日、地球科学者。
石見国津和野出身。地質学、岩石学、鉱物学、火山学、地震学など、幅広く活躍。濃尾地震の際に、発生から約2週間後に現地入りして調査を行い、後にその結果から断層地震説を発表した。家紋は地紙に文字紋。画像は多磨霊園にて撮影。


橘家圓喬。1865年12月26日 – 1912年11月22日、落語家。
東京出身。本名は柴田清五郎。7歳の若さで三遊亭圓朝門下に入門。「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」等を得意とした。後世に大きな影響を与えた名人。「魚売人」「二人癖」など20種類ほどのSPレコードを遺している。家紋は、三遊亭と同じ高崎扇紋。


徳富蘆花。1868年12月8日 – 1927年9月18日、小説家。
肥後国出身。父は横井小楠門下の俊英、徳富一敬。本名は徳富健次郎。読みは、とくとみろか。思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰(猪一郎)は実兄。自然詩人として出発し、小説『不如帰』はベストセラーになった。家紋は丸に扇紋と言われている。


吉住小三郎(4代目)。1876年12月15日 – 1972年2月27日、唄方。
東京生まれ。吉住勘四郎の子。長唄の唄方。東京音楽学校長唄選科教授、日本芸術院会員、人間国宝、文化勲章受章、文化功労者。代表作曲「鳥羽の恋塚」「醍醐の花見」「新平家物語」等。家紋は三本並び扇紋。画像は南麻布・西福寺にて撮影。


中野正剛。1886年2月12日 – 1943年10月27日、言論人、政治家。
福岡市出身。父は旧福岡藩士中野泰次郎。読みは、なかのせいごう。東京日日新聞、朝日新聞などで政治評論を行う。政治家としては東條首相の独裁に反対。倒閣工作を謀った容疑で憲兵に拘束され自殺。家紋は丸に中陰地紙に橘紋。画像は多磨霊園にて。


曾我廼家五郎。1877年9月6日 – 1948年11月1日、喜劇役者。
大阪府堺市か岸和田市出身の二説あり。本名は和田久一。日露戦争をネタにした「無筆の号外」が大当たりした。自らが選んだ脚本を、三十六歌仙にあやかり「36快笑」として天満天神に奉納する。家紋は扇を浮線蝶の擬態に使用した浮線扇紋。


岩井粂三郎 (5代目)。1882年6月28日 – 1945年4月13日、役者。
東京浅草の花川戸に出生。本名は岩井久次郎。父親は四代目岩井粂三郎。屋号は大和屋。当たり役は『伽羅先代萩』の政岡や『嫗山姥』の八重桐。告別式で大名跡・九代目・岩井半四郎が追贈された。谷中・本寿寺の岩井家の墓所の家紋は三つ追い雁木扇紋。


宮原晃一郎。1882年9月2日 – 1945年6月10日、文学者、翻訳家。
鹿児島県出身。本名は知久。読みは、みやはらこういちろう。「海の子」を作詞し文部省の懸賞に応募。尋常小学唱歌に登用される。新聞記者を経て翻訳家となる。代表作は「竜宮の犬」など。家紋は丸に三つ扇紋。画像は多磨霊園にて撮影。


賀屋興宣。1889年1月30日 – 1977年4月28日、大蔵官僚、政治家。
広島県広島市出身。父は国学者の藤井稜意。母の伯父の家を継いで賀屋姓を名乗る。戦前は大蔵大臣として軍事費中心の予算を組み、A級戦犯に指名された。戦後は自民党議員として活躍。家紋は丸に二つ日の丸扇地紙。画像は多磨霊園にて撮影。


山口多聞。1892年8月17日 – 1942年6月6日、海軍軍人。
東京市小石川区出身。旧松江藩士の山口宗義の子。読みは、やまぐちたもん。軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任。太平洋戦争では真珠湾攻撃に参加。ミッドウェー海戦で戦死。最終階級は海軍中将。家紋は檜扇紋。画像は青山霊園にて撮影。


堀内寿郎。1901年9月17日 – 1979年6月27日、理学博士。
北海道札幌市出身。読みは、ほりうちじゅろう。科学反応速度理論の研究では世界的な功績を残した触媒研究の世界的な権威。湯川秀樹らと共に第30回恩賜賞を受賞。北海道大学学長も務める。家紋は高崎扇紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


浪越徳治郎。1905年11月15日 – 2000年9月25日、指圧師。
香川県仲多度郡多度津町出身。東京市小石川区に指圧学校を設立。マリリン・モンローに素手で触って指圧した唯一の日本人。「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」は得意フレーズ。家紋は丸に五本扇紋。画像は小石川・伝通院にて撮影。


田中英光。1913年1月10日 – 1949年11月3日、作家。
東京市赤坂区榎坂町生まれ。ただし両親は高知県の出身。息子は推理小説家、SF小説家の田中光二。太宰治に弟子入り。その自殺に大きな衝撃を受け後に禅林寺の太宰の墓前で自殺する。代表作『酔いどれ船』『愛と憎しみの傷に』。家紋は折敷に地紙。


高木彬光。1920年9月25日 – 1995年9月9日、推理小説作家。
青森県青森市生まれ。医者の家系。本名は高木誠一。『能面殺人事件』で第3回探偵作家クラブ賞を受賞。代表作は『人形はなぜ殺される』『成吉思汗の秘密』『白昼の死角』等。家紋は折敷に重ね地紙。地紙とは扇に貼るおしゃれな紙。


バーブ佐竹。1935年2月7日 – 2003年12月5日、歌手。
北海道釧路市出身。本名は佐武豊。『女心の唄』でレコードデビュー。250万枚を超える大ヒットとなり、翌年の第7回日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も『ネオン川』『カクテル小唄』などがヒット。家紋は五本扇に月紋。


福田康夫。1936年7月16日 – 、政治家。
東京府東京市世田谷区に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる。内閣総理大臣(第91代)。『低炭素社会』を目指す「福田ビジョン」を提唱した。 家紋は丸に五本骨扇紋。家紋画像は福田家の菩提寺・徳昌寺(群馬県高崎市)にて撮影。


尾上菊五郎(7代目)。1942年10月2日 – 、俳優、歌舞伎役者。
本名は寺島秀幸。屋号は音羽屋。妻は、富司純子。長女は女優の寺島しのぶ、長男は歌舞伎俳優の五代目尾上菊之助。現代歌舞伎のスターにして三之助の一人。家紋は「重ね扇に抱き柏」。画像は雑司が谷墓地の五代目尾上菊五郎の墓所にて。


タモリ。1945年8月22日 – お笑いタレント、司会者。
福岡県福岡市南区出身。本名は森田一義。株式会社田辺エージェンシー所属。『笑っていいとも!』『ミュージックステーション』『タモリ倶楽部』『世にも奇妙な物語』でMCを務める。「笑っていいとも!」にて家紋は丸に五本骨扇であることを告白。


三遊亭小遊三。1947年3月2日 -、落語家。
本名は天野幸夫、山梨県大月市出身。古典落語専門で、長屋ものを得意としている。1983年(昭和58年)3月 真打昇進・同年10月16日から『笑点』にレギュラー出演。東京オリンピックの聖火ランナーに抜擢されている。家紋は高崎扇。


藤森慎吾。1983年3月17日 – 、コメディアン、司会者。
長野県諏訪市出身。愛称は「しんご」。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のオリエンタルラジオのツッコミ担当。『武勇伝』ネタで有名だが、しゃべくり漫才もする。「笑っていいとも!」にて家紋は家紋は五瓜に檜扇であることを告白。

まさむね



茗荷紋 -謎の神・摩多羅神のシンボル- 三島由紀夫、水木しげる、北野武...

茗荷は摩多羅神という神のシンボルである。

それでは、この摩多羅神とはどういった神なのか?
最澄が唐から帰って来た時に、勝手に守護神としてついてきた神と言われている。

憤怒の神、性の神、食人の神などといろいろな説があるが、実はよくわかっていない。
ただ、不道徳と混沌の匂いがする事は確かだ。
それなのに、出雲大社、比叡山・延暦寺、日光東照宮など、名立たる日本の寺社で祭られている。

まったく不思議な存在である。
茗荷を食べると物忘れが激しくなるというが、日本人全部が、この茗荷のシンボル・摩多羅神のことを忘れてしまったということなのか。

茗荷を家紋にしている人々は心のどこかに忘れてしまった神、摩多羅神を宿しているのかもしれない。

全国では12位。岡山県と鹿児島県では5位、富山県、兵庫県では6位。一番少ない山梨県、山形県でも17位。

茗荷紋の有名人は以下。


堀尾吉晴。1544年 – 1611年7月26日、武将・大名。
尾張国上四郡の守護代・織田信安に仕えた堀尾泰晴の嫡男。豊臣政権三中老の一人。関ヶ原の戦いでは東軍に与し出雲富田24万石に加増移封された。出雲松江藩の初代藩主。松江城を建造した。家紋は抱き茗荷。墓には六つ目結紋、分銅紋がある。


山本常朝。1659年7月30日 – 1719年11月21日、佐賀藩士。
佐賀藩士・山本神右衛門重澄の次男として生まれる。通称・神右衛門。江戸時代の武士、『葉隠』の口述者として知られる。墓所は佐賀市の八戸龍雲寺。常朝近くの山本家の家紋が抱き茗荷紋だったため、暫定的に山本家の家紋も茗荷紋と判断。


桐野利秋。1838年12月 – 1877年9月24日、薩摩藩士。
鹿児島郡吉野村字実方で城下士の中村与右衛門の第三子として出生。小松帯刀ら藩の重臣から重用され、薩長両藩の親和のために奔走。明治六年の政変で西郷隆盛が下野するや辞表を提出して帰郷。西南戦争にて戦死。家紋は抱き茗荷に桔梗。


稲垣千頴。1845年 – 1913年2月9日、作詞家。
武蔵国の士族の家に出生。読みは、いながきちかい。東京師範学校教員の傍ら、手がけた訳詞・作詞には「ちょうちょ(2番)」「君が代(2番)」「蛍の光」「美しき」「見わたせば」等がある。家紋は大割り抱き茗荷紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


大浦兼武。1850年6月15日 – 1918年9月30日、武士、政治家。
薩摩藩主島津家の分家・宮之城島津家の家臣の家柄。読みは、おおうらかねたけ。戊辰戦争では薩摩軍に所属し奥羽方面に出征。桂内閣の農商務大臣・内務大臣、大隈内閣の農商務大臣・内務大臣を歴任。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は青山霊園にて。


石本新六。1854年2月17日 – 1912年4月2日、陸軍軍人。
姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男。読みは、いしもとしんろく。日露戦争時には陸軍次官として寺内陸相を支えた。薩長出身者以外で初めての陸軍大臣に就任(第2次西園寺公望内閣)。最終階級は陸軍中将。家紋は抱き茗荷紋。画像は天王寺墓地にて。


三須宗太郎。1855年9月16日 – 1921年12月24日、海軍軍人。
彦根藩士・三須熊次郎の長男。読みは、みすさんたろう。日露戦争時は東郷平八郎率いる連合艦隊の一員として対馬沖にロシアのバルチック艦隊を迎え撃ちT字戦法を敢行。軍令部次長。舞鶴鎮守府長官を経て海軍大将となる。画像は青山霊園にて撮影。


牧野富太郎。1862年5月22日 – 1957年1月18日、植物学者。
土佐国佐川村の裕福な商家に出生。命名した植物は2500種以上、自らの新種発見も600種余りとされる。25歳で、津村順天堂の協力を得て『植物研究雑誌』を創刊。誕生日は「植物学の日」に制定された。家紋は抱き茗荷紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


伊藤左千夫。1864年9月18日 – 1913年7月30日、歌人、小説家。
上総国武射郡殿台村の農家出身。本名は幸次郎。正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『アララギ』の中心となって斎藤茂吉、土屋文明等を育成。代表作は『野菊の墓』『隣の嫁』等。画像は亀戸・普門院の墓所にて撮影。


横川省三。1865年4月28日 – 1904年4月21日、新聞記者。
南部盛岡藩の出身。若い頃は自由民権運動に携わり、加波山事件では投獄される。朝日新聞記者として千島列島探検隊の特派員となったり、日清戦争の従軍記者として取材、報道を行う。家紋は抱き茗荷紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


町田経宇。1865年10月22日 – 1939年1月10日、陸軍軍人。
鹿児島県日置郡出身。井尻家に生まれ領事・町田実一の養嗣子となる。読みは、まちだけいう。日露戦争時は第4軍参謀。その後、歩兵旅団長、支那公使館付武官、参謀本部部長を歴任。最終階級は陸軍大将。家紋は抱き茗荷紋。画像は青山霊園にて撮影。


岡田啓介。1868年2月13日 – 1952年10月17日、海軍人、政治家。
福井藩士・岡田喜藤太の長男。読みは、おかだけいすけ。第31代内閣総理大臣時に二・二六事件で襲撃を受けるが女中部屋の押入に隠れ難を免れるも、直後、内閣を総辞職。最終階級は海軍大将。家紋は大割り抱き茗荷。多磨霊園にて撮影。


秋山真之。1868年4月12日 – 1918年2月4日、海軍軍人。
松山城下出身。父は旧松山藩下級武士の秋山久敬。日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦参謀として日本海海戦の勝利に貢献。最終階級は海軍中将。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公としても有名。家紋は抱き茗荷紋。


志賀潔。1871年2月7日 – 1957年1月25日、医学者・細菌学者。
仙台藩・陸前国宮城郡仙台に、仙台藩士の子として出生。姓は佐藤、幼名は直吉。母親の実家である志賀家の養子となり、名も潔と改めた。志賀家は、仙台藩の藩医をつとめる家柄。赤痢菌を発見。家紋は環に花茗荷紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。


森田草平。1881年3月19日 – 1949年12月14日、作家・翻訳家。
岐阜県方県郡鷺山村出身。本名森田米松。夏目漱石の門下生であったが私生活での不祥事が多かったという。代表作は『吉良家の人々』『細川ガラシヤ夫人』。翻訳は『カラマゾフ兄弟』『アンナ・カレニナ』等。家紋は抱き茗荷。画像は多磨霊園にて。


倉橋惣三。1882年12月28日 – 1955年4月21日、児童心理学者。
静岡県鷹匠町出身。小学校以降は東京で育つ。形式化した明治以来のフレーベル主義を改革、幼児教育の発展に尽くした。戦後、教育刷新委員会委員を経て、保育学会を創設した。家紋は丸に三つ並び茗荷紋。画像は多磨霊園にて撮影。


松村謙三。1883年1月24日 – 1971年8月21日、政治家。
富山県福光町出身。幣原内閣の農相として農地改革を提案推進したが、この時、松村自身の土地も没収されている。環日本海における産業発展の観点から日中友好、日中国交回復に尽力。タレントのクリス松村は孫。画像は護国寺の墓所にて撮影。


中里介山。1885年4月4日 – 1944年4月28日、小説家。
神奈川県西多摩郡羽村出身。実家は精米業者。本名は中里弥之助。代表作『大菩薩峠』は『都新聞』『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』『隣人之友』『国民新聞』『讀賣新聞』などに連載された。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は羽村市の禅林寺にて撮影。


本間雅晴。1887年11月27日 – 1946年4月3日、陸軍軍人。
新潟県佐渡島出身。太平洋戦争においてフィリピン攻略時、司令官として第14軍を指揮した。バターンでは米比軍の頑強な攻撃を受け多数の死者を出し作戦に失敗する。最終階級は陸軍中将。マニラ軍事裁判において法務死。画像は春秋苑にて撮影。


村山槐多。1896年9月15日 – 1919年2月20日、洋画家。
横浜市出身。小学校教師村山谷助の長男。デカダン的な生活により22歳の若さで夭折。代表作は「乞食と女」(絵画)、「槐多の歌へる」(詩集)等。絵画は『開運!なんでも鑑定団』で3,000万円の評価額が付けられた。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


小栗虫太郎。1901年3月14日 – 1946年2月10日、推理作家。
東京都千代田区外神田出身。本名は小栗栄次郎。読みは、おぐりむしたろう。衒学趣味的作風で有名。代表作は『完全犯罪』『黒死館殺人事件』(推理小説三大奇書の一つ)等。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は白山の源覚寺の小栗家墓所にて撮影。


保利茂。1901年12月20日 – 1979年3月4日、政治家。
生家は佐賀県東松浦郡鬼塚村の零細農家。佐藤政権において田中角栄・福田赳夫と並ぶ三本柱として内閣官房長官、自民党幹事長を務めた。三木武夫内閣当時三木おろしを画策。現自民党衆議院議員の保利耕輔は息子。画像は春秋苑にて撮影。


中田俊一。1902年 – 1968年10月9日、実業家。
島根県鹿足郡出身。 中屋万年筆を岡山で創業。その後、東京上野に拠点を移しプラチナ万年筆に改名。カタログを使った通信販売で成功を収めた。プラチナをペン先に用いた万年筆は人気商品。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は寛永寺第一霊園にて撮影。


水谷八重子(初代)。1905年8月1日 – 1979年10月1日、女優。
東京牛込区神楽坂の時計店の娘。本名は松野八重子。読みは、みずたにやえこ。新派劇と新劇の融合を目指した演劇の上演で注目された。日本芸術院賞、紫綬褒章、文化功労者などを受賞。家紋は一つ茗荷巴。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。


原民喜。1905年11月15日 – 1951年3月13日、小説家、詩人。
広島県広島市幟町出身。父は陸海軍・官庁用達の縫製業を営む。『夏の花』が、第一回水上滝太郎賞を受賞。徹底して人間の苦しみに連帯し、死者の嘆きに貫かれて祈り描いた『鎮魂歌』など一連の作品を残す。画像は、文学者掃苔録図書館より。


稲垣浩。1905年12月30日 – 1980年5月21日、映画監督。
東京本郷区出身。芝居小屋の俳優の息子。山中貞雄らとシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成。三船敏郎主演の『無法松の一生』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。代表作は『宮本武蔵』『風林火山』『日本誕生』。画像は谷中霊園にて撮影。


今井堅。1908年10月17日 – 1997年12月3日、実業家。
東京都出身。1945年に「明々社」を創業。後に少年画報社と改名。「黄金バット」をヒットさせる。後に「週刊少年キング」を創刊。『サイボーグ009』『ワイルド7』『銀河鉄道999』等のヒット作を連載する。画像は谷中・了ごん寺墓地にて撮影。


原ひさ子。1909年8月6日 – 2005年12月4日、俳優。
静岡県静岡市葵区出身。本名は石島久。名脇役として長年活躍し芸団協芸能功労者賞を受賞。芸歴は70年以上といわれる。代表出演作は「人情紙風船」「わが青春に悔なし」「黒い雨」等。家紋は抱き茗荷紋。画像は金嶺寺の墓所にて撮影。


小沢不二夫。1912年6月13日 – 1966年5月15日、脚本家、作詞家。
東京都出身。本名は小澤不二雄。読みは、おざわふじお。戦前は大都映画でチャンバラ映画の脚本を量産。日本演劇協会設立に参加。同協会の理事となる。美空ひばりの大ヒット曲『リンゴ追分』の作詞者として知られる。画像は池袋・祥雲寺にて撮影。


石田波郷。1913年3月18日 – 1969年11月21日、俳人。
愛媛県温泉郡垣生村出身。本名は石田哲大。読みは、いしだはきょう。秋桜子主宰の『馬酔木』に投句を始める。代表句集『鶴の眼』『酒中花』。人間諷詠の道を辿り中村草田男、加藤楸邨とともに人間探求派と呼ばれた。家紋は五瓜に抱き茗荷紋。


升田幸三。1918年3月21日 – 1991年4月5日、将棋棋士。
広島県双三郡三良坂町出身。実力制第4代名人。三冠独占などの輝かしい戦績は勿論のこと、独創的な指し手、キャラクター、数々の逸話は将棋界の歴史を語る上で欠かすことができない。「将棋は創作だ」等の名言がある。画像は烏山・常栄寺にて撮影。


水木しげる。1922年3月8日 – 、漫画家。
鳥取県境港市出身。本名は武良茂。世界妖怪協会会長。妖怪漫画の第一人者として活躍。代表作は『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』『のんのんばあとオレ』等。家紋は隅立角に抱き茗荷紋。画像は調布市の覚證寺の生前墓にて撮影。


田中六助。1923年1月23日 – 1985年1月31日、政治家。
福岡県田川郡上野村に布団屋の三男。侠客めいた気性で知られる典型的な”川筋者”として育ったという。鈴木内閣成立の裏の立役者。自民党政務調査会長、通商産業大臣、自民党幹事長を歴任。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は春秋苑にて撮影。


鏡里喜代治。1923年4月30日 – 2004年2月29日、第42代横綱
青森県三戸郡斗川村出身。本名は奥山喜世治。時津風部屋所属。幕内成績:360勝163敗28休 勝率.688。幕内最高優勝は4回。引退後は立田川部屋を興し独立した。元力士にしてはかなりの長寿で80歳まで生きた。家紋は丸に抱き茗荷紋。


鶴田浩二。1924年12月6日 – 1987年6月16日、俳優、歌手。
静岡県浜松市出身。本名は小野榮一。昭和を代表する映画スターとして数多くの映画やドラマに主演。代表出演作『人生劇場 飛車角』『人生劇場シリーズ』『博徒シリーズ』等。代表ヒット曲『傷だらけの人生』『同期の桜』。画像は鎌倉霊園にて撮影。


三島由紀夫。1925年1月14日 – 1970年11月25日、小説家。
東京市四谷区出身。本名は平岡公威。代表作は、『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海』など。楯の会会長として自衛隊にクーデターを促すが、失敗し、割腹自殺(三島事件)。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


向田邦子。1929年11月28日 – 1981年8月22日、脚本家、小説家。
東京府荏原郡世田ヶ谷町若林生まれ。父親が転勤族であるため日本各地で育つ。代表作は、ドラマ脚本では『時間ですよ』『阿修羅のごとく』、小説では『あ・うん』『だいこんの花』等。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


實吉達郎。1929年11月29日 – 、動物学者・作家。
広島県呉市出身。読みは、さねよしたつお。祖父は、子爵の實吉安純。数多くのテレビ番組に出演。未確認動物UMAの命名者として知られる。シャーロック・ホームズの研究家でもある。家紋は抱き茗荷紋。青山霊園の祖父の實吉安純の墓所にて撮影。


海老一染太郎。1932年2月1日 – 2002年2月2日、曲芸師。
東京都新宿区出身。本名は村井正秀。落語家の三遊亭圓駒を父に持つ。和傘の上で毬を回す芸が有名。実の弟・染之助とコンビを組み、正月のテレビ番組には欠かせない存在となっていた。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は、新宿区の常敬寺の墓所にて撮影。


太刀川恒夫。1937年2月12日 -、実業家、フィクサー。
戦後日本の黒幕・児玉誉士夫の元秘書。ロッキード事件の際に、殖産住宅の東郷民安会長を辞任に追い込んだ疑いで逮捕されている。現在は東京スポーツ新聞社会長となっている。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は池上本門寺の太刀川家墓所にて撮影。


平尾昌晃。1937年12月24日 – 、作曲家、歌手。
東京都牛込生まれ。「ロカビリー三人男」として大人気を博す。代表曲は「ミヨちゃん」「カナダからの手紙」など。また「うそ」「瀬戸の花嫁」などを作曲。家紋は三つ追い蔓茗荷紋。画像は谷中霊園の曽祖父・平尾賛平の墓所にて撮影。


角川春樹。1942年1月8日 – 、実業家、プロデューサー。
富山県中新川郡水橋町出身。角川家は富裕な米穀問屋。父は角川書店創業者の角川源義。角川映画で一世を風靡。メディアミックスによるエンターテイメント中心の文庫戦略は業界に変革をもたらした。画像は小平霊園にある父・源義の墓所にて撮影。


山口二矢。1943年2月22日 – 1960年11月2日、右翼活動家。
東京都生まれ。東北帝国大学出身で陸上自衛官の厳格な父を持つ。16歳で赤尾敏率いる大日本愛国党に入党し玉川学園高等部を退学。日本社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺し、少年鑑別所で自殺。家紋は丸に抱き茗荷紋。梅窓院の墓所にて撮影。


うつみ宮土理。1943年10月1日 -、タレント、女優。
東京都世田谷区出身、本名:内海三重子。愛称は「ケロンパ」。代表出演ドラマ「おくさまは18歳」「なんたって18歳!」。夫は、「キンキン」こと愛川欽也。出演バラエティ「ロンパールーム」「さんまのSUPERからくりTV」「情報ライブ ミヤネ屋」等。


玉の海正洋。1944年2月5日 – 1971年10月11日、第51代横綱
愛知県宝飯郡蒲郡町出身。本名は、善竹→谷口→竹内→谷口正夫。幕内優勝6回、幕内戦歴 469勝221敗。全勝優勝を飾った1971年7月場所前後に虫垂炎に罹患。併発した急性冠不全で死亡。家紋は丸に抱き茗荷紋。墓所は蒲郡市の天桂院。


大杉勝男。1945年3月5日 – 1992年4月30日、プロ野球選手。
岡山県勝田郡奈義町出身。「月に向かって打て」のエピソードで有名な飯島滋弥コーチの指導のもと練習を重ねる。2年連続本塁打王、2度の打点王。前人未踏の両リーグ1000本安打を達成。1997年に野球殿堂入りした。画像は鎌倉霊園にて撮影。


北野武。1947年1月18日 – 、お笑いタレント、映画監督。
東京都足立区島根町にてペンキ職人の四男として出生。「ツービート」でブレイク。「平成教育委員会」「TVタックル」等主演番組多数。映画監督としては『HANA-BI』でベネチア国際映画祭金獅子賞受賞。画像は北野家の菩提寺・蓮昌寺にて撮影。


西郷輝彦。1947年2月5日 – 、歌謡歌手、俳優。
鹿児島県鹿児島郡谷山町出身。橋幸夫・舟木一夫と共に、「御三家」と呼ばれた。代表ヒット曲は『星のフラメンコ』等多数。代表出演ドラマ『どてらい男』等。家紋は抱き茗荷紋。木宮神社境内茶屋の結婚式の紋付姿の写真より抱き茗荷紋と判断。


旭富士正也。1960年7月6日 – 、第63代横綱
青森県西津軽郡木造町出身で大島部屋所属。本名は杉野森正也。近畿大学中退後、青森に戻り漁業に従事していたが、大島部屋に入門。通算成績:575勝324敗35休 勝率.640、幕内最高優勝:4回。現在は、年寄・9代伊勢ヶ濱親方。日馬富士、安美錦の親方。


日馬富士公平。1984年4月14日 – 、大相撲力士。
モンゴル国ウランバートル市出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は安治川部屋)所属。本名:ダワーニャム ビャンバドルジ。2009年1月場所から大関として活躍。幕内最軽量の力士。最高位は東大関。尊敬している力士は初代貴ノ花。家紋は親方と同じ丸に茗荷紋。

まさむね



鶴紋 -最も優美で華やかな紋- 森蘭丸、杉田玄白、太宰治...

多くの家紋の中で最もデザインが優れた家紋はおそらく、鶴の丸紋であろう。

その証拠にこの紋のデザインは様々に、変形され、社章などになって進化している。
一番有名なのが、日本航空の鶴のマークだ。
一時期、JASとの合併によって、この鶴の丸が機体についた飛行機は姿を消してしまったが、再度、復活した。それも、このマークが持つ伝統と美の力によるところか。
もともと、日航が社章を作るときに、フランスの高名なデザイナーに依頼したのだが、そのデザイナーから「日本の伝統にも素晴らしいものがある」と切り返され、鶴の丸をベーシックデザインとして採用したとの話が伝わっている。

また、清酒・白鶴のイメージも鶴の丸の影響を受けている。
鶴の首の方向、円の歪みなど、いくつかの点で異なっているが、鶴の丸をもとにしたデザインであることは確かなようだ。
白鶴酒造公式HPにはこのマークについて以下のような記載がある。

シンボルマークは、白鶴酒造が伝統的に使用してきた商標名「白鶴」を、現代的に感動あふれる形で表現したものです。
この躍動感あふれるフォルムは、力強い翼で鶴が天高く飛翔する姿を示しています。翼は鶴の頭部を保護するように楕円形になっており、日輪のような羽がダイナミックな感じを与えています。
このシンボルマークは昭和54年、業界に先駆けてCI(コーポレート・アイデンティティー)システムを導入した際に、スローガン「時をこえ 親しみの心をおくる」とともに設定されました。
現在では、このマークは多くの人々から認知され、親しまれており、日本のCIの代表例の一つとされています。

さらに、鶴の丸は、日蓮宗の寺紋としても知られている。
寺紋を見るには、門の脇の塀の端に瓦を見るのが一番わかりやすい。
写真は、「恐れ入りやの鬼子母神」で有名な真源寺の寺紋だ。
ちなみに、真源寺が所属する本門流には、あの信長が討たれた時に滞在していた本能寺も所属している。

さて、鶴紋の普及に関してであるが、全国で29位、決して多くは無い。ただ、青森県だけは12位と多いようだ。
確かに、津軽は、鶴紋を使用していた南部家から別れた津軽家の領地だったという事が一因かもしれないが、南部家の本家である岩手県ではそれほど多くない(29位)を考えると、別の理由があるのかもしれない。
その他、比較的に多い地域は、北海道(21位)、秋田県(21位)、宮城県(22位)、愛媛県(22位)、広島県(25位)、福井県(26位)、徳島県(26位)。

さて、鶴紋を使用している有名人だが、以下。


日野富子。1440年5月20日- 1496年6月30日、将軍正室。
山城国の生まれ。公家・日野家の出身。室町幕府8代将軍足利義政の正室。関所、米相場、高利貸しからの賄賂等で得た財力によって室町幕府を運営。大河ドラマ「花の乱」の主役(三田佳子)。家紋は鶴の丸紋。画像は青山霊園の日野家の墓所にて撮影。


蒲生氏郷。1556年 – 1595年3月17日、武将。
蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。織田氏家臣から、豊臣家(羽柴家)家臣となる。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。またキリシタン大名で洗礼名はレオン。家紋は蒲生対い鶴と左三巴。


森蘭丸。1565年 – 1582年6月21日、戦国時代の武将。
家系は清和源氏のひとつ河内源氏の棟梁 源義家の七男(六男とも)源義隆を祖とする森氏。信長と衆道の関係にあったとされる。そのため稚児・児小姓として信長に優遇されたとの俗説が流布している。本能寺の変で主君・信長とともに討ち取られた。


南部利直。1576年4月13日 – 1632年10月1日、武将。
南部信直の長男として三戸の田子城にて出生。南部家は河内源氏流。関ヶ原の戦い時に領内で一揆を鎮圧し、家康から所領を安堵され盛岡藩の藩祖となる。定紋は南部鶴だが、割り菱、鶴菱も使用。画像は護国寺の南部家墓所にて撮影。


関孝和。1642年3月? – 1708年12月5日、和算家(数学者)。
上野国藤岡出身。関家の養子となる。本姓は内山氏。『発微算法』を著し筆算による代数の計算法を発明。和算が高等数学として発展するための基礎を作る。行列式や終結式の概念を世界一早い時期に提案。家紋は右向き舞鶴。画像は浄輪寺にて撮影。


杉田玄白。1733年10月20日 – 1817年6月1日、蘭学医。
江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれる。杉田氏は近江源氏・佐々木氏の支族である真野氏の家系。前野良沢らと『ターヘル・アナトミア』を和訳し『解体新書』として刊行。回想録として『蘭学事始』を執筆。画像は栄閑院にて撮影。


高山彦九郎。1747年6月15日 – 1793年8月4日、尊皇思想家。
上野国新田郡細谷村の郷士高山良左衛門の二男として生まれる。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身とされている。勤皇の志を持ち、各地を遊歴して勤皇論を説く。家紋は京都三条大橋にある皇居望拝姿の台座の丸に十字紋と鶴の丸紋。


戸塚静海。1799年 – 1876年1月29日、蘭方医。
遠江国掛川宿の医師、戸塚隆珀の三男。読みは、とつかせいかい。将軍徳川家定の急病に際し薩摩藩医より幕府医師に登用。法眼に叙せらる。伊東玄朴・坪井信道とともに江戸の三大蘭方医と呼ばれた。家紋は向い鶴紋。画像は谷中霊園にて撮影。


大鳥圭介。1833年4月14日 – 1911年6月15日、幕臣、官僚。
播磨国赤穂郡赤松村の医師・小林直輔の子として生まれる。戊辰戦争では主戦論を唱え、伝習隊を率いて宇都宮や今市、会津を転戦。榎本武揚と合流するが、箱館五稜郭で降伏して投獄された。出獄後、新政府に出仕して殖産興業政策に貢献した。


肝付直五郎。1835年12月3日 - 1870年8月16日、薩摩藩士。
生家は肝付家。後に小松家の養子となり帯刀と名乗る。大河ドラマ「篤姫」では瑛太が演じた。肝付家の家紋は尻合わせ四つ結び雁金と鶴の丸紋。また、小松家の養子入ってからの使用家紋は抱き鬼梶の葉紋。画像は青山霊園の肝付家の墓所にて撮影。


南部甕男。1845年7月19日 – 1923年9月19日、司法官僚。
土佐国大野見村出身。土佐藩郷士・陽明学者の南部従吾の長男。読みは、なんぶみかお。土佐勤王党に加盟。文久の政変では三条に従って長州へ亡命し大宰府にも随行。維新後は法曹会の設立に尽力。家紋は丸に向かい鶴紋。青山霊園にて撮影。


柳原愛子。1859年6月26日 – 1943年10月16日、明治天皇の典侍。
読みは、やなぎわらなるこ。皇太后宮小上臈として出仕し権典侍となる。伯爵・柳原前光の妹。「筑紫の女王」柳原白蓮は姪。大正天皇の母となる。明治天皇の没後は準皇族の扱いを受ける。家紋は鶴の丸紋。画像は目黒の祐天寺にて撮影。


森槐南。1863年12月26日 – 1911年3月7日、漢詩人、官僚。
尾張国名古屋出身。父森春濤は、漢詩人で尾張藩の儒者。読みは、もりかいなん。随鴎詩社を主宰。明治漢文学の中心的存在であった。官僚としては枢密院属、式部官などを歴任。家紋は反り六角に鶴の丸紋。画像は多磨霊園にて撮影。


古島一雄。1865年9月20日 – 1952年5月26日、ジャーナリスト。
但馬国豊岡出身。古島家は旧豊岡藩士。雑誌「日本人」、日本新聞などの記者を務める。衆議院議員としては犬養毅の側近として行動を共にする。玄洋社の頭山満と結んで孫文を援助し辛亥革命を陰から助けた。家紋は鶴の丸紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


三鬼隆。1892年1月14日 – 1952年4月9日、実業家。
岩手県花巻市出身。読みは、みきたかし。日本製鐵・八幡製鐵(現・新日本製鐵)元社長。鉄鋼業界の大御所だった。経済復興会議副議長、日本経営者団体連盟会(日経連)第2代会長等も務める。家紋は鶴の丸紋。画像は多磨霊園にて撮影。


今東光。1898年3月26日 – 1977年9月19日、小説家、参議院議員。
横浜市伊勢町にて代々津軽藩士の家系の長男。読みは、こんとうこう。新感覚派作家としてデビュー。『お吟さま』で直木賞を受賞。主著は『朱雀門』『悪名』等。生前、日航機の鶴丸のマークを見て「自分の家紋を使ってもらった」と言っていたという。


太宰治。1909年6月19日 – 1948年6月13日、小説家。
青森県北津軽郡金木村出身。県下有数の大地主・津島源右衛門の6男。太宰自身「私の生れた家には誇るべき系図も何も無い。」(「苦悩の年鑑」にて)と述べている。代表作は「斜陽」「人間失格」「走れメロス」。画像は禅林寺にて撮影。


網野善彦。1928年1月22日 – 2004年2月27日、歴史学者。
山梨県東八代郡御坂町にて、江戸時代から続く地主の末男として誕生。中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし日本中世史研究に大きな影響を与えた。代表作品「異形の王権」「日本中世の非農業民と天皇」。


津島雄二。1930年1月24日 – 、政治家。
東京府(東京都杉並区)生まれ。旧姓は上野。太宰治の長女・園子と結婚、入婿。自由民主党所属の前衆議院議員。厚生大臣、党役職を歴任。平成研究会に加入し、旧橋本派の会長に就任し、津島派を率いる。家紋は太宰治と同じ鶴紋。


綾部伴子。1940年12月27日 – 2000年7月7日、劇作家。
東京都出身。本名は丸茂智惠子。『木曜ゴールデン』『火曜サスペンス』等の二時間ドラマや昼帯の連続ドラマの脚本を手がける。代表作は『ママは大ピンチ』。父は国学院大教授で文学博士の丸茂武重。家紋は舞い鶴。画像は多磨霊園にて撮影。


魁皇博之。1972年7月24日 -、元大相撲力士。
福岡県直方市出身で友綱部屋所属。最高位は東大関。本名は古賀博之。引退後は年寄・浅香山を襲名。通算勝星1047勝、幕内勝星879勝、大関勝星524勝は歴代1位を記録。通算成績は1047勝700敗158休。優勝5回。家紋は向かい鶴。


若の里忍。1976年7月10日 -、大相撲力士。
青森県弘前市出身で鳴戸部屋所属。本名は古川忍。金星は2個(若乃花1個、朝青龍1個)。上位陣・実力者には強く殊勲賞を4回獲得している(2011年11月現在)。家紋は鶴の丸紋。鳴戸親方(隆の里)の葬儀時の紋付で確認。


渡辺小五郎。江戸時代後期、南町奉行所見廻り同心。
必殺仕事人2009の登場人物。東山紀之が演じる。普段は、事なかれ主義の情けない同心だが、仕事人としての腕は一流。渡辺という姓に対応する紋は一般的には三星に一の字の”渡辺星”であるがここではおしゃれな、六角光琳鶴を使用している。

まさむね



桔梗紋 -反骨と悲劇の紋- 明智光秀、坂本龍馬、柳田国男...

桔梗紋は反骨と悲劇の紋である。
元々は、清和源氏流土岐氏の使用紋であった。
一族の明智光秀は、主君の織田信長を襲撃した本能寺の変の後、豊臣秀吉との山崎の合戦に破れ、最期は土民の竹槍にさされて死んだ。
水色の桔梗紋は、明智の印として、栄光の目印から一気に、反逆の、そして悲劇のイメージを帯びるようになった。
時が経ち、その水色の桔梗紋をシンボルマークとして、急成長するも、最終的に倒産してしまった会社が現れる。
英会話のNOVAである。
NOVAは英会話産業というニッチな市場を、「駅前留学」というコンセプトで開拓。時代の寵児ともてはやされた。
しかし、その急成長の影で会員との間で様々なトラブルが発生していたのだ。
それが元で悪評判が広まり、一方で社内の不正も発覚。急速に収益が悪化、一気に倒産してしまった。
その後、名古屋市の学習塾経営会社、ジー・コミュニケーションが事業引継を行うのだが、NOVAから桔梗のマークは消えた。
桔梗紋の全国分布では、鹿児島が3位、和歌山が6位、本家の岐阜では7位である。
桔梗紋の有名人は以下。


土岐光衡。1159年 – 1206年5月4日、武将。
美濃源氏嫡流。実質的な土岐氏の祖。治承・寿永の乱で討死した源光長の子であるが、伯父光基の養子となり土岐氏の嫡惣を継承した。平家滅亡後は鎌倉幕府の御家人となった。水色桔梗紋はこの光衡の代から使用しはじめたと言われている。


太田道灌。1432年 – 1486年8月25日、武将。武蔵国守護代。
家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。扇谷上杉家家宰として活躍。江戸城を築城。最期は暗殺死。家紋は丸に細桔梗。画像は、道灌ゆかりの谷中・本行寺の賽銭箱。


明智光秀。1528年 – 1582年7月2日、武将。
明智氏の本姓は源氏。美濃源氏の流れを汲む土岐氏の支流。家系は清和源氏の一家系で摂津源氏の傍流。信長の家臣として功を重ね、織田大名の総合指揮権を与えられた。本能寺の変で信長を倒すが山崎の合戦で秀吉に破れ最期は土民の竹槍に突かれて死す。


山県昌景。1529年 – 1575年6月29日、武将。
飯富虎昌の弟。旧名は飯富源四郎。武田信玄の近習として仕える。三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康本陣に突進し武田軍の背後を狙ったはずの家康軍を返り討ちにした。長篠の戦いでは撤退を進言したが容れられず体中に銃弾を浴びて戦死。


加藤清正。1562年 – 1611年、武将・大名。
尾張国愛知郡中村に鍛冶屋の子として出生。豊臣秀吉に仕え各地を転戦し、秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くした。関が原戦いでは東軍につき活躍。戦後、肥後一国を与えられた。家紋は桔梗と蛇の目を使用。写真は池上本門寺の供養塔で撮影。


山県大弐。1725年 – 1767年9月14日、儒学者、思想家。
甲斐国篠原村に生まれる。野沢氏の出自。名は昌貞。字は子恒。甲斐国山梨郡下河辺山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説く。明和事件で処刑された。主著は『柳子新論』。家紋は桔梗紋であるが新宿・全勝寺の墓所には奥方斎藤家の撫子紋がある。


調所広郷。1776年3月24日 – 1849年1月13日、薩摩藩の家老。
城下士・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれ、調所清悦の養子となる。本姓は藤原氏を。薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を強引な行政改革、農政改革、財政改革等で乗り切る。家紋は丸に桔梗紋。青山霊園の調所家の墓所にて撮影。


斎藤弥九郎。1798年2月28日 – 1871年11月14日、剣術家。
越中国射水郡仏生寺村の生まれ。斎藤家は加賀国守護冨樫氏の末裔と伝えられる。幕末江戸三大道場の一つ神道無念流の「練兵館」創立者。門下生には桂小五郎、高杉晋作・品川弥二郎・井上馨・伊藤博文らがいる。家紋は隅立て菱角に細桔梗紋。


大村益次郎。1824年5月30日 – 1869年12月7日、医師、兵学者。
周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に村医の村田孝益の息子として生れる。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となる。事実上の日本陸軍の創始者。靖国神社の境内に銅像が建つ。NHK大河ドラマ「花神」(原作:司馬遼太郎)の主人公。


田辺太一。1831年10月21日 – 1915年9月16日、幕臣・外交官。
儒学者で幕臣の田辺誨輔(石庵)の次男として生まれる。幕臣時代はパリ万国博覧会に出展した幕府の派遣使節、維新後は、岩倉遣欧使節に一等書記官として随行。外務官僚ととして活躍。家紋は丸に桔梗紋。青山霊園の墓所にて撮影。


坂本龍馬。1836年1月3日 – 1867年12月10日、政治家・実業家。
清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、明智左馬助秀満の末裔を称する。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力する。龍馬の桔梗紋は、「組合角に桔梗紋」。


山岡鉄舟。1836年7月23日 – 1888年7月19日、武士・幕臣。
江戸本所に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として出生。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち西郷と会談。その行動力は西郷をして賞賛させた。維新後は明治天皇の教育係も務める。家紋は丸に桔梗紋。画像は谷中・全生庵にて撮影。


上野彦馬。1838年10月15日 – 1904年5月22日、写真家。
長崎の蘭学者・上野俊之丞の次男。読みは、うえのひこま。我が国における最初期の写真家で、坂本龍馬の肖像を撮影したことで有名。日本最初の戦場カメラマン。『龍馬伝』 ではテリー伊藤が演じた。家紋は桔梗の二引。画像は長崎の上野家墓地。


桐野利秋。1838年12月 – 1877年9月24日、薩摩藩士。
鹿児島郡吉野村字実方で城下士の中村与右衛門の第三子として出生。小松帯刀ら藩の重臣から重用され薩長両藩親和のために奔走。明治六年の政変で西郷隆盛が下野するや辞表を提出し西南戦争に参戦、戦死。家紋は抱き茗荷に桔梗。


月岡芳年。1839年4月30日 – 1892年6月9日、浮世絵師。
武蔵国豊島郡新橋南大阪町出身。姓は吉岡、後に月岡。歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がける。また衝撃的な無惨絵の描き手としても知られる。家紋は丸に桔梗紋と丸に竹笹紋。画像は新宿・専福寺にて撮影。


長岡安平。1842年 – 1925年、造園家、作庭家。
肥前大村の藩士として大村城下に出生。郷土の先輩である楠本正隆に従って上京。楠本が東京府知事に就任後、東京府立公園や街路並木の改良新設を行い「飛鳥山公園」「浅草公園」「向島百花園」の改修に関わる。家紋は清明桔梗紋。青山霊園にて撮影。


瓜生寅。1842年1月15日 – 1913年2月23日、官僚、実業家。
父は福井藩士。遠祖の瓜生姓を名乗る。幕府の英語学校教授となる。兵庫日本米穀輸出会社顧問を経て、外国船積立業瓜生商会を設立。著作は、貨幣、地質学、測量、地理、家政学など多方面にわたる。 家紋は桔梗紋。画像は青山霊園にて撮影。


矢野二郎。1845年1月15日 – 1906年6月17日、武士、教育者。
江戸出身。本姓は富永。外国方訳官となる。維新後、外務省にはいり駐米代理公使となる。のち森有礼創設の商法講習所所長、改称後の高等商業(現一橋大)の校長をつとめ、商業教育の基礎をきずいた。家紋は丸に細桔梗紋。画像は青山霊園にて撮影。


川上操六。1848年12月6日 – 1899年5月11日、陸軍軍人、華族。
薩摩藩士・川上伝左衛門親徳の三男。陸軍の重鎮として軍の近代化を推し進める。桂太郎、児玉源太郎とともに明治陸軍の三羽烏とされる。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に桔梗紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


長谷川好道。1850年10月1日 – 1924年1月27日、陸軍軍人。
長州藩支藩岩国藩士・長谷川藤次郎の子として生まれる。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍し武功を上げる。朝鮮総督時代には三・一独立運動を弾圧し3年で斎藤実に交替する。最終階級は陸軍大将。家紋は桔梗紋。青山霊園の墓所にて撮影。


松室致。1852年1月22日 – 1931年2月16日、政治家、教育者。
小倉藩藩士の長男。読みは、まつむろいたす。桂内閣で司法大臣となり司法界の粛清を行う。後に貴族院議員、枢密顧問官を歴任。治安維持法への死刑・無期懲役追加に反対した。法政大学の学長を長く務めた。家紋は丸に桔梗紋。画像は青山霊園にて。


元田肇。1858年2月28日 – 1938年10月1日、政治家。
豊後国国東郡来浦に医師・猪俣栄造の子として出生。杵築藩の藩儒・元田直の養子となる。第25代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣を歴任。74歳にして政党出身者ではじめて枢密顧問官に親任される。家紋は丸に桔梗紋。画像は青山霊園にて撮影。


坂本嘉治馬。1866年4月25日 – 1938年8月23日、実業家。
土佐国(高知県)で生まれる。明治、大正期を代表する出版社、冨山房を神田神保町に設立した。吉田東伍の「大日本地名辞書」、上田萬年、松井簡治「大日本国語辞典」を刊行。家紋は丸に桔梗紋。画像は文京区吉祥寺の墓所にて撮影。


川上眉山。1869年4月16日- 1908年6月15日、小説家。
大阪生まれ。本名・亮。別号、煙波山人。帝国大学文科大学在学中から創作をし、「墨染桜」で注目される。「書記官」、随筆「ふところ日記」などが代表作。39歳という若さで自殺。家紋は丸に桔梗。画像は文京区吉祥寺の墓所にて撮影。


東儀鉄笛。1869年7月24日 – 1925年2月14日、雅楽家・作曲家。
1300年続く雅楽の家柄に生まれ宮内庁雅楽寮に勤める。同じ姓でも、江戸幕府に仕えた楽師の末裔・雅楽演奏家・東儀秀樹とは別家系。早稲田大学校歌「都の西北」の作曲者。家紋は丸に剣桔梗紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


柳田国男。1875年7月31日 – 1962年8月8日、民俗学者。
兵庫県神東郡出身。儒者・松岡操の六男。柳田家の養嗣子となる。養父・直平は大審院判事。農商務省のエリート官僚という立場で日本民俗学を確立。代表作は『遠野物語』『山の人生』等。家紋は大の字桔梗。画像は春秋苑にて撮影。


金光庸夫。1877年3月13日 – 1955年3月5日、実業家、政治家。
大分県生まれ。大正生命保険(現・PGFL)創設。阿部内閣で拓務大臣として初入閣。第2次近衛内閣で厚生大臣となる。大政翼賛会顧問、同調査会長、翼賛政治会政務調査会長、大日本政治会総務会長などを務める。家紋は丸に桔梗紋。画像は多磨霊園にて撮影。


上田貞次郎。1879年5月12日 – 1940年5月8日、経済学者。
東京都麻布出身。読みは、うえだていじろう。祖父の代まで町人であったが父の代から士族となる。東京商科大学(現一橋大学)学長。東亜経済研究所(現・一橋大学経済研究所)を設立し初代所長に就任。家紋は桔梗紋。画像は多磨霊園にて。


正宗白鳥。1879年3月3日 – 1962年10月28日、劇作家、小説家。
岡山県和気郡穂浪村に生まれる。江戸時代の正宗家は代々網元であり、高祖父の雅明の代までは材木商も営んだ財産家であった。本名は正宗忠夫。自然主義文学に新分野を開き注目された。代表作は『何処へ』『人間嫌ひ』『銀座風景』等。家紋は桔梗紋。


嶋田繁太郎。1883年9月24日 – 1976年6月7日、海軍軍人。
旧幕臣・神官、嶋田命周の長男として生まれる。1915年海軍大学校13期卒。東條内閣にて海軍大臣となり、対米開戦を容認した。最終階級は海軍大将。終戦後にA級戦犯に指名されるが仮釈放後赦免される。画像は、巣鴨・盛雲寺にて撮影。


砂田重政。1884年9月15日 – 1957年12月27日、政治家。
愛媛県生まれ。1920年に立憲国民党から衆議院議員に初当選。第2次鳩山内閣にて防衛庁長官として入閣。保守合同後は自由民主党で総務会長を務める。千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に熱心に取り組む。家紋は桔梗紋と蛇の目紋。画像は小平霊園にて撮影。


飛田穂洲。1886年12月1日 – 1965年1月26日、学生野球指導者。
茨城県東茨城郡大場村出身。本名は飛田忠順。日本の学生野球の発展に多大な貢献をし、学生野球の父と呼ばれる。報知新聞の記者を経て、東京六大学野球連盟理事・公式記録員、早稲田大学野球部顧問として学生野球の普及・発展に尽力した。


子母澤寛。1892年2月1日 – 1968年7月19日、小説家。
北海道厚田郡厚田村出身。本名は梅谷松太郎。祖父十次郎は江戸の御家人で箱館戦争に敗れてそのまま北海道に定住。代表作の『勝海舟』は大河ドラマ『勝海舟』原作となる。随筆に『座頭市』の原作『ふところ手帖』がある。画像は春秋苑にて撮影。


桂文楽(8代目)。1892年11月3日 – 1971年12月12日、落語家。
青森県五所川原町出身。本名は並河益義。並河家は常陸宍戸藩主松平家の家来筋。自宅の住居表示以前の町名から「黒門町」と呼ばれた。戦後最高の落語名人のひとりといわれた。得意ネタは「穴どろ 」「心眼 」「酢豆腐 」等。家紋は三ツ割桔梗。


野呂栄太郎。1900年4月30日 – 1934年2月19日、経済学者。
北海道長沼町出身。戦前の日本共産党の理論的指導者であると共に党幹部として実践活動にも関わった。スパイの手引きで検挙され、品川警察署での拷問により病状が悪化し、絶命。主著は『日本資本主義発達史』。画像は青山・長谷寺にて撮影。


音丸。1906年12月8日 – 1976年1月18日、歌手。
本名は永井満津子。東京市麻布箪笥町生まれ。当時前座を勤めていた美空ひばりがバス事故にあった際の座長もつとめていた。代表作は「船頭可愛や」「下田夜曲」「博多夜船」等。家紋は丸に桔梗紋。墓は東京都品川区にある天妙国寺。


田中澄江。1908年4月11日 – 2000年3月1日、脚本家、作家。
東京府北豊島郡生まれ。夫は劇作家の田中千禾夫。ブルーリボン賞脚本賞を受賞。東京都名誉都民。中野区教育委員も務めた。代表脚本作は『我が家は樂し』『少年期』『めし』など。山を愛していて「花の百名山」を選んだ。家紋は丸に桔梗紋。


森繁久弥。1913年5月4日 – 2009年11月10日、俳優。
大阪府枚方市出身。父は実業家の菅沼達吉。菅沼家は江戸時代には江戸の大目付の家系。7歳の時に母方の祖父の姓を継いで森繁姓となる。代表出演作はミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」、映画「夫婦善哉」等。桔梗紋は菅沼家の家紋。


加藤治子。1922年11月24日 – 、女優。
東京都赤坂区に呉服問屋の娘として出生。本名は滝浪治子。新演劇研究会に入団。後に高橋昌也、岸田今日子らと劇団雲の創立に参加。代表出演作『花つみ日記』『恭々しき娼婦』『阿修羅のごとく』等。画像は元夫の加藤道夫(死別)の墓所にて撮影。


岡村昭彦。1929年1月1日 – 1985年3月24日、ジャーナリスト。
大日本帝国海軍参謀の岡村於菟彦の長男として東京に生まれる。三池闘争、部落解放同盟に参加しオルグ活動を行う。ジャーナリストとしてはベトナム戦争の報道写真、ビアフラ内戦の取材などで知られる。家紋は丸に桔梗紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


山川方夫。1930年2月25日 – 1965年2月20日、作家。
東京市下谷区上野桜木町に、日本画家山川秀峰の長男として出生。本名は山川嘉巳。第3次『三田文学』を創刊。新人発掘に力を注ぎ曾野綾子、江藤淳を発掘。代表作は『演技の果て』『海の告発』。突然の交通事故で死亡。家紋は蛇の目に桔梗紋。


熊井啓。1930年6月1日 – 2007年5月23日、映画監督。
長野県南安曇郡豊科町に、地主の父、元教師の母の息子として生まれる。『帝銀事件 死刑囚』で監督デビュー。『忍ぶ川』でキネマ旬報ベストワン及び監督賞、芸術選奨などを受賞。代表作『黒部の太陽』『サンダカン八番娼館 望郷』等。家紋は丸に桔梗紋。


小池朝雄。1931年3月18日 – 1985年3月23日、俳優、声優。
東京都出身。オーバーアクションの怪優として映画、テレビに脇役として数多く出演。東映ヤクザ映画で印象を残す。『刑事コロンボ』の吹き替え、『あしたのジョー』のエンディング・テーマ『ジョーの子守唄』での歌手として知られている。


山田康雄。1932年9月10日 – 1995年3月19日、声優、司会者。
代々役人の家系で父は日本銀行勤務であった。劇団民藝、テアトルエコーなどの劇団を渡り歩くが海外テレビドラマ『ローハイド』の吹き替えでロディ役に抜擢される。一般には「ルパン三世の山田康雄」として著名。画像は多磨霊園にて撮影。


三遊亭円楽(5代)。1932年12月29日 – 2009年10月29日、落語家。
東京府東京市浅草区出身。本名は吉河寛海。若い頃は「星の王子さま」の愛称で親しまれ、立川談志、古今亭志ん朝、橘家圓蔵と並んで「四天王」と呼ばれた。また、長年、『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバー・司会者を務めていたことでも知られる。


大辻伺郎。1935年4月3日 – 1973年5月21日、俳優。
東京都出身。本名は大辻寿雄。父は弁士で漫談家の大辻司郎。様々な役柄を演じ分け怪優と呼ばれた。代表出演作『ハレンチ学園』『時間ですよ』等。第1回ベストドレッサー賞(芸能部門)を受賞した翌年、首吊り自殺。画像は多磨霊園にて撮影。


村松友視。1940年4月10日 – 、作家、エッセイスト。
東京都出身。静岡県清水市で育つ。中央公論社の編集者として武田泰淳、色川武大、野坂昭如等を担当。『私、プロレスの味方です』がベストセラーとなる。『時代屋の女房』で直木賞を受賞。画像は鎌倉・覚園寺、祖父・村松梢風の墓所にて撮影。


山本小鉄。1941年10月30日 – 2010年8月28日、プロレスラー。
神奈川県横浜市南区出身。本名は山本勝。新日本プロレス所属。現役時代は星野勘太郎と「ヤマハ・ブラザーズ」のタッグチームを組み名を上げた。引退後は、解説者・レフェリー、マッチメーカーとして活躍。家紋は丸に桔梗紋。葬儀時の写真より判断。


逆鉾伸重。1961年6月18日 – 、元大相撲力士、親方。
鹿児島県姶良郡加治木町出身。鶴ヶ嶺の次男。本名は、福薗好昭。最高位は関脇。「相撲巧者」と言われ技能賞の常連となる。井筒3兄弟は、長兄が鶴嶺山、次男が逆鉾、三男が寺尾。現在は年寄・井筒を襲名し井筒部屋で後進の指導に当たる。


高田万由子。1971年1月5日 – 、女優・タレント。
東京都出身。夫は音楽家の葉加瀬太郎。フジテレビ系番組「たけし・逸見の平成教育委員会」に出演。高田家は明治時代に武器・機械商として財を成し「明治三大貿易商之一」とまでいわれた。画像は谷中霊園の高田慎蔵の墓所にて撮影。


SHOCK EYE。1976年12月14日 – 、レゲエミュージシャン。
神奈川県鎌倉市出身。血液型A型。本名:植村家浩。初代高取藩の藩主:植村氏の末裔。人気レゲエグループ「湘南乃風」のファッションリーダー。湘南乃風代表作品『カラス』『純恋歌』『黄金魂』等。家紋は丸に竜剣に一文字、別名「植村桔梗」。


氷川きよし。1977年9月6日 – 、演歌歌手。
福岡県福岡市南区出身。本名は、山田清志。『箱根八里の半次郎』でデビュー。2008年の紅白歌合戦ではトリを務めた。『大井追っかけ音次郎』『きよしのズンドコ節』等のヒット曲がある。家紋は桔梗紋。ハートフォード生命保険のポスター他より判断。


鶴竜力三郎。1985年8月10日 – 、大相撲力士。
モンゴル国ウランバートル市出身。大学教授一家の裕福な家庭に生まれる。井筒部屋所属。得意手は右四つ、下手投げ。2012年春場所で13勝2敗の好成績を上げ、直前3場所合計が33勝に達し大関に昇進。殊勲賞2回、技能賞7回。最高位は大関。


早乙女主水之介。元禄時代、旗本。
佐々木味津三原作の時代小説「旗本退屈男」の主人公。徳川将軍家の直参旗本で無役ながら1200石の大身。太平の元禄の世にあっては腕を振るう機会に恵まれず「退屈で仕方ない」が口癖。「天下御免の向う傷、パッ!」は名台詞。家紋は桔梗紋。

まさむね



梅紋 -菅原道真の怨霊を封じ込めた紋- 前田利家、岡本太郎、菅直人...

梅紋は菅原道真の象徴である。

平安時代、右大臣にまで上り詰めた道真は、藤原時平の讒言のせいで大宰府に左遷され、そこで亡くなった。

「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」

かの地で詠んだ有名なこの歌の力で、梅が京都から飛んできたという。
しかし、道真の死後、都では落雷や相次ぐ不幸が重なり、それが道真の怨霊による祟りということになった。
そこで、道真は北野天満宮に「天神様」として奉られ、商売繁盛の神様、学問の神様として現在まで篤い信仰の対象となっている。

したがって、梅紋あるいは、梅鉢紋は、天神信仰と関係があるか、菅原氏の流れを汲む氏族が後に家紋として採用した。
有名なのは加賀の前田の梅鉢紋。元々は利仁流藤原氏の一族とされていたが、後に菅原氏の子孫と自称。
天神信仰が盛んだった加賀地方を治めるために、梅鉢紋を利用したとの見方もある。

優雅なデザインの底に怨霊の魂が眠っている奥深い紋である。

全国では7位。多い地域では、山口県と鹿児島県が3位。広島県、佐賀県、熊本県が4位。
逆に、江戸時代に前田氏が統治した石川県、富山県では少ない。庶民が藩主の紋をはばかったためとのこと。

芸術家が多いのが目立つ。武将としてもどちらかと言えば文化の香りが高い人々が名を連ねている。これは菅原道真とのつながりを意識した振る舞いがあるのか??

梅紋・梅鉢紋の有名人は以下。


金森長近。1524年 – 1608年9月20日、武将。
美濃源氏土岐氏の支流。近江国野洲郡金森に居住。豊臣秀吉に仕え飛騨一国を与えられた。関が原では東軍に値し初代高山藩主となる。茶の湯の才にも秀でており秀吉から利休の嫡男である千道安を匿った。家紋は裏梅紋。


前田利家。1539年1月15日 – 1599年4月27日、武将、大名。
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれる。小姓として織田信長に仕え「槍の又左」の異名をもって怖れられた。信長の死後、秀吉に臣従。豊臣政権の五大老の一人となる。家紋は梅鉢。画像は、文京区吉祥寺の前田家の墓所にて撮影。


筒井順慶。1549年3月31日 – 1584年9月15日、戦国時代の大名。
大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。松永久秀によって居城・筒井城を追われるが、三好三人衆と手を結んで筒井城を奪還。大和国で松永久秀と抗争の上、平定。茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であった。家紋は梅鉢。


紀伊国屋文左衛門。1669年 – 1734年5月26日、商人。
紀州湯浅の出身。みかん、材木などの商いで財を成す。幕府から十文銭の鋳造を請け負ったが、質が悪く1年で通用が停止されてしまったという。画像は深川・成等院墓所の親族の墓を撮影。家紋は丸に梅紋。ただし、本人の墓は保存が悪く家紋は未確認。


平賀源内。1728年- 1780年1月24日、蘭学者、発明家、画家。
讃岐国寒川郡志度浦に生まれる。父は白石茂左衛門。天才、異才と称される。鎖国を行っていた当時の日本で蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。エレキテルを復元したり日本最初の宣伝コピー「本日土用丑の日」を考えた。


中山みき。1798年6月2日 – 1887年2月18日、宗教家。
大和国山辺郡三昧田村の前川半七の家に生まれる。中山善兵衞に嫁ぐ。親神・天理王命が乗移り天理教を開く。天理教教会本部では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称させている。家紋は丸に梅鉢。現在の天理教のマークとなっている。


伊沢蘭軒。1777年12月10日 – 1829年4月20日、医師、教育者。
備後福山藩医の子として生まれる。頼山陽、大田南畝等とも親交を持ったという。清川玄道、森立之、岡西玄亭、山田椿庭、渋江抽斎等、多くの弟子を育てた。その生涯は森鴎外の史伝『伊沢蘭軒』に詳しい。家紋は梅鉢。画像は麻布長谷寺の墓所にて撮影。


梅田雲浜。1815年7月13日 – 1859年10月9日、儒学者。
小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれる。アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて幕政を激しく批判したが安政の大獄で摘発、逮捕される。拷問においても何一つ口を割らず、獄中で病死した。家紋は梅鉢。


前田案山子。1828年4月7日 – 1904年7月20日、政治家、文人。
細川藩に指南として仕えていたが明治維新に際し農民と共に生きる決意で案山子と改名。自由民権運動の闘士となり干拓農地の免訴運動などに奔走。次女の卓は夏目漱石の「草枕」の那美さんとして登場。家紋は梅鉢紋。画像は平林寺にて撮影。


篠原泰之進。1828年12月22日 – 1911年6月13日、志士。
筑後国生葉郡高見村の豪農・石工業者・篠原元助の長男として出生。新選組に加盟するが、御陵衛士結成に伴い、離脱。鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。維新後は秦林親と改名。家紋は丸に梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。


副島種臣。1828年10月17日 – 1905年1月31日、官僚、政治家。
父は佐賀藩の藩校・弘道館の教授、国学者・枝吉南濠。弘道館で学び尊王攘夷思想に目覚める。江藤新平や大木喬任と交わり大隈重信らと脱藩、奔走する。第1次松方内閣では内務大臣を務める。家紋は星梅鉢。画像は青山霊園にて撮影。


福羽美静。1831年8月24日 – 1907年8月14日、国学者、歌人。
津和野藩士・福羽美質の長男。読みは、ふくばびせい。幕末は尊皇攘夷の志士として御所に召され孝明天皇に近侍。八月十八日の政変に際しては七卿と共に西下。維新後は明治天皇の大学御用掛、宮内省歌道文学御用掛となる。家紋は外雪輪に梅紋。


榎本武揚。1836年10月5日 – 1908年10月26日、幕臣、政治家。
父・箱田良助(備後福山藩士)が榎本家の株を買い幕臣となる。新政府軍が江戸城を無血開城すると幕府軍艦を率いて蝦夷地に逃走。五稜郭に拠り蝦夷島政府を設立。維新後、新政府に登用され外務大輔、海軍卿等を歴任する。画像は文京区・吉祥寺にて撮影。


中牟田倉之助。1837年3月30日 – 1916年3月30日、海軍軍人。
金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。佐賀藩主・鍋島直正の推薦で長崎海軍伝習所へ入所。西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。海軍大学校長や枢密顧問官も務める。家紋は子持輪に梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。


清岡公張。1841年7月10日 – 1901年2月25日、政治家。
安芸郡田野浦出身の郷士。読みは、きよおかともはる。禁門の変では長州藩と共に参戦するが敗北。維新後は、福島県権知事、白河権知事、二本松県権令などを歴任。元老院議官、貴族院議員として活躍。家紋は梅鉢。画像は護国寺にて撮影。


清水郁太郎。1857年11月29日 - 1885年2月26日、医学者。
安芸国吉津村出身。藩校誠之館に入学。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。産婦人科にあって臨床診療中心のドイツ産婦人科学を導入。穿頭術、卵巣嚢腫に対する手術も敢行した。家紋は丸に梅鉢紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


杉浦重剛。1855年4月19日 – 1924年2月13日、教育者・思想家。
近江国膳所藩の儒者・杉浦重文の次男。読みは、すぎうらじゅうごう。若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に倫理を進講。後に人格高邁の国士と評され理学宗の世界観を確立。家紋は丸に剣片喰紋と向う梅紋。画像は伝通院にて撮影。


團琢磨。1858年9月7日 – 1932年3月5日、工学者、実業家。
筑前国福岡荒戸町出身。福岡藩士馬廻役神尾宅之丞の四男。幼名は駒吉。三井三池炭鉱の経営に成功し、戦前の三井財閥の総帥であったが、血盟団事件で狙撃、暗殺される。作曲家の團伊玖磨は孫(長男の息子)にあたる。画像は護国寺にて撮影。


岡田和一郎。1864年2月10日 – 1938年5月30日、医師、医学者。
伊予国新居郡本町に生まれる。帝国大学耳鼻咽喉科学における初代の正教授。耳鼻咽喉学の祖と称えられる。主著は『耳科学纂録』『社会政策と地方衛生機関の大改革』『耳・鼻・咽喉 』。家紋は丸に星梅鉢紋。画像は染井霊園にて撮影。


水島銕也。1864年6月29日 – 1928年11月2日、教育者。
豊前国中津藩出身。読みは、みずしまてつや。神戸高等商業学校(神戸大学の前身)の創立者、初代校長。生誕地跡である大分県中津市金谷本町には「水島公園」と記念碑が建てられている。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


長岡半太郎。1865年8月15日 – 1950年12月11日、物理学者。
長崎県大村市で大村藩藩士長岡治三郎の一人息子。土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。初代大阪帝国大学総長や日本学士院院長などの要職も歴任。家紋は珍しい「隅切り角に四つ梅鉢」紋。画像は青山霊園にて撮影。


小橋一太。1870年10月25日 – 1939年10月2日、政治家。
熊本県出身。読みは、こばしいちた。立憲民政党の結成に関わる。浜口内閣の文部大臣であったが越後鉄道にまつわる汚職事件(越後鉄道疑獄)に連座し文相辞任した(裁判では無罪)。後に東京市市長となる。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


土井晩翠。1871年12月5日 – 1952年10月19日、詩人、英文学者。
仙台の北鍛治町に、質屋の土井林七の長男として生まれた。本名は林吉。男性的な漢詩調詩風、第一詩集『天地有情』で島崎藤村と併称された。代表作は『荒城の月』『星落秋風五丈原』等。日本心霊科学協会の設立に顧問として関わる。家紋は梅鉢紋。


井上幾太郎。1872年2月18日 – 1965年5月7日、陸軍軍人。
山口県出身。農業、井上清蔵の二男。読みは、いのうえいくたろう。日露戦争に第3軍参謀として出征。旅順攻囲戦において坑道掘りによる攻撃を献策。帝国在郷軍人会の最後の会長。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


幣原喜重郎。1872年9月13日 – 1951年3月10日、政治家。
大阪府門真一番村の豪農の家に出生。読みは、しではらきじゅうろう。加藤高明内閣を始め4回も外務大臣になる。自由主義体制における国際協調路線は幣原外交と称された。後に第44代内閣総理大臣となる。家紋は鞠挟みに梅鉢紋。画像は染井霊園にて撮影。


久保猪之吉。1874年12月26日 – 1939年11月12日、医師、俳人。
福島県本宮町生まれ。日本の耳鼻咽喉科学の先駆者で、1928年にはコペンハーゲンで開催された第1回万国耳鼻咽喉科学会に日本代表として出席。ホトトギス派の高浜虚子に師事し句集に「春潮集」がある。家紋は星梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。


蒲原有明。1875年3月15日 – 1952年2月3日、詩人。
東京麹町隼町に蒲原忠蔵の息子として出生。本名、隼雄。象徴派詩人として薄田泣菫と併称された。『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。北原白秋、三木露風らに影響を与えた。家紋は亀甲に梅鉢紋。画像は麻布・賢崇寺にて撮影。


下村宏。1875年5月11日 – 1957年12月9日、官僚、教育家。
和歌山県出身。息子に劇団東演を主宰した演出家下村正夫がいる。玉音放送の際の内閣情報局総裁でありポツダム宣言受諾の実現に尽力した。朝日新聞社副社長、日本放送協会会長、拓殖大学第6代学長を務める。家紋は梅鉢紋。青山霊園の墓所にて撮影。


谷寿夫。1882年12月23日 – 1947年4月26日、陸軍軍人。
岡山県の農民出身。読みは、たにひさお。南京攻略戦に参加。戦後、蒋介石による南京軍事法廷で、南京事件の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。最終階級は陸軍中将。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


鳴海要吉。1883年7月9日 – 1959年12月17日、歌人。
青森県南津軽郡黒石町に生れ。島崎藤村の影響で歌を始める。田山花袋が「早稲田文学」発表した短編『トコヨゴヨミ』のモデルとなっている。代表作は『乳涙集』『TUTI NI KAERE』『土にかへれ』家紋は丸に梅鉢紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


前田夕暮。1883年7月27日 – 1951年4月20日、歌人。
神奈川県大住郡南矢名村の豪農の家に出生。『詩歌』復刊。口語自由律短歌を提唱したが定型歌に復帰。代表作『収穫』『陰影』『生くる日に』。代表歌「向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ」家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


前田多門。1884年5月11日 – 1962年6月4日、政治家、実業家。
大阪府出身。読みは、まえだたもん。東久邇内閣の文相に就任、教育改革を推進した。東京通信工業(後のソニー)社長に就任。日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長等を歴任。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


前田青邨。1885年1月27日 – 1977年10月27日、日本画家。
岐阜県中津川市出身。歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。代表作の「洞窟の頼朝」は重要文化財に指定される。出身地の中津川には青邨記念館がある。家紋は梅鉢紋。画像は総持寺にて撮影。


牟田口廉也。1888年10月7日 – 1966年8月2日、陸軍軍人。
佐賀県出身。盧溝橋事件を独断で裁断したり、インパール作戦の指揮に失敗したりしたため、大日本帝国陸軍将校の中でも評価は低い。最終階級は陸軍中将。戦後は東京都調布市で余生を送る。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


水野仙子。1888年12月3日 – 1919年5月31日、小説家。
福島県岩瀬郡須賀川町に出生。本名は服部テイ。田山花袋家に寄寓して内弟子となる。後に川波道三と結婚。『青鞜』の社員となる。代表作は『娘』『徒労』『嘘をつく日』。家紋は丸に梅鉢紋。画像は雑司ヶ谷霊園の川浪家の墓所にて撮影。


栗田健男。1889年4月28日 – 1977年12月19日、海軍軍人。
茨城県水戸市出身。遥かな祖先は清和源氏に連なるという水戸藩士の家に出生。読みは、くりたたけお。レイテ沖海戦では機動部隊の指揮を取り「謎の反転」をしたことで知られる。最終階級は海軍中将。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。


高塚竹堂。1889年5月23日 – 1968年3月30日、書道家。
静岡県清水市出身。本名は錠二。戍申書道会・泰東書道院・東方書道会の創立に尽力し役員・審査員を経る。国定教科書・台湾教科書を揮毫。松本芳翠と共に書道同文会を創設。書道連盟監事を勤めた。家紋は丸に梅鉢紋。画像は小平霊園にて撮影。


古今亭志ん生(5代)。1890年6月28日 – 1973年9月21日、落語家。
東京・神田亀住町の生まれ。本名は美濃部孝蔵。出自は高位の士族。生家は徳川直参旗本の美濃部家で菅原道真の末裔を称する。長男は10代目金原亭馬生、次男は3代目古今亭志ん朝。20世紀を代表する名人に数えられる。画像は文京区・還国寺にて撮影。


仁科芳雄。1890年12月6日 – 1951年1月10日、物理学者。
岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くした。湯川秀樹、朝永振一郎らの後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも呼ばれている。死後、仁科記念財団が設立された。画像は多磨霊園にて撮影。


倉田百三。1891年2月23日 – 1943年2月12日、劇作家。
広島県庄原市出身。西田天香の一灯園で深い信仰生活を送る。代表作『出家とその弟子』 は鎌倉時代に浄土真宗を創始した親鸞とその弟子唯円との物語を描いた戯曲。発表とともに当時の青年たちに熱狂的に支持される。画像は多磨霊園にて撮影。


栃木山守也。1892年2月5日 – 1959年10月3日、第27代横綱
栃木県下都賀郡赤麻村出身。本名:横田守也。体重103kgで史上最軽量の横綱と形容される。引退後、年寄・春日野を襲名。春日野部屋を創立。春日野部屋の力士(栃ノ心、栃乃洋、栃煌山等)の「栃」の字は栃木山が由来。画像は谷中霊園にて撮影。


浜田広介。1893年5月25日 – 1973年11月17日、童話作家。
山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれる。作品は“ひろすけ童話”と呼ばれ、小学校低学年向けの平易な語り口と純朴で心を打つ内容により、絵本などで親しまれている。代表作は「泣いた赤鬼」「椋鳥の夢」「竜の目の涙」など。画像は春秋苑墓地にて撮影。


奥むめお。1895年10月24日 – 1997年7月7日、婦人運動家。
福井県福井市に和田甚三郎の長女として出生。本名・奥梅尾。日本初の婦人団体である新婦人協会で平塚雷鳥、市川房枝と共に理事に就任。主婦連合会を結成し会長に就任。主婦会館設立、初代館長となる。家紋は匂い梅。画像は春秋苑の墓所にて撮影。


池田勇人。1899年12月3日 – 1965年8月13日、政治家。
広島県吉名村に造り酒屋を営む池田吾一郎の子として出生。内閣総理大臣時に所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展に大きな役割を果たした。「私はウソは申しません」などの発言を残している。画像は青山霊園にて撮影。


梶井基次郎。1901年2月17日 – 1932年3月24日、小説家。
志賀直哉の影響を受け、簡潔な描写と詩情豊かな小品を残す。死後次第に評価は高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。代表作は「檸檬」「櫻の樹の下には」。1932年3月24日、肺結核のため死去。家紋は丸に梅鉢紋。


柳家金語楼。1901年2月28日 – 1972年10月22日、俳優、落語家。
東京の芝の葉茶屋「山下園」を営んでいた三遊亭金勝の子。本名は山下敬太郎。吉本興業に所属。NHKテレビ『ジェスチャー』などで大衆的人気を博す。6代目春風亭柳橋等と日本芸術協会を結成。エノケン・ロッパと並ぶ昭和の三大喜劇人。家紋は裏梅紋。


曽我廼家五郎八。1902年2月25日 – 1998年1月20日、お笑い芸人。
大阪府大阪市道頓堀の出身。本名は西岡幸一。曾我廼家五郎一座に入り曾我廼家五郎八を襲名。松竹新喜劇で活躍。味のある脇役として一世を風靡。娘は西岡慶子(女優)。タレントの弟子に吉本新喜劇の井上竜夫、菊池大助がいる。家紋は雪輪に梅鉢紋。


美濃部亮吉。1904年2月5日 – 1984年12月24日、政治家。
東京府出身。憲法学者で天皇機関説事件により貴族院議員を辞職した美濃部達吉の子。日本社会党を支持基盤とする革新都知事。1971年の都知事選で獲得した361万5299票は日本の選挙史上最多得票記録。後に参議院議員に転進。家紋は星梅鉢。


永田雅一。1906年1月21日 – 1985年10月24日、実業家。
京都市の染料と友禅の問屋で生れる。『羅生門』でヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞。五社協定締結を主導。大毎オリオンズオーナー。パ・リーグの父と呼ばれた。大言壮語な語り口から「永田ラッパ」と呼ばれた。画像は池上本門寺にて撮影。


伊藤静雄。1906年12月10日 – 1953年3月12日、詩人。
長崎県諫早市出身。処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』を発表し一気に名声を高めた。日本浪曼派の代表的な詩人として同時代に多大な影響を与えた。代表詩集は『夏花』『春のいそぎ』等。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は折敷に梅鉢紋。


植草甚一。1908年8月8日 – 1979年12月2日、評論家。
東京市日本橋区小網町出身。木綿問屋の一人息子。雑誌『ワンダーランド』(のちの「宝島」)の創刊編集者。代表作『ぼくは散歩と雑学が好き』は大きな影響力を持つ。彼の死後そのレコードコレクションはタモリが買い取った。画像は回向院にて撮影。


入江たか子。1909年2月7日 – 1995年1月12日、女優。
東京市四谷区に出生。子爵東坊城家の出身で父の東坊城徳長は子爵。本名は東坊城英子。ノーブルな美貌と近代的なプロポーションによって大スターとなり、原節子・山田五十鈴とともに日本映画史上の三大美人とも言われた。家紋は梅鉢紋。


神田山陽(2代目)。1909年8月31日 – 2000年10月30日、講釈師。
東京都出身。書店・出版社の「大阪屋号書店」の社長の息子として生まれる。本名は浜井弘。1955年に2代目神田山陽を襲名。講談協会会長。弟子には、神田改メ日向ひまわりを始め、女性を多くとり現在でも活躍している。家紋は丸に梅鉢紋。


益田喜頓。1909年9月11日 – 1993年12月1日、コメディアン。
北海道庁函館区青柳町に、会津藩の武家上がりの土木請負業の家に生れる。本名は木村一。昭和期を代表するコメディアン。川田義雄、芝利英、坊屋三郎と「あきれたぼういず」を結成。その後、映画、ミュージカルを中心に活躍。家紋は丸に梅鉢紋。


岡本太郎。1911年2月26日 – 1996年1月7日、芸術家。
神奈川県橘樹郡高津村で、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として出生。「芸術は爆発だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した。画像は多磨霊園、太郎と同じ敷地にある岡本かの子の墓にある梅鉢紋。


双葉山定次。1912年2月9日 – 1968年12月16日、第35代横綱
大分県宇佐郡天津村布津部出身。本場所での通算69連勝、優勝12回、全勝8回などを記録。「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」の言葉通りの不世出の大横綱であり、名実共に史上最強の横綱とする評は多い。画像は善性寺の墓所にて撮影。


安藝ノ海節男。1914年5月30日 – 1979年3月25日、第37代横綱
広島県広島市に食料品商の家に出生。本名は永田節男。双葉山の70連勝を阻止、69連勝で止めた一番は世紀の名勝負といわれた。その後、双葉山には9連敗し二度と勝てなかった。幕内最高優勝:1回。金星は双葉山に勝った一番だけ。画像は正覚寺にて撮影。


佐賀ノ花勝巳。1917年12月5日 – 1975年3月28日、大相撲の力士。
佐賀県佐賀市出身。最高位は大関。本名は北村勝巳。1944年1月場所では13勝2敗の幕内最高優勝を遂げる。八代目・二所ノ関を襲名。親方として初代・若乃花、玉乃海、大鵬、大麒麟を育てた。家紋は丸に梅鉢紋。画像は谷中の宗善寺にて撮影。


山下清。1922年3月10日 – 1971年7月12日、画家。
東京府東京市浅草区出身。本名は大橋清治。3歳の頃に重い消化不良になり一命は取りとめたものの後遺症で軽い言語障害、知的障害に進行。戦後は「日本のゴッホ」「裸の大将」と呼ばれ日本中を放浪する。家紋は丸に梅鉢。画像は正覚院にて。


町井久之。1923年 – 2002年9月18日、ヤクザ、実業家。
東京生まれ。本名は鄭建永。東声会会長。東亜相互企業株式会社社長。釜関フェリー株式会社会長。在日本大韓民国民団中央本部顧問。若い頃は、「銀座の虎」、「雄牛」と呼ばれた。家紋は丸に梅鉢紋。画像は池上本門寺にて撮影。


栃錦清隆。1925年2月20日 – 1990年1月10日、第44代横綱
東京府南葛飾郡(現在の東京都江戸川区)出身。本名、大塚清。相撲界に戦後屈指の黄金時代「栃・若時代」を築いた。幕内最高優勝 10回。幕内通算成績 513勝203敗1分32休 勝率.716。引退後は年寄・春日野として日本相撲協会理事長もつとめる。


フランキー堺。1929年2月13日 – 1996年6月10日、喜劇役者。
鹿児島の士族の家系。本名は堺正俊。曽我廼家五九郎は親戚。「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」を結成しドラマーとしても活躍。代表出演作『私は貝になりたい』『幕末太陽傳』。『写楽』の企画総指揮。葬儀時写真より丸に梅鉢紋と判断。


中村八大。1931年1月20日 – 1992年6月10日、作曲家。
中国青島出身。漫画家の寺田ヒロオは義弟。ジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバー。『黒い花びら』『こんにちは赤ちゃん』で2回、日本レコード大賞を受賞。代表作は『上を向いて歩こう』『明日があるさ』等多数。画像は本門寺にて撮影。


漣健児。1931年2月4日 – 2005年6月6日、作詞家、実業家。
東京市牛込区出身。本名は草野昌一。読みは、ささざみけんじ。「ミュージックライフ」の初代編集長。作詞者としての代表作は「可愛いベイビー」(中尾ミエ)、「赤鼻のトナカイ」(新田宣夫名義)など。また日本の音楽出版ビジネスの先駆者でもある。


河内桃子。1932年3月7日 – 1998年11月5日、女優。
東京都台東区谷中出身。祖父は理研グループ総帥・大河内正敏。夫は今治松平家末裔でプロデューサーの久松定隆。『ゴジラ』の山根恵美子役に抜擢された後『ありがとう』『渡る世間は鬼ばかり』等に出演。家紋は星梅鉢紋。画像は谷中霊園にて撮影。


遠藤実。1932年7月6日 – 2008年12月6日、作曲家。
東京府東京市向島区生まれ。現在に至るまで世に送り出した楽曲は5000曲以上と言われ舟木一夫、千昌夫、森昌子など多くの歌手を育てた。代表作曲『高校三年生』『星影のワルツ』『せんせい』等。家紋は丸に剣梅鉢紋。画像は田無総持寺にて撮影。


筒井康隆。1934年9月24日 – 、小説家、劇作家、俳優。
大阪府大阪市住吉区粉浜に出生。日本を代表するSF作家で小松左京、星新一と並んで「SF御三家」とも称される。代表作は『七瀬ふたたび』『筒井順慶』『虚人たち』『時をかける少女』戦国大名筒井順慶の末裔と伝えられているため梅紋扱いとする。


中上健次。1946年8月2日 – 1992年8月12日、小説家。
和歌山県新宮市に父・鈴木留造と母・木下ちさとの間に出生。紀州熊野を舞台にした数々の小説を描き、ある血族を中心にした「紀州サーガ」とよばれる土着的な作品世界を作り上げた。代表作は、「枯木灘」「軽蔑」など。家紋は丸に梅鉢紋。


堺正章。1946年8月6日 – 、歌手、俳優、司会者。
東京都世田谷区出身。本名は栗原正章。父は喜劇俳優の堺駿二。子役で芸能界に入りザ・スパイダースのボーカル、『西遊記』の孫悟空役で人気を博す。『発掘!あるある大事典』『チューボーですよ』等の司会を務める。画像は父親・堺駿二の墓所にて撮影。


菅直人。1946年10月10日 – 、政治家。
山口県宇部市に出生(本籍地は岡山県御津郡)。菅原道真の子孫の一派、美作菅家党の流れを汲む。厚生大臣、新党さきがけ副代表、民主党代表、第94代内閣総理大臣等を歴任。野党時代は演説、国会質問における鋭さに特徴があった。


中井貴一。1961年9月18日 – 、俳優。
東京都世田谷区出身。父の佐田啓二も俳優。父の17回忌の法要の際にスカウトされる。『ふぞろいの林檎たち』で主役。NHK大河ドラマ『武田信玄』では主役の武田信玄を演じた。家紋は父親・佐田啓二の円覚寺の墓所(画像)より星梅紋と判断。


羽生善治。1970年9月27日 – 、将棋棋士。
埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持。通算タイトル獲得数は、大山康晴に次ぎ歴代2位。数々の実績から、将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。紋付姿の写真より、家紋は亀甲に梅紋と判断。


陣内智則。1974年2月22日 – 、お笑い芸人、司会者。
兵庫県加古川市出身。一人コント形式で舞台装置を用いエキストラに演じさせたりCGで制作した映像等の音声や映像に対してツッコミを入れるというスタイル。藤原紀香と結婚したが、離婚。家紋は丸に梅鉢紋であることが結婚式の際の紋付にて判明。


林屋亭どん兵衛。昭和 – 平成、落語家。
テレビドラマ「タイガー&ドラゴン」の中の登場人物(西田敏行演)。古典落語にこだわり続ける昔気質の落語家。寄席の客相手に渋い落語を聞かせる通好みの芸人。新しく弟子入りした虎児のことも可愛がる。林屋一門の家紋は丸に覗き梅鉢紋。


丸山陽子。1922年 – 、学校教師、主婦。
朝ドラ「おひさま」の登場人物(井上真央演)。東京都に生まれ。10歳の時に長野県安曇野に移住。1941年に国民学校の教師になる。丸山家に嫁ぐ。世界を明るく照らす「太陽の陽子」として笑顔で生きていく。家紋は嫁ぎ先の丸山家の丸に覗き梅紋。

まさむね