鶴丸の悲しい歴史

JALの飛行機から鶴丸のマークが消えるという。

今月で最後とのこと。
もともとこのマークは、家紋を下敷きにしたデザインなんだよね。

じゃあ、この鶴丸の家紋をつけた有名人を見てみよう。

まずは、足利将軍家に正妻を出し続けた、日野家。足利義政の夫人、日野富子が有名だ。
政治には全く興味のなかったオタク将軍の義政。ある時はケツを叩き、ある時は任せていられないとばかりに政務を取り仕切る。一般に、金儲け主義、悪女の典型とされる。
NHK大河「花の乱」(1994年放映)では三田佳子が演じていました。

また、戦国時代では、織田信長の小姓・森蘭丸で有名な森家の家紋もこの鶴丸。美男子だったという伝説と、本能寺の変で、かない最期を遂げたせいで、なんとなく有名。

そして近年では、コンプレックス文学の最高峰・太宰治(実家の津島家)も鶴丸紋。確認はしていないが、太宰治全集には、この鶴丸の箔押しがついているとか。太宰の最期も玉川上水への入水自殺だった。

いずれにしても、悲しい運命の人が多いよね。

まさむね

船場吉兆倒産 湯木佐知子さんへ捧げる歌

予約客 かぞ~えたら片手にさえ余る♪
キャンセルを か~ぞえたら 両手でも足りない♪
SACHIKO 思い通りに♪
SACHIKO ささやいてごらん♪

ばんばひろふみ -SACHIKO- の替え歌です。

船場吉兆が倒産した。女将の湯木佐知子(SACHIKO)さんは、記者会見では、うなだれた状態で登場。
会見中はほとんど、膝の上のQ&Aを読んでいた。
その紙をよく見ると 

誠に申し訳ございません(女将さん)

という風に、答弁人物(しかも さん付け)が書いてある。
弁護士が書いた事がバレてるやないか。

痛い。痛すぎる最後だ...

まさむね

中野から渋谷へはバスで行こう

中野から渋谷へ行くいわゆる63番のバス路線はある意味、現代的な観光路線だ。
中野通りを抜けて、甲州街道に入ると、幡ヶ谷駅付近の右手に、兄(勇貴)が妹(亜澄さん)を殺した歯科医が見える。
甲州街道から山手通りに入り、代々木八幡の先で左に折れると、すぐに夫を殺害した三橋歌織のマンションが見える。
バスは突き当たりをさらに、左に折れると、社員がこぞって、時間中に株取引をしているNHKがある。
NHKを左に、ぐるっと回って、公園通り経由で渋谷駅に。

俺はこの路線を使って大学に通っていたのだ。懐かしい。

まさむね

横綱同士の一触即発に思う

昨日の大相撲夏場所千秋楽、結びの一番終了直後にで起きた横綱同士の一触即発状態。

北の湖理事長は「朝青龍のダメ押しについては勢いというものがある。しかし、白鵬の行為はいただけない。横綱は、どんなことがあってもカーッとなってはいけない」とコメントし、各方面から、悪いのは朝青龍だろうとか、喧嘩両成敗的な批判が相次いだ。

北の湖理事長の真意について、夏のモンゴル巡業を控えた政治的な意図を詮索する向きもあるようだが、俺は理事長の見解には納得出来る。
思い出してみれば、現役時代の北の湖は、土俵に転がした相手や土俵の外に突き出した相手に対して、決して助けの手を差し伸べなかった。その態度が当時から傲慢とか、ぶっきらぼうとか言われたものだが、そこには、確実に「くやしかったら立ち上がって来い」的な哲学があった。

正直言って、当時は、北の湖ファンだったからよく覚えているんだよね、俺。

だから、そんな北の湖の哲学からすれば、朝青龍のダメ押しが流れの中での出来事と見えるということは十分ありえたのではないだろうかと思うわけです。

まさむね

葵と夕顔

前回、平安時代の相撲会の伝統を踏まえて、瓢箪=夕顔に対抗して、家康が葵紋にこだわったという話をしたが、葵と夕顔と言えば、源氏物語に登場する二人の女性を思い出す方も多いのではないか。

葵の上は源氏の正妻ではあったが、気位が高かったゆえに、源氏からはあまり愛されず、息子の出産時に亡くなってしまう。また、夕顔は源氏お気に入りの気さくな女性だが、源氏と一夜をともにしている間に腹上死してしまう。いずれもの死も、六条の御息所の生霊の仕業というのが因縁めいている。

しかし、この葵の上と夕顔の落とし子(夕顔は源氏の子ではなく、ライバルの頭の中将の子)達はその後の物語の展開で重要な役割を果す。

葵の上と源氏の間に出来た夕霧は、葵の上の遺伝か、源氏の厳しい教育のせいもあってか、わからないが面白味の無い性格として大きくなる。

一方、夕顔の子供、玉蔓は、一時、九州に都落ちするが成人して状況、偶然に源氏の保護・後見を受ける。しかし、その後、源氏はこの玉蔓にちょっかいを出そうとするが、結局は相手にされなかったという、光源氏の一連の恋物語の中では最も寂しいオチを迎えるのでした。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(2)

前回、豊臣秀吉の紋所が桐紋との話をしたが、秀吉の象徴として瓢箪を思い浮かべる人も多いだろう。

これは、家紋というよりも戦場での馬印に使われたようだ。戦に勝つたびにその瓢箪が増えていったとの伝説(千成瓢箪伝説)もあるが真偽はわからない。しかし、当時、秀吉といえば、瓢箪というイメージは一般に共有されていた。

一方、家康は当時の武家にはめずらしく教養のある人で、幼少の頃から様々な古典文学に慣れ親しんでいたという。

それを考慮に入れると家康が東国の王として桐紋を拒否し続け、葵紋にこだわった理由が見えてくる。秀吉の生前、主に西日本は秀吉の勢力下だったが、その象徴の瓢箪(=その花は夕顔)に対抗する理由から、家康は、葵にこだわったのではないか。

というのも、平安時代の宮中で、に七夕に行われた相撲会では、古来より、西からの力士は夕顔を、東からの力士は葵を髪かざりとして土俵に上がっていたという。(ちなみに、花道という言葉の由来はここから出ている。)

そんな故事が、葵紋にこだわった家康の頭をかすめていたというのが、俺の想像だよ。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(1)

徳川家の家紋はご存知、葵である。

NHKの大河ドラマ「篤姫」では薩摩の島津家の分家から将軍の御台所まで上り詰める話であるが、その島津家の本貫は宮崎だったとの説もある。その昔、源頼朝から地頭として派遣された惟宗忠久が、宮崎県都城市あたりの「島津荘」を領地としたのが島津家の始まりというのだ。(ちなみに、この忠久は頼朝のご落胤との噂もある)

だとすると、宮崎から出てきて、徳川家に入り葵紋をつけたという意味で、篤姫に、宮崎あおい(葵)が抜擢された深層が見えてこようというものだ。まぁいつもながら、かなり苦しい説だが...

さて、この徳川政権の基礎を築いた徳川家康は、朝廷からの懐柔策見え見えの桐紋下賜を、何度も断り続けたという。
織田信長、豊臣秀吉はそういうことはなかった。彼らはもらえるものはもらう、利用できるものは利用するのだ。
例えば、愛知県長興寺にある信長の肖像の紋は、織田木瓜でも、揚羽蝶でも無い。正親町天皇から下賜された五三の桐紋だ。

また、秀吉は晩年にすべての自分関連グッズ(身の回りの小物、着物等)にいわゆる太閤桐という独自紋をつけている。成り上がりはいつの世もブランドを志向するということだろうか。

しかし、その後、この桐紋は最も正統な紋所として、脈々と受け継がれ、特に西日本の家の多くが桐を家紋としている。
そして、現在は、日本政府の象徴にもなっている。

木村拓也主演の「CHANGE」の冒頭では、この桐紋(五七の桐)がCHANGEというロゴにモーフィングするシーンが放送されているが、それを見るたび、桐紋の歴史が脳裏をよぎるのであった。

つづく

まさむね

ワビサビは街中にあるよ

日本の美意識の基本概念にワビ&サビというのがある。

ワビは、「ツイてねぇなぁ」という不遇の境地を、サビは「一人ぼっちだなぁ」という感覚を、それぞれ、美意識としてに昇華させた概念なんですね。

見渡せば花も紅葉もなかりけれ裏の蓬屋の秋の夕暮れ (藤原定家)

これは、そのワビサビの境地とも言える歌ですよね。
桜とか紅葉とかいった和歌の題材になるようなものが何にも無い状態だからこそ、しみじみとした情感を感じるってことですからね。日本の美意識の最高峰だと俺は思うね。

このワビサビの境地は、ご存知の通り、千利休の手によって茶道として完成するんだけど、そんな利休の名言。

「侘びたるは良し、詫ばしたるは悪し」

街を歩いていても、確かに、見捨てられたもの、さびしいものほど面白いことがある。逆にこれはこういう意図(深層=真相)があって、こう楽しんでくださいと押し付けてくるテーマパーク的なオブジェは往々にしてうるさい気がする。

詫びて寂びたオブジェが、こちらが勝手に深読み、深感動、勘違い、邪推によって、一気にヒーローになる瞬間がいいんだよね。

俺は、この一瞬の感動の儚さを楽しみたいよね。

まさむね

ROOKIES 通過儀礼としての黒板コミュニケーション

学園ドラマにおける黒板って大事だよね。

ROOKIESでは、新任の川藤先生(佐藤隆太)に対して「暴力教師」っていう誹謗が黒板に書かれ、教室に入ってきた先生と不良生徒との間に一触即発の状況に発展する。
ちょっと古いが「鹿男あをによし」では、「パンツ三枚 千円」とか「鹿せんべいそんなにうまいか」という黒板への書き込みに、先生(玉木宏)誰かに見張られてるんじゃないかと疑心暗鬼になる。

だけど、この黒板による先生&生徒とのコミュニケーションは古く、夏目漱石の「坊ちゃん」に探れるんじゃないかな。この小説では、坊ちゃんは黒板の「天麩羅先生」と書かれ、「教師が天麩羅蕎麦食って悪いのか」とムキになる。

いわゆる黒板事件は、学園ドラマでは、エイリアンとしての教師から人間として教師へ移行するための大事な儀式なのかもしれない。

まさむね

宮本武蔵の弱さ

宮本武蔵は若い頃、決闘にあけくれ、晩年に「五輪書」を著した。

決闘の動機の多くは、死と向き合った武士道というよりも、何とか生き延びようとする生命への執着だったような気がする。

吉岡三兄弟との戦い、巌流島の決闘、それらにおいて奇策として伝えられる態度にこそ、人間らしい武蔵の姿があった。

逆に言えば、かなり卑怯なのだ。武蔵って奴は。

しかし、晩年に決闘を封印し、少なくとも殺されることがなくなってから、自分の戦いを美化する。

その美化作業にこそ、俺は武蔵の弱さを感じるのであった。

まさむね