「流星の絆」ふるさとを喪失した兄弟の復讐物語

地域格差が言われて久しい。
それは都会VS地方という図式で語られる事が多い。

しかし、より問題なのは、地域内部の格差ではないかと、僕は思っている。
地域社会で一番力を持っているのは、いわゆる「ヨネスケの隣の晩御飯」において訪問対象となる人々だ。
彼らは、地域のコミュニティ(農協、漁協、商工会議所、氏子等)の重要な地位を占める既得権益者と言ってもいいだろう。
恐らく、小沢一郎とか、麻生太郎が日本全国を行脚したなんて言ってるけど、彼らが会っているのは、この隣の晩御飯組に所属する人々だけだろう。
公共事業とか、地域活性化事業等が行われる場合、利権は、この人達に一次的に落ちるような仕組みになっていると想像されるような人々だ。

次に地域に根付いているのが、いわゆる「木更津キャッツアイ」的なジモティ仲間のコミュニティに所属する人々だ。
彼らは、利権があるから地域にしがみ付くのではなく、仲間がいるから地域にとどまり続ける。
彼らにとっては東京は遠い存在だ。自分達の世界とは別の世界なのである。

そして、最後に、格差社会の最下層にいるのが、隣の晩御飯的なコミュニティからも、ジモティ的仲間からも阻害されたバラバラになった人々である。
彼らの所には決して小沢一郎も麻生太郎もヨネスケも訪れない。

恐らく、秋田の連続児童殺害事件で逮捕された畠山鈴香被告とか、秋葉原の通り魔事件の加藤智大容疑者は、こういった人々だったのではないか。
例えば、鈴香被告は、高校の頃、クラスの人々から痛恨のイジメにあっていたという。彼女の卒業文集に書かれていた同級生からのメッセージだ。

会ったら殺す!/顔をださないよーに!/もうこの秋田には帰ってくるなョ/秋田から永久追放/いつもの声で男ひっかけんなよ/山奥で一生過ごすんだ!/今までいじめられた分、強くなったべ 俺達にかんしゃしなさい。

こういった周りの目の中で、ひっそり生きるっていうのも辛いだろうな。
僕は、彼女が犯した罪とは別次元で、そういった生き方をせざるを得ない人々に、一定のシンパシィを感じてしまう。

さて、宮藤官九郎脚本の「流星の絆」が始まった。
これは殺人事件によって両親を殺された3人兄弟(二宮和也、錦戸亮、 戸田恵梨香)がその復讐をする物語だ。子供たちは両親とともに過ごした横須賀を離れ、その後、施設で育ち、現在は、吉祥寺に住んでいる。
「池袋ウエストゲートパーク」や「木更津キャッツアイ」においてジモティ仲間の青春を描いたクドカンの視線がその下の層に届いた作品と言っていいのだろうか?
ふるさと(地域社会)を喪失した兄弟を、彼がどのように描くのか、楽しみだ。

まさむね

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