虚実の狭間に生息していた三浦和義の死

ロス疑惑銃撃事件、共謀罪の容疑でロサンゼルスに移送された後、拘留中に三浦和義が自殺した。

しかし、この人、ロス銃撃事件(1981年)から、この自殺まで何が本当で何が嘘かという曖昧なエリア、すなわち虚実の狭間に居続けた存在だった。

彼は、TV取材に対して、積極的に顔を出し、子供の頃の石原裕次郎との浅からぬ因縁を自慢げに語ったり、不良で、少年院に7年間、お世話になった伝説をもったいぶって披露する。
また、日本での無罪が確定した後、くだらない万引きを繰り返す。
こういった三浦氏の、疑惑をさらに膨らますその胡散臭い振る舞いには、注目される事を運命付けられた者のみが持つ独特のセンスが感じられたものだ。

ちなみに、虚構と現実が最も華やかに交錯したあの80年代、テレビのワイドショー登場回数で群を抜いたのは、男性では三浦和義だったが、女性では圧倒的に松田聖子だった。
恐らく、三浦和義が虚実の狭間に存在した事によって、視聴者の興味を引き続けたのと同様に、松田聖子も似たようなポジションに存在したのだ。
あの泣きは本当だったのかどうかとか、涙が流れたかどうかみたいな(ブリッ子)論議があったり、結婚だの、出産(ママドル)だの、浮気だの、不倫だの、離婚だの、再婚(ビビビ婚)だの、そしてバッシングだの、ワイドショー視聴者は十分に彼女自身の生き方を消費したのである。

大雑把な言い方だが、90年代まで、僕たちも、芸能界的虚実の世界を余裕を持って楽しむセンスを持っていたような気がする。

実はこの虚実を股をかけたエンタテイメントって日本芸能の伝統なんだよね。
例えば、「源氏物語」だって、紫式部によって書かれた当初は登場人物が、実際にあった貴族社会の噂話が上手くアレンジして散りばめられていたそうだ。この書物がそれまでの物語とは一線を画す名作として評価されたのは、この虚実の扱いの絶妙さがあったんだよね。
また、近代の小説だって、例えば、三島由紀夫の「仮面の告白」なんて、どこまで本当?みたいなスキャンダラスな視線が、この作品をベストセラーに押し上げている。

しかし、最近、こういった虚実の世界を楽しむという”粋”な作法が、だんだん衰退してきているのではないか。
一方、虚と実を判然と分けないといけないみたいな倫理観が跋扈しているのだ。
大相撲の八百長論議等を聞いていても、協会側の余裕の無さ、視聴者側の野暮な振る舞いが、僕には気になる。

そんな中で、突然、三浦氏の自殺が報道された。

ロマンチックな言い方をするならば、虚実の狭間で生息し続けた三浦という生き物が、そんな時代風潮の中、白黒はっきりさせられる直前に自らの命を絶った。

泥沼でしか生きられないウナギ犬が陸にあげられて死んじゃった、みたいな哀れさを感じる。

まさむね

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