古舘伊知郎を大相撲の実況アナに

古舘伊知郎は「報道ステーション」で一体、誰に向けて語っているのだろうか。

強いメッセージというものは、語るべき相手が明確に見えていないと発する事が出来ないと思うのだが、現代の夜のニュース番組においては、その相手がそもそも存在しえないのではないだろうか。

確かに、20世紀の終わり頃、個性的なキャスターが個性的な語り口で画面のこちらに向かって語りかけるニューススタイルにリアリティを持てた時代があった事は誰しもが認めるところだろう。
ニュースステーションの久米宏、NHKニュース11の松平定知、NEWS23の筑紫哲也らの時代である。

しかし、インターネットが普及し、多くの人がネットから情報を収集し、そこで自分なりにその情報を批評し、発信できるような時代になるとアンカーと呼ばれる人々の、カメラに正対しての偉そうな意見の価値は激減してしまった。
それは同時に、マスメディアが対象とする、いわゆる「国民」とか「大衆」が霧散していく過程とも重なる。
1999年という年は将来、アンカー界の巨頭、久米宏と松平定知が降板し、2チャンネルが立ち上がった年として、記憶されていくに違いない。

それから、約10年。筑紫哲也が一線を退いた後、いわゆる個性的なキャスターは古舘伊知郎だけになってしまった。
NEWS23もNHKニュース10も、アンカーに、人畜無害な凡庸顔を置いている。

孤塁を任された古舘伊知郎が、気の毒に見えてしまうのは僕だけであろうか。

かつて、プロレス大好きだった僕にとって、古舘伊知郎は、最も尊敬すべきプロレスの語り部であった。
言うまでもないが、彼は、80年代、「ワールドプロレスリング」でのアナウンサーである。
「黒髪のロベスピエール」(前田日明)、「わがままな膝小僧」(高田伸彦)、「哀愁のオールバック」(寺西勇)等、彼が紡ぎだすレスラーに対する過剰なニックネームは秀逸であった。
彼はプロレスという虚実の皮膜の間に存在する見世物を、最大限にリアリティを持たせながら増幅させて伝える伝道師としては、最高の技術と情熱を持っていたのである。
極言するならば、アントニオ猪木の過激なプロレスは、古舘の過激なアナウンス無くしては成立しなかったのではないだろうか。

しかし、現在、しかめっ面をして、権力を批判する、あるいは嘆くという紋切り役を強いられる古舘伊知郎にかつての自由奔放な言葉の魔術師のイメージは無い。

恐らく、現在の彼を、本来の古舘伊知郎へと再生出来るとしたら、最近、スキャンダル続きの大相撲中継の実況アナウンサーへの大抜擢だけだろう。彼の古巣のプロレスは、彼がいない間にほぼ死滅しちゃったからね。

副音声でいいから...無理か。

まさむね

純愛一直線「イノセントラブ」は成功するか

先日(10月25日)、自ら結婚式を予約していたホテルに、その当日に放火した男が逮捕された。
容疑者の供述から、彼は、実は既婚者であり、それが判明するのを恐れての犯行であった事がわかった。

世の中、いろんな事件が起きるものだが、これまた、普通では考えられないとんでもない事件であった。

結婚式に招待されていた人の中に、男が既婚者だった事を知ってる人はいなかったのだろうか?
結婚当日、彼は何と言って現妻の家から出てきたのであろうか?
婚姻届はどうしようと思っていたんだろうか?
とりあえずその日には式が出来なかったとして、仕切り直しの式当日はどうしようと思っていたのだろうか?
この事件を知って、現妻とその親族、新妻とその親族、会社の同僚、友人達、ホテル関係者はどう思ったのだろうか?
いったい、彼はどんな性格だったのだろうか?

等々、疑問は尽きない。

しかし、実は僕は、彼の気持ちはわからなくはないのだ。
恐らく、彼の頭の中の願望の世界では、現妻とも新妻とも、それぞれに楽しく暮らす絵が描かれていたのだろう。
勿論、それは、現実生活としては不可能だ。有り得ない。
しかし、彼は願望と現実の間に挟まれ続けて、対応を遅らせ、問題を先送りし続けて、最後に、放火に至ってしまったのである。
そういう意味で、彼はあまりにも純情だったのかもしれない。

ところが、彼が持っているような、ある意味での内面の純情さ(ナイーブさ)は、ドラマの登場人物の行動のモティベーションとしてはアリなのだ。

そのいい例が、「イノセント・ラヴ」の主人公の佳音(堀北真希)のいわゆるイノセント(純情)な気持ちである。
例えば、前回も、一目惚れした殉也(北川 悠仁)のあとを付け回す佳音。
彼が落としたハンカチを届けに彼の家に行き、鍵が開いていたため、勝手に侵入してしまう。
しかも、以前に入ってはいけないと言われていた部屋にも忍び込もうとするのだ...

恐らく、彼女の心情とシンクロしてドラマを楽しんでいる人にとっては、彼女の行動は、違和感は無く見れるのだろう。
多くのドラマファンにとっては、そこに描かれている現実のリアリティよりも、心情のリアリティの方が重要だからだ。

しかし、この心情最優先主義という思想自体が、最近、徐々に、揺らいで来ているように思える。
いろんなニュースを見ていても、同情を惹こうとする振る舞いに対して、以前ほど、多くの人々の感情が揺り動かされなくなってきているように思われる。
例えば、ちょっと前に、高速道路を作るために、幼稚園のイモ掘りが中止されるというニュースがあったが、昔だったら、泣き叫ぶ子供の前では、行政への非難が集中しそうな場面も、逆に幼稚園側の不可解さの疑問の声の方が大きかったようだ。

このような、心情最優先主義の後退が、最近のドラマの視聴率の低迷の背景にあるのではないかと、僕には思われる。

この夏、「恋空」がTBSでドラマ化されたが、昨年、映画や小説で大ヒットした割りに思ったような数字を稼げなかった。
恐らく、「恋空」というコンテンツがテレビというマスメディアで流されて、国民的に共感を得られる程の”広い心情のリアリティ”が無いのだ。
それは、あくまで携帯サイト、映画館レベルの人々が共感出来るリアリティにすぎなかったのではないか。(恐らく、多くの大人達にとっては、「恋空」の登場人物の行動・心情は理解不能だったのではないか。)

さて、そんな状況を受けて、月9というメジャーステージで、心情最優先主義ドラマ「イノセント・ラヴ」がどれほど、世間に受け入れられていくか。
数字の動きが楽しみだ。

まさむね

民主党は小沢待受など配っている場合か

ozawa.gif民主党は、小沢さんの携帯着せ替えツールとか配っている場合じゃないと思う。

僕はこの待受け画像を見て、最近、体調が思わしくない小沢さんに不幸があったのかと思ってしまった。

一方、麻生首相が定額減税、地方への緊急給付金、住宅ローン減税、金融機能強化法修正等を含む追加経済対策を今月末に発表するそうだ。
それに伴い、解散/総選挙に関しては、年内という線は無くなった(マスコミの報道なのでいつも通りアテにならかいかもしれないけど。)。
麻生首相の、「政局より政策」「景気対策第一」という錦の御旗の前では、与党も野党も、マスコミも説得力のある反論が出来ないでいるのが現状である。

これは、どんどん、麻生首相の思うがままの状況になってきているのではないだろうか。
しかし、彼は運がいい。
世界同時金融不況、日本では異常な円高、株安といういわゆる”麻生さんのせいではない”大津波が来てくれたのだ。
これを機に、元々、バラマキ大好き体質だった麻生さんの経済政策がほとんど批判される事が無く、支持される状況になってきている。
誰も先の事なんてわからないのだから、出来る限りの対応をしようって話になりやすいく、だから、畢竟、バラマキに対して文句が言いにくくなってしまうのだ。

しかも、その財源は、元々民主党が自身の政策の財源として主張していた埋蔵金だという。
政府・自民党はずっと否定してきた埋蔵金だが、いつの間にか、その存在を前提にして話が進んでいるのだ。
また、民主党からの要求で一般財源化したガソリン税も使うという。道路の話はどうなったのか?

そうなってくると、これらの麻生首相の政策が実現した後、現在の民主党があてにしている財源が既に無くなっている可能性もある。
万が一、来年の総選挙で民主党が政権を取ったとしても、その政策が実現出来ないような状況を作ってしまおうという事なのか。
これは、民主党に使われてしまうなら、それより前に使っちゃおうという意地悪にも見える。
さすが筑豊の川筋者の血を引く麻生首相。喧嘩は上手だ。

それにしても、解散権というのは何と強い権利なのだろう。
それは、例えば、100M走において、特定のランナーにスターターの権利が与えられているようなものだ。
相手の緊張感が切れてきたりして、最も、スタートしてほしくなく、自分にとってはベストのタイミングで、ピストルが撃てるのだから、これは、与党にとって圧倒的に有利な権利なのだ。

マスメディアは、このピストルを撃つタイミングに関して、今まで外しまくってきた。10月26日、11月2日、11月9日、11月30日と。
恐らく、このマスコミの体たらくは、彼らが、過去の解散例のからの類推という永田町的常識という目でしか、状況を見られなくなってきている事の証拠であろう。
しかし、小泉さんの郵政解散以降、その常識は既に無くなっているのにだ。

また、一方、情けないのが民主党だ。
携帯着せ替えツールも情けないが、麻生首相のバー通いをいつまでも批判してみたり、インドの首相との会合をキャンセルしたり、党首討論から逃げたり、新テロ特措法の審議に関する方針を変えたり、創価学会問題を取り下げたり、マルチ問題をひきづったり...
なんともやっている事がヌルい。

もし、民主党にここで起死回生が打てるとしたら、(勿論、民主党も準備をしていると思うけど)誰しもが納得出来るような、しかも、自民党には出来ないような経済対策案を、即急に提示する事である。
しかも先に発表してしまったマニュフェストとの整合性も取らなくてはならない。

ここは、いかに解散に追い込むかという駆け引き力ではなく、政策力が試される局面だ。

まさむね

「スキャンダル」とdocomoの思惑

提供スポンサーの意向がドラマに残した痕跡を深読みするというのも、ドラマウォッチャーの楽しみの一つである。

今クールのドラマで言えば、TBSの日曜劇場「スキャンダル」はNTTdocomo提供番組だけあって、携帯電話が重要な場面で使われていて興味深い。

例えば、主人公の4人の女性が持っている携帯の使い方、色は、それぞれのキャラクタを具現化している。

バリバリのキャリアウーマンだが、一方で引き篭もりの子供を抱える悩み深い新藤たまき(桃井かおり)、携帯の色は闇を表す黒。家事をしながらストラップで首からさげた携帯をテブラモードにして仕事話をするシーンが、新しい女性のスタイルを示唆。
金銭に細かく世間体ばかり気にする財務官僚の夫からの支配にうんざりする河合ひとみ(長谷川京子)、携帯の色は夢を表すピンク。息の詰まる日常で唯一の楽しみは、“薔薇姫”の名前で妄想の生活を書き綴る携帯ブログのみ。
20歳年上の美容整形医の妻だが、夫の異常な嫉妬と束縛に耐えている鮫島真由子(吹石一恵)、携帯の色は派手さを表すデコ電。これはあくまで予想だが、夫が彼女の携帯を盗み見て騒動になる可能性大。
理想の主婦を演じながら、夫と娘からあまり相手にされない高柳貴子(鈴木京香)、携帯の色は貞操をあらわす白。2話の最後では夫の浮気場面という修羅場に遭遇するも、行方不明になった友人の白石理佐子(戸田菜穂)からの電話が...

来週からの新展開にも、重要な役割をはたしそうな携帯電話。今後も、目が離せない。

しかし、さらに深読みするならば、前回、貴子が行方不明になった理佐子(戸田菜穂)の旦那・久木田慶介(加藤虎ノ介)に貴子の旦那・高柳秀典(沢村一樹)が理佐子と付き合っていた事を知らされるのが、なんとKDDIが入っている泉ガーデンの目の前という設定に、ネガティブイメージポイントをライバル社の本社前に持ってく
るdocomoのスキャンダラスさなセンスを感じざるを得ない。

さらに言えば、この泉ガーデンは、かつて、あの永井荷風の屋敷があったところだ。
言うまでも無いが永井荷風は、耽美文学の巨匠であるが、スキャンダラスな猥褻裁判として争われた「四畳半襖の下張」の原作者としても有名ある。
そしてさらに荷風の先祖をたどっていくと、一族には、あの藤原道長に「浮かれ女」と称されたスキャンダラスな女流歌人・和泉式部、「伊勢物語」の主人公で、性的に放縦だった言われるスキャンダラスな美男、在原業平の名前も見える。

そんなこの土地を、このドラマ「スキャンダル」の重要なロケ地に選ぶとは、奥の深さはなかなかのものだ。

それじゃあ、次はソフトバンクがある汐留で何か不吉な事を起すか?でも、あそこは、日テレのお膝元だからなぁ。

最後に、新藤たまきの夫・哲夫(石原良純)が部屋を片付ける時に、最後まで黄色いタウンページが置いてあった。docomoではないが、NTTさすがしぶとい。

まさむね

橋下と東国原の発言が一線を越えた

最近、政治家の発言が「ある一線を越えたな」と思わせるようねシーンを度々テレビで目撃する。

例えば、今月の23日、財政再建を進める橋下大阪知事と私学助成削減に反対する現役私立高校生との意見交換会があってその時の映像が広く報道された。
それぞれの窮状を涙を交えながら訴える高校生達。一人の女子高校生が言う。
「ちゃんと税金取っているなら、教育、医療、福祉に使うべきです。アメリカ軍とかに使ってる金の余裕があるのなら、ちゃんとこっち(教育)に金を回すべきです」
それに対して、橋下知事は「じゃあ、あなたが政治家になってそういう活動をやってください」とやり返した。

市民からの陳情に対して、「あなたが政治家になってやってください」と返した政治家の発言というのは今まであったのだろうか。

また、先日、「TVタックル」でこんな場面があった。
「800兆円もの借金を作ったのは一体、誰の責任なんだよ。」と叫ぶ大竹まこと。
それに対して、東国原宮崎県知事が応える。
「それは、そういう政策をする政治家を選んだ国民の責任です。だから800兆円の借金は国民のものです。」
こういう言い方をする評論家は今まで見た事はあった。しかし、政治家自らが、このような発言をしたのは始めて聞いた。

確かに、橋下さんも東国原さんも、特定の団体からではなく、圧倒的な選挙民からの支持を背景に知事になった2人だ。だから、思い切った事も言えるのだろう。
しかし、一昔前だったら「それを言っちゃあ お終いよ。」((C)渥美清)的な発言として相当反発を受けたに違いない。
しかし、問題発言とされるような気配はそれほど無いように思われる。

今までの政治家は常に弱者に対して、同情するという姿勢をとり続けてきた。
しかし、それに対して、僕たちは、どこか欺瞞の匂いを感じてきたことも確かだ。
だから、こういった正論を堂々と主張するという、新しい感覚の発言は歓迎すべきことなのかもしれない。
言いたい事を言い合える土壌っていうのが本来の民主主義の前提だからね。

でも、それは同時に、”同情への訴えかけ”という、今まで弱者(とされてきた人々)の武器をも無化させかねないって事に関してどうなんだろうか。
恐らく、江戸時代の昔から、庶民は”同情への訴えかけ”を一つの手段として権力側に対して、要求を突きつけてきた。
それは、時に、作法(手続き)としての陳情だったと思うけど、物事を決めていく一つのプロセスとして、とっても日本的に根付いていたんじゃないかな。
下の者がお上に何かを訴えるときは”涙流して”するっていう作法、それを見てお上は情状酌量して、温情を示して納得点を見つけるっていう作法ね。

ところが、この作法が段々崩れてきたんだと思う。恐らく、その一例が、橋下さんや東国原さんの発言の背景にあるじゃないかな。

これがいい事なのか、悪い事なのか、簡単には言えないが、政治家の発言は今後ますますこの流れに沿ったものとなっていく事だけは予想できる。

まさむね

田舎へ泊まろう ダンカンと少年に感動

今日の「田舎に泊まろう」はよかったな。
宿泊人はダンカンだ。
場所は本州、北の最果ての地、青森の漁村である。

いつもながら車も人も居ない道路を一人歩いていくダンカン。
街の子供達は、遠目で彼をみてはしゃいでいる。
その中で一人だけ、ダンカンに付いて来る子供がいた。遼君だ。
勿論、ダンカンの使命はお泊り場所を探す事。
遼君は、ダンカンの代わりに、友達の家に交渉するが、上手くいかない。
だって、遼君はまだ小学2年なのだ。

そして、遼君は自分の家にダンカンを連れて行く。
魚問屋を営む遼君の家はこの土地では有数の立派な造りだった。
お母さんに、ダンカンの宿泊を頼む遼君だが、お父さん不在のため即決にはいたらない。
その後、お父さんが帰宅。
「汚いところですが、よかったらどうぞ」とお父さんも了解。
喜ぶ遼君と弟。ダンカンに飛びつく。

その夜は、遼君兄弟と一緒に風呂に入り、はしゃぐダンカン。
晩飯は、親戚も集まって大宴会に。海の幸に舌鼓を打つダンカンでした。

しかし、ここで問題が。
遼君がまだ宿題をやっていなかった事が発覚。ヤバイって顔をする遼君。
次の日の朝5:30に起きて、ダンカンも手伝って宿題をやる事になる。

そして次の朝、遼君は、宿題を済ませて、学校に。
ただ、このままダンカンとの別れが名残惜しい遼君。
ダンカンは後で遼君の通っている小学校に挨拶に行くと約束。

そして、魚屋の生簀を掃除した後、遼君の学校に寄るダンカン。
教室の扉をあけて入っていくダンカン、みんな大騒ぎになる。
しかし、遼君だけは、ダンカンの顔を見られない。
思わず机に顔を伏せてしまう遼君だった。
「遼君が笑顔にならなきゃ帰れないよ。」とダンカン。

しかし、ダンカンも長居は出来ない。
校庭に出るダンカンを見送る生徒達。その中で必死に涙をこらえながら「さようなら」と叫ぶ遼君。

感動の名場面だった。

恋人や家族が亡くなるような映画やドラマは今まで散々見てきた。
でも、どんな映画やドラマでも、これほど人間の心情の機微が、表現された作品は今まで見た事がない。
どんな名優も恐らく、今日のダンカンと遼君にはかなわないだろう。

たった一晩泊まった、行きずりの見ず知らずの人との別れがこんなに感動させるとは。

今日の「田舎に泊まろう」は歴史に残る番組だった。と僕は思う。

まさむね

桜の欺瞞性と太田光夫妻

「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書 太田光、中沢新一)の中に太田光が桜に関する小文を書いている。

今、手元にその本が無いので、記憶で書かせてもらうと、この小文の中に彼の妻が、花見で桜を見た後に気分が悪くなって、精神の安定を失ってしまった時の事を書いている。
彼女は、その時、花屋から薔薇の花を買ってきて、部屋の中に飾り、自分の精神を落ち着かせたというのだ。

太田光がその出来事を分析して言う。
桜は、見る人に狂気と毒を想起させる。しかし、自らがそういった狂気と毒を内包していることを隠している。
一方、薔薇は自らの危険性を棘という形で表現している。彼の妻はその薔薇の正直さに安心して、精神が落ち着いたのではないかと。

さらに、彼は、その桜のあり方を、憲法九条に、日本のあり方に、そして、自分自身に重ね合わせる。
自分の中のもう一人の自分の狂気と毒を常に意識し続ける太田光は、全ての物事を、自分の根っからのテーマに直結させて考える。
いや、彼は自分の意志で考えているというよりも、何物かによって考えさせられているといった方が正確なのかもしれない。

そういう時の彼は、正直者だ。
そして正直であると言うことは、表現者にとって最も大事なことだと僕は思う。

さて、桜というイメージに関して、僕も前々からいろんな事を考えている。

古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であること。
源氏物語では桜は凶兆の花であること。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であったこと。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であったこと。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であったこと。

そして、近代国学の祖・本居宣長において、桜は、大和心の、そしてその後の勤皇家によって、武士道の象徴となっていく。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)

しかし、実は、リアルな死や闘いは。桜で象徴されるような可憐なものとは程遠い。
武士道は、死ぬためのイデオロギーではなく、本来は何としても生き延びるための醜い程、姑息なノウハウだったのではないか。
しかし、明治以降、桜はさらに国家主義と結びついて純化していくのだ。

ちなみに、明治国家主義を支えた様々なシステムには、桜が紋所として徴されている。
陸軍、海軍、学習院、靖国神社、そして大相撲...(あんまり関係ないが、狩野英孝の生家の桜田神社も。)

この桜の欺瞞性に対して、太田光、そして、彼の妻は激しく反応した。

やっぱりあの夫婦の感性は天才的だ。

まさむね

若者は高齢者世代をどう見ているのか

現代の若者世代(30代以下)は、高齢者世代に対してどういった思いを抱いているのだろうか。

具体的に言えば、例えば、後期高齢者医療制度に関して、それを若者がどのように支持し、あるいは、反発しているのかというような調査をしてもらえば、若い世代の考えがわかるのだが、寡聞にしてそのような調査が今まであったかどうかを、僕は知らない。
この制度に関するニュースの時に、カメラはいつも巣鴨に出動するのだが、僕は、渋谷や秋葉原での、人々の反応を見たかったのだ。実は。

勿論、社会保障制度に関して、一番、繊細にケアしなければならないのは、その制度が世代間対立を助長させないようにする事だという厚労省的注意事項は理解できる。
が、逆に、それゆえに、後期高齢者医療制度に関して若者がどう思っているのかを知りたいのだ。

例えば、この制度の天引きや、線引き(75歳で別保険に加入するという)に関して、高齢者達は一斉に反発したが、若い世代にとってみれば、いずれ払わなきゃいけないものが自動的に天引きされる事に関して、何で反発が起きるのかわからないだろう。
また、線引きに関して言えば、世のシステムの多くは、年齢での区切りをつけている。
就学、結婚、投票、飲酒、年金支払、年金受取...みんなそうだ。それは社会のルールとして別に不合理なものではない。
なのに、高齢者は、何故、この医療制度に対してだけ、大騒ぎするのか、若者には、理解出来ないのではないだろうか。
そのあたりの事を僕は確かめたいのだ。ただ、メディアは僕の疑問を華麗にスルーする。

一方、この制度に対する反発に関して言えば、これはあくまで僕の想像なのだが、高齢者は、制度の変更内容に関して怒ったのではないと思う。制度を勝手に変えられた事に怒ったのだ。
「この年になったのだから、もう何も考えなくても、自分達は逃げ切れる。」と思っていたら、現制度をいじくられた。その事に関する不安感、拒絶感が強いだけだと思う。

だから、本当だったら、自民党がすべきだったのは、制度を説明する事ではなく、ましてや、制度をジタバタ変更する事ではなく、ただ、ジッと待つ事だったように思う。
民主党はこの制度の廃止をマニュフェストに掲げているが、恐らく高齢者達は、制度をまた戻される方が不安だろう。民主党の政策はタイミングを完全に失したと僕は思う。

話を戻す。
現代の若者世代は、高齢者世代に対してどういった思いを抱いているのだろうか。

「戦後、物の無い時代から頑張って、今の日本を創ってくれた事に心から感謝している」って思っているのだろうか。
あるいは、「こんな住み難い日本にしやがって。800兆円も借金残しやがって。問題だらけじゃないか。」って思っているのだろうか。

本当の事を知りたい、そんな僕って邪悪かなぁ?

まさむね

太田光と森のくまさん

「爆笑問題のニッポンの教養」はそのタイトルに違わない、まさしく、真正面からの教養番組だと僕は思う。

逆に、最近、雑学とか常識とかを扱うクイズ番組が結構あるけど、こういう番組は決して教養番組ではない。
クイズ番組で優勝したとしても、それは、教養のある人ではなく、知識のある人に過ぎないのだ。

では、教養とは何か。
それは、個人の人格とは切り離せない。
その人が宿命として持っているテーマ(問題意識)と関連付いた知識、思考、思想の事、それを教養と僕は呼びたい。
ただ、多くの人は、自分のテーマなんて意識しないし、忘れてしまっている。
恐らく、ほんの一握りの人だけが、幸か不幸か、自分のテーマに気づく事が出来るのだ。

僕は、太田光こそ、特権的にこのテーマを自覚出来ている人だと思っている。
だから、彼が「爆笑問題のニッポンの教養」において、発する言葉には教養が溢れている。
それでは、太田光のテーマとは何なのか。

恐らく、自分の中のもう一人の自分、と、そのもう一人の自分の怪物性をどうしたらいいかってことだ。
例えば、「爆笑問題のニッポンの教養」で、政治学者の姜尚中氏、日本思想史研究家の子安宣邦氏等との言葉のやりとりの中、太田光は身振り手振りでその事を説明している。
特に秋葉原通り魔事件の犯人・加藤智大を説明する際に、こういう言い方をしていた。(正確ではないんだけど、だいたいこんな感じで言ってたと記憶している。)

人間というものは、どんな人間でも、演出する自分と演出される自分から成っている。
自分(太田光)の例で言うならば、芸人としての自分と、その自分をちょっと離れたところで演出する自分がいる。
でも、加藤智大の場合、いつの間にか、演出する自分自身が怪物になってしまっていた。
それなのに、誰もその事を止められなかった。そこに問題があったと...

恐らく、太田光は、自分の中の2人の間のバランスにいつも繊細にならざるを得ないほど、危うい人格だって事を自覚しているのだ。
例えば、ネットにおける悪意に満ちた書き込みを嫌悪する彼は、その書き込みに、2人の自分が一致してしまったときの人間のグロテスクさを見ているのではないか。
また、彼の芸人としての過剰なまでのおどけた仕草は、2人の自分との距離を安全に保つためのポーズのようにも見える。

実は、太田光について考えるとき、そして同時に彼のテーマである2人の自分について考えるとき、いつも頭の中で流れる歌がある。
それは「森のくまさん」である。

ある日森の中 くまさんに 出会った
花咲く森の道 くまさんに 出会った
くまさんの 言うことにゃ お嬢さん お逃げなさい
スタコラ サッササノサ スタコラ サッササノサ
ところが くまさんが あとから 付いてくる
トコトコ トコトコと トコトコ トコトコと
お嬢さん お待ちなさい ちょっと 落とし物
白い貝がらの 小さな イヤリング
あら くまさん ありがとう お礼に 歌いましょう
ラララ ララララ ラララ ララララ

僕はこう思う。
この森のくまさんは、普段はとても優しい「くまさん」なのだが、ある瞬間、凶暴な怪物になる存在であるという事を自覚している。
しかし、そのタイミングがいつ訪れるのか彼自身にもわからない。
だから、くまさんはお嬢さんに向かって、とりあえず「お逃げなさい」と言うのだ。

そして、このくまさんは僕の中では太田光とぴったりと重なる。

だから彼は常にビクビクしながら生きているのだ。
そして、時に過度に攻撃的になったりするのだ。
あるいは、おどけた演技をしながら生きているのだ。

まさむね

能とプロレスの明日

能に関する対談本(「能・狂言なんでも質問箱」)で興味深い一節があった。

「道成寺」における、落ちてくる鐘に入る場面の稽古に関して...

葛西(聞き手):現代の言葉で言うリハーサル、何回か出来るんですか。
出雲(シテ方喜多流):1回ぐらいです。だけど、鐘には入りません。
葛西:入らないで。どうやって稽古するんですか。
出雲:申合せっていうのが二三日前にあるんですが、そこで鐘に向かっていって、さっきみたいにやるんです。しかし、申合せで、本来の位置を少しずらして、同じタイミングで、こっちはドン、ドンとやって、ピョンと飛び上がるときに、向こうで鐘をドーンと落とす。
葛西:つまり別々に稽古して、本番一回きりなんですか。
出雲:はい。
山崎(シテ方喜多流):本番で初めて入るんですからね。

ここで面白いのは、能の稽古というのは、歌舞伎や他の演劇のようにいわゆるゲネプロ(本番と同じ通し稽古)はしないという事だ。
恐らく、本番において初めて合わせる事によって、その時に生れる緊張感を大事にするがゆえの伝統なんだと思う。

とここで思い出すのは、これってプロレスと同じではないかということ。
プロレスにおいては、打合せはあるが、それはあくまで段取りである。
一方、試合が名勝負になるか、駄作になるかは、現場の空気によって決まる。それはレスラーと観客の感性が作るものである。
馬場、猪木、長州、天龍、大仁田、武藤、三沢等、歴代の名レスラーはいずれも感性に優れている。
今後、日本のプロレス界が復活するためには、過去の名レスラーと同等の感性を持ったレスラーの誕生と、その感性と感応出来るようなファンの復活を待つしかないだろう。

一方、明日の”能”を考えると、プロレスと同様の問題があるような気がする。

演者の技能と感性のレベルを保つためには、彼らの修行が大事であると同時に、それを見る観客の目を維持していかなくてはならないと思うのだが、そのための種蒔きはしているのだろうか。僕にはよくわからない。
いずれにしても、伝統を守るということは、並大抵の事ではない。

まさむね