創価学会は民族である。 ~『平成宗教20年史』書評~

要するに、創価学会の会員にとって、自分達の人間関係を維持するために、信仰という要素はほとんど必要とされなくなった。集まりがあれば、一緒に南無妙法蓮華教と唱えるかもしれないが、それは、習慣にすぎなくなっている。座談会では、日蓮の仏法にもとづく特殊な仏教用語が用いられるにしても、それは仲間内で使われる隠語のようなものにすぎない。
こうした創価学会の実態を見ていると、私は次第に、創価学会というのは必ずしも宗教組織ではないのではないかと考えるようになってきた。それは、むしろ「民族」に近いものなのではないか。最近では、そのようにさえ考えている。
-「平成宗教20年史」(島田裕巳)P218-

戦後、多くの若者が都会に出てきた。
いわゆる集団就職というやつだ。
彼らは、それまで、彼らを育んできた故郷、先祖、家族といった共同体から引き剥がされ、個々人がバラバラな存在として、都会に投げ出されたわけである。
そんな彼らの心のよりどころとして、爆発的に会員を増やしていったのが創価学会だ。
    ◆
その時代、明らかに創価学会は一定の役割があった。
そして、時に周囲とぶつかりながら、時に排他的と言われながらも、政治勢力として公明党を進歩発展させ、自分達の権利も社会に認めさせようと努力し、独自の発展を遂げてきた。
そして、そのようにして時を経て、現代は、その時代に創価学会に入会した人々の二世、三世の時代になっている。
彼らは生れついての学会員である。
周囲も学会の人が多い。
その教えに沿って教育される機会も多い。
したがって、その世界観、人間観、日本観なども、教えに沿って形成されていく。
さらに、人間関係も学会を中心にして形成される。
住環境も、学校も、仕事も、結婚もその創価学会の世界の内部で完結して行われるようになる。

彼らにとっては、逆に、創価学会に背を向ける事自体が不自然なことだし、考えられないことなのだ。
勿論、その事自体、他の人が文句を言う筋合いの問題ではないし、尊重されるべきものだと思うが、上記の状態を踏まえて、敢えて極論するならば、日本にあって、日本ではない存在、それが創価学会という存在なのである。
冒頭でも記したように、本書の著者である島田裕巳氏は、このような状況を指して、創価学会は「民族」であると述べているのだ。
    ◆
おそらく、2CHなどで、創価学会が必要以上に攻撃されるのは、多くの人々にとって創価学会という存在には、他民族の匂いがするからなのであろう。
それは、例えば、池袋にチャイナタウンが出来るというニュースに対して、漠然とでも不快感を感じてしまう感性と同根の嗅覚なのだと思う。
その嗅覚自体が、いい悪いという事をここで判断する力も意志も私にはないが、少なくとも本書が「民族としての創価学会」という新しい観点をもたらしてくれたという事だけを指摘しておきたかったのである。
    ◆
バブル経済からの時代からバブル崩壊直後に流行した宗教に近い現象として、自己啓発セミナーというものがあった。
-「平成宗教20年史」(島田裕巳)P50-

本書が面白い点は、平成の時代を概観し、いわゆる宗教だけではなく、少しでも宗教的と思われるような出来事(例えば、サイババ、酒鬼薔薇、ヤマギシ会、靖国神社、スピリチュアルブーム等)も扱っているということだ。
さらに、興味深いのは、昭和の終わり頃から出現した「自分探し」をする若者の答えを提供した動きの一つとして自己啓発セミナーをも視野に入れている点だ。

僕は、この自己啓発セミナー系のビジネスが現在でも盛況なのかどうは知らないが、不況の中、自己啓発セミナー受講のような高額ビジネスは厳しくなっていくと思う。しかし、一方で、人々が潜在的に持っている「自分探し」の終着駅探しの欲求はなくなるわけではない。必ず残る。
そして、その欲求は、別の方向に流れていくに違いないと思われる。

宗教以外のもので、その先にあるのは何なのだろうか。
おそらく、最近、最もブレイクしている勝間和代さんのビジネス本などもその一つではないかと僕は密かに思っている。
自著の中で、「勝間本からのご利益」などと言っている”信者”の言葉を堂々と載せているのを見ると、そんな匂いを感じなくもないのだ。平成宗教20年史の次に来る21年目、すなわち来年、勝間ブームの行く末にちょっと興味がある。

まさむね

小泉・竹中の経済政策の間違いとは? ~『間違いだらけの経済政策』書評~

経済政策のどこが間違っていたのか。
著者の榊原英資は、基本的に小泉・竹中路線批判の立場でこの本を書いている。

そして、その間違いの根本原因は、政府のマクロ経済分析とそれを基に立案、実行された政策にあるという。
具体的に言えば、例えば、長すぎた日銀のゼロ金利政策のことだ。
時期は、表面的にはイザナギ以来の好景気と言われていた頃のことである。
しかし、一方では、その時期、デフレ状態も続いていた。
    ◆
そのデフレに対して、多くの経済学者は、インフレターゲットという言葉を使い、克服すべきものとして扱っていた。
確かに、その頃「景気はいいといいながら、給料は全く上がらない。景気は大企業にだけ恩恵を与えている」というような議論が喧しかった記憶がある。
しかし、そのデフレは決して悪質ものではなかったと榊原氏は言う。
日本企業が主導した、中国をはじめとする東アジア圏との経済統合の結果のデフレで、需要不足から来るデフレではなかったからだ。

しかし、その時点で、経済行政の中枢にいた竹中氏はデフレ=悪の図式から出ることは出来なかった。
マクロ分析にとらわれていたからだ。
そして、そこから演繹された政策が、政府が日銀に圧力をかけた末のゼロ金利政策である。

そして、それが、円安バブル、円キャリートレードを誘発。
円がアメリカに流れ、今日の金融恐慌の遠因を作ってしまったと榊原氏は言う。。
さらにその長すぎた低金利政策のために、本当に低金利政策が必要な現状(不況)に対する対応策の幅が狭くなってしまったということなのだ。
本書では、これら一連の状況に対する誤った分析とそこから導き出された一連の誤った政策に関して、僕のような門外漢にも、ある程度理解できるような言葉で書き下している。
    ◆
ご存知の通り、榊原氏は民主党のブレーンである。
民主党が政権奪取した時には、財務大臣候補とも言われている。
したがって、民主党の目玉政策である農家への個別支援なども、資源確保の一環としてサポートする立場のようだが、これを恒久に続ける気でいるのだろうか。
小泉・竹中改革によって、壊されてしまった地方における従来の談合コミュニティにかわって、地方をどのように立ち直らせていくのかということも考え合わせながら大局的な微調整をしていく必要があると思われる。
資源エネルギーが希少品化と、ハイテク商品の廉価商品化、そして世界経済のグローバル化という必然の流れを踏まえた上で、地方社会をどうして行くべきかという中長期的なビジョンとともに、農業政策をうかがいたいものである。

結局、榊原氏はこの本の中で、社会構造がどんどん変化している時代におけるミクロ政策と、それを有機的に統合するポピュリズムに陥らないような国家戦略の必要さを説いているのだ。
その観点から言えば、例えば、消費者庁設置などという「必要だけど、緊急ではない」政策の据え置きなどの政策のプライオリティ付けは絶対必要であると主張する。
そして、逆に、エネルギー政策を国家戦略として推進するエネルギー省の設置を提言している。
おそらく、榊原氏によれば、定額給付金などはさらにプライオリティの低い(お金があればやってもいいけど、やらなくてもいい位な)政策として断ぜられることだろう。
中長期的戦略とは全く関係の無いことだからだ。

かつて、90年代の日本の行政に関して田原総一朗は「頭の無い鯨」という言葉で評したが、その状態は、さらに悲惨になって現代でも続いてしまっているではないか。

しかし、それにしても、国民の信任を得た強力で戦略的な政権の誕生はいつ実現するのであろうか。
それが次の民主党政権にになるのか、政権再編された新しい政権になるのかわからないが、一刻も猶予がならないことだけは確かなようだ。

まさむね

勝間和代は宗教か? ~『読書進化論』書評~

知的であるということには2つのタイプがあるように思う。

一つは、『読書進化論』の著者・勝間和代氏のような、知性を前向きに活用できるタイプ。
そして、もう一つは『悩む力』の著者・姜尚中氏のように、内向的に思考を掘り下げていけるタイプだ。

多くの人は両極の間を行ったりきたりする。
僕はというと、知的かどうかは別にして、タイプとしては、基本的に姜的なタイプだが、一方で限りなく勝間的なものに憧れている。
それは、矛盾しているのだが、時に、姜的な世界に対してはその暗さを揶揄してみたりするものの、勝間的な世界の明るさを軽んじてみたくもなるのだ。

では、この勝間的明るさとはいったい何なんであろうか。
『読書進化論』のなかで彼女はこう語っている。読書に関してのところだが、典型的なところを抜き出してみよう。

よく「本を読め、本を読め」といいますが、「読んだ本の成果は仕事や生活で活用しなければならない」と、私はずっと思ってきました。(『読書進化論』P22)
繰り返しになりますが、本は全部を隅々まで、読む必要は無いのです。ウェブを頭から全部読む人はいないのと同じように、本の全体像の中から、好きなところだけ拾い読みしていけばいいのです。(同書P121)
(本の)著者たちは、私たちが自分の人生のミッションを達成するための、よりよい人生経験、楽しさ、知的好奇心、豊かさ、考え方、教養、興味、哲学、そのようなさまざまな刺激を本を通じて与えてくれるのです。(同書P231)

自分の人生に活用するために本を読むこと。これは、全く正しい姿勢だ。反論の余地も無い。

しかし、僕のように長年、そのようには本を読めてこなかったタイプの人間にとって、それは、1%の違和感を感じざるを得ないのも事実だ。
僕は買った本の9割以上は全部読む。途中で、自分の関心外の本だとわかっても一応、全部読む。だから結果として無駄の多い本読みになってしまう。
それは、意地みたいなものだ。
しかし、そうやって苦労して頭を通過させた本の中の言葉達は、フッとした瞬間に、頭の中で氾濫を起す。
それが、1日後なのか、1ヶ月後なのか、1年後なのか、それはわからないのだが、僕にとっては、それが面白いのだ。しかし、それが実生活で役立つものかといえば、100%あり得ない。
僕は、ナンパしてつきあってみて、「あ、違った」と思ったときに、「お友だちになりましょう」とさよならする、のと同じ(同書P82)ようには、本が読めない性分なのだ。
ていうか、現実の人間に対してもナンパしてつきあってみて、「あ、違った」と思ったときに、「お友だちになりましょう」とさよならする事自体もなかなか出来ない性分なのである。

もしかしたら、僕は、勝間氏の拠ってたつ価値観に、どうしても同調出来ないのかもしれない。
勝間氏が言うところの、人生のミッションというような考え方に馴染めないのかもしれない。

おそらく、彼女の発想の起源は、アメリカ発祥のニューソート思想(気持ちを前向きに持つ事によって運命が開けるという考え方)が、生長の家等の新宗教や、自己啓発セミナー等に乗って入ってきたものに近いのではないか。
しかし、この考え方は意識しようとしまいと、現代日本人の正しいとされる発想の根本に根付いている考え方だと僕は思っている。

例えば、今年の春に大ヒットしたTBS「ROOKIES」というヤンキー系野球ドラマがあった。
そこにおいて、最後、川藤先生(佐藤隆太)がナインにこう叫ぶ。

臆病でためらいがちな人間にとっては一切が不可能だ。
なぜなら、一切が不可能のように見えてしまうからだ。
あきらめて振ったバットには絶対、ボールはあたってくれない。
だが、自信を持って振れば目をつぶってだってあたることがある。
お前たちが努力して、手にした最大の宝、可能性だ。

この前向きさは、おそらく、多くの現代日本人の心にスッと入ってくる強いメッセージ性を持っている。
そして、同時に、これは、勝間氏の価値観と通底しているように思える。
さらに、これは、僕にとって、宗教の世界とも、深い親和性があるように思えるのだ。

この著書の中でも、いわゆる勝間信者からの報告が掲載されている。いくつか抜粋してみよう。

《蓮》さん
『時間』の本を契機に10年やめられなかった煙草をやめられました!(中略)日々の小さな努力を大切にできるようになったのが、私にとって一番の
ご利益です。(同書P107)
《あんちゃん》さん
私も「
ご利益体験」を挙げれば数え切れませんが、みなさんが多く書かれていないようなものを紹介させていただきます。(同書P114)
会社員《とらぬ狸》さん(47歳)の話
勝間さんの本は、ほぼ全部読ませていただいております。(中略)また、「自分にとって大切だと思うことには出費を惜しまない!」という発想の転換を得て、興味を持った本は迷わず買う/出張時の宿泊ホテルをランクアップするといった行動に結びつき、大変な
ご利益を得ております。

彼、彼女達が口にする”ご利益“という言い方。
これはまさしく、勝間氏の発想自体は優れて知性的だが、受け取るほうは宗教として受容している、という皮肉を表しているようにも思える。

でもそれが悪い事なの?って言えば、全くそんな事は無い。
先ほどの読書論と同様、これは、全く正しい姿勢だ。反論の余地も無い。それはわかっている。

しかし、もしも、僕が勝間氏の考えを受容したとしても、体のどこかで姜的なものが、時々、違和感の氾濫を起すような予感がするのだ。

だから、どうしても勝間本に関しては、距離を置いてしまう。
ただ、一方で、その氾濫を逆に『悩む力』と肯定する気にもなれない僕もいる。
なかなか簡単にいかないのである。

「わかっちゃいるけど止められない」とはスーダラ節の一節だが、僕は49歳になっていまだにその言葉から出れていない。

まさむね

中山康樹はターザン山本だ ~『ビートルズの謎』書評~


つまり『ホワイト・アルバム』の限定番号は”限定”でも”通し”でもなく、たんなる”数字”あるいは”番号”にすぎなかった。したがって同じ番号が何枚もしくは何十枚と存在する。
そしてそのことは、質問されれば真相を知っている人間は答えたかもしれないが、誰もそのようなことを質問しなかった。誰もがその番号を「自分だけの番号」と信じて疑わなかった。(中略)
より正確にいえば「自分が持っている『ホワイト・アルバム』は自分だけの番号と思い込んでいた。その意味ではビートルもファンも同じ立場だった。

-「ビートルズの謎」(講談社現代新書)中山康樹 P164-

この本を読むまで、僕も『ホワイト・アルバム』のシリアル番号がユニークだと思い込んでいた。
ちなみに、僕が所有しているLP(70年代中盤に購入)のシリアル番号は、A190657だったが、この番号をパスワードに使ったこともあった。
CD発売時に、シリアル番号がついていないというだけで、これは本当の『ホワイト・アルバム』ではないと、勝手に維持を張って買い控えた。

そんな僕達の気持ちは一体、何だったのだろうか。

おそらく、目から鱗が落ちるというのはこういうことを言うのだろう。
ちょっと考えれば分かることだが、全世界に無数に有るプレス工場のシリアル番号を、長年に渡って管理し続けるなんてこと出来るわけがないではないか。

その通りだ。しかし、魔法とはこのような事をいうのかもしれない。
それは解けて初めて嘘だとわかる普通の事実のことなのである。また一つ、ビートルズに教わった。

しかし、さらに面白いのはその魔法にビートルズ自身がかかっていた(あるいはまだかかっている)という皮肉だ。

前著の「これがビートルズだ」において中山康樹氏はこのように述べる。

ビートルズに関する歴史や数々のエピソードもまた、その音楽に匹敵するくらいおもしろい。「事実は小説より奇なり」というが、ビートルズの物語は事前に誰かが書いたかのようにうまくできている。フィクションを超えたノンフィクションがあるとしたら、ビートルズの物語がそれだ。
(中略)
しかもビートルズの物語はミステリー仕立てときている。あらゆる場面に”謎”が用意されている。


-「これがビートルズだ」(講談社現代新書)中山康樹 P9-

 
確かにその通りだ。だから、ビートルズは奇跡なのだ。

この秋『真実のビートルズ・サウンド』(川瀬泰雄)と、この『ビートルズの謎』と立て続けに読みやすいビートルズ新書が発売された。
川瀬氏の著作がビートルズのサウンドを顕微鏡で見るがごとき労作であるとしたら、この『ビートルズの謎』はビートルズを、その背景までをも視野に入れて遠目で眺めた風景画のようなものだ。
それゆえに、この本を読んでも、ビートルズの音楽を聴くための助けにはならない。

しかし、当代、ビートルズの語り部としての中山康樹氏の存在は、いい悪いは別にして、一つのスタンダードだと思う。
かつてのプロレス界におけるターザン山本氏と同じで、一方で強烈な信者を生み出すが、一方で、多くのアンチを生み出してしまうのが中山氏の文章である。
僕も、彼の慧眼に何度もうなずかされたが、一方で、その独善的な価値観に腹も立てさせられた。
しかし、今は、中山氏のような才能によって、結果的により多くの人がビートルズに触れる機会が増えればいいと思うようになった。
だから、ビートルズを知らない世代の人々にも本書を読んでもらいたい。

この本にはビートルズという稀代のスーパースターとそれを許容した混沌とした60年代の空気の一端が読み取れる。
冒頭のエピソードに戻ると、販売されたアルバムに全てユニークな番号を付けようなどという途方もない企画(夢)を、平気な顔をしてやろうとした4人の”馬鹿”がいたという事だけでも、この閉塞感の強い平成の若者達に知ってもらいたいのだ。

まさむね

姜尚中の魅力は低音だけではない ~『悩む力』書評~

私は青春とは、無垢なまでにものごとの意味を問う事だと思います。
それが自分にとって役に立つものであろうとなかろうと、社会にとって益のあるものであろうとかなろうと、「知りたい」という、自分の内側から湧いてくる渇望のようなものに素直にしたがうことではないかと思うのです。
-「悩む力」(集英社新書)姜尚中 P87-

この本は、いわゆる力本(「老人力」とか、「鈍感力」とかの)の一つにカテゴライズされるかもしれないが、真正面からの、正々堂々とした青春論である。40万部を越えるベストセラーとなったのもうなずける。
とにかくわかりやすいのだ。そして、姜尚中の魅力は低音だけではないことを教えてくれる。

思えば、僕もいわゆる青春時代に、「おおいに悩め」「解決するよりも、問題を見つける事が大事だ」「考え抜けば何かが見つかる」と教授・先生達に言われたものだ。
悩む事が青春と特権だと言わんばかりの言動という意味では、その当時(70年代~80年代初頭)の教授・先生が学生にのたまわった言葉と、この「悩む力」とは全く同一地平にある。
ということは、もしかしたら、最近の教授・先生達はこういった言葉を学生に伝えなくなったのか。だから、逆にこの本が受け入れられたのだろうか。

しかし、本当に悩む事はいいことなのであろうか。ていうか、あの教授・先生達は幸せになったのだろうか。
姜尚中氏はこう続ける。

誰の人生の中にもあるはずの「青春」というものを知らずに終わる。あるいは青春という大切なものを、毎日一枚ずつ脱ぎ捨てていく。それは不幸なことではないでしょうか。
そのようにして生きていって十年後に自分の人生を振り返ったら、そこには空漠としたものしか残っていないと思います。
-「悩む力」(集英社新書)姜尚中 P91-

悩むということは、自分の意志で行う行為ではない。
それは、著者が言うように、自分の内側から湧き出てくるものである。
だとしたら、悩まないで老成出来た人は、それはそういう星のもとに生れた幸福な人とも言えるのではないか。
また、「人は悩まなければ幸せにならない」という、実は根拠のない人間観は、他人を悩みの世界に突き落とす事によって、己の存在価値を高めようとする教授・先生達の無意識的なセールストークだったのでは、と疑う視線もあると思う。
というか、今の時代、そのような、意地悪な視線こそ、皮肉にも説得力を持ってしまうのではないだろうか。

一方で、この本のマーケッティングに関して、気になることがある。それは、この本は一体、どういった層に読まれているのかということだ。

上記の記述でも明らかなように、この本は一見、若年層に向けて書かれているのだが、もしかしたら、ターゲットユーザー(読者層)は中高年を狙ったものではなかったのではないだろうか。
そして、またお決まりの「今の若者は...云々」というセリフのための、新しいネタ本として、この本が読者の手に取られたのではないだろうか。

何故って、こんな事を言っている僕が中高年だからこそ、この本を思わず手にとってしまう気持ちがわからなくもないからだ。

まさむね

顕微鏡で覗いたビートルズ ~『真実のビートルズ・サウンド書評~

「Baby’s in black and I’m feeling blue(あの娘は黒い服で僕の気分はブルー)」という感じを出すために、リンゴがドラミングで工夫をしている。
リンゴはこの曲で、最後のサビの「♪She thinks of him」~「♪She’s dressed in black」までは、ハイハットを叩かず(ロックバンドのドラマーがこうした曲調を演奏する場合は、普通にハイハッタオやシンバルを叩くのだが)、バスドラを8分音符で叩き、タンバリンの刻みとタムタム中心のサウンドにしてくれる。つまり、この曲の曲調や歌詞に会わせるために、スネアの響き線やシンバルなどの金属系の音を抑えて-金属系の音を使うとどうしても賑やかな感じになってしまう-太鼓中心のドラミングにしているのだ。
-「真実のビートルズ・サウンド (学研新書 38)」川瀬泰雄 P74-

僕はC型肝炎のため、週に一度、通院しているが、注射を待つ間、この本を読んでいたのだが、思わず、本を閉じた。
そんな場所でこの本を読むのがもったいなかったのだ。
読み終わるのが惜しくて思わず本を閉じてしまった経験がみんなもあるでしょ。
僕は子供の頃にむさぼり読んだ手塚治虫のコミック以来の経験を、この本で味あわせてもらった。

とにかく、今まで読んだビートルズ本の中で最も繊細な本だった。
まるで、ビートルズサウンドを顕微鏡で、そっと覗いたような細やかで微妙な解説書である。
特に初期のビートルズの小曲に関する解説の多くに鱗from目情報が多いように思う。
例えば、You can’t do that やIf I fellのジョンのギター、A taste of honeyにおけるポールのコーラス、Baby it’s youにおけるジョージマーチンのアレンジ...きりがない。
しかも、その細かいサウンドにメンバー達の意図や冒険心を読み込んで、著者独自の説明をしてくれているのだ。
ついでに、ちょっとしたミスまで指摘してくれていて、それはそれで、もう一度CDを聴いてみようとさせてくれるから凄い。

冒頭は、アルバム「Beatles for sale」に収録されている「Baby’s in black」というワルツ風のバラードのリンゴのドラミングに対する解説である。この曲、確かに名曲は名曲なのだが、今までの解説水準だと、せいぜい、ジョンとポールのコーラスに関して言及するにとどまっていたと思う。
しかし、著者の川瀬氏は、その経歴が音楽プロデューサという事もあってか、サウンドの細部にまで、耳が届いている。

川瀬氏は言う。

優れた芸術作品に共通していることは、細部へのこだわりである。天才的な芸術家たちは「神は細部に宿る」ということをよく知っているからだ。ビートルズサウンドの大きな特徴の一つが、その細部へのこだわりである。(同書P38)

おそらく、川瀬氏一流のプロの耳だからこそ、その細部に宿った神を見つける事ができるのだと思う。そして、この本では、そういう耳で拾い上げたビートルズサウンドに潜む神の魅力を、素人の僕達に優しく伝えてくれているのだ。

あのリンゴも海の向こうに、「Baby’s in black」のドラミングに関して、ここまでの理解者がいるとは夢にも思わなかったのではないか。
是非、なんらかの方法で、この本をリンゴに伝えてあげたいものである。

まさむね

養老令では本当に女系容認していたのか ~『万世一系のまぼろし』書評~

注目すべきなのは、718年に編纂された養老令(継嗣令)は、それ以前の大宝令とほとんど同文だが、女帝の存在を認めていて、次のように明記されている。
現代語に訳して紹介する。

「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること(女帝の子もまた同じ)。それ以外はいずれも諸王とすること。親王より五世は、王の名を得ているとしても皇親の範囲には含まない。」

男系説を強引に主張する論者の中には、この継嗣令を曲解したり、無視したりする人達がいる。
-「万世一系のまぼろし」中野正志 P54-

天皇制などの、歴史、伝統に関して議論をすることはむずかしい。
ほとんどの論者は、言葉を発する前に、既に、己の感情的立場に絡め取られているからだ。
女系天皇に関しても、推進する立場と容認する立場と否認する立場とで、それぞれが都合の良い史実、資料を持ってきてそれぞれの論を組み立てる。
だから、客観的な議論が極めてしにくいのである。

さて、本書の著者・中野氏だが、彼は、明らかに女系天皇容認(あるいは推進)の立場に立っている。
だから、冒頭の記述の養老令で女帝が認められていた条文に関して、金科玉条の如く、取り上げているのだ。
たしかに、養老令は、その廃止令が出ていないため、法形式上には、明治時代まで上記法律は生きていたことになる。

しかし、実際に、上記の法令が発動されることは無かった。すなわち、女帝の子が親王になることはなかった。っていうか、女帝が子を生むれることがなかったのだ。

一方、僕の興味は、この条文が編纂、あるいは、施行された時の政治状況にある。
法律というものが、時代状況抜きにして語られないからだ。
これを見ることによって、この条文が必然として作られたのか、苦し紛れに作られたのか、状況を糊塗するために作られたのか、まぁいいんでないの的に作られたのか、間違って作られたのか等がわかるのである。

編纂時は、718年。ちょうど元正天皇の御世である。
元正天皇は、歴代天皇の中で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇である(ただし、父親は男系男子の皇族である草壁皇子であるため、男系の血統は維持されている)。(wikiより)
次の天皇になる聖武天皇(弟の文武天皇の子)は既に生れていたが、まだ子供だ。無事成長して即位できるかどうかも718年の時点では不安が残る。
そうした状況下、朝廷では、男系維持という建前よりも、女帝の子も親王と規定しておく事による可能性の広さを選択したんだと思う。
当時、既に38歳だった天皇だが、(まだ見ぬ)自分の御子を天皇にと内心思っていた可能性は否定できない。

また養老令が施行されたのは、757年である。
この頃、橘諸兄が失脚(756年)したのに続き、この年には、時の孝謙天皇とは別系統の道祖王が廃され、藤原仲麻呂の推挙で、さらにまた別の系統の大炊王(後の淳仁天皇)が皇太子となった。
ようするに、この時期、皇太子の選別が時の権勢者の恣意に左右される状況があり、それが政情不安の大きな原因となっていたのだ。
そこで、これらの状況を安定させるために、立太子に関して、時の天皇が主導権を握れるように手を打ったのが、長い間(約40年間も)寝かせてあった養老令の施行だったのでないだろうか。

尤も、養老令編纂時の元正天皇と同様に、孝謙天皇も女性である。今後、自分が結婚し、子供を設けることは大いに考えられた。
それを踏まえての「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること(女帝の子もまた同じ)。」の一文だったという見方も出来るのだ。

このように見てくると、例の条文の編纂、施行は、極めて時代の特殊性に依存していた出来事のように思われる。
おそらく、これらの時代の特殊性がその後の時代の変化のなかで忘れ去られるも、条文としては立派に残ったというのが正直なところではないだろうか。

しかし、一方、日本という国は、そのような時代状況のちょっとした変化(危機)によって、国の根幹になるような法律(女系天皇がありや否や)が右往左往するって可能性を常にはらんでいるというのも事実だ。

例えば、先の小泉政権時に、皇室典範改正案が、国会に提出される直前まで行った。
紀子様が第3子を御懐妊されている最中の出来事だ。
世論はむしろ、女系天皇容認に傾いていたようにも思えるが、悠仁様誕生でそれまでの議論は潮が引くように消えてしまった。
しかし、状況や議論の方向によっては、日本は分裂する可能性ですらあった。実際、平沼さんを初めとする保守派は、断固阻止の態度を表明していたからだ。

一方、結果として、女系天皇が正統化され、実現する可能性も十分あった。
しかし、潮目が変わってしまうと、野暮は言うな的空気によって、誰もその議論を口にしなくなってしまったのである。

それにしても、この、状況に流されるいい加減さ、物事を確定したくないという曖昧さ、この済んだことは口にするな的空気の力、これらはまさしく、極めて日本的なメンタリティではないだろうか。

まさむね

我々は源氏を次世代に伝える義務がある ~『源氏物語ものがたり』書評~

たとえ政治・経済・法制度が一変し、一夫多妻の結婚形態が消滅したとしても、永遠にかわらないものがある。
いや、それぞれの時代の人々の心に合わせて変り続けることで、不死の生命を獲得し続けたものがある。
それが日本人にとっての源氏物語だった。
-「源氏物語ものがたり (新潮新書 284)」島内景二 P54-

伝統を守るということは本当に大変な事である。この本を読むと、その事がよくわかる。

藤原定家、四辻喜成、一条兼良、宗祇、三条西実隆、細川幽斎、北村季吟、本居宣長、アーサーウェリー。

この本で紹介された面々、まるで駅伝のタスキをつなぐかのごとく、連綿と歴史の荒波から源氏物語を守ってきた。
さらに、それだけじゃなく、それぞれが生きた時代の新しい感性でもって、都度、源氏物語を再生させてきたのである。

例えば、室町時代に連歌師として一斉を風靡した宗祇は、当時、最もイケてるコンセプト、”幽玄”をもってして、作品に込められた登場人物の心を深く思いやる鑑賞方法を、次の三条西実隆に伝授したという。

しかし、それは決して、彼らだけの偉業ではない。
彼らに源氏物語を守るような立場を与え続けた、その他の多くの日本人の気遣いがあったことも忘れてはならない。

それらの人々とは、時の天皇は勿論だが、時代によっては、武家であり町人であった。

例えば、”源氏物語を守るための運命のタスキ”を受けていた一人、細川幽斎。
彼は文化人とは別に、戦国武将としての一面も持っていた。

幽斎は、関が原の戦いに東軍の一武将として参戦していたが、西軍に城を包囲され、絶体絶命のピンチになってしまったのだ。
しかし、その時、後陽成天皇は勅使を派遣し、和議を結ばせて、幽斎の命を救おうとした。というか、源氏物語を初めとする古典文学を守ろうとしたのだ。

戦とは、生きるか死ぬかのギリギリの状況下で行われる。
しかし、その勅使が来た時に、西軍の武将・前田茂勝は、あっさりと城の包囲を解いた。
天皇からの勅命だったという事もあるが、茂勝自身が、源氏物語の文化的価値を前に、幽斎に、屈したのである。
そらに、その心がわかる徳川家康は、この前田茂勝の領地を安堵したというのは言うまでもない。

さて、今後、この”源氏物語を守るための運命のタスキ”はどのように引き継がれていくのであろうか。
グローバリズムやコスモポリタニズムの美名のもと、今後、日本人のアイデンティティを危うくするような危機が何度も襲ってくるに違いない。

「どうして、学校で、源氏物語なんかやる必要があるの?その分、英語や中国語を勉強させろよ」っていう勢力が増えてくる時代が必ず来る。
その時、源氏物語を誰がどうやって守るのか、あるいは、守る必要があるのかという国民的コンセンサスの確立は急務だ。

それは、ある意味、憲法改正や、核保有よりも大事な防衛政策かもしれない。

まさむね

小渕優子さんに読んで欲しい一冊 ~『「婚活」時代』書評~

日本社会に、「少子化」という言葉が定着して十年以上たちました。
日本で子供を生むことが少なくなるのことに関して、さまざまな調査や議論がなされ、さまざまな対策が提案され、実施されています。
そこで、いつも疑問に思っていることがあります。
それは、少子化の直接の要因が「未婚化」、つまり、結婚する人の減少にあるのにもかかわらず、少子化対策として打ち出されるものは、子育て支援(保育所整備や育児休業導入や児童手当)なのです。
-「「婚活」時代 (ディスカヴァー携書 21)」山田昌弘、白河桃子 P195-

確かに、僕も、「猪口さん、なぜ少子化が問題なのですか?(猪口邦子、勝間和代)」を読んでいて、そう感じたことがある。
今は、職場の飲み会等で「結婚しないの?」というだけでセクハラになる時代である。
行政は、結婚する、しない等のライフスタイルに価値の序列をつけ、一方を明らかに推進するような政策も取りにくいのかもしれない。
だから、結婚という面倒なハードルは置いておいて、その次の出産/子育てにお金をばら撒くというのがいつも通りの安易な行政手法か。

まぁそれはいいとして、この本の著者の山田昌弘氏は、僕が信用できる数少ない社会学者の一人だ。
最近は、たまに報道ステーションのコメンテーターとしてテレビでも見受けられる事もあるが、山田先生の個性を古舘氏の”振り”が十分引き出せていないのが残念だ。
パラサイトシングル、1998年問題、希望格差社会、そして婚活時代というように、90年代以降の社会学(御専門の家族社会学にとどまらず)の名コピーはすべてこの人の手によっていると思えるほどの山田先生、おそらく、時代を斬るセンスが卓抜なのである。

そして、それらの言葉は、いつも僕らに、考えるヒントを与えてくれるのだ。
例えば、以前、このブログ内で、小室哲哉がプロデューサーとして凋落した現象を、山田先生が提唱された1998年問題にからめて書かせていただいた。

僕が山田先生の発言にいつも感動するのは、現代日本の一般的な価値観を、上品に批判するような、例えば、下のような箇所だ。

結婚年齢がばらつくことにより、逆に、自分の思ったタイミングで結婚できるとは限らなくなってくるのです。
就職にしろ結婚にしろ、自由化が起こればおもいどおりにならなくなるというパラドックスです。
選択肢が増えれば増えるほど、自分の思い描いた選択ができなくなる。
その結果が現在の急速な晩婚化、非婚化の進展となって現れているわけです。
-「「婚活」時代 (ディスカヴァー携書 21)」山田昌弘、白河桃子 P18-

自由になる事、選択肢が増えることは、絶対的に正しいことっていうのが現代の絶対的価値観の一つだ。
自分の選択肢をふやすために、ひとは高学歴を目指すわけだし、高収入を得ようとする。現代的価値では、これはけっして悪い事ではない。むしろ正しいことだ。

しかし、自由はけっして、人々の幸福度を上げるわけではない。
自由は、一方で、おちこぼれを生み出すという残酷な一面を持っているのだ。

いつだって好きな人と結婚できる意志と、魅力と、能力と、家柄と、自由を謳歌出来る階層の解放のイデオロギーが同時に、そのどれも持っていない大多数の非モテ系の人々の普通で当たり前の幸せのライフサイクルを脅かす。
言い方を変えるならば、女性解放運動、人権運動の理論的な正しさが、必ずしも一般人の幸福には結びつかないという事なのである。

小渕優子・少子化担当大臣や猪口氏に、誰か山田先生の本を贈ってほしい。

まさむね

熟女は大相撲を擁護する ~『女はなぜ土俵にあがれないのか』書評~

ところで、この神について、第二十八代木村庄之助は、私(内館牧子氏)に次のように語っている。
「現在の主祭紳三柱を招くようになったのは、昭和二十年、終戦直後の事である。その前は天神七代、地神五代の神々を招いていた。
(中略)
戦後になって、立行司と彦山光三が相談して、武神と力の神だけ三代にしたと聞いている」
こういう話を聞きだせると、本当にワクワクする。
-「女はなぜ土俵にあがれないのか (幻冬舎新書)」内館牧子 P184-

土俵には神様が居るから、女は上がれないのだ、いや、それは女性差別だ、といった論争が、たびたび起きては消えていくが、それでは神様って誰って言ったら、ほとんどの人は知らないだろう。
それを明かしてくれるのが冒頭の部分である。
こんな大事な事を、相撲協会の理事会等で話し合ったのではなく、なんと、行司の一人が、当時の相撲解説者と相談して、ある意味、勝手に神様を変更しているのだ。
おそらく、GHQから文句を言われないようにとの先読みの配慮があったことが推測される。
ちなみに現在の三柱は、天手力男命、建御雷之男命、野見宿禰だそうだ。

上記の事、一つとっても、大相撲というものがいかに、伝統を、状況に合わせて、作り上げてきたのか、その健気な歴史がよくわかる。若干の悪意を込めていうならば、その歴史は、いかに権力に媚びるかという歴史でもあった。
生き残りを賭けた本当に健気(そして大男達に似合わず、ビクビク)な闘い歴史だったのである。

さらに、この本は、大相撲を離れても、一般的に日本的伝統というものは守ってきたものではなく、作られてきたものであるという事がわかる、極めて優れた日本文化論だと僕は思う。

さて、先週の「関口宏のサンデーモーニング」の最後のコーナー、一枚の写真では、大相撲の観客がいかに減っているかを示す写真が紹介され、勝手なことを言っていた。
ロクに見もせず、知りもせず、関心もないくせに、イメージだけで、大相撲に関して語るのはやめてほしい。
世間的にはいろんなことがあったが、今場所の土俵ではいつも通り、熱い戦いが続いているのである。
例えば今日(平成20年九州場所9日目)の取組だけに限っても、いくつも見所があった。

雅山と嘉風の突き合いは最高だった。雅山は優勝の可能性もあるかも。
高見盛と鶴竜の一番。最後、土俵際でもつれた時、土俵の一部が崩れる。なにかやってくれる高見盛健在に館内大笑いだ。
把瑠都が勝ち越した。相手の背中越しにつかむ彼の上手は新しい相撲の時代を感じさせる。
琴奨菊が稀勢の里を得意のがぶり寄りで下す。豊ノ島も加えた有望日本人トリオ。今場所いずれも好調だ。
強い時はめっぽう強い琴光喜。怒涛の勝利に、愛子様もきっと笑顔になったことだろう。

等など、書き出せばきりが無い。

最後に一番言いたいこと。グローバリズムやジェンダーフリーなどに惑わされている場合ではない。
現在、この大相撲が、いろんなバッシングを受けている時だからこそ、大相撲を擁護したい人々は、バイブルとして、読んでほしい一冊である。

まさむね