月星紋 -狩猟、漁労、海上の民の痕跡紋- 新渡戸稲造、中原中也、橋本龍太郎...

江戸時代、ほとんどの日本人は農民であった。

おそらく、農民にとって星という存在はそれほど重要なものではない。
星が重要性を持つのは、山野を飛び回る狩猟の民、あるいは漁労の民、海上の民にとってであろう。

おそらく、月、星をシンボルにした人々はそんな狩猟・漁労民の流れを汲んでいたのではないだろうか。
例えば、平安時代、摂津の国に海に生きる人々がいた。
彼らは海上交通を請け負う、「渡り部」として名を馳せた。その渡り部から渡辺という姓が生れた。
そして渡辺家の代表家紋が、渡辺星である。
墓地等に行くと分かるが、いろんな渡辺氏(渡部氏などを含む)の墓の8~9割に、この渡辺星紋が付いている。
名字と家紋との結び付きがこれほどはっきりしている例を他には知らない。

さて、月星紋だが、東日本に多い。
全国では15位だが、宮城県で8位、新潟県で9位、岩手県、福島県、千葉県では10位となっている。
逆に少ないところでは、富山県で26位。和歌山県で22位、大阪府で20位。
月星紋を持つ有名人は以下。

毛利元就。1497年4月16日 – 1571年7月6日、戦国大名。
本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする。安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。毛利家は大名として幕末まで続く。家紋は毛利沢潟と一文字三星紋。


保科正俊。1509年- 1593年、戦国時代の武将。
父は保科正則で、信濃国高遠城を領していた国人であった。武田氏の信濃先方衆の一人として活躍し、特に槍に優れた使い手であったため、戦国の三弾正に数えられ、「槍弾正」と称された。家紋は平方九星。画像は保科家墓所にて撮影。


高坂昌信。1527年 – 1578年6月12日、武田氏の家臣。
甲斐八代郡石和の豪農・春日大隅の子として生まれる。武田信玄、武田勝頼の2代に仕え、武田四名臣の一人として数えられる。信玄の衆道の相手も務めた。画像は大河ドラマ「天地人」での高坂昌信(大出俊演)。総合格闘家の高阪剛は子孫(wikiより)。


千葉胤頼。1532年 – 1559年2月18日、武将、九州千葉氏当主。
少弐資元の次男。千葉喜胤(祇園千葉氏)の婿養子。千葉胤誠の父。胤頼は実兄・少弐冬尚が重臣龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援した。龍造寺隆信・千葉胤連に攻められ、肥前国勢福寺城で少弐冬尚とともに自害。家紋は八曜に三日月。


渡辺守綱。1542年 – 1620年5月11日、武将。
渡辺氏は松平氏の譜代家臣で嵯峨源氏の武将渡辺綱の後裔。槍が得手で「槍半蔵」と称された。三方ヶ原の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めた。その功績から家康配下の徳川十六神将の一人として顕彰された。


九鬼嘉隆。1542年 – 1600年11月17日、武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)の水軍武将として活躍し、3万5000石の禄を得た。九鬼氏の第8代当主である。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。家紋は左三巴紋と七曜紋。


高山右近。1552年 – 1615年2月4日、武将。
高山氏は摂津国三島郡高山庄出身の国人領主である。信長、秀吉の家臣として活躍。山崎の戦い、四国攻め等に参戦。代表的なキリシタン大名として知られる。伴天連追放令の後、ルソンへ追放され、マニラで病没。家紋は七つ星。


佐久間盛政。1554年 – 1583年7月1日、戦国武将。
尾張国御器所に生まれた。織田氏の家臣。御器所西城主。佐久間氏の一族。勇猛さから鬼玄蕃と称された。本能寺の変による信長の没後は柴田勝家に従ったが、賤ヶ岳の戦いで敗れる。子孫は現在まで大分市で続いている。家紋は九曜。


片倉景綱。1557年 – 1615年12月4日、伊達氏家臣。
米沢の成島八幡神社の神職・片倉景長の次男。伊達政宗の軍師役を長年務めた。仙台藩片倉氏の初代。小田原参陣、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど政宗の主要戦に参戦。白石城一万三千石の城主となり以後、片倉家は明治まで11代に亘って白石の地を治める。


石田三成。1560年 – 1600年11月6日、武将・大名。
石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生まれる。秀吉の小姓として仕える。豊臣政権の五奉行の一人。家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図るが関が原の戦いで破れる。家紋は九曜紋と大一大万大吉紋。


細川忠興。1563年11月28日 – 1646年1月18日、武将、大名。
室町幕府・幕臣・細川藤孝の長男として京都で出生。丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相・細川護熙は末裔。家紋の細川九曜は星が離れているのが特徴。


伊達政宗。1567年9月5日 – 1636年6月27日、戦国武将。
家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。本姓は藤原氏。出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。九曜紋は細川氏から使用許可される。他に竹笹に雀紋(仙台笹)、牡丹紋(仙台牡丹)、竪三つ引両紋等の家紋も使用。


小幡景憲。1572年 – 1663年4月3日、兵学者。
父は甲斐国の戦国大名である武田氏家臣の小幡昌盛。武田滅亡後は、他の武田遺臣とともに武田遺領を確保した徳川氏に仕える。関ヶ原の戦いでは井伊直政に属して戦功を挙げ、大坂の陣では豊臣方に与するが徳川氏に内通していた。墓所は池袋の法明寺。


松倉重政。1574年 - 1630年12月19日、大名。
松倉家はもともとは大和の筒井家の家臣であった。重政は大和に残って豊臣家の配下となる。関ヶ原の戦い、大坂夏の陣で功あり、肥前日野江4万3千石を与えられて入封したが苛政と搾取を行い、島原の乱の主因を作った。家紋は九曜。


豊島信満。1579年 – 1628年9月7日、旗本。
豊島氏は平姓秩父氏の一族で武蔵国の名族であるが、室町時代に太田道灌に敗れて没落。江戸城での初の刃傷事件を起こすが、一族の連座はまぬがれ、後に遺児は紀州藩に仕え、吉宗が将軍になった際に御家人になっている。画像は墓所のある法明寺本堂。


木村貞行。1658年 – 1703年3月20日、赤穂浪士47士の1人。
赤穂浅野家家臣木村惣兵衛の子として赤穂に出生。赤穂藩では馬廻り役・絵図奉行150石。通称は岡右衛門。はじめ大石良雄に神文血判書は提出せず、盟約には加わらなかった。家紋は三つ盛九曜紋。画像は高輪・泉岳寺の墓所にて撮影。


田沼意次。1719年9月11日 - 1788年7月27日、武士・大名。
田沼意行(徳川吉宗に登用された旗本)の長男として江戸の田安屋敷で出生。家治の治世、側用人として権力を掌握。株仲間の結成、印旛沼開拓等の幕政改革を行う。父の代に七面大明神に帰依し家紋を七曜紋とする。画像は巣鴨の勝林寺にて撮影。


千葉周作。1793年 – 1856年1月17日、武士。
出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の二説。江戸時代の剣術の流派北辰一刀流の創始者で千葉道場・総師範。門下には浪士組幹部の山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助地、弟・定吉の弟子には坂本龍馬がいた。画像は本妙寺にて撮影。


川路聖謨。1801年6月6日 – 1868年4月7日、旗本、勘定奉行。
豊後国日田出身。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ12歳で小普請組の川路家の養子となる。公海岸防禦御用掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺にて撮影。


浅田宗伯。1815年6月29日 – 1894年3月16日、漢方医、儒学者。
信濃国筑摩郡栗林村(現在の長野県松本市島立)出身。家紋は七曜星紋。代々医業と手習師匠を業とする家に生まれる。徳川将軍家の典医、宮内省侍医を拝命。 浅田飴(ノド飴、医薬品。)のルーツとなる処方を考案した。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


谷口藍田。1822年8月15日 – 1902年11月14日、儒者。
肥前有田出身。名は中秋。読みは、たにぐちらんでん。豊後の広瀬淡窓、江戸の羽倉簡堂らに学ぶ。肥前鹿島藩の藩校弘文館の教授、権大参事を務める。晩年は東京に私塾藍田書院を開いた。家紋は丸に三つ星紋。画像は青山霊園にて撮影。


秋月悌次郎。1824年- 1900年1月5日、会津藩藩士。
会津若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ悌次郎は別家として秋月姓を称する。会津と薩摩藩が結託した宮中クーデターである八月十八日の政変では藩兵を率い実質的指導者として活躍した。家紋は九曜。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


ジョン万次郎。1827年1月27日 – 1898年11月12日、通訳・教師。
土佐国中浜村の貧しい漁師の次男に生まれた。漁に出て遭難、漂着して、アメリカの捕鯨船に救助され、先方で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。帰国後、薩摩藩、幕府などで通訳として活躍。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


飯田武郷。1828年1月22日 – 1900年8月26日、国学者。
高島藩出身。読みは、いいだたけさと。脱藩して上京し尊王攘夷運動に参加。48年かけて執筆した『日本書紀』の注釈書「日本書紀通釈」70巻を完成させた。東京大学、慶應義塾、國學院などで古典を教えた。家紋は七曜紋。画像は青山霊園にて撮影。


西周。1829年3月7日 – 1897年1月31日、啓蒙家、教育者。
石見国津和野藩の御典医の家柄。森有礼・福澤諭吉らと共に明六社を結成。哲学、芸術、理性、科学、技術など多くの哲学・科学関係の言葉を考案。著書は、『百学連環』『致知啓蒙』など。家紋は、変わり連子に月。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


前島密。1835年2月4日 – 1919年4月27日、官僚、政治家。
越後国頸城郡津有村に豪農、上野助右衛門の二男。江戸遷都を建白した。日本の近代郵便制度の創設者。1円切手の肖像になる。「郵便」「切手」「葉書」という名称を定め「郵便制度の父」と呼ばれる。家紋は九曜紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


永山武四郎。1837年5月28日 – 1904年5月27日、陸軍軍人。
鹿児島藩士・永山盛広の四男として出生。北海道庁長官となり、北海道の開拓と防衛に情熱を傾け、「屯田兵の父」と呼ばれた。軍人としての最終階級は陸軍中将。家紋は丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋。画像は青山霊園の弟・永山盛輝の墓所にて撮影。


渡邊昇。1838年5月1日 – 1913年11月7日、剣術家・政治家。
肥前国大村藩士・渡辺巖の二男として生まれた。坂本龍馬の依頼により薩長同盟締結実現のため、長州藩と薩摩藩の橋渡しをする。武術振興団体・大日本武徳会を結成。近代剣道の確立に尽力。家紋は三つ星に一つ引紋。青山霊園の墓所にて撮影。


司馬凌海。1840年1月2日 – 1879年3月11日、医学者・語学者。
佐渡島真野町新町生まれ。独語学者の司馬亨太郎は長男。独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じ、医学用語の日本語訳(蛋白質(Eiweiss)、窒素(Stickstoff)、十二指腸(Zwolffingerdarm)など)を多く作っている。家紋は十三曜紋。画像は青山霊園にて撮影。


松尾臣善。1843年3月6日 – 1916年4月7日、官僚。
姫路の郷士の子として出生。読みは、まつおしげよし。次女の乕は北里柴三郎の妻。大蔵省出納局長、主計局長、理財局長などを務めた後、第6代日本銀行総裁を務めた。家紋は丸に三つ星紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


渡辺国武。1846年3月29日 – 1919年5月11日、官僚、政治家。
信濃国諏訪郡東堀村に諏訪高島藩士の家に生まれた。読みは、わたなべくにたけ。兄は伯爵・渡辺千秋。独身であった。第2次伊藤内閣の大蔵大臣、逓信大臣、第4次伊藤内閣の大蔵大臣を歴任した。家紋は渡辺星紋。画像は多磨霊園にて撮影。


阪井重季。1847年1月10日 – 1922年3月1日、陸軍軍人。
土佐藩馬廻役・二川周五郎の長男。後に阪井に改姓。読みは、さかいしげすえ。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争に従軍。日露戦争では後備第1師団長として奉天会戦を指揮。最終階級は陸軍中将。後に富士生命社長となる。家紋は四つ星紋。青山霊園にて撮影。


阿部泰蔵。1849年5月19日 – 1924年10月22日、実業家。
三河国吉田に生まれ。旧姓は豊田。豊田家は藩の医家。17歳で上京,蘭学,英学を研究。慶応義塾に学び、卒業後同校教授、次いで塾頭となる。後に明治生命保険会社、明治火災保険会社を設立し社長となる。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の場所にて撮影。


星亨。1850年5月19日 – 1901年6月21日、政治家。
江戸の左官屋として出生。母の星姓を名乗る。1892年に衆議院議員当選、同議長に就任。伊藤博文と結んで立憲政友会に勢力を張る。第4次伊藤内閣の逓相に就任。東京市会汚職事件により辞任。東京市会議長在職中に暗殺される。画像は池上本門寺にて。


戸田欽堂。1850年8月26日 – 1890年8月10日、実業家、活動家。
大垣藩主戸田氏正の四男として生まれた。渡米し洗礼を受ける。キリスト教書店「十字屋」を設立。その後、日本独立長老教会を設立し自由民権運動の拠点になった。家紋は九曜紋。画像は本駒込・蓮光寺の墓所にて撮影。


相馬永胤。1850年12月25日 – 1924年1月26日、教育者、実業家。
彦根藩士の家に生まれ戊辰戦争では官軍側で奮闘。読みは、そうまながたね。専修学校(後の専修大学)を創立。初代校長、初代学長を勤めた。横浜正金銀行(後の三菱東京UFJ銀行)取締役、頭取を歴任。家紋は九曜紋。青山霊園にて撮影。


渡辺廉吉。1854年1月8日 – 1925年2月14日、法学者。
越後出身。オーストリアにわたり、シュタインに公法、行政学をまなび、憲法調査のため渡欧した伊藤博文を助けた。帰国後、憲法、民事訴訟法の制定に参画。行政裁判所評定官、貴族院議員。家紋は丸に渡辺星紋。画像は青山霊園にて撮影。


中島鋭治。1859年1月15日 – 1925年2月16日、土木工学者。
宮城県出身。東京帝国大学教授、東京市技師長を兼任。衛生工学を研究し、東京、仙台、名古屋、高崎、鹿児島、漢口(中国)、釜山(朝鮮)などの水道敷設を指導。著作に「英和工学辞典」(共著)。家紋は九曜紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。


岡野知十。1860年3月11日 – 1932年8月13日、俳人。
北海道日高様似に生まれる。本名は岡野敬胤。『半面』を創刊し新々派俳風を鼓吹した。俳書の収集に努め、集めた俳書は東京帝国大学の図書館に寄贈され「知十文庫」として収められた。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


新渡戸稲造。1862年9月1日 – 1933年10月15日、農学者、教育者。
現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男として出生。拓大学監、東京女子大学学長、 国際連盟事務次長、貴族院議員を歴任。著書『武士道』は日本紹介の書として広く海外で読まれた。旧五千円札の肖像となる。画像は多磨霊園にて撮影。


臼井甕男。1865年8月15日 – 1926年3月9日、レイキ創始者。
岐阜県山県郡谷合村出身。読みは、うすいみかお。公務員、実業家、新聞記者など様々な職業を経験した後、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種・臼井霊気療法を創始する。家紋は月星紋。


若槻礼次郎。1866年3月21日 – 1949年11月20日、政治家。
松江藩の足軽奥村仙三郎の次男。東京帝大仏法科を首席で卒業。その成績は東大始まって以来、最高という。第28代内閣総理大臣任期中に昭和金融恐慌、満州事変の発端となった柳条湖事件が起きている。画像は染井霊園にて撮影。


菊池慎之助。1866年3月31日 – 1927年8月22日、陸軍軍人。
水戸藩士・戸田道守の子として生れ菊池敬之進の養子となる。日露戦争では第4軍副官として出征し同軍参謀となった。軍事参議官、東京警備司令官を経て教育総監在職中に死去。最終階級は陸軍大将。家紋は九曜紋。青山霊園の墓所にて撮影。


宮武外骨。1867年2月22日 – 1955年7月28日、ジャーナリスト。
讃岐国阿野郡小野村に庄屋宮武家の四男として生まれた。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


山本悌二郎。1870年2月10日 – 1937年12月14日、政治家。
新潟県佐渡郡真野町出身。漢方医・山本桂の二男。有田八郎の兄。立憲政友会から旧新潟1区にて立候補し当選。田中義一内閣、犬養内閣にてそれぞれ農林大臣として入閣。国粋主義的な政治思想の持ち主。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


高浜虚子。1874年2月22日 – 1959年4月8日、俳人、小説家。
愛媛県松山市長町新町に旧松山藩士・池内政忠の4男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。本名・高濱清。俳誌『ほとゝぎす』に参加。俳壇に君臨する。家紋は九曜紋。画像は鎌倉・寿福寺の墓所にて撮影した水桶。九曜が微妙にわかる。


渡辺錠太郎。1874年4月16日 – 1936年2月26日、陸軍軍人。
愛知県出身。煙草店・和田武右衛門の長男。後に農家・渡辺庄兵衛の養子となる。天皇機関説を擁護するなど、渡辺の自由主義的な意見は青年将校の憎悪を生む。二・二六事件の犠牲者。最終階級は陸軍大将。家紋は渡辺星。画像は多磨霊園にて撮影。


左近司政三。1879年6月27日 – 1969年8月30日、海軍軍人。
米沢市出身。父は米沢藩士。ロンドン海軍軍縮会議では首席随員を務め条約締結に貢献。近衛内閣で商工大臣、鈴木内閣で国務大臣を務めた。第二次世界大戦末期、昭和天皇の聖断を仰ぐよう鈴木首相や米内海相に進言。最終階級は海軍中将


永井荷風。1879年12月3日 – 1959年4月30日、小説家。
愛知県士族で内務省衛生局事務取扱の永井久一郎・つね夫妻の長男として生れる。永井家の氏は、大名・毛利家と同じ大江氏。また、三島由紀夫とは遠い親戚に当たる。代表作は、『ふらんす物語』『ぼく東綺譚』など。家紋画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


千葉亀雄。1878年9月24日 – 1935年10月4日、ジャーナリスト。
山形県出身。「読売新聞」「時事新報」「東京日日新聞」など新聞の社会部長、学芸部長を務める。「新感覚派」の命名者として知られる。宮城県遠田郡美里町の近代文学館に千葉亀雄記念文学室がある。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園墓所にて撮影。


有田八郎。1884年9月21日 – 1965年3月4日、外交官、政治家。
新潟県佐渡郡真野町出身。山本家に生まれ有田家の養子となった。山本悌二郎の実弟。戦前は欧米協調派に対するアジア派の外交官として知られ日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放された。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


下村湖人。1884年10月3日 – 1955年4月20日、小説家。
佐賀県神埼郡千歳村大字崎村出身。本名、虎六郎。東京帝国大学卒業後に母校佐賀中学校教師や鹿島中学校校長等を歴任。講演や文筆活動で社会教育に尽力。青少年に影響を与えた『次郎物語』の執筆で知られる。家紋は九曜紋。


宮地直一。1886年1月24日-1949年5月16日、神道学者。
高知県出身。読みは、みやじなおかず。内務省神社局考証課長、東京帝大講師(国史)、東京帝大教授(神道講座)等を歴任。戦後はGHQと折衝し神社存続に尽力した。代表著作は「神祇史」。家紋は丸に剣三つ星紋。画像は青山霊園にて撮影。


松井須磨子。1886年3月8日 – 1919年1月5日、新劇女優。
長野県埴科郡の士族小林藤太の五女。本名は小林正子。坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生。島村抱月と芸術座を旗揚げし『復活』のカチューシャ役で人気女優となる。『今度生まれたら』は日本における発禁レコード第1号となる。画像は多聞院にて撮影。


萩原朔太郎。1886年11月1日 – 1942年5月11日、俳詩人、作家。
群馬県東群馬郡出身。開業医の長子。高村光太郎と共に口語自由詩を確立した。近代詩の頂点に立つ詩人として日本近代詩の父と称される。代表作は『月に吠える』『青猫』など。演出家の萩原朔美は孫。家紋は九曜紋。画像は政淳寺にて撮影。


星野直樹。1892年4月10日 – 1978年1月26日、政治家、実業家。
神奈川県横浜市出身。東條内閣時は内閣書記官長に起用され東條英機の側近として活躍。戦後、東京裁判で終身刑を宣告されたが、釈放後は東京ヒルトンホテル副社長、東急電鉄取締役等、実業家として活躍。家紋は丸に七曜紋。画像は多磨霊園にて。


野田高梧。1893年11月19日 – 1968年9月23日、脚本家。
税官吏の子として北海道函館市に出生。小津安二郎とは公私ともに良きパートナー。共作という形で『晩春』から『秋刀魚の味』までの全作品を手がける。日本脚本家協会・初代会長を務めた。家紋は八曜に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。


米川文子。1894年6月15日 – 1995年5月31日、地歌・箏曲家。
岡山県生まれ。ロシア文学者・米川正夫の妹。幼い頃から箏を姉の暉寿(てるじゅ)に学ぶ。第一回地歌舞研究会を開催、関西の芸である地歌を東京に広めた。1966年、人間国宝、1981年、文化功労者。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


北村寿夫。1895年1月8日 – 1982年1月3日、児童文学作家。
東京出身。本名は寿雄。小山内薫に師事する。「劇と評論」の同人。昭和11年NHK文芸部主事。放送劇「新諸国物語」シリーズは人気を博す。代表作「笛吹童子」「白鳥の騎士」「紅孔雀」。家紋は丸に三つ星。画像は雑司が谷墓地にて撮影。


北川冬彦。1900年6月3日 – 1990年4月12日、詩人、評論家。
滋賀県に生まれながら、父親の仕事関係で満州で育った。本名は田畔忠彦。雑誌「詩と詩論」創刊に参加し、詩集「戦争」で脚光を浴びる。戦後、詩、映画ともに対してネオリアリズムを標榜し、第2次「時間」を主宰。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて。


中原中也。1907年4月29日 – 1937年10月22日、詩人。
山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村に生まれる。中原家は代々吉敷毛利家の家臣だったという。旧姓は柏村。父・謙助は医師だった。夭折したが350篇以上もの詩を残す。代表作は『山羊の歌』『在りし日の歌』。家紋は九曜紋。中原中也記念館にて確認。


伴淳三郎。1908年1月10日 – 1981年10月26日、芸人、俳優。
山形県米沢市に南画家の息子として生れる。本名:鈴木寛定。息子はスタイリストの山本康一郎。「アジャパー」が大流行させる。代表出演作『てなもんや三度笠』『アジャパー天国』『駅前シリーズ』など。1978年、紫綬褒章受章。家紋は丸に三つ星。


東山魁夷。1908年7月8日 – 1999年5月6日、日本画家。
横浜市に生まれ、船具商であった父の仕事の関係で3歳の時に神戸へ転居する。本名は東山新吉。昭和を代表する日本画家の一人であった。代表作品は『残照』『白馬の森』『黄山暁雲』など。家紋は丸に三ツ星紋。祖父の東山新吉の肖像写真より推測。


鹿内信隆。1911年11月17日 – 1990年10月28日、実業家。
北海道夕張郡由仁町に生まれる。実家は写真館。1957年文化放送にいた水野と協力してフジテレビジョンを開局させた。産業経済新聞社社長・フジテレビ会長に就任し、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。家紋は九曜紋。画像は小平霊園墓所。


鶴田安雄。1914年1月22日 – 1975年8月11日、テニス選手。
佐賀県出身。昭和6年兄登と組んで全国中等学校庭球大会ダブルスに優勝。戦前、戦後にかけて全日本ダブルス優勝3回、全日本学生ダブルス優勝4回。32年以来3回、デビス-カップ監督となる。家紋は丸に三つ星に一つ引紋。画像は上川霊園の墓所にて撮影。


金丸信。1914年9月17日 – 1996年3月28日、政治家。
山梨県中巨摩郡今諏訪村に生まれる。金丸家は、金丸氏は武田氏の庶流。酒造業を営む裕福な家柄。衆議院議員(12期)、国務大臣・副総理、防衛庁長官(第35代)、国土庁長官(第3代)、建設大臣(第34代)を歴任。家紋は九曜紋。


結城信一。1916年3月6日 – 1984年10月26日、作家。
東京出身。早稲田大学英文科卒。デビュー作は「秋祭」。老人と少女の交流を描いた「空の細道」で日本文学大賞受賞。代表作は「夜明けのランプ」「不吉な港」等。画像は本行寺の墓所にて撮影。家紋は九曜紋。画像は本行寺にて撮影。


照国萬藏。1919年1月10日 – 1977年3月20日、第38代横綱
秋田県雄勝郡秋ノ宮村出身。本名は大野萬藏。幕内戦歴:271勝91敗74休。幕内優勝2回。横綱時代は休場ばかりだった武藏山を除けばただ1人双葉山に勝ち越した力士である。家紋は丸に五つ星紋。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。


徳間康快。1921年10月25日 – 2000年9月20日、実業家。
神奈川県横須賀市出身。読みは、とくまやすよし。ワンマンで豪快な手腕で徳間書店、大映、スタジオジブリの社長を務める。代表総指揮作は『敦煌』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』。家紋は丸に三つ星に二引き。画像は青山・長谷寺にて撮影。


千葉信男。1923年12月10日 – 、俳優、司会者。
NHK放送劇団、マイクフロントを経て 三木鶏郎グループに参加。ダイビングクイズの初代司会者。元祖デブキャラ。代表出演作「赤ひげ」「幕末残酷物語」「森繁の新婚旅行」等。家紋は丸に八曜に月紋。画像は小平霊園にて撮影。


春日八郎。1924年10月9日 – 1991年10月22日、歌手。
福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身。本名は渡部実。流行歌とは質の異なる望郷歌謡をヒットさせ、「演歌」という新天地を築いた戦後日本を代表する歌手の一人。代表曲は『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』等。家紋は丸に渡辺星。


巌本真理。1926年1月19日 – 1979年5月11日、ヴァイオリニスト。
教育者巌本善治の長男である巌本荘民と、米国人マーグリトの間の長女として西巣鴨に生まれる。日本初の室内楽定期演奏会94回の偉業を達成。芸術選奨文部大臣賞、芸術祭奨励賞、毎日芸術賞などを受賞。家紋は九曜紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


星新一。1926年9月6日 – 1997年12月30日、SF作家。
東京府東京市本郷区曙町に生まれ育つ。ショートショートの神様と呼ばれ、生涯で1001編以上の作品を残す。小松左京・筒井康隆と並んで「御三家」と称される。星姓にはこの九曜紋が多い。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


渡辺晋。1927年3月2日 – 1987年1月31日、実業家・プロモータ。
東京都出身。渡辺プロダクション(通称:ナベプロ)の創業者。『渡辺晋とシックス・ジョーズ』を結成。レコード会社の専属抱えだった歌手・作詞家・作曲家を渡辺プロの傘下に集結させ、巨大化なナベプロ帝国を築く。家紋は丸に三つ星紋。


ロイ・ジェームス。1929年3月9日 – 1982年12月29日、タレント。
東京市下谷区出身。出生名はハンナン・サファ。日本名は六条祐道、結婚し湯浅姓となる。父親は、亡命カザン・タタール人。映画俳優や放送タレントとして活躍。多磨霊園の墓所にあるイスラムの象徴「三日月と星」を月星紋として拡大解釈した。


渡辺文雄。1929年10月31日 – 2004年8月4日、俳優。
東京市神田区東松下町出身。映画『泉』で役者デビュー。1960年代後半から1970年代前半にかけての東映ヤクザ映画にて名悪役として出演。「連想ゲーム」「遠くへ行きたい」「くいしん坊!万才」等のバラエティ番組にも多数出演。家紋は渡辺星。


渡辺淳一。1933年10月24日 – 、作家。
北海道上砂川町出身。医学博士。『光と影』で第63回直木賞を受賞。医療関連および中年男女の性愛を大胆に描いた作品が特徴。代表作は『光と影』『遠き落日』『失楽園』『鈍感力』など。家紋は丸に渡辺星。渡辺淳一記念館にて情報提供頂きました。


正田美智子。1934年10月20日 – 、明仁(今上天皇)の皇后。
東京府出身。日清製粉勤務の正田英三郎・冨美夫妻の長女。浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の母親。日本赤十字社名誉総裁、国際児童図書評議会名誉総裁を務める。家紋は九曜紋。本家筋の正田記念館にある提灯より判断。


江利チエミ。1937年1月11日 – 1982年2月13日、歌手・女優。
東京市下谷区出身。本名は久保智恵美。進駐軍のアイドルから、「テネシーワルツ」でデビューを果たす。女優としても『サザエさん』『唄祭りロマンス道中』等で活躍。私生活では高倉健と結婚、すぐに離婚。家紋は丸に剣三つ星紋。


橋本龍太郎。1937年7月29日 – 2006年7月1日、政治家。
東京市渋谷区に大蔵官僚・橋本龍伍、春の長男。祖父は岡山県吉備郡秦村出身。厚生大臣、運輸大臣、大蔵大臣を歴任後、第82内閣総理大臣に就任。行政改革、消費増税、普天間基地移転同意等に取り組む。家紋は七曜紋。画像は青山霊園にて撮影。


柏戸剛。1938年11月29日 – 1996年12月8日、第47代横綱
本名:富樫剛。山形県東田川郡山添村に果樹園などを営む豪農の家に生まれる。大鵬とともに、「柏鵬時代」を築く。幕内在位:66場所。幕内最高優勝:5回。幕内成績:599勝240敗140休 勝率.714。谷中墓地の富樫家の墓の家紋は九曜紋。


安西水丸。1942年7月22日 – 、イラストレーター。
東京都葛飾区出身。幼少期を千葉県千倉町で暮らす。本名は渡辺昇。電通退社後フリーとなる。ガロ等で多数の漫画も発表。村上春樹との共著に「村上朝日堂」「ランゲルハンス島の午後」等がある。家紋は渡辺星であることを自身のブログにて告白。


西村幸祐。1952年 – 、作家、評論家。
東京都出身。祖父は歴史学者の西村眞次。スポーツ、サブカル、政治、マスコミ論等の評論を行う。代表作は 『反日マスコミの真実2009』等。雑誌「ジャパニズム」の責任編集者。家紋は石持ち地抜き三日月に星紋。画像は多磨霊園の西村家の墓所にて撮影。


水戸泉眞幸。1962年9月2日 – 、元大相撲力士。
茨城県水戸市出身。本名は小泉政人。現役時代は高砂部屋所属。現在は年寄・錦戸。パワフルな吊り気味の寄りを得意とし走る起重機の異名をとった。また大量の塩を撒くことも有名。幕内戦歴は530勝556敗99休。幕内最高優勝1回。家紋は九曜紋。


東貴博。1969年12月31日 – 、お笑いタレント。
東京都台東区浅草出身。コメディアンの東八郎の次男。本名は飛田貴博。萩本欽一の勧めで欽塾へ弟子入り。深沢邦之とtake2を結成。テレビタレントとして幅広く活躍。2012年5月に安めぐみと結婚。家紋は九曜紋。結婚式の紋付にて確認。


月形半平太。江戸時代、侍。
行友李風作の戯曲、及びそれを原作にした映画・テレビドラマの主人公。『国定忠治』とならび新国劇を代表する作品として知られる。雛菊「月様、雨が…」月形「春雨じゃ、濡れてまいろう」 という台詞が有名。家紋は名前から取られたと思われる月星紋。

西周の紋に関しては、「家紋の真実」を主宰されている日本家紋研究会副会長の高澤等先生にご教授頂きました。

まさむね



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