売れたら勝ちという論理-2

売れたら勝ちという論理が私が好きな理由は、数字と言う絶対値だからからもしれません

たとえば、私はデザイン系の学校出身だったりするのですが、そこのコンサバな芸術の論理だったりすると大衆に迎合したり、売れ線を狙ったりする行為はさげずまれたりします。

でも、実際は自己満足の芸術は何の価値や評価もえらないわけで、大衆的な芸術なら売れなきゃ行けないしいま、芸術的と言われるようなハイソなモノなら評論家やその路の大家に評価されるもので無ければ意味無いわけです。
その論理も、今や手が混んでいて例えば一部の人に受け入れるようにしたりしてブームが延命するように、いろいろ演出するわけです
昔は芸術家は王様に迎合していたわけで、今は大衆が王様なわけです。

マスコミやテレビに嫌悪感あるのは正義とか知る権利とか真実とか、言っておきながら
実は自分達は利権にまみれて扇動的に動いているからでしょう

いろいろな常識や倫理とか風習とか、社会には縛りがあるけど、いまは、社会も村とか小集団に依存してしか生きて行けないわけじゃ無いから
それを乗り越えてしまったら、ヤッタもん勝ちなのかもしれません。
造反有利ですね

以前のログの整理もおねがいします

ところざわ

売れたもの勝ちという論理

売れたら勝ちという論理は、多数決が善という民主主義のルールと通底していて、「まだまし」なものなのでしょう。

僕も売れたら勝ちという論理と作品自体は私のため
にあるはずだという論理の間を行ったり来たりして
いるような気がします。あるいいは、もっとずるく、使い分けているような気がします。

先日、読売新聞で、最近の事件を例に引いて、報道が動機を探る事に偏るあまり、人々に受け入れられやすい動機探しに奔走していく事の無責任さを指摘する論説が出ていて、その通りだと思いつつ、そんな状況はしかたなく、でも嫌でしょうがない気もしました。

嫌と言えば、今年の僕のキーワードのような言葉でしたが、先日また、嫌について考えさせられるテレビ番組がありました。

フジテレビの「しらばか」という番組で、あるイラストレータが夫の名字が嫌で離婚したんだけど、離婚の理由はそれだけで、子供もいて、一緒に楽しく暮らしているという話が出て、それに対して、出演者は一斉に、それはおかしいと、責めるんですね。「子供はどうなるんだ」とか「やっぱり結婚と同棲
は心構えが違うんだ」とか「これが日本のルールだ」とかいろいろと言うんですが、結局は論破できず、その人がよければそれでいいという事になってしまったんですね。

僕もそのイラストレータを見ていて、もの凄く不快な感じがしてのですが、その不快の理由が全く解明出来なかった。
新しいものは常に保守的な人には不快なものとして感じられるんでしょうか。例えば、それはビートルズの登場みたいに。

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ところで、はやくも明日、引越になってしまいました。
なるべく早くマシンを使えるようになります。

まさむね

劇場性

どんな行為も結局、他の人に見てもらって
ナンボの世界ですもんね
いや、ナンボという言葉が違和感あるなら
ケレンミが大切というか
評価されなければ何の意味が無いのかもしれません

芸術性やストイックさを競っても
見てもらって楽しんでもらったり
心揺さぶってもらって、自分も嬉しいと言うのが
大切だともいます

ミュージシャンも自堕落や無頼を気取っていても
巨大なお金を産む音楽産業の自営の事業部長って
存在ですモンネ

もちろん、スポーツマンも
同じでしかルべきだと思います

人の見ていな所で新記録を打ち立てても
しかも、新記録を誰も興味示さなければ
彼等もモチベーションが無くなるでしょう

GAGAで強烈に意識したことは
やはり客商売は楽しんでもらって
お金落としてもらうことが大切だってことです

K1も、その意味では十分正しいのかもしれません

ラーメン屋が2軒しか無かった街が
暖簾別けして散って、屋台だらけになった街に
バーミヤンが登場したって感じかもしれません

ところざわ

石井館長の思い出

K1がはじまる前にたまたま石井館長と食事を
する機会があった。彼を含めて3人での会食
だったが、彼はその時、ラーメン屋でやたらに、
料理を注文し、10品位、テーブルに並べて
そして当然のように残した。

その豪快さ(非日常性)に触れたとき、
あぁ成功する人ってこういう人なんだろうな
と思った。彼はその時、格闘技もプロレス
のように見世物(ショー)として成立する
はずであり、そのためには最初の10分間
くらいはナァナァでやって、その後、10分経過
のアナウンスを合図に真剣勝負をすれば
いいのではないかと、語っていた。

今、K1を前にして僕はその言葉がずっと頭
から離れない。だから、K1を見るときのポイント
はその合図がどのタイミングなのか。いつ、戦い
のモードが変わったのかという事を見抜く事
になってしまった。

まぁと言ってもテレビでしか、しかも偶然で
しか見ないんだけどね。

突然の話だが、田無に引っ越す事になった。
今月の28日である。
GAGAへ行くため、やって来た恵比寿には、
6年位いたが、ここで一度、引きこもることに
なり、少しは残念であり、少しはほっとして
いる。本も大量に処分しようと思っている。
プロレス関連の本はすべてヴァリスに譲ろうと
思う。僕にとって、今年はプロレス最終年に
しようと思う。
さて、本棚を整理していて、思ったことは、
自分がいかに偏った本の趣味をしているかと
いうこと。そして一方、確実に流行に影響され
ているということだった。
主な著者はこんなところだった。

柄谷行人、蓮実重彦、三浦雅士、井沢元彦
網野善彦、赤坂憲雄、司馬遼太郎、宮台真司
橋本治、岡田斗志夫

まさむね

K-1

プロレスは我々というか
子供時代や学生時代に黄金期でしたらね対立する二つの軸が存在するというのは盛り上がる為のセオリーなのかも知れませんね

K-1は盛り上がっているし認知度も高いけど寄りから門外漢まで認知しているわけじゃありませんからね。
ただ、2軸が存在しなくなって、はじけてからは各々の団体や軸よりはKー1の方がよりメジャーなのかもしれません。

式典や賞関係も、逆に世間の風向きを見て
流れにのっかることで、自分達もその威光を高めようとしますからね。
そい売った意味ではプロレスよりはK-1 なのかもしれませんね
ボクシングも最近はやっていませんもん

ところざわ

ノックは無用?

僕がノック事件に関して、残念に思ったのは、
彼を擁護する団体なり個人なりが全く表面に
出てこなかったことです。

僕のイメージでは大阪という土地は言いたいこと
を言うという。そんな中であの「核武装発言」の
西村議員なんかも当選してきたんだと、思ってた
んですが、それも幻想だったようです。

そういえば、昨日また珍妙な殺人事件が起きましたね。

特ダネの小倉氏は、「子供の頃からゲームに慣れ
親しんでいた世代の理解不能な犯行」という凡庸な
あまりにも凡庸な見解を示していました。

さて、このあたりで今年のプロレス界を振り返ってみたいのですが、どうでしょうか。
今年の事件は以下の4つに集約されますよね。
1:馬場の死去
2:前田が安生に襲われる。
3:桜庭がグレイシー一族に一矢。
4:天皇在位10年記念式典にK1は呼ばれるがプロレス界は呼ばれず。

1~3までに関しては、プロレス誌とかでも多分、ベスト10入りするはずなので、僕はここで4:について、一言述べたいと思います。

皇室とプロレスというテーマで長年研究(?)を続けてきた私は、今回、このK1が御用達になった事件を決して見逃すわけにはまいりませんでした。
私が知る限り、過去、皇室とプロレスとの関わりは以下の3点だけでした。

1:浩ノ宮の后雅子様がまだ、雅子さんと呼ばれていた時代に、あるインタビューで小学生当時の思い出として、自分はプロレスファンだった事を激白。それによると、当時ブラックペアの大ファンだった雅子様は、その名前をご利用あそばされて、デビル雅子として、ご学友とプロレスごっこをされていたという。

2:髭で有名な秋篠宮が子供の頃、新幹線のグリーン車で偶然にもマサ斎藤と会い、そこでサインをせがまれたという。

3:皇后陛下美智子様が子供達とプロ野球を観に行った時、当時、巨人のスター選手だった中畑清に対する下々の「キヨシコール」を耳にされ、「あのイノキコールはなんですか。」と御質問されたという。

これらの裏の取れた事実から、皇室は家族揃ってプロレスマニアであることは明らかである。それが、今回、K1だけを式典に呼ばれた事。高知東生を呼んだこと以上に、これは我々の記憶にとどめておかなければならない。

まさむね

想像力の谷間

ノックの事件はノック的常識な事件で、別に何の驚きもなく、もうどうでもいいやって感じです

桶川の事件も音羽のお受験が殺人になるなら、桶川の風俗も殺人位あってもなんら不思議はないわけです。

雑誌や新聞はそれはそれでスキにはなれないけど
どうにもテレビのあの小市民的正義を振りかざすのはうんざりって感じです
でも、その閉塞間が音羽にも桶川にもあって事件の舞台になったのかもしれないですね。

事件は憎まなきゃいけないのかもしれないですけど
その舞台にあった当事者間には、人間的な輝きがあったのかもしれないですね。

ところざわ

ノック辞任?

今日の朝のニュースはノック辞任と桶川の女子大生
殺人事件の2つだった。
2つの事件に共通しているのは、それを報道する
人々がきわめて建前的な対応を強いられるニュース
ではないかということである。

まずノック。誰が考えても、彼が仕出かした事と
彼が負わなくてはならない事のバランスが悪い。

インタビューに見る大阪府民や府議会議員の発言
を見ていても、怒っているというよりも嫌気が
さしているという感じだ。でも、ここでまぁその
くらいいいじゃないかという事は誰もいえない。

ノックの自宅や公邸からダンボール50箱分の
証拠品(調査品)が持ち出されたというが、ノック
が車の中でわいせつ行為をしたことを調べるため
になんでそんなに大量の書類等が持ち出されなけれ
ばならないのか。税金の無駄使いもいいところだ。
はたしてそのダンボールの中身に女性の下着とか
諸道具類などが入っているのであろうか。

さて、一方、桶川の女子大生殺人事件。殺人容疑
で逮捕されたのは、ストーカーの兄(弟?)の経営
していた風俗店の関係者だ。(ストーカー本人も
店を何件かやっていたらしい)
誰しもが思うがしかし、誰も口にしない疑問は、
なんで女子大生が風俗店の店長と「お付き合い」が
あったのという点だ。

結局、これらの事件はマスコミの奥歯にもののはさ
まった報道によって、逆に想像を掻き立てるもの
になっているという点において共通点がある。

精神分析の岸田秀や経済人類学者の栗本慎一郎によると、ポルノの禁止は、性欲の減退を阻止するための苦肉の政策ということであるが、それと同様に、報道の規制は、よりビビットな想像をさせるための手段に思えてくる。

そういえば、先日来、話題になっている音羽の幼児殺人事件にしても、肝心な殺された娘の母親の性格とかが報道されないため、逆にその女は我々のなかで、よく居るタイプの法律とは無関係な嫌な奴という像が出来てしまい、よくわからないのに、山田みつ子に同情してしまう人を大量発生させてしまった。
(僕も同情した一人だけど)

だれか、こういう状況をテレビでうまいこと説明してほしい。

まさむね

サーバーの調子悪いみたいです

虚言の話もあるけど、シュミレーションの話で言えば何かでよんだ本に、同窓会に幾度に、お金持ちやらホームレスやら毎回トンでもない設定で出かけていくって言うのもありました
その日一日で良ければ結構演技できると思います
試してみるには面白そうです

消されるメディアって紙に書かれていれば、結構偶然残っていたりすると思うのですよでも、電子メディアじゃ、むずかしいかも、私みたいに適当にCD-Rでバックアップ取る人間のデータが残されていれば後世の人はおもしろがるかも・・・
でも、こういう人間ばかりゃ認識が片寄りそうだな

それに読むソフトやハードの問題もあるしね

でも、残されるのって文字情報なんですよね
文字情報って過激じゃないですか、刺激的な本や雑誌も多いしでも、実際は道徳やら社会のルールでもう少しずれたところに社会の軸はあるわけでしょう。その辺、後世の人はどう考えるのかな
聾唖の人とかも社会とのやり取りは文字情報が主体なので、その辺の意識の違いもあるかもしれませんね

いまは、検索サービスの基礎データが更新されてしまったので無くなっているけどひところはアスキーのインターネットサービスが無くなって個人のホームページのデータが検索上は見つかるけど元データはなくってその喪失感は結構な物があったのだけど、こんなこと考えるのは少数なのかも・・
身の回りが雑多なのも何でもとっておきたいと言う意識があるのかもしれないです

農民の神話で言えば、けっこう、こうあって欲しいと言う意識が一人歩きしたというのってありますよね、以前の白痴やバカに聖性を持たせてしまう話もありますけど、あと、インディアンやアイヌなど、マイノリティに自然派志向をもたせてしまうのというのもあると思います。産業革命を経てない民俗は当然どの民俗も全部、自然や環境の事象に聖性を持たせてきたわけで、それを特別視するものなンだかなって感じです
人口が物凄く少なかったわけだから資源も必要としていないし、消費するすべを知らなかったわけだしね

後世の人の為に虚言な情報を残しておくというのも
いいですね

ところざわ

悪意というのは人生のスパイスではないでしょうか。

悪意というのは人生のスパイスではないでしょうか。
僕はプロレスあるいはその他の観るときには、必ず
悪意を入れて見ています。
でも、それでもパワーのある作品には涙するし、感動したりもするから、逆にその悪意というものが一つのハードルになって力のある作品と、そうでない作品を篩い分けしてくれているのかもしれません。

でも、例えば、他人の言葉や態度に悪意があるかどうかを見極めるのはとても困難ですよね。本当のところ、自分にも悪意があるのか無いのかを自覚するのだって難しい。福永さんはもしかしたら、全く善意の人かもしれない。

よく、援助交際とかに対してもそうなんだけど、お金という事で説明しようとして、それで大体が納得も出来てしまう
んだけど、本当のことがみえなくなることがありますよね。
例えば、山田みつ子だって、春奈ちゃん家の生活水準に嫉妬したとか、林マスミだって、いい生活をしたかったとか、工藤や佐々木の行動もお金で考えるっていうのはどっか正しくしかし、どこか確実に間違っている(というか面白くなくさせている)と思います。

ところで、最近僕が夢想しているシュミュレーションゲームがあって、それはメチャクチャなカップル、堕落した父親。救いのない教室、終わりの無い嫁姑戦争というすでに現実的などうしようもない問題が多発している世界で、その問題を一つ一つ
解決していくというゲームです。解決の方法は、人生相談みたいなものとかでいいんですが。このゲームのポイントは、リアリティなので、セリフのセンスがすべてみたいな感じの世界なのですが、もしそういうのがあったら教えてください。

インタネットの世界が発生していっては消えていくというのは、なんだか、僕の興味のある一般の民俗学的世界と共通していますよね。日本の歴史だって、ほとんどの人々の気持ちみたいなものはすでに消えてしまっていて、残っているのは公式の資料だったり坊さんの日記みたいなものだったりしますよね。例えば、14世紀の新潟県の漁民の心情なんて、全く分からない。想像は出来るんだけど、そういう想像って極めて失礼なものになる可能性がある。

こういう話がありますよね。僕が高校時代に習ったことに、江戸時代の農民は米は作っていたけど、食べることはめったになかったという神話。特に東北の農民は毎日飢えと戦いながら、年貢のためだけに働かされていたという神話。でもこれってちょっと考えればすぐに分かることだけど、そういう事はありえないよね。当時の客観的な資料を見ればすぐにわかるんだけど、人口と石高ってほぼ等しいんだって。
ご存知の通り、1石というのは普通の大人一人が1年間で食べる米の量ですよね。そうすると、その米っていうのは、絶対最終的には日本人の口の中に入ったいたということなんですね。牛や馬が食べていたり、密輸していたということがなければ。

ちょっと話しがそれましたが、インタネットの言葉が書かれては消えていくイメージってなんか、無数の人々の独り言が次々に発せられてそして忘れられていくような世界に似ていて美しいですよね。

それではまた。

まさむね