現代における「絆」とは? ~天皇陛下のご感想と飯島愛の死~

世界的な金融危機に端を発して、現在多くの国々が深刻な経済危機に直面しており、我が国においても、経済の悪化に伴い多くの国民が困難な状況に置かれていることを案じています。働きたい人々が働く機会を持ち得ないという事態に心が痛みます。

これまでさまざまな苦難を克服してきた国民の英知を結集し、また、互いに絆(きずな)を大切にして助け合うことにより、皆で、この度の困難を乗り越えることを切に願っています。

23日の天皇誕生日に、天皇陛下はご感想を発表された。
冒頭はその最後の一節である。

国民に対して、知恵とで、国難を乗り切るようにとのこと。
今まで、今上天皇が、ここまで踏み込んだ御言葉を述べられたことがあっただろうか。
日本人なら、一人ひとり心に刻み込むべきだ。

政治の場面においては、「国難を前にして、与党、野党争っている場合ではない」という示唆にも聞こえるが、政治家はこの御言葉をよく咀嚼して、正月からの行動をとってもらいたいものだ。

一方、年の暮れ、数々の企業から、派遣切りの発表がなされた。
その中の多くの企業は、しばらく続いた円安の恩恵を受けていた輸出依存企業だ。
日本を代表する名立たる大企業が、本当に今、それまで企業のために、働いてくれていた派遣従業員を、ホームレスにしてまで切らなければならないのか。
を大切にして助け合うことで困難を乗り越える事を願う」というのが何を意味するのかをもう一度、考え直して欲しい。まだ間に合う。
    ◆
次の日の24日のクリスマスイヴ、飯島愛が自宅のマンションで亡くなっているのが発見された。
死因はまだはっきりしていないが、亡くなってから既に数日間経っていたようだった。
いわゆる孤独死。気の毒な話である。

今日の「サンデージャポン」でコメンテーター達が彼女の思い出を語っていたが、その言葉はどれも悲しかった。


◆爆笑問題・田中裕二
すごく繊細な人だった。辞めるときも「漫才があっていいな。私なんて何もないんだよ」といっていた。辞めたあとも番組をよく見てくれていて「またデーブがつまらないこといってる…」とかメールが来ていた。
◆テリー伊藤
1カ月前に「芸能界に戻ってこいよ」と話したのだが…。ずっと芸能界にいたらこんな結末にはならなかったかも。今日は皆に会いにきているはず。
◆高橋ジョージ
すごい居心地のいい人だった。(昨年3月25日の)最後のサンジャポ出演のときに「ロード」を歌ったら何回もメールをくれた。「アーティストに歌ってもらっちゃって。私なんかのために…」といっていた。人のことばっかりだった。
◆デーブ・スペクター
サンジャポは生放送なので一番愛ちゃんらしく見えた。最後の出演のときに「自分の代わりはいっぱいいる」と言っていたが、飯島愛は彼女しかいない。
◆八代英輝弁護士
やりたいことがいっぱいあっただろう。HIV啓発活動を積極的にやるなどとって代わることのできない、大切な人だった。
◆西川史子
7月にお会いして「愛ちゃんのあとやりにくいよ」と言ったら「大丈夫だよ、見てないけど」といわれた。愛ちゃん流のエールかも。寂しいですね。

  -nikkansport.com 08.12.28

サンジャポファミリーとか言いながらはしゃいで、あんなに仲が良さそうだった芸能人達はみんな痛恨の思いだろう。
一見、華やかな人間関係の真っ只中にいるようにも見えた彼女だが、近所の交番に行って、「寂しいから話を聞いて欲しい」と相談していたのである。
飯島愛の内面を思うと、華やかな芸能界、そしてそれにとどまらず、僕たちが生きる現代社会における見せ掛けのがいかに虚しいものかと考えざるを得ない。
    ◆
さて、を語源辞典で調べてみた。

とは犬や馬などの動物を繋ぎ止めておく綱のことをいう

元々、という言葉は結びつきを表すと同時に、その裏に束縛という言葉が張り付いているのだ。
それは、決して暖かいだけのものではないのである。

それどころか、僕たち人間の歴史は、ある面、(=束縛)からの解放の歴史なのである。

おそらく、戦後の核家族化、地縁・血縁共同体の弱体化というのはその流れに沿っている。
さらに、非正規雇用者の増加、農家の激減、晩婚化、少子化という現象も(=束縛)からの解放という歴史の流れの中にある。
それは、人それぞれ、自由な生き方を認めようという思想のもとに、結婚も就職も転職も子作りも自分で選択できるようになったからだ。

しかし、それは当然、個々の人生が厳しい競争原理にさらされるようになったという負の面も併せ持っていたのである。
自由は、同時に、そして必然的に、敗者を生み出してしまうということなのだ。
    ◆
しかし、競争に負けた者には悲惨な境遇しか残っていないというのでいいのだろうか。
極端な例かもしれないが、派遣社員が契約を切られた後に、すぐにホームレスという底が抜けた社会はやはりおかしい。

しかし、日本人は束縛からの解放の歴史を元に戻して、かつての地縁血縁共同体を取り戻すことなど出来るのだろうか。
一方、そうでなければといって、の構築を一方的に国家に押し付けるということは健全なことなのだろうか。それはゆくゆくは、国家からの束縛を意味してしまうのではないだろうか。
また、例えば、今年の紅白歌合戦のテーマ「歌の力、歌の」のようにマスコミがキャッチフレーズとして喧伝しまくればいいというものでも全くないであろう。
    ◆
陛下が言われた「この困難を乗り越えるための」をどのように創り直していくのか、それこそ、今、日本人が英知を結集して考えなければならない事なのだ。
これは、まさに歴史的試練である。

まさむね

NON STYLEは吉本だからM-1に優勝したわけではない

今年のM-1グランプリはNON STYLEが優勝した。

実は、僕は決勝に残った3組の顔ぶれを見た瞬間にNON STYLEが優勝すると思った。
それは、僕が3組の実力を事前に知っていたからではない。

理由は簡単だ。NON STYLEが吉本興業の所属だから、そして、ツッコミの井上祐介が女好きのするキャラだからだ。ちなみにナイツはウッチャンナンチャンや狩野英孝と同じマセキ芸能社、オードリーは田辺エージェンシー系のケイダッシュ所属である。

ご存知の通り、M-1は、紳助の企画、吉本興業の主催である。
ただし、他の事務所のタレントも参加する事が出来る。
しかし、ここで毎回、吉本興業所属タレントが優勝するわけにはいかない。大会自体のリアリティを保持するためだ。

歴代優勝者を見てみよう。(大阪、東京などは省略)

第1回:中川家:吉本興業
第2回:ますだおかだ:松竹芸能
第3回:フットボールアワー:吉本興業
第4回:アンタッチャブル:人力舎
第5回:ブラックマヨネーズ:吉本興業
第6回:チュートリアル:吉本興業
第7回:サンドウィッチマン:フラットファイヴ

しかし、結果として吉本興業が圧倒的に強い。おそらく、彼らには実力もあるのだろう。

しかし、正直なところ、このM-1優勝者というは利権である。
これに優勝すると少なくとも向こう一年位の東京のバラエティの席がなんとなく確保されるからだ。

それゆえ、何回かに1回、このグランプリにリアリティを持たせるために、他事務所所属を優勝させるが、基本的には、その場所は吉本興業がキープする。
そう考えるのが当然の事だと思うのだ。
別に不正があるというか、そういう事をいいたいわけではないのでご理解ください。
例えば、プロレスにおいて、ベルトの価値を高めるために、たまに、ヒールにベルトが移動するのと同じことなのだ。

また、今回都合よく、NON STYLEが決勝に残った。今まで、確かに吉本興業のタレントが4組優勝しているが、その後、テレビで一番成功しているのは、チュートリアルである。
そして、その理由はただ、徳井のルックスにあると思われる。
M-1の時、あるいは漫才をするときの徳井の妄想キャラを封印したバラエティ時の徳井はむしろ、普通のキャラである。
しかし、重要なのは「芸」があることではなく、お茶の間に好かれる「顔」を持っていることなのだ。
そういう意味で、吉本興業の上層部が、NON STYLEの井上にお茶の間向け「顔」を見出すのはごく、自然のことだと思われるなのだ。

それゆえに、今年の優勝者は、吉本興業のNON STYLEというわけである。
ちなみに昨年、優勝したサンドイッチマンだが、残念ながら「顔」的には、売りが無い。しかし、今年一年のオートバックスの頻繁なるCMを見ていると、昨年優勝の背景には、イベントスポンサーのオートバックスからのなんらかのプッシュがあった可能性が感じられる。勿論、あくまで推測である。
     ◆
確かに、今日のNON STYLEは素晴らしかった。
紳助が言ったように、ナイツやオードリーに比べても抜群によかった。

そういう意味で、上記のような予定調和の予想に対して、それを予定調和と思わせない芸の実力が彼らにはあったと思う。

実は、吉本興業は同様の状況で、最近、失敗しているのだ。
TBSの「キングオブコント08」でバッファロー吾郎を無理矢理(?)優勝させて、逆に東京進出を失敗させているのである。
あの時は、決勝戦を、吉本興業の後輩達(ロバート等)に審査させるという酷なルールが問題になり、その不明瞭な結果に、逆に芸人が傷つくという結果になってしまったのだ。
そういう事件(?)を踏まえた今回、NON STYLEにとって、この本番は、いつも以上に凄いプレッシャーがあったと思う。

しかし、NON STYLEは見事にそれを跳ね返した。
見事の一言である。

今後、東京のテレビにおいて、彼らはどんどんチャンスが与えられていくだろうが、是非とも生き残っていってほしいものである。
     ◆
最後に最近の漫才は「笑い場」の頻度が異常に高くなっているのに改めて驚いた。
ボケが暴走し、それにツッコミを入れる間に、ツッコミを半分無視して、さらに暴走しているボケがすかさず、ボケるという展開。
正確には数えていないが、おそらく5秒に1回位の笑い場頻度なのではないか。
かつて、80年代のB&B、90年代のダウンタウンが出てきたとき、それぞれ、展開の速さに驚いたものだが、もしかして、それらを今見たら、物凄くスローモーに見えるかもしれない。

北野たけしや島田紳助達が漫才を封印してしまった理由がわかるような気がする。

まさむね

はるな愛が来年さらに飛躍するであろう7つの理由

来年は必ず、今年以上に、はるな愛の絶頂期が来る。
勝手な推測だけど、僕はそう思う。

今日は、そんなはるな愛が成功するであろう7つの理由を考えてみた。

1)はるな愛は絶対的に綺麗だ
はるな愛には、いろんな人からナンパされた(例えば志村けん等)という伝説がある。
確かに、彼女(彼)は綺麗だ。
以前、「明石家さんちゃんねる」でROOKIESの若手俳優たちに、コチラに並んだ女芸人達を選ばせるという企画があったが、圧倒的にはるな愛に人気があった。
あの市原隼人もはるな愛を指名していた。
ただ、男が女の恰好をしているという従来のオカマをはるかに凌いでいると思うのは僕だけであろうか。

2)はるな愛はお祭り気質だ
テレビのバラエティにとって、使いやすいタレントというのは、何といってもリアクションが解りやすいことだ。
その点、はるな愛の喜怒哀楽の激しいスタイルはテレビ向きである。
しかも、彼女の「夜の街体質」=「お祭り気質」の立ち振る舞いは、誰をも楽しませる事を前提としていて、憎めない。

3)エアーあややは何度見ても飽きない
何故だかわからないが、彼女のエアーあややは何度も見たくなる。
逆に言えば、はるな愛の他の芸はほとんどテレビでは披露されていないような気がする。
それは、彼女(彼)の美しさによるところも大きいのだが、芸が完成している点も大きい。
あの本物の松浦亜弥もその芸のレベルの高さに公認し、自分のステージに呼んでいるほどだ。
ちなみに、前田健の物まねは「汚い」ということで、いまだ未公認だそうである。

4)他のオカマタレントがやや飽きられ気味
はるな愛に飽きが来ていないと反比例して、IKKO、KABAちゃん他、その他のオカマ芸人に若干飽きられ感がある。
「オネエマンズ」も来春打ち切りということであるが、芸能界に存在する数個のオカマ席争奪はさらに、厳しくなることだろうが、はるな愛はそのうちの一席は必ず占めるような気がする。

5)はるな愛の言葉は説教臭くない
一般的にオカマの場合、例えば、美輪明宏にしろ、おすぎ&ピーコにしろ、IKKOにしろ、その苦労の分だけ、どこか言葉が説教臭くなることがあるが、はるな愛にはそれが見られない。
また同様に、夜の街を背負ったタレント、例えば細木数子や室井佑月、デヴィ夫人は同様に、時として相手に対して高圧的になる時がある。
おそらく彼女達は、その夜の街の経験上、そして、本能的に、男のM的な要素を見抜いているのだ。だから、深いところでサービスとしての高圧さを出しているのではないかとも思う。
しかし、はるな愛にはそういったところがない。基本的にお笑いタレントということもあって、そういった押しの強さはない。しかし、その軽さが受けているし、みんなに嫌われない理由なのではないか。

6)はるな愛のギャラは安い
昨今、テレビ業界もCMが入らなくなって、不況であると言われている。そんな中でやはり使い勝手がいいのが、ギャラの安いタレントであることは、想像に難くない。
その中で、はるな愛は、サンズの所属だ。
言うまでもなく、サンズはイエローキャブから分かれて、野田社長が作った新しい会社であるが、そこのギャラは他大手芸能プロに比べると安いというウワサである。

7)はるな愛は、ボーイッシュな女性としても見られる
今、TV向けの女性タレントで受ける娘は、ボーイッシュである。
例えば、あのハロプロの中で、今、テレビで活躍している里田まいにしろ、矢口真里にしろ、ボーイッシュな娘なのである。
また、今年大ヒットした大河ドラマ「篤姫」もボーイッシュな女の子だった。
それは、言い換えれば、子供の頃に男の子と遊んだ経験の有無である。
というのも、以前、仕事で、イエローキャブの若い娘達に、全員インタビューしたことがあるのだが、話をしていくと子供の頃に男の子と遊んでました。という娘が多いのに驚かされた。
そして、さらにそういう娘こそ、その後、芸能界で、活躍しているのだ。
小池栄子、MEGUMI、佐藤江梨子、小林恵美、根本はるみなどがそれにあたる。
逆に、五十嵐りさや川村亜紀などは、女性としては魅力的だったが、そんなに一般的には人気者にはならなかった。
そして、はるな愛だが、まず彼女の所属がサンズであること。
それは、元イエローキャブ社長で、ボーイッショタレントを売り出す事にかけては人一倍の野田社長がマネージメントするということである。
おそらく、野田社長は、はるな愛に、その他のオカマタレントが持つ、女性になった男性としての才能にプラスして、小池栄子のような、男性的な女性としての要素も見出しているはずである。

以上を踏まえて、来年のはるな愛の新しい展開に期待したいところである。

まさむね

来年の紅白歌合戦にモーニング娘。が出場するにはどうすればいいのか

モーニング娘。の11年連続、紅白歌合戦出場の夢が途絶えた。
と同時に、ハロー!プロジェクトとしての紅白出場者は一人もいない状況になってしまった。
(唯一、里田まいが羞恥心 with Paboのメンバーとして出場)

ファンにとっては痛恨の痛みだ。
しかし、来年はきっと出場するに違い。今回は、モーニング娘。の歴史を振り返りながら、来年の紅白出場に向けての新たな提言をしてみたいと思う。

そもそも、モーニング娘。がデビューしたのは、今から10年前の1998年。
ASAYANオーディションの落ち組の5人(中澤裕子、石黒彩、飯田圭織、安倍なつみ、福田明日香)がメジャーデビューを目指して、大阪・心斎橋のHMVやナゴヤ球場でのCD手売りからのし上がったのである。
すなわち試練とハングリー精神から始まったのである。

実は、この1998年は、J-POPにおいても、さらにそれを取り巻く、日本社会においても大きな断層のあった年なのである。

社会史的に言えば、この頃、この社会的変化を象徴する二つの事件が起きている。

一つが、山一證券の廃業だ。
これは、「学校に行って、いい企業に入って真面目にやっていれば一生安泰」という夢の崩壊の象徴である。
そしてもう一つが、和歌山の砒素入りカレー事件だ。
こちらも「日本中どこにでもある共同体。そこに普通に暮らしていれば安心」という夢の崩壊の象徴である。

社会学者の山田昌宏氏は、この年に起きた、大きな社会的変化を1998年問題としてまとめている。
以下に上げるものの数が、この年に激増しているというのだ。

自殺者数
青少年の凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦)の数
成人事件の強制わいせつ認知件数
セクハラ相談件数
児童虐待相談処理件数
離婚件数
できちゃった結婚の数
不登校児童の数
高校の中退率

このような現象は、それまで日本を支えていた社会システムの崩壊と言い表せると思う。
そして、このような社会の変動時期には、人々は、それまで活躍していたアーティストから、新しい時代のアーティストを求めるものなのである。
歌は世につれ、世は歌につれ と昔から言われるが、こういう事なのである。

これらの社会的変動という大きな流れの中でJ-POP界にも大きな流れが起きている。
この頃、90年代を席巻した小室ブームが終わりつつあったのだ。
彼の最後のミリオンセラーは、1997年、コギャルの卒業ソングと解釈された安室奈美恵の「Can you celebrate?」と”嘘”との決別を表現した華原朋美の「Hate tell a lie」であった事は、一つの時代の終わり(新しい時代の胎動)を示唆していて興味深い。
また、同様にギャルの応援歌を歌い続けたSPEEDも、1998年、ソロとしての活動が目立つようになり、翌年に解散する。

そして、同時に、この年(1998年)は、モーニング娘。の他、宇多田ヒカル、MISIA、椎名林檎、aiko、そして、浜崎あゆみ等、自分の個性を、自分の言葉とサウンドで表現できるミュージシャンの多くがデビューするのだ。
本格的なR&Bサウンドを日本化した宇多田ヒカルとMISIA、女の子の本音をロックで表現した椎名林檎、普通の人の普通の言葉で恋心を表現したaiko、アダルトチルドレンの内面を表現した浜崎あゆみ等の多彩な面々。

その中で、初期のモーニング娘。も、ターゲットユーザーを男子ではなく、どちらかといえば、女子に置いていた。
それはまだ90年代の小室系(ギャルの応援歌)の世界観を引きずっていたようにも思える。

ねえ はずかしいわ 
ねえ うれしいのよ
あなたの言葉
「モーニングコーヒー飲もうよ二人で」

門限どおりに 
うちに送ってくれる
私より弱虫ね 
時間が来るまで
ぐるぐると遠回り くちづけも出来ない人

これはメジャーデビュー曲「モーニングコーヒー」の冒頭の歌詞であるが、ストリート系少女の生活が如実に表現されている。

また、この時期のCDジャケットを見ると、2作目「サマーナイトタウン」「抱いてHOLD ON ME! 」「Memory 青春の光 」から、国民的大ヒット曲「LOVEマシーン」までの写真は、挑発的な視線をこちらに向けてたたずんでいる。
そんな彼女達には男性に対する媚は見られない。

しかし、モーニング娘。にも転機が訪れる。
「LOVEマシーン」のミリオンヒットによって、彼女達は一気に国民的アイドルとしての地位を得てしまうのだ。
こうなると、逆に挑発的な視線は邪魔なものになってくる。

そして、CD販売的にピークをむかえる2000年の「恋のダンスサイト」には、彼女達の笑顔は、全開になるのである。
また、この年の第4期オーディションでは、石川梨華・吉澤ひとみ・辻希美・加護亜依の個性的な4人のメンバーを迎え入れる。

もともとモーニング娘。は、その名前の起源からして、「モーニングセットのように、一つのメニューにいろんな物(コーヒー、サラダ、トースト、ゆで卵等)が載っているようなグループ」というコンセプトがあった。
そういう意味で小柄な辻、加護、大柄でボーイッシュな吉澤、超美形の石川をここでそろえたのは、正しい選択だったと思われる。
国民的アイドルとして、モーニング娘。を日本人のマジョリティに認知してもらうためには、一人一人のキャラ立ちが絶対に必要だったからである。

しかし、おそらく、つんくは、このような状況がいつまでも続くとは考えていなかったであろう。
それは常識というものだ。ピンクレディーだってSPEEDだって、全盛期は2年が限界だからである。
選択肢は2つあった。このまま国民的アイドルとして、拡大路線を取るか。そしてもう一つは、コアファン(当時およそ10万人の男性ファン)に特化した商品にしていくか。の2つである。

そして、その方針が明確に示されたのが、2001年に行われた第5期オーディションと、2002年に行われた第6期オーディション(発表は2003年)である。

高橋愛、紺野あさ美、小川麻琴、新垣里沙(第5期)、亀井絵里、道重さゆみ、田中れいな、藤本美貴(第6期)と大量に加わった新規メンバーは誰もが標準的にかわいい。
いわゆる男好きのする娘(女性から見て「この娘は、世間の男は好きそうだなぁ」とした漠然とした感じを持つような娘)を集めている。
それゆえに、第5期、第6期の娘達には、第4期メンバーのように凹凸が見られないのだ。

また、2002年にはエース後藤真希を卒業させたことも、同じ流れの上にあると考えることが出来る。
歌の才能、その容姿において、絶対的な人気はあるが一方で、無愛想な彼女をコアファン向け商品には入れず、ソロとして別商品にしたのだ。
この頃の後藤のソロには、どちらかとえば、ヤンキー的な風味が強い。
それはアイドルというよりもアーティスト指向、モーニング娘。というよりも、どちらかといえば、浜崎あゆみにターゲットが近いような感じがしたものである。
それを考えると、その後、遠回はしたが、後藤がエイベックスの所属となった事はある種の宿命を感じさせる。

僕はこのつんくの路線は基本的に正しかったと思っている。
これによって、モーニング娘。ビジネスは、マスという海に向かって地引網を引くような戦略から、”固定ファンから厚くいただく”戦略に切り替えたのである。
新しいファンを獲得するのではなく、囲い込んだコアファンを満足させる方向に進んだのである。

別のエントリー(モーニング娘。の奇跡)において、詳細を書いたが、2004年~2008年までの間、彼女達のCDの初動は、ほとんど変化がない。
例えば、2004/05/12発売の「浪漫」は、36,531枚で4位だが、2008/04/16発売の「リゾナント ブルー」は48,086枚で3位なのだ。
ということはモーニング娘。をささえるファン層の厚みはそれほど変っていないことを示しているのだ。
そして、おそらく、これらのファン層に対して、CD、コンサート、ディナーショー、旅行、グッズ、携帯サイトなどのサービスを行うことでビジネスとしては十分に成功しているのである。

しかし、この路線に切り替えたという事は、ビジネス的に安定する一方で、長い目で見れば、いつかいわゆる世間の目から消えざるを得なくなってしまう事も意味していた。

おそらく、このことの象徴的な出来事として、2008年の紅白不出場を理解すべきなのである。
だから、もしも、2009年の目標が紅白再出場であるとするならば、今までの方向性を転換させる必要があると思われる。

どうすればいいのだろうか。

ここで、モーニング娘。の原点に戻ってみよう。
先ほども述べたが、あの頃(1998年頃)、社会の大きな変動があった。それに伴って、新しい表現を持ったアーティストが出現した。
モーニング娘。も最初のターゲットは同性の娘(女子中高生)だった。
おそらく、来年は今年以上に、不況の波が日本列島を覆うだろう。
その苦しい中で、女子中高生はきっと新しい価値観を生み出してくるに違いない。
モーニング娘。の表現が、そんな女子中高生の価値観を再度、汲み取れるかどうか、おそらく、そこが、紅白に出場できるかどうかの鍵を握ると思う。

そして、そのためには、世間に届くような形で、新たな競争原理、ハングリー精神を導入する事が大事だと思う。
現時点では、それが、新メンバー加入か、現メンバーの脱落か、新しい曲や詞の応募になるのか、解散+全員新規オーディションになるのか、わからないがいずれにしても2009年は勝負の年になると思う。

ただ、勿論、小さくともビジネスとして生き続ける限り、現状のモデルを継続するという判断もおおいにあるだろうが、それであれば、来年の紅白への道はますます遠くなることは覚悟しなければならないのではないだろうか。

参照:何故、ハロプロの中で里田だけが紅白に出演出来たのか

まさむね

何故、ハロプロの中で里田だけが紅白に出演出来たのか

今年の暮の紅白歌合戦。誠に残念な事ながら、ハロー!プロジェクト(モーニング娘。、Berryz工房、℃ute等の総称)からの出場予定は、里田まいだけになってしまった。
モーニング娘。が出場できなかった件に関しては、後日、まとめて書いてみようと思うが、とりあえず今日の話題は、里田まいである。

里田まいは、北海道出身。2001年に、カントリー娘。の追加オーディションに合格。2002年1月から正式メンバーとなる。

里田がデビューした時代(2002年当時)は、いわゆるハロプロは、タレントとしての全盛時代にあたっている。
例えば、モーニング娘。はこの時期、人気芸能人の証といわれる24時間テレビ「愛は地球を救う」のメインパーソナリティを2年連続(2001年と2002年)して務めている。

そんな羽振りいいの時代に、ある種のベンチャービジネスとして誕生したのがカントリー娘。だったのだ。
彼女達は、半農半芸というコンセプトの元、田中義剛の花畑牧場で酪農業をしながらの芸能活動を行う。
しかし、それは、本格デビューにはほど遠い、実質的には”二軍扱い”であった。
そのため、カントリー娘。は、里田加入以後、何枚かシングルをリリースしているが、カントリー娘。だけでのリリースはなく、石川梨華や藤本美貴、紺野あさ美というモーニング娘。からの”出向”を借りてのリリースであった。

もし、この時期(2002年頃)に、6年後の2008年の紅白歌合戦に、ハロプロから、誰が出場しているか?という質問をして「里田まいだけ」と答えた人がいたとしたら、それは未来から来た人だと断言していい。
それほど、彼女一人の出世(とハロプロの低迷)は、当時としては、考えられないことだったのである。
  ◆
さて、御存じの通り、里田まいブレイクのきっかけを作ったのは「クイズ!ヘキサゴンⅡ」である。
初出場は、2006年の7月12日。この時の珍回答連発がおおいにウけて、これ以降、準レギュラーを獲得。(レギュラー化は2008年5月~)
いわゆるおバカ6人組の中では、初出場こそ、つるの剛士(2005年7月)の方が早いが、準レギュラー化したのは、里田が一番早いのだ。

そういう意味で、ただの無知が、アレンジによってはおバカ芸として、ビジネスになる事を最初に紳助に気付かせたのは里田だと言っていいと思う。

その後、2007年から2008年にかけて、つるの剛士、上地雄輔、野久保直樹、スザンヌ、木下優樹菜がレギュラー化し、おバカ6人組が確定し、羞恥心、Paboという男女のユニット、あわせてアラジンというユニットが結成される。
しかし、この6人をよく見てみるとそのおバカ芸には、個々に微妙な差(個性)があることに気付く。
例えば、女性の3人であるが、木下は、いわゆる不良としてのおバカ。「勉強なんてやってられねぇんだよ」的なキャラなのに対して、スザンヌは、ボーッとしたお嬢様キャラである。
「女の子は可愛ければ、勉強なんてしなくていいのよ」的な雰囲気が漂っている。
それに対して、里田は基本的には、真面目な普通の女の子なのである。
学生の時にクラスにいたでしょ。いつも何か、勉強していてノートもちゃんと取ってるんだけど、テストになるとうっかりミス連発で成績が悪い娘って。そんな感じなのだ。
例えば、以前、あるバラエティ番組で、里田がイカの塩辛が好きで、北海道に帰った際に買い求めるというシーンがあったのだが、その時、塩辛屋で彼女は自分のノートにいろんな塩辛のメモを一生懸命に取っていた。

そういえば、里田が「ヘキサゴン」でブレイクした後、何人もの元モーニング娘。のメンバー達(石川梨華や小川麻琴など)がおバカ芸に挑戦したが、彼女ほどのインパクトを残すことが出来なかった。
おそらく彼女達は、知識量で言えば、里田とそれほど変らないレベルであろう。
しかし、彼女達にはモーニング娘。だったという栄光の過去があるゆえに、無意識的にアイドルとしてのプライドを壊すことが出来なかったのだと思う。
自ら規定した自己イメージから出ることができなかったのだ。
相撲からプロレスに転向したレスラーでも、横綱経験者(東富士、輪島、双羽黒)は大成出来ないのと同じことなのである。

だから、回答が間違えたとしても普通の間違えしかできなかったのだ。
例えば、次のような質問があるとする。

問)アメリカの首都はどこか?

これに対して答えがわからない場合、普通のアイドルは黙るか、わかりませんという。
あるいは、少し勇気があってもこう答える。

答)ニューヨーク

ところが、これでは、普通の無知である。それに対して、以下のように答えられるのがおバカ芸なのだ。

答)クリントン

里田まいならば、何度も誤答を繰り返した末に、一生懸命に、こう間違えるであろう。
しかし、一方、元モーニング娘。のメンバーにはそれは出来ないのではないか。

おそらく、里田まいは、決して無回答という事をしない。一生懸命になんらかの回答をする。
そして、おそらく、その泥臭いほどの一生懸命さが、視聴者の共感を呼ぶのだ。

しかし、その姿が共感を呼ぶには、一生懸命さだけではない、彼女達の姿勢を受け入れるような、社会全体を覆う新しい価値観があるのではないだろうか。
そうでなくては、おバカキャラが社会現象にまでなることはないと思うからだ。
以下、考えてみる。
  ◆
通常、人前で間違うということは恥ずかしいことだ。少なくとも今まではそうだった。
そして、わからない場合は、わからないと言う。それが今までの倫理だった。

しかし、おバカ達は違う。間違いでもいいからとにかく何かを言ってみる。ダメだったらまた別の事を言ってみる。そういうトライ&エラーの前向きの姿勢があるのだ。

これは、長年、日本人が培ってきた伝統的生き方(毎年、暦と掟に従って、みんなで同じ作業をする農業共同体的な生活態度)とは明らかに違う。
伝統の技術を代々受け継ぐような、厳しい熟練の職人気質とも違う。
また(これは農業共同体の延長ではあるが)、周囲との協調性を重視し、コツコツと正しいことを継続することを善とするような従来の学校的、会社的共同体的な振る舞いとも違う。

それは、どちらかといえば、修正・テスト・デバッグを繰り返しながら、物を作っていくコンピュータプラグラミング的態度に似ているように思う。
また、ある銘柄にこだわらず、リスクを分散させながら、売りと買いを繰り返す株のトレーディング的態度にも似ている。
そして、これは、対象の情報が、正しいかどうかというよりも、いかに多くの人が使用したかによって、勝ち負けが決まるような検索エンジン的な価値とも通底している。

おそらく、先行き不安が広がる、未曾有の現代世界で生き残るには、信念を持って自分の信じた方向に進む強さよりも、たとえ、間違えたとしても、それに気付き、それをすぐに修正できるような柔軟性と勇気の方が重要である。

里田まいを始めとするおバカタレント達の活躍は、そんな現代的な価値観に、明らかに乗っている。
それは、無意識的な選択だとしても、決して普通の馬鹿にはできない。やっぱり、絶妙なおバカ芸なのである。

まさむね

最近、”くたびれ”が見える天才・明石家さんま

明石家さんまは、やはり天才だと思う。

小学校の時に、クラスで一番面白い人気者が、そのままずっと一番面白くて、プロになっても一番面白くて、つまり日本一になって、その日本一を30年位続けているという感じなのである。
例えるならば、サッカーのマラドーナや、陸上のボルトみたいに、負け知らずのブッチ斬りでトップになったような存在なのだ。

僕はさんまの存在をみていて凄いと思うのは、彼はあくまでも”表面的”なところである。
奥の深さが見えないところが凄いのだ。

奥深さというのものは、なにか持ち前の文化的背景(特別の知識、思想、世界観、修行経験等)があって、それを自分の中から引き出して、人を笑わせる芸風という意味であるが、ひとは年をとると自然と奥深さに頼ってしまうもなのである。
しかし、さんまは、そういった文化的背景が一切見えない(あるいは見せない)のだ。
そこが逆に凄いところだと僕は思うのだ。

さんまは、常に、その場で一番面白いだろう言葉を自分の中から、あるいは相手から引き出す。
アドリブ力が抜群といえばいいのだろうか、空気を読む力が卓越してるといえばいいのだろうか、とにかくその場限りの面白い事を言える天才なのである。

さんまを語るとき、逆にその他の同格コメディアンと比較するのが一番いいかもしれない。

例えば、北野たけしは、世界の北野としての映画の名声の他、浅草修行時代の体験、元々数学者になりたかったという理系的な冷静さ等の引出しを持っている。
タモリは、新宿ゴールデン街の退廃文化、70年代のアングラ・ナンセンス文化の匂いを、隠しナイフとしていつも忍ばせている。
紳助は、元々、さんまと同じ天才肌だが、さんまと出会って、「こいつに負けた」と思ったらしい。それから、一生懸命に自分自身の”厚み”を構築しようと努力する。田原総一朗の「サンデープロジェクト」にずっと席を置いて政治・経済に対する知識を習得したり、「なんでも鑑定団」に出続ける事によって、本物と偽者に対する感性を磨いているように見える。
また、ダウンタウンの松本も、映画というバックボーンを作りつつある。
そして、世代は異なるが、太田光は、太宰治、宮沢賢治等の日本文学、カートボネガット・ジュニア等のSF(彼の事務所名であるタイタンはカートボネガット・ジュニアの小説「タイタンの妖女」から取っている)等の文学的素養を足がかりに、文学、思想、映画等、かなり幅の広い素養を身に付けている上、「爆笑問題のニッポンの教養」等の番組によって、当代の学者達から多くのものを吸収しつつある。
さらに言えば、それに続く、クリームシチューの上田、劇団ひとりなどはそれぞれまだ修行中である。今後は、間違ってもさんま的な、感性を研ぎ澄ます方向にはいかないだろう。

それに対して、さんまの場合、サッカーとか犬好きとかの個人的趣味はあるものの、いわゆる文化的背景(奥深さ)を一切感じさることはない。
そういう意味において、彼はずっーと”小学生のまま”なのである。

しかし、そんなさんまであるが、近頃、若干の”くたびれ”が見えてきたように思えるのは、僕の気のせいであろうか。
今年の9月で終わってしまった「明石家さんちゃんねる」では、現場の仕切りを次長課長の河本にまかせる場面も多く、特に自分が興味の無い話題(例えば、美少年ネタ)などの時の存在感の無さは、これがあのさんまかと思わせる程のものであった。

一昨日、「踊る!さんま御殿!!」を見ていた時も、若干ではあるがそういった”くたびれ”が見えた。
その”くたびれ”は、編集によって、かなり隠されていたのだとは思うが、ところどころに散見された。
例えば、松村邦洋が物まねを披露すると画面は一瞬、さんまのウけた顔に行くのだが、すぐに離れてしまう。つまり、一瞬、さんまが過剰に(しかし、これが天才的なのだが、自然に、しかも独特に)、ウける事によって場が盛り上がるのだが、その盛り上がり空気の”息の短さ”が、見ているコチラに想像出来てしまうのだ。

とにかく全体のテンポを重視するさんまにとって、編集による助太刀というのが、もしかしたら欠かせないものになってきているのだろうか。
ちょっと残酷な言い方かもしれないが、もう”生”では出来ないのかもしれない、という事すら一瞬感じさせてしまっていたのである。

しかし、さんまが50歳を越え、そのうち60歳、70歳になっても、同様の芸風と、それを披露する場所、人気を保ち続けることが出来れば、その”くたびれ”も一つの味として、孤高の存在になるに違いない。
そういう意味で、さんまには、まだまだ走り続けてもらいたいと僕は思う。

まさむね

ジャイアント馬場は宮沢章夫の理想を体現していた

先日、爆笑問題のニッポンの教養・早稲田大学スペシャル平成の突破力~ニッポンを変えますか?~を見ていたら、宮沢章夫さんが出演していた。
宮沢さんは、80年代に「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」で、90年代前半に「遊園地再生事業団」で演劇界を席巻。「彼岸からの言葉」「わからなくなってきました」等のエッセイも有名だ。
その宮沢章夫さんが今、演劇に必要なものとして「くたびれた肉体」という事を言っていた。

確かに、演劇的に鍛えられた肉体が舞台の上に立つよりも、普通の人が普通に生活していって、年をとっていくと陥る、いわゆる「くたびれた肉体」が舞台の上で普通に歩いている方がおもしろい。

実は、それを実現したのが、90年代の大人計画だった。そこでは、いわゆる肉体的鍛錬をされていない役者達が織りなすリアリティのある混沌劇が展開されていた。
松尾スズキ、温水洋一、宮藤官九郎、阿部サダヲ、池津祥子、井口昇、宍戸美和公等、現在も活躍している役者もいるが、大人計画の舞台は、まさしく、まばゆい演劇空間、宮沢さんが言うところの今後の可能性を感じさせるものであった。

しかし、かつてその可能性を具現する大物が、演劇界とは全然別なところに場所にいた。

それがジャイアント馬場である。

宮沢さんがいうように、演劇界から今後の可能性として待望されていた「くらびれた肉体」と、大衆エンタテイメントの権化であるプロレス界に孤高の存在感をキープし続づけてた大物ジャイアント馬場。
僕の中で見事にハイブリッスパークを起しているのだ。

僕にとって、確実に馬場さんの肉体は、他の追随を許さない孤高の存在であった。まとめるとそれは以下の点においてだ。

1)馬場さんの肉体は、足のサイズも含め、圧倒的に巨大だった。
2)馬場さんの肉体は、アスリートとしては、完全に老いていて、自然体で猫背であった。
3)馬場さんの動きそのものが老人的であり、起き上がる時などにロープを手すりのように使用していた。
(※ちなみに、生前の馬場さんは、定期健診で運動不足です。といわれたという)
4)馬場さんの肉体は、対戦相手や観客をが、思わず気遣はざるを得ない空気を醸造していた。

特に馬場さんの動きは、農耕民族の所作に根ざした日本古来の動きに基礎を置いていたような気がする。
例えば、あの曲がった腰は、長年にわたって田植えをした者のみに特権的に与えられる年季を感じさせたし、技でいえばそのストンピングは麦踏の、ロープを背にした16キックは農作業後に温泉につかる老爺のくつろぎを想起させる。

それは、アングラ舞踏家・土方巽の動き=思想と無意識的通底しているといっても過言ではないだろう。

しかし、馬場さんはそうした宿命的な自分の体躯に対しては、ある種のコンプレックスを持っていたらしい。
一般マスコミが馬場さんを取材するときには必ず、事前に、「大きいですね」とは言わないようにという緘口令があったという。
この、スター性と残酷さの背中合わせの関係。エンタテイメントという言葉の裏に張り付く見世物という本質。
そのことを馬場さんは痛いほど認識していたのではないか。
それゆえに馬場さんが身に付けていた独特の暗さ。我々は忘れることが出来ない。

そして、残念なことにその馬場さんは1999年に他界してしまった。
プロレス界がそれ以降、衰退をたどった事は言うまでもない。
残念ながら、それ以降のプロレス界は、馬場さん(そして猪木)の遺産で食いつないでいると言わざるを得ない。

極論するならば、馬場さんの奇跡的生れ変り以外、プロレス界復活は無いであろう。
それが無理ならば、我々はいつまでも馬場さんの勇姿と、その暗さを心の中に刻んでおきたいものである。

まさむね

2008年FNS歌謡祭 斬らせていただきました

FNS歌謡祭

FNS歌謡祭

恒例のFNS歌謡祭が昨日あった。
4時間を越す長丁場。これだけ長いといいシーンも悪いシーンも、いいアーティストも悪いアーティストもごった煮状態。

勝手に概観を語ってみたい。

ノッケに出てきたのがSMAP。
ツアーの最終日という事で、札幌の会場からの生中継だ。
番組の冒頭にSMAPでつかんでという意図は分かるのだが、演目が無名曲だったのが残念。
「夜空のムコウニ」「世界に一つだけの花」位のサービスがあってもよかったような。
だって、クサっても歌謡祭だからね。
局とアーティストの力関係が露骨にでた瞬間でもあった。
ちなみに、いつもの草彅剛が不在のため、フジの局アナが司会。時々ニュースとか読んでる顔の四角い人。
剛とは四角つながりか。そんな安易な人選でよかったのか。

さて、SMAPのパフォーマンスだが、そこそこ...いや、実は辛かった(笑)...

二番手はWAT。SMAPの後だから、逆に実力を示せばチャンスかと思ったが、こちらも残念、轟沈。

そして、次は大橋のぞみと藤岡藤巻のポニョ。(親父の一人は過労で不在。のぞみちゃん無関心。)
さて、ポニョには、のぞみちゃんが歌えば、それがスタンダードになるという強みがある。
音のはずしも、当て振りの遅れも含めて彼女がやることが正解なのだ。

この後は、順不同。気になったアーティスト羅列させていただきます。

まずは、広瀬香美。
片桐はいりではなく広瀬香美。
周囲にPerfume、Pabo、青山テルマ、絢香を従えてのメドレーの披露。
Perfumeは音声にデジタル処理してないと結構辛い。
Paboの歌はカラオケ並か。
聴かせところは、絢香とテルマの歌合戦だが、押しの強さで絢香に軍配上がる。さすが大阪人。
本人・香美は、残念ながら高音出ず。

芸能人の”お仕事”をバッチリ披露したのが、郷ひろみ。
いつでも、ギャラ分のパフォーマンスは必ずこなす安定感は随一。
おそらく、郷ひろみがいつまでも若く見えるのは、彼が他のアーティストとの比較が成り立たないほどユニークなためか。
逆に言えば、SMAPなんかは、同類として嵐とかNEWSとかと比較されるから、劣化した印象を貫禄でごまかすしかないという辛さはあるよね。

途中、登場してきたのが、自称・エンタマイスターの小倉智昭氏。
たまにカメラが向くゲスト席で一人で、はしゃいで手を叩く。
そんなに首振って”帽子”ずれないか?
マイクを向けられ、嵐のことを「普通のいい子達ですよ」とバッサリ。これって褒めてるの?一応、スターなんだけどさ。
一方、EXILEには気を遣って、尊重。
そのEXILEは2曲披露。艶かしい。可も無く、不可も無く。

今年初といえば、ジェロ。
HIP-HOPのバックダンサー付きのパフォーマンス。
この人、実は、こういう音楽やりたいのかも。
10年後、独り言で「本当は、ダンスミュージック好きだったんだ。演歌はおばあちゃんに無理やり歌わされてたんだ」って告白したりして。
それにしても、この人の持ちネタとしての「おばあちゃん孝行」はいつまで続くのか。
その日本人のおばあちゃんの他にも、おじいちゃん二人、もう一人のおばあちゃんいるだろうに、それらの方々の話はいつも一切無しだからね。

その他、ミスチル、ゆずのトイズ系は無難。
浜崎はSEASONSのアカペラ頑張った。耳大丈夫か。いろんな意味で正念場。客席にTOKIOいたが、カメラ捕らえず。
そして倖田來未。今年を振り返るも、羊水発言には触れず。当たり前か。

それに織田裕二。誰もが山本高広のパフォーマンスが目に浮かんでしまう昨今、周りの人たちが微妙に気を遣っていて、薄暗い苦笑。
一瞬、ゆずの北川とツーショットに。「お互い月9数字取れませんな」とのヒソヒソ話が聞こえてきそうな場面。

そしてV6。簡保さんが踊ってた。それだけ。
TOKIOは地味な扱い。個人的に松岡のドラムとか上手だと思うんだけどさ。
矢島美容室の歌は実は僕は好き。途中マイク飛んだけど、声は聴こえてた。さすがタカさんだ。ただ、この矢島美容室企画って、代理店臭が強すぎない?

番組の間に入る過去の映像。ジュリーや山口百恵、松田聖子、やっぱり時代を創ったアーティストって魅せるよね。
でも一番インパクトがあったのが、尾崎豊。これこそ、一曲入魂というのだろう。
トップを維持しようとするとき、SMAPのように貫禄を出す方向に行くという手段もあるが、尾崎豊のように常にその番組で、一番のパフォーマンスを目指し、闘い続ける姿勢をくずさないアーティストの方がインパクトあるよね。

あっという間の4時間半。最後にまたSMAP。
「この瞬間、きっと夢じゃない」を披露。特にコメントなし。

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まさむね

 

テレビ業界不況を反映した紅白出場者決定

紅白出場者が決まった。

ほぼ、下馬評通りの選出だったが、ミスチルの初出演にはちょっと驚いた。
さすがに、オリンピックのテーマ曲「GIFT」とかも作ってたから、結局は人間関係で押し切られたといったところか。
「大晦日に、他のアーティストと一緒に歌えるのは感激です」とは桜井さんから、伝わっている感想だが、まさしく大人の対応だ。
だったら、今までとうして?っていうのは小さなツッコミ。

今年は、民放キー各社のコンテンツ絡みのアーティストが出揃った。

日テレは「崖の上のポニョ」の藤岡藤巻と大橋のぞみ。
TBSは「私は貝になりたい」から中居正宏と仲間由紀恵。司会に抜擢だ。
フジは「ヘキサゴン」の羞恥心withPabo。
テレ朝は「相棒」の水谷豊。

テレ東だけ、ハロプロ関連落とされて、ちょっと涙目?(正確に言えば、Paboの里田はハロプロだが)

しかし、これほど、各社タイアップ企画のキャラが軒並み登場するっていうのは、いつのまにかどっかで、”橋”を渡ったんだろうね。
とにかく、今期は、CMのスポットが入らなくて、各社減益。特に、日テレ、テレ東が赤字転落らしいからさ、とにかくテレビ業界自体が大ピンチ。なんとか、各社、不動産業(サカスのTBS)とか、コンテンツ事業部系の売上げ(「相棒」のテレ朝)、番組制作費予算カット(フジ)でなんとかしのいでいる状況でしょ。昔の映画会社みたいだよね。
いまや、今は、各社が競っているというより、みんなで斜陽産業を盛り上げようっていう事か。今年のテーマは“ひとの絆(きずな)”らしいが、どこか痛い。

でも、ちなみに各社のワイドショー、夕方のニュースで紅白歌手出場決定って大々的に報道していたわりに、そのニュースの最後で、自社の番宣を5秒位入れる苦しさも笑えた。

その他、初出場で、即納得は、Perfume、ジェロ、青山テルマ、いきものがかり。
ジェロは演歌歌手らしく、「(亡くなった)おばあちゃんのお陰です」って親孝行をアピール。
Perfume、いきものがたりは、それぞれエコCM、合唱コンクール等で”取引口座”がすでにある。NHK御用達系と言えなくも無いか。

個人的に興味深いのは木山裕策。月曜日の深夜番組の「歌スタ」からの成り上がり。
4人の子持ち、病気持ち、オーディション出って三拍子揃った奇跡の新人だ。

紅白には、こういう人生ドラマ系苦労人枠って毎回1~2づつあるよね。
今年は、この人と秋元順子。

そういえば、森進一は「おふくろさん」歌うんだろか。別に聴きたいわけじゃないけど、ちょっと気になる。

でもモーニング娘。落選がショックは僕。地方公務員層を支持基盤においていた彼女達だが、昨今の交付金削減、補助金カットなどの荒波が、地方公務員たちの給料に影響し、パッケージ販売を鈍らせたか!?
「ペッパー警部」も、阿久悠ネタ+前作からの期間などを勘案する限り、満を持したにもかからわず、今ひとつだったしな。
でも、ネットでは、今、紅白関連の話題ってモーニング娘。落選一色。
2ch、その他でも、ファン達の反省会、及び、今後の対策会議のスレが乱立している。
さすが、コンサート終了後、会場外でいくつかのグループでまとまり、「本日のコンサートの反省会」「高橋愛体制後の娘達の将来」等を真剣に議論してくれる暖かい(?)ファンがささえている。
心配しなくても、大丈夫だよ、ミッツィ~。

あと、保釈中の小室哲也は、残念落選。それでも、KEIKOが宇多田ヒカルの協力を得て、「Prisoner of Love」(翻訳すると愛の囚人)歌うとか。
「平気な顔で嘘をついて 笑って 嫌気がさして 楽ばかりしようとしていた ないものねだりブルース ~♪」って、ないか。

まさむね

闘っている女性は美しい ~『女の読み方』書評~

“嫌われる女”が好きだった。いや、好きな女が嫌われてしまう、と言ったほうが正解かもしれない。
なぜ、彼女たちは嫌われたのか?今にして了解できる。
時代風潮に逆らっていたからだ。
時代と闘っていたからだ。
彼女らが”闘っている”その姿にこそ、私は魅せられたのではないか?闘っている女は美しい!単純にそう思う。
今でもそれは変らない。
-「女の読み方 (朝日新書 81) 」中森明夫 P15-

闘う女、そして嫌われる女といえば、まずは、僕の中ではオノヨーコと神田うのである。
中森氏は、勿論、この2人に関してもつづっている。そこで、中森氏の文章を踏まえ、僕なりに、2人について書いてみよう。

まずはヨーコ。

実は、中森氏がSPA!の「ニュースな女!」のコーナーで最初に書いたのがヨーコだったという。
最初という事もあってか、ヨーコが怖かったからか、残念ながら、その文章は硬い。
しかし、それもむべなるかな。60年代をブロンズ化した(本書より)ヨーコを前にしては、人は、思い出を書くか、その強靭さを書くしかないのだから。

今年もジョン・レノン・スーパーライブの季節がやってくる。
ブロンズ化したヨーコの変らない言葉をまた聞くことができるのが楽しみだ。
「夢の力で、世界を変えよう」っていうメッセージを発生するヨーコだが、自身は全く変らないってのが闘女・ヨーコらしくていい。

そして、うの

うのの名前が、持統天皇の幼名、鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が由来である事を本書で初めて知った。
持統天皇は相当に強引な天皇である。
自分の息子の草壁皇子が夭折してしまったために、次の天皇に、孫の文武天皇を強引に即位させるのである。
さらに、これを正当化するために、記紀における天孫降臨を、天照大神の”子”ではなく、”孫”のニニギノミコトにさせたとも言われている。
敢えて言うならば、自分の孫のために、神話の改竄をした天皇なのである。

その持統天皇の幼名を自分の子供につけた親も親だが、子も期待に違わず成長し、モデル、タレントを経ていまやクリエイターとしても成功。
今や、億万長者である。
“うの”という名前のプライドに違わず、自分を強引に貫いている彼女。
尤も、自分では闘っているという意識は無いのかもしれない。

この本には、本当に、いろんなネタがつまっている。
じっくりと読んでみると、この本を起点にして、語ってみたい女性が沢山発見できる。

聖子、アムロ、あゆ、蓮舫、あんな、なっち...

みんな闘っている女達だ。

まさむね