人気少年アニメにおけるそれぞれの父親達

日曜日の19:30から、MXで「ムーミン」の再放送をやっていた。

実は僕が一番好きだったアニメはこの「ムーミン」だったのだ。
「巨人の星」とか「あしたのジョー」っていう梶原一騎物の手塚治虫の「どろろ」とか「ジャングル大帝」とかも勿論好きだったけど、どれか一つを選びなさいと言われたら、僕は「ムーミン」をあげる。

ムーミン谷では毎回、日常世界異物が入り込む事によって、ささやかな事件が起きる。
それは、時に、村人達の欲望に火をつけたり、お互いを疑心暗鬼にさせたりして、彼らの心をかき乱すんだけど、最終的には、その”謎の異物”が排除されると村人は、「あれは何だったんだろう」的な置かれて、元のボーッとした善良な人々に戻るのだ。

みんなが同じ観念に取り付かれて暴走していく事の危険性を、裏返して言えば、たった一人でも正しいと思ったことは主張すべきだって事を言っていたんだろうなって、今更になってみると思うよ。

そんなムーミンにはいろんな登場人物が出てくるが、僕がいつも気になっていたのがムーミンパパだ。
ムーミンパパの職業は小説家だ。しかも、いつまでも最初の1行が書けないでいる小説家だ。
(先日見た、現在、再放送されている新バージョン(1990年版)では、自分の過去の伝記を書いていたが。以前のバージョンでは、そうだったはずだ)
ムーミンにとってパパはいつも、どこかにはかり知れない未知の存在だ。
ムーミンがパパの事を質問するとパパは、「それは大人になると分かることだよ」とニコニコ顔ではぐらかす。
そういえばアニメにおける父と息子の関係ってそれぞれ見てみると面白いよ。

例えば、「巨人の星」では、飛雄馬にとっての一徹は、権威そのものだった。
「オバケのQ太郎」の正ちゃんにとってパパさんは、頼りない存在。
「天才バカボン」におけるバカボンとパパの関係は、友達関係。
そして、「ゲゲゲの鬼太郎」では、鬼太郎にとって、目玉オヤジは何でも教えてくれる知恵袋だ。

男の子にとって、父親とは何か?未知の存在?権威そのもの?頼りない存在?友達?知恵袋?

これらのアニメが放映されていた60年代後半~70年代最初にかけてだけど、戦後、標準的な親子関係のイメージは、どんどん分裂して、本当にバラバラになっちゃったんだね。
これらの有名な少年アニメにおける父親像のバラバラさは、その事を表わしているのかもね。

まさむね

60 年代のギャグ作家・赤塚不二夫

7月30日に赤塚不二夫が亡くなった。
赤塚漫画は、昭和30年前半に生れた僕達にとって、多大なる影響を与えてくれたんだよね。
遅ればせながら、心よりご冥福をお祈りいたします。

赤塚不二夫における3大ギャグ漫画といわれる「おそ松くん」「もーれつア太郎」「天才バカボン」。
面白いのは、3つの漫画とも、主人公は普通の人なのに、その周りのキャラクタが個性的なことだ。
ア太郎は、父に先立たれた少年の八百屋であるが常識的なキャラであり、バカボンは、おっとりした普通の少年だ。
さらに、おそ松くんに至っては、六つ子だから、誰がおそ松くんかわからない程度の個性しかもっていない。

一方、周辺キャラを挙げてみると、

「おそ松くん」のダヨーン、イヤミ、チビ太...
「もーれつア太郎」のニャロメ、ココロのボス、ケムンパス...
「天才バカボン」のパパ、レレレのおじさん、おまわりさん...

このキャラクタの雑多さが赤塚ワールドの本質なのだろう。

さて、これらのキャラクタの中で、僕が最もお気に入りなのがニャロメだ。
個人の思い出で言えば、イヤミのシェーをやった記憶はないのだが、学習ノートにニャロメは何匹描いたことか。

ニャロメは、いつもみんなとは逆の事を言い、みんなを扇動し、すぐに欲に目が眩むが、一方で純情で仲間思い。
そして、最終的にはいつも失敗する愛すべきキャラクタである。
赤塚不二夫は後に、ニャロメを全共闘のゲバルト学生の象徴だったと打ち明けているが、言われてみれば、ニャロメはまさに、60年代の混沌を具現化したキャラだ。

赤塚不二夫の漫画は寺山修司のアングラ芝居、大島渚のヌーベルバーグ映画、北山修のフォークソングと同じように60年代の空気を作品化したんだって言えるかもしれない。
それまで、江戸小噺や落語の世界みたいに大人の文化を前提としたお笑いがメインストリームだったのを、ナンセンスギャグっていう若者文化を背景とした世界を漫画というフィールドで構築したのが赤塚不二夫だったと思う。

実は、上記3作品に「ひみつのアッコちゃん」も含めた赤塚不二夫のスタンダード漫画は全部、60年代に生れている。残酷な言い方をするならば、70年代以降の赤塚不二夫は、キャラクタ管理者になっちゃうんだよね。

まさむね