若者世代の団塊世代以上に対する怨嗟は凄いのかも

今月は、東京都の「振り込め詐欺撲滅月間」だったらしく、警察は都内のATMとかに、6000人の警察官を配置しているらしいんだけど、それでも被害は無くならない。
14日までにすでに94件(約1億7000万円)の被害。そのうち16件は警察官の目の前で振込みが行われたという。

各局の報道・情報番組では、さらなる注意を呼びかける。
「手口はどんどん巧妙になっています。皆さん、くれぐれもお気をつけください。」
「でも、そういう状況になっちゃうと、振り込んじゃうんですよね。お気の毒に。」だってさ。
昔は、日常社会では、詐欺に騙される奴の事を単純に”馬鹿”と言ったものだが...昨今のメディアでは当たり前だけど、そんな事、言えない。

一方、2chとかでは、こういう被害者に対して、気の毒っていう人は少数派。大多数は残酷な言説だ。
「老婆が溜め込んだお金が市場に流れるのはいい事だ」とか「ついでにショック死してくれるとそいつに年金払わなくて済む」とか、そこまで言うか。
しかし、2chユーザー(30才が40%と言われている)の団塊以上の世代に対しての恨みにも似た嫌悪は凄いな。

一般に、格差の中には、地域格差や所得格差、教育格差等、いろいろとあるけど、若者にとっては、年代格差っていうのが一番切実かもしれないね。

バブルを謳歌した団塊世代、それがはじけて、大借金(赤字国債)がなんと800兆円。
そのツケは下の世代に押し付けて、自分達は定年退職、年金生活者に。
そのあおりを受けて、若者世代は、非正規雇用が1/3。その多くがワーキングプア状態。
ちなみに、現在、日本の貯蓄総額は1500兆円だっていうけど、そのうち3/4が60才以上に集中しているって言われてるよね。
そんなに溜め込んでて、高齢者医療制度に関して、”天引き”が嫌だって、何、眠いこといってんだろう。で、それでなんで政府がそのくらい説得できないんだろう?

彼らは若者に「辛抱しろ」と言うけど、もう時代は我慢していればいいことがあるような時代じゃないんだよ。年功序列・終身雇用の時代は終わってしまったのだ。

先日、石原都知事がネットカフェ難民が1500円でネカフェに泊まるのはファッションの一種だ。山谷に行けば300円で泊まれるのに、って発言してネット上で大顰蹙を買ったけど、その彼は今、オリンピック誘致を推進しようとしている。
自分は決めて(手柄だけ取って)、作業は下の世代に押し付けとしているのだ。勘弁してほしい。僕は大反対だ。
石原軍団で、準備から警備まで勝手にやってくれというのが本音。

一方、こんな時期にあの星野仙一のWBC監督案が浮上しているという。
ネットにおける彼への嫌悪感は、若い世代の団塊の世代への本能的な恨みが背景にあるんじゃないかな。
星野さんの行動パターン、口先ばかりで大きな事言って、、仲間とつるんで大騒ぎして、しかし結果を出せない。全共闘の学生運動思い出すよ。
尤も、星野さん自身は、68年の明大闘争では、当局の要員としてデモを潰す側だったらしいけどね。

いずれ若い世代はなんらかの反乱を起すのだろうか。気持ち、既にグツグツかも。

まさむね

星野監督のドラマ体質と残酷な五輪

北京五輪の野球の結果は誠に残念だった。

敗因はいろんな解説者が出し尽くした感があるので、ここで素人の僕が付け加えることは特に無い。

ただ、気になったのは星野監督の、己のドラマに対するこだわりだ。

決勝戦、3位決定戦での采配ミスに関して、彼は、テレビインタビュー(ZERO 8.25)でこう述べている。

質問「選手起用ついてお伺いしたいんですが、調子が良くない、あるいはミスした選手、実名を挙げますとGG佐藤選手ですとかピッチャーで言うと岩瀬投手、準決勝であまりよくないパフォーマンスの中で3位決定戦でも使い続けました...」
星野「はい、言われますね。これが私のやり方なんです。挽回させてやろう。もう一回チャンスを与えてやろうという。一度や二度、失敗したからと言って、という...(後略)」

このやりとりを聞くにつけ、星野監督は、勝負にこだわる以上に「部下思いのいい上司でありたい」という自分と、期待を意気に感じて大活躍する選手との感動的なドラマに、取り付かれれて生きるタイプの人間と思わざるを得ない。

その直後、キャスター氏は当然のごとく以下の質問を続ける。

質問「それは、僕は長期決戦だったらわかる気もするんです。ただ短期決戦の場合には、そうも言ってられないじゃないかなと私なんかは思ってしまうんですが。」
星野「そうなんですけれども、代わる選手がいないんですよ。正直言って。体調面を考えるとか、台所事情が。その苦しさはありましたね。え~。」

だったら、最初から正直に、現実を言えばいいではないか。しかし彼は、上記の判断を己の美学として語ろうとするのだ。

しかし、五輪という場は残酷だった。
戦いの最中には、星野的ドラマが入り込む余地は無かった。
そこに必要なのは、勝利を得るためのリアリズムのみであった。

そして、ドラマは勝った者のみが許される特権である。
例えば、フェンシングの太田選手や体操の内村選手、柔道の石井選手を見るまでも無く、彼らは勝利したがゆえに、ドラマを手に入れることが出来た。そして、マラソンの土佐選手や柔道の鈴木選手はドラマを作ってもらえなかった。

一方、星野監督は上記のように、ドラマを己で演出するようなタイプの人間である。すなわち、ドラマ体質の人なのだ。
勿論、それはプロとしても稀有な才能だ。だから彼は成績は超一流ではなかったが、男・星野の反骨精神というドラマを武器に、全日本の監督にまでのし上がることが出来たのだ。
しかし、彼は五輪の監督しては、あまりにもファンタジックではなかったのか。

あの準決勝と3位決定戦の惨敗を目の前にして、かつて、プロレスラー達がリアルファイトのリングでボコボコにやられ続けた。あの風景を思い出してしまった。

まさむね