パヤヲの物語

千と千尋と日野ヒデシの恐怖豚の街の関連性を真っ先に指摘した当イッボンギであるが、時代の差をぬきに比較できないが、ボニョでパヤヲは既に大手塚(だいてづか)を凌駕したと思う。ルパン三世とナウシカでほぼ手塚にならぶ知名度を得、その後の作品群で(漫画と映画を単純に比較出来ないが)手塚に対して量的にも遜色無いと思う

盟友であり思想的師であった高畑を、才能の差で飼い殺しかつ再起不能にし、彼のバイブルでありあったゲド戦記はナウシカで用済みとなると息子の手で映像化し致命的ダメージを作品に焼き付け、最初映像化を袖にし後に懇願した作者ルグインを苔にした様は大作家の風格である。まさに親殺し子殺しの主人公さながらに悲劇で喜劇だ。大衆的かつ前衛的、家族的でロリコンで、左翼的でエコでアナーキ、この時代に生まれてホントに良かった
大友の絵に対してボクも描けるといい
イシノモリや劇画の胎動に対して言い放った前代の神様さながらだ

他でも指摘するものがいるが、唯一、黒沢との対談映像でパヤヲがヘコヘコする様だけが神様の汚点である。

黒澤なんて二人に比べたら寡作な前座の神様だ

アフタースクール 勝利する中学時代の純情

内田けんじ監督、大泉洋、佐々木蔵之助、堺雅人出演の「アフタースクール」を見た。

はっきり言って、私の理解力では、1回見ただけだとよくわからないディテールが多かったが、この話がどういう価値観に基づいているのかということはおぼろげながら、解釈することが出来た。

ここでぶつかっているのは、佐々木蔵之助扮するチンピラが体現している実社会的・経済的価値と、大泉洋が体現している学校的価値だ。

話の途中で、小利口なチンピラ(佐々木蔵之助)が中学教師(大泉洋)を「この世間知らず!、早く中学、卒業しろ」と罵倒するが、最終的には、逆に「どこのクラスにもお前みたいな奴はいるよ。つまらんつまらんと言いながら他人のせいにばかりしている。」と反論される。

詳細の展開(この映画での一番の面白いストーリー)は省略するが、結局のところ、この映画は、中学時代的価値である初恋、友情、勤勉、正義といった価値が勝利する映画である。

最近、メディアでは学校で教える事や、教科書に書いてある事には価値が無い的な言説がはびこっているが、俺的は、今後は、個人的なレベルでは、スタンダードな人々の地味な価値観こそ再評価されるべきだと思うし、その意味で、この映画は、評価に値すると思う。

まさむね

ALWAYS続・3丁目の夕日 ノスタルジーの欺瞞

現代の理想を昭和の良き時代に投影した映画である。

貧乏な文学青年茶川竜之介(吉岡秀隆)。とりあえず下町の駄菓子屋の主人の傍ら芥川賞を目指している。
そこに転がり込んできた少年、淳之介(須賀健太)。
最初は、茶川に鬱陶しがられるが、段々愛情が芽生えていく。
そこに少年の本当の父親(小日向文世)が現れ、「私ならば、この子を幸せに出来る」と言って、少年の返却を迫る…

そして、茶川はその父親に、今度の芥川賞を受賞出来なかったら、少年を返すと約束してしまう。

しかし、結局、受賞は出来ず、少年は父親に返さなければならなくなった。しかし、少年の茶川と別れたくないという熱意、受賞祝いに集まった近所の面々が作り出す「空気」に気おされ、結局、父親は少年の意志を尊重し、そのまま帰ることとなり、めでたしめでたし。

さて、この映画に流れる価値観は極めて現代的である。ある調査によると「自分にとって一番大事なものは何?」というアンケートによると40年前と現代を比較して一番減ったのが「お金」そして一番、増えたのが「家族」であった。「昔」の日本人の方が、現代人よりも「家族」よりも「お金」を大事にしていたのだ。

かつての日本には、お金よりももっと大事にすべき価値観があったという俗信とは別に、リアリティのある回答ではないか。

しかし、この映画の中には、そんなリアリズムは無い。すなわち、そのお金には全く、価値が置かれていないのだ。
それどころか、お金持ちになりたいという素朴な欲求はむしろ敵とされている。

また、血のつながった親子が優先されるべきという儒教的論理も相手にされない。中国・韓国ではこの映画どういった見方がされるのだろうか。

結局、少年と茶川と近所の人々の”気持ち”とそれらが作り出す「空気」が状況を決定してしまうという、誠にもって現代にも少しも衰えていない日本的な価値観に支配された作品ではないのか。

さらに言えば、芥川賞を受賞できなければ、茶川は少年を父親に返すという一種の契約も簡単にホゴにされるという強引ぶり。契約社会と言われる西洋の方はこの映画をどのように見たのか、感想が気になるところだ。

ちなみに、昭和30年代の最初の頃を肌で知っている私にとって、当時は、ネズミやハエの鬱陶しさ、夏の暑さや冬の寒さに厳しさ、そういった低次元の苦痛にいつも悩まされていたような気がする。だからこそ、みんなクーラーや自動車やマンションを選んでいったんでしょ。

そういった気持ちの変遷を考えないと、こういった欺瞞的映画に単純にだまされちゃうんだろうね。

まさむね

「恋空」ツッコミ所と絶妙な隠喩の微妙な混在

新しい映画だと思った。

一見すると、こんなにつっこみ所満載の爆笑映画は他に無い。
今後、映画界では、このつっこませ映画=「恋空」的手法が主流になって行くのではないかとも思わせる。

病院の無菌室で持ち込みキャラメルを食べるは、携帯電話はかける。クリスマスの夜には必ず雪が降るは、図書館にあった黒板の文字(あなたは幸せでしたか?)が2年間、消えずに残っているは...等々。
もっとあるから、みんなで探してみてね。

ただ、この映画は隙の多いただのバカ映画ではない。映像の中にはそこかしこに、分かる人にはわかる印がちりばめられているんだ。俺が注目したのは、図書館での本だ。

ミカ(新垣結衣)が落とした携帯が図書館の本棚に置いてある。
その携帯の脇にマルセルプルーストの「花咲く乙女たちのかげに」(『失われた時を求めて』の第2編)とボリスヴィアンの「日々の泡」が並ぶ。そして、その2冊が、後のシーンで、「今週の推薦図書」として図書館の黒板に、何気なく書かれていて、この映画の主題と重なっていくんだ。

最初が「日々の泡」。この小説は、いつの間にか、体が病魔に蝕まれて(体の中に睡蓮の花が成長して)死にいたるという話。死は不条理にも人に忍び寄って来るというのが主題だ。

次に図書館の黒板が写るシーンでは、『幽霊たち』(ポールオースター)が推薦されている。「そこにいるけれども、そこにいない存在の大きさ」が、この小説の主題である。ヒロ(三浦春馬)の存在をどうしても消せないミカの内面の隠喩になっている。

そして卒業後に図書館を訪れた時に、消えかけてはいるが「花咲く乙女たちのかげに」らしき文字が見える。この小説の主題は、単線的な時間の流れとは別に、人間は独自の生きられた時間の中で生きるという哲学的なもの。ヒロの死後、現実の時間とヒロとの時間の2つを生きようとするミカの生き方とシンクロするんだよね。

表面的なつっこみ所の多さと、意外にも深い隠喩のアンバランスがこの映画の特徴だと思う。

まさむね