あらためてマスコミの報道劣化を思うこの頃

神谷秀樹さんの「ゴールドマン・サックス研究」(文春新書)を読んだ。著者は元ゴールドマン・サックス証券の社員でその後独立して会社経営を行っている方で、その他の著書では「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(文春新書)、「強欲資本主義を超えて 17歳からのルネサンス」(ディスカバー携書)などの本もある。いずれも底流で共通している認識は、いわゆるリーマン・ショックに至る一連の金融危機は実業が必要とする以上にお金が溢れてしまった状況(過剰流動性)のなかで、やがてお金がお金のための増殖に向かった結果起こるべくして起こった事件=危機であり、その後なんら本質的な解決がなされないまま次の崩壊に向かっているという苦い認識だと思う。
これは比較的つい最近まで金融に身を置いていたぼく(今はそういう意味では実業に移ったが)も同じくする考え方だ。いわば金融業界が壮大な詐欺まがいのことを行っていたのだが、胴元の張本人たちはその責任をとらず(小粒のリーマンが潰れたりはしたが)、国がいまなお膨大な借金の肩代わりを行い、さらに言えばそのツケを各国の国民が負わされてしまっているという構図。広い意味でギリシャ危機もそうした連鎖の一つだと思う。
そのような結果としてたとえば神谷さんの目に映るアメリカの現状は次のようなものだ。以下本文から抜粋する。

「自動車産業の中心だったデトロイト市では人口が200万人から80万人に激減した。・・一軒家の平均価格が1万5000ドル。それでも買い手が現れない。カリフォルニア州の市には、自前の警察を維持できなくなり、これを廃止し、手数料を支払って隣の市の警察に警察業を請け負ってもらうところも出てきた。ハワイ州ではとうとう学校を週4日制にしなければならないという(最近ぼくは夏休みで行ってきたばかりだ!)。私が住むニュージャージー州でも、校長と教頭と二人居るところは一人にするという発表があった。ごみの収集日も減った。・・・」

これは神谷さんの目に映っている日常茶飯のアメリカの実情だろう。だがこうした実情をめぐる報道は今の日本のメインのニュース番組ではおそらく決して流されることはない。一時住む家を追われてテント暮らしをしているアメリカ人たちの様子をTVで流していた時期もあったが、今はまったく報道されなくなったといっていいだろう。何も終わったわけではないのだが。
ここにはアメリカからの報道当局への無言?の圧力規制やスポンサーの意向などもあるかもしれない。あまりネガティブ報道をしてくれるなといったような・・・。それよりも、喉元を過ぎれば熱さを忘れるで、もう次の成長ネタを探すことに新聞もテレビも興味の主力が移っているように見える。
やれ中国や新興国の需要を取り込め、次の市場と成長に遅れるな、日本が遅れつつあって取り残されてきている、それもこれも構造改革をしないからだ、なんだかんだ、etc.・・・・。特に日経新聞の論調などによると資本市場は一貫して正しく、それに乗り遅れているのは日本がいわゆる古い体質を払拭できず、構造改革を行っていないからだということになるのだろう。
だが、はたしてそうなのだろうか。それよりも論調以前の対応として、上記のような金融に翻弄された結果として当たり前の辛く厳しい生活の実態や事実をまず継続的に報道することからすべては始まるのではないか。そうした事実の提供を受けてそのあとどう考えるかは各自の自由だ。
そのような先ずもって手つかずの報道を行わないとしたら、どこに時事を担うマスコミの本分があるのだろう。いまのマスコミはなにか非常に見えにくい形で上手に統制がとれているようだ。まるで戦時中の大政翼賛会のよう。報道しないということにかけてはどの新聞社もテレビ局も同じように見える。あるいはその逆もある。小沢一郎を叩く時の姿勢などはどれも一様だ。
ぼくが高校生の時にベトナム戦争が収束したのだけど、あの当時のマスコミにはもっと各社各様の報道姿勢の違いがあったように記憶している。政府寄りであろうとなかろうと、いろんな見方の提示があったと思うのだ。なによりも直接現場に行って見て報道しようという姿勢がまだ強く残っていたと思う。
だけど特に湾岸戦争からいわゆる9.11以後、イラク、アフガニスタン紛争にしても肝心のことはまったく報道されなくなったように思う。ニュースソースがCNNやブルームバーグやロイターなどのお抱え通信社?に限られて、どこも独自ルートでの聴取がなくなり、結果「同じ報道」になっているように見えて仕方がない。少なくとも日本が劣化しているというなら、同じようにいやそれ以上に報道とマスコミが劣化しているのだと思う。
TVの番組といえば吉本の芸人を使ったお笑い番組が席巻するかあまり予算のかからない旅番組や料理番組ばかり。新聞記事もいつも同じ市場と成長と構造改革のテーマのくりかえしだ。しかも自由でなければならないマスコミのはずが、まさむねさんも以前指摘していたことだけど、既得権益に守られている自分たちのことはその歪みや問題点としては決して取り上げることはない。だいいちTV局と新聞社が未だに同じ資本系列でつながっているなんてマスコミ本来の役割である中立の視点からいってもあってはならないことだろう。
加えてマスコミの姿勢は起こったことについては過去のこととしてそれ以上考えさせまいとし、たえず目先のこれからばかりに話題をすり替えてゆくだけのように見える。鮮度が大事。それと一斉に同じテーマでの報道という意味では、最近では地球温暖化であり生物多様性ということになる。これも不思議でしょうがない。みんな実際に見て事実の検証をしたわけでもないだろうになぜ同じ報道のテーマになるのだろう。陰謀論は好きではないが、なにか陰でそれを煽りたがる一つの意思が働いているとしか思えない。
現代がますます差別化しにくく金太郎飴的になっているのだとしたら、マスコミもその例外ではない。もっと加速しているとも言える。少なくとも今のマスコミ(TV局や新聞社)はオピニオンを形づくるだけの品位も知性もすでに喪失しているのだと思う。
さらに言えばまさむねさんも以前のエントリー記事で書いていたことだけど、その国の政治とはけっきょく民度以上のものにはならないということにも通じるのかもしれない。けっきょくそういうマスコミになってしまっているのはぼくらの民度がそうさせてしまっているということでもあるのだろうか。とても残念なことだと思う。

よしむね

安室も浜崎も宇多田も平原もみんな戦う女戦士のようだ

平原綾香のコンサートに行ってきた。たしか新世界ツアーと銘打たれたもの。ご存知のとおり彼女の歌はクラシック原曲をベースに独自の歌詞をつけて歌ったものが多い。改めて思ったのはとにかく歌がうまいということと、その圧倒的な音楽力のセンス。

これはぼくら70年・80年代にその青春を過ごしたものからすると、明らかに圧倒されることだ。まさむねさんが「動物化するポストモダンは尖閣事件以降も有効か」のエントリー記事で取り上げていたことだけど、動ポスの認識では現在は大きな物語が終わったあとの時代に位置するということになる。大きいか小さいかはべつにして、たしかに70年代・80年代にはスター歌手たちの登場にもまだ物語(虚構のヒストリーが必要とされた)があったと思う。

おそらく山口百恵なら家庭的に不幸な少女で多感な大人びた女という物語を生きなければならなかったし、松田聖子はまさに80年代初頭という軽さとポストモダンと新人類が喧伝され始めた時期にブリッ子という物語を演じてみせていた(そして今はひとり頑張って生きてゆく大人の女という物語。もう現役という意味では松田聖子くらいしか残っていないから持続する物語としてこれはこれで僕は共感するのだが)。

でも安室奈美恵にも浜崎あゆみにも宇多田ヒカルにも平原綾香にもそういった意味での物語はない。というよりも多分必要ないし、もう時代がそんな仮構の物語を必要とはしなくなったのだと思う。何よりも彼女たちは歌唱力(いわゆるヘタな歌手はひとりもいない)が抜群だし、表現力も才能も豊かであり、みんな天才だし、言ってみれば音楽そのものだけで佇立していると思う。

その佇まいはどこか戦う女戦士(美少女の)を思わせさえする。現代版ジャンヌ・ダルクといったら大げさだろうか。どこか孤高で孤独で少女っぽくかつ近寄りがたく、でも本人はみんなへのメッセージのために歌うというみたいな・・・。

そこにあえて物語を上げるとすればそれは場末のストリートと直結しているということかもしれない。どこかの街角、そこで偶然に出会い、あるいはそこに落ちてきた落胤たち、というような無数の背景と履歴をひめながら。唯一いま物語になるとすればストリートが一夜にして生み出した歌手というようなことかもしれない。これも音楽会社の戦略なのかもしれないけど。宇多田はお父さんや母親がミュージシャンであり歌手だから二世の物語もあるかもしれないが(平原はお父さんがジャズ奏者?)、宇多田の場合お母さんの藤圭子が演歌歌手だから必ずしも踏襲の物語ではないだろう。それよりもむしろ圧倒的な天才性か。

彼女たちがこれからどこへ向かうのか、僕は知らない。でももう大きな物語を持たず、持つことができず、ひとりひとり歌っている彼女たちに声援を送りたいと思う。やはり音楽(歌)で佇もうとしているその姿勢は素晴らしいのではないかと感じるからだ。

よしむね

「工場夜景クルーズ」とかけて「恐竜展」ととく、そのココロは「終わりをめぐる物語」かな

この8月、9月とそれぞれランダムだったのだけど、週末に工場夜景クルーズと恐竜展に行ってきた。工場夜景クルーズは以前から興味があり、一度行きたかったもの。横浜の赤レンガ倉庫脇の桟橋から出航して京浜運河地帯を周航するコース。化学コンビナートのプラントやLNG基地、オイルターミナル、発電所などを経巡りした。

乗船している客も多く、カップルたちだけではなくて、いわゆる家族で来ている人たちもふくめて、それこそ老若男女。幅広い人気を窺わせた。たしかに夜の湾岸にうかぶ工場群は幻想的でどこか未来的・SF的な映像の乱舞に見えた。配管が剥き出しになった光景などは一番イメージに近いのはSF映画「エイリアン」のギーガーが製作した無機的な(有機と無機の混合のような異種たちがかもし出す)映像風景かあるいは塚本晋也監督の「鉄男」の風景に近いかもしれない。

一方の恐竜展は六本木ヒルズの森アーツギャラリーで開催されていたもの。こちらは子供を連れた家族中心でかなり混雑・盛況だった。恐竜には個人的に興味があり(僕が子供のころ、ご多聞に洩れず恐竜のフィギュアを集めたものだった、ゴジラとか全盛だったし)、地球最古の恐竜展というネーミングにもひかれて行ったのだ。展示自体はすこし期待はずれだったが(CGやフィギュアが多く、化石がやや少なかった印象)、まあよしとしよう。
この二つに行ってみてから後日改めて思ったことがある。それは二つの共通項だ。どちらも終わりをめぐる物語だということ。無人の工場はいってみればモノとしての終極のすがただと思う。僕らが夜景の工場群を幻想的だと思うのはそれが昼の労働や機能・実用性から離れて浮遊していっていわば最終のモノそれ自体になってしまったからだと思う。

有機をはなれて無機的なモノになってしまうと逆にすべてのものが妙に美しく幻想的にみえるから不思議だ。フロイトならばそういう無機的なものへの憧れの傾向を死への衝動というらしい。だとしたらぼくら都市生活者である現代人は多かれ少なかれ死の衝動を秘めた人たちということになるのだろうか。
それから恐竜展についてもそれがこんなに根強い人気がある(夏休みというとどこかで恐竜展のたぐいをやっているように思うのだが)のは、恐竜という、かつて最強だったものが滅びて今はいないという、これもまた終わりを秘めた物語だからではないか。そこにぼくらはある種の郷愁のようなものを感じるのではないだろうか。

しかもその物語はさらに色付けされて最強伝説の物語になっているのだ。時は三畳紀の古代、ある夏の日に幅10キロメートルの隕石がメキシコ湾、ユカタン半島沖に落下。それが引き金となって巨大な天変地異となり、恐竜が絶滅したという。驕れるもの久しからず。地上最強といわれたティラノザウルスも滅びぬ。最強のものもいつか滅びる(終局が来る)というこの手のストーリーは延々とハリウッド映画でも踏襲されていることは言うまでもない。

さてこうした企画がぼくを含めてたぶん多くの人に人気があるのはどうしてなのだろう。別に答えがあるわけじゃないのだけど、僕なりにひとつ思えるのは今の多くの日本人たちが終わりを見たがっているんじゃないだろうかということだ。あるいはなにかの終わりに自分たちの履歴を重ねたがっているのかもしれない。

失われた10年とも20年ともいわれ、平成ダラダラ不況が続き、いつ何かが始まるのか終わるのかがまったく見えなくなった時代。混迷の果てがわからなくなった時代。せめて心情的にだけでもなにかが終わるということをこの目で見届けたいのではないか。そんなことをふと思った次第。まわりはもうすっかり秋の夜長になってしまったなあ。恐竜も遠くなりにけり、か・・・・。

よしむね

煙草のみだったぼくが最近思う非常識なこと?

10月からタバコが大幅に値上げするという。喫煙者にとってはつらいことかもしれない。これを機に止めようという方もおられるだろう。かく言うぼくも去年までは結構なスモーカーだった。足かけ30年くらい吸っていたので肺は依然きれいになっていないだろうけど。

去年止めたのは骨折の怪我をして自宅療養していたときに自然に止めてしまったというのが実態に近い。自ら喫煙している整形外科の担当先生は骨の発育とタバコの有害さが医学的に証明されているわけではないので、吸いたければ許可しますよ、とおっしゃっていた。それなのに止めたのは、べつにからだの健康を考えて止めたというのではなく、単にあるときタバコがとてもまずいと感じて、そのまま止めてしまったというのが一番正確なところだ。だから苦労して止めたとか、意識的に止めていったというわけではない。
もしかしたらまた吸い始めることもありえる。最近の嫌煙をめぐる風潮についてはファシズムとの兼ね合いでモノ申す意見や、健康オタク主義への行き過ぎ、タバコの悪が本当に医学的・科学的に証明されているのか(地球温暖化説の真贋然り、自動車の排気ガスのほうがよほど肺に悪いかもしれない)などまだまだ反諸説も多いと思う。

ここではその是非について論じることはしない。ただ実際にたばこを止めて思うのは、流れてくる煙の匂いはたしかに嫌だなと感じることだ。だから吸うひとはなるべく礼儀をわきまえてまわりに注意して最低限吸ってよい場所で吸ってほしいとは思う。

でも健康という着眼点からのみたばこを断罪するという視点には今でもどうしても加担する気になれない。たばこを吸っているとき紛れもなくα波が出ているという実験を以前のTV番組で見たことがある。それに追加するわけではないが、別に人は健康のためだけに生きているわけではないだろう。悪いと知っていてもやめられないことは沢山あるにちがいない。麻薬なんかもそうかもしれない。
もしそれで死んでも構わないと思って意志的に吸っているのだとしたなら、まわりがいろんな理屈で説得しようとしてもしょうがないと思う。個人の責任と罰に帰着することで、そういう類のものについては一律の「べき論」はしたくないというのがぼくの現在の考え方で、一律のあるべき論には安易に組したくないとも思うのです。

それよりも今たばこをやめてつくづく良かったなと思うのは、逆説的だけどタバコを吸わないことでストレスから自由になれたからだ。今はとにかくタバコを吸えないことが即ストレスになることのほうが多いように思える。街のなかで吸える場所を探して彷徨ったり、レストランや喫茶店でも吸えない場所が多くなり、離席して外に吸いに行ったりと、かえってイライラの原因が増えてきているようだ。それだけたばこを吸う人は肩身が狭くなっているわけだけど。

むかし聞いた話で、本当か嘘かわからないが、夜中にたばこを切らした人が小銭がなくて自販機のたばこを買えず、寝床でモンモンとしているうちにテーブルの角かなにかに頭を打ちつけて死んでしまったという話を聞いたことがある。果たしてブラックユーモアとして笑っていいのか分からないが、とにかく斯様にいまタバコを吸うことに関してはよりストレスフルになることも覚悟しなければならないというのは一面の真実と言えるのではないか。ただでさえいろんなストレスに囲まれているなかで、ひとつでもストレスから自由になれたこと、それがタバコを止めたぼくにとっての最大の恵みかもしれないな。でもこれはあくまでもぼく個人にとってというに過ぎないが。

よしむね

管総理再選に思う、「何もしないことの歓び」について

先週、管総理が再選された。たぶん大方の予想通りというところだろう。でも民主党議員の投票では管、小沢の票がかなり僅差で、今更ながら小沢支持の根強さも知らされた形だった。
 菅総理については以前書いたとおりで、特に期待することはない。おそらく官僚主導(協調しつつ)が残る、旧来型の自民政治に近いような政治になるのだろうと勝手に予測している。「元気な日本を回復する」というキャッチコピーもあるようだけど、けっきょく成長も狙い、国民のセーフティーネット(最小不幸)にも配慮しつつという、それこそいいとこ取り、なんでもありの政策パレードで、本当は何をしたいのか明確さにかける。それよりも今必要なのは衰退日本の道筋をいっそキチンと示すことで、それを示す勇気のあり様と言う点ではやはり小沢一郎のほうが何枚も上手だったと思う。小沢一郎の論点は一貫して国民の生活が第一、だった。良い悪いは別にして、だ。
経済成長しようが成長しまいが、国のかたちは依然残ってゆくとしたら、成長の次元と異なる形でどうやって国として存続させてゆくかを真剣に考えたほうがよい。今後ますます人口が減ってゆくかもしれないことを考えれば、普通に考えれば一人当たりの生産性を向上させるか、人口を増やす(移民を増やす)しか長い意味での成長を実現できる手立てはないだろう。数値目標にこだわる限りは。
生産性の向上がそんなに期待できないことを考えれば(これが進めば自動化等で国内の雇用がますます減ることになる)、まっとうな手立てはやはり移民を受け入れて成長を作ってゆく選択肢になるだろう。でも移民は嫌・困る、だけど成長は作りたいというのがいまの日本の大方の意見なのかもしれない。
最近見たジュリア・ロバーツ主演の映画で「食べて、祈って、恋をして」というのがあった。主人公の女性が最初イタリアに旅するのだが、そこでイタリア人たちがいう「何もしないことの歓び」という言葉に感動するシーンがある。これはイタリア人たちがアメリカ人の生き方と自分たちの生き方を比較して語る言葉で「アメリカ人たちは働くことばかりに夢中で何もしないことの歓びを知らない」、と。でもこの言葉はそのまま日本人にも当てはまると思う。
戦後の旬の日本人は誰でもが多かれ少なかれ復興とか再生とか発展とかをめざして何かをやらなければやらなければという想いで進んできたのかもしれない。その心情はいまも底のほうで連綿と続いているようにも思う。古くはオー、モーレツというコマーシャルもあったし、24時間戦えますか、というコマーシャルもあったっけ。
でも何かに急きたてられてばかりいるというのは一見大人の時間のように見えて、実は子供の時間であり、未成熟のなさる技なのではないか。「早く寝なさい、もっと勉強しなさい!」と子供時代によく言われたことを記憶している方も多いだろう。大人になればほんとうはもうそんなことを言うひとはいなくなるのだ。だから日本人こそもっと大人になり、「何もしないことの歓び」に悠々と感じ入り、急かされない生き方を考えるべき時が来ているのかもしれない。どうせなら悠々と没落してゆくこと。
だってイタリア人はローマ帝国の全盛時代をすぎてからもうかれこれ2000年近くも衰退の道にはいって何もしないことに歓びを見出して生きているんだから。それこそ、食べて、祈って、恋して、だ。でももしイタリア人がこの世にいなかったら、世界の中のどれだけがつまらない、味気ないものになっていたことか。素敵なファッションや車のデザインもなく、パスタもオペラもない社会。何もしないイタリア人はたいしたものだね。

よしむね

金融緩和・緩和っていったいどんな効果があるのだろうか、疑問だ

日銀が金融緩和を行うことを決定した。国債を買い取って資金を供給するという仕組み。アメリカのFRBもすでに金融緩和を行っており、それに対する同調ということだろう。日銀はそうしたくなくても政府官僚筋(アメリカ追随派)の意向・圧力に押されたのだろう。過去この20年間、日本はどれだけの緩和策をやり続けてきたことか。その結果の借金体質とほとんど効果のなかった経済弱体化が続いているわけだ。
しかもほとんど0に近い金利施策を続け、貯金暮らしのお年寄りたちからどれだけのキャッシュを奪ってきたか。ぼくの父親もその影響を受けた世代だ。20年間もお金を預けていれば普通なら5%くらいのまともな金利がついていれば倍近い資産になっていてもよかったはず。これも所詮不労所得だけど。
緩和って言われるとなにかいいことのように受け取れて分かりにくいが、なんのことはない、あらたに輪転機等を回してお金を市場に流し込むことでしょう。リーマンショック以降、市場の危機を回避するという名目で、世界中でどれだけの金融緩和策がとられてきたことか。つまり流し込めるだけのお金が流し込まれたことになるだろう、世界中に。
これを続けていけば、当たり前の話だけど、お金の価値・ありがたみがなくなることは必至だろう。ヨーロッパはさすがにギリシャ等の財政危機を経てこれから金融引き締めに向かいつつあるようでもあるが、アメリカは引き締めに転じるかと思いきや、またも緩和と来た。
アメリカ・ドルは未だに世界の基軸通貨だからこんな野放図なドル大量印刷をやり続けていられるのかもしれないが、弱小国家ならもう国家破産のステージだろう。でもドルと米国債の余命もそんなに長くはないと思われる。奢れるもの久しからず。盛者必衰の理。いつまでも世界中からドルを買ってもらって実体よりも良い暮らしを続けることができるわけがない。
だから円高、ドル安になるのも長い観点で考えれば当然のことだ。ドルがこれだけあふれまわっていれば、ドルの価値が下がるのは当然。紙幣も所詮紙切れ。お金には魔的な商品としての側面もあるが、所詮信用関係(幻想)に基づいて価値が取引されている以上、無価値になることもありえる。それが進んでいけば超インフレになる。
それからいま問題なのは、これだけ大量に供給されたお金がいったい何に使われているのか、だろう。いまは誰もお金を大量に使うひとがいないのだ。まともな企業は手元資金が厚い状態だけど、新しい投資には積極的でない。というよりも誰もリスクをとってなにかをやろうというマインドではない。結局余ったお金の大半は再びの債権買い等に回っているだけというのが実情だろう。それから借金の返済に当てられているということ。
 こういう異常な状態が続いているのに、あいかわらず日々の新聞を筆頭にマスコミ各社がこういう状態を少しも異常とは報道しないようだ。聞かれるのは日本企業が円高につぶされるから緩和しろ緩和しろという報道ばかり。でもそんなその都度の小手先で円高が一時的に収束するようにみえても持続的な効果は限定的だろう。
 問題は長期的にドルの低下が明らかなことを認めて、ではどうやって為替に影響を受けにくい体質にしていくか、ドルからの自立(脱却)を模索してゆくかを考えるべきだろう。そのひとつの選択肢にドルに変わるアジアの域内だけで流通するような通貨とかがあってもいいし、商品をふくめたバケット取引とか等々があってもいい。もちろんそれには時間も手間暇もアイディアも必要だ。でもそうした根本的なデザインなしに、もはやその都度の対処療法ではもう限界に来ていると思われる。初期の鳩山首相には多少なりともそんな試みへの意気込みもあったように思う。
 そしてそれはまさむねさんが前回の記事で以下に述べたようなことと同じ趣旨にもつながる。

 「日本はおそらく黒船来航以来、150年の間に、それまでの共同体社会を徐々に失っていった。家や親族、地域社会は現在ではほぼズタズタとなってしまった。それはある意味しかたのないことであるが、その民族的喪失に替わる新しいシステムが僕らには創れていない、それどころかまだイメージすら見えてすらいない、それが問題なのだ。」

 誰だって新しいシステムはたぶんこわい。それから弾かれる人にはなりたくないと考える。自立というとなにか居丈高な感じも強いが、ゆるやかな自立、少しずつの自立、助け合いながらの自立、相互的な自立、弱さをともなった静かな、漸進的な自立こそがこれから模索されるべきなのかもしれない。そうして最終的にはやはり自立した国になるべき。人もそうだろう。そのために何が起きているのか、正確に知ろうとする姿勢だけは開かれているべきだと思う。

よしむね

与えよ、さすれば与えられん

この間、知り合いのSさんにお会いした。Sさんは自ら情報戦略研究所を立ち上げて長くコンサルテーション等の仕事をされている、業界では著名な方だが、ここではSさんのイニシャル名に留めておきます。
お会いしたのはご相談したいことがあってだったのだが、いろんなご指摘を頂戴して「なるほどなぁ」と思うことしきりであった。さすが百戦錬磨、厳しい時代を自ら生き抜いてこられた方の言葉だけに重みがあります。そのいくつかをここで紹介してみたい。
「大事なのはRich Experience(豊かな経験)を与えることができるかどうか」
 時代はもうソフトでもハードでもなく、あるメディアならそのメディアを提供することによってユーザーにどんな経験をしてもらいたいのか、どんな可能性(実現のイメージ)に誘いたいのか、いわゆるRich Experienceを経験してもらいたいのか、だということ。
アップルにあって日本企業にいま決定的に抜け落ちているもの、それが多分この視点だと思います、ということ。日本の多くの企業は、単なるハード屋かソフト屋に終わっている、あるいはそういう役割に甘んじてしまっている。人が求めているのは経験であって、単なるモノではないはず。
そして高邁なこころに高邁なものが宿るのです。スターバックスだって自分たちのことを単なるコーヒー屋だと思っているのではない。彼らの社員教育の徹底ぶりもすごいが、彼らはコーヒーを飲むことが世界の平和につながるという信念でビジネスをやっているのですよ。そこまで行かなきゃビジネスじゃありません。

「奪うのではなく、与えること」
いまの日本人の心性・心持はとても小さくなってしまった。みんな与えることをしないで、少ないパイから分捕ることばかり考えるようになっている。死亡老人の遺族による年金分捕りも然り。そしていま流行の中国頼みの姿勢も基本は同じで、みんな中国から分捕ることしか考えていないようだ。
でもこれは絶対にうまく行かない。中国人もしたたかだし、それよりもなによりも互いに与え合うことのなかで共に享受することを志向していかない限り、物事はぜったいにうまく行かない。いつか破綻する。だから単に中国からいかに分捕るかばかりを考えている現在のビジネスの多くはやがてうまく行かなくなるだろう。

「古いものや大きくなりすぎたものがやがて停滞して壊れるのはいい」
それは当然だから。問題は新しいものが生まれてこないこと。誰も正しいリスクをとらず新しいことにも挑戦しようとしないことのほうがはるかに損失なのです。

そして最後にSさんはこうおっしゃった。
「よしむねさん、ある程度の年齢になれば、どれだけ人に与えてきたといえるかでその人の価値は決まりますよ。いままでよしむねさんのおかげで育ててもらいましたといえる人をどれだけ持っているか、です。与えることが結果として相手から与えられることにつながるのです」
これにはぼくも答える術がなかった。グーの音もなかった。まったくおっしゃる通りだし、はたと自分の来し方を考えたときに、いままでぼくはどれだけの人になにかを与えることができただろうかと思ったからだ。「よしむねさんのおかげで育ちました」なんて言ってくださる殊勝な方がいるだろうか? だいいちぼくに与えられるものがあるだろうか?

疑問だ。だけどまだ遅くないか? これからぼくはもっと与えることを学んでいかなければならない、というよりもとにかく与えること、応援すること、そう強く思った。与えよ、さすれば与えられん、たとえ与えられなくても。

よしむね

夏の家紋主義者

まさむねさんの「家紋主義宣言」についていろいろ咀嚼させていただきながら、ぼくなりにいろんな角度で考えさせて(バージョンアップさせて)もらっている昨今である。この週末プールに行ったのだが、そのプールサイドで山下達郎のベストを聴きながら、特に「夏への扉」を聞いていて思ったこと。これは家紋主義者の詞ではないか! との想い。
「夏への扉」はロバート・A・ハインラインの作品で、ぼくの学生時代に仲間たちはみんな読んでいたし、ご存知のとおりSF作品のなかでファン投票をすると必ずトップに近いランキングを得る、あまりにも有名な、有名すぎるというような作品だ。ここには未来、過去、タイム・トラベルなど、メジャーすぎるような動線や伏線、フィギュアやキッチュが沢山ある。

曲の「夏への扉」は同名の小説のモチーフをそのまま踏襲した、作詞吉田美奈子、作曲山下達郎の作品。リリースされたのは1980年。ぼく個人の好みだけど「夏への扉」は山下達郎の曲のなかでベスト3に入れたくなる好きな曲のひとつだ。青い空をバックにこの曲を聴いていると、ほんとうにこれは夏の家紋主義ではないのかなあと思ってしまう。「夏の家紋主義」とはまさむねさんに断りなくぼくが勝手に仮称したもの。以下にその歌詞の一部を引用する。

ひとつでも信じてる
事さえあれば
扉はきっと見つかるさ
もしか君今すぐに
連れて行けなくても
涙を流す事はない
僕は未来を創り出してる
過去へと向かいさかのぼる
そしてピートと連れ立って
君を迎えに戻るだろう

特に「僕は未来を創り出してる過去へと向かいさかのぼる」という歌詞。そして扉はたとえば家紋。ぼくらは過去へさかのぼることで、たぶんなにかと連れ立って現在に戻ってくるのだ。
夏の小道、せみの声、それぞれにとっての家紋、紋様。本当はそれはどのようなものであってもいい。その手がかり、物語の原型のようなもの、の一つ一つ。それらを携えてぼくらは過去から続いてきた道を知る(辿りなおす)ことができるのだ。
夏の、家紋主義。ふとそんなことを思った。
もうすぐ8月15日がまたやって来る。これもひとつの家紋、家の門にちがいない。

よしむね

家紋主義はアーカイブの世紀における身の処し方のひとつにつながるように思うのだ

まさむねさんに「Body主義は家紋主義と対極にあるのかもしれない」というご返事の文章をいただいた。その中でまさむねさんが引用していた山田先生の「自分の仕事と家庭が流動化している現在、自分の肉体のみが、自分が生きている間続く唯一の自分の「持ち物」となる。自分が自分であるところの拠り所」という箇所。これなどは個がむき出しになっていてもはや頼るべきものがない現在のなかで、良い悪いは別にしてかろうじて自分を確認するために身体や暴力しかなくなっていることにも通じているのかもしれない。

時代はデジタル放送とか3D元年とかハイビジョンとか、とかく映像的なものが持てはやされるようなキライがなくもないが、実はその一方で今後ますます身体的なもの(取り残された身体)が横溢するシーンが増えてゆくかもしれない。マッチョや健康志向の身体ということではなく、実は身体こそもっとも不自由なもの、意のままにならないものとして再認識される可能性もあるように思うのだ。そういうものとしての身体、Bodyの再確認の必要性があるようにも思う。これはアメリカ流のBodyの文脈とは違うものとして。

それからすでに20世紀の後半以降21世紀を迎え、時代は紛れもなくアーカイブ(記憶)の世紀に入ったのだとぼくは思っている。どちらかと言うと20世紀前半からその終わり近くまでは映像の世紀(特に大衆映画とTVの登場以降)と定義できるとするなら、20世紀の最後の10年間以降からはむしろ記憶の世紀に重きが移ってきていると思う。PCや携帯電話やデジカメ等の新しいパーソナル・メディアが登場してから、ぼくらは意識するしないにかかわらず日毎夜毎に膨大なデータの蓄積と個人の履歴にさらされるようになっている。そして自分たちではその一々についてもはやどうにも意味づけできないためにとりあえずすべてを保存(アーカイブ)しておく必要性が生じてきている。

もっと大げさにいうなら、人類全体がやっぱり「われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか、われわれは何者なのか」をいろんな角度で知りたがるということ。今、世界遺産にかぎらずいろんな遺産がブームになってきているように思うのだ。仏像ブームにしろ平城京遷都1300年にせよ、環境や自然保護にせよ、いろんな履歴が横溢しているなかで、一度われわれの遺産が何だったのかを検証しておく必要性のようなもの。それが高まってきていると思う。膨大なデータ(記憶や遺産)が増えつつあるなかで間違いなくアーカイブの整理が主題になってきていると思えるのだ。もちろん個人単位を越えて、だ。

そしてそのひとつの寓話(整理整頓の手法の一つ)を汲み取るものとして、上記の風潮のなかに家紋主義が交差してくるポテンシャルがあるとも思えるのだ。まさむねさんが言うようにたしかに「日本人は代々続く家系という物語を失ったからBodyに関心を持つようになった」。また成長という神話ももはやその命脈は尽きかけている。それはそれで仕方ない。

だが、その一方でだからこそより多様なかたちで「われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか、われわれは何者なのか」を知るための手がかりが再び求められてくるようになるとも思える。自らのクラシック(古典)や過去などの来歴を知ること。帰り道を確認するための作業として。そのすべてに答えられるわけではないけど、その一隅を照らすようなものとして家紋主義が時代に交差してくるひとつの意味がある、とぼくは思う。だからこそ、あらためて時代は家紋(家紋的なもの)を求めてきているのだ、と繰り返し言いたい気がするが、如何でしょうか。

よしむね

人生の並木道

去年タバコを止めてから体重の増量が進んでいることもあって、夕飯を食べてから、時々ウォーキングをやるようになっている。コースはいつも決まっていて、家を出て、呑川の川べり近くまで行き、そこからターンして池上本門寺の正門へまわってけっこう急峻な参道を登り、寺の裏にまわって、その近辺を散策しつつ家にもどってくるコース。

正味だいたい40分くらいか。本門寺の近くなのでいわゆる周りは寺町でもあり、お墓もけっこう多い。山あり谷あり、アップダウンも充実しており(この辺りはまた坂が大変多い)、それこそ幼稚園からお墓、坂道まで人生の一式が何でも揃っているコースなので、ぼくは「人生の並木道」と勝手に呼んでウォーキングに励んでいる。ただし雨降りの日は行かず、飲み会等があったりすると当然行かないということであまり真面目でない部分もあり、とくに最近はW杯が始まってしまい、ご無沙汰傾向ではあるのだが。

コース途中の教会(大森めぐみ教会内の講堂、幼稚園と隣接)では、去年日野原重明先生の講演会があり聞きにいったことがあった。先生はその前日に韓国から帰ってきたばかりということだったが、なんとも元気な感じでとても98歳の人には見えなかった! さすがいろんな方がおられるものだ。

そういえば、知っているひとで100歳まで生きることを前提に生活設計を考えているとおっしゃっていた方もいたっけ。200歳の少女がヒロインのホラー映画も近々公開されるはず。それはさておき、梅雨の合間でもし今夜も晴れていたら、人生の並木道をまた歩こうかな。

よしむね

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