最初にお断りしますが、夏のアニメと銘打ってはいるが、特に意図があるわけではありません。舞台が夏だけとは限らない設定も多いが、比較的夏が取り上げられていれば一応夏アニメとくくったまで。またこれから取り上げる作品の順番にも特に優劣はつけていない。この後も一応夏アニメとしていくつか取り上げたい作品があります。
まず第一弾は「雲のむこう、約束の場所」(新海誠監督、2004年)。評判は聞いていたが、実は観たのは今回が初めてで自宅でDVDを観た。いわゆるセカイ系の定義をぼくはよく知らないのだが、登場人物たち(藤沢浩紀、白川拓也、沢渡佐由理の三人が主要人物)がみんな孤独感を生きていて、いきなり世界の異相(ユニオンの塔というものが出てくる、これはいろんなものの暗喩か。併行世界とも呼ばれ、政治の亀裂や戦いの暗喩でもあり、不可侵のなにかのようでもあり、なにかの夢の形象のようでもあり、おそらくさまざまな意味を包含しているのだろう)と直結しているようなストーリー構成は、広義には本アニメもセカイ系と呼ばれる部類に入るのかもしれない。
ストーリーについては現実味がないとか、ロジック構成に真実味が感じられないとか、沢渡佐由理の声が典型的なアニメ声で嫌いだとか、おそらく異論も多いと思う。
そうしたストーリーとしての無理さはさておき、ぼくがとても惹かれるのは、やはり細部の描写だ。特に夏の青空と入道雲と夕焼けを背景にした、それこそひと夏の男女3人による、予感だけにみちた、どこか終末的な、退嬰的な、描写がたまらなくいい。うらぶれた駅舎や線路、壊れかけた廃屋や倉庫、静まり返った水面・・・。「神は細部に宿る」ではないけど、こうしたひとつひとつへのデッサンが妙にリアルでなつかしいのだ。
これらの夏の風物詩を見る(それこそ目にまとわりつくように観る)だけでもいいと思う。そしてラストの解釈もいろいろあるだろうが、ぼくなりに思うのはひとまず「ありえたかもしれない仮想の世界」に別れをつげてひとりの人を受け入れる(引き受ける)ことで始まる現実の再生の物語のように受け止めたのだが、いかがだろうか。
ただ何度も繰り返すがストーリーにはさして興味がない。全体に流れる孤独感のトーン、夏のはかなさ、短い夏の煌きのなかで、もしかしたら誰にでもありえた、行き場のないような、結晶した時のような、ひと夏のたゆたい、その体験の翳のリアリティーにこそ、このアニメが依って立つすべてがあるようにも思うのだ。それからあのユニオンの塔の存在が、最近の原発事故以後を思うとき、また違った意味で妙にリアルでもあるように感じられた。なにはともあれ夏の青空と雲にささえられたような一片の作品!
よしむね
よしむねさま
私はアニメは子供の頃からの延長線上にあるものと思い、作品にあまり深い意味を求めず、どちらかと言えば頭で観ずに、身体で&本能で観る傾向があります。
なにか一つでも琴線に触れるセリフがあればそれだけで好きな作品になってしまうのです。
この作品で言えば「いつも何かを失う予感がある」というセリフでしょうか。
きっと誰の青春もそんな不安定さの中にしかないのではないかと思います。
私も沢渡の声は嫌いなのですが、見終えて逆にワザとこの声質を選んだのかと思いました。
それが子供時代の幻想に別れを告げることを象徴し、そして夢を具体化させるべきスタートの場所こそが約束の場所なのだろうと思うのです。
それは映画「卒業」でベンがエレーンを連れ去った後、エンディングで見せる不安な表情と同じような、もう夢の世界には戻れない現実への畏れが描かれているように思えてなりません。
実を云えば「卒業」のベンとエレーンもそうなのですが、藤沢浩紀と沢渡佐由理にも明るい未来が訪れる確率は非常に小さいように感じています。それでも私は彼等を羨ましく思うのです。
私にとってこのアニメの価値は、その羨ましさの「量」なのだと思いました。
高澤先生へ
横からすみません。
その「いつも何かを失う予感がある」っていうのは冒頭のト書きですよね。
実は、偶然ですが、ちょうど今、その言葉を起点にして、この「雲のむこう、約束の場所」について書いたばかり(今夜の深夜00:01にアップされる予定)で、フッとみたら先生のコメントを拝見した次第です。
この言葉は子供時代に持っていたたくさんのもの(夢だったり、空想世界だったり、無謀な勇気だったり)が、大人になるに従って、つまり現実に戻されるにしたがって消えてしまうということでしょうね。そして、そのことにたいする不安なのだと思いました。
極論すれば、僕にとって、このアニメはその冒頭の一行で、ほぼ十分な感じでしたね。