カテゴリー別アーカイブ: 歴史・家紋

有名人墓のメッカ 青山霊園1種ロ8号1~14側に眠る方々家紋一覧

都内、及び近郊の様々な墓所を回って有名人の家紋の撮影をするのが、ここ数年の楽しみとなっています。
そうした墓所の中でも、有名人、偉人比率が最も高いエリアが、知る人ぞ知る青山霊園1種ロ8号1~14側です。
本日は、そこに眠る人々の家紋一覧を作ってみました。
超大物の吉田茂元首相の墓が移転してしまったのは残念ではありますが、それでも壮観さは健在です。

青山霊園の近くにオフィスのある方々、お昼休みなどに立ち寄られてはいかがでしょうか。

松田正久。1847年5月25日 – 1914年3月4日、政治家。
肥前国小城郡牛津に小城藩士横尾只七の次男として生まれた。陸軍省に入省。欧州留学後に佐賀にて自由民権運動に参加し自由党に入党。『東洋自由新聞』を創刊。大蔵大臣、文部大臣、法務大臣などを歴任。三つ目結い紋
林董。1850年4月11日 – 1913年7月20日、外交官、政治家。
下総国佐倉藩の蘭医・佐藤泰然の子として生まれ、幕府御典医・林洞海の養子となる。香川・兵庫の県知事、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣などを務めた。ロンドンで日英同盟に調印。源氏車紋
松室致。1852年1月22日 – 1931年2月16日、政治家、教育者。
小倉藩藩士の長男。読みは、まつむろいたす。桂内閣で司法大臣となり司法界の粛清を行う。後に貴族院議員、枢密顧問官を歴任。治安維持法への死刑・無期懲役追加に反対した。法政大学の学長を長く務めた。丸に桔梗紋
頭山満。1855年5月27日 – 1944年10月5日、国家主義者。
福岡県出身。玄洋社の総帥。右翼の巨頭・黒幕的存在。孫文、蒋介石、ラス・ビハリ・ボースら日本に亡命した革命運動家らに援助を行う。アジア主義の立場で活動した。日韓併合の際、奔走するも植民地化の状態には幻滅した。五三桐紋
犬養毅。1855年6月4日- 1932年5月15日、政治家。
備中国賀陽郡庭瀬村で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男。若槻禮次郎内閣が崩壊したため反対党(立憲改進党)の総裁として第29代内閣総理大臣に就任する。五・一五事件で凶弾に倒れる。嘴合わせ三つ雁金
珍田捨巳。1857年1月19日 – 1929年1月16日、外交官、侍従長。
弘前藩士珍田有孚の長男として弘前で生まれる。皇太子(のちの昭和天皇)の訪欧に際して訪欧供奉長となる。日露戦争後の講和条約締結交渉で小村寿太郎を補佐する。裕仁親王が即位3か月後に侍従長に就任。抱き稲紋
島村速雄。1858年10月26日 – 1923年1月8日、海軍軍人。
高知県出身。土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。第四艦隊司令官、海軍兵学校校長、海軍大学校校長、海軍教育本部長、海軍大将を歴任。「天性的に度量のある人物」といわれた。丸に変り三つ蔓蔦紋
加藤高明。1860年1月25日 – 1926年1月28日、外交官、政治家。
尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として出生。正二位 大勲位 伯爵。第24代内閣総理大臣となり、首相在任中に治安維持法、普通選挙法を成立させ日ソ基本条約を締結。ソ連と国交を樹立させる。六つ唐団扇紋
八代六郎。1860年1月25日 – 1930年6月30日、海軍軍人。
愛知県犬山市出身。地主、松山庄七の三男。水戸藩浪士・八代逸平の養子となる。日露戦争勃発までの5年間、最前線を歴任。最終階級は海軍大将。NHKドラマ『坂の上の雲』では片岡鶴太郎が演じている。折敷に三の字紋
牧野伸顕。1861年11月24日 – 1949年1月25日、政治家。
大久保利通の二男として生れたが、生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。茨城県知事、文部大臣、農商務大臣、外務大臣を歴任。第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。丸に三つ蔦柏紋
加藤友三郎。1861年4月1日 – 1923年8月24日、軍人、政治家。
広島市大手町出身。広島藩士・加藤七郎兵衛の三男。最終階級は元帥海軍大将。ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。第21代内閣総理大臣時代にはシベリア撤兵・軍縮の実施などの重要な課題を遂行。蛇の目紋
本野一郎。1862年3月23日 – 1918年9月17日、外交官、政治家。
肥前国佐賀生まれ。父は読売新聞創業者の本野盛亨。弟に化学者・早稲田大学教授の本野英吉郎がいる。外務省に入りフランス公使、ロシア公使、ベルギー公使を歴任。寺内内閣で外務大臣となる。丸に蔦紋
伊集院彦吉。1864年7月22日 – 1924年4月26日、外務大臣。
薩摩藩出身。妻の芳子は大久保利通の長女。釜山領事、仁川領事、イタリア特命全権大使、パリ講和会議全権委員、外務省情報部部長、関東長官を経て、第2次山本内閣外務大臣となる。勲一等旭日桐花大綬章受章。丸に三方剣花菱紋
岸清一。1867年8月3日 – 1933年10月29日、IOC委員。
松江雑賀町に松江藩の下級武士岸伴平の次男として生まれる。法曹界の重鎮であり特に民事訴訟法の権威であった。国際オリンピック委員会委員に就任し死ぬまで務めた。東京都渋谷区の岸記念体育会館にその名を残す。五三桐紋
清水澄。1868年9月27日 – 1947年9月25日、憲法、行政法学者。
石川県金沢市出身。宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したが日本国憲法が施行された直後に入水自殺をした。折入り角に右一つ丁子紋
白川義則。1869年1月24日 – 1932年5月26日、陸軍軍人。
松山藩士白川親応の三男として出生。上海派遣軍司令官、関東軍司令官、陸軍大臣、軍事参議官等を歴任。上海での天長節祝賀会で爆弾に遭って重傷を負いそれが元で死去する。最終階級は陸軍大将。丸に軸付柏巴紋
井上準之助。1869年5月6日 – 1932年2月9日、政治家、財政家。
大分県日田市大鶴町に造り酒屋を営む家に出生。第9、11代日本銀行総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。浜口内閣で行った金輸出解禁や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き血盟団事件で暗殺される。九枚笹紋
浜口雄幸。1870年5月1日 – 1931年8月26日、政治家。
高知県長岡郡に林業を営む水口家に生まれる。大蔵大臣、内務大臣などを歴任した後、第27代内閣総理大臣となる。在任中に金解禁や緊縮政策を断行し、ロンドン海軍軍縮条約を結ぶ。その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた。丸に上付き二つ引両紋
政尾藤吉。1871年12月8日 – 1921年8月11日、外交官、政治家。
愛媛県大洲出身。藩の御用商人の長男として生まれる。外務省からシャムに派遣され、のちに同国の法律顧問として刑法・民法・商法を起草する。タイ国王より信頼を受け白象第三勲章、王冠大綬章を受ける。丸に隅立て四つ目結い紋
三土忠造。1871年8月11日 – 1948年4月1日、政治家。
香川県大内郡水主村出身。読みは、みつちちゅうぞう。宮脇姓であったが、三土家に養子入りしたために三土姓を名乗った。文部大臣・大蔵大臣・逓信大臣・鉄道大臣・枢密顧問官・内務大臣を歴任した戦前政界の重鎮。丸に土佐柏紋
伏見宮博恭王。1875年10月16日 – 1946年8月16日、海軍軍人。
伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加。艦長や艦隊司令長官を務めるなど皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富。伏見宮裏菊紋
植原悦二郎。1877年5月15日 – 1962年12月2日、政治家。
長野県南安曇郡明盛村出身。国民主権論を大胆に主張するなど急進的な大正デモクラットとして言論活動を展開した。戦後、日本自由党の結成に参画し第1次吉田内閣の国務大臣として入閣する。改造後は内務大臣。蔦紋
森恪。1882年2月28日 – 1932年12月11日、政治家。
大阪府大阪市西区江戸掘出身。読みは、もりかく。本名はもりつとむ。日露戦争ではバルチック艦隊の航跡を打電して日本海海戦の勝利に民間から貢献したという。政治家としては軍部と提携し日本の中国侵出に役割を果たす。丸に片喰紋
丸山鶴吉。1883年9月27日 – 1956年6月3日、官僚。
丸山茂助の四男として広島県沼隈郡松永村に出生。警視庁特高課長、保安課長、静岡県内務部長、宮城県知事、朝鮮総督府警務局長、大政翼賛会事務総長、武蔵野美術学校校長、警視総監を歴任。丸に横木瓜紋
高須四郎。1884年10月27日 – 1944年9月2日、海軍軍人。
茨城県桜川村出身。知英派で当時の欧米事情に詳しく、五・一五事件の後に、政党政治の崩壊を嘆き日独伊三国軍事同盟や日米開戦に反対。山本五十六や米内光政等、海軍左派勢力からも強く信頼されていた。最終階級は海軍大将。丸に違い鷹の羽紋
大麻唯男。1889年7月7日 – 1957年2月20日、政治家。
熊本県玉名市出身。東條内閣の国務大臣として初入閣を果たし「東條の茶坊主」と呼ばれた。政党政治家として戦前から戦後にかけて政友本党、立憲民政党、改進党、日本民主党、自由民主党等を渡り歩く。六つ丁子車紋
山口多聞。1892年8月17日 – 1942年6月6日、海軍軍人。
東京市小石川区に旧松江藩士の山口宗義の子として出生。軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任。太平洋戦争では真珠湾攻撃に参加。ミッドウェー海戦で戦死。太平洋戦争期の日本海軍を代表する提督。最終階級は海軍中将。檜扇紋

まさむね

撫子紋 -可愛い日本女性のシンボル紋- 斎藤義竜、東條英機、宇多田ヒカル...

秋の七草、撫子。
戦いに明け暮れた武士達のやすらぎのひと時を感じさせる優しい花だ。
また、この撫子紋は、大和撫子というように、日本女性を象徴する紋である。
この紋で有名なのは、美濃の斉藤一族。
全国分布では、石川県で27位に入る。
撫子紋を持つ有名人は以下。


斎藤義龍 。1527年7月8日 – 1561年6月23日、 戦国大名。
初代当主・斎藤道三の嫡男。美濃の戦国大名斎藤氏の第2代当主。実父は土岐頼芸という説もある。尾張の織田信長の軍勢と戦い戦況を有利に進めた。長良川の戦いで斉藤道三を討ち果たす。足利義輝によって幕府相伴衆に列せられた。家紋は撫子紋。


秋月種実 。1548年 – 1596年11月16日、 戦国大名。
筑前国出身。秋月文種の次男。読みは、あきづきたねざね。秋月氏の第16代当主。島津氏と大友氏の争いの中で大友領を侵食し、36万石にも及ぶ広大な所領を有した。豊臣秀吉の九州征伐では、豊臣勢と戦ったが敗北した。家紋は三つ盛撫子紋。


山県大弐 。1725年 – 1767年9月14日、 儒学者、思想家。
甲斐国篠原村出身。野沢氏の出自。名は昌貞。甲斐国山梨郡山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説く。明和事件において処刑された。主著は『柳子新論』。家紋は桔梗紋であるが、新宿・全勝寺の墓所(画像)には奥方斎藤家の撫子紋がある。


斎藤利行 。1822年2月2日 – 1881年5月26日、 土佐藩家老。
若くして藩主山内豊煕の御側物頭として仕える。長崎で起きた土佐藩士による英水兵殺害事件では後藤象二郎とともに補償問題を解決。坂本龍馬と結んで武器調達に活躍。明治政府では刑部大輔・参議・元老院議官を務めた。画像は青山霊園にて撮影。


明石元二郎 。1864年9月1日 – 1919年10月26日、 陸軍軍人。
黒田藩士・明石助九郎の次男として福岡の大名町に生まれる。関ヶ原の戦い、大坂の役で戦ったキリシタン武将、明石全登の末裔といわれている。日露戦争では諜報活動で活躍。陸軍大将・勲一等・功三級・男爵。第7代台湾総督。家紋は丸に撫子紋。


斎藤緑雨 。1868年1月24日 – 1904年4月13日、 小説家、評論家。
三重県・神戸出身。本名は賢。『小説八宗』『初学小説心得』『小説評注問答』などのパロディ精神に溢れた評論を書く。『油地獄』『かくれんぼ』などの作品で小説家としても認められる。家紋は丸に撫子紋。画像は向丘・大円寺にて撮影。


片山正夫 。1877年9月11日 – 1961年6月11日、 化学者。
岡山県出身。東北大学教授、東大教授。液体の表面張力と温度との関係式(片山式)で知られる。物理化学の先駆的な研究を行なう。主著「化学本論」は日本における初期の本格的な物理化学教科書。家紋は撫子紋。画像は南麻布・円沢寺にて撮影。


東條英機 。1884年7月30日 – 1948年12月23日、 陸軍人、政治家。
東京市麹町区に東條英教陸軍歩兵中尉の三男として出生。本籍地は岩手県。東條家は能楽師として盛岡藩に仕えた家系。統制派として陸軍を主導。開戦時の内閣総理大臣。A級戦犯として処刑された。撫子紋は雑司が谷霊園、和田堀廟所の墓所とも共通意匠。


豊田貞次郎 。1885年8月7日 – 1961年11月21日、 海軍軍人。
和歌山県出身。紀伊田辺藩士・豊田信太郎の次男。最終階級は海軍大将。予備役編入後は政治家に転身し、商工大臣、拓務大臣、外務大臣、軍需大臣、内閣顧問、運輸通信大臣などを歴任する。家紋は撫子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


西東三鬼 。1900年5月15日 – 1962年4月1日、 俳人。
岡山県苫田郡津山町出身。本名は斎藤敬直。戦争批判の作句により特高に検挙されたという。その後、現代俳句協会の設立、俳句誌「断崖」創刊、俳句総合誌「俳句」編集長もつとめる。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は撫子紋。


宇井純 。1932年6月25日 – 2006年11月11日、 環境学者。
東京都新宿区出身。読みは、ういじゅん。「純」の名前は6月生まれに由来するという。水俣病の問題を社会に知らしめる発端を作り、公害問題に関する住民運動などに強い影響を与えた。家紋は撫子紋。墓所の写真より判断。


宇多田ヒカル 。1983年1月19日 – 、 シンガーソングライター。
米国ニューヨーク州出身。先祖は但馬の清原氏族。日本の代表的女性ソロシンガー。1stアルバム『First Love』は860万枚以上、国内アルバム売り上げ史上歴代1位の超メガヒットとなる。代表作『Automatic』『First Love』『Flavor Of Life』。


世之介 。元禄年間 、 井原西鶴作「好色一代男」の主人公。
わずか7歳で腰元に恋をして性を知り、一生のうちに交わった人数は、女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人という。最後、海の彼方にあるという女だらけの「女護が島」をめざして船出し、それきり消息が絶えた。家紋は撫子紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね




竜胆紋 -源氏といえばこの紋- 石川数正、石川啄木、生島ヒロシ...

源氏を代表する紋と言われているが、実際は、村上源氏、宇多源氏の代表紋で、清和源氏の子孫では使用する家は多くない。

おそらく、歌舞伎の「勧進帳」で義経がつけたことから、いつの間にか、源氏の代表紋とされるようになったのであろう。例えば、現在でも鎌倉市の市章として、この笹竜胆が採用されている。ご存知の通り、鎌倉は、源頼朝が幕府を開いた場所である。
しかし、だからと言って、「頼朝が笹竜胆を家紋としていた」というような勘違いは避けたいものである。
左上は、鎌倉市のマンホールに掘られた笹竜胆である。
また、曹洞宗の開祖、道元が村上源氏出身のため、この紋は、曹洞宗の寺紋とされている。
例えば、坂本九や、エノケンが眠る青山・長谷寺の寺紋は、竜胆車紋(左)である。
全国では25位。岩手で19位、秋田、神奈川、山梨、長野で20位といったところがやや多いが、全国にまんべんなく分布している。


千種忠顕 。生年不詳 – 1336年7月13日、 南北朝時代の公家。
権中納言六条有忠の次男。千種家の祖。後醍醐天皇の近臣。建武の新政では楠木正成名和長年らと共に三木一草と称された。家紋の竜胆車紋は伝通院にある千種家の家紋。顔画像は大河ドラマ「太平記」で忠顕を演じた本木雅弘。


北畠親房 。1293年3月8日 – 1354年6月1日、 南北朝時代の公家。
村上源氏庶流の北畠師重の子。『神皇正統記』の作者。後醍醐の皇子世良親王の養育をする。吉田定房万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。後に、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた南朝に従う。家紋は割菱と笹竜胆。


石川数正 。1533年 – 1593年、 武将・大名。
先祖は河内源氏の義家流・石川源氏・石川氏。徳川家康の片腕として活躍したが、小牧・長久手の戦いの後に徳川家を出奔して豊臣秀吉に臣従した。徳川家康が関東に移ると、秀吉より信濃松本10万石に加増移封される。丸に石川竜胆。


木曽義昌 。1540年 – 1595年4月26日、 戦国武将。
信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。木曾義康の長子。正室は武田信玄の娘真理姫。は小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗するが、侵攻を受けて武田家に降伏した。家康の関東移封に伴い、木曽谷を退く。家紋は笹竜胆紋。


石川雅望 。1754年1月7日 – 1830年5月16日、 狂歌師、戯作者。
浮世絵師石川豊信の五男として江戸に生まれる。読みは、いしかわまさもち。狂名は宿屋飯盛。狂歌四天王の一人として版元である蔦屋重三郎から多くの狂歌絵本を出版。家紋は笹竜胆。但し、蔵前の正覚寺の墓所には創作紋(丼?)がある。


大原重徳 。1801年11月21日 – 1879年4月1日、 公家。
京都生まれ。光格天皇の侍童となる。宮中に昇り、孝明天皇に重用される。幕府に朝廷の攘夷の意向を反映させた文久の改革の際に活躍。維新以降は、参与・議定など新政府の役職を務める。家紋は変形の笹竜胆紋。画像は谷中霊園の大原家の墓所で撮影。


弾直樹 。1823年 – 1889年7月9日、 穢多頭。
摂津国菟原郡出身。幕長戦争に協力した功で手下65人と共に平民への身分引き上げが幕府から認められ、弾内記と改名。後に弾直樹へ改名。皮革産業を近代工業に育て上げる事を目指した。家紋は竜胆車。菩提寺の浅草・本龍寺の墓所写真にて確認。


庭田嗣子 。1825年 – 1883年7月20日、 典侍。
京都出身。読みは、にわたつぐこ。庭田家は宇多源氏の流れを引く堂上家。皇女和宮の将軍徳川家茂への降嫁と共に江戸へ下り和宮側近として活躍。天璋院や大奥老女らと対立した。家紋は笹竜胆紋。顔画像は『篤姫』の時に嗣子を演じた中村メイ子。


岩倉具視 。1825年10月26日 – 1883年7月20日、 公家、政治家。
京都出身。公卿・堀河康親の次男。源通親の子孫。岩倉家は村上源氏久我家の分家、下級の公家。大久保利通らと王政復古のクーデターを画策。新政府において、参与、議定、大納言、右大臣等をつとめる。家紋は笹竜胆。画像は遺髪塚にて。


東久世通禧 。1834年1月1日 – 1912年1月4日、 公家、政治家。
京都出身。羽林家格の村上源氏の公家・東久世通徳の子。読みは、ひがしくぜみちとみ。七卿落ちの一人。王政復古によって復権を果たし、その後は枢密顧問官、貴族院副議長、枢密院副議長を歴任。家紋は竜胆車。画像は中目黒・長泉院にて撮影。


橋本雅邦 。1835年8月21日 – 1908年1月13日、 日本画家。
父は川越藩の御用絵師・橋本養邦。狩野芳崖とともに新しい表現技法を模索。東京美術学校設立に尽力。下村観山横山大観菱田春草川合玉堂らを指導。また、日本美術院の創立にも参加。家紋は竜胆車。画像は深川・玉泉院の墓所にて撮影。


石川小五郎 。1840年3月12日 – 1919年9月29日、 武士、官僚。
周防国吉敷郡佐山に長州藩士の子弟として出生。後に河瀬真孝と称した。禁門の変では遊撃隊の指揮を執り後に遊撃隊総督となる。第二次長州征伐では芸州口を攻撃するなど活躍。維新後は枢密顧問官となる。家紋は笹竜胆紋。画像は青山霊園にて撮影。


赤松則良 。1841年12月13日 – 1920年9月23日、 海軍軍人。
幕府十五番組御徒士・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれ、祖父・赤松良則の後を継ぎ赤松姓となる。長崎海軍伝習所で航海術などを学ぶ。明治政府では海軍造船会議議長、海軍中将などを歴任。家紋は竜胆車紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


山田顕義 。1844年11月18日 – 1892年11月11日、 政治家。
長門国阿武郡椿郷東分にて萩藩士の長男。松下村塾に入門。攘夷の血判書に名を連ねる。維新後は参議兼内務卿、司法卿兼参議、司法大臣を歴任。日本大学、國學院大學の学祖。家紋は頭合わせ三つ根付き笹竜胆。画像は護国寺の墓所にて撮影。


福島安正 。1852年10月27日 – 1919年2月19日、 陸軍軍人。
信濃国松本城下に松本藩士・福島安広の長男として出生。イルクーツクから東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し実地調査(「シベリア単騎横断」)を行う。日露戦争にも参戦。家紋は笹竜胆紋。青山霊園の墓所にて撮影。


下田歌子 。1854年9月30日 – 1936年10月8日、 教育家・歌人。
岐阜県恵那郡岩村町出身。岩村藩の藩士の家に出生。本名:平尾鉐。容姿と才能に恵まれ明治の紫式部とも称される。生涯を女子教育の振興に捧げる。実践女子学園順心女子学園設立の基礎を築く。家紋は頭合わせ三つ笹竜胆紋。画像は護国寺にて撮影。


長谷川謹介 。1855年9月20日 – 1921年8月27日、 官僚。
長門(山口県)出身。井上勝にみとめられて鉄道寮に入り、鉄道技師として天竜川橋梁、台湾縦貫鉄道などを完成。鉄道院創設後は東部、西部、中部の鉄道管理局長、技監、副総裁などをつとめた。家紋は三つ葉竜胆紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


井上哲次郎 。1856年2月1日 – 1944年12月7日、 哲学者。
筑前国太宰府の出身。帝国大学で日本人で初めて哲学の教授となる。新体詩運動の先駆者。国家主義の立場から宗教に対する国家の優越を主張。内村鑑三の不敬事件の際にはキリスト教を激しく非難。哲学用語「形而上」の訳者。雑司ヶ谷霊園にて撮影。


小崎弘道 。1856年5月17日 – 1938年2月26日、 牧師。
肥後国託麻郡本山村出身。読みは、こざきひろみち。熊本藩士小崎次郎左衛門の5人兄弟の次男。霊南坂教会を創設し、同志社第2代社長(現総長)、日本組合基督教会会長、日本基督教連盟会長などを務めた。家紋は三つ笹竜胆紋。画像は青山霊園にて撮影。


曲木如長 。1858年3月 – 1913年10月16日、 法律家。
江戸神田橋生まれ。父は幕臣。読みは、まがきゆきなが。参事院御用掛兼太政官御用掛、司法官、検事、弁護士、東京市市会議員などを歴任。明治法律学校や日本法律学校で教鞭をとる。訳書に『巴威里憲法』『日本刑法論』などがある。家紋は笹竜胆。


石川倉次 。1859年2月28日 – 1944年12月23日、 教諭。
静岡県浜松市中区鹿谷町出身。読みは、いしかわくらじ。ルイ・ブライユが考案した6点式点字で日本語を表記する事に成功。「点字器」「点字ライター」も開発し、日本点字の父といわれている。家紋は丸に石川竜胆紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


各務鎌吉 。1869年2月3日 – 1939年5月27日、 実業家。
美濃国方県郡出身。読みは、かがみけんきち。父・省三は大蔵官僚。姉は森槐南の妻。東京海上火災保険の社長を始め三菱財閥の要職を務めた。日本人実業家として初めて『TIME』誌誌の表紙を飾る。家紋は丸に笹竜胆紋。画像は多磨霊園にて撮影。


和合英太郎 。1869年8月15日 – 1939年6月11日、 実業家。
安芸国土手町出身。広島藩士・和合義男の長男。機械製氷株式会社を設立。その後、各地の製氷会社を吸収合併し日本製氷社長就任、現在のニチレイの基礎を築く。また日本冷凍協会会長となり日本の製氷・冷凍業界の発展に貢献。画像は多磨霊園にて撮影。


喜多村緑郎 。1871年9月7日 – 1961年5月16日、 女形俳優。
東京市日本橋区橘町の薬種問屋に生まれた。本名は六郎。伊井蓉峰河合武雄とともに、「新派の三頭目」と呼ばれた。ほとんどが女役ばかりを演じた。人間国宝に認定され、文化功労者に選ばれた。家紋は笹竜胆紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


湯浅倉平 。1874年2月1日 – 1940年12月24日、 政治家。
山口県豊浦郡出身。初名は石川倉之丞。実父が福島県士族湯浅家の養子となったため、自身も同家に入り「湯浅倉平」と改称。内大臣として、第1次近衛内閣、平沼内閣、阿部内閣の生みの親となる。家紋の笹竜胆は「石川」姓の名残を示すか。


横瀬夜雨 。1878年1月1日 – 1934年2月14日、 詩人、歌人。
茨城県真壁郡横根村出身。本名は虎寿(とらじゅ)。『文庫』に民謡調の詩を発表し、詩集『花守』を刊行して浪漫的な色彩で人気を博した。筑波嶺詩人と呼ばれた。代表作は『お才』。家紋の情報は、文学者掃苔録図書館より。家紋笹竜胆紋。


比嘉春潮 。1883年1月9日 – 1977年11月1日、 社会運動家。
沖縄県西原町出身。読みは、ひがしゅんちょう。柳田國男の下で民俗学を研究、それを元に自らの沖縄学研究を深めていった。また、沖縄学の振興と沖縄返還の実現のための活動に努めた。家紋は丸に笹竜胆紋。画像は多磨霊園にて撮影。


石川啄木 。1886年2月20日 – 1912年4月13日、 詩人。
岩手県南岩手郡に寺の住職・石川一禎の長男として出生。本名は、石川一。「東海の小島の磯の白砂に われ泣き濡れて蟹と戯むる」など有名詩を残す。代表作は小説『我等の一団と彼』、詩集『一握の砂』。家紋は丸に笹竜胆紋。石川啄木記念館にて確認。


多田北烏 。1889年4月3日 – 1948年1月1日、 挿絵画家。
長野県松本市出身。本名は嘉寿計。読みは、ただほくう。長年にわたって、キリンビールのポスターを手がける。日本のデザインスタジオの草分け的な存在である「サン・スタジオ」を設立。家紋は中陰笹竜胆紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


宇野浩二 。1891年7月26日 – 1961年9月21日、 小説家・作家。
福岡県福岡市南湊町に出生。本名は宇野格次郎。『苦の世界』を発表し新進作家として文壇で認められる。「文学の鬼」と呼ばれた。代表作は『苦の世界』『子を貸し屋』『枯木のある風景』。家紋は竜胆車。画像は台東区の広大寺にて撮影。


山崎保代 。1891年10月17日 – 1943年5月29日、 陸軍軍人。
山梨県南都留郡禾生村出身。僧侶・山崎玄洞の二男として生れる。読みは、やまざきやすよ。大東亜戦争中に、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後、戦死した。最終階級は陸軍中将。家紋は笹竜胆紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


長谷川潔 。1891年12月9日 – 1980年12月13日、 版画家。
神奈川県横浜市出身。読みは、はせがわきよし。黒田清輝岡田三郎助から洋画を学ぶ。渡仏し、様々な銅版画の技法を習熟。メゾチントと呼ばれる古い版画技法を復活させ独自の様式として確立させた。家紋は笹竜胆紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


石川欣一 。1895年3月17日 – 1959年8月4日、 ジャーナリスト。
東京出身。父は動物学者の石川千代松。母・貞は法学者・箕作麟祥の娘。妻・江は東山千栄子の妹。大阪毎日新聞社、東京日日新聞社などで記者をする傍らで、文筆業を行う。著作には『旅から旅へ』『たばこ談義』がある。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


アダチ龍光 。1896年7月20日 – 1982年10月13日、 奇術師。
越後の禅寺の息子に生まれる。本名は中川一。落語協会に所属し、上品な語り口でマジックを披露して人気を博した。日本奇術協会会長を務める。昭和天皇の古希のお祝いに皇居で奇術を披露している。家紋は笹竜胆紋。画像は浅草は萬隆寺にて撮影。


龍胆寺雄 。1901年4月27日 – 1992年6月3日、 作家。
千葉県佐倉市出身。本名は橋詰雄。読みは、りゅうたんじゆう。「改造」発表の「アパアトの女たちと僕と」で作家としての評価を確立。サボテン研究家としても有名で「シャボテン幻想」を著す。家紋は笹竜胆紋(川本三郎の「今日はお墓参り」より)。


中井英夫 。1922年9月17日 – 1993年12月10日、 小説家、詩人。
東京市滝野川区出身。読みは、なかいひでお。代表作の長編小説『虚無への供物』は夢野久作の『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』と共に日本推理小説の三大奇書に数えられる。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は笹竜胆紋。


立原正秋 。1926年1月6日 – 1980年8月12日、 小説家・随筆家。
朝鮮慶尚北道安東郡生れ。本名は金胤奎、キム・ユンキュ。「薪能」「剣ヶ崎」が芥川賞、「漆の花」が直木賞候補となる。代表作は『冬の旅』『秘すれば花』『日本の庭』など。家紋は尻合わせ三つ笹竜胆紋。画像は鎌倉・瑞泉寺の墓所にて撮影。


石川力夫 。1926年 – 1956年2月2日、 ヤクザ。
茨城県出身。親分の家に殴り込み日本刀で斬りつけた。ヤクザの憲法である「仁義」に背いた反逆者として斯界の伝説となる。刑務所の屋上から飛び降り自殺。死後に「仁義の墓場」というタイトルで映画化された。家紋は笹竜胆。石川姓の代表紋である。


久我美子 。1931年1月21日 – 、 女優。
東京都出身。村上源氏の流れを汲む華族の家柄で、清華家の家格を有した公家家系。父・久我通顕は侯爵。代表出演作『醉いどれ天使』『彼岸花』『太陽とバラ』『3時のあなた』の司会者を務める。家紋は五つ竜胆車紋。画像は「古事類苑」より。


長門勇 。1932年1月1日 – 2013年6月4日、 俳優。
岡山県倉敷市出身。本名は平賀湧。のほほんとした親しみやすいキャラクターが印象的な名優。金田一耕助シリーズに多数出演。代表作『てなもんや三度笠』『三匹の侍』『スチャラカ社員』等。家紋は丸に剣片喰と笹竜胆。画像は春秋苑にて撮影。


由紀さおり 。1948年11月13日 – 、 歌手、俳優。
群馬県桐生市出身。本名は、安田章子。代表ヒット曲は「夜明けのスキャット」「故郷」「手紙」など。「恋文」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞、映画『家族ゲーム』では日本アカデミー賞助演女優賞を受賞。家紋の竜胆紋は墓所写真にて確認。


生島ヒロシ 。1950年12月24日 – 、 アナウンサー、タレント。
出身は宮城県気仙沼市。TBSにアナウンサーとして入社。『生島ヒロシのおはよう一直線』等の番組を持つ。福祉への造詣も深く義母の介護体験から『おばあちゃま、壊れちゃったの?』を出版。家紋は笹竜胆紋。画像は青山・梅窓院の生島家墓所にて撮影。


いしかわじゅん 。1951年2月15日 – 、 漫画家。
愛知県豊田市出身。本名は石川潤。ギャグ漫画をはじめ、漫画およびプロレス評論、エッセイ、小説など、手広く発表する。代表作は『フロムK』『漫画の時間』『だってサルなんだもん』など。家紋は笹竜胆紋であるとツイッター上で告白した。


見沢知廉 。1959年8月23日 – 2005年9月7日、 活動家、作家。
東京都文京区生まれ。本名は高橋哲夫。旧姓、平井。三島事件に感銘を受けた事を機に日本学生同盟に加入。日本IBM、英国大使館等への火炎ゲリラ活動等の事件を起こし逮捕。代表作は獄中で執筆した『天皇ごっこ』『囚人狂時代』等。


雅山哲士 。1977年7月28日 – 、 大相撲力士。
茨城県水戸市出身。本名は竹内雅人。武双山の父に指導を受け強くなった。藤島部屋(入門時は武蔵川部屋)所属。初土俵から4場所連続優勝という記録を作る。最高位は西大関。現在は現役を引退し、二子山を名乗る。家紋は笹竜胆。


鹿賀りん 。2005年8月10日 – 、 「うさぎドロップ」登場人物。
鹿賀宋一と吉井正子の娘、河地大吉の血縁関係上の叔母。苗字は祖父と同じ鹿賀。名前の「りん」は宋一が好きだった竜胆から取られた。宋一の葬式の後に大吉と一緒に暮らすようになる。家紋は丸に笹竜胆。宋一の葬儀のときの提灯より判断。

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杏葉紋 -九州武将あこがれ、異国の馬具を模した紋- 大友宗麟、五代友厚、徳田秋声...

杏葉とは馬具の装飾品。
法然上人の生家の漆間家がこの杏葉紋のため、浄土宗系の寺院の寺紋となっている場合がある。
例えば、伊能忠敬が眠る上野の源空寺、喜多川歌麿が眠る北烏山の専光寺など。画像は、専光寺の杏葉紋。

この紋は、室町時代、九州の大友氏と有力家臣が使用していた。1570年、竜造寺隆信が大友宗麟を戦で破り、その紋を奪った。
さらに、その竜造寺家から、重臣の鍋島家がこの紋を奪った。
それほど、九州地方では憧れの紋だったのである。

したがって、この紋を持つ人は現在でも九州地方の多い。
佐賀県の19位が最高。福岡県、大分県で21位、長崎県で23位、熊本県で25位。九州以外では、広島県で28位。

杏葉紋を使用している有名人は以下。


立花道雪 。1513年4月22日 – 1585年11月2日、 武将。
豊後の戦国大名である大友氏の家臣。耳川の戦いで大友氏が衰退した後も大友氏を支え続けたが、高齢を押して出陣したために病に倒れ死去した。半身不随にも関わらず、勝利し続けたため「鬼道雪」「雷神」と称された。 家紋は花杏葉。


龍造寺隆信 。1529年3月24日 – 1584年5月4日、 大名。
龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男。本姓は藤原氏。「肥前の熊」ともいわれた。大友氏を破り島津氏と並ぶ勢力を築き上げたが島津有馬氏の連合軍との戦いで敗死した。家紋は日足(左)、剣花菱(中央)、杏葉(右)。


大友宗麟 。1530年1月31日 – 1587年6月11日、 戦国大名。
大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて九州で権勢を振るう。宗麟の時代に大内氏や毛利氏の勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定した。当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。家紋は花杏葉。


恋川春町 。1744年 – 1789年8月27日、 戯作者。
紀州徳川家附家老の安藤次由の家臣・桑島勝義の次男として誕生。父方伯父の倉橋勝正の養子となる。本名は倉橋格。『金々先生栄花夢』で当世風俗を描き、黄表紙というジャンルを開拓。家紋は三つ並び杏葉紋か?画像は成覚寺にて撮影。


江木鰐水 。1810年12月22日 – 1881年10月8日、 儒学者。
安芸国出身。庄屋福原与曽八の三男。読みは、えぎがくすい。頼山陽に師事。福山藩主阿部正弘に抜擢され、藩儒官となる。ペリーの2度目来航時に応接係に随行。箱館戦争にも参加した。家紋は花杏葉菱紋。画像は谷中霊園にて。


鍋島直正 。1815年1月16日 – 1871年3月8日、 大名。
父の隠居の後を受け17歳で第10代藩主に襲封。藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革を行う。アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した。家紋は鍋島杏葉。青山墓地の鍋島氏の墓所にて撮影。


壬生基修 。1835年4月4日 – 1906年3月5日、 公卿、伯爵。
京都出身。庭田重基の三男として生まれ壬生道吉の養子となる。読みは、みぶもとおさ。尊王攘夷派の公家として長州藩に下向(七卿落ち)。維新後は東京府知事、元老院議官、平安神宮初代宮司を歴任。家紋は園杏葉紋。画像は多磨霊園にて撮影。


五代友厚 。1836年2月12日 – 1885年9月25日、 実業家。
薩摩国出身。記録奉行の五代直左衛門秀尭の息子。大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、共同運輸会社、阪堺鉄道(現・南海電鉄)等の創設に関わる。家紋は丸に組み違い十字久留子紋と抱き杏葉紋。画像は青山霊園にて撮影。


高崎正風 。1836年9月8日 – 1912年2月28日、 志士、歌人。
薩摩国川上出身。薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭の長男。志士として活躍。八月十八日の政変薩会同盟の立役者となる。新政府に出仕。宮中の侍従番長、翌年から御歌掛などをつとめる。家紋は抱き花杏葉紋。青山霊園の墓所にて撮影。


小室信介 。1852年9月4日 – 1885年8月25日、 民権運動家。
丹後国出身。砲術家・小笠原忠四郎の第二子。豪商・小室信夫の養子となる。養父は民撰議院設立建白書に板垣退助ら4人の旧参議と共に署名した一人。自身も関西における自由民権運動の雄となる。家紋は抱き花杏葉紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


目賀田種太郎 。1853年8月25日 – 1926年9月10日、 法学者。
江戸本所太平町出身。横浜税関長、大蔵省主税局長、枢密院顧問官などの要職を歴任。相馬永胤田尻稲次郎駒井重格らと共に、専修学校(現:専修大学)を創設した。東京音楽学校(現:東京藝術大学)創設の基礎を築く。家紋は抱き杏葉紋。


立花小一郎 。1861年3月20日 – 1929年2月15日、 陸軍軍人。
三池藩家老・立花硯の長男として生れる。朝鮮駐剳軍参謀長、朝鮮総督府警務総長、関東軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将。その後は、福岡市長、貴族院議員を務めた。家紋は立花変り杏葉紋。画像は多磨霊園にて撮影。


徳田秋声 。1872年2月1日 – 1943年11月18日、 小説家。
金沢市横山町に加賀藩の陪臣横山雲平の子として生まれる。本名は末雄。島崎藤村正宗白鳥らと共に日本ペンクラブの設立にも参加。代表作は『薮かうじ』 『感傷的の事』『光を追うて』など。家紋は抱き花杏葉紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


秦勉造 。1877年 – 1943年7月15日、 実業家、医学博士。
東京出身。東京帝国大学医科大学卒業。札幌病院外科医長となる。北海道帝国大学医学部創設とともに同大学医学部教授、初代医学部長となり北海道外科学の進歩に貢献。東京同愛記念病院の開設に尽力。画像は多磨霊園にて撮影。家紋は抱き杏葉紋。


国広富之 。1953年4月23日 -、 俳優。
京都府京都市左京区出身。本名は、國廣富之。ファッションモデル兼女優の谷内里早は、実娘。『赤い絆』、『噂の刑事トミーとマツ』など人気ドラマで活躍。家紋の抱き杏葉紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。

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蛇の目紋 -神秘的なヘビ信仰を現代に伝える- 加藤清正、加藤友三郎、加藤楸邨...

蛇の目に似ているため、蛇の目紋と呼ばれる。
おそらく、古来、蛇の神秘的な姿や動きに聖なるものを感じた日本人がその神秘的な力にあやかろうと家紋にしたのであろう。シンプルなデザインに力強さを感じさせる。

戦国、安土桃山時代の武将・加藤清正が替紋にこの「蛇の目紋」を使った。
彼の長烏帽子についていた蛇の目は有名。

蛇の目紋を使用している有名人は以下。


佐久間信盛 。1528年 – 1582年2月18日、 武将、織田信長の家臣。
尾張国に生まれ、織田信秀に仕える。六角氏との戦い、一向宗との戦い、比叡山焼き討ちで武功を上げる。織田信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、信盛は嫡男・佐久間信栄と共に高野山に追放された。家紋は蛇の目九曜、三つ引両紋。


加藤清正 。1562年 – 1611年、 武将、大名。
尾張国愛知郡中村に鍛冶屋の子として出生。豊臣秀吉の家臣として仕え各地を転戦し、秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くした。関が原戦いでは東軍につき活躍。戦後、肥後一国を与えられた。家紋は桔梗と蛇の目を使用。写真は供養塔(本門寺)で撮影。


司馬江漢 。1747年 – 1818年11月19日、 絵師。蘭学者。
江戸出身。本名は安藤峻。鈴木春重は同一人物。天文・動植物など西洋博物学に興味を持ち日本に紹介。『和蘭天説』『刻白爾(コッペル)天文図解』等を著す。浮世絵師から洋風画家に至る。家紋は蛇の目紋に見える。画像は巣鴨・慈眼寺にて撮影。


篠原国幹 。1837年1月11日 – 1877年3月4日、 武士、軍人。
薩摩国鹿児島城下平之馬場町で篠原善兵衛の子として生まれる。戊辰戦争のとき、薩摩藩の城下三番小隊の隊長となって鳥羽伏見の戦いに参戦。西郷隆盛が下野すると近衛長官の職をなげうって鹿児島へ帰り、西南戦争に参戦、戦死。家紋は丸に蛇の目紋。


平岡浩太郎 。1851年7月21日 – 1906年10月24日、 運動家。
福岡藩士平岡仁三郎の次男として福岡市地行に生まれる。幼名は銕太郎。戊辰戦争で官軍側として活躍。維新後、自由民権運動に参加。玄洋社の初代社長に就任。日本に亡命した孫文に活動費、生活費を援助する。家紋の蛇の目紋は福岡市の聖福寺にて撮影。


賀古鶴所 。1855年2月18日 – 1931年1月1日、 医師、歌人。
遠江国の出身。父は、浜松藩の藩医賀古公斎。読みはかこつると。日本陸軍軍医。歌人としても常盤会を開催した。森鴎外の『舞姫』に登場する相澤謙吉は賀古がモデルと言われている。家紋は五三鬼桐に蛇の目紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


佐々友房 。1861年4月1日 – 1923年8月24日、 政治家、教育者。
肥後国出身。藩士・佐々陸助の二男。戦国武将、佐々成政の子孫という。初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行は孫。西南戦争には薩軍として参戦。同心学舎(現在の熊本県立済々黌高等学校)を設立。家紋の蛇の目紋は墓所写真にて確認。


加藤友三郎 。1861年4月1日 – 1923年8月24日、 海軍人、政治家。
広島市大手町出身。広島藩士・加藤七郎兵衛の三男。最終階級は元帥海軍大将。ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。第21代内閣総理大臣時代にはシベリア撤兵・軍縮の実施などの重要な課題を遂行。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


生江孝之 。1867年12月7日 – 1957年7月31日、 宗教家。
陸奥国仙台出身。仙台藩士生江元善の子。東京キリスト教青年会理事、東京府社会事業協会理事などを務めた。同志社大学今出川図書館にその蔵書2700冊を寄贈した「生江文庫」がある。家紋は蛇の目紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


川島義之 。1878年5月25日 – 1945年9月8日、 陸軍軍人。
愛媛県出身。松山中学時代は夏目漱石の教え子だったという。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任。岡田内閣で陸軍大臣に就任したが二・二六事件の処理に失敗。最終階級は陸軍大将。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


砂田重政 。1884年9月15日 – 1957年12月27日、 政治家。
愛媛県出身。1920年に立憲国民党から衆議院議員に初当選。第2次鳩山内閣にて防衛庁長官として入閣。保守合同後は自由民主党で総務会長を務める。千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に熱心に取り組んだ。家紋は桔梗紋と蛇の目紋。画像は小平霊園にて撮影。


野上弥生子 。1885年5月6日 – 1985年3月30日、 小説家。
大分県臼杵市出身。フンドーキン醤油の創業家(小早川家)に生まれる。夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚。代表作は『真知子』『迷路』『森』『秀吉と利休』など。蛇の目紋は小早川家の家紋。「新潮日本文学アルバム 野上弥生子」にて確認。


加藤楸邨 。1905年5月26日 – 1993年7月3日、 俳人、国文学者。
東京市北千束に生まれる。父が鉄道官吏。俳誌『寒雷』を創刊し主宰。そこから金子兜太、森澄雄を輩出。句集『まぼろしの鹿』で第二回蛇笏賞を受賞。紫綬褒章、勲三等瑞宝章を叙勲。日本芸術院会員。家紋は陰蛇の目紋。画像は九品仏浄真寺にて撮影。


山川方夫 。1930年2月25日 – 1965年2月20日、 作家。
東京市下谷区上野桜木町に日本画家山川秀峰の長男として出生。本名は山川嘉巳。第3次『三田文学』を創刊。新人発掘に力を注ぎ曾野綾子、江藤淳などを発掘。代表作は『演技の果て』『海の告発』。家紋は蛇の目に桔梗紋。画像は妙覚寺にて撮影。


高見盛精彦 。1976年5月12日 -、 大相撲力士。
青森県北津軽郡板柳町出身。本名は、加藤精彦。読みは、たかみさかりせいけん。ニックネームは「角界のロボコップ」。最高位は、小結。金星は2個。現在は年寄・振分として東関部屋で後進の指導に当たっている。家紋は丸に下がり藤に蛇の目紋。

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久留子紋 -隠れキリシタンがつけた悲しい紋- 小西行長、伊庭八郎、大島渚...


キリシタン禁止後、信者は、この紋を使用して十字架をカモフラージュしたといわれている。
そこまでして信仰を守ろうとした人々の気持ちを考えると、その意志の強さと同時に悲しさも感じさせる。

使用する有名人は以下。


小西行長 。1555年 – 1600年11月6日、 武将、大名。
京都出身。堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男。12才から秀吉に仕え数々の手柄を上げ南肥後の20万石を与えられた。朝鮮出兵時、加藤清正と先陣を争ったことでも有名。関ヶ原の戦いで西軍の将として敗北。家紋は花久留子と中結祇園守


伊庭八郎 。1844年 – 1869年6月26日、 幕臣。
江戸出身。伊庭軍兵衛秀業の長男。読みは、いばはちろう。遊撃隊員として鳥羽・伏見の戦いに参戦。隻腕ながらも幕軍を率いて徹底抗戦を続けるが五稜郭開城の前夜に自決。家紋は丸に枷木久留子紋。画像は中野区・貞源寺の伊庭家墓所にて撮影。


伊集院五郎 。1852年9月27日 – 1921年1月13日、 海軍軍人。
薩摩国出身。藩士の息子。西南戦争に参軍。伊集院信管を開発。バルチック艦隊を撃破する大きな要因となり日本海海戦勝利の影の功労者と言われた。最終階級は、元帥海軍大将。家紋は丸に花角久留子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


中島敦 。1909年5月5日 – 1942年12月4日、 小説家。
日本橋新乗物町出身。中島家は代々、駕籠を製造販売する商家だったが祖父・中島撫山は漢学者となり、父・中島田人は旧制中学の漢文の教員となる。代表作は『山月記』『文字禍』『李陵』。家紋は花久留子菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


石井好子 。1922年8月4日 – 2010年7月17日、 シャンソン歌手。
東京都出身。日本シャンソン界の草分け。料理の鉄人にたびたび審査員として出演。父は政治家・石井光次郎久原房之助は祖父。大隈信幸五島昇は叔父。朝吹三吉は義兄。家紋は雪輪に丸に枷木久留子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


大島渚 。1932年3月31日 – 2013年1月15日、 映画監督。
岡山県玉野市出身。父方は長崎県対馬、先祖は対馬藩士。松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として、『青春残酷物語』『太陽の墓場』などを監督する。代表作品は、『戦場のメリークリスマス』。画像は丸に建長寺の墓所にある水桶に描かれた十字出久留子紋。


魁輝薫秀 。1952年6月12日 -、 元大相撲力士。
青森県上北郡七戸町出身。本名は、西野政章。所属は友綱部屋。最高位は関脇。引退後は、日本相撲協会理事を3期務め、年寄・友綱隆登として友綱部屋を経営し、大関・魁皇、関脇・魁聖などを育てた。家紋は中川久留子紋。


眠狂四郎 。江戸時代、 剣客。
柴田錬三郎の小説に登場する剣客。転びバテレンと日本人の混血という出自を持ち、平然と人を斬り捨てる残虐性を持ち、「円月殺法」という剣術を用いて活躍。映画では、鶴田浩二市川雷蔵松方弘樹等が演じている。家紋は角花久留子紋。

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久留子紋 -隠れキリシタンがつけた悲しい紋- 小西行長、伊庭八郎、中島敦...

キリシタン禁止後、信者は、この紋を使用して十字架をカモフラージュしたといわれている。
そこまでして信仰を守ろうとした人々の気持ちを考えると、その意志の強さと同時に悲しさも感じさせる。

使用する有名人は以下。


小西行長 。1555年 – 1600年11月6日、 武将、大名。
京都出身。堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男。12才から秀吉に仕え数々の手柄を上げ南肥後の20万石を与えられた。朝鮮出兵時、加藤清正と先陣を争ったことでも有名。関ヶ原の戦いで西軍の将として敗北。家紋は花久留子と中結祇園守。


伊庭八郎 。1844年 – 1869年6月26日、 幕臣。
江戸出身。伊庭軍兵衛秀業の長男。読みは、いばはちろう。遊撃隊員として鳥羽・伏見の戦いに参戦。隻腕ながらも幕軍を率いて徹底抗戦を続けるが五稜郭開城の前夜に自決。家紋は丸に枷木久留子紋。画像は中野区・貞源寺の伊庭家墓所にて撮影。


伊集院五郎 。1852年9月27日 – 1921年1月13日、 海軍軍人。
薩摩国出身。藩士の息子。西南戦争に参軍。伊集院信管を開発。バルチック艦隊を撃破する大きな要因となり日本海海戦勝利の影の功労者と言われた。最終階級は、元帥海軍大将。家紋は丸に花角久留子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


中島敦 。1909年5月5日 – 1942年12月4日、 小説家。
日本橋新乗物町出身。中島家は代々、駕籠を製造販売する商家だったが祖父・中島撫山は漢学者となり、父・中島田人は旧制中学の漢文の教員となる。代表作は『山月記』『文字禍』『李陵』。家紋は花久留子菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


石井好子 。1922年8月4日 – 2010年7月17日、 シャンソン歌手。
東京都出身。日本シャンソン界の草分け。料理の鉄人にたびたび審査員として出演。父は政治家・石井光次郎久原房之助は祖父。大隈信幸五島昇は叔父。朝吹三吉は義兄。家紋は雪輪に丸に枷木久留子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


眠狂四郎 。江戸時代、 剣客。
柴田錬三郎の小説に登場する剣客。転びバテレンと日本人の混血という出自を持ち、平然と人を斬り捨てる残虐性を持ち、「円月殺法」という剣術を用いて活躍。映画では、鶴田浩二市川雷蔵松方弘樹等が演じている。家紋は角花久留子紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね




丁子紋 -南洋に対する想いを表した紋- 高倉健...


丁子とは、モルッカ諸島原産の常緑樹。
その蕾を干したものは、香料、薬として珍重されたという。
一般的には、この薬を珍重した藤原系の家(押公路、前田、甲藤など)が使用したといわれているが、もしかしたら、南洋からの移民が先祖を忘れないために紋にしたのかもしれない。

だから、この紋の使用家は、九州全般、特に鹿児島県(16位)に多い。
また、その他では、富山県(19位)に多い。おそらく薬の名産地(富山の薬売り)と関係があるのではないだろうか。

使用する有名人は以下。


英一蝶 。1652年 – 1724年2月7日、 日本画家。
京都生まれ。本姓は藤原、多賀氏。読みは、はなぶさいっちょう。父・多賀伯庵は伊勢亀山藩の侍医。肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残すも、生類憐みの令違反で三宅島へ流罪となる。家紋は五つ丁子紋。画像は池上本門寺の英家墓所にて撮影。


三条西季知 。1811年3月20日 – 1880年8月24日、 公卿。
京都出身。権中納言となり重んじられる。三条実美らと長州へ下向、いわゆる七卿落ちの一人となる。明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主、明治天皇の歌道師範となった。家紋は八つ丁子車紋。画像は谷中霊園にて撮影。


村垣範正 。1813年10月17日 – 1880年3月15日、 外国奉行。
江戸築地出身。村垣家は代々庭番役を勤めていた。安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年には神奈川奉行を兼務する。家紋の丸に抱き丁子紋と地抜き隅立て角に左三つ巴紋は天王寺墓地にて撮影。


川路利良 。1834年6月17日 – 1879年10月13日、 警察官僚。
薩摩藩与力、川路利愛の長男として薩摩国鹿児島近在の比志島村に出生。禁門の変で戦功を挙げ西郷隆盛大久保利通から高く評価された。欧米の近代警察組織の骨格を初めて構築した日本警察の父。家紋は六つ丁子車紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


野津道貫 。1841年12月17日 – 1908年10月18日、 陸軍軍人。
鹿児島城下高麗町出身。下級藩士の二男。妻は高島鞆之助の妹。上原勇作は娘婿。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争に参戦。最終階級は元帥陸軍大将。兄の野津鎮雄も長じて陸軍中将となる。家紋は六つ追い丁子紋。青山霊園にて撮影。


曾我祐準 。1844年2月13日 – 1935年11月30日、 陸軍軍人。
筑後国出身。柳河藩士・曾我祐興の次男。読みは、そが すけのり、すけゆき。山縣有朋大山巌ら陸軍内の藩閥勢力に対し、三浦梧楼谷干城鳥尾小弥太と反主流派を形成した。家紋の右一つ丁子巴紋は、「華族家系大成」による。


園田安賢 。1850年10月6日 – 1924年8月7日、 警察官僚。
薩摩国出身。藩士・園田良右衛門の長男。読みは、そのだやすかた。西南戦争に抜刀隊巡査部隊の長として従軍し、戦傷を受けた。後に、石川県警部長、警視総監、貴族院男爵議員などを歴任。家紋の六つ丁子紋は、「華族家系大成」による。


浜田玄達 。1855年1月14日 – 1915年2月16日、 医学者。
肥後国(熊本県)大岳村出身。日本の産婦人科学のパイオニアとして日本婦人科学会を創立、会長を連続務めた。また、帝大医科大(東大)教授、医科大学長、宮内省御用掛もつとめた。家紋は丁子片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


竹内明太郎 。1860年3月20日 – 1928年3月23日、 実業家。
高知県宿毛市出身。竹内綱の長男で吉田茂の長兄。読みは、たけうちめいたろう。自由民権運動に関わり、自由党に入党。実業家としては小松製作所日産自動車の前身の快進社を設立。家紋は左三つ丁子巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


町田忠治 。1863年5月17日 – 1946年11月12日、 政治家。
出羽国秋田郡久保田城下に秋田藩士・町田伝次の四男として誕生。愛称はノンキナトウサン。国務大臣、大蔵大臣、商工大臣、農林大臣、立憲民政党・日本進歩党総裁などを歴任。一時期、報知新聞社社長も兼任した。家紋は右二つ丁子巴紋。


藤山雷太 。1863年9月13日 – 1938年12月19日、 実業家。
肥前国松浦郡大里村の庄屋・伊吹家の三男として出生。芝浦製作所(後の東芝)の支配人、王子製紙の専務取締役を歴任。歌舞伎座取締役として帝国劇場の創立にも関わる。慶應義塾大学構内に銅像がある。家紋は六つ丁子紋。画像は多磨霊園にて撮影。


野口寧斎 。1867年4月29日 – 1905年5月12日、 漢詩人。
長崎県諫早出身。漢詩人であり官吏だった野口松陽の長子。読みは、のぐちねいさい。明治期漢詩界の大家・森槐南の一番弟子。七言律詩によって評した「韻語陽秋」が人気を博した。家紋は二重丸に違い丁子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


清水澄 。1868年9月27日 – 1947年9月25日、 憲法、行政法学者。
石川県金沢市出身。宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したが日本国憲法が施行された後に自殺。家紋は折入り角に右一つ丁子紋。画像は青山霊園にて撮影。


山本昇雲 。1870年12月30日 – 1965年5月10日、 報道画家。
高知県長岡郡出身。旧土佐藩・山内家の下級武士で古物商を営む家の次男。本名は茂三郎。20年間にグラフ誌「風俗画報」の表紙、口絵、挿画など1300点を描く一方で日本画も残す。家紋の正確な名称は現在確認中。画像は青山霊園にて撮影。


小倉正恒 。1875年3月22日 -1961年11月20日、 実業家、政治家。
石川県金沢市出身。旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男。読みは、おぐらまさつね。住友財閥総帥として住友の企業経営を徹底して合理化する。この間、貴族院議員として国務大臣、大蔵大臣も務める。家紋は丁子三つ葵紋。画像は青山霊園にて撮影。


岡村寧次 。1884年5月15日 – 1966年9月2日、 陸軍軍人。
東京府出身。父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。読みは、おかむらやすじ。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将。戦後は中国国民党政権に協力した。家紋は丸に五つ丁子。画像は、岡村家菩提寺・長安寺にて撮影。


井上日召 。1886年4月12日 – 1967年3月4日、 テロリスト。
群馬県利根郡出身。医師の家に生まれる。読みは、いのうえにっしょう。本名は井上昭。日蓮主義自称の僧侶で戦前の右翼テロリスト集団血盟団、戦後の右翼団体護国団の指導者。近衛文麿のブレーンも務めた。家紋は六つ丁子紋。紋付姿の写真より判断。


藤村操 。1886年7月20日 – 1903年5月22日、 旧制一高の学生。
北海道出身。祖父の藤村政徳は盛岡藩士。日光の華厳滝で自殺。当時の社会に大きな影響を与えた。また、当時、藤村のクラスで英語担当だった夏目漱石の精神にも大きな打撃を与えた。家紋は六つ丁子に釘抜き紋。青山霊園の藤村家の墓所にて撮影。


宮川竹馬 。1887年4月18日 – 1964年8月27日、 実業家。
高知県幡多郡入野村早咲出身。戦後復興期の電力業界人として活躍。1951年電力九分割によって誕生した四国電力株式会社の初代社長となる。その際、電力九分割案を松永安左エ門と協力してつくった。家紋は、丸に三丁子紋。多磨霊園の墓所にて撮影。


大麻唯男 。1889年7月7日 – 1957年2月20日、 政治家。
熊本県玉名市出身。読みは、おおあさただお。東條内閣の国務大臣として初入閣を果たした。政党政治家として戦前から戦後にかけて政友本党、立憲民政党、改進党、日本民主党、自由民主党等を渡り歩く。家紋は六つ丁子車紋。青山霊園にて撮影。


海音寺潮五郎 。1901年11月5日 – 1977年12月1日、 小説家。
鹿児島県伊佐郡大口村出身。本名は末富東作。「天正女合戦」等で第3回直木賞受賞。史伝文学の復興に対する功績があった。代表作は『西郷隆盛』『天と地と』『海と風と虹と』『悪人列伝』等。家紋は六つ丁子。家紋画像は、和田堀廟所にて撮影。


郡司正勝 。1913年7月7日 – 1998年4月15日、 演劇評論家。
北海道札幌市出身。読みは、ぐんじまさかつ。『かぶき・様式と伝承』で、芸術選奨文部大臣賞を受賞。代表著作は、『かぶきの美学』『かぶきの発想』『おどりの美学』など。早稲田大学名誉教授。家紋の丸に左三つ丁子巴紋は墓所写真にて確認。


富永一朗 。1925年4月25日 – 、 漫画家。
京都府京都市生まれ。大分県佐伯市育ち。1976年より1994年まで放送された長寿番組『お笑いマンガ道場』に出演。代表作は『チンコロ姐ちゃん』『ポンコツおやじ』など。家紋は地抜き左二つ丁子巴。画像は、すがも平和霊園の墓所にて撮影。


高倉健 。1931年2月16日 – 2014年11月10日、 俳優。
福岡県中間市出身。父は旧海軍軍人で裕福な一家に生まれる。本名は小田剛一。東映に第2期ニューフェイスとして入社。代表出演作『網走番外地』『八甲田山』『南極物語』『鉄道員』等。家紋の丸に違い丁子は福岡県中間市・小松山正覚寺にて撮影。


増位山太志郎 。1948年9月16日 – 、 大相撲の力士。
大関増位山大志郎の長男として東京に生まれる。本名は澤田昇。最高位は大関。現年寄・三保ヶ関。歌手として「そんな女のひとりごと」「そんな夕子にほれました」等のヒット曲がある。家紋は三保ヶ関部屋の玄関にある隅切り角に違い丁子紋。


把瑠都凱斗 。1984年11月5日 – 、 元大相撲の力士。
エストニア共和国出身。スウェーデン系。エストニア柔道ジュニア王者を経て大相撲入り。入門前、バーの用心棒を務めていた。最高位は大関。得意技は左四つ、寄り、吊り。家紋は入門時所属の三保ヶ関部屋の隅立て角に違い丁子を受け継ぎ丸に違い丁子。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
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丁子紋 -南洋に対する想いを表した紋- 富永一朗、海音寺潮五郎、把瑠都...

丁子とは、モルッカ諸島原産の常緑樹。
その蕾を干したものは、香料、薬として珍重されたという。
一般的には、この薬を珍重した藤原系の家(押公路、前田、甲藤など)が使用したといわれているが、もしかしたら、南洋からの移民が先祖を忘れないために紋にしたのかもしれない。

だから、この紋の使用家は、九州全般、特に鹿児島県(16位)に多い。
また、その他では、富山県(19位)に多い。おそらく薬の名産地(富山の薬売り)と関係があるのではないだろうか。

使用する有名人は以下。


英一蝶 。1652年 – 1724年2月7日、 日本画家。
京都生まれ。本姓は藤原、多賀氏。読みは、はなぶさいっちょう。父・多賀伯庵は伊勢亀山藩の侍医。肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残すも、生類憐みの令に違反で三宅島へ流罪となる。家紋は五つ丁子紋。画像は池上本門寺の英家墓所にて撮影。


三条西季知 。1811年3月20日 – 1880年8月24日、 公卿。
京都出身。権中納言となり重んじられる。三条実美らと長州へ下向、いわゆる七卿落ちの一人となる。明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主、明治天皇の歌道師範となった。家紋は八つ丁子車紋。画像は谷中霊園にて撮影。


村垣範正 。1813年10月17日 – 1880年3月15日、 外国奉行。
江戸築地出身。村垣家は代々庭番役を勤めていた。安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年には神奈川奉行を兼務する。家紋の丸に抱き丁子紋と地抜き隅立て角に左三つ巴紋は天王寺墓地にて撮影。


川路利良 。1834年6月17日 – 1879年10月13日、 警察官僚。
薩摩藩与力、川路利愛の長男として薩摩国鹿児島近在の比志島村に出生。禁門の変で戦功を挙げ西郷隆盛大久保利通から高く評価された。欧米の近代警察組織の骨格を日本で初めて構築した日本警察の父。家紋は六つ丁子車紋。画像は青山霊園にて撮影。


野津道貫 。1841年12月17日 – 1908年10月18日、 陸軍軍人。
鹿児島城下高麗町出身。下級藩士の二男。妻は高島鞆之助の妹。上原勇作は娘婿。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争に参戦。最終階級は元帥陸軍大将。兄の野津鎮雄も長じて陸軍中将となる。家紋は六つ追い丁子紋。青山霊園にて撮影。


浜田玄達 。1855年1月14日 – 1915年2月16日、 医学者。
肥後国(熊本県)大岳村出身。日本の産婦人科学のパイオニアとして日本婦人科学会を創立、会長を連続務めた。また、帝大医科大(東大)教授、医科大学長、宮内省御用掛もつとめた。家紋は丁子片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


竹内明太郎 。1860年3月20日 – 1928年3月23日、 実業家。
高知県宿毛市出身。竹内綱の長男で吉田茂の長兄。読みは、たけうちめいたろう。自由民権運動に関わり、自由党に入党。実業家としては小松製作所日産自動車の前身の快進社を設立。家紋は左三つ丁子巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


町田忠治 。1863年5月17日 – 1946年11月12日、 政治家。
出羽国秋田郡久保田城下に秋田藩士・町田伝次の四男として誕生。愛称はノンキナトウサン。国務大臣、大蔵大臣、商工大臣、農林大臣、立憲民政党・日本進歩党総裁などを歴任。一時期、報知新聞社社長も兼任した。家紋は右二つ丁子巴紋。


藤山雷太 。1863年9月13日 – 1938年12月19日、 実業家。
肥前国松浦郡大里村の庄屋・伊吹家の三男として出生。芝浦製作所(後の東芝)の支配人、王子製紙の専務取締役を歴任。歌舞伎座取締役として帝国劇場の創立にも関わる。慶應義塾大学構内に銅像がある。家紋は六つ丁子紋。画像は多磨霊園にて撮影。


野口寧斎 。1867年4月29日 – 1905年5月12日、 漢詩人。
長崎県諫早出身。漢詩人であり官吏だった野口松陽の長子。読みは、のぐちねいさい。明治期漢詩界の大家・森槐南の一番弟子。七言律詩によって評した「韻語陽秋」が人気を博した。家紋は二重丸に違い丁子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


清水澄 。1868年9月27日 – 1947年9月25日、 憲法、行政法学者。
石川県金沢市出身。宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したが日本国憲法が施行された後に自殺。家紋は折入り角に右一つ丁子紋。画像は青山霊園にて撮影。


山本昇雲 。1870年12月30日 – 1965年5月10日、 報道画家。
高知県長岡郡出身。旧土佐藩・山内家の下級武士で古物商を営む家の次男。本名は茂三郎。20年間にグラフ誌「風俗画報」の表紙、口絵、挿画など1300点を描く一方で日本画も残す。家紋の正確な名称は現在確認中。画像は青山霊園にて撮影。


小倉正恒 。1875年3月22日 -1961年11月20日、 実業家、政治家。
石川県金沢市出身。旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男。読みは、おぐらまさつね。住友財閥総帥として住友の企業経営を徹底して合理化する。この間、貴族院議員として国務大臣、大蔵大臣も務める。家紋は丁子三つ葵紋。画像は青山霊園にて撮影。


岡村寧次 。1884年5月15日 – 1966年9月2日、 陸軍軍人。
東京府出身。父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。読みは、おかむらやすじ。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将。戦後は中国国民党政権に協力した。家紋は丸に五つ丁子。画像は、岡村家菩提寺・長安寺にて撮影。


井上日召 。1886年4月12日 – 1967年3月4日、 テロリスト。
群馬県利根郡出身。医師の家に生まれる。読みは、いのうえにっしょう。本名は井上昭。日蓮主義自称の僧侶で戦前の右翼テロリスト集団血盟団、戦後の右翼団体護国団の指導者。近衛文麿のブレーンも務めた。家紋は六つ丁子紋。紋付姿の写真より判断。


藤村操 。1886年7月 – 1903年5月22日、 旧制一高の学生。
北海道出身。祖父の藤村政徳は盛岡藩士。日光の華厳滝で自殺。当時の社会に大きな影響を与えた。また、当時、藤村のクラスで英語担当だった夏目漱石の精神にも大きな打撃を与えた。家紋は六つ丁子に釘抜き紋。青山霊園の藤村家の墓所にて撮影。


宮川竹馬 。1887年4月18日 – 1964年8月27日、 実業家。
高知県幡多郡入野村早咲出身。戦後復興期の電力業界人として活躍。1951年電力九分割によって誕生した四国電力株式会社の初代社長となる。その際、電力九分割案を松永安左エ門と協力してつくった。家紋は、丸に三丁子紋。多磨霊園の墓所にて撮影。


大麻唯男 。1889年7月7日 – 1957年2月20日、 政治家。
熊本県玉名市出身。読みは、おおあさただお。東條内閣の国務大臣として初入閣を果たした。政党政治家として戦前から戦後にかけて政友本党、立憲民政党、改進党、日本民主党、自由民主党等を渡り歩く。家紋は六つ丁子車紋。青山霊園にて撮影。


海音寺潮五郎 。1901年11月5日 – 1977年12月1日、 小説家。
鹿児島県伊佐郡大口村出身。本名は末富東作。「天正女合戦」等で第3回直木賞受賞。史伝文学の復興に対する功績があった。代表作は『西郷隆盛』『天と地と』『海と風と虹と』『悪人列伝』等。家紋は五つ丁子。写真は、和田堀廟所の墓石。


富永一朗 。1925年4月25日 – 、 漫画家。
京都府京都市生まれ。大分県佐伯市育ち。1976年より1994年まで放送された長寿番組『お笑いマンガ道場』に出演。代表作は『チンコロ姐ちゃん』『ポンコツおやじ』など。家紋は地抜き左二つ丁子巴。画像は、すがも平和霊園の墓所にて撮影。


増位山太志郎 。1948年9月16日 – 、 大相撲の力士。
大関増位山大志郎の長男として東京に生まれる。本名は澤田昇。最高位は大関。現年寄・三保ヶ関。歌手として「そんな女のひとりごと」「そんな夕子にほれました」等のヒット曲がある。家紋は三保ヶ関部屋の玄関にある隅切り角に違い丁子紋。


把瑠都凱斗 。1984年11月5日 – 、 元大相撲の力士。
エストニア共和国出身。スウェーデン系。エストニア柔道ジュニア王者を経て大相撲入り。入門前、バーの用心棒を務めていた。最高位は大関。得意技は左四つ、寄り、吊り。家紋は入門時所属の三保ヶ関部屋の隅立て角に違い丁子を受け継ぎ丸に違い丁子。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
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葵紋 -徳川家の紋としてあまりにも有名- 徳川家康、山南敬助、北大路魯山人...

平安時代、7月7日に宮中で行われた相撲会の際、東方から登場する力士は葵の葉を、西方から登場する力士は夕顔の花を髪飾りにして入場した。
そこから「花道」という言葉が出来たという。

葵紋といえば、徳川家の家紋として有名。
しかし、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵)であるため、徳川家はもともと、賀茂一族の出ではないかと言われている。

また、善光寺の寺紋(立葵)でもある。

有名使用者は以下。


本多重次 。1529年 – 1596年8月9日、 戦国武将。徳川氏の家臣。
勇猛果敢で剛毅な性格に由来する「鬼作左」の通称で知られた。三河一向一揆鎮圧戦などで大いに活躍し戦功を挙げた。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一短い手紙の作者としても有名。家紋は丸に立ち葵。画像は向丘高林寺にて撮影。


徳川家康 。1543年1月31日 – 1616年6月1日、 武将・大名。
本姓は先に藤原氏、次いで源氏を称した。家系は三河国の国人土豪・松平氏。後に、徳川氏に改姓。江戸幕府の初代征夷大将軍。織田信長豊臣秀吉と並ぶ三英傑の一人。家紋は三つ葉葵紋。画像は、陣羽織に描かれた三つ葉葵紋。


本多忠勝 。1548年 – 1610年12月3日、 武将・大名。
徳川本家の最古参の安祥譜代の本多氏で本多忠高の長男。本姓は藤原氏。家康の家臣として数々の武功を上げる。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられた。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。家紋は立葵(左)と丸に本の字。


徳川忠長 。1606年 – 1634年1月5日、 駿府藩主、甲府藩主。
江戸幕府・二代将軍・秀忠の次男として江戸城にて出生。母は浅井長政の娘で正室の江。晩年は領地を没収され、逼塞先の高崎で自害。高崎市大信寺の忠長の墓所には裏葵(画像)が彫られている。顔画像は大河ドラマ「江」における幼少時の忠長(国松)。


賀茂真淵 。1697年4月24日 – 1769年11月27日、 国学者、歌人。
浜松の神官・岡部政信の三男。賀茂神社神官の末流。荷田春満本居宣長平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人とされる。万葉集などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究した。主著『歌意考』『万葉考』『国意考』。家紋は二葉葵。


松平不昧 。1751年3月11日 – 1818年5月28日、 松江藩藩主。
直政系越前松平家・宗家7代。茶人としての才能は超一流で収集した茶器の銘品・銘菓は不昧公御好みとして現在にも伝えられている一方で、家老・朝日茂保の藩政改革によって潤った藩財政を茶道具道楽で潰したとも言われている。画像は護国寺にて撮影。


山南敬助 。1833年 – 1865年3月20日、 新選組総長(副長)。
仙台藩出身。姓は藤原氏。小野派一刀流免許皆伝、後に北辰一刀流・千葉周作門人となる。後に浪士組に参加、副長に就任するが脱退、切腹。介錯は沖田総司が務めた。家紋は丸に右離れ三つ葉立ち葵。画像は大河ドラマ「新選組」の山南敬助(堺雅人)。


徳川慶喜 。1837年10月28日 – 1913年11月22日、 江戸幕府将軍。
江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として出生。大政奉還や新政府軍への江戸城無血開城を行なった江戸幕府最後(15代)の将軍。明治になってからは趣味に没頭した生活を送った。写真は谷中霊園の慶喜墓の門にある三つ葉葵紋。


本多庸一 。1849年1月7日 – 1912年3月26日、 教育者、宗教家。
青森県弘前市出身。読みは、ほんだよういつ。弘前藩士・本多八郎の長男。新島襄内村鑑三新渡戸稲造と並ぶ明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者。青山学院の第2代院長。家紋は丸に立ち葵紋。画像は六本木墓苑の飯山藩主本多家の紋。


林権助 。1860年3月23日 – 1939年6月27日、 外交官。
会津藩出身。会津藩大砲隊長として著名な林権助安定は祖父。会津戦争では幼いながらも若松城に籠城して官軍と戦う。維新後は外交官となり特に日韓併合の実現に尽力。退職後は宮内省御用掛となる。家紋は蔓四つ葵に花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。


浦風林右衛門(9代) 。1868年1日8日 – 1917年5月17日、 力士。
石川県小松出身。本名は本多与志松。読みは、うらかぜりんえもん。八角右衛門部屋に入門。小松山与志松を名乗る。最高位は前頭筆頭。全盛期には横綱小錦を破った。引退後、9代目浦風林右衛門を襲名。家紋は蔓三つ葵の丸紋。画像は谷中霊園にて撮影。


本多光太郎 。1870年3月24日 – 1954年2月12日、 金属工学者。
愛知県碧海郡出身。読みは、ほんだこうたろう。鉄鋼の世界的権威者。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られ、「鉄の神様」「鉄鋼の父」などとも呼ばれた。家紋は丸に立ち葵紋は、岡崎市・妙源寺の墓所の写真で確認。


今村明恒 。1870年6月14日 – 1948年1月1日、 地震学者。
鹿児島県鹿児島市出身。薩摩藩士・今村明清の三男。1905年に、地震学者として今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告した。また、今村式強震計を開発、「地震の神様」と称された。家紋は三つ葉葵紋。画像は多磨霊園にて撮影。


小倉正恒 。1875年3月22日 -1961年11月20日、 実業家、政治家。
石川県金沢市出身。旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男。読みは、おぐらまさつね。住友財閥総帥として住友の企業経営を徹底して合理化する。この間、貴族院議員として国務大臣、大蔵大臣も務める。家紋は丁子三つ葵紋。画像は青山霊園にて撮影。


北大路魯山人 。1883年3月23日 – 1959年12月21日、 芸術家。
京都府京都市上賀茂出身。本名は房次郎。上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれる。篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など多方面で活躍。家紋は丸に六つ葵紋。画像は京都・西方寺にて撮影。


本田宗一郎 。1906年11月17日 – 1991年8月5日、 実業家。
静岡県磐田郡光明村出身。鍛冶屋をしていた本田儀平の子として出生。浜松市に本田技研工業株式会社(ホンダ)を設立し、世界的な大企業に育て上げる。正三位勲一等旭日大綬章受勲。家紋は丸に立ち葵紋。画像は冨士霊園の墓所にて撮影。


松平勇雄 。1907年6月14日 – 2006年4月1日、 政治家。
福島県大沼郡会津高田町出身。伊佐須美神社宮司・松平健雄(松平容保の次男)の次男。参議院議員を4期23年間、福島県知事も3期12年務めた。文化施設を設置し文化の知事と呼ばれた。家紋は河骨紋似の会津三つ葵紋。画像は多磨霊園にて撮影。


本多猪四郎 。1911年5月7日 – 1993年2月28日、 映画監督。
山形県東田川郡朝日村出身。読みは、ほんだいしろう。東宝に入社し、特撮映画以外に一般映画も数多く手がけた。代表作は『ゴジラ』『宇宙大戦争』『モスラ』など。家紋は丸に立ち葵紋。画像は多磨霊園の本多家の墓所にて撮影。


松平康隆 。1930年1月22日 – 2011年12月31日、 バレー監督。
東京市荏原区出身。読みは、まつだいらやすたか。旧加賀藩士で家老職を務めた松平大弐家の血を引く家系という。全日本男子代表監督として、メキシコ五輪で銀メダル、ミュンヘン五輪で金メダルへと導く。家紋は三葉葵紋。画像は多磨霊園にて撮影。


木原光知子 。1948年4月5日 – 2007年10月18日、 元水泳選手。
兵庫県明石市出身。岡山県岡山市で育つ。東京オリンピックに出場し「ミミ」の愛称で一躍アイドル選手となり、テレビ等に多数出演。実業家としては「ミミスイミングクラブ」を創立、日本水泳連盟理事も務める。家紋は丸に三葉葵紋。墓所にて確認。


西城秀樹 。1955年4月13日 -、 歌手、俳優。
広島県広島市出身。本名は木本龍雄。「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入りとなり、郷ひろみ野口五郎と共に新御三家と呼ばれる。家紋の蔓三つ葵紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


志村けんのバカ殿様 。江戸時代、 バラエティ番組のキャラクタ。
ドリフターズの志村けんが扮する。モデルは江戸幕府第9代将軍家重。幼名は竹千代。志村城の城主、志村藩(親藩)12万石の領主。コントでは「丸に三つ葵」が城内に見られる。家老格の桑野信義は丸に橘紋、側用人のダチョウ倶楽部は巴紋を使用。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね