アニメ『GIANT KILLING』のオープニングテーマを歌うTHE CHERRY COKE$に胸が熱くなった

土曜の夕方、娘たちがテレビの前に集まる。
NHK教育テレビにチャンネルを合わせる。学習番組ではなく、アニメが始まるのを期待して。
近年教育テレビが持ってくるアニメはすごい。『電脳コイル』とか『メジャー』とか。
さて6時になった、『バクマン。』が始まる。少年ジャンプに連載中の、若い漫画家コンビが一流の漫画家を目指すマンガのアニメだ。ものすごく面白い。
舞台となる地名、埼玉県谷草市ってのもまた親近感が沸く。
谷草って草加? 越谷? ちなみに僕は草加市民。
北谷草という駅名からして、どうも北越谷駅を擁する越谷市がモデルらしいというのが娘たちの見解。ちなみに僕の実家は越谷市。
で、その『バクマン。』が終わったら続いて、『GIANT KILLING』(ジャイアントキリング)が始まってしまうのが、NHK教育のすごさ。『GIANT KILLING』はマンガ雑誌『モーニング』で連載しているサッカーマンガ。Jリーグの弱小チームが主人公。
就任したばかりの若い監督や、ベテラン選手や若い選手やチームのフロントや、おっさんサポーターや過激なサポーターたちがぶつかり合う。
この秋から地上波で放映開始されて見始めたのだが、BSでは春からやっていたらしい。
オープニングテーマソングがいいんだ!
バグパイプ(かな?)とティンホイッスルの哀愁のある音色から始まる。アイルランド民謡みたいなやつ。
が、いきなりテンポチェンジして、高速裏打ちパンクになる。ボーカルがまただみ声ときた。
高速裏打ちパンクなのに、アコーディオンやティンホイッスルも入ってくる。哀愁と叫びのミクスチャー。ぐっとくる。胸が熱くなる。
字幕によるとTHE CHERRY COKE$というバンドの「My story 〜まだ見ぬ明日へ〜」という曲だ。
「THE CHERRY COKE$」か。そのバンド名、しっかり記憶した。あとで調べよう。
アイルランド民謡とパンクのミクスチャーって、じつにサッカーっぽいと思った。
子供からお年寄りまで、さらには過激化したサポーターまで、一丸となった応援する姿。パトリオティズム(愛国心、愛郷心)が発露する姿。
THE CHERRY COKE$の音を聞いて、若いときに聞いて好きになったバンドを思い出した。ザ・ポーグス
調べたら、アイリッシュ・パンクというジャンルがあった。ザ・ポーグスに始まり、THE CHERRY COKE$に続くジャンル。PADDY BEATという言い方もあるらしい。
伝統と過激さを兼ね備えた音楽って、一見矛盾するように感じるが、伝統の芳醇な情緒が利用されることによって、ロックの歌により強い力が加えられているんだと思う。
それと、磐石な土台の上で跳ねっ返りが少々暴れてもびくともしないほど、その音楽共同体の包容力が大きいんだろうなとも思う。
青森のねぶたの雄大なリズムの上で跳ね返っている「はねと」の姿を連想した。

じつに

ある時代の「ひとつの坂の上」の雰囲気がよく描かれていたということだけでも、映画「シングルマン」を見る価値はある

映画「シングルマン」を見た。バイセクシャルの話なのだが、そうした題材というよりも、描かれている当たり前の個人としての孤独感に共感できるし、ぼくはとても好きな部類に入る映画だ。監督がファッション・デザイナーのトム・フォード(ぼくはこの人の眼鏡のデザインが好きだ)ということもあり、映像がスタイリッシュで抑制が効いていてかつ最小限の美しさにあふれているような感じもいい。どこかノスタルジックな映像表現だ。もちろん映像だけではなく、人物や状況の描写も優れていると思う。

だが、それよりも一番良かったのは1960年代のアメリカという舞台設定だ。ちょうどキューバ危機の前後この当時のアメリカのおそらくミドルクラス以上の生活風景。芝生つきの広い家。モータリゼーション(自動車)の進展期。主人公が運転するアナログ的なインパネをもつ4ドア自動車がまたいいのだ。これはイーストウッドの「グラン・トリノ」の世界にも通じるもの。そして銀行での顧客サービス。すべてにおいてまだ上品で余裕があった時代のアメリカ白人社会が透けてみえるようだ。

総じて中流やや以上の暮らしが中心なのだろうが、それこそあの時代もっとも全世界があこがれていたに違いないアメリカの暮らし。冷蔵庫とTVと自動車と広い庭つきの白亜の家(それは空虚と裏腹だとしても)。そしてリビングの風景、60年代のファッション。女性の髪形の編み上げかたの面白さ。ポップだった時代。とくにジュリアン・ムーアのパーマネント・ウェイブがまたあの時代のポップな感じを想わせていい。ツイッギーみたいな感じか。ビートルズもこの時代の申し子。

いずれにしてもその功罪は別にして、それらはどういう時代であれまず貧しい国が成長を目指す過程でかならず思い描くであろう日常生活としての欲望のかたちにつながっている。そして映画のなかでの自信にみちて明るく紳士的・淑女的にみえる登場人物たち(もちろん登場人物たちの性格のねじれはあるのだが)。いっぽうで個人によってはどこか破滅的になりつつある(主人公が感じている核戦争の危機による世界の終わり)予感もある。

そうした諸々の変化に取り巻かれながらも、まだ健全で強く、退廃的であることが許されていたアメリカの古き良き時代。それは「トゥルーマン・ショー」の管理社会まではまだずっと遠い時代でもあり、登場人物はみんなやたらとタバコを吸っていたりするのだ。

最近読んだ関川夏央さんの「坂の上の雲と日本人」によると、司馬遼太郎さんの見方でもあるのだろうが、日本は日露戦争までの坂に至るまでは健康で明るい国だった(いわゆる偉大な明治だった)が、その達成以降劣化してゆくということになる。

その言い方にならえば世界史的にみればおそらくアメリカの全盛時代は1950年代から60年代前半あたりまで(ケネディ大統領が暗殺される辺りまで)で、それ以降はベトナム戦争への没入とともに劣化していくことになるといえるのかもしれない。そしてもっと広げていえば西欧やアメリカを中心とした先進国が文化的にも成長という意味でもまだ全的に輝いて見えた時代とはおそらく60年代までということになるのではないか。文化史的にみればフーコーとかラカン、バルトとかレヴィ=ストロースなどの一連のいわゆる構造主義者の著作が目白押しだったのが1966年という年だった(文化的にエポックの年)という指摘もあるようだ。

そしてこの辺りを境に日本でも世界でも学生運動が頻発し、その挫折とともにどこか停滞のステージに入っていく。70年代は石油危機が起こり、ローマクラブからは「成長の限界」というレポートが出るDecadeでもあった。先進国での人口増加のカーブ曲線もこの辺りをピークに変局していくともいわれている。ぼくが中学生から大人になってゆくのはこれ以降の時代だ。

没落の予感に怯えつつ、でもまだ日常生活の風景(消費社会)としてはアメリカが頂上の栄華を極めていた時代。だいぶ蛇足が長くなってしまったが、そのように紛れもなくある時代の「ひとつの坂の上」の雰囲気と、どこかそこはかとなく漂っているノスタルジーの感覚がとてもよく描かれていたということだけでも、「シングルマン」を見る価値はあるように思う。そしてそこにひとりの個人史の生と死もオーバーラップされて刻まれているのだ。

よしむね

羽田空港の国際線新ターミナルでクール・ジャパンというならいっそ本物の歌舞伎公演でもやったらどうだろうか

羽田空港の新ターミナルビル(国際線)に行ってきた。家内が国内線を利用したその帰り、迎えに行ったついでに開設した空港ターミナルビルを見てきた。第一印象としては施設は意外にシンプルでコンパクトという感じ。予想していたよりも施設内のロビーはそんなに広くなくコンパクトというのが一番強い実感。
ターミナル内部はおそらくBIG BIRDという名に因んで翼(羽根)をイメージした流線型ぽい構造体(添付写真)のようだが、これらは最近の建築の傾向と似ていると思う。シドニーのオペラハウスとかパリのドゴール空港なんかもそうだと思うのだけど、流線型に特徴があり、おそらく人的着想というよりもコンピュータ解析による設計デザイン力の発展によって可能性が見出された構造体でもあるのだろう。この辺は僕も専門家ではないので間違っているかもしれませんが。

それとなんといっても便利だと驚いたのは、モノレールの新駅改札口がそのまま空港ターミナルのフロアーと直結していること(添付写真)。以前京急の広告CGだったかで国際線の空港ターミナルに電車が乗り上げているつり革広告?があったと思うのだが(それを見て本当にそうなっていると思っていた人もいるという冗談めいた話を聞いたことがあるけど、)それが冗談ではなくまさにほぼ近い形で実現されていることは驚きだった。駅の改札を出ればすぐそこは国際線のターミナルだ。
あとはいろいろ話題になっていた江戸屋敷の小路風のいわゆる「クール・ジャパン」に関連したような食堂街や土産物屋の施設(添付写真)。これらはなんか江戸博物館のイメージに近い。まあ模造品なりにも日本のクールさ(ジャパン・アニメの店などもある)を多少絡めて、主に海外旅行者に感じてもらおうという試みなのだろうが、やっぱり所詮模造であることの中途半端さが僕は気になる。

むしろ本物志向でいっそほんとうの短い歌舞伎の演目を上演したり、コスプレのGALたちのファッションショーみたいなものをやったり、ストリートミュージシャンに日本の今を歌ってもらったり、そういうことができるような劇場やスペースをターミナル内に常設しても良かったのではないか。どうせ国力も衰退しているのだし、もっと面白い活力を見せるということで、そうした本物で異国を訪れた外国の方をまずもって圧倒してみるという試みがあっても良かったのではないか、などど勝手な空想を膨らませた次第。

そういえばなかに矢倉が組まれたステージ(舞台)もどきはあったけど。あれは何をやるところなのか。いずれにしてもなにか本物の上演がいいな。

まあ皆さんも機会あれば行ってみてください。

よしむね

TV番組「ブラタモリ」と「世界ふれあい街歩き」にみられる何気ない散歩の風景はいい

最近のTV番組はほんとうに面白くないのであまり見ていないのだが、そのなかでも好きな番組が二つある。「ブラタモリ」と「世界ふれあい街歩き」だ。NHKの番組。といっても毎回欠かさずかならず観ているというわけではないのだが。いずれも番組の基本は街のなかをとくに目的もなく散歩するというようなコンセプト。もともと僕自身がいわゆる名所旧跡の類にはあまり興味がなく、外国に行ってもほとんど観光地めぐりらしい観光を行わない(たとえばパリに行ってもマレ地区をうろついたりするのがとても好きだ)ので、そういう性格の人間にはとても波長が合う番組なのだ。なんといってもどこか行き当たりばったりの散歩者目線であるところがいい。

「ブラタモリ」はご存知タモリが東京という町の今昔をどこかワープしながら散歩するというような内容。たとえばこの間あった新宿の探索では、新宿という町が江戸時代からいかに水道(玉川上水)とのかかわりをもって発展してきたかという観点でその足跡をたどりながら散歩してゆく流れになっていた。たとえば四谷の交差点のコーナーの曲がり具合が実は上水の曲がり具合をそのまま反映したものであるという事実や、上水からの分水(枝水)が今は柵の脇の草の生えたただの無意味な土地のように伸びていることなどが明らかにされてゆく。

一つ一つのことは別にたいしたことではないかもしれないのだが、そういうたいしたことはない積み重ねのなかで交錯して発展してきた新宿の今がわかってとても面白い。
その最終形として今の西新宿という土地そのものが浄水場の跡に立った高層ビル街であり、ちゃんと現代の水道局本体もいまだに鎮座していることなども当然ながら確認されてゆく。
それから「世界ふれあい街歩き」のほうはカメラマンの体に装着された水平移動カメラが世界のある都市の路地をまるで縫ったり這ったりするように移動してゆきながら、その間に現地の人とまるで対話しているような日本語のナレーションが入りつつ進んでゆくというコンセプト。これを早朝(朝の出勤時刻)から夕方まで街中を歩き続けるシーンが続いて、そこで偶然に出会った人やモノ、風景を映し出すという流れになっている。

こちらも特に名所旧跡だけを映し出すのとは違い、他愛がないといえばそういえるのだが、それがいいのだ。結局そこに映し出されるのは何気ない日常を生き続けている現地のひとたちの当たり前の暮らしだ。僕らの日常も実はそういう他愛もないような連鎖によって成り立っているのだから。

そこには大言壮語もおそらく経済の危機もない。かりにその影響はあってもそんなものとは別に連綿と淡々と昔から続いてきた日常の風景。たとえばヨーロッパのある小さな都市。街中のバールみたいなところで早朝からゆっくり酒を飲んでいるお爺さんの姿。そして夕方。同じ店の前を通ったカメラが映し出したのはまたそのお爺さんの姿だった、みたいな。のどかで、でも根太いひとの暮らし。とても変化の激しい時代だけど、一方で太い糸のように繰り返されてきた人の当たり前の暮らしというものもあり、その両方への目配りは忘れたくないものだ、と思う。余談だけど、僕の通勤もまず一軒の惣菜屋さんの前を通りすぎてそこのいい匂いを嗅ぐことから始まっている。雨が降ろうと天気が良かろうと。

よしむね