家紋主義はアーカイブの世紀における身の処し方のひとつにつながるように思うのだ

まさむねさんに「Body主義は家紋主義と対極にあるのかもしれない」というご返事の文章をいただいた。その中でまさむねさんが引用していた山田先生の「自分の仕事と家庭が流動化している現在、自分の肉体のみが、自分が生きている間続く唯一の自分の「持ち物」となる。自分が自分であるところの拠り所」という箇所。これなどは個がむき出しになっていてもはや頼るべきものがない現在のなかで、良い悪いは別にしてかろうじて自分を確認するために身体や暴力しかなくなっていることにも通じているのかもしれない。

時代はデジタル放送とか3D元年とかハイビジョンとか、とかく映像的なものが持てはやされるようなキライがなくもないが、実はその一方で今後ますます身体的なもの(取り残された身体)が横溢するシーンが増えてゆくかもしれない。マッチョや健康志向の身体ということではなく、実は身体こそもっとも不自由なもの、意のままにならないものとして再認識される可能性もあるように思うのだ。そういうものとしての身体、Bodyの再確認の必要性があるようにも思う。これはアメリカ流のBodyの文脈とは違うものとして。

それからすでに20世紀の後半以降21世紀を迎え、時代は紛れもなくアーカイブ(記憶)の世紀に入ったのだとぼくは思っている。どちらかと言うと20世紀前半からその終わり近くまでは映像の世紀(特に大衆映画とTVの登場以降)と定義できるとするなら、20世紀の最後の10年間以降からはむしろ記憶の世紀に重きが移ってきていると思う。PCや携帯電話やデジカメ等の新しいパーソナル・メディアが登場してから、ぼくらは意識するしないにかかわらず日毎夜毎に膨大なデータの蓄積と個人の履歴にさらされるようになっている。そして自分たちではその一々についてもはやどうにも意味づけできないためにとりあえずすべてを保存(アーカイブ)しておく必要性が生じてきている。

もっと大げさにいうなら、人類全体がやっぱり「われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか、われわれは何者なのか」をいろんな角度で知りたがるということ。今、世界遺産にかぎらずいろんな遺産がブームになってきているように思うのだ。仏像ブームにしろ平城京遷都1300年にせよ、環境や自然保護にせよ、いろんな履歴が横溢しているなかで、一度われわれの遺産が何だったのかを検証しておく必要性のようなもの。それが高まってきていると思う。膨大なデータ(記憶や遺産)が増えつつあるなかで間違いなくアーカイブの整理が主題になってきていると思えるのだ。もちろん個人単位を越えて、だ。

そしてそのひとつの寓話(整理整頓の手法の一つ)を汲み取るものとして、上記の風潮のなかに家紋主義が交差してくるポテンシャルがあるとも思えるのだ。まさむねさんが言うようにたしかに「日本人は代々続く家系という物語を失ったからBodyに関心を持つようになった」。また成長という神話ももはやその命脈は尽きかけている。それはそれで仕方ない。

だが、その一方でだからこそより多様なかたちで「われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか、われわれは何者なのか」を知るための手がかりが再び求められてくるようになるとも思える。自らのクラシック(古典)や過去などの来歴を知ること。帰り道を確認するための作業として。そのすべてに答えられるわけではないけど、その一隅を照らすようなものとして家紋主義が時代に交差してくるひとつの意味がある、とぼくは思う。だからこそ、あらためて時代は家紋(家紋的なもの)を求めてきているのだ、と繰り返し言いたい気がするが、如何でしょうか。

よしむね

人生の並木道

去年タバコを止めてから体重の増量が進んでいることもあって、夕飯を食べてから、時々ウォーキングをやるようになっている。コースはいつも決まっていて、家を出て、呑川の川べり近くまで行き、そこからターンして池上本門寺の正門へまわってけっこう急峻な参道を登り、寺の裏にまわって、その近辺を散策しつつ家にもどってくるコース。

正味だいたい40分くらいか。本門寺の近くなのでいわゆる周りは寺町でもあり、お墓もけっこう多い。山あり谷あり、アップダウンも充実しており(この辺りはまた坂が大変多い)、それこそ幼稚園からお墓、坂道まで人生の一式が何でも揃っているコースなので、ぼくは「人生の並木道」と勝手に呼んでウォーキングに励んでいる。ただし雨降りの日は行かず、飲み会等があったりすると当然行かないということであまり真面目でない部分もあり、とくに最近はW杯が始まってしまい、ご無沙汰傾向ではあるのだが。

コース途中の教会(大森めぐみ教会内の講堂、幼稚園と隣接)では、去年日野原重明先生の講演会があり聞きにいったことがあった。先生はその前日に韓国から帰ってきたばかりということだったが、なんとも元気な感じでとても98歳の人には見えなかった! さすがいろんな方がおられるものだ。

そういえば、知っているひとで100歳まで生きることを前提に生活設計を考えているとおっしゃっていた方もいたっけ。200歳の少女がヒロインのホラー映画も近々公開されるはず。それはさておき、梅雨の合間でもし今夜も晴れていたら、人生の並木道をまた歩こうかな。

よしむね