カテゴリー別アーカイブ: 時事ネタ

むしろ「日本は弱い国」からの再生を願う

ご覧になった方も多いと思うけど、最近旧公共広告機構(ACジャパン)が「日本の力を信じている」のCMを流して日本は強い国ということをさかんに強調しようとしているようだ。そうやってただでさえ沈滞気味の世相・風潮を元気づけよう、鼓舞しようとしている意図も分からないではないが、むしろ今こそ「日本は弱い国」ということから再出発したいと思うが、如何であろうか。

松岡正剛氏の言葉ではないが、もともと日本はフラジャイルで傷つきやすい国であり、まさに地震の多さ、津波などの災害の多さに代表されるように壊れやすい国である。その壊れやすさを前提に設計してゆくことが大事だと思う。

原発にしても核閉じ込めの「五重の壁」の防御機構とかなんとか言っても、いかに脆かったか。結局冷却機能が失われれば五重の壁も容易く突き抜けられてしまうわけで、むしろ注意の視線は脆い冷却機能にこそ向けられるべきだったのだろう。

「安全だ、大丈夫だ」の強さの誇示ではなく、これからは脆い部分から出発し、それを素直に認め、開示してみんなでその脆さをどう克服してゆくかにフォーカスしてゆくような展開こそ望みたい。もう日本は強い国ではないはずだ。財政課題然り、経済停滞然り、人口減少然り。ある面借金漬けと高齢者の国になりつつあるのだ。

国破れて、山河はあるか。山河はもうないのか。重い課題を突きつけられているような、いまも予断を許さない状況が続いている。でも強がっても仕方がない。自分たちの弱さを見つめ、もう一度そこからリスタートできるような「柔らかさ」だけは失いたくないものだ。

よしむね

「工場夜景クルーズ」とかけて「恐竜展」ととく、そのココロは「終わりをめぐる物語」かな

この8月、9月とそれぞれランダムだったのだけど、週末に工場夜景クルーズと恐竜展に行ってきた。工場夜景クルーズは以前から興味があり、一度行きたかったもの。横浜の赤レンガ倉庫脇の桟橋から出航して京浜運河地帯を周航するコース。化学コンビナートのプラントやLNG基地、オイルターミナル、発電所などを経巡りした。

乗船している客も多く、カップルたちだけではなくて、いわゆる家族で来ている人たちもふくめて、それこそ老若男女。幅広い人気を窺わせた。たしかに夜の湾岸にうかぶ工場群は幻想的でどこか未来的・SF的な映像の乱舞に見えた。配管が剥き出しになった光景などは一番イメージに近いのはSF映画「エイリアン」のギーガーが製作した無機的な(有機と無機の混合のような異種たちがかもし出す)映像風景かあるいは塚本晋也監督の「鉄男」の風景に近いかもしれない。

一方の恐竜展は六本木ヒルズの森アーツギャラリーで開催されていたもの。こちらは子供を連れた家族中心でかなり混雑・盛況だった。恐竜には個人的に興味があり(僕が子供のころ、ご多聞に洩れず恐竜のフィギュアを集めたものだった、ゴジラとか全盛だったし)、地球最古の恐竜展というネーミングにもひかれて行ったのだ。展示自体はすこし期待はずれだったが(CGやフィギュアが多く、化石がやや少なかった印象)、まあよしとしよう。
この二つに行ってみてから後日改めて思ったことがある。それは二つの共通項だ。どちらも終わりをめぐる物語だということ。無人の工場はいってみればモノとしての終極のすがただと思う。僕らが夜景の工場群を幻想的だと思うのはそれが昼の労働や機能・実用性から離れて浮遊していっていわば最終のモノそれ自体になってしまったからだと思う。

有機をはなれて無機的なモノになってしまうと逆にすべてのものが妙に美しく幻想的にみえるから不思議だ。フロイトならばそういう無機的なものへの憧れの傾向を死への衝動というらしい。だとしたらぼくら都市生活者である現代人は多かれ少なかれ死の衝動を秘めた人たちということになるのだろうか。
それから恐竜展についてもそれがこんなに根強い人気がある(夏休みというとどこかで恐竜展のたぐいをやっているように思うのだが)のは、恐竜という、かつて最強だったものが滅びて今はいないという、これもまた終わりを秘めた物語だからではないか。そこにぼくらはある種の郷愁のようなものを感じるのではないだろうか。

しかもその物語はさらに色付けされて最強伝説の物語になっているのだ。時は三畳紀の古代、ある夏の日に幅10キロメートルの隕石がメキシコ湾、ユカタン半島沖に落下。それが引き金となって巨大な天変地異となり、恐竜が絶滅したという。驕れるもの久しからず。地上最強といわれたティラノザウルスも滅びぬ。最強のものもいつか滅びる(終局が来る)というこの手のストーリーは延々とハリウッド映画でも踏襲されていることは言うまでもない。

さてこうした企画がぼくを含めてたぶん多くの人に人気があるのはどうしてなのだろう。別に答えがあるわけじゃないのだけど、僕なりにひとつ思えるのは今の多くの日本人たちが終わりを見たがっているんじゃないだろうかということだ。あるいはなにかの終わりに自分たちの履歴を重ねたがっているのかもしれない。

失われた10年とも20年ともいわれ、平成ダラダラ不況が続き、いつ何かが始まるのか終わるのかがまったく見えなくなった時代。混迷の果てがわからなくなった時代。せめて心情的にだけでもなにかが終わるということをこの目で見届けたいのではないか。そんなことをふと思った次第。まわりはもうすっかり秋の夜長になってしまったなあ。恐竜も遠くなりにけり、か・・・・。

よしむね

金融緩和・緩和っていったいどんな効果があるのだろうか、疑問だ

日銀が金融緩和を行うことを決定した。国債を買い取って資金を供給するという仕組み。アメリカのFRBもすでに金融緩和を行っており、それに対する同調ということだろう。日銀はそうしたくなくても政府官僚筋(アメリカ追随派)の意向・圧力に押されたのだろう。過去この20年間、日本はどれだけの緩和策をやり続けてきたことか。その結果の借金体質とほとんど効果のなかった経済弱体化が続いているわけだ。
しかもほとんど0に近い金利施策を続け、貯金暮らしのお年寄りたちからどれだけのキャッシュを奪ってきたか。ぼくの父親もその影響を受けた世代だ。20年間もお金を預けていれば普通なら5%くらいのまともな金利がついていれば倍近い資産になっていてもよかったはず。これも所詮不労所得だけど。
緩和って言われるとなにかいいことのように受け取れて分かりにくいが、なんのことはない、あらたに輪転機等を回してお金を市場に流し込むことでしょう。リーマンショック以降、市場の危機を回避するという名目で、世界中でどれだけの金融緩和策がとられてきたことか。つまり流し込めるだけのお金が流し込まれたことになるだろう、世界中に。
これを続けていけば、当たり前の話だけど、お金の価値・ありがたみがなくなることは必至だろう。ヨーロッパはさすがにギリシャ等の財政危機を経てこれから金融引き締めに向かいつつあるようでもあるが、アメリカは引き締めに転じるかと思いきや、またも緩和と来た。
アメリカ・ドルは未だに世界の基軸通貨だからこんな野放図なドル大量印刷をやり続けていられるのかもしれないが、弱小国家ならもう国家破産のステージだろう。でもドルと米国債の余命もそんなに長くはないと思われる。奢れるもの久しからず。盛者必衰の理。いつまでも世界中からドルを買ってもらって実体よりも良い暮らしを続けることができるわけがない。
だから円高、ドル安になるのも長い観点で考えれば当然のことだ。ドルがこれだけあふれまわっていれば、ドルの価値が下がるのは当然。紙幣も所詮紙切れ。お金には魔的な商品としての側面もあるが、所詮信用関係(幻想)に基づいて価値が取引されている以上、無価値になることもありえる。それが進んでいけば超インフレになる。
それからいま問題なのは、これだけ大量に供給されたお金がいったい何に使われているのか、だろう。いまは誰もお金を大量に使うひとがいないのだ。まともな企業は手元資金が厚い状態だけど、新しい投資には積極的でない。というよりも誰もリスクをとってなにかをやろうというマインドではない。結局余ったお金の大半は再びの債権買い等に回っているだけというのが実情だろう。それから借金の返済に当てられているということ。
 こういう異常な状態が続いているのに、あいかわらず日々の新聞を筆頭にマスコミ各社がこういう状態を少しも異常とは報道しないようだ。聞かれるのは日本企業が円高につぶされるから緩和しろ緩和しろという報道ばかり。でもそんなその都度の小手先で円高が一時的に収束するようにみえても持続的な効果は限定的だろう。
 問題は長期的にドルの低下が明らかなことを認めて、ではどうやって為替に影響を受けにくい体質にしていくか、ドルからの自立(脱却)を模索してゆくかを考えるべきだろう。そのひとつの選択肢にドルに変わるアジアの域内だけで流通するような通貨とかがあってもいいし、商品をふくめたバケット取引とか等々があってもいい。もちろんそれには時間も手間暇もアイディアも必要だ。でもそうした根本的なデザインなしに、もはやその都度の対処療法ではもう限界に来ていると思われる。初期の鳩山首相には多少なりともそんな試みへの意気込みもあったように思う。
 そしてそれはまさむねさんが前回の記事で以下に述べたようなことと同じ趣旨にもつながる。

 「日本はおそらく黒船来航以来、150年の間に、それまでの共同体社会を徐々に失っていった。家や親族、地域社会は現在ではほぼズタズタとなってしまった。それはある意味しかたのないことであるが、その民族的喪失に替わる新しいシステムが僕らには創れていない、それどころかまだイメージすら見えてすらいない、それが問題なのだ。」

 誰だって新しいシステムはたぶんこわい。それから弾かれる人にはなりたくないと考える。自立というとなにか居丈高な感じも強いが、ゆるやかな自立、少しずつの自立、助け合いながらの自立、相互的な自立、弱さをともなった静かな、漸進的な自立こそがこれから模索されるべきなのかもしれない。そうして最終的にはやはり自立した国になるべき。人もそうだろう。そのために何が起きているのか、正確に知ろうとする姿勢だけは開かれているべきだと思う。

よしむね

金融資産のご開帳みたいな公表はもう止めたほうがいい

日本の金融資産がまだ1,400兆円くらいあるとよく言われる。ついこの間も日経新聞に記事が出ていたね。だがこれはもう数字の嘘・まやかしであり、はっきり言って毎度毎度のこういう提示の仕方はやめたほうがいいと思う。いったい誰がどういう意図があってこんな公表をやっているのだろうか。

実際にはここから個人の負債やローン残高もあり、そうしたものを差し引くと、真水は400兆円とか600兆円あたりということでもあるらしい(真実はよく分からない)。しかも国・地方の借金があわせて1,000兆円近くとも言われているわけで、これを引いてしまえば実質マイナスなわけだ。仮に引かなくても、真水といわれているものだって将来収益とかも含まれているようなので、実質的には運用損でどれだけ残っているのかさえ怪しいものだ。特にわが日本では運用ビジネスはきわめて低劣だから。

こういう風にお金がたくさんあるように言いたくなるのは、本当は自分たちが金持ちだと思い込みたいからなのだろうか。日本という国はこれくらいあるのだと言い聞かせたいのだろうか。でもこれって裸の王様みたいなもので、本当はもう財産なんてたいして残ってないのにいつまでもあるように思うことで、どんなメリットがあるのだろう。

それよりもう皆、お金がないのだから、ムダ使いを止めようと言ってくれたほうがよほどすっきりするように思える。つまりお金のムダ使いを続けたい人がいて、その人たちがムダ使いを止めなくていいための方便にこそ使われているだけなのではないかと思えて仕方がない。

どっちにしても、以前まさむねさんが言っていたけど、今の日本はどっちの方向に向かうにしても、国際競争(ストレス)か衰退(できるだけストレス・フリーの過保護・高福祉)の2者択一の道くらいしかなく、どっちを考えることも嫌で思考停止しているのに似て、お金についても本当はもう残っていないことを考えたくないのだろうな。そんなことを考えても何もならないからとでもいうように。

でも、そろそろそんな思考停止はやめて、ニッチもサッチもいかないことから始めていくことを覚悟して考えないといけないのじゃないだろうか。そうしないと運用をどうしてゆくかみたいな基本的な肝心なことがいつまでも議論されず等閑にされて、ただただ放置されてゆきかねないように思うのだが。結局はいずれ損の落とし前が必要になるのだから。さしあたっては国として大量に買い込んでいる米国債とかどうするのだろう? 自分で買い支えている日本国債しかり。その他諸々、有象無象、奇奇怪怪。

そしてまずもっていい加減収入に見合った生活へのリサインジングの意識をちゃんと持つようにしないとね。今の日本は月給40万円の人が借金して100万円の生活を続けているわけだから。とにかく何とかしてくれみたいな要求ばかりで分相応ということがどこからもトンと聞かれなくなって久しいようにも思える。

このままだといったいぼくら国民はどれくらいのサイズ・規模の収支で満足しなきゃいけないのか、さっぱり見えてこない。これは民主党政権になっても基本変化なし。民主党ももうなにをしたいのかさっぱり分からない感じになってきているね。最初の志の変質か変局なのか。しだいに選挙対策と利益誘導の体質=かつての自民政治そのものへの回帰みたいにも見えてきているし。青年=志、老いやすしとはよく言ったものだ。でも老いには老いの知恵があることを期待したいが、それもあまり見えない。

とにかく国として肝心の議論がきらいなのにお金があるという幻想だけは持ち続けたいというのはどこかさびしいね。いずれ困ったときには空からお金が降ってくるという神風的な待望論・信仰心から抜け切れない国民性なのだろうか。それとも宵越しの金は持たないという潔い心持がなせる業からなのか。たしかに金は天下の回り物かもしれないが。このままだと小回りものにさえならずに終わりそうだけど。

よしむね

「WE ARE THE WORLD ハイチ」に紛れこんだマイケル・ジャクソンの精神

ちょうど「We ARE THE WORLD」から25年めの今年、ハイチ・バージョンが出た。本当はマイケル・ジャクソンの死もあり25周年記念のようなものを考えていたところ、ハイチ地震があって、ハイチ・バージョンに変わったらしいけど。

家内がiPhoneを使って350円でダウンロードしてくれた映像を見ながら、音楽を聞いた。25年前とは歌手の顔ぶれもすっかり変わった。変わらないのはライオネル・リッチーとクインシー・ジョーンズがリーダーシップをとったことか。最後はラップ・ミュージックを基調にした曲調でエンディング。そして「WE ARE THE WORLD」を歌う要所要所では、故マイケル・ジャクソンの映像が挿入されていた。妹のジャネット・ジャクソンとのデュオという形で。皆さんの多くもすでにご覧になっているでしょうが。

前回同様に収益金は救済金として使われるわけだが、前回と異なるのは、最後にハイチでおそらく被災にあった子供たちの映像がながれ、現地で音楽にあわせて踊ったり、笑ったりしている姿が映し出されていたこと。辛いなかにあっても笑顔を見せるそのしぐさが、嘘がない感じでかえっていい。人は泣いてばかりいられないだろうからだ。

こうした映像をみていてつくづく思うのは、なぜ日本ではこのようなボランタリーな試みがすぐに行われないのだろうかということ。詳しいことは分からないが、所属事務所の違いとかレコード会社の問題、レーベルの問題とかいろいろ障壁が大きいのだろうか。加えてたしかにアメリカやイギリスと違い、ミュージックシーンにおけるインパクトの大きさの違いもあると思うが。もちろんこうしたバンド・エイドによって世界が変わるわけではないとしても。

でもクール・ジャパンの今なら、たとえばコスプレやアニメ、JPOPとジャパン・ファッション等のコラボ組み合わせで、WE ARE THE WORLD に匹敵するものを日本からの発信として流せるようにも思うけど。とにかく最近に至るまで日本に一貫して欠けているのは、ノーブレス・オブリージュ(騎士道に基づく奉仕精神)のようなもの。税制の優遇がないことも一因かもしれないが、日本人は金持ちほど寄付したがらない国。そしてボランタリーの欠如ということ。

欧米などに旅行してつくづく感じるのは、たとえば公共の場で一般の人たちが障害者の人たちに示す配慮のようなものの根強さのことだ。これだけは未だに日本では決定的に遅れていると思う。アメリカ人は大義が好きで、売名行為的なものが大好きだからというようにあえて意地悪く見るとしても、金儲け以外に、セレブを中心にして日本からボランタリーなことが世界に向けて依然として発信されていかないのはちょっとさびしいね。

次の25年めまで待つしかないのかなぁ。そのときはUSAで「WE ARE THE WORLD」の何バージョンが出るのか。そこでまたマイケル・ジャクソンの歌っている姿が挿入されるのだろうか。マイケル・ジャクソンはゾンビ(永遠)だからね。今回のハイチ・バージョンもきっと天国でゾンビとなったマイケル・ジャクソンの精神が生かされているのだろう。                            

よしむね

大江戸温泉の無国籍化でブレードランナーのことなどを思いながらわしも考えた

最近、骨折快癒後の腰痛リハビリを兼ねて大江戸温泉に通っている。大江戸温泉が果たして本当の温泉なのか、なぜ大江戸温泉通いなのかにはとくに深い意味はない。比較的家から近いという利便性と手ごろさというのが選んだ理由の一番だ。それに湯による癒しは確かに腰痛には良いようだ。因みに僕の住まいは大田区だが、京浜地区にも近いエリアでいわゆる城南地区ということになる。

さて通いつめて常々思うのは、コンスタントに来ている外人客の存在だ。ここがどれほど日本在住の外人に知れ渡っているのか僕は知らないが、築地市場ほどとは言わないが、案外隠れ人気スポットだったりして! 来訪してくる外人の多様性もそれなりに面白い。会話から聞き取れるかぎりでも、いわゆるイングリッシュやアジア系(中国、台湾、韓国)に限らず、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語等々と思しきことばたちが結構渦巻いていたりするのだ。団体でやってくる客も結構いる。それだけ無国籍化しているわけだ。
この外人客の多さをグローバル化や経済の多様性と結びつけることもできようが、それよりも異邦人からみて大江戸温泉の持つコンセプトの分かり易さが一番の理由かもしれないな。温泉といういかにも日本的な「場」、しかもそこに江戸の持つ見世物屋的な雰囲気(因みにここでの浴衣は江戸時代の浮世絵を図案にした柄もの)が多少味付け演出されていること。そこにリトル・ジャパンのなにかの面影でも感じているのかどうか・・・・。造られているものは、どれも折衷的・ガラクタ的な模造建築でおよそ時代考証的にはいい加減な感じはするのだが。だがここではこれ以上大江戸温泉自体への考察は行わないつもり。
ぼくにとってむしろ興味惹かれるのは、大江戸温泉がいわゆる湾岸エリアの只中にある、という事実だ。江戸時代には存在しなかった海の上の埋め立て地に「大江戸」が存在するという皮肉、構図。

この湾岸というエリアは、特に90年代以降のパースペクティブのなかでは世界的に流行となった湾岸再開発のながれもあり、ほんとうは世紀末をまたいで輝かしい未来都市の何かにつながるはずだった。ウィリアム・ギブスンのSF「ニューロマンサー」のチバ・シティに代表されるような電脳空間のさきがけ、先端都市のイメージ。それをいま代表しているのはかろうじて世界のアキバかもしれないが。
だが結果として今ぼくらの目に映っている湾岸地帯とは、意味のない更地のうえに立つ空虚な記号としてのなにかの施設というビル建物だけとも言える。そこに大江戸温泉も位置しているのだ。たしかに未来にやってきて、ハコ(箱)だけが残ったのだ。

また無国籍化というと、ぼくも大好きなかつてのSF映画「ブレードランナー」(原作はフリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」)で描かれている未来都市のなかの屋台風景に通じるようなアジア的な混沌、猥雑なエネルギーみたいなものを想像したくなるが、お台場に代表されるのはそのような混沌とはおよそ対極にあるものだろう。むしろ無機的で人工的でそれがかもし出すどこか醒めた感じの匂いや距離感といったほうがより正確だろう。今では上海のガイタン地区に代表されるような中国沿岸部の成長性のほうが余程未来に通じる湾岸のイメージに近いであろうし、悲しいかなその意味で日本は国力の衰退をたどる以外に道はないともいえるかもしれないけど・・・・。

でも世の中に絶対というものはないし、かつてこうあれと思ったものが、そうなるとは限らない。今、若者を中心に、工場地帯を遊覧船で回る夜景クルーズツアーが流行っているという。工場地帯の持つ無機性に惹かれる若者が多いらしい。世代が違っても、ぼくもかれらの心情に通じるものは共有している。湾岸や工場がかもし出す廃墟を美しいと感じる心性たち、その群れ。それがまぎれもない今だとするなら、それが所詮かりそめの空虚な箱に過ぎないとしても、そこから出発するしかない、それを受け止めてゆくしかない、と思う。「未来の都市」なんてどこにも存在しないからだ。

よしむね

大麻禁止と日本憲法は同じである

若麒麟が大麻所持で逮捕された。
トンパチな事をしたものだ。

自分の一生を台無しにしてしまった。

大麻が問題なのは、ただ一点、法律で禁止されているからだ。
パクられた時のリスクを考えれば、あまりにもつまらない行為だからだ。
    ◆
個人的には若麒麟という関取の印象は薄い。
正直なところ、白露山や若ノ鵬が解雇された時は誠に残念だったが、個人的には、今回はそれほどでもない。

大相撲協会はいつもながら右往左往して、結局、若麒麟を解雇した。
妥当なところだと思う。マスコミは退職金が出るから除名にすべきと言っているが、気にする事はない。
条件反射的に言っているだけで、明日には忘れている。

さらに、今後は行司も含めて、所属者全員に抜き打ちテストをするらしい。行司もというところが微妙に笑える。

可哀想なのは、尾車親方だ。何度も謝罪していた。
若麒麟自身もおそらく、親方に迷惑をかけた事が一番辛いだろう。それを考えても、トンパチな事をしたものである。

関係ないが、「ピンポン!」というオバさん向け情報番組で、麻木久仁子が「HIPHOPスタイルで外出したのだから、親方も、気付かなかったんですかねぇ」と言っていた。
この人、本名は田中久仁子といういうらしいが、わざわざ、「麻木」なんていう意味深な芸名にしているんだからマシな事を言うかと思ったのに、期待したのが間違っていた。
    ◆
ちょうど、月9の「VOICE」というドラマで大麻吸引していた(らしい)学生の死が扱われていた。
このドラマは法医学のドラマで、最初、大麻を吸ったため意識不覚状態になって自殺したのではないかという仮説が出されていた。
大麻で幻覚?
こういうドラマは、大麻に対する誤解(偏見)を増殖する。大麻は覚醒剤や阿片やLSDではないのだ。
    ◆
同日、アメリカのマイケル・ヘルプスも大麻を吸引していた証拠写真がイギリスのサン紙に掲載された。それで金メダル8個である。
ヘルプスといい若麒麟といい、これでまた大麻が肉体に害が無いという事が新たに証明されてしまった。(かな?)
    ◆
最近、若干、大麻は本当に悪いのかという事がマスコミでも議論する傾向が出てきた。いいことだ。
大麻禁止は、GHQが日本に押し付けたものだ。
日本国憲法と同じなのである。
つい最近まで、憲法を変えるという議論は、それ自体がタブーだったが、時が経ち、憲法論議も徐々にではあるが解禁されてきたではないか。
一回り遅れでもいい。悪と決め付けるのではなく、大麻に関する議論も起きてほしいものだ。
    ◆
昨年来、若者の中でアルコールの消費が減ってきたというのが話題になってる。
何人もの人が生活を破壊されてきた。体も壊してきた。酒の上でのトラブルも絶えない。
当たり前の話だが、アルコールは危険なのだ。
それでも、法律で禁止されているわけではない。
それどころか、テレビでバンバン宣伝している。

一方、大麻は別に体に悪いわけではない、少なくとも酒やタバコよりは。
吸ったことによって、暴力的になったという話は聞いたことがない。
だけど所持は犯罪だ。
酒と大麻の扱い、どうみても不公平ではないのか。

しかし、こんな不公平な状況の中、大麻を吸う若者が増えてきたという。
酒が減って、大麻が増えるという事は、彼等はどこかで、本当の事をわかっているのかもしれない。

ただ、くだらない法律や偏見がまだ生きている。くれぐれも気をつけてほしい。それだけだ。

よろしければ、こちらのエントリー「大麻ってそんなに悪いの?」もご参照ください。

まさむね

人は様々なモノを作るが、思うようには作れないという話

サッカー観戦が中高年の娯楽になりつつあるという。

Jリーグは28日、昨季リーグ戦のスタジアム観戦者について行った調査の結果を発表した。
観戦者の4割以上が40代以上と、中高年が観戦に熱心であることを示す結果が出た。(時事通信)

ということだ。
そのうち相撲のようになってしまうのだろうか。
おそらく、その原因は、サッカー観戦の独特の内輪感にあるのではないだろうか。
一見さんが、観戦に行っても疎外感を感じてしまうのである。
    ◆
しかし、これはどんなジャンルにも言えるのかもしれない。
プロレスだって、アイドルだって、オンラインゲームだって、SNSだってそうだ。

最初、担当者はどうやって人を集めようかと考える。
さらに、人を集め続けようかと考える。
そして、コアユーザーを作ればいいという話になる。
会員制やポイント制とかファンサービースを駆使して、それに成功する。
そうすると連帯感とか、独自の作法とか、常連とかが生れる。
ただ、そうなるとニューカマーにとって敷居が高くなる。
そして、そのジャンルが停滞する。

というサイクルはある程度普遍的なように思えるのだ。
だから、長期的戦略を立てるならば逆にコアユーザーを作らないというのが正しいという事も言える。
    ◆
実は、それに成功したのが2ちゃんねるなのである。
言うまでもなく、2ちゃんねるのアーキテクチャ上の特性は、最大1000レスでスレッドが終わること、最も最近書き込みがあったスレッドが板の一番上に表示されること、名前を記入しなくていいこと等である。
すなわち、常に、新しい状態であるように、常連が居つけなくなるように、設計されているという事なのである。
しかし、おそらく、西村ひろゆき氏は、最初、常連排除目的のためにこのような設計にしたわけではない。
特に、1000レスのdat落ちに関しては、運営経費上の処置だったと思う。

僕は、一度、2ちゃんねるが出来てから、2年目位の時に、ひろゆき氏に会う機会があった。その時、2ちゃんねるが他のサイトとは違って成功した理由を訊いたことがあるが、彼は言った。

「雪の玉ってありますよね。雪の坂に小さな石を投げると、転がりながら、その石にどんどん雪がついていって、段々大きくなる、あの雪玉です。
僕は、ただ、最初に石を投げただけで、それと同じように2ちゃんねるは、勝手に大きくなって行ったんですよ。」

ようするに、自分の意図とは別に出来上がっていったというのだ。
そのとき、僕には彼が何らかの秘密を隠しているようには思えなかった。
2ちゃんねるはひろゆき氏の狙い(予想)をはるかに超えて大きな存在になっていったのである。
おそらく、その時点でひろゆき氏にとって、2ちゃんねるの成功(肥大化)というものは、偶然と運以外の何物でもなかったのだと思う。

それは、一人一人が個人が責任を持って発言出来ないという日本の風土に生れた声にならない声を、匿名性+流動性を保証するようなアーキテクチャが、偶然にも拾い上げたと言う事なのだろう。
2ちゃんねるは、20世紀から21世紀初頭の日本という特別な舞台だからこそ大きくなったのだ。
マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメールの18日』で「人々は歴史を作る。だが、思うようには作れない」という言葉を思い出した。
インターネットの世界でも、時として「人は、アーキテクチャを作るが、それが思った以上の化け物になることがある」のである。

しかし、一方で良識の世界ではそんな2ちゃんねるに対して、不快に思う人々も出てくる。それはある意味、当然だ。
その結果、2ちゃんねるを運営するひろゆき氏に対して、名誉毀損的書き込みがあったとして多くの訴訟が起こされた。
書いた本人は匿名だからわからない、だから訴訟の先は、その書き込みを放置したということで、ひろゆき氏に向いてしまったのだ。

しかし、彼はそれらの訴訟のほとんどを無視している。
それゆえに、まだ決着はついていない。
おそらく、普通の運営者だったら、ましてや会社で運営していれば、訴訟を終結させ、今後の訴訟を回避するために、アーキテクチャを変え、健全化を目指すであろうが、彼はそれをしない。
良くも悪くも、彼のその不良性によって、このサイトは生きつづけているのだ。
    ◆
さて、今年に入って2ちゃんねるで一番活発な板の一つ「ニュース速報+」で、一番スレが続いたのは以下の記事だった。

【マスコミ】毎日新聞の熊本支局次長、深夜に24歳女性の部屋に侵入し下着ドロ★

おそらく、テレビや新聞だけ見ている良識的な人には、ほとんど目に触れなかったであろうこの記事に対して、数日間で、延べにしても2万7000件(27スレ)もの罵倒が浴びせられたのである。
ちなみに昨年は、【訃報】 筑紫哲也さん、肺ガンのため死去 73歳 「NEWS23」元キャスター★という記事が57スレまで延びた。
テレビでは、良識的な面々が口々に追悼の言葉を述べている間に、ここでは、5万7000ものメシウマ~という「慶び」の声が寄せられていたのだ。

これを、ネットの落書、取るに足りない、不謹慎、と良識的な人は、一蹴するのだろう。
しかし、今までだったら、個人的、散発的にバラバラに生じていた人々の生の声や不満が集合する場所が出来たという現実はもう戻らない。
インターネットの普及に加えて、昨年来の不況は、マスコミを直撃し、彼等は今までのような特権的な場所には居られなくなってきたようだ。
今後、どうなっていくのであろうか。
    ◆
サッカーは中高年向けの娯楽だという話から、いつの間にか、関係ない話になってしまった。
すみません。

まさむね

何故、福男選びは足が不自由な恵比寿様の前で行われるのか

昨日、恒例の開門神事福男選びがあった。

西宮神社は”えべっさん”(恵比寿様)を奉る神社である。
ご存知の通り、恵比寿様は、イザナギ命とイザナミ命との間に生まれた最初の子である。
ところが、不具であったため葦の舟に入れて流され、この西宮に漂着し、海を司る神として祀られたという。

そのために、恵比寿像は座っている、あるいは膝立ちしている。
(写真はJR恵比寿駅前にある恵比寿像)
すなわち、恵比寿様は足が不自由な神様なのである。

さて、開門神事福男選びであるが、元々、1月9日の夜は、”えべっさん”が市中を廻られるということで、氏子は家に篭る風習があったという。
おそらく、その篭りには、”えべっさん”の不恰好な徘徊を見ては失礼だという氏子達の配慮という面もあったのではないかと、僕は思う。

そして、その忌篭りが解かれたと同時に、氏子達は、一斉に神社まで駆ける。
その風習が、現在の開門神事福男選びの起源ということなのだ。
     ◆
しかし、よく考えてみれば、足が不自由な”えべっさん”を前にして、氏子が足を競うというのはどこかおかしくないか。
普通の感覚ならば、逆にえ”べっさん”は嫉妬すると思うのだが。
例えば、弁財天をカップルでお参りすると、そのカップルは別れるという伝説があるみたいに。
しかし、逆に言えば、開門神事の賑わいは、そんな人間の無作法な行事を許してくれるほど”えべっさん”は太っ腹な神様、という事の証明なのではないだろうか。
それだけ太っ腹だからこそ、どんな人に対しても大漁安全、商売繁盛を約束してくれるのだ。
     ◆
あるいは、”えべっさん”は自らの御足を、ある種、スケープゴードにすることによって、氏子に健脚を保障したのかもしれない。
雛人形の川流しが元々、それらを生贄にすることによって、子供達の健康を守るように。
あるいは、縄文時代の土偶は必ず体の一部が壊されて、埋められたという話を聞いたことがある。
それは次に生れてくる子が、五体満足に生れてくるようにとの願いが込められていたというのだ。
     ◆
本当の事はわからない。

もしかしたら、何も考えないで、いつの間にか、なんとかく、そういう儀式になったのかもしれない。
おそらく、その確率が高い。
しかし、そうだとしても、それはそれで、日本的なおおらかさがあって、僕は好きである。

まさむね

現代における「絆」とは? ~天皇陛下のご感想と飯島愛の死~

世界的な金融危機に端を発して、現在多くの国々が深刻な経済危機に直面しており、我が国においても、経済の悪化に伴い多くの国民が困難な状況に置かれていることを案じています。働きたい人々が働く機会を持ち得ないという事態に心が痛みます。

これまでさまざまな苦難を克服してきた国民の英知を結集し、また、互いに絆(きずな)を大切にして助け合うことにより、皆で、この度の困難を乗り越えることを切に願っています。

23日の天皇誕生日に、天皇陛下はご感想を発表された。
冒頭はその最後の一節である。

国民に対して、知恵とで、国難を乗り切るようにとのこと。
今まで、今上天皇が、ここまで踏み込んだ御言葉を述べられたことがあっただろうか。
日本人なら、一人ひとり心に刻み込むべきだ。

政治の場面においては、「国難を前にして、与党、野党争っている場合ではない」という示唆にも聞こえるが、政治家はこの御言葉をよく咀嚼して、正月からの行動をとってもらいたいものだ。

一方、年の暮れ、数々の企業から、派遣切りの発表がなされた。
その中の多くの企業は、しばらく続いた円安の恩恵を受けていた輸出依存企業だ。
日本を代表する名立たる大企業が、本当に今、それまで企業のために、働いてくれていた派遣従業員を、ホームレスにしてまで切らなければならないのか。
を大切にして助け合うことで困難を乗り越える事を願う」というのが何を意味するのかをもう一度、考え直して欲しい。まだ間に合う。
    ◆
次の日の24日のクリスマスイヴ、飯島愛が自宅のマンションで亡くなっているのが発見された。
死因はまだはっきりしていないが、亡くなってから既に数日間経っていたようだった。
いわゆる孤独死。気の毒な話である。

今日の「サンデージャポン」でコメンテーター達が彼女の思い出を語っていたが、その言葉はどれも悲しかった。


◆爆笑問題・田中裕二
すごく繊細な人だった。辞めるときも「漫才があっていいな。私なんて何もないんだよ」といっていた。辞めたあとも番組をよく見てくれていて「またデーブがつまらないこといってる…」とかメールが来ていた。
◆テリー伊藤
1カ月前に「芸能界に戻ってこいよ」と話したのだが…。ずっと芸能界にいたらこんな結末にはならなかったかも。今日は皆に会いにきているはず。
◆高橋ジョージ
すごい居心地のいい人だった。(昨年3月25日の)最後のサンジャポ出演のときに「ロード」を歌ったら何回もメールをくれた。「アーティストに歌ってもらっちゃって。私なんかのために…」といっていた。人のことばっかりだった。
◆デーブ・スペクター
サンジャポは生放送なので一番愛ちゃんらしく見えた。最後の出演のときに「自分の代わりはいっぱいいる」と言っていたが、飯島愛は彼女しかいない。
◆八代英輝弁護士
やりたいことがいっぱいあっただろう。HIV啓発活動を積極的にやるなどとって代わることのできない、大切な人だった。
◆西川史子
7月にお会いして「愛ちゃんのあとやりにくいよ」と言ったら「大丈夫だよ、見てないけど」といわれた。愛ちゃん流のエールかも。寂しいですね。

  -nikkansport.com 08.12.28

サンジャポファミリーとか言いながらはしゃいで、あんなに仲が良さそうだった芸能人達はみんな痛恨の思いだろう。
一見、華やかな人間関係の真っ只中にいるようにも見えた彼女だが、近所の交番に行って、「寂しいから話を聞いて欲しい」と相談していたのである。
飯島愛の内面を思うと、華やかな芸能界、そしてそれにとどまらず、僕たちが生きる現代社会における見せ掛けのがいかに虚しいものかと考えざるを得ない。
    ◆
さて、を語源辞典で調べてみた。

とは犬や馬などの動物を繋ぎ止めておく綱のことをいう

元々、という言葉は結びつきを表すと同時に、その裏に束縛という言葉が張り付いているのだ。
それは、決して暖かいだけのものではないのである。

それどころか、僕たち人間の歴史は、ある面、(=束縛)からの解放の歴史なのである。

おそらく、戦後の核家族化、地縁・血縁共同体の弱体化というのはその流れに沿っている。
さらに、非正規雇用者の増加、農家の激減、晩婚化、少子化という現象も(=束縛)からの解放という歴史の流れの中にある。
それは、人それぞれ、自由な生き方を認めようという思想のもとに、結婚も就職も転職も子作りも自分で選択できるようになったからだ。

しかし、それは当然、個々の人生が厳しい競争原理にさらされるようになったという負の面も併せ持っていたのである。
自由は、同時に、そして必然的に、敗者を生み出してしまうということなのだ。
    ◆
しかし、競争に負けた者には悲惨な境遇しか残っていないというのでいいのだろうか。
極端な例かもしれないが、派遣社員が契約を切られた後に、すぐにホームレスという底が抜けた社会はやはりおかしい。

しかし、日本人は束縛からの解放の歴史を元に戻して、かつての地縁血縁共同体を取り戻すことなど出来るのだろうか。
一方、そうでなければといって、の構築を一方的に国家に押し付けるということは健全なことなのだろうか。それはゆくゆくは、国家からの束縛を意味してしまうのではないだろうか。
また、例えば、今年の紅白歌合戦のテーマ「歌の力、歌の」のようにマスコミがキャッチフレーズとして喧伝しまくればいいというものでも全くないであろう。
    ◆
陛下が言われた「この困難を乗り越えるための」をどのように創り直していくのか、それこそ、今、日本人が英知を結集して考えなければならない事なのだ。
これは、まさに歴史的試練である。

まさむね