煙草のみだったぼくが最近思う非常識なこと?

10月からタバコが大幅に値上げするという。喫煙者にとってはつらいことかもしれない。これを機に止めようという方もおられるだろう。かく言うぼくも去年までは結構なスモーカーだった。足かけ30年くらい吸っていたので肺は依然きれいになっていないだろうけど。

去年止めたのは骨折の怪我をして自宅療養していたときに自然に止めてしまったというのが実態に近い。自ら喫煙している整形外科の担当先生は骨の発育とタバコの有害さが医学的に証明されているわけではないので、吸いたければ許可しますよ、とおっしゃっていた。それなのに止めたのは、べつにからだの健康を考えて止めたというのではなく、単にあるときタバコがとてもまずいと感じて、そのまま止めてしまったというのが一番正確なところだ。だから苦労して止めたとか、意識的に止めていったというわけではない。
もしかしたらまた吸い始めることもありえる。最近の嫌煙をめぐる風潮についてはファシズムとの兼ね合いでモノ申す意見や、健康オタク主義への行き過ぎ、タバコの悪が本当に医学的・科学的に証明されているのか(地球温暖化説の真贋然り、自動車の排気ガスのほうがよほど肺に悪いかもしれない)などまだまだ反諸説も多いと思う。

ここではその是非について論じることはしない。ただ実際にたばこを止めて思うのは、流れてくる煙の匂いはたしかに嫌だなと感じることだ。だから吸うひとはなるべく礼儀をわきまえてまわりに注意して最低限吸ってよい場所で吸ってほしいとは思う。

でも健康という着眼点からのみたばこを断罪するという視点には今でもどうしても加担する気になれない。たばこを吸っているとき紛れもなくα波が出ているという実験を以前のTV番組で見たことがある。それに追加するわけではないが、別に人は健康のためだけに生きているわけではないだろう。悪いと知っていてもやめられないことは沢山あるにちがいない。麻薬なんかもそうかもしれない。
もしそれで死んでも構わないと思って意志的に吸っているのだとしたなら、まわりがいろんな理屈で説得しようとしてもしょうがないと思う。個人の責任と罰に帰着することで、そういう類のものについては一律の「べき論」はしたくないというのがぼくの現在の考え方で、一律のあるべき論には安易に組したくないとも思うのです。

それよりも今たばこをやめてつくづく良かったなと思うのは、逆説的だけどタバコを吸わないことでストレスから自由になれたからだ。今はとにかくタバコを吸えないことが即ストレスになることのほうが多いように思える。街のなかで吸える場所を探して彷徨ったり、レストランや喫茶店でも吸えない場所が多くなり、離席して外に吸いに行ったりと、かえってイライラの原因が増えてきているようだ。それだけたばこを吸う人は肩身が狭くなっているわけだけど。

むかし聞いた話で、本当か嘘かわからないが、夜中にたばこを切らした人が小銭がなくて自販機のたばこを買えず、寝床でモンモンとしているうちにテーブルの角かなにかに頭を打ちつけて死んでしまったという話を聞いたことがある。果たしてブラックユーモアとして笑っていいのか分からないが、とにかく斯様にいまタバコを吸うことに関してはよりストレスフルになることも覚悟しなければならないというのは一面の真実と言えるのではないか。ただでさえいろんなストレスに囲まれているなかで、ひとつでもストレスから自由になれたこと、それがタバコを止めたぼくにとっての最大の恵みかもしれないな。でもこれはあくまでもぼく個人にとってというに過ぎないが。

よしむね

管総理再選に思う、「何もしないことの歓び」について

先週、管総理が再選された。たぶん大方の予想通りというところだろう。でも民主党議員の投票では管、小沢の票がかなり僅差で、今更ながら小沢支持の根強さも知らされた形だった。
 菅総理については以前書いたとおりで、特に期待することはない。おそらく官僚主導(協調しつつ)が残る、旧来型の自民政治に近いような政治になるのだろうと勝手に予測している。「元気な日本を回復する」というキャッチコピーもあるようだけど、けっきょく成長も狙い、国民のセーフティーネット(最小不幸)にも配慮しつつという、それこそいいとこ取り、なんでもありの政策パレードで、本当は何をしたいのか明確さにかける。それよりも今必要なのは衰退日本の道筋をいっそキチンと示すことで、それを示す勇気のあり様と言う点ではやはり小沢一郎のほうが何枚も上手だったと思う。小沢一郎の論点は一貫して国民の生活が第一、だった。良い悪いは別にして、だ。
経済成長しようが成長しまいが、国のかたちは依然残ってゆくとしたら、成長の次元と異なる形でどうやって国として存続させてゆくかを真剣に考えたほうがよい。今後ますます人口が減ってゆくかもしれないことを考えれば、普通に考えれば一人当たりの生産性を向上させるか、人口を増やす(移民を増やす)しか長い意味での成長を実現できる手立てはないだろう。数値目標にこだわる限りは。
生産性の向上がそんなに期待できないことを考えれば(これが進めば自動化等で国内の雇用がますます減ることになる)、まっとうな手立てはやはり移民を受け入れて成長を作ってゆく選択肢になるだろう。でも移民は嫌・困る、だけど成長は作りたいというのがいまの日本の大方の意見なのかもしれない。
最近見たジュリア・ロバーツ主演の映画で「食べて、祈って、恋をして」というのがあった。主人公の女性が最初イタリアに旅するのだが、そこでイタリア人たちがいう「何もしないことの歓び」という言葉に感動するシーンがある。これはイタリア人たちがアメリカ人の生き方と自分たちの生き方を比較して語る言葉で「アメリカ人たちは働くことばかりに夢中で何もしないことの歓びを知らない」、と。でもこの言葉はそのまま日本人にも当てはまると思う。
戦後の旬の日本人は誰でもが多かれ少なかれ復興とか再生とか発展とかをめざして何かをやらなければやらなければという想いで進んできたのかもしれない。その心情はいまも底のほうで連綿と続いているようにも思う。古くはオー、モーレツというコマーシャルもあったし、24時間戦えますか、というコマーシャルもあったっけ。
でも何かに急きたてられてばかりいるというのは一見大人の時間のように見えて、実は子供の時間であり、未成熟のなさる技なのではないか。「早く寝なさい、もっと勉強しなさい!」と子供時代によく言われたことを記憶している方も多いだろう。大人になればほんとうはもうそんなことを言うひとはいなくなるのだ。だから日本人こそもっと大人になり、「何もしないことの歓び」に悠々と感じ入り、急かされない生き方を考えるべき時が来ているのかもしれない。どうせなら悠々と没落してゆくこと。
だってイタリア人はローマ帝国の全盛時代をすぎてからもうかれこれ2000年近くも衰退の道にはいって何もしないことに歓びを見出して生きているんだから。それこそ、食べて、祈って、恋して、だ。でももしイタリア人がこの世にいなかったら、世界の中のどれだけがつまらない、味気ないものになっていたことか。素敵なファッションや車のデザインもなく、パスタもオペラもない社会。何もしないイタリア人はたいしたものだね。

よしむね

金融緩和・緩和っていったいどんな効果があるのだろうか、疑問だ

日銀が金融緩和を行うことを決定した。国債を買い取って資金を供給するという仕組み。アメリカのFRBもすでに金融緩和を行っており、それに対する同調ということだろう。日銀はそうしたくなくても政府官僚筋(アメリカ追随派)の意向・圧力に押されたのだろう。過去この20年間、日本はどれだけの緩和策をやり続けてきたことか。その結果の借金体質とほとんど効果のなかった経済弱体化が続いているわけだ。
しかもほとんど0に近い金利施策を続け、貯金暮らしのお年寄りたちからどれだけのキャッシュを奪ってきたか。ぼくの父親もその影響を受けた世代だ。20年間もお金を預けていれば普通なら5%くらいのまともな金利がついていれば倍近い資産になっていてもよかったはず。これも所詮不労所得だけど。
緩和って言われるとなにかいいことのように受け取れて分かりにくいが、なんのことはない、あらたに輪転機等を回してお金を市場に流し込むことでしょう。リーマンショック以降、市場の危機を回避するという名目で、世界中でどれだけの金融緩和策がとられてきたことか。つまり流し込めるだけのお金が流し込まれたことになるだろう、世界中に。
これを続けていけば、当たり前の話だけど、お金の価値・ありがたみがなくなることは必至だろう。ヨーロッパはさすがにギリシャ等の財政危機を経てこれから金融引き締めに向かいつつあるようでもあるが、アメリカは引き締めに転じるかと思いきや、またも緩和と来た。
アメリカ・ドルは未だに世界の基軸通貨だからこんな野放図なドル大量印刷をやり続けていられるのかもしれないが、弱小国家ならもう国家破産のステージだろう。でもドルと米国債の余命もそんなに長くはないと思われる。奢れるもの久しからず。盛者必衰の理。いつまでも世界中からドルを買ってもらって実体よりも良い暮らしを続けることができるわけがない。
だから円高、ドル安になるのも長い観点で考えれば当然のことだ。ドルがこれだけあふれまわっていれば、ドルの価値が下がるのは当然。紙幣も所詮紙切れ。お金には魔的な商品としての側面もあるが、所詮信用関係(幻想)に基づいて価値が取引されている以上、無価値になることもありえる。それが進んでいけば超インフレになる。
それからいま問題なのは、これだけ大量に供給されたお金がいったい何に使われているのか、だろう。いまは誰もお金を大量に使うひとがいないのだ。まともな企業は手元資金が厚い状態だけど、新しい投資には積極的でない。というよりも誰もリスクをとってなにかをやろうというマインドではない。結局余ったお金の大半は再びの債権買い等に回っているだけというのが実情だろう。それから借金の返済に当てられているということ。
 こういう異常な状態が続いているのに、あいかわらず日々の新聞を筆頭にマスコミ各社がこういう状態を少しも異常とは報道しないようだ。聞かれるのは日本企業が円高につぶされるから緩和しろ緩和しろという報道ばかり。でもそんなその都度の小手先で円高が一時的に収束するようにみえても持続的な効果は限定的だろう。
 問題は長期的にドルの低下が明らかなことを認めて、ではどうやって為替に影響を受けにくい体質にしていくか、ドルからの自立(脱却)を模索してゆくかを考えるべきだろう。そのひとつの選択肢にドルに変わるアジアの域内だけで流通するような通貨とかがあってもいいし、商品をふくめたバケット取引とか等々があってもいい。もちろんそれには時間も手間暇もアイディアも必要だ。でもそうした根本的なデザインなしに、もはやその都度の対処療法ではもう限界に来ていると思われる。初期の鳩山首相には多少なりともそんな試みへの意気込みもあったように思う。
 そしてそれはまさむねさんが前回の記事で以下に述べたようなことと同じ趣旨にもつながる。

 「日本はおそらく黒船来航以来、150年の間に、それまでの共同体社会を徐々に失っていった。家や親族、地域社会は現在ではほぼズタズタとなってしまった。それはある意味しかたのないことであるが、その民族的喪失に替わる新しいシステムが僕らには創れていない、それどころかまだイメージすら見えてすらいない、それが問題なのだ。」

 誰だって新しいシステムはたぶんこわい。それから弾かれる人にはなりたくないと考える。自立というとなにか居丈高な感じも強いが、ゆるやかな自立、少しずつの自立、助け合いながらの自立、相互的な自立、弱さをともなった静かな、漸進的な自立こそがこれから模索されるべきなのかもしれない。そうして最終的にはやはり自立した国になるべき。人もそうだろう。そのために何が起きているのか、正確に知ろうとする姿勢だけは開かれているべきだと思う。

よしむね