カテゴリー別アーカイブ: 政治

地域社会からこぼれ落ちてしまった人々、そういった人々の心情を汲み取れなくなったことが現代の政治の一番大きな問題点だ。

管総理再選に思う、「何もしないことの歓び」について

先週、管総理が再選された。たぶん大方の予想通りというところだろう。でも民主党議員の投票では管、小沢の票がかなり僅差で、今更ながら小沢支持の根強さも知らされた形だった。
 菅総理については以前書いたとおりで、特に期待することはない。おそらく官僚主導(協調しつつ)が残る、旧来型の自民政治に近いような政治になるのだろうと勝手に予測している。「元気な日本を回復する」というキャッチコピーもあるようだけど、けっきょく成長も狙い、国民のセーフティーネット(最小不幸)にも配慮しつつという、それこそいいとこ取り、なんでもありの政策パレードで、本当は何をしたいのか明確さにかける。それよりも今必要なのは衰退日本の道筋をいっそキチンと示すことで、それを示す勇気のあり様と言う点ではやはり小沢一郎のほうが何枚も上手だったと思う。小沢一郎の論点は一貫して国民の生活が第一、だった。良い悪いは別にして、だ。
経済成長しようが成長しまいが、国のかたちは依然残ってゆくとしたら、成長の次元と異なる形でどうやって国として存続させてゆくかを真剣に考えたほうがよい。今後ますます人口が減ってゆくかもしれないことを考えれば、普通に考えれば一人当たりの生産性を向上させるか、人口を増やす(移民を増やす)しか長い意味での成長を実現できる手立てはないだろう。数値目標にこだわる限りは。
生産性の向上がそんなに期待できないことを考えれば(これが進めば自動化等で国内の雇用がますます減ることになる)、まっとうな手立てはやはり移民を受け入れて成長を作ってゆく選択肢になるだろう。でも移民は嫌・困る、だけど成長は作りたいというのがいまの日本の大方の意見なのかもしれない。
最近見たジュリア・ロバーツ主演の映画で「食べて、祈って、恋をして」というのがあった。主人公の女性が最初イタリアに旅するのだが、そこでイタリア人たちがいう「何もしないことの歓び」という言葉に感動するシーンがある。これはイタリア人たちがアメリカ人の生き方と自分たちの生き方を比較して語る言葉で「アメリカ人たちは働くことばかりに夢中で何もしないことの歓びを知らない」、と。でもこの言葉はそのまま日本人にも当てはまると思う。
戦後の旬の日本人は誰でもが多かれ少なかれ復興とか再生とか発展とかをめざして何かをやらなければやらなければという想いで進んできたのかもしれない。その心情はいまも底のほうで連綿と続いているようにも思う。古くはオー、モーレツというコマーシャルもあったし、24時間戦えますか、というコマーシャルもあったっけ。
でも何かに急きたてられてばかりいるというのは一見大人の時間のように見えて、実は子供の時間であり、未成熟のなさる技なのではないか。「早く寝なさい、もっと勉強しなさい!」と子供時代によく言われたことを記憶している方も多いだろう。大人になればほんとうはもうそんなことを言うひとはいなくなるのだ。だから日本人こそもっと大人になり、「何もしないことの歓び」に悠々と感じ入り、急かされない生き方を考えるべき時が来ているのかもしれない。どうせなら悠々と没落してゆくこと。
だってイタリア人はローマ帝国の全盛時代をすぎてからもうかれこれ2000年近くも衰退の道にはいって何もしないことに歓びを見出して生きているんだから。それこそ、食べて、祈って、恋して、だ。でももしイタリア人がこの世にいなかったら、世界の中のどれだけがつまらない、味気ないものになっていたことか。素敵なファッションや車のデザインもなく、パスタもオペラもない社会。何もしないイタリア人はたいしたものだね。

よしむね

自民党はいっそこのまま溶融してゆけばいいじゃないか

最近、鳩山政権の支持率低下が盛んに喧伝されるようになった。直近の世論調査ではたしか30%を割りこむところまで低下しているらしい。米国のオバマ大統領の陰りも然り。両者ともいわゆる蜜月期間をとうに過ぎて、マスコミによる容赦ない反撃のようなものをふくめて、支持率の下降局面に入ってきているというわけだ。

けれど翻って、では日本の自民党はどうかというと、自民党もトコトン冴えない。とてもかつて長く日本の政権の座にあった政党とは思えない。めぼしい発信もなく、この力のなさは何なのだろう。

民主党の施策に対して、それと対抗し封じ込めるような新しい戦略やビジョンがまったく出てこない。かといって新しい政党として出直してくるだけのポテンシャルがあるとも思えない。せいぜい小泉元首相の生意気な次男坊や、かわいすぎるといわれる女性の市議に出てもらって人気取りの街頭演説を行っているていたらくだ。

もともと自民党とはからっぽの政党だったのかもしれない。実はこの「からっぽさ」こそが長く政権の座にあった最大の理由だったのかもしれないとさえ思えてくる。つまり時の体制や長いものには巻かれろというようなイイトコドリ・日和見主義みたいな、言いなりになりやすいような優柔不断さこそが己の身を長く保つ最大の処世術だったということ。

今回民主党に変わったことで、あらためて自民党政権時代に日本がどれだけ既得権益で生きてきた人が多かったか、そのしがらみの多さが白日の下に垣間見える機会があっただけでも良かったのではないか、とぼくは思っている。それがなんとなく分かっただけでも民主党に政権が変わった意味がある、と。だから別に民主党の支持率が下がろうが別にいいじゃないか。

それよりも自民党というこんなポテンシャルの低い政党がながくゾンビのように時の政権の座にあったことが信じられない気がする。つくづくわれわれ国民の意識も低かったのだろう。また一方で、日本が劣化してきたことに相応して、政権与党である自民党自体もその内部において確実に劣化が進んでいたということなのだろう。自民党だってその初期には高邁なビジョンがあったはずだ。たとえば所得倍増計画を標榜した池田内閣あたりまでとか、は。

だが日本が経済と繁栄の軌道に乗ってからは、ただ惰性操舵のままに行けばよくなり次第に事なかれ主義になり、自らを変革する力を失い、ただただ劣化してもはや斬新な政策を打ち出す能力がほぼ皆無に等しい現在の状態になってしまったということなのかもしれない。でもそれでいいじゃないか。だって戦後60年以上もそうやって政権の座にあり続けたのだから。

だから自民党はいっそこのまま溶融して瓦解して粉々になってゆけばいいじゃないか。それがより望ましい姿というものだと思う。そしていつか人々がふりかえって、「20世紀の後半から21世紀前半にかけて、かつて、長く戦後の政権を担った、自民党という、政党が、あった」といわれる日が来れば、それで良しとすべきではないか。日々是好日。いい日旅立ち、自民党。良い意味でも悪い意味でも戦後の風潮が瓦解しつつあるように、自民党の役割もまた終わりつつあるのだ。

よしむね

日本はやはり変わりたくない人たちが大勢いる社会ということなのだろうな

民主党政権の施策について不満に思うことは、大きく以下の3点だ。たぶん一般的によく言われていることとかなり重なると思うのだけど。

①八方美人すぎて、結局なにをしたいのかよく分からないということ

②やや後ろ(下位、下から)目線が強すぎること

これは社会でわりと経済的には弱者に近いカテゴリーにあるような方々への配分を厚くしすぎているキライがあるように思えること。コンクリートから人へ、人に優しい施策ということかもしれないが、表現が悪いけど、貧乏人の子沢山の喩えではないが、子供手当てのような充実が今ほんとうに必要なのか。養育や教育費の問題は切実なのかもしれないが、長い目でみて本当はその人の始末と責任で育てているのに単に子供がいるというだけで上からお金をもらえるという安易さに居座ってしまうことにならないか。だいいちそんなに継続的に大判振る舞いできる余裕があるのだろうか。
やっぱり上への目線で、社会を引っ張っていく人たちや社会をうまく回転させる要因へのインセンティブをもっと効かせてゆく、その自律化をうながす施策の必要性があるのではないか。皆で並べば恐くないじゃないけど、でも本当に皆が下位に並んでしまったらどうしようもなくなるだろうと思うのだが。どうだろうか?

③やっていることがどうも一貫していないようにみえること

たとえばせっかく事業仕分けをしても、それがそのまま最終的に各省庁の予算削減で通ったわけではないらしいという事実。二重の結果。そうすると、われわれ第三者からみると、どこにほんとうの判断基準があったのか、最終の決定者が誰だったのか、事後まったく分からないことになってしまう。

閑話休題。それはそれとして、小沢一郎についてしつこいくらいの検察の捜査と報道が続いている。先週土曜日には小沢本人への事情聴取とその後の会見も行われている。結局その真偽は分からないし、小沢一郎に嘘がないといえるかも分からない。小沢一郎は正しくないかもしれない。しかし、この一連の捜査と報道のあり方は異常だと思う。
長く時の政権の中枢にあった自民党議員のほうが、政治献金の効果という視点からみても、たかが最近政権の座に着いた民主党議員よりもよほど多くを享受してきたのは普通に考えてもまったく当たり前のことではないかと思うのだ。この事件のかなめは標的として取り上げられるかどうかという恣意性以外の何ものでもないように思えてならない。小沢一郎よりも、だ。たとえば元首相の方々などもふくめて、大物はもっと沢山いるのではないか。そうした関連への捜査が行われている気配がなく報道もなされず、一方的に小沢捜査とそれをめぐる報道のみがあるという構図はどこか空恐ろしい。
現代日本では、けっきょく小沢一郎的なものが具現するものを、嫌いな人たちが大勢いるということなのだろう。彼らの思いとは何か。とにかく今までと変わらないこと、変わりたくない、ということ。既得権益にしがみついてきた人たちが、とにかく従来のやり方を変えようとしている小沢一郎に必死に抵抗しようとして追い討ちをかけているのかもしれない。そこには軍産一体化を背景にしたアメリカの意向などもあるかもしれない。
改革とか変革とかキレイごとをいっても、日本はやはり変わりたくない(=今のままでい)人たちが大勢いる社会だということなのだろうな。

よしむね

たしかにガラパゴス化した国で皆が子泣き爺になっているようだ

まさむねさんが「デフレを受け止めきれない僕らの近未来イメージの不在」で書いているように「事業仕分けの流れでも明らかなように、これまでの日本はあまりにも公共的なバラマキ予算で食べてきた人が多すぎたということなのである。そして、その結果としての900兆円の借金なのである。社会の役に立つ仕事をしていたと思っていた多くの”善意の人”が、実は政府に食べさせてもらっていただけの”子泣き爺”(=お荷物)だったということが白日の下にバレてしまったのだ。」という感想にはぼくもまったく同感だ。

昨今の報道のサマを見ていると、国民の側も報道する側も、税金を取られるほうも取るほうも皆が皆でまとまって、国全体がもう病的なまでにお金の取り合いのことを考えるしかないような袋小路に追い詰められているようにみえてならない。清貧の思想が良いとは思わないが、どこかに、凛として、節度あり、いわゆる自分の分をわきまえ、ほどほどを知る、という引き算の姿勢があってもいいような気がするし(この主題についてはいつかまとまってまさむねさんと一緒に考察してみたいところだ)、一方もっと大きな視点で、つねにどこかに全体最適から考えていくような発想が抜け落ちていると、必ず瑣末な論議の積み重ねで、どこにも出口のない堂々巡りに落ちてゆくことになりかねないとも思えるからだ。

そもそも事業仕分けの前半戦をわりと好意的に報道していたTV局の姿勢も、後半のいわゆる科学技術の事業仕分けに入ってきた段階で、その報道姿勢をやや批判的なトーンに変えだしてきている。ムダの一掃とばかりに、いわゆる科学のような「現在」の役に立たないものを「ムダの視点」だけで切っていいのか、将来の発展のためにはムダもまた必要なのではないかという論調だ。
だが、民放に代表されるTV局自体がいわゆる長年の電波行政の規制の御蔭で競争にさらされることもなく格段に高いサラリーを享受できてきた業界であり、まさにそれこそ事業仕分けの対象にふさわしい存在だろう。さすがに昨今は景気低迷の影響もあり広告収入の大幅な落ち込みと番組の質と視聴率の低下、ネット広告の脅威などで安閑としてはいられなくなってきているようだが。

ここで問題にしたいのは、その報道の仕方に首尾一貫したものがなく、場当たり的なことなのだ。もちろん何が正しいかは確かに誰にも分からないが、たとえば事業仕分けについていうなら、とにもかくにも、そのテーマにかかわりなく聖域なく皆の前で議論する機会になっていることは以前の政治風土よりは良しとするような一貫した評価の姿勢があってもいいし、その逆に批判し続ける姿勢があってもいい。要は、マスコミ自体にはもうまったく主体性がなく、その時々でいいといってみたり、悪いといってみたりする傾向があまりにも強すぎるのだ。近年はその傾向に拍車がかかってきているように思えてならない。
皆が子泣き爺になっているこの国で、たぶんいまもっとも必要なのは、全体をデザインする力=構想力=グランド・デザイン力なのだと、ぼくは個人的に勝手に思っている。それを愚直に発信していくような場こそが必要だと思う。なぜ日本でiPhoneが作れなかったのか。iPhoneを構成している電子部品のほとんどは日本製だったのに、というあまりにも有名な命題・疑問。その答えもまたあまりにもしばしば言われすぎていて、今更繰り返してもしょうがないかもしれないが、日本にはそれを作りあげる構想力を持った人がいなかった、アップルのスティーブ・ジョブスがいなかった、というのがその一番の答えだということに尽きるだろう。

科学技術の事業仕分けに遭遇して、大学の総長たちが集まって危機感の表明会見を行おうと、ノーベル賞の学者先生があつまって反対意見を述べようと、そこに欠けているのは、ではあなたたちは大学教育をどう考えているのか、どうありたいのですか、技術立国というなら、あなた方はそのあるべき姿についてどうデザインしているのか、まずそれを大上段に愚直に常日頃から発信してほしいということだ。その一環で予算削減について批判的に述べるのならそれはそれでいい。だが、ぼくらの目に映るのは、まずもって「これ以上削られたらもう大変なんだ、大変なんだ、競争できなくなるんだ」という大合唱の光景のようにしかみえない。これで生活している研究者たちの暮らしをなんとか支えてほしいという願いが透けてみえるようで悲しい。科学する心の大切さを漫然と話されても心には響かないのだ。
そもそもの何の疑いもないかのように、日本を技術立国と呼ぶこと自体があやしいものだとぼくは思っている。技術立国と呼んでいるその根拠について話せる人がどれだけいるのだろうか、なにをもって技術立国と定義しているのか。ハイテクの先端である半導体や液晶ディスプレイ産業を例にとるなら、製造業としての日本はもう上位の座を韓国、台湾のメーカーに奪われており競争力を失って久しい。携帯電話然り、PC産業然りである。かろうじてその川上に位置する部品産業はまだ競争優位を保っているようだが、需要の盛衰という意味では完全に新興国であるBRICs頼みの構図となっている。

ニホン人の多くが日本でしか通用しない規制に守られて、日本というガラパゴス島のなかで独自の進化を遂げ、独自になんとか生きてきたが、今、それが壊れつつあり、多かれ少なかれみんなが子泣き爺と化して既得権益にしがみつこうとしているのだ(悲しいかな、ぼくもその一部に含まれているのだろう。)
かつて幕末の志士たちにはなによりも次の時代をどうしようかという構想力があったと思う。それがいいか悪いか、正しいか正しくないかは別にして。デザイン力だけはみずみずしいまでに溢れていたと思うのだ。今の日本にはそれがない、というのはとてもさびしい。ものづくり、よりは、むしろデザイン力の復権こそ、とぼくは言いたい。

よしむね

2兆円の雇用対策って何?金使う前に頭使えば!

先頃、自民党から3年間で2兆円、140万人の雇用創出を盛り込んだ雇用対策案が、麻生総理に提出された。

これって、金額だけ見ると、本格的な雇用対策のようにも見えるだけど、おそらく企業経営側、そして、現在失業している人達、ようするに全ての人々にとって、多くの疑問が残るところだろう。
内容に関しては、雇用した企業に対して、一人当たり最高100万円の補助とか、職業支援センターの充実とか、雇用保険期間の延長とからしいが、どれもこれもパッとしない。
本当に大丈夫なのって内容なのだ。

まず、雇用時の100万円だけど、政府が労働者に持参金を付けて、あと、よろしくって事でしょ。
元々、仕事がなくて、派遣社員、期間工なんかが解雇されているんだから、そんなことしたって、意味ないよね。
企業にしてみれば、それよりも発注してよ、ってことだからね。

さらに、こういう制度を利用した悪質な詐欺なんかも出てきそう。
書類上で就職させて、月・数万円だけ給料上げて、3ヶ月後に、もう来なくていいよみたいな事を、狂言でやるとかさ。
勿論、そのあたり、政府は、そういう事が無いように十分考えているんだろうけどさ。
先日の定額給付金のドタバタを見てると、政治家がやるって先に言っちゃったもんだから、後で行政が取り繕おうとして無理が出て、みたいな流れも有り得なくないからね。

さらに職業支援センターだけどさ、これって職安を充実すればいいっていう話じゃないのでしょうか。
普通の国民感覚だと、また新しい天下り先が出来るわけね。って思うよ。

それにしても、僕も昔、何度か職安に行ったことあるけど、職員やる気ないよね。
そして、そこに足を運ぶ人たちは、ただ、手当てが欲しくて行ってるんだけど、あの30人くらい立たせてさ、一人づつ名前読んで書類渡すの辞めて欲しいよな。
全く繊細な配慮なし。
職業支援センターっていうなら、職安の人たちをにまず全員馘首にしてから、対人関係支援プログラム受けさせて、使いものになるんだったら再雇用したら。
あと、関係ないけど、あのハローワークって言い方いまだに納得できない。「こんにちわ仕事」っていうの?英語にもなってないんじゃないの?

さらに、雇用保険期間の延長だけど、今、確か、雇用保険って月々かなり安いよね。
数百円だったような...僕はそれを3000円ぐらいにしてもいいから、セーフティーネットを充実させて欲しいと思うよ。
値下げするなんてのは、本当に目先の微々たる”媚売り”以外の何物でもない。
もっとも、私の仕事館なんか作られちゃうのも、それはそれとしていかがなものかと思うけどね。

それはともかく、そもそも、僕が思うに、雇用対策っていうのをそれだけで考えるんじゃなくて、今後、日本をどうして行きたいのか、という視点から考えるべきだと思うわけ。
政治家のビジョンが無いから、とにかく、現状の社会を、いかにごまかしながら継続させるかみたいな話になっちゃうんだよね。

例えば、給料が減ったとしても、社会として必要なNPOだとか、環境対策だとか、医療・介護だとか、教育だとか、農業だとか、どの分野を日本のドメインにするべきかっていう大きな方針を決めてもらって、それに従った、労働者移動を考えて欲しいよね。
麻生首相の場合、彼が、どういう日本にしたいのかってことが全く伝わってこないのが問題。
例えば、「とにかく、環境技術に関して、日本を世界のトップレベルにしたい。日本が世界と闘っていえる武器にしたい。そのために、人材をそちらにシフトすべく、雇用対策+補助をします。」みたいなさ。
そうすれば、それに対して、国民だっていい、悪い、賛成、反対の意思が表せるでしょ。

現状だと、麻生さんって、別に普通にやってくれればいいものの、一人でエラーを重ねて、自滅してって、知ったかぶりして、またすべって、転んで、しかも何をやりたいのかも見えない感じ。こっちも辛いよね。

しかし、この年の暮れに、解雇を言い渡された大工場の期間工、派遣社員の人たちは本当にかわいそうだよね。
おそらく、トヨタならトヨタ、キャノンならキャノンで何年も働いて「俺は世界のトヨタ(キャノン)をささえてるんだ」っていうプライドを持って、必死に頑張ってきたんだろうけど、「来月から来なくていい。ごくろうさん」ってのはお金の問題以上に、そういった労働者のプライドを大いに傷つけると思うんだ。
奥田さんとか、御手洗さんなんかの話を聞いていると、全く哲学とか無いよね。無関係な僕でも情けなくなるよ。
また、一方、それに対して、正社員の人たちはどう思ってるんだろう。いままで隣で働いていた人がどんどん首切られてさ。「俺じゃなくてよかった。」とか思ってるのかな?
テレビも是非ともそういう人たちの気持ちを聞かせて欲しい。
本当は、定年退職間近で、対して仕事してないくせに、年功序列で莫大な賃金取ってる人たちいるんじゃないのかな。
ワークシェアっていうのはちょっと胡散臭そうだけど、おそらく、原資の分配に関して、考えないといけない時期でしょ。期間工の首切るんじゃなくてさ。

っていうか、テレビ業界自体が一番そういう意味での格差があるところなんだっけ。だから、下請けのADが居なくなっても、しょうがない位の感性しかないんじゃないかって疑いたくもなる。
テレビのコメンテーター達は、今まで株主に配当していた金を賃金に回せばいいとか、言ってるけど、そういう問題なの?僕はよくわからないけどね。

さらに、僕が一番心配していることは、そういう風に首を切られて、しかも一人づつ放り出された人たちが、いわゆる金無し、人間関係無し、夢無しの状態になってしまい、生き甲斐(プライド)を失っちゃうって事。
僕には何も出来ないけど、本当に頑張って欲しいと思う。

まさむね

誰か、小沢さんに「あれじゃダメですよ」と進言してほしい

麻生首相と小沢党首の党首論争は、最悪だった。
残念だった。
期待したこちらが悪かったのか。
僕は、不覚にも、今回の党首討論のお膳立てを整えた段階で、ついに小沢党首が本気を出すに違いないと微かな幻想をいだいてしまっていた。
でも、正直言って、僕の買いかぶりだったようだ。

はっきり言って、小沢党首は論争に全く向いていない。
とりあえず、党首討論をやったというアリバイ作りのために出てきたとしか思えなかった。

彼は、本当に麻生首相を追い込もうと思ってやってきたのだろうか。

小沢「経済対策優先と言いながら、何故、今国会で2次補正を出さないのか?」
麻生「それより、金融強化法を採決してくれ。それが先だ。」
小沢「2次補正を出さないのなら、解散しろ。」
麻生「政治的空白を作るから、解散しない。」
小沢「今までの経済優先という主張と矛盾するのではないか。」
麻生「矛盾しない。そちらこそ金融強化法を採決してくれ。」

簡単に言えば、こんなやりとりだった。凡庸だ。

実は、党首討論というのは、野党党首が首相を追い詰めるところではない。
その追い詰めてなくても、追い詰めたという印象を国民にわかりやすく「プレゼン」するところである。

小沢党首にはこの「見せる」という意識がまるで無い。
自分は言いたい事を主張したから、それでいいと思っているのではないか。
まるで知恵の無い話だ。

さらに問題なのは、、民主党は党として、戦略がなさすぎる事だ。
あるいは、あったとしても、誰も小沢党首に進言出来ない状態なんだろう。
これは不幸な事だ。

かつて小泉元首相は小沢党首の事を、あの人は、政略というものが分かっていないと言った。
どこを押せば、他人はどう動くのかというような人間というものの本性に対する洞察がないという事だ。
一般的に、小沢党首は、権謀術策の人と思われているが、他人の弱みに付込んでを追い込んでいくといった、本当の意味での政治的知恵の無い人なのだろう。

朴訥といってしまえば、悪く聞こえないが、ようするに場当たり的な人な人なのかもしれない。

僭越ながら言わせてもらえば、僕だったら、
「本来、党首討論というものは政治の大局を語るべきところという事は理解しておりますが、現在は、みぞゆうの、いや、失礼、未曾有の1度の危機ということなので、細かい話をさせていただきます」
と場の空気を変えてから、細かい点を次々に指摘し、麻生首相に謝らせまくる。
「首相は、老人医療に関して、病気の人の分を自分が払いたくないと言ったそうですが、その件に関してどう思われますか。」
「首相は、医者に対して、世間知らずの人が多いと言ったそうですが、その件に関してどう思われますか。」
「定額給付金に関して、配布を地方に任せると言われた事に関して、地方から批判があるが、それに関してどう思われますか。」
等など、他に、田母神氏の件、社保庁のデータ改ざんの件、さらに、中山元国交省の件、総裁選で名古屋だから大丈夫と言った件まで、ネチネチと、しかも、短くどんどんと持ち出して、その都度、謝罪させて、首相をイライラさせればよかったのだ。
僕だったら、とにかく蒸し返し作戦(だって、初めての党首討論なわけだから、それはそれで正当だろう)を採用して、スネイクになる。
そして、最後に民主党の経済対策案をプレゼンして、これと自民党案とで選挙をしようと言えばいいのだ。

恐らくテレビは、首相の謝罪シーンを編集して伝えるだろう。視聴者はそれを見て何を感じるのか?誰にでもわかるだろう。
そして何よりも、麻生首相に、党首討論をもうやりたくないと思わせる事ができる。
元々、小沢党首はやりたくないのだから、一石二鳥ではなかったのか。

少なくとも、小沢党首は、今回の討論が、大失敗だったという事を自覚し、民主党の他の面々はそのことを彼にわからせてほしい。
それからじゃないと何も変らない。麻生首相云々はそれからの話だ。

まさむね

小沢氏党首討論受諾に見る一郎流喧嘩の極意

麻生首相と小沢氏との党首討論が28日に開催されることとなった。

負けない喧嘩の究極の極意(その1)とは、「負けそうな時には喧嘩しない」という事らしいが、小沢氏、満を持しての登場に凄みの予感を感じる。

今回のテーマは経済対策。直近の流れを見てみよう。

1)党首会談で、小沢氏、麻生首相に対して、第2次補正予算の今国会提出を要求。
2)その席上で、麻生首相、後ろ向きな回答。
3)会談を受けて、麻生首相、小沢氏は信用出来ない発言。
4)小沢氏、麻生首相をチンピラよばわり。
5)麻生首相、チンピラ発言に対して、ノーコメント。
6)麻生首相、第2次補正予算の来年に先送りを表明。
7)小沢氏、今国会提出に向けて、独自の経済金融対策関連法案の骨子をまとめる。

麻生氏がスピード優先と位置づけた経済対策。そのスピードの遅さを突き、と同時に相手の冷静さを失わせるように挑発する。
そして、相手が出してこないとみると一気に、自分達は経済対策を出す構え。

小沢氏得意の囲碁ではないが、まるで詰め将棋のような手際だ。
どうみても流れは小沢氏側にある。だからこその党首討論受諾なのだ。

しかし、相手の首相は、先祖代々の筑豊の川筋者。
いざという時の喧嘩強さには伝説的定評がある。
それは、横須賀博徒の流れを汲小泉元首相が喧嘩が強かったのと同様に不気味な存在だ。

しかし、負けない喧嘩の極意(その2)とは、本当は負けていても、周囲には勝ったとみせる術らしい。
例えば、人の印象に残るようなタンカを切るとか、一方的にしゃべりまくるとかだ。
「負けた」と思ってからそういった術に切り替えられるか、このあたりがこの勝負の技術論的見所だ。

しかし、プロレスでもそうだが、お互いに感情的になると、見世物としては最悪になるケースが多い。
党首討論の場合は、いわゆる議論がかみ合わない、目も合わせない、って状態になりそうなのだ。

前回の党首討論では、福田前首相、涙目で「かわいそうなくらい頑張ってるんですよ」>小沢氏高笑い という名場面があったが、今回はどうだろうか。

まさむね

麻生首相はついに、小沢氏の格下になったか

麻生首相と小沢代表が17日に党首会談を行った。

その席上での、やりとりを踏まえ、麻生首相は、記者団のこう述べたといわれている。

「小沢氏は(今国会での第2次補正予算案の審議に協力するという約束を守らなければ)『辞める』と、合計7人の前で言ったのに、後で『言っていない』と言っている。この人の話は、危ない。あまり信用できなくなった」

自民党としては、党内がまとまりきれずにいるから、第2次補正予算案は今の臨時国会には出したくない。定額給付金の件もあったし、不況で税収の予測計算も出来ていない、ようするに、またいろいろと混乱が予想されるからね。
でも、麻生首相は、先月の記者会見で、「政局より、経済優先」ということで一刻も早く、この補正予算案を出す(だから選挙どころじゃない)って言ってしまっているのだ。

追い詰められた麻生首相、経済が第一課題だったら、小沢氏が何といおうと、今年中に補正予算案を出さないと筋が通らない。
しかし、出せるような状況じゃなくなってきた。だから、ここは時間を置いて、潮目を戻したい。
一方、小沢氏の方は、とにかく国会が閉幕しちゃったら、もう与党を追い込むチャンスが無い。だから、なんとか自民党をリングに上げたい、しかも相手の準備不足をつけば、一気にダメージを与えられそうなのである。

双方の思惑が交錯する中での、麻生発言である。

おそらく、麻生首相は、今年中に予算案を提出しない言い訳が欲しかったの。
だから、思わず、小沢氏のせいにしようとする。その浅知恵から出てきたのが、小沢は信用できない発言なのだ。

「信用出来ない」っていうセリフ、実はこれは、格下の相手が格上に使う言葉であり、決して逆ではない。
日本では古来、上に立つものは格下の批判をするものではない。日本文化は、鷹揚に構えるのをよしとする文化なのである。
例えば、小泉元首相、政策的にはいろいろ問題があったけど、トップとしての倫理観は持っていたように思う。
下(他者)の悪口を決して言わなかったというのだ。それは、おそらく、下に気遣ってというよりも、権力者としてのセルフイメージを本能的に守ろうとしたのだ。

しかし、麻生首相は小沢氏の計略に引っかかった。
この発言によって、麻生首相と小沢氏との力関係は逆転したと僕は見る。
これは権力争いにおける、格上・格下論理としてそうなのだ。

この状況を、国民は、辞めるの辞めないのっていう会談の中身はどうでもよくて、オスとオスの力関係と移動として、敏感に察知するだろう。

前の前の首相の安倍さんは、小沢氏に会ってもらえなくて、下痢ピーで辞めた。前の首相の福田さんも、小沢氏に振り回されて、あなたとは違うんですって言って辞めた。

さて、麻生首相は、小沢氏の次の一手にどう対応するのか。っていうのか対応出来るのか。

「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として、そして2度目は喜劇として。」とマルクスは言ったが、3度目はよりパワーアップした喜劇になるような予感もする。

まさむね

元厚生次官宅襲撃事件の結末が示唆するもの

元厚生事務次官宅連続襲撃事件が意外な結末をむかえた。
埼玉に住む46歳の独り暮らしの男が自首したのだ。

「34年前、保健所に家族を殺された仇討ちである。やつらは今も毎年、毎年、何の罪も無い50万頭のペットを殺し続けている。無駄な殺生をすれば、それは自分に返ってくると思え!」

これは、彼が自首直前にマスコミに送りつけた(と思われる)メールでの一節だ。

他人にとっては、理解しがたい苦悩、煩悶、怒りが、ばらばらになった個々人の心の中でマグマのように、それぞれ渦巻いている。
それが現代社会である。

さて、現代の格差社会は、地域と地域の間の格差ではない。より、本質的なのは、地域社会内でのコミュニティ格差である。
今、地域社会には、ヨネスケが隣の晩御飯のしゃもじを持って訪問しそうな団欒家族、木更津キャッツアイ的な仲間、そしてそれらの結びつきから墜ちた人々、この3つの階層がある。

僕には小泉容疑者が、三番目の墜ちてしまった人の一人ではないかと思えてならない。

しかし、現実的に、結びつきから墜ちてしまった人々の心情を汲み取る政治的回路が無い(彼らの心情を唯一汲み取れるのがネットか?)ことは、大きな問題だ。
小沢さんや麻生さんが、地方を回りましたって行っても、決してこれらの人々と会うことは無いだろう。
という事は、物事の重要性には気付かないだろう。

ドストエフスキーは、”一杯の紅茶のためなら世界が滅んでもいい”と記しているが、19世紀の文豪のつぶやきが、21世紀には普通の人々の心にまで浸透しているのか。
なにか手を打てば、政治は、小泉容疑者を救うことが出来たのだろうか。今回の事件が提示する問題は小さくない。

まさむね