カテゴリー別アーカイブ: 社会問題

荒ぶる神への畏れを失くしていたのではないか

この間のGW連休中に遅ればせながら伊勢神宮にはじめて行ってきた。伊勢神宮はご存知のように内宮と外宮に分かれていて、式年遷宮という20年毎の更新・再生(今で言うシステム交換)が行われることで有名だ。ここではこの式年遷宮という非常にユニークで、ある意味で今のエコ時代の先を行くような再生とリサイクルのシステム化についてこれ以上触れるつもりはないが、単なる経済合理性とは画然と異なり、人智を尽くして考えぬかれたようなその再生のシステムをあらためて凄いと思う。

ところでガイドさんのお世話になりながら内宮と外宮を参拝してまわったのだが、内宮には御正宮と荒祭宮という好対照のふたつの宮がある。これはどんな宮でも多かれ少なかれ備えているはずの、いわば神のふたつの顔、正と負、陰と陽をあらわしているものだそうだ。

この定義でいえば御正宮(天照大神)は性格的には正しき大人しき神を具現化しており、荒祭宮は躍動的で、好奇心にあふれる荒ぶる神ということになるようだ。そうしてその性格の違いから御正宮には御礼を述べること、お願いは荒祭宮にしてください、とガイドさんに教えていただいた。むべなるかな、だ。

ここから話はいきなり飛躍するのだけど、今回の震災以後の原発事故において、初動のまずさやその後に明らかになってきた新事実(?)など列挙したら霧がないのはご承知の通りだ。これ以上起こった事象などについて言及しないが、自戒の意味もこめてあらためて言っておきたいのは以下のことだけだ。

いつからかぼくら日本人の多くは経済合理性だけを追いかけるような便益に溺れてしまっていて、本来荒ぶる神が持っているようなものへの畏れや怖さ、祓い、崇め奉りのような意識を失ってしまっていたのではないかということ。

たとえば原発の是非はどうあれ、あるいはリスク管理や危機管理なんてことをわざわざ持ち出さなくても、原発という根本的にも科学的にも制御不能の怖いものを扱っているという意識がどこかにちゃんとあったら、もっと崇め奉るような厳しい意識で細心の気配りと日常の務めのなかで相対してきたのではないかと思えるからだ。ごく当たり前に。

しかし現場の意識は日用と経済のルーチンのなかにオペレーションが溶け込んで埋没してしまっていたのだろう。だからそうした日常を超えるようなことは起こるはずがない、という「想定外」の排除姿勢だけが蔓延してしまったともいえるのかもしれない。それはおそらく「侍の意識」と対極にある考えかただろう。なによりも優れた侍の特質とは平時に有事を想定できるような能力のことだと思うから。葉隠れじゃないが。

いずれにせよ、先祖返りじゃないけど、昔の日本人の多くが持っていたなにか荒ぶるものへの畏怖の意識をもう一度蘇らせることがとても大事なことのように思える。きわめて当たり前なこととして。それは津波や地震対策についても当てはまると思う。

とにもかくにも事態がいまだなんら収束の見通しが立っていないことにとどまらず、仮に終息したとしても核廃棄物処理といういまだ処理の解決メドが立っていない、手付かずの、長い長い(天文学的な?)管理が必要なことは変わらない。

それこそ荒ぶる神を崇めるような細心の意識の持続が求められるのだろう。いつまでも、気が遠くなる先まで。

よしむね

いじめ構造から逃れられない生徒たちが一斉に叫んだ高校演劇

9月に埼玉東南部の高校の演劇部が集う演劇祭に行った。
そこでいくつか見た演目のうちのひとつに強いインパクトを受けた。
だがきっと今後どこかで上演・発表されることはないだろう。それはちょっと惜しいので、ここでぜひ紹介したい。春日部女子高校演劇部の『ひまわり』という作品だ。脚本も演出も演劇部自身よるという。

舞台は高校の教室。出演者は女子ばかりだから、女子高という設定か。
大きく2つの部分からなる。
前半はいじめの場面。登場人物は5人で、仮にA、B、C、D、Eとする。
被害者Aが加害者C、D、Eからいじめられている。
BはAの友人で、Aがいじめられている境遇に心を痛めている。

 A=被害者
 B=Aの友人。後に被害者
 C=加害者(首謀者)
 D=加害者
 E=加害者

やがてAはいじめを苦にして、登校しなくなる。
すると、加害者CDEは次にBを標的にする。
いじめは構造であり要素は入れ替え可能だという説の通りに事態は進行する。
Bは加害者グループからの陰湿ないじめに耐えかねて(カッターナイフをつきつけて「死んでくれる?」と脅すおぞましい場面もある)、転校を決意する。
だが、Bが逃げおおせたとして、そのあとに残されたAにはどんな苦難が待ち受けているだろうか。
BはAに対して負い目を感じて、途方にくれる。

ここで唐突にストーリーは後半に移る。
移るきっかけは、
「はいカーット!」
という声。
舞台が明るくなり、みんなががやがやと集まってくる。
おお! 今までのお話は演劇部員たちによる稽古の場面だったのだ。
つまりいじめはすべてお芝居であり、架空の世界のできごとだった。
我々は陰湿な暴力から解放された。
一転して、笑いのある明るい世界が現われる。
でも明るいのは表面だけだった。ここにもいじめはあったからだ。
いじめ構造は説話次元をも超えて存続しつづけるからだ。
ただし世界が変わったら構造内の構成要素がシャッフルしてしまった。いじめ被害者と加害者が逆転したのだ。
劇中劇内でいじめられて登校拒否したAはここからは加害者。そして加害者の中心人物だったCは被害者であることが明らかになる。まるで芝居内容への復讐であるかのようだ。さっきまであんなに憎憎しい悪の塊にしか見えなかったCは、ここからは弱くてナイーブな少女にしか見えない。
またいじめに加担していたD、Eはここでは傍観者(という名の加害者)だ。
そして劇中劇でAをかばってその後被害者に転じたBはいじめ構造から逃れているらしい。
Bは演劇部の部長である。部を統率する役割を担っているにも関わらず、部内を蝕むいじめの存在に気づいていない。
部長がいるときは明るく活気のある演劇部だが、部長が姿を消すととたんに暴力が顔を出す。

 A=加害者
 B=演劇部部長
 C=被害者
 D=傍観者
 E=傍観者

AがCを執拗に追い詰める。
「最近ものがなくなるのよね。あんたが犯人としか思えないのよね」
傍観者たちも、そういえば自分たちのものもなくなった、と同調する。
身に覚えのない罪を着せられて、傷つくC。
Cはなぜか部長に苦難の状況を打ち明けない。たしかにいじめ被害を受ける子供がなかなか親に打ち明けられないという実態を我々は知っている。
Aが机に放置されたCの服をカッターで切り裂くシーンが痛い。
だが、とうとう部長は暴力の証拠を発見し、部内にいじめがあることを認識する。
部長はきびしく加害者Aを追及し、結局Aは反省して謝罪する。被害者は許す。部に平和が戻る。

だが劇はまだ終わらない。
部員がみんな去った部室で、ひとり残った部長がどこからか袋をひっぱり出す。
袋を逆さにすると、床に物が散らばる。傘や文房具やいろいろな小物。
「最近ものがなくなる」と彼女らが言っていた、あのものたちだ。
部長が犯人であり、いじめの元凶だったのだ。
「面白かったな!」と部長。激しく笑う。

だが、まだまだ劇は終わらない。
舞台に現れたDとE。
「あいつら面白すぎだ。あはははあは」
Cが立っている。
「悲劇のヒロインぶるの楽しかったのになあ。あんなやつ好きじゃないっての。あははははは」
Aが携帯電話で話している。
「もしもし、今部活終わった、ほんと今日はむかついた。あははははは」
全員、身をよじって激しく笑う。
そして、いっせいに独り言をいう、「あ~あ。みんな……」
舞台、暗くなる。
全員が叫ぶ、「死んじゃえばいいのに!」
幕。

破壊的な結末だ。観客はあっけにとられた。なんと加害者も被害者もみんなワルだったのか。
叫びの内容を見れば憎悪を読み取るしかないのだが、唱和の響きからはなんだかすがすがしさを感じる。したたかさ、力強さを感じる。この力強さはいじめ解決のヒントにつながるのか?
もちろん構造からは逃げられない。内部にとどまることしかできない。せめて一斉に叫んで孤立した共闘で、構造への抵抗を示そう、ということか。

TBSラジオ「ニュース探求番組Dig」で7月に「”いじめ”を構造から考える」という話題が放送された。たいへんに刺激的な内容だった。
内藤朝雄さんという学者が、明晰でラディカルな議論を展開していた。
TBSラジオの方針変更によって現在Podcastを聞き返すことができないのだが、議論の内容は自身のブログに掲載されている。「内藤朝雄HP -いじめと現代社会BLOG-」「2010-08-27 いじめの直し方」というエントリー。
内藤さんによると、学校という制度こそいじめの原因であることは、狭いスペースに長時間監禁すると暴力的な異常行動を起こすラットなどの動物実験からも明らかだという。学校を解体しない限り、いじめはなくならないのだ。
じつに

家紋主義はアーカイブの世紀における身の処し方のひとつにつながるように思うのだ

まさむねさんに「Body主義は家紋主義と対極にあるのかもしれない」というご返事の文章をいただいた。その中でまさむねさんが引用していた山田先生の「自分の仕事と家庭が流動化している現在、自分の肉体のみが、自分が生きている間続く唯一の自分の「持ち物」となる。自分が自分であるところの拠り所」という箇所。これなどは個がむき出しになっていてもはや頼るべきものがない現在のなかで、良い悪いは別にしてかろうじて自分を確認するために身体や暴力しかなくなっていることにも通じているのかもしれない。

時代はデジタル放送とか3D元年とかハイビジョンとか、とかく映像的なものが持てはやされるようなキライがなくもないが、実はその一方で今後ますます身体的なもの(取り残された身体)が横溢するシーンが増えてゆくかもしれない。マッチョや健康志向の身体ということではなく、実は身体こそもっとも不自由なもの、意のままにならないものとして再認識される可能性もあるように思うのだ。そういうものとしての身体、Bodyの再確認の必要性があるようにも思う。これはアメリカ流のBodyの文脈とは違うものとして。

それからすでに20世紀の後半以降21世紀を迎え、時代は紛れもなくアーカイブ(記憶)の世紀に入ったのだとぼくは思っている。どちらかと言うと20世紀前半からその終わり近くまでは映像の世紀(特に大衆映画とTVの登場以降)と定義できるとするなら、20世紀の最後の10年間以降からはむしろ記憶の世紀に重きが移ってきていると思う。PCや携帯電話やデジカメ等の新しいパーソナル・メディアが登場してから、ぼくらは意識するしないにかかわらず日毎夜毎に膨大なデータの蓄積と個人の履歴にさらされるようになっている。そして自分たちではその一々についてもはやどうにも意味づけできないためにとりあえずすべてを保存(アーカイブ)しておく必要性が生じてきている。

もっと大げさにいうなら、人類全体がやっぱり「われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか、われわれは何者なのか」をいろんな角度で知りたがるということ。今、世界遺産にかぎらずいろんな遺産がブームになってきているように思うのだ。仏像ブームにしろ平城京遷都1300年にせよ、環境や自然保護にせよ、いろんな履歴が横溢しているなかで、一度われわれの遺産が何だったのかを検証しておく必要性のようなもの。それが高まってきていると思う。膨大なデータ(記憶や遺産)が増えつつあるなかで間違いなくアーカイブの整理が主題になってきていると思えるのだ。もちろん個人単位を越えて、だ。

そしてそのひとつの寓話(整理整頓の手法の一つ)を汲み取るものとして、上記の風潮のなかに家紋主義が交差してくるポテンシャルがあるとも思えるのだ。まさむねさんが言うようにたしかに「日本人は代々続く家系という物語を失ったからBodyに関心を持つようになった」。また成長という神話ももはやその命脈は尽きかけている。それはそれで仕方ない。

だが、その一方でだからこそより多様なかたちで「われわれはどこから来たのか、どこへ行くのか、われわれは何者なのか」を知るための手がかりが再び求められてくるようになるとも思える。自らのクラシック(古典)や過去などの来歴を知ること。帰り道を確認するための作業として。そのすべてに答えられるわけではないけど、その一隅を照らすようなものとして家紋主義が時代に交差してくるひとつの意味がある、とぼくは思う。だからこそ、あらためて時代は家紋(家紋的なもの)を求めてきているのだ、と繰り返し言いたい気がするが、如何でしょうか。

よしむね

ますます薄っぺらになったように見える経済という魔物

最近、新聞紙上でけっこう経済が復調しつつあるような記事が目に付くようになった。前年比でやれ何%増益の企業が増加してきたとか街角景気の改善とか見通しの引き上げとか、等々。

たしかに実体経済レベルでは一時の最悪期(去年の春前後)を過ぎつつあることは事実かもしれない。ぼくが身を置いているハイテク関連業界でもかなり忙しい状況になっている。自動車業界、半導体や電子部品業界、精密機器業界、工作機械業界然りだろう。いわゆる実体経済といわれる部分については製造業という観点からみればかなり忙しくなってきていると思う。それもまるでジェット・コースターのようにダウンしたと思ったら急にアップし始めて、猫も杓子もという感じだ。ここに来て急にみんな一斉に、という感じかもしれない。
でも、果たして、と思ってしまう。これが実体というものだろうか? ある意味で実需に根ざしていると思われる実体経済がこんな風に急激に萎んだり膨らんだりするものだろうか。結局実体経済もきわめて虚の経済(レバレッジの効いたバブルチックな経済)に似てきているということなのだろうか。これがグローバルの正体なのかもしれない。悪くなるときはみんな一斉に悪くなり、良くなるときも一斉に良くなるように映って見え、世界での自動車やパソコンや携帯電話や液晶TVの売れ行きにすぐに左右され、みたいな・・・・。

結局グローバル化が進んだことで、経済というものがますます薄っぺらになり、何処も彼処も似たようなトレンドを受けざるを得なくなったということ。その意味で経済そのものに厚みがなく、奥行きや深みがなくなったのだろう。リーマンショック以後、ほんとうは従来の虚の経済から脱却しようという(それを考える)良い機会だったのかもしれないのだけど、やっぱりみんなは喉元すぎれば熱さを忘れるで、バブルチックなものが恋しいのである。というよりも裏返せば今の経済原理そのものがなにかのバブルなしには成立しにくくなっているということでもあるのだろう。麻薬なしでいられない患者たちが増えているのだ。

でも、果たしてとまた思ってしまう。リーマンショック以後の今の金融業界のみかけ上の復活って、ほんとうは証券業界が作ったジャンク債(ボロ屑と消える運命にある債券の群れ)の借金を国が肩代わりして、いっとき誤魔化しているだけじゃないだろうか。依然何も解決していないわけで、いずれこのかりそめのバブルも弾けるときが近いのでは?

今騒がれているギリシャに端を発したヨーロッパの経済危機にしても、誰かにババを引かせようとしているゲーム漬けの人たちの策略としか思えない。ギリシャだけが極端に悪いわけではない。借金漬けという意味では実体はアメリカも英国も似たようなものだ、もっと悪いだろう。だいいちユーロよりも米ドルが安全なわけがないじゃないか。
でも、まあこれくらいにしておこう。世の中が変わるときはたぶん一直線ではなく、蛇行しながら変化してゆくのだ。これは以前まさむねさんが小沢一郎について書いていた記事(1月28日)でも述べていたことと同じだけれど、ぼくもまったく同感だ。

人間はホモ・エコノミクスでもあるとおもうけど、でもやっぱり「パンのみに生くるにあらず」もほんとうだ。お金なしでは生きられないが、いかにお金や経済の起伏と上手に別れていけるかも考えていきたい、そう思う。

よしむね

デザイン立国・日本の自叙伝

かつてNHKで「電子立国 日本の自叙伝」という名物番組があった。それは20世紀の話。こちらは21世紀の架空の談義、ある昼下がりの茶飲み話みたいなもの。テーマはデザイン立国・日本の自叙伝。

A:日本はものづくり、ものづくりって過剰に言い過ぎるね。これこそ戦後の成功体験にもとづく依怙地な理屈に思えるよ。資源のない国だから技術と生産しかないっていう。確かにモノはなくならないから、ものづくりは大事だが、よく言われることだけど、生産という意味ではひとつのプロダクト(産業分野)で企業が1社から2社あればいいよ。何社もあって多すぎるよ。とにかく過剰。みんな横並びになっちゃったし。
B:じゃ、他はどうするの? 食べていけなくなるよ。
A:これから日本はデザイン立国を目指すべき。それこそ小さなもの(半導体素子)から大きなもの(家、自動車、建築)まで、あらゆるもののデザイン・設計の仕事に特化してゆけばいい。日本人のセンスとか昔からのメンタリティー、縮み志向の文化といい、デザイン精神にあふれた民族性だと思うよ。アニメもファッションも、ファニチャーもみんなデザインがベースさ。デザインはアナログに近いし、なかなか真似できないよ。
B:デザインだけでペイするかな。
A:生産での物づくりについては、世界で戦うにはもう規模のメリット(大量生産)とローコストしか将来の道はやっぱりないよ。ここはもう日本の領域じゃない。付加価値品とかいっても無理だね。いずれ必ずコモディティー化してゆく。ここで戦うのは国内1社、2社くらいでいいよ。あとは小ぢんまりとした小規模単位のデザイン集団の会社になればいい。名とか面子とかを捨てて、黒子のデザイン・コンテンツ設計集団でいいじゃないか。できるだけ身軽であることが大事だよ。
B:これからは人口も減少してゆくからねぇ。
A:そうだよ。もう人も増えないんだから、集団や組織自体はだんだん小規模化していって、その連携を心がけでゆけばいいんだ。江戸時代の「連」みたいにね。かりに売上が伸びなくても、人口減以上の売上をキープできれば一人当たりの売上高は逆に増える。それでよしとしないと。そして一個人がより豊かになればいいじゃないか。
B:うまく行くかな。
A:中途半端が一番良くない。中庸は美徳じゃない。ここは思い切りだね。うまく行かなきゃまた修正すればいい。それからデザインとあわせて観光立国を目指すべき。とにかくアジアの人たちにバンバン来てもらおう。客へのもてなしとかサービスは日本人はまだ一流だと思うからね。微妙な心遣いとか絶品だと思うよ。環境面でも清潔だし。一人一人が豊かな気持ちで良い国になれば必ず訪れてくる人は沢山いるよ。
B:デザインと観光ね。けっきょくソフトだね。
A:いや、ぼくはソフトという言い方はあまり好きじゃないな。ちゃんとハード(モノや器、土地)を伴ったソフトサービスだよ。だから両方あるさ。デザイン心あふれるモノとサービス。でも、まあ、ほどほどでいいじゃない。その意味ではやっぱり中庸か。そして坂道を上るイメージよりは、ほんの少し下ってゆくような感じかな。そういう時のほうが人に優しく気遣いできるようにも思えるしね。

よしむね

デジタルの岸辺で

ずっとずっと昔、「岸辺のアルバム」というTVドラマがあった。若い人はまったく知らないと思うのだけれど。アラ筋はいわゆる新興住宅街(番組では多摩川沿い、田園都市沿線エリア)を舞台に崩壊してゆく家族の物語だった。ドラマのエンディングはたしか多摩川の決壊で、岸辺(川の土手)にたたずむ家族たちのシーンだったように記憶している。これはこれでその後の風潮や時代性(中流階級幻想とその崩壊?)を先取りするような良いドラマ(脚本は山田太一)だったと思う。岸辺ということでたまたま思い出して書いたままで、本題とはまったく関連のない導入になってしまったようです。ご免なさい。(最初から横道にそれてしまいました。)

実は今回はちょっと「デジタル」ということについて改めて書いてみたいと思っています。製品を作る側からとその需要を探し出す=マーケティングからみての、二通りの視点で捉えた場合のデジタル時代の難しさ、タフさについて。作るという立場からみた場合、アナログとデジタル製品の最大の違いは何か。よく言われていることで、あえて今更確認するまでもないかもしれないが、ひとことで言えば、デジタル製品になればなるほどアナログよりも差別化しにくくなる、ということに尽きるだろう。

デジタル(言うまでもなく0か1の世界)はどこまでいっても金太郎飴みたいなもので、それを寄せ集めても他の製品との違いを出すことが難しいということ。だからデジタル化のことをテクノロジーの農産物化と呼ぶ人もいるようだ。つまりそれだけ作りやすくなったという意味(実際の農作物が作りやすいかは別にして)。デジタルはアナログ表現のような諧調表現(グラデーションの世界、諧調やゾーン(幅)でしか示せない?)とは基本異なる。極端な言い方をすればそこでは日本企業が得意としてきた微妙な調整(ファイン・チューニング)みたいなものがほとんどいらず、デジタル対応の部品をつないでただ製品にすればよいという話になる。

したがって製造の観点でいえば、垂直統合(何から何まで自社で抱えて生産する)ではなく、水平分業(私=設計する人、あなた=作る人というように分けて行う生産の徹底)がより適しているというわけだ。それだけ大量に作り、規模のメリットを享受する必要性も高まることになる。このパターンは米国(ファブレス、設計に特化)と台湾を中心としたアジア勢(生産)が得意としている分業の領域で、この世界の競争では日本は完全に遅れつつある。というよりも、垂直統合にも未だこだわりを捨てきれず、どっちつかずの中途半端な状態と言えようか。いかにも日本らしいが。

さてではマーケティングはどうか。正直根拠があるわけではないけれど、なんとなく直感的に思えるのは、ひとことで言えばこれも経験則に基づいたようなマーケティングがあまり成り立たず、いかに先読みするか、イチかバチか的な当たり外れに賭けるような色彩がより際立つことになる、と言えそうな気がする。

こうしたマーケティングではかえって過去の成功体験は目を曇らせることになりがちで、むしろ過去にとらわれない発想がより求められるかもしれない。製品の性能さがあまりないため、いかに安いか、そのときの需要にフィットしているか、ブランド名が浸透しているか、大量に出回っているか、それが皆に急速に広がりつつあるか、などなどのムーブメント次第の構図がより強まる、ともいえようか。どちらにせよ、たぶん年功者や成功体験者の経験知などはあまり必要とされず、かつてのストックによる知見が効かない。ある意味では場当たり的、その場をしのぐフローが肝要。薄型テレビの展開じゃないけど、ますますフラット化して奥行きのいらない社会が要請されてゆくことになるのだろうか。欲望の先読みが過大視され、経験が希薄化してゆくような社会の到来。

こうした動きが金融をまきこんである面だけ先行加速していったのがそれこそリーマンショック前の一部の趨勢だったようにも思う。そしてリーマンショック以後を見ると、さすがにフロー一辺倒のような動きにも多少見直しが入りつつあるようにも思える。だが一度加速した動きがほんとうに巻き戻されるかどうか。人は昔とった杵柄がなかなか忘れられないものだ。

人は経験によって学ぶとはよく言われたきたことだ。だが、経験によって学ぶことができなくなったらどうなるか。当たり前のことだがいつも未知のことばかりに追われることになる。これはとても疲れるし、疲弊する。経験とはその意味で人の防波堤になってくれるありがたい面もあるわけだ。だが時代はやっぱりそうした経験というものを離れて、ますます漂流しつつある、ようにも思える、おそらく。

デジタルの岸辺ではこれからもたぶん既存の多くのものが毀れ、従来の勝者をふくめて崩壊してゆく。それはそれでいい。岸辺のアルバムじゃないけど、壊れるものはやがて壊れるのだ。そしてそんなデジタル時代をむかえて、世界の中での日本の立ち位置はますます難しいものになってゆくだろう。

そういう流れのなかで個人的にはアナログへのノスタルジーはあるとしても、アナログそのものの復権を叫びたいとは思わない。ただ時代遅れの周回遅れとして、ぼくはまだ無駄な奥行きと配置にはこだわりたいと思っている。ちょうどいろんな神社でみた奥行きみたいなものに。元々生まれてきたこと自体がアナログだし。

そんなことを書いていたら、携帯が鳴った。

「もしもし、もしもし・・・・誰ですか?」

その声には聞き覚えがあった。それを思い出した。その独特の抑揚、調子、等々。

人の声と思い出すという営みはまぎれもなくアナログだった。

「いやぁー、久し振りだねぇ・・・・どう元気?」

よしむね

会社30年寿命説から考えてみる、まずもって上手に早めにリタイアできる社会にしないと、若者が仕事にありつけるデマンドバスは永遠に来ないのではないか

何かの本に書いてあったのだったか、誰が言っていたのかはわからないのだが、会社の寿命は大体30年くらいだと言われているのを聞いたことがある。会社30年ライフ・スパン説。ここでの30年とはいわゆる最盛期の時期という意味であろう。これは意外に正しい実像かなと思う。ある企業がほんとうにイキがいいのはどんなに長くてもせいぜい30年くらいがよいところだろうと思えるからだ。GMしかり、IBMしかり、マイクロソフト、アップルしかりではないか。

もちろん日本には100年企業は比較的たくさんあるし(たしか金剛組は飛鳥時代以前からだという。最近では経営破綻して高松建設に営業譲渡を行っているようだが)、絶頂期をすぎてもゾンビのようにダラダラと生き残っている企業も結構あることはあるけどね。ほんとうのしたたかな世界企業(ユダヤ金融財閥のような)はそれこそ東インド会社時代から連綿と続いていたりするわけだろうが、それは措くとして。
でもって、この30年の企業体で、これを支える年齢層といえば、理想的には、20代、30代、40代で構成されていることだろう。つまり働き盛りでフルに構成されていて、50代以上は取締役などの一部のマネジメントしかいないこと。上記3世代がフルに輪廻していき、30年一回りを回りきって会社の絶頂の寿命が尽きることが一応の理想形ではないか。こうであれば世代間格差も比較的少なく、その世代世代での良さを享受できてみんなそれなりにハッピーで終われるかもしれない。

ところが今の日本では、この年齢構成が、30代、40代、50代で限定構成されていて30年サイクルさえ回りきらずに終わっているのが実態ではないだろうか。従ってまずそこから年齢的に真っ先に弾き飛ばされているのが、いわゆる20代の若者たちだ。いつまでも彼らの多くがフリーターや派遣社員でいなければならない理由の一つと思われる。上の3世代もそれが分かっていても自分も苦しくてどこにも逃げ場がないので、そこから出ていこうとしない。この目詰まり・悪循環が続いているのが今の日本の硬直した労働市場ではないだろうか。
このあいだ年の初めということで、ある経済セミナーに参加したのだが、そこの大ホールにいた中堅以上の人たち(アラフィー世代?)、世にいう部長さん室長さん課長さんクラスのなんと多いこと! 結局新年早々こんな所に来ている彼らは暇人であり、ほんとうはやらなくても良い仕事に貼りついているだけで、彼らでなくてはできない仕事など実はもうなくなっているのかもしれない(かくいうぼくもその世代に属するのだが)。

でも仕方ないのだ。彼ら・ぼくらにはまだまだ住宅ローンも残っているし、学生の子供もいる、というわけで働かなければならない、まだ必死なのさ!ということになるのだろう。だから、しばしば言われるようにフリーターや派遣の問題とはいっぽうの若者にだけフォーカスした問題として取り上げてもあまり意味がないとぼくは思う。たしかに労働需要の広がり、長い目でみて就職の機会市場を作ることも大事であるが。
むしろ肝心なのは、若者の雇用と表裏一体となっている、いわゆる雇用の流動性を高めること、そのためには、具体的にいえば早く辞めるべき人(たとえば50代の人たち)が辞めやすい社会、早くリタイアしてもそれなりになんとか生きて行ける社会をいかにちゃんと作れるかにかかっていると思うし、その視点が抜け落ちては、いつまで立っても何も解決していかないかもしれない。特に人口も減少していく成熟社会になればなおさらのことだ。

大雑把に言えば、20代から働き始めたらほぼ30年経過して50代になった時点で、まずローン関連はほぼ誰でもが完遂できており多くのクビキから脱していること、後は中高年の多くがボランティアなどの社会参加などをしながらそれなりに自由に生きていけること、そういった多様な選択の下地ができている社会になっていることが理想だろう。
けれどそのためには日本は何よりもまだまだハウジング関連のコストが高すぎるし、ローンを返済したと思ったら、今度は中古マンションがただ同然の売却価値しかないと来ているわけだ(いつまでもフローだけの社会、ストックが効かない社会! その悪しきサイクルから抜け出せないのかな)。こうしたところから根本的にグランドデザインを書き直す必要があるだろうし、それを避けては通れないと思う。これからはいくら叫んでも有名無実の成長戦略に頼ることはできなくなるだろうから。

そういえば武家・貴族社会時代からの隠居という方法は後進に道を譲りやすくするという一面を持つ大人の知恵でもあったと思う。相撲社会では年寄りの制度もあったね。これらは畢竟広い意味でリタイアを含めての処世術だろう。やっぱり世の中を回していくという意味で社会システムをめぐる昔からの知恵は凄かったなと思う。先物取引にしても、今風のエコだってとうに江戸時代からやっていたわけだし。 
今の日本がほんとうに考えなければならないのはいかにリタイアしていくか、坂の上の雲ならぬ、いかに坂を下っていくかを上手に考えていくことに尽きるとも思うのだ。成長ではない、坂の転がり方だ。そう、もうそろそろ「頑張らなくてもいいんです」(吉田拓郎)を本当に考えていかないと。

よしむね

「世界カワイイ革命」と日本ブームについて思う

櫻井孝昌さんの「世界カワイイ革命」(PHP新書)を読んだ。この本を読むと、「KAWAII」という日本語がもう普遍語・世界標準語になっていて、生き方を代表するものとして新しい意味を担っていることが改めてよく分かる。「カワイくなりたい。カワイく生きたい。女の子の気持ちは世界いっしょだと思います。」(文中言)。そして世界中の女の子がどれだけ日本に恋しているかが詳らかにされてゆく。こうした現状をふまえての櫻井さんの要旨は明快であり、日本はこれだけ愛されているのに多くの日本人はまだ鈍感のままで大きなビジネスチャンスにつながるものを失くしていないかということである。日本にはそのためのアイコンが沢山あるのにそれを生かしきれていないということ。ぼくもこの意見に賛成だ。

以前のブログでも書いたことだが、日本人はそもそも他人に評価されることに素直に喜べないような性格の偏屈な傾きがあるようだ。というよりも、実は他者の視線を本当に感じようとしているのだろうかと疑問に思えることがある。他者の視線を感じるためには自分にもかなり自覚的になる必要があるからだ。
つまり自分がよく見えていなければならないし、自分がよく見えていることと他人がよく見えることは表裏一体だと思うのだ。しかし日本人に世界における自分という考えかたが馴染みやすいものかどうか。この問いかけに日本人のぼくらはちゃんと答えることは難しい。そもそも政治的・地理的にも長くアメリカの傘の下で暮らしてきたために、ぼくらは意志的に先導的に世界での役割について発信してゆくことに慣れていないし、日本人は世界という舞台で自分がいまどこにいて、何をしなければならないのかを問いかけることがとても苦手だと思う。

一例を挙げるなら、韓国の企業で三星電子だったと思うが、世界のある市場に製品を売る前に、ある人材を送り込んで一年間まったく自由に過ごさせることで現地に溶け込ませ、その国の文化に始まり何から何まですべてを吸収させて、その現地にあった市場戦略(販売戦略)を考えさせるという研修員プランがあるという。ここまで時間をかけて相手の国のことを研究することを日本企業(=人)はやっているだろうか。そこまで相手のことを見ようとしているとは思えない。

それよりも日本人が往々にしてとりがちな行動として、危機に陥ったときの被害者意識に基づくようないわゆるカミカゼ特攻隊に代表される、なりふり構わず自虐的に振舞うことであったりするわけだ。冷静に相手を見ながら戦略を立てることがとても不得手の国民性に思える。ほんとうに冷静に考えようとするなら、戦闘機一機が軍艦に衝突を重ねていくことは精神に基づいた行為に似てはいても、戦時指揮下における正しく汎用的な軍事行動とは言えないだろう。つまりしばしば言われることだが、日本には戦術あって、戦略なし、ということがいまも多かれ少なかれ続いていると思えるのだ。

日本のある半導体メーカがとても優れたカスタムIC製品を作ったとしよう。過剰スペックすぎて誰も必要としないのだが、上記メーカの人は機能的に最高のものであり、売れないはずがないと考える。機能さえよければ売れて当然だと考えるのだが、結局は世界市場で圧倒的に売れる製品にはならない。世界市場でスタンダードになるためには、機能以外にも、価格の値ごろ感や使い勝手の良さだったり、そのときの力関係だったり、その他様々な要因があるからだ。 
全体のバランスをトータルな視点から考える戦略が必要だからだ。日本の製造業やハイテク企業の多くは近年大きい意味でこの戦略(構想デザイン力)のなさのために失敗を重ねてきている。そうしたなかで戦意喪失し始めているのがいまの日本を取り巻く状況だと考えるのはとてもさびしいことだけれど。

戦後、焼け野原だけが残ったといわれる(もちろん戦後生まれのぼくはその焼け野原を知らない)。バブル崩壊後現在(=いま)に連綿と続く原風景も多くの日本人にとってどこか焼け野原に近いイメージを抱かせるものなのかもしれない。頼るもののない、荒れた土地。瓦礫の街。そうしたなかで、世界中の女の子だけが能動的な生き方として「カワイくなりたい。カワイく生きたい」と願いそれを実践している。人はそれを安易にロリータファッションとのみ定義づけ括ろうとして安心しようとしたりするのかもしれないが。でもこの女の子たちの感性パワーは今を生きることをめぐる結構ほんものの呼び声や価値観に近いなにかなのかもしれないとぼくは思う。
だからこそぼくら(=日本人)は愛するだけではなく、他者から愛されていることにもっと素直に自覚的になって良いのではないかとも思う。繰り返しになるが、自分のことが見えていない人は他人のことも見えないからだ。他人と自分はしょせん一緒、鏡の表裏なのである。

世界(他人)をよく見ること。その評価をふくめてとりあえずいまなにが起きているかを見極めようとすること。世界のニーズとシーズを探ること。この当たり前の原則。ビジネスの基本。せっかくのチャンスなのだから、今回の日本ブームもこの当たり前の原則から、戦略的に行動することがいま何よりも日本の継続的な国益(富)として必要なのだと思う。王道はないからだ。いずれこの日本ブームも廃れていくだろうから、そうであればなお更、この原則に何度も立ちかえることが必要なのではないだろうか。

よしむね

たしかにガラパゴス化した国で皆が子泣き爺になっているようだ

まさむねさんが「デフレを受け止めきれない僕らの近未来イメージの不在」で書いているように「事業仕分けの流れでも明らかなように、これまでの日本はあまりにも公共的なバラマキ予算で食べてきた人が多すぎたということなのである。そして、その結果としての900兆円の借金なのである。社会の役に立つ仕事をしていたと思っていた多くの”善意の人”が、実は政府に食べさせてもらっていただけの”子泣き爺”(=お荷物)だったということが白日の下にバレてしまったのだ。」という感想にはぼくもまったく同感だ。

昨今の報道のサマを見ていると、国民の側も報道する側も、税金を取られるほうも取るほうも皆が皆でまとまって、国全体がもう病的なまでにお金の取り合いのことを考えるしかないような袋小路に追い詰められているようにみえてならない。清貧の思想が良いとは思わないが、どこかに、凛として、節度あり、いわゆる自分の分をわきまえ、ほどほどを知る、という引き算の姿勢があってもいいような気がするし(この主題についてはいつかまとまってまさむねさんと一緒に考察してみたいところだ)、一方もっと大きな視点で、つねにどこかに全体最適から考えていくような発想が抜け落ちていると、必ず瑣末な論議の積み重ねで、どこにも出口のない堂々巡りに落ちてゆくことになりかねないとも思えるからだ。

そもそも事業仕分けの前半戦をわりと好意的に報道していたTV局の姿勢も、後半のいわゆる科学技術の事業仕分けに入ってきた段階で、その報道姿勢をやや批判的なトーンに変えだしてきている。ムダの一掃とばかりに、いわゆる科学のような「現在」の役に立たないものを「ムダの視点」だけで切っていいのか、将来の発展のためにはムダもまた必要なのではないかという論調だ。
だが、民放に代表されるTV局自体がいわゆる長年の電波行政の規制の御蔭で競争にさらされることもなく格段に高いサラリーを享受できてきた業界であり、まさにそれこそ事業仕分けの対象にふさわしい存在だろう。さすがに昨今は景気低迷の影響もあり広告収入の大幅な落ち込みと番組の質と視聴率の低下、ネット広告の脅威などで安閑としてはいられなくなってきているようだが。

ここで問題にしたいのは、その報道の仕方に首尾一貫したものがなく、場当たり的なことなのだ。もちろん何が正しいかは確かに誰にも分からないが、たとえば事業仕分けについていうなら、とにもかくにも、そのテーマにかかわりなく聖域なく皆の前で議論する機会になっていることは以前の政治風土よりは良しとするような一貫した評価の姿勢があってもいいし、その逆に批判し続ける姿勢があってもいい。要は、マスコミ自体にはもうまったく主体性がなく、その時々でいいといってみたり、悪いといってみたりする傾向があまりにも強すぎるのだ。近年はその傾向に拍車がかかってきているように思えてならない。
皆が子泣き爺になっているこの国で、たぶんいまもっとも必要なのは、全体をデザインする力=構想力=グランド・デザイン力なのだと、ぼくは個人的に勝手に思っている。それを愚直に発信していくような場こそが必要だと思う。なぜ日本でiPhoneが作れなかったのか。iPhoneを構成している電子部品のほとんどは日本製だったのに、というあまりにも有名な命題・疑問。その答えもまたあまりにもしばしば言われすぎていて、今更繰り返してもしょうがないかもしれないが、日本にはそれを作りあげる構想力を持った人がいなかった、アップルのスティーブ・ジョブスがいなかった、というのがその一番の答えだということに尽きるだろう。

科学技術の事業仕分けに遭遇して、大学の総長たちが集まって危機感の表明会見を行おうと、ノーベル賞の学者先生があつまって反対意見を述べようと、そこに欠けているのは、ではあなたたちは大学教育をどう考えているのか、どうありたいのですか、技術立国というなら、あなた方はそのあるべき姿についてどうデザインしているのか、まずそれを大上段に愚直に常日頃から発信してほしいということだ。その一環で予算削減について批判的に述べるのならそれはそれでいい。だが、ぼくらの目に映るのは、まずもって「これ以上削られたらもう大変なんだ、大変なんだ、競争できなくなるんだ」という大合唱の光景のようにしかみえない。これで生活している研究者たちの暮らしをなんとか支えてほしいという願いが透けてみえるようで悲しい。科学する心の大切さを漫然と話されても心には響かないのだ。
そもそもの何の疑いもないかのように、日本を技術立国と呼ぶこと自体があやしいものだとぼくは思っている。技術立国と呼んでいるその根拠について話せる人がどれだけいるのだろうか、なにをもって技術立国と定義しているのか。ハイテクの先端である半導体や液晶ディスプレイ産業を例にとるなら、製造業としての日本はもう上位の座を韓国、台湾のメーカーに奪われており競争力を失って久しい。携帯電話然り、PC産業然りである。かろうじてその川上に位置する部品産業はまだ競争優位を保っているようだが、需要の盛衰という意味では完全に新興国であるBRICs頼みの構図となっている。

ニホン人の多くが日本でしか通用しない規制に守られて、日本というガラパゴス島のなかで独自の進化を遂げ、独自になんとか生きてきたが、今、それが壊れつつあり、多かれ少なかれみんなが子泣き爺と化して既得権益にしがみつこうとしているのだ(悲しいかな、ぼくもその一部に含まれているのだろう。)
かつて幕末の志士たちにはなによりも次の時代をどうしようかという構想力があったと思う。それがいいか悪いか、正しいか正しくないかは別にして。デザイン力だけはみずみずしいまでに溢れていたと思うのだ。今の日本にはそれがない、というのはとてもさびしい。ものづくり、よりは、むしろデザイン力の復権こそ、とぼくは言いたい。

よしむね

孤独死は本当に悲惨?-水曜ノンフィクションを見て-

今週の水曜日の「水曜ノンフィクション」で孤独死がテーマになっていた。

都会の団地で一人暮らしのお年寄りが亡くなる。
一人暮らしだから、すぐには分からなくて、ひどい場合だと数年位経ってから白骨死体になって発見されるという。

番組では、残された遺品を整理する専門業者を密着取材。
さらに、常盤台団地の、一人暮らしの老人を対象とした「気兼ねなくコミュニケーションできるサロン」、すなわち孤独死予防センターの活動も紹介していた。

孤独死する老人は悲惨だから、地域の人々が新たなコミュニティを作らなければならないのでは...という結論。

でも、実のところ、僕には違和感を禁じえなかった。

おそらく、そういったボランティアをされている方々は全くの善意の人々なんだろう。
その活動というのが、一人暮らしの老人のところに、突然「ピンポーン♪」って押しかけて、「最近どうですか」とか話かけるのだ。

いきなり来られて、嬉しい人もいるかもしれないが、自分だったらどうだろうかと考えてしまった。
とりあえず、作り笑いをして、「大丈夫です。ありがとうございます。」と言って、その場を取繕うに違いない。
それは、僕がまだ「孤独」ではないからそう思うのだろうか。

さらに、そういったボランティア達は、一人暮らしの老人の電気メーターの回り具合や、洗濯物、郵便物までチャックして下さるそうだ。
なんて、ありがたい事を(笑)。
    ◆
これは僕の想像だけど、孤独死する人って、多くは突然死だ。
寝たきりで一瞬でも治療を怠ったら死んでしまうような人は、介護スタッフが巡回しているだろうし、それどころか入院している。
とりあえず、一人暮らしの老人っていうのは、健康上、そこまでの状態ではないんだと思う。
それが風呂とかに入っていて、突然、脳梗塞とかで亡くなってしまうのである。
そして、誰にも気づかれず...というパターンが多いのだと思う。

でも、ちょっと待って。
都会の団地の孤独死というものが、本当に一番、悲惨な死に方なのだろうか。
    ◆
思えば、昔から、日本には「ぽっくり寺信仰」というのがあって、突然死への切なる願いがあった。
例えば、八王子の龍泉寺にはぽっくり観音というのがあるらしい。

この観音様に祈願すると、下の世話にならずに、寝込むことなく、寿命の尽きる時まで健やかに暮らすことができると言い伝えられています。

ようするに、これは、みんなに迷惑をかけながら、毎日痛い思いをしながら、病床で寝たきりになるよりも、ぽっくり死なせてほしいという信仰。
僕は、それは、極めてまっとうな信仰だと思う。

勿論、孤独死でぽっくり死なれても残された団地の人々は嫌な思いをするだろうけど、それは仕方ないと諦めるしかない。
ちょっと言い過ぎかもしれないけど、極論すれば、死んだ者勝ち。

それよりも、20世紀末から3万人に増えたまま一向に減らない自殺。
その中でも、女性の自殺のほとんどが病苦によるらしい。
ずっと前に、自殺率が高いどこか田舎のある地方での老婆の病気>欝気味>自殺の流れに関するドキュメンタリがあったんだけど、そんな老婆の多くは、家族と同居している老婆だった(ように記憶している)。

ここからは、あくまでも想像上の話なんだけど、昔ながらの家族意識が強い地域で、家族の中でなんとなく疎外感を感じてるんだけど、愚痴も言えなくて、自分の中にいろんなものを抱え込んでしまった老人が、病気になって、さらに落ち込んで、それでも、お金が無くて別居したいとも言い出せなくって、そして追い詰められて自殺しちゃう。
でも、世間体があるから、自殺ってことじゃなくて病死ということで近所に伝えて処理されちゃう。
そして、残った家族はなんとなく、ホッとする。

こういう死の方がよっぽど、孤独だと思うのは僕だけでしょうか。

逆に長年一人暮らしの老人の方が、孤独に慣れていて、自分自身の趣味を持ってさ、今更、みんなでコミュニティでフラダンスなんて勘弁してほしいって思ってるんじゃないか。
ましてや、毎日、郵便物なんて覗かれたくないってね。
勿論、これはあくまでも僕の想像だけどね。
    ◆
孤独死というドキュメンタリを作るのは結構だ。
でも、都会>団地>一人暮らし>突然死>悲惨という紋切り型の不幸をなぞるだけじゃ本当の事は見えてこない時代なんじゃないかな。
視聴率を気にする以前の問題である。

まさむね