「キュレーションの時代」を読む

著者の佐々木俊尚氏は過去に「電子書籍の衝撃」(ディスカヴァー携書)や「グーグル」(文春新書)などでも時代の先端を読み解く作業をされてきたが、本書「キュレーションの時代」(ちくま新書)ではそうした一連の流れをうけてこれからの未来社会へ向けたより突っ込んだご自身の考えを披瀝しているようにも思う。一個一個の時代の先端の読み解きも面白いが、ここでは筋立てて細かには紹介しない。ぜひご一読いただければ。

ぼくが一番興味深かったのは、これからは「もの」から「こと」へ着実に転換がなされてゆくということを述べられていた箇所。なぜアップルのiPhoneが受け入れられたか、それは「こと」をムーブメントとして提示できたからという論拠がかつて「電子書籍の衝撃」のときにもなされていたように記憶しているが、本著でもその主旨は変わらない。まったく同感。「もの」にこだわりつづけて、iPhoneを生み出せなかった日本メーカーには辛い話だ。

同様に利休の茶が優れているのは徹底的に「こと」=行いをめぐる場の共有にあったからというような論旨。これもまったく同感だ。茶とは主客が協働で作り出すものであって、どちらかが主役、一方的な提供者ということはありえないと思う。
いずれにせよ、モノさえよければいいと思って、いつまでもモノづくりの視点だけにこだわっている日本企業の先は衰退が待っているしかない。今回の震災以後の風潮は明らかに戦後の高度成長から低成長をへて今にいたる日本の単一的なモノづくり謳歌の時代が終わりを迎えつつあることを示唆している。

もう「モノ」から「コト」への動きは確実に生まれてきていると思う。若い人たちのボランティア活動然り。やはり単なる「モノ」と「カネ」を越えて「コト起こし」へ向かわなければ大きな変革には結びつかないだろう。
それから最近のSNSであれ、ツイッターであれ、フェイスブックであれ、それが優れているのは、なにかの占有ではなく、視座の提供にあるというような視点も大変興味深いとおもう。車座といってもいい。ぼくも最近ツイッターを遅ればせながら始めているが、やはり面白い。

情報の水平展開とヒエラルキーの崩壊のなかで、たしかに正しいかどうかなどの情報自体の信憑性の危うさはあるにしても、起点において誰でもが同じ地平でかつ横展開で情報を発信・受信できるという公平性がいい。なによりもそこからの座の広がりの可能性。
その意味でもはやプロもアマもない、というよりも特権的な立ち位置での情報のプロフェッショナリティーは死んだのだと思う。もともとそれは虚飾の像にすぎなかったともいえるが(いわゆる朝日新聞、岩波文化に代表される知的エスタブリッシュメント)。

フランスの思想家フーコーではないが、人は外(部)の力とかかわってゆくことで変化してゆく生き物であり、その意味でも上記のようなムーブメントをむしろ積極的に見てゆきたいというのが今のぼくの考え方、スタンスでもある。
最後に本書のタイトルであるキュレーションとは何か。それは「ひととひとのつながり」を作る、そのリレーションシップの共有以外のなにものでもないと思う。
興味のある方にはぜひ一読をお奨めしたい一書である。

よしむね

桑田佳祐の歌は月の人の歌である

以前(今年の1月1日)本記事中で桑田佳祐は月の人でないかと指摘させていただいたことがある。以下はまさむねさんの記事にそのとき書かせていただいたぼくのコメント欄中のことばです。

「桑田さんは海や夏を歌った歌が多いわけですが、「太陽」よりも、実は「月(ムーン)」の人だと思いますね。家紋もそうですが、桑田さんにおける日本の花鳥風月の歴史的な伝統との関連性を考えるのも面白いと思います。彼の歌にはある種新古今や現代の定家につながるようななにかがあるかもしれません」

この思いつきは今も変わらない。月のひとというのは基本的には主体の明るさで動くよりも、その反映や情緒や機微に感じ入りながら動くひとといったほどの意味だ。たぶん日本人の多くが本来持っている機微に通じるようなもの。

この2月に出た新譜MUSICMANにはまさに桑田佳祐が月の人であることを裏付けるような、どんぴしゃな歌があったので、それをご紹介したいと思う。きっとご存知の方も多いはず。
本来もっと早く取り上げるつもりだったのだが、地震だ・なんだですっかり遅れてしまいました。以下歌詞全文です。題名もそのものずばり。
この曲をたまたま震災後に聴きなおす機会があったとき、不覚にもぽろりとしてしまったものだ。

  
月光(ミスター)の(・)聖者(ムーン)達(ライト)  

夜明けの首都高走りゆく
車列は異様なムードで
‘月光(つきあかり)の聖者(おとこ)達(たち)‘の歌が
ドラマを盛り上げる

知らずに済めば良かった
聴かずにおけば良かった
「人生はまだ始まったばかりだ!!」って
胸が張り裂けた

ひとりぼっちの狭いベッドで
夜毎涙に濡れたのは
古いラジオからの
切ない‘Yea(イエ)h Yeah(イエ)の歌‘

今はこうして大人同士に
なって失くした夢もある
時代(とき)は移ろう
 この日本(くに)も変わったよ
知らぬ間に

二度とあの日の僕には
戻れはしないけど
瞳(め)を閉じりゃ煌めく季節に
みんなが微(わ)笑(ら)ってる

ひとりぼっちの狭いベッドで
夜毎涙に濡れたのは
ビルの屋上の舞台(ステージ)で
巨大(おおき)な陽が燃え尽きるのを見た

現在(いま)がどんなにやるせなくても
明日は今日より素晴らしい
月はいざよう秋の空
‘月光(ミスター)の(・)聖者(ムーン)たち(ライト)‘
Come again, please

もう一度抱きしめたい

たしかに陽は燃え尽きつつあり、誘うのは秋の空にちがいない。
月の人の面目躍如の歌詞だと思う。そして月光の聖者たちへの桑田佳祐一流の応援歌でもあるのだろう。

(歌詞のURLはこちら )

よしむね

荒ぶる神への畏れを失くしていたのではないか

この間のGW連休中に遅ればせながら伊勢神宮にはじめて行ってきた。伊勢神宮はご存知のように内宮と外宮に分かれていて、式年遷宮という20年毎の更新・再生(今で言うシステム交換)が行われることで有名だ。ここではこの式年遷宮という非常にユニークで、ある意味で今のエコ時代の先を行くような再生とリサイクルのシステム化についてこれ以上触れるつもりはないが、単なる経済合理性とは画然と異なり、人智を尽くして考えぬかれたようなその再生のシステムをあらためて凄いと思う。

ところでガイドさんのお世話になりながら内宮と外宮を参拝してまわったのだが、内宮には御正宮と荒祭宮という好対照のふたつの宮がある。これはどんな宮でも多かれ少なかれ備えているはずの、いわば神のふたつの顔、正と負、陰と陽をあらわしているものだそうだ。

この定義でいえば御正宮(天照大神)は性格的には正しき大人しき神を具現化しており、荒祭宮は躍動的で、好奇心にあふれる荒ぶる神ということになるようだ。そうしてその性格の違いから御正宮には御礼を述べること、お願いは荒祭宮にしてください、とガイドさんに教えていただいた。むべなるかな、だ。

ここから話はいきなり飛躍するのだけど、今回の震災以後の原発事故において、初動のまずさやその後に明らかになってきた新事実(?)など列挙したら霧がないのはご承知の通りだ。これ以上起こった事象などについて言及しないが、自戒の意味もこめてあらためて言っておきたいのは以下のことだけだ。

いつからかぼくら日本人の多くは経済合理性だけを追いかけるような便益に溺れてしまっていて、本来荒ぶる神が持っているようなものへの畏れや怖さ、祓い、崇め奉りのような意識を失ってしまっていたのではないかということ。

たとえば原発の是非はどうあれ、あるいはリスク管理や危機管理なんてことをわざわざ持ち出さなくても、原発という根本的にも科学的にも制御不能の怖いものを扱っているという意識がどこかにちゃんとあったら、もっと崇め奉るような厳しい意識で細心の気配りと日常の務めのなかで相対してきたのではないかと思えるからだ。ごく当たり前に。

しかし現場の意識は日用と経済のルーチンのなかにオペレーションが溶け込んで埋没してしまっていたのだろう。だからそうした日常を超えるようなことは起こるはずがない、という「想定外」の排除姿勢だけが蔓延してしまったともいえるのかもしれない。それはおそらく「侍の意識」と対極にある考えかただろう。なによりも優れた侍の特質とは平時に有事を想定できるような能力のことだと思うから。葉隠れじゃないが。

いずれにせよ、先祖返りじゃないけど、昔の日本人の多くが持っていたなにか荒ぶるものへの畏怖の意識をもう一度蘇らせることがとても大事なことのように思える。きわめて当たり前なこととして。それは津波や地震対策についても当てはまると思う。

とにもかくにも事態がいまだなんら収束の見通しが立っていないことにとどまらず、仮に終息したとしても核廃棄物処理といういまだ処理の解決メドが立っていない、手付かずの、長い長い(天文学的な?)管理が必要なことは変わらない。

それこそ荒ぶる神を崇めるような細心の意識の持続が求められるのだろう。いつまでも、気が遠くなる先まで。

よしむね