当たり前にリア充するために、・・・

神谷さんの「ゴールドマン・サックス研究」を読んで、前回に続いての感想。神谷さんの指摘にぼくもまったく同感なのだが、たとえば以下のような結論。

① ゼロ金利を続けても意味がない。そこで余ったお金はただ国債やその他債権などの買いに使われているだけで、資金を必要としている民間に回っているのではない(これはいまの世界の金融市場でも同様)
② 長い間のゼロ金利施策によって民間からの収奪(民間貯蓄からの所得移転)が起こっただけ。そのお金の使い道の大半は上記の通りで、あとは銀行等の不良債権処理に使われただけ
③ その結果といえばこの20年間で日本のGDPは470兆円でほとんど変わらず、ただ借金が増えただけ、GDPの2倍の借金になり、元との比較では3倍になった、等々。

じゃどうするかといえば、まず当たり前のところに戻すしかないと思う。適正な金利に戻すこと。その過程でいろんな取捨選択が起こり、振り落としが起こるかもしれない。でもそれは仕方がないと思う。
いま問題なのは一億総助け合い・相互互助的になって共倒れしそうで誰も先頭に行きたがらずリスクもとりたがらず、無責任にみんなで負債の先送りをし続けているとしか思えないことだ。多少リスクをとってでも投資をしたい人はそれを行い、利率を上回るリターンを目指すように頑張る風土にすることは必要だろう。それが健全だと思う。だから例えばただ利息が低いからというような理由で家を買うというのは本来間違っているはず。買える人が買えばいいのだ。そこに冷たいルールがあるとしてもそれは自己責任だから仕方ないだろう。
民主党に多少なりとも期待したことがあったとしたら、そういう当たり前のことに転換する道筋をつけてくれるかもしれない、との思いがぼくなりにあったからだ。でもどうやらそれは徒な期待に終わりそうだ。民主党も所詮は人気取り優先でかつて来た道の按分(富もないのに再配分をやろうということ)をただひた走ろうとしているようだ。
いまがどういう時代で、これからどうなるのかは分からないが、まさむねさんがエントリー記事で言っているように各個人がリア充を図ってゆく時代になるのかもしれない。以下その抜粋。
「例えば、今の若者の間には、「リア充」という言葉がある。それはリアル社会で充実している人々という意味らしいのだが、その充実の要素には決して、出世や物欲などは含まれてはいないという。それよりも、友達と楽しく時を過ごすセンスの方が大事だというのだ。もしそれが、次の時代の日本社会の価値観だとするならば、それはそれで、決して住みにくい世の中ではないのではないか。」

ぼくもそう思う。だが、そういう若者たちが当たり前に暮らせるようにするためにも、せめて負債(借金)の世代間押し付けだけは止めておかないといけないだろう。自分たちが使いたいだけ使って贅沢して、後の借金は君たちが払えというのはあまりにも虫が良すぎると思うからだ。これはわれわれみんなへの自戒。当たり前に貧しくなっていく(お金を切り詰めてゆく)ことに慣れてゆくことも大事だろう、楽しいことは楽しみながら、だ。

よしむね

あらためてマスコミの報道劣化を思うこの頃

神谷秀樹さんの「ゴールドマン・サックス研究」(文春新書)を読んだ。著者は元ゴールドマン・サックス証券の社員でその後独立して会社経営を行っている方で、その他の著書では「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(文春新書)、「強欲資本主義を超えて 17歳からのルネサンス」(ディスカバー携書)などの本もある。いずれも底流で共通している認識は、いわゆるリーマン・ショックに至る一連の金融危機は実業が必要とする以上にお金が溢れてしまった状況(過剰流動性)のなかで、やがてお金がお金のための増殖に向かった結果起こるべくして起こった事件=危機であり、その後なんら本質的な解決がなされないまま次の崩壊に向かっているという苦い認識だと思う。
これは比較的つい最近まで金融に身を置いていたぼく(今はそういう意味では実業に移ったが)も同じくする考え方だ。いわば金融業界が壮大な詐欺まがいのことを行っていたのだが、胴元の張本人たちはその責任をとらず(小粒のリーマンが潰れたりはしたが)、国がいまなお膨大な借金の肩代わりを行い、さらに言えばそのツケを各国の国民が負わされてしまっているという構図。広い意味でギリシャ危機もそうした連鎖の一つだと思う。
そのような結果としてたとえば神谷さんの目に映るアメリカの現状は次のようなものだ。以下本文から抜粋する。

「自動車産業の中心だったデトロイト市では人口が200万人から80万人に激減した。・・一軒家の平均価格が1万5000ドル。それでも買い手が現れない。カリフォルニア州の市には、自前の警察を維持できなくなり、これを廃止し、手数料を支払って隣の市の警察に警察業を請け負ってもらうところも出てきた。ハワイ州ではとうとう学校を週4日制にしなければならないという(最近ぼくは夏休みで行ってきたばかりだ!)。私が住むニュージャージー州でも、校長と教頭と二人居るところは一人にするという発表があった。ごみの収集日も減った。・・・」

これは神谷さんの目に映っている日常茶飯のアメリカの実情だろう。だがこうした実情をめぐる報道は今の日本のメインのニュース番組ではおそらく決して流されることはない。一時住む家を追われてテント暮らしをしているアメリカ人たちの様子をTVで流していた時期もあったが、今はまったく報道されなくなったといっていいだろう。何も終わったわけではないのだが。
ここにはアメリカからの報道当局への無言?の圧力規制やスポンサーの意向などもあるかもしれない。あまりネガティブ報道をしてくれるなといったような・・・。それよりも、喉元を過ぎれば熱さを忘れるで、もう次の成長ネタを探すことに新聞もテレビも興味の主力が移っているように見える。
やれ中国や新興国の需要を取り込め、次の市場と成長に遅れるな、日本が遅れつつあって取り残されてきている、それもこれも構造改革をしないからだ、なんだかんだ、etc.・・・・。特に日経新聞の論調などによると資本市場は一貫して正しく、それに乗り遅れているのは日本がいわゆる古い体質を払拭できず、構造改革を行っていないからだということになるのだろう。
だが、はたしてそうなのだろうか。それよりも論調以前の対応として、上記のような金融に翻弄された結果として当たり前の辛く厳しい生活の実態や事実をまず継続的に報道することからすべては始まるのではないか。そうした事実の提供を受けてそのあとどう考えるかは各自の自由だ。
そのような先ずもって手つかずの報道を行わないとしたら、どこに時事を担うマスコミの本分があるのだろう。いまのマスコミはなにか非常に見えにくい形で上手に統制がとれているようだ。まるで戦時中の大政翼賛会のよう。報道しないということにかけてはどの新聞社もテレビ局も同じように見える。あるいはその逆もある。小沢一郎を叩く時の姿勢などはどれも一様だ。
ぼくが高校生の時にベトナム戦争が収束したのだけど、あの当時のマスコミにはもっと各社各様の報道姿勢の違いがあったように記憶している。政府寄りであろうとなかろうと、いろんな見方の提示があったと思うのだ。なによりも直接現場に行って見て報道しようという姿勢がまだ強く残っていたと思う。
だけど特に湾岸戦争からいわゆる9.11以後、イラク、アフガニスタン紛争にしても肝心のことはまったく報道されなくなったように思う。ニュースソースがCNNやブルームバーグやロイターなどのお抱え通信社?に限られて、どこも独自ルートでの聴取がなくなり、結果「同じ報道」になっているように見えて仕方がない。少なくとも日本が劣化しているというなら、同じようにいやそれ以上に報道とマスコミが劣化しているのだと思う。
TVの番組といえば吉本の芸人を使ったお笑い番組が席巻するかあまり予算のかからない旅番組や料理番組ばかり。新聞記事もいつも同じ市場と成長と構造改革のテーマのくりかえしだ。しかも自由でなければならないマスコミのはずが、まさむねさんも以前指摘していたことだけど、既得権益に守られている自分たちのことはその歪みや問題点としては決して取り上げることはない。だいいちTV局と新聞社が未だに同じ資本系列でつながっているなんてマスコミ本来の役割である中立の視点からいってもあってはならないことだろう。
加えてマスコミの姿勢は起こったことについては過去のこととしてそれ以上考えさせまいとし、たえず目先のこれからばかりに話題をすり替えてゆくだけのように見える。鮮度が大事。それと一斉に同じテーマでの報道という意味では、最近では地球温暖化であり生物多様性ということになる。これも不思議でしょうがない。みんな実際に見て事実の検証をしたわけでもないだろうになぜ同じ報道のテーマになるのだろう。陰謀論は好きではないが、なにか陰でそれを煽りたがる一つの意思が働いているとしか思えない。
現代がますます差別化しにくく金太郎飴的になっているのだとしたら、マスコミもその例外ではない。もっと加速しているとも言える。少なくとも今のマスコミ(TV局や新聞社)はオピニオンを形づくるだけの品位も知性もすでに喪失しているのだと思う。
さらに言えばまさむねさんも以前のエントリー記事で書いていたことだけど、その国の政治とはけっきょく民度以上のものにはならないということにも通じるのかもしれない。けっきょくそういうマスコミになってしまっているのはぼくらの民度がそうさせてしまっているということでもあるのだろうか。とても残念なことだと思う。

よしむね

安室も浜崎も宇多田も平原もみんな戦う女戦士のようだ

平原綾香のコンサートに行ってきた。たしか新世界ツアーと銘打たれたもの。ご存知のとおり彼女の歌はクラシック原曲をベースに独自の歌詞をつけて歌ったものが多い。改めて思ったのはとにかく歌がうまいということと、その圧倒的な音楽力のセンス。

これはぼくら70年・80年代にその青春を過ごしたものからすると、明らかに圧倒されることだ。まさむねさんが「動物化するポストモダンは尖閣事件以降も有効か」のエントリー記事で取り上げていたことだけど、動ポスの認識では現在は大きな物語が終わったあとの時代に位置するということになる。大きいか小さいかはべつにして、たしかに70年代・80年代にはスター歌手たちの登場にもまだ物語(虚構のヒストリーが必要とされた)があったと思う。

おそらく山口百恵なら家庭的に不幸な少女で多感な大人びた女という物語を生きなければならなかったし、松田聖子はまさに80年代初頭という軽さとポストモダンと新人類が喧伝され始めた時期にブリッ子という物語を演じてみせていた(そして今はひとり頑張って生きてゆく大人の女という物語。もう現役という意味では松田聖子くらいしか残っていないから持続する物語としてこれはこれで僕は共感するのだが)。

でも安室奈美恵にも浜崎あゆみにも宇多田ヒカルにも平原綾香にもそういった意味での物語はない。というよりも多分必要ないし、もう時代がそんな仮構の物語を必要とはしなくなったのだと思う。何よりも彼女たちは歌唱力(いわゆるヘタな歌手はひとりもいない)が抜群だし、表現力も才能も豊かであり、みんな天才だし、言ってみれば音楽そのものだけで佇立していると思う。

その佇まいはどこか戦う女戦士(美少女の)を思わせさえする。現代版ジャンヌ・ダルクといったら大げさだろうか。どこか孤高で孤独で少女っぽくかつ近寄りがたく、でも本人はみんなへのメッセージのために歌うというみたいな・・・。

そこにあえて物語を上げるとすればそれは場末のストリートと直結しているということかもしれない。どこかの街角、そこで偶然に出会い、あるいはそこに落ちてきた落胤たち、というような無数の背景と履歴をひめながら。唯一いま物語になるとすればストリートが一夜にして生み出した歌手というようなことかもしれない。これも音楽会社の戦略なのかもしれないけど。宇多田はお父さんや母親がミュージシャンであり歌手だから二世の物語もあるかもしれないが(平原はお父さんがジャズ奏者?)、宇多田の場合お母さんの藤圭子が演歌歌手だから必ずしも踏襲の物語ではないだろう。それよりもむしろ圧倒的な天才性か。

彼女たちがこれからどこへ向かうのか、僕は知らない。でももう大きな物語を持たず、持つことができず、ひとりひとり歌っている彼女たちに声援を送りたいと思う。やはり音楽(歌)で佇もうとしているその姿勢は素晴らしいのではないかと感じるからだ。

よしむね

「工場夜景クルーズ」とかけて「恐竜展」ととく、そのココロは「終わりをめぐる物語」かな

この8月、9月とそれぞれランダムだったのだけど、週末に工場夜景クルーズと恐竜展に行ってきた。工場夜景クルーズは以前から興味があり、一度行きたかったもの。横浜の赤レンガ倉庫脇の桟橋から出航して京浜運河地帯を周航するコース。化学コンビナートのプラントやLNG基地、オイルターミナル、発電所などを経巡りした。

乗船している客も多く、カップルたちだけではなくて、いわゆる家族で来ている人たちもふくめて、それこそ老若男女。幅広い人気を窺わせた。たしかに夜の湾岸にうかぶ工場群は幻想的でどこか未来的・SF的な映像の乱舞に見えた。配管が剥き出しになった光景などは一番イメージに近いのはSF映画「エイリアン」のギーガーが製作した無機的な(有機と無機の混合のような異種たちがかもし出す)映像風景かあるいは塚本晋也監督の「鉄男」の風景に近いかもしれない。

一方の恐竜展は六本木ヒルズの森アーツギャラリーで開催されていたもの。こちらは子供を連れた家族中心でかなり混雑・盛況だった。恐竜には個人的に興味があり(僕が子供のころ、ご多聞に洩れず恐竜のフィギュアを集めたものだった、ゴジラとか全盛だったし)、地球最古の恐竜展というネーミングにもひかれて行ったのだ。展示自体はすこし期待はずれだったが(CGやフィギュアが多く、化石がやや少なかった印象)、まあよしとしよう。
この二つに行ってみてから後日改めて思ったことがある。それは二つの共通項だ。どちらも終わりをめぐる物語だということ。無人の工場はいってみればモノとしての終極のすがただと思う。僕らが夜景の工場群を幻想的だと思うのはそれが昼の労働や機能・実用性から離れて浮遊していっていわば最終のモノそれ自体になってしまったからだと思う。

有機をはなれて無機的なモノになってしまうと逆にすべてのものが妙に美しく幻想的にみえるから不思議だ。フロイトならばそういう無機的なものへの憧れの傾向を死への衝動というらしい。だとしたらぼくら都市生活者である現代人は多かれ少なかれ死の衝動を秘めた人たちということになるのだろうか。
それから恐竜展についてもそれがこんなに根強い人気がある(夏休みというとどこかで恐竜展のたぐいをやっているように思うのだが)のは、恐竜という、かつて最強だったものが滅びて今はいないという、これもまた終わりを秘めた物語だからではないか。そこにぼくらはある種の郷愁のようなものを感じるのではないだろうか。

しかもその物語はさらに色付けされて最強伝説の物語になっているのだ。時は三畳紀の古代、ある夏の日に幅10キロメートルの隕石がメキシコ湾、ユカタン半島沖に落下。それが引き金となって巨大な天変地異となり、恐竜が絶滅したという。驕れるもの久しからず。地上最強といわれたティラノザウルスも滅びぬ。最強のものもいつか滅びる(終局が来る)というこの手のストーリーは延々とハリウッド映画でも踏襲されていることは言うまでもない。

さてこうした企画がぼくを含めてたぶん多くの人に人気があるのはどうしてなのだろう。別に答えがあるわけじゃないのだけど、僕なりにひとつ思えるのは今の多くの日本人たちが終わりを見たがっているんじゃないだろうかということだ。あるいはなにかの終わりに自分たちの履歴を重ねたがっているのかもしれない。

失われた10年とも20年ともいわれ、平成ダラダラ不況が続き、いつ何かが始まるのか終わるのかがまったく見えなくなった時代。混迷の果てがわからなくなった時代。せめて心情的にだけでもなにかが終わるということをこの目で見届けたいのではないか。そんなことをふと思った次第。まわりはもうすっかり秋の夜長になってしまったなあ。恐竜も遠くなりにけり、か・・・・。

よしむね