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夏のアニメ③「火垂るの墓」の蛍火はたぶんいまもどこかの濡れた草露につながっているのだ

 人それぞれにその人に固有の年中行事がきっとあるだろうと思う。ぼくの場合、一年の終わりにはかならず観たいビデオがあって、たとえばそれは「ゴダールの映画史」になっている。多少の例外はあるけど、大体かならず年末になるとそのビデオ作品を引っ張り出してきて観て来た。あるいは夏になると一回は山下達郎の歌を聞きたくなるといったようなことだ。それは自分にとってのある種の儀式のようなもので、それをしないとどこか落ち着かないといったようなところがある。

 それはさておき、標題のアニメ「火垂るの墓」である。あえて夏アニメと限定すべきアニメでないことは重々承知しているが、特に蛍が出てくる季節性からそう言ったまで。ぼくの夏アニメと銘打った特版のこれが最後となります。
原作は野坂昭如氏の同名小説で、あまりにも有名な有名すぎるアニメといってもいいだろう。1988年、スタジオジブリの制作で監督は高畑勲さん。アニメ版以外にもテレビドラマ版、実写映画版もあるらしいが、いずれもぼくは観ていない。このアニメについては以前あるラジオ番組の女性パーソナリティーの方が自分にとってとにかくアニメの中でのベストであり、何度見てもかならず号泣してしまうと言っていたのを聞いたことがある。

かようにもおそらく多くの人たちがある場面ではきっと涙するだろうし、たとえば包帯姿の母親が出てくるシーンがあるのだが、そのリアルな描写の持つ衝撃度の深さや、物語がおのずから負ってしまっているような言い様のない切なさのようなものをふくめて、作者の意図がどうあれおそらく多くの方が静かに戦争への否を歌っているアニメの代表として取り上げていることにも異論は少ないだろうと思う。

夏になるとTVでも何度か放映されていたように記憶しているが、じつはぼくはちゃんと観てこなかった。今回あらためてビデオを借りてきて観なおした。その悲惨さや戦争の酷さや醜さとか、そういう視点での評価はたくさんなされて来ていると思うので、ここではそういう観点ではあまり触れるつもりはない。むしろ今回の3.11以後との絡みで気になったことを中心に少し書いてみたい。

ひとつ目は、本作品にも出てくる戦中戦後の焼け跡の景色が、あらためてまさについ先ごろの3.11後の被災地の風景と重なることだ。戦後生まれが多くを占めるにいたった現在、ぼくらの大方にとってどれだけ戦後の焼け跡の光景がリアルに感じ取られていたのか、多くの敗戦体験や言説が語られてはきたが、その実は極めてあいまいになっていたようにも思うのだ。それがこのたびの津波の後の根こそぎの無の光景は、まさにぼくたちに焼け跡の何もない光景がどういうものだったのかをまさにリアルに突き出してきた(だからみんな言葉を失った)のだと思う。

第二の、あるいは第三の、敗戦と形容される所以でもあろう。では今回、ぼくらは何に負けたのか? 自分たちの過信や驕りにか? 戦後築きあげてきたと思ってきた日本という堅固なシステム(幻想)のその実のいい加減さに負けたのか? いまそれに答え得る回答をぼくは持っていない。
だが、そこから更にいえば上記の焼け跡にないものがたぶん3.11以後にひとつあると思うのだ。それは放射能汚染後の避難区域の世界だ。たしかに原爆直後の広島や長崎の光景はある。だが、それらは原子爆弾投下というある意味で可視の爆発(閃光)後の焼け跡だった。

今回は原発事故という可視の出来事はあったが、どちらかというとむしろ放射能汚染事故という不可視の領域に近いようなアクシデントに起因していたように思われるのだ。つまり何が起きているのかいまだによく分からないという意味でも。それによってもたらされた避難区域の世界は地震等の被害はあるにせよ、家も道路もそれまでの日常となんら変わりないようでありながら、いわばそこに住む人だけがいなくなった(強制移住させられた)世界だ。見えない放射能が示す異常値によってだけ、かろうじて生命にとって危ないことが指摘されるような世界。

その収束がいったいいつになるのか、いまだまったく見通しが立っていないなかで、ぼくら日本人が長い責め苦を見守らなければならないというだけでも戦後まったく初めての経験。同じような焼け跡後の焦土のようにみえても、ぼくには「火垂るの墓」の焦土(主人公の清太が動き回る世界)のほうがまだ人間的だし将来に希望を託すことができたように思う。それは東京が空襲にあった後の焼け野原も同様だろう。人々には生活の大変さが依然残っていたとしても復興への希望もまたあったはずだから。だが、放射能汚染の避難区域で人はほんとうに希望を託すことができるのだろうか? ぼくはいま何も答えることはできない。

 ふたつめは、主人公の清太と妹の節子が母を失って、その最後にはふたりだけの生活(盗みも入れた自給自足)に入ってゆき、やがて節子が衰弱死してゆくことになるのだが、そこにいたるある種の違和感のようなものについてである。親戚のお世話になりながら、やがて居心地が悪くなり(邪険さもあり)、家出して二人だけの王国のような世界で自活してゆくのだが、次第に衰弱に見舞われてゆくシチュエーションのなかでそこに救いの手をさし伸ばす大人がひとりも現れてこなかったのはなぜなのだろうか?
 
戦中戦後とはいってもまだまだ前近代的な意識?(家とか大家族主義とか郷土意識とか云々)も色濃く残っていたはずであり、もう少し鷹揚な大人たちが登場してきてもよかったように思うのだが。たとえ他人の子供であっても一緒に育ててくれる大人たちがひとりくらい出てきてもよいようにも思う(黒澤明監督の「羅生門」の最後で志村喬演じる男がたしかそうしたように?)が、描かれるのはどこまでも無関心で利己的な大人たちの姿のほうが中心になっている。

 主人公の清太はそうした利己的な大人たちの世界を嫌って、ある意味純真無垢な自分たちだけの王国を樹立して生きることを選んだようにも思えるのだが、それは原作でもそうなのか、あるいはアニメがそこを強調しているのか、その辺は原作を読んでいないぼくにはよく分からないところだ。

だが、なぜ清太がそこまでかたくなに大人たちの世界に背をむけなければならなかったのか今ひとつ理解できないとも言える。本当に妹を助けたかったら、まずもって大人たちの世界に戻らなければならないことはある段階から明白となっていたはずなのに、どこまでもふたりだけの自活の王国に拘りとどまり続けた理由とは? たとえばあの親戚の家に絶対に戻ることはできなかったのだろうか?節子を最後に診察するお医者さんも冷たい(無関心な)キャラクターの設定になっている。

こうした一連の流れは本アニメの意図とも絡んでいるのかもしれないが、この辺については本作品をご覧になった皆さんのご意見をいろいろうかがってみたいところです。利己的・保身的な大人社会に対して、純粋無垢な子どもの世界をより対置してみたかったというのが、いまとりあえず感じられる作品(作者)の意図のように思えますが、ここはよく分からないところです。

そして三つめは、作品のいちばん最後でほとんど目立たないように挿入されているラストの一枚の絵のような映像のこと。そこに坐っているのが主人公の分身なのか、まったくの赤の他人なのか、じつは誰でもよいのだが、ひとりの男が、高層のビル群とそれが作り出す幻影のような街の灯を見下ろす丘の斜面に坐っていて、その傍でさかんに蛍が舞い、蛍のひかりが浮遊しているのだ。

その蛍の火だけはまわりの状況がどう変わろうと、それが焦土から高層ビル群へ戦後という大いなる影が歩んで移り変わってきたとしても(3.11以後も)、いまもどこかの草露に濡れて繋がっているただひとつのものかもしれない、とでも言うように。どんなに頑丈そうにみえてもビルはいつか壊れるが、蛍の火だけは弱弱しくも真実小さな火であり、もしかしたらだからこそこの地上を浮遊してやまず生き延びてきたのかもしれない。 

おそらくすべての変遷と虚構を見届けながら、そのかたわらで、毎夏の夜、蛍の火が舞ってきたのだ。それはそのまますぐれてメメント・モリ(死を想え、死を忘れるな)という鎮魂の声にも通じているかのようだ。「火垂るの墓」はまさにその地点でこそ終わる作品であり、ながく余韻を紡ぎ出してやまないように思える。
           
よしむね

夏のアニメ①「雲のむこう、約束の場所」―ストーリーにはいろいろ異論があるかもしれないが、煌くようなはかない夏の描写が好きだ

最初にお断りしますが、夏のアニメと銘打ってはいるが、特に意図があるわけではありません。舞台が夏だけとは限らない設定も多いが、比較的夏が取り上げられていれば一応夏アニメとくくったまで。またこれから取り上げる作品の順番にも特に優劣はつけていない。この後も一応夏アニメとしていくつか取り上げたい作品があります。

まず第一弾は「雲のむこう、約束の場所」(新海誠監督、2004年)。評判は聞いていたが、実は観たのは今回が初めてで自宅でDVDを観た。いわゆるセカイ系の定義をぼくはよく知らないのだが、登場人物たち(藤沢浩紀、白川拓也、沢渡佐由理の三人が主要人物)がみんな孤独感を生きていて、いきなり世界の異相(ユニオンの塔というものが出てくる、これはいろんなものの暗喩か。併行世界とも呼ばれ、政治の亀裂や戦いの暗喩でもあり、不可侵のなにかのようでもあり、なにかの夢の形象のようでもあり、おそらくさまざまな意味を包含しているのだろう)と直結しているようなストーリー構成は、広義には本アニメもセカイ系と呼ばれる部類に入るのかもしれない。

ストーリーについては現実味がないとか、ロジック構成に真実味が感じられないとか、沢渡佐由理の声が典型的なアニメ声で嫌いだとか、おそらく異論も多いと思う。
そうしたストーリーとしての無理さはさておき、ぼくがとても惹かれるのは、やはり細部の描写だ。特に夏の青空と入道雲と夕焼けを背景にした、それこそひと夏の男女3人による、予感だけにみちた、どこか終末的な、退嬰的な、描写がたまらなくいい。うらぶれた駅舎や線路、壊れかけた廃屋や倉庫、静まり返った水面・・・。「神は細部に宿る」ではないけど、こうしたひとつひとつへのデッサンが妙にリアルでなつかしいのだ。
これらの夏の風物詩を見る(それこそ目にまとわりつくように観る)だけでもいいと思う。そしてラストの解釈もいろいろあるだろうが、ぼくなりに思うのはひとまず「ありえたかもしれない仮想の世界」に別れをつげてひとりの人を受け入れる(引き受ける)ことで始まる現実の再生の物語のように受け止めたのだが、いかがだろうか。

ただ何度も繰り返すがストーリーにはさして興味がない。全体に流れる孤独感のトーン、夏のはかなさ、短い夏の煌きのなかで、もしかしたら誰にでもありえた、行き場のないような、結晶した時のような、ひと夏のたゆたい、その体験の翳のリアリティーにこそ、このアニメが依って立つすべてがあるようにも思うのだ。それからあのユニオンの塔の存在が、最近の原発事故以後を思うとき、また違った意味で妙にリアルでもあるように感じられた。なにはともあれ夏の青空と雲にささえられたような一片の作品!

よしむね

アニメ『GIANT KILLING』のオープニングテーマを歌うTHE CHERRY COKE$に胸が熱くなった

土曜の夕方、娘たちがテレビの前に集まる。
NHK教育テレビにチャンネルを合わせる。学習番組ではなく、アニメが始まるのを期待して。
近年教育テレビが持ってくるアニメはすごい。『電脳コイル』とか『メジャー』とか。
さて6時になった、『バクマン。』が始まる。少年ジャンプに連載中の、若い漫画家コンビが一流の漫画家を目指すマンガのアニメだ。ものすごく面白い。
舞台となる地名、埼玉県谷草市ってのもまた親近感が沸く。
谷草って草加? 越谷? ちなみに僕は草加市民。
北谷草という駅名からして、どうも北越谷駅を擁する越谷市がモデルらしいというのが娘たちの見解。ちなみに僕の実家は越谷市。
で、その『バクマン。』が終わったら続いて、『GIANT KILLING』(ジャイアントキリング)が始まってしまうのが、NHK教育のすごさ。『GIANT KILLING』はマンガ雑誌『モーニング』で連載しているサッカーマンガ。Jリーグの弱小チームが主人公。
就任したばかりの若い監督や、ベテラン選手や若い選手やチームのフロントや、おっさんサポーターや過激なサポーターたちがぶつかり合う。
この秋から地上波で放映開始されて見始めたのだが、BSでは春からやっていたらしい。
オープニングテーマソングがいいんだ!
バグパイプ(かな?)とティンホイッスルの哀愁のある音色から始まる。アイルランド民謡みたいなやつ。
が、いきなりテンポチェンジして、高速裏打ちパンクになる。ボーカルがまただみ声ときた。
高速裏打ちパンクなのに、アコーディオンやティンホイッスルも入ってくる。哀愁と叫びのミクスチャー。ぐっとくる。胸が熱くなる。
字幕によるとTHE CHERRY COKE$というバンドの「My story 〜まだ見ぬ明日へ〜」という曲だ。
「THE CHERRY COKE$」か。そのバンド名、しっかり記憶した。あとで調べよう。
アイルランド民謡とパンクのミクスチャーって、じつにサッカーっぽいと思った。
子供からお年寄りまで、さらには過激化したサポーターまで、一丸となった応援する姿。パトリオティズム(愛国心、愛郷心)が発露する姿。
THE CHERRY COKE$の音を聞いて、若いときに聞いて好きになったバンドを思い出した。ザ・ポーグス
調べたら、アイリッシュ・パンクというジャンルがあった。ザ・ポーグスに始まり、THE CHERRY COKE$に続くジャンル。PADDY BEATという言い方もあるらしい。
伝統と過激さを兼ね備えた音楽って、一見矛盾するように感じるが、伝統の芳醇な情緒が利用されることによって、ロックの歌により強い力が加えられているんだと思う。
それと、磐石な土台の上で跳ねっ返りが少々暴れてもびくともしないほど、その音楽共同体の包容力が大きいんだろうなとも思う。
青森のねぶたの雄大なリズムの上で跳ね返っている「はねと」の姿を連想した。

じつに

「みなしごハッチ」に見る不条理と大人のズルさ

毎日、16:30からMXテレビの「みなしごハッチ」再放送を見ている。

勿論、子供向け漫画なので、単純な勧善懲悪的なストーリーも多いのだが、時として深いテーマ性や不条理性があって、それもまた楽しい。

さらに、1970年頃の作品だけに、「戦うのは本当の勇気ではない、耐えることが勇気だ」「暴力は卑怯者の言い訳だ」「話合えば、必ず分かり合える」あるいは、「武器(=軍隊)を持つのが悪い」というような戦後の価値観が色濃く出ていたりもして、それはそれで興味深い。
    ◆
例えば、一昨日の回は、おいぼれたスズメ蜂の話だった。

元々、ハッチはスズメ蜂の襲撃にあって、離れ離れになってしまった母を探して旅をする物語である。
そして、旅の途中で、ハッチが、仲間から見捨てられたスズメ蜂族の長老に出会うというのが一昨日の話だった。

最初ハッチは、その年老いたスズメ蜂の事が嫌いだった。
ハッチにとっての敵(かたき)だからだ。

だから、他のスズメ蜂や他の昆虫達からイジメられるそのスズメ蜂をいい気味だと思ってみていた。
「今までみんなをイジめてきたから、そういう目にあうんだぞ。」ハッチは老スズメ蜂にたたみかけるハッチ。
ところが、ハッチの中では、その老いたスズメ蜂といろいろと関わっていくうちに、段々、そのスズメ蜂が可哀相だと思う心が芽生えてくるのだ。
そうこうしているうちに、雨が降ってくる。
ハッチとスズメ蜂は、穴倉に逃げ込み、ハッチの身の上話になる。
スズメ蜂の襲撃になって、兄弟は殺された事、母親と離れ離れになった事...

するとスズメ蜂は「実はハッチ一家を襲ったのは自分だった」と告白し、ハッチに自分が持っていた槍で「わしを突き殺せ」と涙ながらに訴える。
うろたえるハッチ。
憎い敵を目の前にして復讐したい気持ちと、どうしても殺せない心との間の葛藤でハッチは悩む。
どうするハッチ。
「この槍を持っているのが悪いんだ。こんなもの捨ててしまえ」とやり場の無い怒りを槍にぶつけるが、気持ちは収まらない。
ところが、その時、雨はさらに強くなり、二人が居る洞穴に津波が押し寄せる。
老いたスズメ蜂はハッチを助けて、自らは首まで水に浸かっている。
「死んじゃいやだ。おじいさん」ハッチは泣き叫ぶが、スズメ蜂は既に水に飲まれそうだ。
そして、死に際に「ハッチ、お前のお母さんは...にいる」
「えっ、僕のお母さんは何処にいるの?おじいさん、おじいさん...」ハッチの叫び声もむなしく、スズメ蜂は大水にさらわれてしまった。

ここで話は終わり。

オチも無く、ただの悲劇で終わってしまった。
多くの視聴者の良い子達は取り残された気分を味わっただろう。
愛と憎悪の葛藤というテーマもウヤムヤになってしまった。
しかも、最後は、おじいさんが死んでしまったから悲しんでいるのか、お母さんの居場所が知りたいのかの優先順位も曖昧なまま終わってしまったのである。
    ◆
物語の筋が行き詰まった時には、どうすればいいのか?という疑問の一番強引な展開に、地球を爆発させればいいというのがあるが、まさしくその展開だった。

こうして、良い子は、現実の不条理さ、大人のズルさをハッチから学ぶのでした。

まさむね

「源氏物語千年紀 Genji」は3つの困難を克服出来るか

源氏物語関連での最近のニュース(11/12)にこんなのがあった。

フジテレビで09年1月から木曜深夜のアニメ枠「ノイタミナ」で放送予定だった、「源氏物語」の世界を描くテレビアニメ「あさきゆめみし」のアニメ化が中止となり、「源氏物語」を原作としたオリジナル作品「源氏物語千年紀 Genji」を制作することに変更されたというのだ。

僕は、アニメの源氏物語というのは、今まで見た事がないが、映像化された源氏物語にいつも幻滅を感じさせられてきた。
例えば、2000年に公開された『千年の恋 ひかる源氏物語』(主演:吉永小百合、天海祐希)は鳴り物入りでの登場だったが、残念な結果だった。

僕が思うに、源氏物語を映像化する際に問題となる点は以下の3点だ。

1)オカルトシーン(葵上が六条御息所の生霊に殺されるシーン等)の処理が難しい
2)数々の姫の元に通い続ける光源氏の身勝手さに感情移入させるのが難しい
3)光源氏が紫君を誘拐したり、夕顔が腹上死したりするシーン等の唐突さの処理が難しい

しかし、一方で、源氏物語を将来的にも渡って人々の心に残していくには、秀逸な映像化源氏、アニメ化源氏の誕生が不可欠だと思う。
特に、今後、日本に多くの外国人が移住してきた際、彼らに、日本文化の源泉を理解させるという意味でも、これは、重要な文化的事業ではないだろうか。

今回の企画には、是非、以上3点を克服した新しい源氏の世界を見せてほしいものである。

まさむね

手塚の物語

手塚治虫は、小中学生の頃、秋田書店の単行本で読みまくった。
バンパイヤ」「W3」「どろろ」「リボンの騎士」「海のトリトン」「マグマ大使」「ビッグX」、みんな懐かしいな。
勿論、「火の鳥」「ブッダ」「ブラック・ジャック 」や「鉄腕アトム」も大好きだった。
当時はプロ野球といえば、みんな巨人ファンだったけど、僕は名前がアトムズだったって事だけで、サンケイのファンだったんだ。

手塚治虫の偉業なんて、一言では言えないけど、少年向けSF漫画のスタイルを確立した事。と同時に、当時の少年達に、科学的、社会的知識を知らず知らずに教えてくれたこと。例えば、僕は「バンパイヤ」でLSDっていう幻覚剤がアメリカで流行っているって事知ったんだよ。60年代~70年代初めに少年時代を過ごした世代の僕らが、今、考えてみると、手塚さんはその時代のヒューマニスティック・ファンタジスタだったんだと思う。
でも、時代が漫画にそれ以上を求めるようになってくると徐々に時代からずれていったんじゃないかな。

ちょうどイメージ的には、ジョンレノンが70年代に入ると泥臭いアメリカンサザン・ロック(リアリズム系=すなわち、劇画系)や音楽性の高いブリティッシュロック(テクニック系=すわなち、大友、宮崎系)に圧されていくさまに近い。

手塚さんは結局、少年漫画家に域から出られなかったのかもしれないっていうのは言いすぎかな。評価、難しいけどね。

それに、手塚さんは、ところざわさんが言うように、石の森や大友、梶原一騎、さいとう・たかお、そして水木しげるなんかに対しても、偏狭なライバル心を持っていたようだね。
初対面の水木さんに対して、「あなたの漫画だったら僕はいつでも描けるんですよ」って言って、「どろろ」を書いたというエピソードもあるよね。

晩年、自らの原稿を持って出版社周りをしたというエピソードも。

でも、この偏狭さ(反おおらかさ)が好きだ。僕は、これこそ、手塚さんの天才の証(聖痕)だと思う。

まさむね

人気少年アニメにおけるそれぞれの父親達

日曜日の19:30から、MXで「ムーミン」の再放送をやっていた。

実は僕が一番好きだったアニメはこの「ムーミン」だったのだ。
「巨人の星」とか「あしたのジョー」っていう梶原一騎物の手塚治虫の「どろろ」とか「ジャングル大帝」とかも勿論好きだったけど、どれか一つを選びなさいと言われたら、僕は「ムーミン」をあげる。

ムーミン谷では毎回、日常世界異物が入り込む事によって、ささやかな事件が起きる。
それは、時に、村人達の欲望に火をつけたり、お互いを疑心暗鬼にさせたりして、彼らの心をかき乱すんだけど、最終的には、その”謎の異物”が排除されると村人は、「あれは何だったんだろう」的な置かれて、元のボーッとした善良な人々に戻るのだ。

みんなが同じ観念に取り付かれて暴走していく事の危険性を、裏返して言えば、たった一人でも正しいと思ったことは主張すべきだって事を言っていたんだろうなって、今更になってみると思うよ。

そんなムーミンにはいろんな登場人物が出てくるが、僕がいつも気になっていたのがムーミンパパだ。
ムーミンパパの職業は小説家だ。しかも、いつまでも最初の1行が書けないでいる小説家だ。
(先日見た、現在、再放送されている新バージョン(1990年版)では、自分の過去の伝記を書いていたが。以前のバージョンでは、そうだったはずだ)
ムーミンにとってパパはいつも、どこかにはかり知れない未知の存在だ。
ムーミンがパパの事を質問するとパパは、「それは大人になると分かることだよ」とニコニコ顔ではぐらかす。
そういえばアニメにおける父と息子の関係ってそれぞれ見てみると面白いよ。

例えば、「巨人の星」では、飛雄馬にとっての一徹は、権威そのものだった。
「オバケのQ太郎」の正ちゃんにとってパパさんは、頼りない存在。
「天才バカボン」におけるバカボンとパパの関係は、友達関係。
そして、「ゲゲゲの鬼太郎」では、鬼太郎にとって、目玉オヤジは何でも教えてくれる知恵袋だ。

男の子にとって、父親とは何か?未知の存在?権威そのもの?頼りない存在?友達?知恵袋?

これらのアニメが放映されていた60年代後半~70年代最初にかけてだけど、戦後、標準的な親子関係のイメージは、どんどん分裂して、本当にバラバラになっちゃったんだね。
これらの有名な少年アニメにおける父親像のバラバラさは、その事を表わしているのかもね。

まさむね

60 年代のギャグ作家・赤塚不二夫

7月30日に赤塚不二夫が亡くなった。
赤塚漫画は、昭和30年前半に生れた僕達にとって、多大なる影響を与えてくれたんだよね。
遅ればせながら、心よりご冥福をお祈りいたします。

赤塚不二夫における3大ギャグ漫画といわれる「おそ松くん」「もーれつア太郎」「天才バカボン」。
面白いのは、3つの漫画とも、主人公は普通の人なのに、その周りのキャラクタが個性的なことだ。
ア太郎は、父に先立たれた少年の八百屋であるが常識的なキャラであり、バカボンは、おっとりした普通の少年だ。
さらに、おそ松くんに至っては、六つ子だから、誰がおそ松くんかわからない程度の個性しかもっていない。

一方、周辺キャラを挙げてみると、

「おそ松くん」のダヨーン、イヤミ、チビ太...
「もーれつア太郎」のニャロメ、ココロのボス、ケムンパス...
「天才バカボン」のパパ、レレレのおじさん、おまわりさん...

このキャラクタの雑多さが赤塚ワールドの本質なのだろう。

さて、これらのキャラクタの中で、僕が最もお気に入りなのがニャロメだ。
個人の思い出で言えば、イヤミのシェーをやった記憶はないのだが、学習ノートにニャロメは何匹描いたことか。

ニャロメは、いつもみんなとは逆の事を言い、みんなを扇動し、すぐに欲に目が眩むが、一方で純情で仲間思い。
そして、最終的にはいつも失敗する愛すべきキャラクタである。
赤塚不二夫は後に、ニャロメを全共闘のゲバルト学生の象徴だったと打ち明けているが、言われてみれば、ニャロメはまさに、60年代の混沌を具現化したキャラだ。

赤塚不二夫の漫画は寺山修司のアングラ芝居、大島渚のヌーベルバーグ映画、北山修のフォークソングと同じように60年代の空気を作品化したんだって言えるかもしれない。
それまで、江戸小噺や落語の世界みたいに大人の文化を前提としたお笑いがメインストリームだったのを、ナンセンスギャグっていう若者文化を背景とした世界を漫画というフィールドで構築したのが赤塚不二夫だったと思う。

実は、上記3作品に「ひみつのアッコちゃん」も含めた赤塚不二夫のスタンダード漫画は全部、60年代に生れている。残酷な言い方をするならば、70年代以降の赤塚不二夫は、キャラクタ管理者になっちゃうんだよね。

まさむね

孤児とアニメのヒーロー

前回は、親に捨てられた不具者・ヒルコが後に、恵比寿という笑顔神になったという話だったけど、それって鉄腕アトムの出生と似てるって思ったので急遽投稿。

アトムの場合、実の子供を交通事故で失った天才科学者・天馬博士が、その子のかわりにアトムを作るんだけど、アトムの身長が全然伸びない事に怒ってアトムを捨てちゃうんだよね。
でも、その後アトムは、御茶ノ水博士に拾われて、過去のコンプレックスを抱えながらも、正義の味方になっていく。

そういえば、アトムに限らず、俺が子供の頃の少年アニメのヒーローってみんな、親と別れ別れになった子供だったな。

狼少年ケン、風のフジ丸、明日のジョー、タイガーマスク、サイボーグ009、レインボー戦隊ロビン、みなしごハッチ...

60年代の日本の街には、まだ、戦後の混乱の後を引きずっていたせいか、孤児が沢山いた。
そして、彼らは、現代なんかよりもずっと多くの少年犯罪を引き起こしてたんだ。そんな彼らにたいする偏見を修正ために、これらの少年アニメの果たした役割は大きかったのかもしれないね。

まさむね