前衛も後衛もなくなった時代に「去年マリエンバートで」は退屈な映画になった?

「去年マリエンバートで」のデジタルリメーク版(ニューマスター版)ができたとかいうことで、先月渋谷でリバイバル上映されていたので観に行ってきた。ぼくがこの作品を観たのははっきり覚えていないのだが、たしか劇場で1回、深夜のTV放送で1回観たように記憶している。

 作品自体はいわゆる映画通には有名な映画の類で、何かの投票によってはかならずベスト10入りするような映画。また人工的な西洋庭園に整然と配されてたたずむ恋人たちの映像シーンも有名で、たしか自動車のTVコマーシャルとかでもその模倣シーンが作られていたりしていたはずだ。監督はアラン・レネ。脚本は前衛作家といわれたアラン・ロブ=グリエ。

 もともと筋書きのない映画なので、説明すること自体ナンセンスなのだが、以前は刺激的な映画だと思っていたとおもうのだが(今は記憶も曖昧)、今回はのっけから退屈な感じで睡魔に襲われてしまいすぐに寝てしまったのだった! 始まる前になんとなく寝てしまうかもしれないなという悪い予感はあったのだが。身体に疲れがあったからなのか、それとも感性が鈍くなってしまったからだろうか。でもどうもそれだけではないような気がする。

 「去年マリエンバートで」の、その映像が持つある種の美しさやミステリアスさ、袋小路のような展開なきドラマ=アンチ・ドラマ性、複数的に張られた伏線、解決のない出口、不条理さ、モノクロームのもつ陰影の輝き等々は、多分今も変わらずにこの映画の魅力としてあるのだろうと思う。でも、それを観るぼくらの現在の視線が変わってしまったのではないか。

初演当時(日本公開初演は1964年だそう。もちろんぼくは初演は見ていない)はたしかに前衛映画とか騒がれたりしたかもしれないのだが、いまや前衛も後衛もなく、時代そのものがいろんな不条理と浮沈を経験してそれに晒されてきた視線から見ると、どのような映画にももはや新しさや珍奇さや眩暈のようなものがないのだ、たぶん。前衛も後衛もない時代。それが今流行の3Dだろうと同じだ。もはや新しさではない。みんな経験してしまって未知ではなくなっているからだ。

そんな中で今もいろんな意味でまだあたらしく先鋭的(切実ということ)なのは、あえてそういう映画作品や監督を上げろと言われたら、逆説的だけどたとえば「アキレスと亀」までの北野武(依然として)であり、監督としてのクリント・イーストウッドだとぼくは勝手に思っている(これはまたいずれのかの機会に書いてみたいテーマ)。特にイーストウッドは21世紀に入ってからさらに脂が乗って「ミスティック・リバー」以降の快進撃が素晴らしい。救いのない時代に生きる人間たちの描写力がますます際立つようだ。

それに比べると、「去年マリエンバートで」はその仮構ぶりといい、華美さ加減といい、どこか気楽な感じで退屈な映画になったと思えて仕方がない。本当に変わらずに凄いと思うのは、主演女優デルフィーヌ・セイリグの美しさだ。これだけは今も変わらない。

まあ映画は生き物だからまた別のときに見直したら、違う感想になることもあるだろう。そのときはまたもう一つの「去年マリエンバートで」について書こうと思うが。でも時代そのものが「去年マリエンバート」を過ぎてもっとミステリアスになってしまったのかもしれない。

よしむね

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