蛇の目に似ているため、蛇の目紋と呼ばれる。
おそらく、古来、蛇の神秘的な姿や動きに聖なるものを感じた日本人がその神秘的な力にあやかろうと家紋にしたのであろう。シンプルなデザインに力強さを感じさせる。
戦国、安土桃山時代の武将・加藤清正が替紋にこの「蛇の目紋」を使った。
彼の長烏帽子についていた蛇の目は有名。
蛇の目紋を使用している有名人は以下。


尾張国に生まれ、織田信秀に仕える。六角氏との戦い、一向宗との戦い、比叡山焼き討ちで武功を上げる。織田信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、信盛は嫡男・佐久間信栄と共に高野山に追放された。家紋は蛇の目九曜、三つ引両紋。


尾張国愛知郡中村に鍛冶屋の子として出生。豊臣秀吉の家臣として仕え各地を転戦し、秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くした。関が原戦いでは東軍につき活躍。戦後、肥後一国を与えられた。家紋は桔梗と蛇の目を使用。写真は供養塔(本門寺)で撮影。


江戸出身。本名は安藤峻。鈴木春重は同一人物。天文・動植物など西洋博物学に興味を持ち日本に紹介。『和蘭天説』『刻白爾(コッペル)天文図解』等を著す。浮世絵師から洋風画家に至る。家紋は蛇の目紋に見える。画像は巣鴨・慈眼寺にて撮影。


薩摩国鹿児島城下平之馬場町で篠原善兵衛の子として生まれる。戊辰戦争のとき、薩摩藩の城下三番小隊の隊長となって鳥羽伏見の戦いに参戦。西郷隆盛が下野すると近衛長官の職をなげうって鹿児島へ帰り、西南戦争に参戦、戦死。家紋は丸に蛇の目紋。


福岡藩士平岡仁三郎の次男として福岡市地行に生まれる。幼名は銕太郎。戊辰戦争で官軍側として活躍。維新後、自由民権運動に参加。玄洋社の初代社長に就任。日本に亡命した孫文に活動費、生活費を援助する。家紋の蛇の目紋は福岡市の聖福寺にて撮影。


遠江国の出身。父は、浜松藩の藩医賀古公斎。読みはかこつると。日本陸軍軍医。歌人としても常盤会を開催した。森鴎外の『舞姫』に登場する相澤謙吉は賀古がモデルと言われている。家紋は五三鬼桐に蛇の目紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


肥後国出身。藩士・佐々陸助の二男。戦国武将、佐々成政の子孫という。初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行は孫。西南戦争には薩軍として参戦。同心学舎(現在の熊本県立済々黌高等学校)を設立。家紋の蛇の目紋は墓所写真にて確認。


広島市大手町出身。広島藩士・加藤七郎兵衛の三男。最終階級は元帥海軍大将。ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。第21代内閣総理大臣時代にはシベリア撤兵・軍縮の実施などの重要な課題を遂行。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


陸奥国仙台出身。仙台藩士生江元善の子。東京キリスト教青年会理事、東京府社会事業協会理事などを務めた。同志社大学今出川図書館にその蔵書2700冊を寄贈した「生江文庫」がある。家紋は蛇の目紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


愛媛県出身。松山中学時代は夏目漱石の教え子だったという。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任。岡田内閣で陸軍大臣に就任したが二・二六事件の処理に失敗。最終階級は陸軍大将。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


愛媛県出身。1920年に立憲国民党から衆議院議員に初当選。第2次鳩山内閣にて防衛庁長官として入閣。保守合同後は自由民主党で総務会長を務める。千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に熱心に取り組んだ。家紋は桔梗紋と蛇の目紋。画像は小平霊園にて撮影。


大分県臼杵市出身。フンドーキン醤油の創業家(小早川家)に生まれる。夏目漱石門下の野上豊一郎と結婚。代表作は『真知子』『迷路』『森』『秀吉と利休』など。蛇の目紋は小早川家の家紋。「新潮日本文学アルバム 野上弥生子」にて確認。


東京市北千束に生まれる。父が鉄道官吏。俳誌『寒雷』を創刊し主宰。そこから金子兜太、森澄雄を輩出。句集『まぼろしの鹿』で第二回蛇笏賞を受賞。紫綬褒章、勲三等瑞宝章を叙勲。日本芸術院会員。家紋は陰蛇の目紋。画像は九品仏浄真寺にて撮影。


東京市下谷区上野桜木町に日本画家山川秀峰の長男として出生。本名は山川嘉巳。第3次『三田文学』を創刊。新人発掘に力を注ぎ曾野綾子、江藤淳などを発掘。代表作は『演技の果て』『海の告発』。家紋は蛇の目に桔梗紋。画像は妙覚寺にて撮影。


青森県北津軽郡板柳町出身。本名は、加藤精彦。読みは、たかみさかりせいけん。ニックネームは「角界のロボコップ」。最高位は、小結。金星は2個。現在は年寄・振分として東関部屋で後進の指導に当たっている。家紋は丸に下がり藤に蛇の目紋。
有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね






























































