ロンハーの「抱かれたい芸人グランプリ」のリアリティ

ロンドンハーツの特別番組を見た。

「2008年抱かれたい芸人グランプリは!?」というコーナーがあってバラエティ番組としては久しぶりに面白かった。
内容は、何百人かの女性の俳優、アーティスト、アイドル、タレント等から抱かれたい芸人を選ばせて、それを発表していくという単純なものだが、これは一般視聴者からのアンケートではなく、投票するのが、具体的に限定された芸能人というところがミソ。
さらに、投票した芸能人の中には実名公表OKという人もいる。
だから、実名OKの女性芸能人から投票された芸人の喜び方にリアリティがあるのだ。
進行は、まず、2票入った芸人から発表し、段々票数を集めた芸人の発表へ。
今年の1位は、チュートリアルの徳井だった。ある意味、納得。
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しかし、いまだ名前を呼ばれない芸人も沢山残っている。
残るは1票か0票、すなわち、少なくとも一人だけには「抱かれたい」と思われたか、そうでなかったのか。
この差は大きく、ひな壇に並んだ芸人達に緊張感が走る。
この時点で、例えば、バナナマン日村、南海キャンディーズの山里亮太、ブラックマヨネーズの2人、ロバートの山本、FUJIWARAの2人、ジョイマン高木等が残っている。
そして、さらにボクイケメンの狩野英孝も残っているではないか。
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とにかく、悲惨なのは呼ばれない芸人だ。
一人づづ、名前が呼ばれていくたびに大騒ぎになるひな壇。
おそらく、こういったリアリティのある笑いこそ、ロンドンハーツの真骨頂なのであろう。
さんまのようにただ、自分が目立つためだけでもなく、紳助のようにただ、自分がネタを披露したいがためだけでもないリアリティのあるひな壇の使い方に淳のオリジナリティがある。
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さて、残りはあと、数人という場面、やはりこうなってくると、やはりカメラが抜く頻度が多くなるのが狩野英孝と山里亮太だ。
おそらく、狩野英孝は自分では上位も有り得ると思っていたらしく、願望と現実とのギャップの大きさに渋面になる一方。
もう、言わなくてもその顔だけで笑いが取れるシチュエーションになっていた。ある意味、一番美味しいポジションの獲得。
一方、山里亮太は逆に、このひな壇に自分が存在していること自体への嫌悪を顔に滲み出している。これはこれで狩野と五分五分の美味しさを獲得していた。
結局最後まで二人とも呼ばれず。
そして、最後のシーンでは、最後に呼ばれたブラマヨ・吉田への振りになってしまい、二人の心境はオチが付かないまま終わる。
まぁ、その無視のされ方は、それはそれで面白かった。
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しかし、終わってみれば、勿論、ベタに追い詰められていく芸人を見ているのは面白いが一方で、このシステム、逆から見れば、売出し中の若手アイドル(特にグラドル)の売名の場でもあるという二重性に気付いた。
すなわち、選ばれそうに無い芸人を選んで、実名公表OKとなれば、その芸人に投票したのが自分一人であれば、名前と小さいが顔も、必ず発表される。
しかも、周りの芸人達がこぞって「あの娘はめっちゃカワイイ娘やで」などと騒ぎまくるため、宣伝効果は抜群。
このコーナーは、少なくとも1000万人位は見ているテレビを活用しての、アイドル達の宣伝の場でもあったわけだ。
おそらく、多くの視聴者が、テレビを見ながら一方で、インターネットで検索しまくっていたのではないだろうか。
そして、その場でDVDを購入していたかもしれない。
最近はアイドルにとってはとにかくパッケージを売るのが大変な時代だ。これはまたとないセールスタイミングになったはずである。
もしも、自分がアイドルのマネージャーだったら、一人残りそうな芸人を実名公表OKで投票すると思う。
それは、「笑っていいとも!」の100人アンケートのように、1人にならなきゃいけないという逆にスリリングな投票になるけどね。

僕がマネージャーだったら、インパクトの強さから、山ちゃんに投票させただろうな。

まさむね

桜の欺瞞性と太田光夫妻

「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書 太田光、中沢新一)の中に太田光が桜に関する小文を書いている。

今、手元にその本が無いので、記憶で書かせてもらうと、この小文の中に彼の妻が、花見で桜を見た後に気分が悪くなって、精神の安定を失ってしまった時の事を書いている。
彼女は、その時、花屋から薔薇の花を買ってきて、部屋の中に飾り、自分の精神を落ち着かせたというのだ。

太田光がその出来事を分析して言う。
桜は、見る人に狂気と毒を想起させる。しかし、自らがそういった狂気と毒を内包していることを隠している。
一方、薔薇は自らの危険性を棘という形で表現している。彼の妻はその薔薇の正直さに安心して、精神が落ち着いたのではないかと。

さらに、彼は、その桜のあり方を、憲法九条に、日本のあり方に、そして、自分自身に重ね合わせる。
自分の中のもう一人の自分の狂気と毒を常に意識し続ける太田光は、全ての物事を、自分の根っからのテーマに直結させて考える。
いや、彼は自分の意志で考えているというよりも、何物かによって考えさせられているといった方が正確なのかもしれない。

そういう時の彼は、正直者だ。
そして正直であると言うことは、表現者にとって最も大事なことだと僕は思う。

さて、桜というイメージに関して、僕も前々からいろんな事を考えている。

古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であること。
源氏物語では桜は凶兆の花であること。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であったこと。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であったこと。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であったこと。

そして、近代国学の祖・本居宣長において、桜は、大和心の、そしてその後の勤皇家によって、武士道の象徴となっていく。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)

しかし、実は、リアルな死や闘いは。桜で象徴されるような可憐なものとは程遠い。
武士道は、死ぬためのイデオロギーではなく、本来は何としても生き延びるための醜い程、姑息なノウハウだったのではないか。
しかし、明治以降、桜はさらに国家主義と結びついて純化していくのだ。

ちなみに、明治国家主義を支えた様々なシステムには、桜が紋所として徴されている。
陸軍、海軍、学習院、靖国神社、そして大相撲...(あんまり関係ないが、狩野英孝の生家の桜田神社も。)

この桜の欺瞞性に対して、太田光、そして、彼の妻は激しく反応した。

やっぱりあの夫婦の感性は天才的だ。

まさむね

狩野英孝や鼠先輩の意義

人生相談体質の芸能人っているよね。
こういう体質の人たちは、人生相談するのも、されるのも得意だ。目が光り輝くんだよね。

勝手にカテゴライズするとこんな感じかな。
元不良系
加藤晴彦、宇梶 剛士、義家弘介
オカマ系
美川憲一、美輪明宏、IKKO、マツコ.デラックス
水商売系
デヴィ夫人、細木数子、城咲仁、室井佑月
(他に、スピリチュアル系、成上がり系、苦労系等あり)

他人の相談を聞くという事は相手の弱みを握るということであり、自分の相談を他人に持ちかけるというのは、敢えて隙を見せることである。
彼らは、それによって、他人との距離を縮める術に長けているのだ。
そして、他の芸能人よりも視聴者との距離が近い(ように見える)人生相談体質の芸能人、その近さは、魅力であるが、一方、胡散臭さでもあるよね。
この胡散臭さは、具体的に、彼らの目の鋭さに表現されてる。
あの他人を値踏みするような視線って怖くない?僕的はちょっと引いちゃうな。

逆に、いくら人生相談系の格好をしていても、体質的にそれと別種な芸能人(実は他人にあんまり関心のないタイプのナルシスト)は安心だ。
お互いの距離が近すぎるスタジオバラエティの暑苦しさを中和するキャラとしての狩野英孝や鼠先輩の意義(使い勝手)はそのあたりにあるんだと思う。

まさむね