純愛一直線「イノセントラブ」は成功するか

先日(10月25日)、自ら結婚式を予約していたホテルに、その当日に放火した男が逮捕された。
容疑者の供述から、彼は、実は既婚者であり、それが判明するのを恐れての犯行であった事がわかった。

世の中、いろんな事件が起きるものだが、これまた、普通では考えられないとんでもない事件であった。

結婚式に招待されていた人の中に、男が既婚者だった事を知ってる人はいなかったのだろうか?
結婚当日、彼は何と言って現妻の家から出てきたのであろうか?
婚姻届はどうしようと思っていたんだろうか?
とりあえずその日には式が出来なかったとして、仕切り直しの式当日はどうしようと思っていたのだろうか?
この事件を知って、現妻とその親族、新妻とその親族、会社の同僚、友人達、ホテル関係者はどう思ったのだろうか?
いったい、彼はどんな性格だったのだろうか?

等々、疑問は尽きない。

しかし、実は僕は、彼の気持ちはわからなくはないのだ。
恐らく、彼の頭の中の願望の世界では、現妻とも新妻とも、それぞれに楽しく暮らす絵が描かれていたのだろう。
勿論、それは、現実生活としては不可能だ。有り得ない。
しかし、彼は願望と現実の間に挟まれ続けて、対応を遅らせ、問題を先送りし続けて、最後に、放火に至ってしまったのである。
そういう意味で、彼はあまりにも純情だったのかもしれない。

ところが、彼が持っているような、ある意味での内面の純情さ(ナイーブさ)は、ドラマの登場人物の行動のモティベーションとしてはアリなのだ。

そのいい例が、「イノセント・ラヴ」の主人公の佳音(堀北真希)のいわゆるイノセント(純情)な気持ちである。
例えば、前回も、一目惚れした殉也(北川 悠仁)のあとを付け回す佳音。
彼が落としたハンカチを届けに彼の家に行き、鍵が開いていたため、勝手に侵入してしまう。
しかも、以前に入ってはいけないと言われていた部屋にも忍び込もうとするのだ...

恐らく、彼女の心情とシンクロしてドラマを楽しんでいる人にとっては、彼女の行動は、違和感は無く見れるのだろう。
多くのドラマファンにとっては、そこに描かれている現実のリアリティよりも、心情のリアリティの方が重要だからだ。

しかし、この心情最優先主義という思想自体が、最近、徐々に、揺らいで来ているように思える。
いろんなニュースを見ていても、同情を惹こうとする振る舞いに対して、以前ほど、多くの人々の感情が揺り動かされなくなってきているように思われる。
例えば、ちょっと前に、高速道路を作るために、幼稚園のイモ掘りが中止されるというニュースがあったが、昔だったら、泣き叫ぶ子供の前では、行政への非難が集中しそうな場面も、逆に幼稚園側の不可解さの疑問の声の方が大きかったようだ。

このような、心情最優先主義の後退が、最近のドラマの視聴率の低迷の背景にあるのではないかと、僕には思われる。

この夏、「恋空」がTBSでドラマ化されたが、昨年、映画や小説で大ヒットした割りに思ったような数字を稼げなかった。
恐らく、「恋空」というコンテンツがテレビというマスメディアで流されて、国民的に共感を得られる程の”広い心情のリアリティ”が無いのだ。
それは、あくまで携帯サイト、映画館レベルの人々が共感出来るリアリティにすぎなかったのではないか。(恐らく、多くの大人達にとっては、「恋空」の登場人物の行動・心情は理解不能だったのではないか。)

さて、そんな状況を受けて、月9というメジャーステージで、心情最優先主義ドラマ「イノセント・ラヴ」がどれほど、世間に受け入れられていくか。
数字の動きが楽しみだ。

まさむね

七曜は安産祈願

七曜紋は、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の七つの星を家紋にしたものとも、北斗七星を家紋にしたものとも言われている。後者は妙見信仰をもとにしている。

一般に星は、海の民や狩猟民の守りである。農耕民と違って、それらの民は星の運行、方角を性格に把握する事がが生死を分けるほど大事だと考えられていたからだ。志摩の九鬼氏は七曜を家紋としているが、戦国時代には日本一の水軍として織田信長に従った。また、東北地方南部の星宿信仰のある地域にもこの家紋を持つ者が多いが、それらの人々は元々狩猟民だったのかもしれない。

さて、この七曜は江戸時代以降は、七面大明神信仰と結びつき、何故か安産の守り神ともなる。田沼意次の父意行は子供に恵まれなかったが、出産・安産守りの七面大明神に祈誓をかけ、意次が生まれた。田沼家はここから七曜を家紋にしたと伝えられている。

ちなみに、映画「恋空」でも安産を願う彼氏(三浦春馬)が七曜が入った安産守りを彼女に買っていくシーンがある。

まさむね

「恋空」ツッコミ所と絶妙な隠喩の微妙な混在

新しい映画だと思った。

一見すると、こんなにつっこみ所満載の爆笑映画は他に無い。
今後、映画界では、このつっこませ映画=「恋空」的手法が主流になって行くのではないかとも思わせる。

病院の無菌室で持ち込みキャラメルを食べるは、携帯電話はかける。クリスマスの夜には必ず雪が降るは、図書館にあった黒板の文字(あなたは幸せでしたか?)が2年間、消えずに残っているは...等々。
もっとあるから、みんなで探してみてね。

ただ、この映画は隙の多いただのバカ映画ではない。映像の中にはそこかしこに、分かる人にはわかる印がちりばめられているんだ。俺が注目したのは、図書館での本だ。

ミカ(新垣結衣)が落とした携帯が図書館の本棚に置いてある。
その携帯の脇にマルセルプルーストの「花咲く乙女たちのかげに」(『失われた時を求めて』の第2編)とボリスヴィアンの「日々の泡」が並ぶ。そして、その2冊が、後のシーンで、「今週の推薦図書」として図書館の黒板に、何気なく書かれていて、この映画の主題と重なっていくんだ。

最初が「日々の泡」。この小説は、いつの間にか、体が病魔に蝕まれて(体の中に睡蓮の花が成長して)死にいたるという話。死は不条理にも人に忍び寄って来るというのが主題だ。

次に図書館の黒板が写るシーンでは、『幽霊たち』(ポールオースター)が推薦されている。「そこにいるけれども、そこにいない存在の大きさ」が、この小説の主題である。ヒロ(三浦春馬)の存在をどうしても消せないミカの内面の隠喩になっている。

そして卒業後に図書館を訪れた時に、消えかけてはいるが「花咲く乙女たちのかげに」らしき文字が見える。この小説の主題は、単線的な時間の流れとは別に、人間は独自の生きられた時間の中で生きるという哲学的なもの。ヒロの死後、現実の時間とヒロとの時間の2つを生きようとするミカの生き方とシンクロするんだよね。

表面的なつっこみ所の多さと、意外にも深い隠喩のアンバランスがこの映画の特徴だと思う。

まさむね