孤独死は本当に悲惨?-水曜ノンフィクションを見て-

今週の水曜日の「水曜ノンフィクション」で孤独死がテーマになっていた。

都会の団地で一人暮らしのお年寄りが亡くなる。
一人暮らしだから、すぐには分からなくて、ひどい場合だと数年位経ってから白骨死体になって発見されるという。

番組では、残された遺品を整理する専門業者を密着取材。
さらに、常盤台団地の、一人暮らしの老人を対象とした「気兼ねなくコミュニケーションできるサロン」、すなわち孤独死予防センターの活動も紹介していた。

孤独死する老人は悲惨だから、地域の人々が新たなコミュニティを作らなければならないのでは...という結論。

でも、実のところ、僕には違和感を禁じえなかった。

おそらく、そういったボランティアをされている方々は全くの善意の人々なんだろう。
その活動というのが、一人暮らしの老人のところに、突然「ピンポーン♪」って押しかけて、「最近どうですか」とか話かけるのだ。

いきなり来られて、嬉しい人もいるかもしれないが、自分だったらどうだろうかと考えてしまった。
とりあえず、作り笑いをして、「大丈夫です。ありがとうございます。」と言って、その場を取繕うに違いない。
それは、僕がまだ「孤独」ではないからそう思うのだろうか。

さらに、そういったボランティア達は、一人暮らしの老人の電気メーターの回り具合や、洗濯物、郵便物までチャックして下さるそうだ。
なんて、ありがたい事を(笑)。
    ◆
これは僕の想像だけど、孤独死する人って、多くは突然死だ。
寝たきりで一瞬でも治療を怠ったら死んでしまうような人は、介護スタッフが巡回しているだろうし、それどころか入院している。
とりあえず、一人暮らしの老人っていうのは、健康上、そこまでの状態ではないんだと思う。
それが風呂とかに入っていて、突然、脳梗塞とかで亡くなってしまうのである。
そして、誰にも気づかれず...というパターンが多いのだと思う。

でも、ちょっと待って。
都会の団地の孤独死というものが、本当に一番、悲惨な死に方なのだろうか。
    ◆
思えば、昔から、日本には「ぽっくり寺信仰」というのがあって、突然死への切なる願いがあった。
例えば、八王子の龍泉寺にはぽっくり観音というのがあるらしい。

この観音様に祈願すると、下の世話にならずに、寝込むことなく、寿命の尽きる時まで健やかに暮らすことができると言い伝えられています。

ようするに、これは、みんなに迷惑をかけながら、毎日痛い思いをしながら、病床で寝たきりになるよりも、ぽっくり死なせてほしいという信仰。
僕は、それは、極めてまっとうな信仰だと思う。

勿論、孤独死でぽっくり死なれても残された団地の人々は嫌な思いをするだろうけど、それは仕方ないと諦めるしかない。
ちょっと言い過ぎかもしれないけど、極論すれば、死んだ者勝ち。

それよりも、20世紀末から3万人に増えたまま一向に減らない自殺。
その中でも、女性の自殺のほとんどが病苦によるらしい。
ずっと前に、自殺率が高いどこか田舎のある地方での老婆の病気>欝気味>自殺の流れに関するドキュメンタリがあったんだけど、そんな老婆の多くは、家族と同居している老婆だった(ように記憶している)。

ここからは、あくまでも想像上の話なんだけど、昔ながらの家族意識が強い地域で、家族の中でなんとなく疎外感を感じてるんだけど、愚痴も言えなくて、自分の中にいろんなものを抱え込んでしまった老人が、病気になって、さらに落ち込んで、それでも、お金が無くて別居したいとも言い出せなくって、そして追い詰められて自殺しちゃう。
でも、世間体があるから、自殺ってことじゃなくて病死ということで近所に伝えて処理されちゃう。
そして、残った家族はなんとなく、ホッとする。

こういう死の方がよっぽど、孤独だと思うのは僕だけでしょうか。

逆に長年一人暮らしの老人の方が、孤独に慣れていて、自分自身の趣味を持ってさ、今更、みんなでコミュニティでフラダンスなんて勘弁してほしいって思ってるんじゃないか。
ましてや、毎日、郵便物なんて覗かれたくないってね。
勿論、これはあくまでも僕の想像だけどね。
    ◆
孤独死というドキュメンタリを作るのは結構だ。
でも、都会>団地>一人暮らし>突然死>悲惨という紋切り型の不幸をなぞるだけじゃ本当の事は見えてこない時代なんじゃないかな。
視聴率を気にする以前の問題である。

まさむね

天下りに一番怒らなければならないのはそこの職員だ

天下り問題の議論が益々激しくなっている。

昨日の予算委員会での討論では、民主党は、天下りの省庁による斡旋だけではなく、OBの”数珠繋ぎ渡り”が問題だと指摘していた。
しかし、問題の本質は、そもそもそういった3年板だけで、ほとんど何もしないで何千万もの退職金を得られるようなポスト、すなわち、そういった無駄な公益法人が無数にあるという事が問題なのだろう。
そういった公益法人には、理事とか理事長とかいう少数のキャリアの天下りもいるが、ノンキャリアの役人の天下りもある。

実は、僕は今から10年位前に、ある公益法人に派遣SEとして働いていたことがあった。
そして、そこにも天下りはいた。
でも、その法人では、理事長はほとんど、見なかった。
2週間に一度くらい、事務所に来ていたみたいだけど、個室に入っちゃうから、目立たなかったのかもしれない。

一方、ノンキャリの天下りたち(立場は嘱託?)は、5~6人で、おじさん軍団を結成し、部屋の隅の島に朝から居て、夕方まで新聞を読んでいた。
でも、これらのおじさんたちはみんな気のいい人だった。
いつもお菓子をくれるは、ちょっとした話相手になってくれるは...
長年、下層・宮仕えで培ってきたんだろう、組織内を円滑に丸めようとする腰の低さはやはり本物だ。

そして、おそらく、彼等の生き甲斐っていうのは会社の外にあるんだろう。
とりあえず、昼間はここに居て、夜、休日に目を輝かせるんだと思う。
ハロプロのファン層は地方公務員だという話を聞いたことがあるけど、こういう法人嘱託もその層に入っているのかも。
みんな話題が豊富だったからね。

ただ、彼等が別の顔を見せる日がある。
それは、本省から課長が見学に来る日だ。
朝からピリピリするおじさん軍団。
何度も社員のところに来て、机の上を綺麗にしろだの、サンダルは履くなだの、背広を着ろだのと注意に来る。
いつもとはまるで違った顔を見せるのだ。
そして、その課長(多分30才位)が一瞬、顔を見せると、おじさん軍団がいきなりとテキパキと動き出す。
おじさん軍団はその課長を取り巻いて、なにかを説明する。
こっちを指差したりして。
そして、お決まりなのは、5分くらいして、軍団と課長は歌舞伎町へ消えていくのだ。
今、思えば、懐かしい光景だったな。

でも、一方で、その公益法人の職員達は本当によく働いていた。
ほとんど、土日も仕事してたからね。
彼等はよく業務を知っているし、仕事も出来た。
やっぱり、そういう人が頑張って、出世して、理事とかになれるようなシステムにすべきだ。
天下り先に12兆円もの大金が投入されているというニュースが流れれば、その時は、確かに一般の我々は許せないと思う。

しかし、天下り問題に一番、怒らなくちゃいけないのは多分、この職員たちかもしれないと思う。

まさむね

2000年以降のヒット曲には何故「桜」の歌が多いのか

先週のミュージックステーションは、3時間スペシャルで昭和の歌と平成の歌の、それぞれ投票によるベスト100が発表され、大変興味深かった。

まずは、昭和のベスト100、特に70年代の曲を見ると、なごり雪(7位)、木綿のハンカチーフ(29位)、心の旅(51位)、喝采(54位)といったところが目立つ。
これらの曲はみんな都会と故郷という図式が明確な歌なのである。

「心の旅」は、男性が都会に発つ前の日の、恋人を思う気持ちを歌にしている。
「なごり雪」では、汽車で帰るのは女性。男性の女性への残る気持ちと、二人が別れる駅のフォームでの情景を描いている。
「木綿のハンカチーフ」は、男性が都会に出てしまい、それから半年までの二人の生活と心の動きを歌った歌。
「喝采」は、都会に出て、歌手になった女性が3年ぶりに故郷に帰った時の心情を歌に込めている。

それぞれの状況は微妙に違うが、そこには男と女、都会と故郷というテーマがみえる。
あの頃は、つき合うという事と結婚という事が近い時代だ。
だから、二人が別れる物語には、上京や帰省が説得力を持ったのだと思う。

当時は、別の女性(あるいは男性)が好きになったから別れる、などといえるほど、恋愛の自由さはなかったのだ。
    ◆
昭和ベスト100の一番というのが、尾崎豊の「I love you」というのは凄い。
記録によると当時はオリコンでは最高5位だ。それが20年以上の時を経て、人々の心をつかんでいる。
歌詞を見ると、「逃れ逃れ辿り着いたこの部屋」「何もかも許された恋じゃない」「二人の愛には触れられぬ過去がある」というようなフレーズに目が行く。
おそらく、学校とか親とかから駆け落ちみたいに逃げてきた二人?
反社会的なシチュエーション、そしてそれと反比例した二人の愛。

「きしむベッド」とか「落ち葉に埋もれた空き箱みたいな部屋」みたいな状況は決して豊かではない。むしろ貧乏臭い。しかも不幸の影もある。
でも、この追い詰められた切ない感じにリアリティがある。

昨今の社会状況を考えると、こういう「切なくて美しい貧乏」を描いた歌が再び求められている時代なのかも。
    ◆
平成のベスト100を見ると、花、特に桜を歌った歌で、しかも、2000年以降の曲が多い。

1位 世界に一つだけの花(SMAP)、 3位 蕾(コブクロ)、6位 桜坂(福山雅治)、14位 チャリー(スピッツ)、23位 さくらんぼ(大塚愛)、26位 花(ORANGE RANGE)、27位さくら(ケツメイシ)、31位 桜(コブクロ)、47位 さくら(森山直太朗)、70位(CHE.R.RY)YUI。

おそらく、背景には、バラバラになってしまった日本人が、日本人としてのアイデンティティのよりどころを桜に求めているという事がある。
数少なくなった日本人としての共通の感性が、桜を愛でるという事。

もう、駅のプラットフォームでは共通の物語は作れなくなった時代に、男も女も、大人も子供も、金持ちも貧乏人も、日本人は桜が大好きだから、一人ひとりバラバラになってしまったドラマの背景として、桜は必要なのであろう。

それにしても、ソメイヨシノの花というのは、確かに綺麗なんだけど、新しいものは生み出せない花であるというのもゾクっとくる話だ。
それは、刹那の間、人間の目を楽しませるだけの花なのである。

日本人の桜好きが、将来への不安の裏返しとか、何かイヤな事の伏線とかじゃなければいいと思うのだが。

まさむね

「みなしごハッチ」に見る不条理と大人のズルさ

毎日、16:30からMXテレビの「みなしごハッチ」再放送を見ている。

勿論、子供向け漫画なので、単純な勧善懲悪的なストーリーも多いのだが、時として深いテーマ性や不条理性があって、それもまた楽しい。

さらに、1970年頃の作品だけに、「戦うのは本当の勇気ではない、耐えることが勇気だ」「暴力は卑怯者の言い訳だ」「話合えば、必ず分かり合える」あるいは、「武器(=軍隊)を持つのが悪い」というような戦後の価値観が色濃く出ていたりもして、それはそれで興味深い。
    ◆
例えば、一昨日の回は、おいぼれたスズメ蜂の話だった。

元々、ハッチはスズメ蜂の襲撃にあって、離れ離れになってしまった母を探して旅をする物語である。
そして、旅の途中で、ハッチが、仲間から見捨てられたスズメ蜂族の長老に出会うというのが一昨日の話だった。

最初ハッチは、その年老いたスズメ蜂の事が嫌いだった。
ハッチにとっての敵(かたき)だからだ。

だから、他のスズメ蜂や他の昆虫達からイジメられるそのスズメ蜂をいい気味だと思ってみていた。
「今までみんなをイジめてきたから、そういう目にあうんだぞ。」ハッチは老スズメ蜂にたたみかけるハッチ。
ところが、ハッチの中では、その老いたスズメ蜂といろいろと関わっていくうちに、段々、そのスズメ蜂が可哀相だと思う心が芽生えてくるのだ。
そうこうしているうちに、雨が降ってくる。
ハッチとスズメ蜂は、穴倉に逃げ込み、ハッチの身の上話になる。
スズメ蜂の襲撃になって、兄弟は殺された事、母親と離れ離れになった事...

するとスズメ蜂は「実はハッチ一家を襲ったのは自分だった」と告白し、ハッチに自分が持っていた槍で「わしを突き殺せ」と涙ながらに訴える。
うろたえるハッチ。
憎い敵を目の前にして復讐したい気持ちと、どうしても殺せない心との間の葛藤でハッチは悩む。
どうするハッチ。
「この槍を持っているのが悪いんだ。こんなもの捨ててしまえ」とやり場の無い怒りを槍にぶつけるが、気持ちは収まらない。
ところが、その時、雨はさらに強くなり、二人が居る洞穴に津波が押し寄せる。
老いたスズメ蜂はハッチを助けて、自らは首まで水に浸かっている。
「死んじゃいやだ。おじいさん」ハッチは泣き叫ぶが、スズメ蜂は既に水に飲まれそうだ。
そして、死に際に「ハッチ、お前のお母さんは...にいる」
「えっ、僕のお母さんは何処にいるの?おじいさん、おじいさん...」ハッチの叫び声もむなしく、スズメ蜂は大水にさらわれてしまった。

ここで話は終わり。

オチも無く、ただの悲劇で終わってしまった。
多くの視聴者の良い子達は取り残された気分を味わっただろう。
愛と憎悪の葛藤というテーマもウヤムヤになってしまった。
しかも、最後は、おじいさんが死んでしまったから悲しんでいるのか、お母さんの居場所が知りたいのかの優先順位も曖昧なまま終わってしまったのである。
    ◆
物語の筋が行き詰まった時には、どうすればいいのか?という疑問の一番強引な展開に、地球を爆発させればいいというのがあるが、まさしくその展開だった。

こうして、良い子は、現実の不条理さ、大人のズルさをハッチから学ぶのでした。

まさむね

大麻禁止と日本憲法は同じである

若麒麟が大麻所持で逮捕された。
トンパチな事をしたものだ。

自分の一生を台無しにしてしまった。

大麻が問題なのは、ただ一点、法律で禁止されているからだ。
パクられた時のリスクを考えれば、あまりにもつまらない行為だからだ。
    ◆
個人的には若麒麟という関取の印象は薄い。
正直なところ、白露山や若ノ鵬が解雇された時は誠に残念だったが、個人的には、今回はそれほどでもない。

大相撲協会はいつもながら右往左往して、結局、若麒麟を解雇した。
妥当なところだと思う。マスコミは退職金が出るから除名にすべきと言っているが、気にする事はない。
条件反射的に言っているだけで、明日には忘れている。

さらに、今後は行司も含めて、所属者全員に抜き打ちテストをするらしい。行司もというところが微妙に笑える。

可哀想なのは、尾車親方だ。何度も謝罪していた。
若麒麟自身もおそらく、親方に迷惑をかけた事が一番辛いだろう。それを考えても、トンパチな事をしたものである。

関係ないが、「ピンポン!」というオバさん向け情報番組で、麻木久仁子が「HIPHOPスタイルで外出したのだから、親方も、気付かなかったんですかねぇ」と言っていた。
この人、本名は田中久仁子といういうらしいが、わざわざ、「麻木」なんていう意味深な芸名にしているんだからマシな事を言うかと思ったのに、期待したのが間違っていた。
    ◆
ちょうど、月9の「VOICE」というドラマで大麻吸引していた(らしい)学生の死が扱われていた。
このドラマは法医学のドラマで、最初、大麻を吸ったため意識不覚状態になって自殺したのではないかという仮説が出されていた。
大麻で幻覚?
こういうドラマは、大麻に対する誤解(偏見)を増殖する。大麻は覚醒剤や阿片やLSDではないのだ。
    ◆
同日、アメリカのマイケル・ヘルプスも大麻を吸引していた証拠写真がイギリスのサン紙に掲載された。それで金メダル8個である。
ヘルプスといい若麒麟といい、これでまた大麻が肉体に害が無いという事が新たに証明されてしまった。(かな?)
    ◆
最近、若干、大麻は本当に悪いのかという事がマスコミでも議論する傾向が出てきた。いいことだ。
大麻禁止は、GHQが日本に押し付けたものだ。
日本国憲法と同じなのである。
つい最近まで、憲法を変えるという議論は、それ自体がタブーだったが、時が経ち、憲法論議も徐々にではあるが解禁されてきたではないか。
一回り遅れでもいい。悪と決め付けるのではなく、大麻に関する議論も起きてほしいものだ。
    ◆
昨年来、若者の中でアルコールの消費が減ってきたというのが話題になってる。
何人もの人が生活を破壊されてきた。体も壊してきた。酒の上でのトラブルも絶えない。
当たり前の話だが、アルコールは危険なのだ。
それでも、法律で禁止されているわけではない。
それどころか、テレビでバンバン宣伝している。

一方、大麻は別に体に悪いわけではない、少なくとも酒やタバコよりは。
吸ったことによって、暴力的になったという話は聞いたことがない。
だけど所持は犯罪だ。
酒と大麻の扱い、どうみても不公平ではないのか。

しかし、こんな不公平な状況の中、大麻を吸う若者が増えてきたという。
酒が減って、大麻が増えるという事は、彼等はどこかで、本当の事をわかっているのかもしれない。

ただ、くだらない法律や偏見がまだ生きている。くれぐれも気をつけてほしい。それだけだ。

よろしければ、こちらのエントリー「大麻ってそんなに悪いの?」もご参照ください。

まさむね

兼続の両義性が「天地人」の見所~謙信と信長の狭間~

NHK大河ドラマ「天地人」は、上杉家という大きな組織を、部下として、衰退させながらも上手く軟着陸させた直江兼続という男の物語である。

100年に一度といわれる経済危機の時代。
世界のトヨタやソニーといった大企業も、安穏としていれらない時代。
大きな発展を夢見るのではなく、いかに組織を維持し、あるいは、いかに上手に衰退させていくかというのが課題の時代。

今年の「天地人」は、そんな現代に相応しい物語になりそうである。

さて、本日放送の「信長は鬼か」は天正4年の頃の話までであった。
謙信が亡くなるのは翌年の天正5年なので、おそらく、今回~次回、次々回の放送の時期までの頃が上杉家が最も勢いがあった時代の回ということになるだろう。
もっとも、その流れの中で、規模という見地からすれば、秀吉の家臣として越後、出羽などを収めて120万石を領有する時代が一番、興隆した時代ということは言えるのだが、それはあくまでも天下を諦め、野望を捨てた存在であり、勢いという意味では無くなってしまうのだ。
上杉家の勢いという意味では、謙信存命中がやはり一番なのである。
ちなみに、年表的には今後、謙信の死、上杉家の内紛、五大老時代、関が原、米沢転封 となっていく。

おそらく、「天地人」のポイントは、戦乱から統一を向かえる歴史、組織の流れの中で、直江兼続が、(いわばサラリーマンとして)いかに働いたかというのがテーマになっていくに違いない。それはまさしく現代的なテーマなのである。

実は、似たような事は、前作「天障院・篤姫」にも言えたのを覚えておられるだろうか。
こちらは幕末に滅び行く江戸幕府・大奥という古い組織をトップとして静かに終わらせた一人の女性の物語であった。

「篤姫」と「兼続」は、トップと部下、女と男、消滅と衰退という違いはあれ、見比べてみるというのも一興であろう。
そういった意味でも、篤姫のコンセプトが「和と絆」であったのに対して、兼続のコンセプトは「愛と義」というのは注目なのである。
2月1日放送の第5回「信長は鬼か」では、「義」という思想にたして、信長は「戦争の口実」と言い、謙信は「人が生きる美学」と言っていた。
信長は「義」を相対的に捉えているのに対して、謙信は「義」を信仰しているのである。
それは、信長は合理的であるのに対して、謙信は原理主義者であるという事をあらわしていた。

歴史の必然としては、多くの場合、原理主義者は美しい結末をむかえ、現実的には合理主義者が勝利する。

今回、信長と謙信の二人に合った兼続の心は、二つの「義」の間で揺れ動いたが、彼のそういった(文字通りの)両「義」性が最終的に、上杉家を、美しい死ではなく、しぶとい衰退に導いく事の伏線になっていくのだろう。

今後、その「義」に殉じながら合理的に生きる、兼続の両「義」的な生き方、そして心の揺らぎこそがこのドラマの見どころになっていくに違いない。

まさむね

朝青龍ガッツポーズに横審が物言い。楽しくなってきた。

朝青龍の優勝直後のガッツポーズに横綱審議委員会がクレームをつけたという。

やはりそう来たか、という感じである。
横審としては当然の対応だ。
    ◆
実のところ、僕は、ガッツポーズぐらいいいじゃないかという立場でも、品格に欠けるからダメだという立場でもない。
自由奔放な横綱がガッツポーズをした。>それに対して監視する横審が文句をつけた。
いい流れになったな、と見ているというのがとりあえずの立場だ。

おそらく、そうやって相撲界全体が、ワサワサする、日本中があれこれ議論する、話題になる、マスコミが騒ぐ、次の場所にさらに注目が集まる。
そういった大相撲が長年培ってきた興行会社としての手法(戦略)をトータルで見世物として楽しむ、というのが僕の興味なのである。

それにしても、大相撲というのは日本が生み出した、実に日本らしい大発明である。
土俵上の仕草にしても、一つ一つはもったいぶっていて、意味ありげだが、実は、”それらしいもの”の寄せ集めなのである。
誰も確かな意味とか、起源とかを気にしない。
それでいいのだ。
気になって、調べてみたら、以外に戦後からのものとかが多い。伝統でもなんでもないのだ。
そんなものなのだ。

例えば、土俵にいるという神様。これは、戦前は、天地開闢の十二柱=神代七代の神だったのが、戦後、一人の行司と相撲評論家が二人でただの三柱にしてしまった。
おそらくGHQから文句をつけられないかという事で自粛してそうしたというのだ。(詳細は、「女はなぜ土俵にあがれないのか (幻冬舎新書)」内館牧子参照の事)

こんな日本的なおおらかさに満ち溢れた大相撲という見世物は素晴らしいと僕は思う。

日本人は今まで、カラオケとかアニメとかいろんなものをオリジナルとして世界に発信してきたが、大相撲も、世界に出て行けるには十分な魅力を持っている。

何よりもあの、丸い土俵というもののオリジナリティは凄い。
決まった枠の外に出たら、それだけで負けというのは世界広しといえども、相撲だけだ(だけらしい)。
これによって、立会いに頭からぶつかりあうという迫力という意味では世界でも稀有な格闘技が生れたのである。
もしも、土俵というものが無かったら、作戦としてどこまでも逃げ回るという手が出来てしまう。

その昔、元相撲取りがオクタゴンに入って、相手のキックボクサーを金網まで押していって、そこで何もする事が無くて、顔面を蹴られてKOされたという試合があったが、もしも土俵が無かったら、相撲の技はほとんど通用しないものになってしまうのである。
また、土俵があるから、強い者もたまに、しくじったり、小さい者が勝ったり出来るのだ。
    ◆
僕が夢見るのは、は世界中の巨人達が両国国技館で闘う風景だ。
とりあえず、アフリカのセネガルには”セネガル相撲”(日本名だけど)という独特の格闘技があるらしい。
それは日本の相撲とよく似た技が存在するらしい。(立会いがない等、異なる点も多いらしいけど)。
一度、80年代に彼等を日本に連れてこようとしたらしいが、その時は、髷が結えないのでは?ということで話が無くなったという。
全く、もったいない話だ。髷なんてなんとでもなるではないか。床山さんの技術ならば...

ブルガリアというヨーグルトくらいしか知られていない国に、”角界のベッカム”琴欧洲がいたではないか。
エストニアというバルト海の小さな国でさえ、あの”バルチッククレーン”把瑠都がいたではないか。

これからは日本のソフトパワーだと言っている政府の方々、外務省職員の方々、是非、全世界からそういった人材を集めてもらえないだろうか(と切に願うばかりだ)。

そして、彼等が大相撲に入門する、そしてまた何か問題を起こす。相撲界がまたワサワサと揺れる、日本中があれこれ議論する、マスコミが騒ぐ、相撲に注目が集まる。
これが、全部で楽しみなのである。
    ◆
さて、こうしているうちに、若麒麟が大麻で逮捕されたというニュースが入ってきた。
尾車親方は即刻、若麒麟を引退させた。ということらしい。
これに関しては、また後日、語ってみたいと思う。

まさむね

人は様々なモノを作るが、思うようには作れないという話

サッカー観戦が中高年の娯楽になりつつあるという。

Jリーグは28日、昨季リーグ戦のスタジアム観戦者について行った調査の結果を発表した。
観戦者の4割以上が40代以上と、中高年が観戦に熱心であることを示す結果が出た。(時事通信)

ということだ。
そのうち相撲のようになってしまうのだろうか。
おそらく、その原因は、サッカー観戦の独特の内輪感にあるのではないだろうか。
一見さんが、観戦に行っても疎外感を感じてしまうのである。
    ◆
しかし、これはどんなジャンルにも言えるのかもしれない。
プロレスだって、アイドルだって、オンラインゲームだって、SNSだってそうだ。

最初、担当者はどうやって人を集めようかと考える。
さらに、人を集め続けようかと考える。
そして、コアユーザーを作ればいいという話になる。
会員制やポイント制とかファンサービースを駆使して、それに成功する。
そうすると連帯感とか、独自の作法とか、常連とかが生れる。
ただ、そうなるとニューカマーにとって敷居が高くなる。
そして、そのジャンルが停滞する。

というサイクルはある程度普遍的なように思えるのだ。
だから、長期的戦略を立てるならば逆にコアユーザーを作らないというのが正しいという事も言える。
    ◆
実は、それに成功したのが2ちゃんねるなのである。
言うまでもなく、2ちゃんねるのアーキテクチャ上の特性は、最大1000レスでスレッドが終わること、最も最近書き込みがあったスレッドが板の一番上に表示されること、名前を記入しなくていいこと等である。
すなわち、常に、新しい状態であるように、常連が居つけなくなるように、設計されているという事なのである。
しかし、おそらく、西村ひろゆき氏は、最初、常連排除目的のためにこのような設計にしたわけではない。
特に、1000レスのdat落ちに関しては、運営経費上の処置だったと思う。

僕は、一度、2ちゃんねるが出来てから、2年目位の時に、ひろゆき氏に会う機会があった。その時、2ちゃんねるが他のサイトとは違って成功した理由を訊いたことがあるが、彼は言った。

「雪の玉ってありますよね。雪の坂に小さな石を投げると、転がりながら、その石にどんどん雪がついていって、段々大きくなる、あの雪玉です。
僕は、ただ、最初に石を投げただけで、それと同じように2ちゃんねるは、勝手に大きくなって行ったんですよ。」

ようするに、自分の意図とは別に出来上がっていったというのだ。
そのとき、僕には彼が何らかの秘密を隠しているようには思えなかった。
2ちゃんねるはひろゆき氏の狙い(予想)をはるかに超えて大きな存在になっていったのである。
おそらく、その時点でひろゆき氏にとって、2ちゃんねるの成功(肥大化)というものは、偶然と運以外の何物でもなかったのだと思う。

それは、一人一人が個人が責任を持って発言出来ないという日本の風土に生れた声にならない声を、匿名性+流動性を保証するようなアーキテクチャが、偶然にも拾い上げたと言う事なのだろう。
2ちゃんねるは、20世紀から21世紀初頭の日本という特別な舞台だからこそ大きくなったのだ。
マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメールの18日』で「人々は歴史を作る。だが、思うようには作れない」という言葉を思い出した。
インターネットの世界でも、時として「人は、アーキテクチャを作るが、それが思った以上の化け物になることがある」のである。

しかし、一方で良識の世界ではそんな2ちゃんねるに対して、不快に思う人々も出てくる。それはある意味、当然だ。
その結果、2ちゃんねるを運営するひろゆき氏に対して、名誉毀損的書き込みがあったとして多くの訴訟が起こされた。
書いた本人は匿名だからわからない、だから訴訟の先は、その書き込みを放置したということで、ひろゆき氏に向いてしまったのだ。

しかし、彼はそれらの訴訟のほとんどを無視している。
それゆえに、まだ決着はついていない。
おそらく、普通の運営者だったら、ましてや会社で運営していれば、訴訟を終結させ、今後の訴訟を回避するために、アーキテクチャを変え、健全化を目指すであろうが、彼はそれをしない。
良くも悪くも、彼のその不良性によって、このサイトは生きつづけているのだ。
    ◆
さて、今年に入って2ちゃんねるで一番活発な板の一つ「ニュース速報+」で、一番スレが続いたのは以下の記事だった。

【マスコミ】毎日新聞の熊本支局次長、深夜に24歳女性の部屋に侵入し下着ドロ★

おそらく、テレビや新聞だけ見ている良識的な人には、ほとんど目に触れなかったであろうこの記事に対して、数日間で、延べにしても2万7000件(27スレ)もの罵倒が浴びせられたのである。
ちなみに昨年は、【訃報】 筑紫哲也さん、肺ガンのため死去 73歳 「NEWS23」元キャスター★という記事が57スレまで延びた。
テレビでは、良識的な面々が口々に追悼の言葉を述べている間に、ここでは、5万7000ものメシウマ~という「慶び」の声が寄せられていたのだ。

これを、ネットの落書、取るに足りない、不謹慎、と良識的な人は、一蹴するのだろう。
しかし、今までだったら、個人的、散発的にバラバラに生じていた人々の生の声や不満が集合する場所が出来たという現実はもう戻らない。
インターネットの普及に加えて、昨年来の不況は、マスコミを直撃し、彼等は今までのような特権的な場所には居られなくなってきたようだ。
今後、どうなっていくのであろうか。
    ◆
サッカーは中高年向けの娯楽だという話から、いつの間にか、関係ない話になってしまった。
すみません。

まさむね

風太郎の野望は新しい時代の価値観となりうるか

銭ゲバの第2話を見た。

三國造船という大きな造船会社で派遣労働者として働く、主人公の蒲郡風太郎(松山ケンイチ)。
長女の緑(ミムラ)の運転する自動車にわざと当たり、キッカケをつくって、次女の茜(木南晴夏)の話し相手として、社長の家に寄宿することになる。
そして、三國造船を乗っ取ろうという野望を抱くのであった。

社会学者の山田昌弘氏は、現代における最も根本的な格差は、経済格差や教育格差ではなく、希望格差だと言っている。
生まれた環境によって、一人一人の心の中に生じる希望がすでに格差づけられているということだが、それは逆に言えば、ハングリー精神という物語が死滅したという事なのだろうか。
だとしたら、風太郎が持つ価値観(野望=夢)そのものが現代人にとって死滅しかかっているという事なのだろうか。

しかし、そんな時代だからこそ、風太郎の生き方はインパクトを与えるとも言えないだろうか。

前回のエントリーにおいて、風太郎の母親が語る「生きることは苦しくても、頑張っていれば、いつか幸せになれる」という価値観(人生観)に対して、現代的な価値観を提示できるかどうかというのが、このドラマの見所であるというような話をしたが、答えは早くも見えてきた。
それは、悪を引き受けてでも、死に物狂いでのし上がろうという風太郎の野望エネルギー(=ハングリー精神)である。

昨年来、「貧しくても一生懸命に正直に生きよう」という価値観は、「貧乏太郎」や「イノセントラブ」など、多くのドラマでも見られたが、それらの登場人物はあくまで無欲だった。

しかし、風太郎は違う。

「貧しいからこそ欲望を持とう」というメッセージは、70年代初頭から一回りして、今、新鮮だ。
このドラマが今後、どんどん視聴率を上げて行き、世の中にインパクトを残すまでになってほしい。

そういえば、派遣切り企業(昨年末600人)のスズキは、今後も、派遣労働者が主役のこのドラマを提供し続けるのだろうか。
しかも、前回には、交通事故(わざと当たる)という自動車メーカーとしてはかなり微妙なシーンも許容していた。
この太っ腹(あるいは無頓着)はどこまで続くのか。それもまた興味深い。

まさむね

撫子紋 -可愛い日本女性のシンボル紋- 斎藤義竜、東條英機、宇多田ヒカル...

秋の七草、撫子。
戦いに明け暮れた武士達のやすらぎのひと時を感じさせる優しい花だ。
また、この撫子紋は、大和撫子というように、日本女性を象徴する紋である。
この紋で有名なのは、美濃の斉藤一族。
全国分布では、石川県で27位に入る。
撫子紋を持つ有名人は以下。


斎藤義龍 。1527年7月8日 – 1561年6月23日、 戦国大名。
初代当主・斎藤道三の嫡男。美濃の戦国大名斎藤氏の第2代当主。実父は土岐頼芸という説もある。尾張の織田信長の軍勢と戦い戦況を有利に進めた。長良川の戦いで斉藤道三を討ち果たす。足利義輝によって幕府相伴衆に列せられた。家紋は撫子紋。


秋月種実 。1548年 – 1596年11月16日、 戦国大名。
筑前国出身。秋月文種の次男。読みは、あきづきたねざね。秋月氏の第16代当主。島津氏と大友氏の争いの中で大友領を侵食し、36万石にも及ぶ広大な所領を有した。豊臣秀吉の九州征伐では、豊臣勢と戦ったが敗北した。家紋は三つ盛撫子紋。


山県大弐 。1725年 – 1767年9月14日、 儒学者、思想家。
甲斐国篠原村出身。野沢氏の出自。名は昌貞。甲斐国山梨郡山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説く。明和事件において処刑された。主著は『柳子新論』。家紋は桔梗紋であるが、新宿・全勝寺の墓所(画像)には奥方斎藤家の撫子紋がある。


斎藤利行 。1822年2月2日 – 1881年5月26日、 土佐藩家老。
若くして藩主山内豊煕の御側物頭として仕える。長崎で起きた土佐藩士による英水兵殺害事件では後藤象二郎とともに補償問題を解決。坂本龍馬と結んで武器調達に活躍。明治政府では刑部大輔・参議・元老院議官を務めた。画像は青山霊園にて撮影。


明石元二郎 。1864年9月1日 – 1919年10月26日、 陸軍軍人。
黒田藩士・明石助九郎の次男として福岡の大名町に生まれる。関ヶ原の戦い、大坂の役で戦ったキリシタン武将、明石全登の末裔といわれている。日露戦争では諜報活動で活躍。陸軍大将・勲一等・功三級・男爵。第7代台湾総督。家紋は丸に撫子紋。


斎藤緑雨 。1868年1月24日 – 1904年4月13日、 小説家、評論家。
三重県・神戸出身。本名は賢。『小説八宗』『初学小説心得』『小説評注問答』などのパロディ精神に溢れた評論を書く。『油地獄』『かくれんぼ』などの作品で小説家としても認められる。家紋は丸に撫子紋。画像は向丘・大円寺にて撮影。


片山正夫 。1877年9月11日 – 1961年6月11日、 化学者。
岡山県出身。東北大学教授、東大教授。液体の表面張力と温度との関係式(片山式)で知られる。物理化学の先駆的な研究を行なう。主著「化学本論」は日本における初期の本格的な物理化学教科書。家紋は撫子紋。画像は南麻布・円沢寺にて撮影。


東條英機 。1884年7月30日 – 1948年12月23日、 陸軍人、政治家。
東京市麹町区に東條英教陸軍歩兵中尉の三男として出生。本籍地は岩手県。東條家は能楽師として盛岡藩に仕えた家系。統制派として陸軍を主導。開戦時の内閣総理大臣。A級戦犯として処刑された。撫子紋は雑司が谷霊園、和田堀廟所の墓所とも共通意匠。


豊田貞次郎 。1885年8月7日 – 1961年11月21日、 海軍軍人。
和歌山県出身。紀伊田辺藩士・豊田信太郎の次男。最終階級は海軍大将。予備役編入後は政治家に転身し、商工大臣、拓務大臣、外務大臣、軍需大臣、内閣顧問、運輸通信大臣などを歴任する。家紋は撫子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


西東三鬼 。1900年5月15日 – 1962年4月1日、 俳人。
岡山県苫田郡津山町出身。本名は斎藤敬直。戦争批判の作句により特高に検挙されたという。その後、現代俳句協会の設立、俳句誌「断崖」創刊、俳句総合誌「俳句」編集長もつとめる。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は撫子紋。


宇井純 。1932年6月25日 – 2006年11月11日、 環境学者。
東京都新宿区出身。読みは、ういじゅん。「純」の名前は6月生まれに由来するという。水俣病の問題を社会に知らしめる発端を作り、公害問題に関する住民運動などに強い影響を与えた。家紋は撫子紋。墓所の写真より判断。


宇多田ヒカル 。1983年1月19日 – 、 シンガーソングライター。
米国ニューヨーク州出身。先祖は但馬の清原氏族。日本の代表的女性ソロシンガー。1stアルバム『First Love』は860万枚以上、国内アルバム売り上げ史上歴代1位の超メガヒットとなる。代表作『Automatic』『First Love』『Flavor Of Life』。


世之介 。元禄年間 、 井原西鶴作「好色一代男」の主人公。
わずか7歳で腰元に恋をして性を知り、一生のうちに交わった人数は、女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人という。最後、海の彼方にあるという女だらけの「女護が島」をめざして船出し、それきり消息が絶えた。家紋は撫子紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね




Just another WordPress site