荒ぶる神への畏れを失くしていたのではないか

この間のGW連休中に遅ればせながら伊勢神宮にはじめて行ってきた。伊勢神宮はご存知のように内宮と外宮に分かれていて、式年遷宮という20年毎の更新・再生(今で言うシステム交換)が行われることで有名だ。ここではこの式年遷宮という非常にユニークで、ある意味で今のエコ時代の先を行くような再生とリサイクルのシステム化についてこれ以上触れるつもりはないが、単なる経済合理性とは画然と異なり、人智を尽くして考えぬかれたようなその再生のシステムをあらためて凄いと思う。

ところでガイドさんのお世話になりながら内宮と外宮を参拝してまわったのだが、内宮には御正宮と荒祭宮という好対照のふたつの宮がある。これはどんな宮でも多かれ少なかれ備えているはずの、いわば神のふたつの顔、正と負、陰と陽をあらわしているものだそうだ。

この定義でいえば御正宮(天照大神)は性格的には正しき大人しき神を具現化しており、荒祭宮は躍動的で、好奇心にあふれる荒ぶる神ということになるようだ。そうしてその性格の違いから御正宮には御礼を述べること、お願いは荒祭宮にしてください、とガイドさんに教えていただいた。むべなるかな、だ。

ここから話はいきなり飛躍するのだけど、今回の震災以後の原発事故において、初動のまずさやその後に明らかになってきた新事実(?)など列挙したら霧がないのはご承知の通りだ。これ以上起こった事象などについて言及しないが、自戒の意味もこめてあらためて言っておきたいのは以下のことだけだ。

いつからかぼくら日本人の多くは経済合理性だけを追いかけるような便益に溺れてしまっていて、本来荒ぶる神が持っているようなものへの畏れや怖さ、祓い、崇め奉りのような意識を失ってしまっていたのではないかということ。

たとえば原発の是非はどうあれ、あるいはリスク管理や危機管理なんてことをわざわざ持ち出さなくても、原発という根本的にも科学的にも制御不能の怖いものを扱っているという意識がどこかにちゃんとあったら、もっと崇め奉るような厳しい意識で細心の気配りと日常の務めのなかで相対してきたのではないかと思えるからだ。ごく当たり前に。

しかし現場の意識は日用と経済のルーチンのなかにオペレーションが溶け込んで埋没してしまっていたのだろう。だからそうした日常を超えるようなことは起こるはずがない、という「想定外」の排除姿勢だけが蔓延してしまったともいえるのかもしれない。それはおそらく「侍の意識」と対極にある考えかただろう。なによりも優れた侍の特質とは平時に有事を想定できるような能力のことだと思うから。葉隠れじゃないが。

いずれにせよ、先祖返りじゃないけど、昔の日本人の多くが持っていたなにか荒ぶるものへの畏怖の意識をもう一度蘇らせることがとても大事なことのように思える。きわめて当たり前なこととして。それは津波や地震対策についても当てはまると思う。

とにもかくにも事態がいまだなんら収束の見通しが立っていないことにとどまらず、仮に終息したとしても核廃棄物処理といういまだ処理の解決メドが立っていない、手付かずの、長い長い(天文学的な?)管理が必要なことは変わらない。

それこそ荒ぶる神を崇めるような細心の意識の持続が求められるのだろう。いつまでも、気が遠くなる先まで。

よしむね

「荒ぶる神への畏れを失くしていたのではないか」への6件のフィードバック

  1. よしむね様、こんにちは。

    もしかしたらよしむね様のエントリーにコメントさせて頂くのは初めてでしょうか。
    もし記憶違いでしたら申し訳ありません。

    きっと人は類人猿の頃には自分への危険リスクはすべて自前で請け負っていたのでしょうね。リスクも共有することでコミュニティーが発達し、様々なものも享受してきたのでしょう。

    荒ぶるものから少しでも遠ざかるための努力が進歩だったのしょう。
    ところがこんどは行き過ぎた進歩自体が荒ぶる神となってしまった、右往左往するのは当然なのかも知れませんね。
    きっとこれからは自分たちの知恵を畏れるべき時代という様な気もします。

    自動車は毎年何千人もの命を奪い大気も汚す道具ですが、日本人はそれを受け入れています。
    原子力にしろ火力にしろ水力にしろ、すべての電力を全く失うもののない発電でまかなうことは無理な状態で、では人はどこまでリスクを受け入れるのだろうというのが私の興味があることで、政治的決着の落としどころなのでもあろうと思います。

  2. 高澤先生

    コメントありがとうございます。
    「知恵を畏れるべき時代」というのはまったく同感です。

    知恵と畏れのバランスこそが今後より一層望まれるような気もいたします。

    原子力に限らず、遺伝子治療や生命科学でも、どこまでやっていいのか、何をやってはだめかとか、難しい線引きの問題がたくさんあるように思われます。そういうときに畏れの感覚がとても必要で大事な気がいたします。

  3. よしむねさんへ

    人類は、自らがモンスター化してしまったということでしょうか。
    なんだか、60年代の怪獣モノって実はそういう懸念が溢れていたように思いますね。今思い出してみると。

    もともと、日本人は神というものに「千早ぶる」という枕詞を当ててきましたよね。この「千早ぶる」というのは、川の水が氾濫するという意味があるみたいです。ということは昔から日本人は神というものを畏れの対象として見なさい!!という教訓をこの枕詞に託して来たのかなぁと思ったりもします。

    以下、参照いたしました。
    万葉集 枕詞における用字研究「ちはやぶる」

    諸行無常という言葉もあります。日々を終わらない日常と捉えてしまうというのは、日本人の感性の摩滅した状態だと僕は思います。

  4. まさむねさんへ

    おっしゃる通りですね。最近の日本人・ぼくらは日常をいつまでも続くものと錯覚してしまっていたようです。それが今回の震災以後の一連のことで完膚なきまでに叩きのめされたのかも。厳しい現実は残りますが、目をさますよい機会ととられるべきなのでしょうね。

  5. こんにちは。

    「ちはやぶる」で、撞賢木厳之御霊天疎向津媛神(瀬織津媛神)がいらっしゃった「早池峰」(はやちね)=「速霊峰」=霊速振るを想い出してしまいました。
       ・・・不思議空間 遠野さんのブログより
    撞賢木の媛神は、龍神さまであり、水を司る女神ですから。
    だから、今度こそ、東北は撞賢木の媛神の御心の許で、再生への道のりが示されていくと想います。

  6. 眞愛様

    ありがとうございます。
    なるほど、「早池峰」(はやちね)=「速霊峰」=霊速振る、ですか。
    すごいなあ。霊速ですね。
    早く地霊が降りてくださって鎮めてくださることをお祈りしたいです。
    勉強になりました。ありがとうございます。

よしむね へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です