丁子紋 -南洋に対する想いを表した紋- 富永一朗、海音寺潮五郎、把瑠都...

丁子とは、モルッカ諸島原産の常緑樹。
その蕾を干したものは、香料、薬として珍重されたという。
一般的には、この薬を珍重した藤原系の家(押公路、前田、甲藤など)が使用したといわれているが、もしかしたら、南洋からの移民が先祖を忘れないために紋にしたのかもしれない。

だから、この紋の使用家は、九州全般、特に鹿児島県(16位)に多い。
また、その他では、富山県(19位)に多い。おそらく薬の名産地(富山の薬売り)と関係があるのではないだろうか。

使用する有名人は以下。


英一蝶 。1652年 – 1724年2月7日、 日本画家。
京都生まれ。本姓は藤原、多賀氏。読みは、はなぶさいっちょう。父・多賀伯庵は伊勢亀山藩の侍医。肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残すも、生類憐みの令に違反で三宅島へ流罪となる。家紋は五つ丁子紋。画像は池上本門寺の英家墓所にて撮影。


三条西季知 。1811年3月20日 – 1880年8月24日、 公卿。
京都出身。権中納言となり重んじられる。三条実美らと長州へ下向、いわゆる七卿落ちの一人となる。明治維新後、参与、教部省教導職の長官である大教正兼神宮祭主、明治天皇の歌道師範となった。家紋は八つ丁子車紋。画像は谷中霊園にて撮影。


村垣範正 。1813年10月17日 – 1880年3月15日、 外国奉行。
江戸築地出身。村垣家は代々庭番役を勤めていた。安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年には神奈川奉行を兼務する。家紋の丸に抱き丁子紋と地抜き隅立て角に左三つ巴紋は天王寺墓地にて撮影。


川路利良 。1834年6月17日 – 1879年10月13日、 警察官僚。
薩摩藩与力、川路利愛の長男として薩摩国鹿児島近在の比志島村に出生。禁門の変で戦功を挙げ西郷隆盛大久保利通から高く評価された。欧米の近代警察組織の骨格を日本で初めて構築した日本警察の父。家紋は六つ丁子車紋。画像は青山霊園にて撮影。


野津道貫 。1841年12月17日 – 1908年10月18日、 陸軍軍人。
鹿児島城下高麗町出身。下級藩士の二男。妻は高島鞆之助の妹。上原勇作は娘婿。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争に参戦。最終階級は元帥陸軍大将。兄の野津鎮雄も長じて陸軍中将となる。家紋は六つ追い丁子紋。青山霊園にて撮影。


浜田玄達 。1855年1月14日 – 1915年2月16日、 医学者。
肥後国(熊本県)大岳村出身。日本の産婦人科学のパイオニアとして日本婦人科学会を創立、会長を連続務めた。また、帝大医科大(東大)教授、医科大学長、宮内省御用掛もつとめた。家紋は丁子片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


竹内明太郎 。1860年3月20日 – 1928年3月23日、 実業家。
高知県宿毛市出身。竹内綱の長男で吉田茂の長兄。読みは、たけうちめいたろう。自由民権運動に関わり、自由党に入党。実業家としては小松製作所日産自動車の前身の快進社を設立。家紋は左三つ丁子巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


町田忠治 。1863年5月17日 – 1946年11月12日、 政治家。
出羽国秋田郡久保田城下に秋田藩士・町田伝次の四男として誕生。愛称はノンキナトウサン。国務大臣、大蔵大臣、商工大臣、農林大臣、立憲民政党・日本進歩党総裁などを歴任。一時期、報知新聞社社長も兼任した。家紋は右二つ丁子巴紋。


藤山雷太 。1863年9月13日 – 1938年12月19日、 実業家。
肥前国松浦郡大里村の庄屋・伊吹家の三男として出生。芝浦製作所(後の東芝)の支配人、王子製紙の専務取締役を歴任。歌舞伎座取締役として帝国劇場の創立にも関わる。慶應義塾大学構内に銅像がある。家紋は六つ丁子紋。画像は多磨霊園にて撮影。


野口寧斎 。1867年4月29日 – 1905年5月12日、 漢詩人。
長崎県諫早出身。漢詩人であり官吏だった野口松陽の長子。読みは、のぐちねいさい。明治期漢詩界の大家・森槐南の一番弟子。七言律詩によって評した「韻語陽秋」が人気を博した。家紋は二重丸に違い丁子紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


清水澄 。1868年9月27日 – 1947年9月25日、 憲法、行政法学者。
石川県金沢市出身。宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したが日本国憲法が施行された後に自殺。家紋は折入り角に右一つ丁子紋。画像は青山霊園にて撮影。


山本昇雲 。1870年12月30日 – 1965年5月10日、 報道画家。
高知県長岡郡出身。旧土佐藩・山内家の下級武士で古物商を営む家の次男。本名は茂三郎。20年間にグラフ誌「風俗画報」の表紙、口絵、挿画など1300点を描く一方で日本画も残す。家紋の正確な名称は現在確認中。画像は青山霊園にて撮影。


小倉正恒 。1875年3月22日 -1961年11月20日、 実業家、政治家。
石川県金沢市出身。旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男。読みは、おぐらまさつね。住友財閥総帥として住友の企業経営を徹底して合理化する。この間、貴族院議員として国務大臣、大蔵大臣も務める。家紋は丁子三つ葵紋。画像は青山霊園にて撮影。


岡村寧次 。1884年5月15日 – 1966年9月2日、 陸軍軍人。
東京府出身。父は江戸幕府に仕えた岡村寧永。読みは、おかむらやすじ。支那派遣軍総司令官、北支那方面軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将。戦後は中国国民党政権に協力した。家紋は丸に五つ丁子。画像は、岡村家菩提寺・長安寺にて撮影。


井上日召 。1886年4月12日 – 1967年3月4日、 テロリスト。
群馬県利根郡出身。医師の家に生まれる。読みは、いのうえにっしょう。本名は井上昭。日蓮主義自称の僧侶で戦前の右翼テロリスト集団血盟団、戦後の右翼団体護国団の指導者。近衛文麿のブレーンも務めた。家紋は六つ丁子紋。紋付姿の写真より判断。


藤村操 。1886年7月 – 1903年5月22日、 旧制一高の学生。
北海道出身。祖父の藤村政徳は盛岡藩士。日光の華厳滝で自殺。当時の社会に大きな影響を与えた。また、当時、藤村のクラスで英語担当だった夏目漱石の精神にも大きな打撃を与えた。家紋は六つ丁子に釘抜き紋。青山霊園の藤村家の墓所にて撮影。


宮川竹馬 。1887年4月18日 – 1964年8月27日、 実業家。
高知県幡多郡入野村早咲出身。戦後復興期の電力業界人として活躍。1951年電力九分割によって誕生した四国電力株式会社の初代社長となる。その際、電力九分割案を松永安左エ門と協力してつくった。家紋は、丸に三丁子紋。多磨霊園の墓所にて撮影。


大麻唯男 。1889年7月7日 – 1957年2月20日、 政治家。
熊本県玉名市出身。読みは、おおあさただお。東條内閣の国務大臣として初入閣を果たした。政党政治家として戦前から戦後にかけて政友本党、立憲民政党、改進党、日本民主党、自由民主党等を渡り歩く。家紋は六つ丁子車紋。青山霊園にて撮影。


海音寺潮五郎 。1901年11月5日 – 1977年12月1日、 小説家。
鹿児島県伊佐郡大口村出身。本名は末富東作。「天正女合戦」等で第3回直木賞受賞。史伝文学の復興に対する功績があった。代表作は『西郷隆盛』『天と地と』『海と風と虹と』『悪人列伝』等。家紋は五つ丁子。写真は、和田堀廟所の墓石。


富永一朗 。1925年4月25日 – 、 漫画家。
京都府京都市生まれ。大分県佐伯市育ち。1976年より1994年まで放送された長寿番組『お笑いマンガ道場』に出演。代表作は『チンコロ姐ちゃん』『ポンコツおやじ』など。家紋は地抜き左二つ丁子巴。画像は、すがも平和霊園の墓所にて撮影。


増位山太志郎 。1948年9月16日 – 、 大相撲の力士。
大関増位山大志郎の長男として東京に生まれる。本名は澤田昇。最高位は大関。現年寄・三保ヶ関。歌手として「そんな女のひとりごと」「そんな夕子にほれました」等のヒット曲がある。家紋は三保ヶ関部屋の玄関にある隅切り角に違い丁子紋。


把瑠都凱斗 。1984年11月5日 – 、 元大相撲の力士。
エストニア共和国出身。スウェーデン系。エストニア柔道ジュニア王者を経て大相撲入り。入門前、バーの用心棒を務めていた。最高位は大関。得意技は左四つ、寄り、吊り。家紋は入門時所属の三保ヶ関部屋の隅立て角に違い丁子を受け継ぎ丸に違い丁子。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
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葵紋 -徳川家の紋としてあまりにも有名- 徳川家康、山南敬助、北大路魯山人...

平安時代、7月7日に宮中で行われた相撲会の際、東方から登場する力士は葵の葉を、西方から登場する力士は夕顔の花を髪飾りにして入場した。
そこから「花道」という言葉が出来たという。

葵紋といえば、徳川家の家紋として有名。
しかし、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵)であるため、徳川家はもともと、賀茂一族の出ではないかと言われている。

また、善光寺の寺紋(立葵)でもある。

有名使用者は以下。


本多重次 。1529年 – 1596年8月9日、 戦国武将。徳川氏の家臣。
勇猛果敢で剛毅な性格に由来する「鬼作左」の通称で知られた。三河一向一揆鎮圧戦などで大いに活躍し戦功を挙げた。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一短い手紙の作者としても有名。家紋は丸に立ち葵。画像は向丘高林寺にて撮影。


徳川家康 。1543年1月31日 – 1616年6月1日、 武将・大名。
本姓は先に藤原氏、次いで源氏を称した。家系は三河国の国人土豪・松平氏。後に、徳川氏に改姓。江戸幕府の初代征夷大将軍。織田信長豊臣秀吉と並ぶ三英傑の一人。家紋は三つ葉葵紋。画像は、陣羽織に描かれた三つ葉葵紋。


本多忠勝 。1548年 – 1610年12月3日、 武将・大名。
徳川本家の最古参の安祥譜代の本多氏で本多忠高の長男。本姓は藤原氏。家康の家臣として数々の武功を上げる。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられた。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。家紋は立葵(左)と丸に本の字。


徳川忠長 。1606年 – 1634年1月5日、 駿府藩主、甲府藩主。
江戸幕府・二代将軍・秀忠の次男として江戸城にて出生。母は浅井長政の娘で正室の江。晩年は領地を没収され、逼塞先の高崎で自害。高崎市大信寺の忠長の墓所には裏葵(画像)が彫られている。顔画像は大河ドラマ「江」における幼少時の忠長(国松)。


賀茂真淵 。1697年4月24日 – 1769年11月27日、 国学者、歌人。
浜松の神官・岡部政信の三男。賀茂神社神官の末流。荷田春満本居宣長平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人とされる。万葉集などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究した。主著『歌意考』『万葉考』『国意考』。家紋は二葉葵。


松平不昧 。1751年3月11日 – 1818年5月28日、 松江藩藩主。
直政系越前松平家・宗家7代。茶人としての才能は超一流で収集した茶器の銘品・銘菓は不昧公御好みとして現在にも伝えられている一方で、家老・朝日茂保の藩政改革によって潤った藩財政を茶道具道楽で潰したとも言われている。画像は護国寺にて撮影。


山南敬助 。1833年 – 1865年3月20日、 新選組総長(副長)。
仙台藩出身。姓は藤原氏。小野派一刀流免許皆伝、後に北辰一刀流・千葉周作門人となる。後に浪士組に参加、副長に就任するが脱退、切腹。介錯は沖田総司が務めた。家紋は丸に右離れ三つ葉立ち葵。画像は大河ドラマ「新選組」の山南敬助(堺雅人)。


徳川慶喜 。1837年10月28日 – 1913年11月22日、 江戸幕府将軍。
江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として出生。大政奉還や新政府軍への江戸城無血開城を行なった江戸幕府最後(15代)の将軍。明治になってからは趣味に没頭した生活を送った。写真は谷中霊園の慶喜墓の門にある三つ葉葵紋。


本多庸一 。1849年1月7日 – 1912年3月26日、 教育者、宗教家。
青森県弘前市出身。読みは、ほんだよういつ。弘前藩士・本多八郎の長男。新島襄内村鑑三新渡戸稲造と並ぶ明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者。青山学院の第2代院長。家紋は丸に立ち葵紋。画像は六本木墓苑の飯山藩主本多家の紋。


林権助 。1860年3月23日 – 1939年6月27日、 外交官。
会津藩出身。会津藩大砲隊長として著名な林権助安定は祖父。会津戦争では幼いながらも若松城に籠城して官軍と戦う。維新後は外交官となり特に日韓併合の実現に尽力。退職後は宮内省御用掛となる。家紋は蔓四つ葵に花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。


浦風林右衛門(9代) 。1868年1日8日 – 1917年5月17日、 力士。
石川県小松出身。本名は本多与志松。読みは、うらかぜりんえもん。八角右衛門部屋に入門。小松山与志松を名乗る。最高位は前頭筆頭。全盛期には横綱小錦を破った。引退後、9代目浦風林右衛門を襲名。家紋は蔓三つ葵の丸紋。画像は谷中霊園にて撮影。


本多光太郎 。1870年3月24日 – 1954年2月12日、 金属工学者。
愛知県碧海郡出身。読みは、ほんだこうたろう。鉄鋼の世界的権威者。磁性鋼であるKS鋼、新KS鋼の発明者として知られ、「鉄の神様」「鉄鋼の父」などとも呼ばれた。家紋は丸に立ち葵紋は、岡崎市・妙源寺の墓所の写真で確認。


今村明恒 。1870年6月14日 – 1948年1月1日、 地震学者。
鹿児島県鹿児島市出身。薩摩藩士・今村明清の三男。1905年に、地震学者として今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告した。また、今村式強震計を開発、「地震の神様」と称された。家紋は三つ葉葵紋。画像は多磨霊園にて撮影。


小倉正恒 。1875年3月22日 -1961年11月20日、 実業家、政治家。
石川県金沢市出身。旧金沢藩士・裁判官の小倉正路の長男。読みは、おぐらまさつね。住友財閥総帥として住友の企業経営を徹底して合理化する。この間、貴族院議員として国務大臣、大蔵大臣も務める。家紋は丁子三つ葵紋。画像は青山霊園にて撮影。


北大路魯山人 。1883年3月23日 – 1959年12月21日、 芸術家。
京都府京都市上賀茂出身。本名は房次郎。上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれる。篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など多方面で活躍。家紋は丸に六つ葵紋。画像は京都・西方寺にて撮影。


本田宗一郎 。1906年11月17日 – 1991年8月5日、 実業家。
静岡県磐田郡光明村出身。鍛冶屋をしていた本田儀平の子として出生。浜松市に本田技研工業株式会社(ホンダ)を設立し、世界的な大企業に育て上げる。正三位勲一等旭日大綬章受勲。家紋は丸に立ち葵紋。画像は冨士霊園の墓所にて撮影。


松平勇雄 。1907年6月14日 – 2006年4月1日、 政治家。
福島県大沼郡会津高田町出身。伊佐須美神社宮司・松平健雄(松平容保の次男)の次男。参議院議員を4期23年間、福島県知事も3期12年務めた。文化施設を設置し文化の知事と呼ばれた。家紋は河骨紋似の会津三つ葵紋。画像は多磨霊園にて撮影。


本多猪四郎 。1911年5月7日 – 1993年2月28日、 映画監督。
山形県東田川郡朝日村出身。読みは、ほんだいしろう。東宝に入社し、特撮映画以外に一般映画も数多く手がけた。代表作は『ゴジラ』『宇宙大戦争』『モスラ』など。家紋は丸に立ち葵紋。画像は多磨霊園の本多家の墓所にて撮影。


松平康隆 。1930年1月22日 – 2011年12月31日、 バレー監督。
東京市荏原区出身。読みは、まつだいらやすたか。旧加賀藩士で家老職を務めた松平大弐家の血を引く家系という。全日本男子代表監督として、メキシコ五輪で銀メダル、ミュンヘン五輪で金メダルへと導く。家紋は三葉葵紋。画像は多磨霊園にて撮影。


木原光知子 。1948年4月5日 – 2007年10月18日、 元水泳選手。
兵庫県明石市出身。岡山県岡山市で育つ。東京オリンピックに出場し「ミミ」の愛称で一躍アイドル選手となり、テレビ等に多数出演。実業家としては「ミミスイミングクラブ」を創立、日本水泳連盟理事も務める。家紋は丸に三葉葵紋。墓所にて確認。


西城秀樹 。1955年4月13日 -、 歌手、俳優。
広島県広島市出身。本名は木本龍雄。「情熱の嵐」がオリコン週間チャートで初のベストテン入りとなり、郷ひろみ野口五郎と共に新御三家と呼ばれる。家紋の蔓三つ葵紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


志村けんのバカ殿様 。江戸時代、 バラエティ番組のキャラクタ。
ドリフターズの志村けんが扮する。モデルは江戸幕府第9代将軍家重。幼名は竹千代。志村城の城主、志村藩(親藩)12万石の領主。コントでは「丸に三つ葵」が城内に見られる。家老格の桑野信義は丸に橘紋、側用人のダチョウ倶楽部は巴紋を使用。

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洲浜紋 -水神を奉った浜辺の豪族の紋- 最上徳内、青木周蔵、坪内逍遥...

州浜は、神仙が住む蓬莱島のこと。
海の向こうにあると言われている究極の幸せの国への憧れがこの紋に現れている。

和歌山県(24位)、徳島県(25位)で多い。


小田氏治 。1534年 – 1602年1月6日、 戦国大名。
常陸の大名小田氏の15代当主。読みは、おだうじはる。上杉氏・佐竹氏・宇都宮氏らと抗争を繰り返す。秀吉の小田原征伐に際し、秀吉軍に参陣せず秀吉方の佐竹氏の小田城奪還の兵を起こしたことを理由に所領を没収される。家紋は洲浜紋。


奥田行高 。1678年 – 1703年3月20日、 赤穂浪士47士の1人。
赤穂藩浅野家家臣の近松小右衛門行生の五男。読みは、おくだゆきたか。赤穂藩ではまだ家督前の部屋住みだった。吉良義央邸討ち入りの際には裏門隊に属した。享年26。主君浅野内匠頭と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。家紋は丸に洲浜紋。


最上徳内 。1754年 – 1836年10月14日 、 探検家。
出羽国村山郡楯岡村の農家出身。読みは、もがみとくない。江戸へ出て天文や測量等を学び、後に千島、樺太を探検して、『蝦夷草紙』『蝦夷方言藻汐草』などを著す。農民から商家の婿、武士へと立身出世した。画像は蓮光寺の墓所にて撮影。


本田親雄 。1829年10月3日 – 1909年3月1日、 武士、官僚。
薩摩藩の藩士本田弥右衛門の長男として出生。読みは、ほんだちかお。寺田屋事件のときには負傷者を救護。維新前国事に尽力し、元老院大書記官、元老院議官、貴族院男爵議員を歴任。家紋は丸に頭合わせ三つ洲浜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


青木周蔵 。1844年3月3日 – 1914年2月16日、 外交官、政治家。
長門国出身。村医の家柄。養子の梅三郎は杉孫七郎の息子。第一次、第二次山縣内閣、第一次松方正義内閣で、外務大臣を務め、条約改正に尽力。外交政略としては強硬路線を進め、義和団の乱の時には、積極介入を試みた。家紋は三つ盛洲浜紋。


園田孝吉 。1848年2月23日 – 1923年9月1日、 官僚、実業家。
大隅国太良村出身。薩摩藩士・宮内健吉の長男。のち、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。松方正義の推薦により横浜正金銀行頭取となる。後に東京倶楽部理事や帝国運輸倉庫社長など数多の会社役員を務める。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


坪内逍遥 。1859年6月22日 – 1935年2月28日、 小説家、劇作家。
美濃国加茂郡出身。本名は坪内雄蔵。代表作『小説神髄』『当世書生気質』は近代文学の誕生に大きく貢献。また、島村抱月らと文芸協会を開設し新劇運動の先駆けとなる。尾張藩の『士林沂洄』、早稲田の演劇博物館にて家紋は丸に洲浜紋と確認。


池上秀畝 。1874年10月10日 – 1944年5月26日、 日本画家。
長野県上伊那郡高遠町出身。紙商兼小間物屋の次男。読みは、いけがみしゅうほ。荒木寛畝に文人画をまなび、文展で3年連続特選。帝展では無鑑査となる。山水・花鳥画を得意とした。代表作は『初冬』等。家紋は州浜紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


藤原紀香 。1971年6月28日 – 、 女優。
兵庫県西宮市出身。第24回ミス日本グランプリを受賞。女優として『スタアの恋』『ハッピーマニア』『金曜日の恋人たちへ』等が代表出演作。その他、人道支援への協力でも知られている。父方の家紋は洲浜紋、母方の家紋は木瓜紋と自身のfacebookにて告白。

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輪違い紋 -多元的な世界の調和を表す哲学的な紋- 脇坂安治、白瀬矗、中山晋平...


二個以上の輪が鎖のように繋がった紋。

長谷寺の寺紋が二つ輪違い。
二つの輪は、曼荼羅の金剛界、胎蔵界を表し、その二つの世界が調和していることを表すといわれている。
ようするに、一つの輪は一つの世界を表し、それらが絡み合うことによって、多元的な宇宙の調和を表している。

静岡県、栃木県、滋賀県、愛媛県、兵庫県、福岡県などで比較的多く見られる。

使用している有名人は以下。

輪違い紋と同系統の七宝紋の有名人にご興味のある方はコチラをご覧下さい。)


高師直 。生年不詳 – 1351年3月24日、 武将。
高氏は足利氏の執事職を代々務めた。本姓は高階氏。足利尊氏の側近として討幕戦争に参加。分捕切捨の法を初めて採用。尊氏が室町幕府を開くと絶大な勢力を振るう。『騎馬武者像』(左の画像)は近年の高師直の像とされる。家紋は寄り懸かり輪違い。


脇坂安治 。1554年 – 1626年9月26日、 武将・大名。
脇坂氏は近江東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。豊臣秀吉の家臣として活躍。賤ヶ岳の七本槍の一人。淡路洲本藩主。のち伊予大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。家紋は輪違い。画像は中野区・青原寺の脇坂家墓所にて撮影。


林廣守 。1831年12月28日 – 1896年4月5日、 雅楽演奏者。
摂津国東成郡出身。大坂天王寺の楽人・林廣倫の三男。読みは、はやしひろもり。宮内省雅楽局に配属される。国歌制定委員となり、日本の国歌である「君が代」の楽譜案を提出し名義上の作曲者となる。家紋の輪違い紋は肖像画の紋付より判断。


安田善次郎 。1838年11月25日 – 1921年9月28日、 実業家。
富山県富山市出身。安田財閥の祖。東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂は彼の寄贈によるものである。前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父。元々、安田家の家紋は「丸に木瓜」であったが、後に「釜敷梅鉢紋」に変更。家紋画像は旧安田楠雄邸庭園の写真より。


辺見十郎太 。1849年12月21日 – 1877年9月24日、 陸軍軍人。
薩摩国出身。戊辰戦争では薩摩藩二番小隊長として活躍。明治六年政変時、西郷隆盛とともに鹿児島へ下野。西南戦争の時にも活躍するが、最後の戦いでは、西郷の死後に別府晋介と刺し違えて亡くなる。家紋の松皮菱に丸に三つ輪違いは墓所写真にて確認。


白瀬矗 。1861年7月20日 – 1946年9月4日、 南極探検家。
出羽国由利郡金浦村出身。読みは、しらせのぶ。日本人初の南極探検者。千島列島の開拓に続き、1910年に開南丸に乗船して南極に向い、南極大陸に上陸した。家紋の輪違い紋は生家・浄蓮寺の寺紋。白瀬南極探検隊記念館にて教えて頂く。


池田成彬 。1867年8月15日 – 1950年10月9日、 財界人、政治家。
山形県米沢市に米沢藩士池田成章の長男として生まれる。三井財閥の実力者、中上川彦次郎の長女艶と結婚し、三井銀行筆頭常務となる。日本銀行総裁大蔵大臣、商工大臣、枢密顧問官を歴任。家紋は、持ち合い三つ七宝紋。護国寺にて撮影。


鏑木清方 。1878年8月31日 – 1972年3月2日、 日本画家。
東京・神田に生まれた。本名は健一。 近代日本の美人画家として上村松園、伊東深水と並び称せられる。代表作は『三遊亭圓朝』(重要文化財)、『朝涼』『築地明石町』など。家紋は七つ輪違い紋(釜敷七曜紋とも同型)。画像は谷中霊園にて撮影。


木子七郎 。1884年4月30日 – 1955年、 建築家。
京都府出身。宮内省内匠寮技師の木子清敬の四男。読みは、きごしちろう。萬翠荘、愛媛県庁舎、石崎汽船、関西日仏学館など数多くの建築などの設計を手がけた。家紋は二重団扇形に三つ輪違い紋。画像は青山霊園墓所にて撮影。


中山晋平 。1887年3月22日 – 1952年12月30日、 作曲家。
長野県下高井郡新野村出身。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残す。代表童謡『シャボン玉』 『てるてる坊主』 『証城寺の狸囃子』 など。代表歌謡曲『東京音頭』 『波浮の港』 など。家紋は三つ輪違い紋。画像は多磨霊園にて撮影。


古木鉄太郎 。1899年7月13日 – 1954年3月2日、 小説家。
鹿児島県出身。読みは、こきてつたろう。別名に鉄也。佐藤春夫の義弟。改造社の編集者から小説家に転身。代表作「子の死と別れた妻」は、芥川賞候補となる。家紋の丸に輪違い崩し紋は、墓所がある小平霊園にて撮影。


迫水久常 。1902年8月5日 – 1977年7月25日、 官僚、政治家。
東京府出身。大蔵省入省。二・二六事件の際、岡田首相を救済。また、鈴木貫太郎内閣時の内閣書記官長として終戦工作に携わる。政治家としては経企庁長官、郵政大臣等を歴任。家紋は丸に丸に花付十字紋と輪違いに水紋。多磨霊園の墓所にて撮影。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね

輪違い紋 -多元的な世界の調和を表す哲学的な紋- 高師直、安田善次郎、中山晋平...

二個以上の輪が鎖のように繋がった紋。

長谷寺の寺紋が二つ輪違い。
二つの輪は、曼荼羅の金剛界、胎蔵界を表し、その二つの世界が調和していることを表すといわれている。
ようするに、一つの輪は一つの世界を表し、それらが絡み合うことによって、多元的な宇宙の調和を表している。

静岡県、栃木県、滋賀県、愛媛県、兵庫県、福岡県などで比較的多く見られる。

使用している有名人は以下。

輪違い紋と同系統の七宝紋の有名人にご興味のある方はコチラをご覧下さい。)


高師直 。生年不詳 – 1351年3月24日、 武将。
高氏は足利氏の執事職を代々務めた。本姓は高階氏。足利尊氏の側近として討幕戦争に参加。分捕切捨の法を初めて採用。尊氏が室町幕府を開くと絶大な勢力を振るう。『騎馬武者像』(左の画像)は近年の高師直の像とされる。家紋は寄り懸かり輪違い。


脇坂安治 。1554年 – 1626年9月26日、 武将・大名。
脇坂氏は近江東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。豊臣秀吉の家臣として活躍。賤ヶ岳の七本槍の一人。淡路洲本藩主。のち伊予大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。家紋は輪違い。画像は玉林寺の脇坂家墓所にて撮影。


安田善次郎 。1838年11月25日 – 1921年9月28日、 実業家。
富山県富山市出身。安田財閥の祖。東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂は彼の寄贈によるものである。前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父。元々、安田家の家紋は「丸に木瓜」であったが、後に「釜敷梅鉢紋」に変更。


池田成彬 。1867年8月15日 – 1950年10月9日、 財界人、政治家。
山形県米沢市に米沢藩士池田成章の長男として生まれる。三井財閥の実力者、中上川彦次郎の長女艶と結婚し、三井銀行筆頭常務となる。日本銀行総裁大蔵大臣、商工大臣、枢密顧問官を歴任。家紋は、持ち合い三つ七宝紋。護国寺にて撮影。


鏑木清方 。1878年8月31日 – 1972年3月2日、 日本画家。
東京・神田に生まれた。本名は健一。 近代日本の美人画家として上村松園、伊東深水と並び称せられる。代表作は『三遊亭圓朝』(重要文化財)、『朝涼』『築地明石町』など。家紋は七つ輪違い紋(釜敷七曜紋とも同型)。画像は谷中霊園にて撮影。


木子七郎 。1884年4月30日 – 1955年、 建築家。
京都府出身。宮内省内匠寮技師の木子清敬の四男。読みは、きごしちろう。萬翠荘、愛媛県庁舎、石崎汽船、関西日仏学館など数多くの建築などの設計を手がけた。家紋は二重団扇形に三つ輪違い紋。画像は青山霊園墓所にて撮影。


中山晋平 。1887年3月22日 – 1952年12月30日、 作曲家。
長野県下高井郡新野村出身。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残す。代表童謡『シャボン玉』 『てるてる坊主』 『証城寺の狸囃子』 など。代表歌謡曲『東京音頭』 『波浮の港』 など。家紋は三つ輪違い紋。画像は多磨霊園にて撮影。


迫水久常 。1902年8月5日 – 1977年7月25日、 官僚、政治家。
東京府出身。大蔵省入省。二・二六事件の際、岡田首相を救済。また、鈴木貫太郎内閣時の内閣書記官長として終戦工作に携わる。政治家としては経企庁長官、郵政大臣等を歴任。家紋は丸に丸に花付十字紋と輪違いに水紋。多磨霊園の墓所にて撮影。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
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2009年大相撲初場所を振り返る

大相撲の初場所は面白かった。

勿論、朝青龍の23回目の優勝は素晴らしかったが、朝青龍に関しては、こちら(朝青龍完全復活は格闘家としての本能の勝利だ)をお読みいただくとして、このエントリーでは他の関取について書いてみたい。

まずは、優勝決定戦で朝青龍に敗れた白鵬について。
白鵬は静かな横綱である。初日から世間の話題が朝青龍に向いている中、独り黙々と横綱の務めを果たし、静かに勝ち進んでいた。
あまりにも危なげなかったため逆に話題にもならなかったのだ。
大鵬、北の湖などの全盛期の「横綱相撲」を思い出させるような立ち振る舞いだ。
今場所は朝青龍に優勝をさらわれたが、白鵬が第一人者である事には変わりない。
来場所、また頑張って欲しい。

次は大関陣だ。
魁皇の勝ち越しが何よりも嬉しい。魁皇に関しての詳細はこちら(大関という生き方 -魁皇論-)をお読みいただければと思う。
どうしても九州場所までは土俵に上がり続けて欲しいと切に願う。

琴欧洲は、久々に動きがよかった。
おそらく、精神的にも好調だったのである。
先場所までのどこか暗い表情が、今場所は自信に満ち溢れていた。
惜しむらくは、6日目の安美錦戦だ。すばやく横に廻られて、一気に出されてしまった。
また、10日目の千代大海戦も残念だった。
千代大海にも大関の意地があるのだろう。ツボにはまると思わぬ力を発揮する。さすがだ。
上記の2番をもし、乗り越えていたら、朝青龍の11日目で全勝決戦になっていたはずだ。
そうであれば、また別の結果が出ていたかもしれない。
いずれにしても来場所楽しみだ。

日馬富士の初日からの4連敗は意外だった。
ただ、体調が悪いようには見えなかった。おそらく、精神的なものだろう。
雅山戦、稀勢の里戦で、前に落ちてしまったが、これらは明らかに体が堅くなっていたからだ。
調子をつかめば、いつかは盛り返してくるだろうと思っていたが、さすが、14日目に勝ち越してくれた。

関脇以下でも、何人も注目すべき関取がいた。

まずは、把瑠都だ。特に白鵬戦はすばらしかった。まるで横綱同士が闘っているようながっぷり四つの大相撲。
今場所のベストバウトのひとつだ。
特に、この一番の前の把瑠都のコメントがいい。
「がっぷりになれば何とかなる。」
今をときめく、白鵬を前にしてのこの自信、さすが大物だ。
そして、千秋楽の日馬富士との一番も凄かった。
いくら軽量とはいえ、相手は大関、それを足を取って、そのままつり出してしまった。
まるで大人と子供だった。
今場所、途中で負けが重なってしまったが、気にする事は無い。来場所、優勝すら狙えると僕は思う。

一方、把瑠都と同様のヨーロッピアン力士は今ひとつだった。
阿覧は負け越してしまった。
本来の荒々しさが、影を潜めてしまった。
よく、阿覧に対して、「相撲を知らない」「型が無い」と言われることがあるが、僕はそうはそれは大きな問題だとは思えない。
阿覧には阿覧らしく、相撲取りの以前の格闘家の精神を忘れないで欲しいからだ。
極論するならば、阿覧には、無茶な張り手や力任せの寄りを見せて欲しい。
大相撲の「明日」にとっても、異種格闘技を取り込んでいった方が、よりエキサイティングな見世物になるからだ。
同様のことは、栃ノ心にも言える。
栃ノ心は千秋楽でようやく、勝ち越すことが出来たが、今場所では、彼らしさはほとんど見られなかった。
あの懐の深さと、サンボヨーロッパ王者としての技術を生かしたオリジナルスタイルを是非確立してほしい。

今場所注目していたが、一番残念だったのが武州山だ。
30歳を超して、新入幕、勝ち越しての今場所だったが、幕の内上位には全く通じなかった。
出っ腹に撫で肩のくたびれた肉体、いいではないか。来場所勝ち越して、何とか、幕内に踏みとどまって欲しいと願う。

色黒の元気者、嘉風と豊真将の活躍も目立った。
特に嘉風の動きの良さと気持ちの強さは、朝青龍戦を持ち出すまでもなく、素晴らしい。
今場所、いろんな事を学んだであろう。将来が楽しみだ。

白鵬、朝青龍、日馬富士以外のモンゴル勢も総じていい動きをしていた。
時天空が久々に勝ち越した。千秋楽の豊真将で見せた足技はこの人オリジナルだ。こういう個性的な力士は好きだ。
旭天鵬が前頭一枚目で勝ち越し、来場所の三役復帰に期待を持たせてくれた。すでに36歳になるのに、その肉体はまだまだ輝いている。
鶴竜の動きの良さも目立った。明日の日馬富士は、この鶴竜だ。
朝赤龍、光龍、玉鷲は残念ながら負け越してしまったが、十両では、翔天狼、白馬が十両優勝決定戦を争うほど元気だ。
また、個人的に注目なのは、今場所負け越してしまったが保志光だ。彼の肉体のユニークさは特筆物である。早く幕の内に上がってきてほしい。
十数年ほど前、確かに、小錦、曙、武蔵丸等のハワイ勢は活躍していた。
しかし、彼等の次の人材が続かなかった。ゆえにその流れは絶えてしまった。
一方、モンゴル勢は次々に新しい才能が上がってくる。
その勢いは凄い。
彼等の運動神経、ハングリー精神に対して、日本人はどう対抗して行ったらいいのだろうか。今後の大相撲界の大きな課題である。

嬉しかったのは、新入幕の山本山の勝ち越しだ。
来場所もまた幕の内での相撲が見られるからだ。
四日目の将司戦で見せた、圧倒的な押し、中日の垣添戦で見せた土俵際での打っちゃり気味の上手投げ、十四日目に見せた怒涛の決め出しすべてが彼の持ち味だ。
惜しむらくは、千秋楽での木村山との一戦。動かれ、横から攻められ、押し出された。ここで勝っていれば9勝。さらに上に上がれたのに...

ちなみに、今場所のベストバウト5は以下

1位:初日の朝青龍VS稀勢の里(朝青龍の意地が見えた)
2位:三日目の千代白鵬VS鶴竜(二人で土俵狭しと動き回るこれぞ相撲)
3位:二日目の若の里VS普天王(一見地味なこの対決。思わぬ名勝負に)
4位:九日目の白鵬VS把瑠都(一番の力相撲だった)
5位:十日目の白鵬VS日馬富士(日馬富士の維持が爆発)

逆にがっかりさせられたのは七日目の把瑠都VS琴欧洲。
この二人の怪物対決、いつも期待するのだが、いつも一瞬で勝負がついてしまう。
この二人が白鵬対朝青龍のような名勝負が見せられるようになれば、この二人の時代が来ると思うのだが。

まさむね

朝青龍完全復活は格闘家としての本能の勝利だ

大相撲初場所が終わった。

結果はご存知の通り、朝青龍が23回目の優勝を果たした。。
貴乃花の22回を抜き、北の湖の24回にあと1回と迫った。大記録だ。

思えば、今場所の朝青龍は、誠に危なっかしい出足だった。
三場所の全休。稽古も十分に出来ていない。
場所前のけいこ総見では、白鵬に全くかなわなかったという。
多くの評論家が今場所は出場さえしないのではないかと予想していた。
そんな中で朝青龍は出場を強行したのだ。

最悪の場合、引退をかけての出場になる。大丈夫か朝青龍。

初日は、そんなプレッシャーの中での稀勢の里戦である。
もともと、苦手としていた相手だ。大相撲協会も酷なことをするものだ。
    ◆
その一番、立ち会いに稀勢の里に突っ張られ、右上手を取られ、土俵際まで追い詰められた。
しかし、そこから朝青龍の逆襲が始まる。
その後、左を巻き変えて怒涛の逆寄り。
最後は、右と左と、稀勢の里への顔面に張り手。
追い詰められた横綱の意地が表れた瞬間だ。

朝青龍の強さの源はこの意地である。
格闘家本来の、絶対に負けたくないという気持ちが人一倍強いのだろう。
勿論、日々の稽古が大切というのは言うまでも無いことであるが、朝青龍の存在は、それ以上に本番での気迫が重要である事を改めて示してくれた。
    ◆
同様のシーンは、7日目の嘉風戦でも見られた。
嘉風は、先場所、前頭12枚目で11勝し、今場所、初めて朝青龍と対決する位置(前頭2枚目)まで上がってきた新進気鋭の若武者である。
普通、初顔合わせの力士は横綱に対しては、ほとんど何も出来ないのだが、この嘉風は違った。
立会いのから激しい張り合いの応酬、その中で嘉風は、朝青龍の顔に張り手に行ったのである。
勝負は、朝青龍が送り出しで辛勝したものの、勝負がついた後、勝ち名乗りを受けている時でもまだなお、朝青龍は嘉風をにらみ続けていたのだ。

「横綱としての顔」を超えた、格闘家・朝青龍としての本能を垣間見せた一瞬であった。
おそらく、こういった表情を出せる力士は、朝青龍をおいて他にはないのではないだろうか。
相撲の本質はやはり、格闘技である。そして、格闘技の本質は相手を倒したいという本能である。
そして、現在の大相撲の力士の中で、その格闘家としての本質を、最も身に付けているのが朝青龍なのである。
    ◆
そして、ついに迎えた本日の優勝決定戦。
本割の立会いに失敗し、白鵬に完敗して、1敗同士で並ばれた朝青龍。
決定戦を待つ間、支度部屋で立会いの練習を繰りかえす朝青龍。
一方の白鵬は目をつぶって精神統一。
対照的な二人の姿。追い詰められた朝青龍、と誰もが思っただろう。

しかし、朝青龍は強かった。立会い鋭く、白鵬の左下手を引き、頭をつける。白鵬に左をささせない。
そして、一気に白鵬を土俵の外に寄り切ったのだ。

おもわず、土俵上でガッツポーズを見せる朝青龍。
日頃、「横綱の品格」とやらを口にするような。いわゆる・うるさ型(やくみつるや内館牧子達)を完全に黙らせる、乱れ髪のままの喜びのポーズだ。
そして、花道を引き上げていく時、うっすら目に涙を浮かべて顔をぬぐう朝青龍の姿は、誰をも感動させたシーンであった。
    ◆
まだまだ朝青龍は大丈夫だ。
今回の優勝も嬉しいが、来場所からも、またその勇姿を見れるのは何よりも嬉しい。

まさむね

与六の女っぽさは兼続の兜の「愛」にどう繋がるのか

NHKの大河ドラマ「天地人」。直江兼続の少年、青年時代の与六(妻夫木聡)の放映が続いている。

ここで気付くのは、少年時代はともかく、青年時代の彼は、なんとも「女性的」に描かれているということだ。
      ◆
例えば、後日、妻になるお船=おせん(常盤貴子)との出会いの場面だ。

人々でごった返す道路に、突如としてあばれ馬が突っ込んでくる。
逃げ遅れそうになった女の子を助けようとして、身を挺して女の子を抱きかかえ、その場にうずくまる与六。
そこに迫り来る暴れ馬。
与六の大ピンチだ。
その時、その暴れ馬に飛び乗り、暴走を止める一人の女性の姿が。その場を収めてその女性が与六に言う。
「この頃の若サムライは馬の扱いも出来ぬと見える」
その態度に、ムッとする与六。
遠目からその女性を2度見し、鏡を見る女性らしさに微妙な笑顔。
そして、次の日の宴会で、その女性と再会して驚くのである。

言うまでも無く、この出会い>不快感>まんざらでもなく思う>再会というパターンは、ラブコメにおける出会いの紋切型である。
しかし、典型的なパターンではあるが、かつては男と女の立場は逆だったはずだ。
     ◆
また、与六は、主君の景勝(北村一輝)が、そのお船に惚れていると知ると、二人を接近させようとして、(景勝がお船に逢いたいという)偽りの手紙を書き、二人を逢わせ、それを影から覗く。
さらに、その後、故郷の母の体調が悪いと知ると木陰で一人泣き出すシーンも出てくる。

これら、与六の振る舞いは、どれもこれも、どう見ても、彼が「女性的」ということを表すエピソードである。
勿論、この「女性的」というのは、現実の女性がそのように振舞う仕草ではなく、芝居やドラマの中での「意味づけ」としての「女性的」にすぎないのであるが、どうして、これほど執拗に、与六を「女性的」にしたがるのであろうか。

そういえば、前作、「天障院・篤姫」では、少女期の篤姫(=於一)に対して、木登りをしたり、野原を駆け回ったり、「源氏物語」よりも「大日本史」が好きだったり、碁が得意だったりと、与六とは逆に「男性性」が付与されていた。
まるで、於一と与六、篤姫と兼続は合わせ鏡のようなキャラクタ設定だったのである。
     ◆
最近のドラマの多くが女性は「男性的」に、男性は「女性的」に描くのが勝ちパターンのようではある。
しかし、そのパターンを、現代ドラマと同様に、視聴率のために時代劇に持ち込むというのはいかがなものか。

一俗説によると、直江兼続が上杉家で重きをなしていく要因の一つとして謙信との衆道関係(ゲイ)にあったという。
真実はわからないが、例えば、篤姫の男性っぽさが、結局は、彼女が処女のまま生涯を終えるという「悲劇」の伏線になっていたように、この与六の女性っぽさが、大河では描けない「ひとつの可能性」の「ほのめかし」として、示唆的に扱われ、物語に厚みを加えるものであって欲しいというのは贅沢な願望だろうか。
そうなってくると、兼続の兜の「愛」の意味もより深みを増すと思われるのだが。

まさむね

-篤姫関連エントリー-
大河ドラマ「篤姫」の視聴率がよかった11の理由
篤姫が私達にくれた6つのメッセージ

大関という生き方 -魁皇論-

今場所十二日目。魁皇が豪風を小手投げで破り、12回目の角番を脱した。
この12回目の角番脱出は、千代大海と並んで史上最多の記録である。

そういえば、先場所三日目、若の里戦で左上腕を負傷して、途中休場した時はどうなることかと思った。
その時の痛々しい顔を見たとき、これで名大関・魁皇も終わりかと、正直そう思った。

しかし、今場所、魁皇は一番一番を慎重に取り進め、十二日目で見事、勝ち越し、そして大関残留を決めたのである。
しかも、この日の決まり手は、七日目に豊ノ島を休場に追い込んだ文字通りの必殺技、右小手投げである。
もしかしたら相手を壊してしまうかもしれない、という心配を胸に収めて繰り出した伝家の宝刀。
その瞬間、魁皇は、自分が生き残るために心を鬼にしたに違いないのだ。

今場所は、世間的には朝青龍の復活?引退?、新大関・日馬富士、あるいは、新入幕の山本山の活躍という話題で持ちきりだったが、多くの真性相撲ファンにとっては魁皇の動向こそが、関心事であった。
心あるファンならば誰もが、少なくとも、次の九州場所(魁皇の地元)までは、大関の姿で土俵の上にいて欲しい。それが、ファンの願望だったのである。

彼の優しそうな表情、黙々とした土俵態度、しかし、一方で、張りの無くなった体躯、膝の分厚いサポータ、塩が吹いて色褪せた回し...
そんな姿が、なんとも、愛おしく感じられる今日この頃だ。
優勝などという事はもう考えない、勿論、横綱昇進など思いもしない、しかし、一場所でも長く大関でありつづけたい、相撲を続けたい、というアスリートとしてはあまりにも低飛行な、しかし、困難な偉業を、この「哀愁を帯びた肉

体」は続けている。

長年、大相撲を見続ける、というか、眺め続ける理由の一つに、昨日と変らない今日に安心したいという、どうしようもなく保守的な動機がある事を誰も否定できないと思う。
そして、そういった視点から大相撲を見たとき、魁皇を初めとして、土佐の海、栃乃洋、出島、武州山、北桜達が醸し出すあの、哀愁としか言いようの無い世界が、どれだけ大相撲にコクを与えていることか、僕等はもっと感謝しなけ

ればならないのではないだろうか。

それらは、決して、純スポーツ的な振る舞いではなかったとしても、人間としての必死な生き方の表現には違いない。
だからこそ、僕達を惹きつけて止まないのである。

まさむね

ヴォイス〜命なき者の声〜 今後3つの期待

フジテレビ月9ドラマ、「ヴォイス〜命なき者の声〜」の放映を第2話まで見た。

ドラマの内容は、「法医学」をテーマに、法医学ゼミに属する5人の医学生の青春群像劇である。

その5人について説明してみよう。
1人目。大病院の跡継ぎとして医学部に来るが、親への反発で法医学ゼミを希望した石末亮介(生田斗真)。
2人目。子供の頃の母親の「心臓発作」に疑問を持っており、それが法医学ゼミに入るキッカケにもなったが、一方では、それが心のトラウマになってもいる久保秋佳奈子(石原さとみ)。
3人目。実家は歯医者だが、監察医が描かれた海外ドラマを見てハマって「法医学ゼミ」に入った、オタクの桐畑哲平(遠藤雄弥)。
4人目。元不良で、過去にトラブルがあり、その際、司法解剖のおかげで無実が証明された事をキッカケにして、バイトと猛勉強で法医学を目指した羽井彰(佐藤智仁)。

この4人に関しては、一応、キャラの設定がなされている。
特に、最初の2人、亮介と佳奈子(通称アキ)に関しては、それぞれ、克服すべきテーマも明確化されている。
亮介にとって、それはいわゆる「親超え」だし、アキにとっては、「過去の克服」である。
また、残りの2人は、どちらかと言えば、賑やかし的要素が強い。
ただ、哲平=お調子者のオタク、彰=熱血漢の元不良(本当はいい奴)という設定は典型的だが安定感はある。

そして5人目が、主人公の加地大己(瑛太)である。
しかし、この大己のキャラに関していえば、実は、微妙にしっくりこない感じがするのだ。

彼は、過去にも、将来にも特に問題(トラウマや不安)を抱えているわけではない。
明るい性格で、あまり周りに気を遣わない、好奇心旺盛で、人を巻き込むタイプなのである。

僕の見立てだと瑛太という役者は、「篤姫」や「ラストフレンズ」で見せた、ナイーブで、受動的、内面に抱えたモノと闘っているタイプの青年役がハマっているように見えるのだが、この「ヴォイス」では、逆に、積極的に、周りを巻き込むタイプの設定となっているのだ。
そこがしっくりしない原因なのかもしれない。

もっとも、瑛太にとっては、今回、月9ドラマとして、はじめての主演である。
これを機会に、俳優としての幅を、さらに広げてもらえればと思う。

さて、このドラマの今後の興味、あるいは期待であるが、僕は以下の3点を挙げておきたい。

1)様々なタイプの死への対応
ドラマのテーマは、事故、あるいは事件で亡くなってしまった死者の本当の死因を解明し、残された遺族(そして死者本人)に対して、その死が、「報われる死」であるような真実を取り戻してあげるという事である。
初回は、殺人死と思われた男の死を、過去に亡くした自分の息子の代わりに、「ある少年を助けるために自ら命を落とす男の死」というように解読する事によって、「優しかった」男という真実を取り戻す。
2回目は、妻の暴言によって家出しようとした男の突然死を、「実は、妻を愛するがゆえに亡くなった、愛情溢れるものだった」という真実にたどり着かせるのだ。
しかし、毎回、このように、死者=善人というパターンで乗り切れるものだろうか。あと10回位あるのである。
死には、本当の突然死もあれば、怨恨の殺人もある。
あるいは、現代的な死といえば、孤独死や、通り魔的な殺人もあるだろう。
このドラマが、現代的であろうとすればするほど、ヒューマニズムドラマとはかけ離れてしまう可能性がある。
そういった、多様な死を、このドラマは扱う(扱える)のだろうか。
扱わないとしたら、話のバリエーションをどうつけていくのか、そのあたりが楽しみだ。

2)チームプレイでの問題解決
今まで2話を見た限り、死因の究明、そして、「死者に対する物語の回復」は、ほぼ、大己(瑛太)の観察力と推理力でのみ、行われている。
他の4人は大己の行動に付き合ったりはしているが、実はそれほど、話に関わっているわけではないのだ。
せっかく、他に4名の個性的な友人がいるのだから、それぞれの性格、特技を生かした形での問題解決という展開も、期待したい。
あまり大己の能力のみが突出し過ぎると、「ヴォイス〜命なき者の声〜」がいつの間にか、江原啓之さんの「スピリチュアル・ヴォイス〜人生のきりかえ方〜」のようになってしまうのではないかというのは心配しすぎだろうか。

3)加地大己(瑛太)の物語はどうなる
先に、大己のキャラに関して述べたが、彼はあまりに普通すぎはしないか。
実は隠し持っている克服すべき「内面」があるのではないか。あるとしたら、そのように解決していくのか、そのあたり楽しみだ。
また、無理矢理セミに入れてしまった指導教授である佐川文彦(時任三郎)との関係はどうなっていくのか。
そして、月9の約束事でもある(おそらくアキとの)恋愛沙汰はどのように行われるのか。
などなど、ようするに、法医学的なサスペンス性とは別のところでの大きな流れが、まだ全く見えていない。
それらの展開に期待したい。

まさむね