紅葉紋 -敢えて散りゆく紅葉を選ぶ粋な美意識- 福沢諭吉、市川門之助、泉鏡花...

見渡せば花も紅葉もなかりけれ裏の蓬屋の秋の夕暮れ  藤原定家

日本の美意識を代表する紅葉は平安の昔から公家の好みだった。
藤原北家の閑院流の今出川家の代表紋である。
しかし、武士の世になるとこの紋は広まらなかった。
やはり、散りゆく紅葉は嫌われたに違いない。
しかし、それでも敢えて紅葉を選んだ粋な人々がいたことは記憶に留めておきたい。

だから、全国的にはどの地域でも30位に入っていない。

使用している有名人は以下。

福沢諭吉。1835年1月10日- 1901年2月3日、教育者、著述家。
豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。
東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。
代表作品は「学問のススメ」「西洋事情」「福翁自伝」など。
写真は息子の福沢百助の墓で撮影。


市川門之助。1862年 – 1914年8月20日、歌舞伎役者。
出雲国(現在の島根県)松江の出身。本名・荒川清太郎。
『大森彦七』で師の彦七に千早姫をつとめ生涯最大の当り役となる。
「酒屋」のお園、「鏡山」の尾上などの丸本物を得意とした。
家紋は、四つ紅葉。画像は雑司が谷霊園の墓所にて撮影。


いわゆる楓(紅葉)のデザインではないが、尾崎紅葉の弟子の泉鏡花は、師匠の恩義から、敢えて源氏香紋の「紅葉の賀」を家紋として使用した。ちなみに、尾崎紅葉自身は違い鷹の羽紋である。

泉鏡花。1873年11月4日 – 1939年9月7日、小説家。
石川県金沢市下新町に生れる。
父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」など。

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団扇紋 -悪鬼を払い、霊威を呼び寄せる神具- 奥平信昌、加藤高明、久米宏...

団扇紋にはいくつか種類がある。

1)普通の団扇(うちわ)紋
2)大相撲の行司が持つのと同じ、軍配扇紋
3)天狗が持つという羽団扇紋

この中で数が多いのが軍配扇紋。
平安時代の武士勃興時代に関東で幅を利かせた児玉党武士団が使用しはじめたといわれる。
多くの家紋の中でも歴史が古い部類に入る。
軍配の采配一つによって、自らの武士団の運命が左右される重要な道具だ。
と同時に、古くから悪鬼を払い、霊威を呼び寄せるという意味合いで、神事などにも用いられてきたのである。

羽団扇紋(左画像)は、駿河の浅間神社の神紋として知られている。
浅間神社は木花咲耶姫命を奉っているが、富士山信仰と深い結びつきがある。

団扇紋を使用はそれほど多くない。全国分布では、福井県で27位、埼玉県で28位。

有名人は以下。


米津常春 。1524年 – 1612年、 武将。
三河国碧海郡米津出身。幼名は藤蔵。松平氏の譜代の家臣。徳川十六神将の一人。桶狭間の戦いの際にも三河衆の先鋒として従軍。子孫は武蔵久喜藩主、出羽長瀞藩主として明治まで存続。家紋は米津羽団扇紋。画像は東久留米・米津寺にて撮影。


奥平信昌 。1555年 – 1615年4月11日、 武将。
三河国の有力国人・奥平貞能の長男。徳川家康の長女・亀姫を正室とし、家康の娘婿として重用される。長篠の合戦時には長篠城で篭城し武田軍を苦しめる武功を上げ、信長より信昌という名前を賜る。子孫は、豊前国中津藩主として幕末をむかえる。


児玉源太郎 。1852年4月14日 – 1906年7月23日、 陸軍軍人。
周防国都濃郡徳山村出身。徳山藩の中級武士の家柄。三女は穂積陳重の長男・重遠の妻。四女は藤田嗣治の兄・嗣雄の妻、五女は木戸孝允の孫・幸一の妻。日露戦争全体の戦略の立案を担当。最終階級は陸軍大将。家紋は唐団扇笹紋。画像は多磨霊園で撮影。


加藤高明 。1860年1月25日 – 1926年1月28日、 外交官、政治家。
尾張藩の下級藩士・服部重文の次男。大伯母の家、加藤家に養子に入る。妻は岩崎弥太郎の長女。長女は岡部長職の息子、長景の妻。第24代内閣総理大臣となり、治安維持法、普通選挙法を成立させた。家紋は六つ唐団扇紋。画像は青山霊園の画像にて撮影。


万年東一 。1908年9月10日 – 1985年3月28日、 活動家、総会屋。
山形県飽海郡松嶺町出身。終戦後、愚連隊・万年一派の頭領となる。その後、松永高司全日本女子プロレスを設立すると、初代会長に就任。右翼団体「大日本一誠会」を結成。総会屋としても活動する。家紋は、丸に羽団扇紋。


久米宏 。1944年7月14日 – 、 アナウンサー・タレント・司会者。
埼玉県浦和市出身。戦時中は久米家の本貫・埼玉県児玉郡に疎開。元TBSアナウンサー。代表司会番組『ぴったし カン・カン』『ザ・ベストテン』『報道ステーション』等。嫡流・久米氏は唐軍扇紋。画像は染井霊園にある別の久米家の墓所にて撮影。


鞍馬天狗 。幕末期、 勤王志士。
時代小説『鞍馬天狗』(大佛次郎)の主人公。剣は一刀流の凄腕。時には短筒も使う。その素性には謎が多く天狗党の生き残りではないかとも言われる。何度も映画化され特に嵐寛寿郎が主役の映画作品は有名。家紋は羽団扇紋。画像は鞍馬寺の寺紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
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車紋 -車輪に隠れる六条御息所の怨念- 榊原康政、石坂洋次郎、佐藤栄作、野口五郎...

この紋の図柄を見ると、車紋というよりも車輪紋である。

言うまでもなく、車輪というのは乗り物を、そして乗り物に乗っている人を支えるものである。
車紋の使用氏として一番有名な一族は藤原秀郷流の佐藤氏であるが、一族の中で「人を支えた」人物と言えば、源義経に遣えた佐藤継信、忠信兄弟を思い出す。

また、車紋は別名、源氏車とも言われている。

また、源氏車といえば、「源氏物語」9帖の『葵』における六条御息所と葵上の車争いを連想させる。そして、その車争いで敗れた六条御息所の怨念が車に取り憑き、朧車という妖怪になったという伝説もある。左図は鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より。

車紋の車輪はただの車輪ではない。様々な人々の思いがつまっているのだ。

さて、この紋は全国ではそれほど、普及している紋ではない。ただ、東北地方では散見される。
特に、秋田県では18位だ。
これは秋田県で、佐藤姓が多い事と関係していると思われる。
また、東北地方以外では唯一三重県でベスト30位に入っている。これはこの地が伊勢神宮のお膝元だからか。

車紋を持つ有名人は以下。


佐藤継信 。1158年? – 1185年3月22日、 源義経の家臣。
出身は奥州信夫郡。佐藤忠信の兄。義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行し平氏追討軍に加わった後、屋島の戦いで討ち死にした。写真は福島県福島市飯坂町の井王院にある墓所の門の写真。


中川清秀 。1542年 – 1583年6月10日、 戦国時代の武将。
清和源氏頼光流の多田源氏の後裔。はじめ摂津の豪族・池田勝正に仕えた。本能寺の変で織田信長が横死した後は羽柴秀吉に従い山崎の戦いで活躍した。賤ケ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが戦死。家紋は中川車(右)、中川柏(左)


榊原康政 。1548年 – 1606年6月19日、 武将・大名。
榊原氏は三河・伊勢・伊賀守護仁木義長の子孫である。家康の家臣として姉川三方ヶ原長篠小牧・長久手の戦いになど数々の戦いで戦功を立てた。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。家紋は榊原源氏車。


服部半蔵 。戦国時代から江戸時代初期、 武士。
松平氏~徳川氏の麾下で活躍。半蔵門の由来となる。「伊賀の影丸」「あずみ」などのフィクションに登場。藤子不二雄の「忍者ハットリくん」は服部半蔵の子孫。家紋は、源氏輪に並び切り竹矢筈。画像は護国寺の別の服部家の墓所にて撮影。


佐藤信淵 。1769年7月18日 – 1850年2月17日、 思想家、経世家。
出羽国雄勝郡郡山村出身。通称は百祐。平田篤胤に入門し、『農政本論』を著す。渡辺崋山高野長英、小関三英とともに蛮社の獄に連座するがすぐに許される。流通を幕府の手によって直接統制し、流通過程からの収奪による富国策を提示。家紋は源氏車。


佐藤一斎 。1772年11月14日 – 1859年10月19日、 儒学者。
美濃国岩村藩出身。岩村藩家老・佐藤信由の次男。門下生は3,000人と言われ、弟子として、山田方谷佐久間象山横井小楠等、いずれも幕末に活躍した人材たちがいる。家紋は源氏車紋。顔画像は渡辺崋山の筆による。画像は天王寺墓地にて撮影。


猪山直之 。1812年 – 1878年、 金沢藩士。
幼名:余四郎、通称:弥左衛門、彦蔵。前田斉泰、慶寧、利嗣御次御用をつとめる。45年間にわたって直之によって書かれた日記は磯田道史氏によって「武士の家計簿」としてまとめられヒットとなり映画化もされる。家紋は丸に生駒源氏車紋。


佐藤政養 。1821年12月 – 1877年8月2日、 蘭学者。
出羽国飽海郡升川村の農民・佐藤与兵衛の長男。通称:与乃助。幕府軍艦操練所蘭書翻訳方となる。神戸海軍操練所を司り幕閣に神奈川に代わる横浜開港を建議した。維新後は新橋-横浜間の鉄道敷設に尽力。家紋は陰源氏車紋。画像は青山霊園にて撮影。


佐藤彦五郎 。1827年11月14日 – 1902年9月17日、 新選組後援者。
武蔵国多摩郡日野宿出身。名主階級。自邸東側の一角に日野宿に道場を設け、後の新選組の母体となる近藤勇土方歳三沖田総司らが出稽古に訪れていたという。明治維新後は、新選組隊士の復権と顕彰に尽力した。画像は日野・大昌寺にて撮影。


榊原鍵吉 。1830年12月19日 – 1894年9月11日、 幕臣、剣客。
江戸麻布の広尾生まれ。父は御家人榊原益太郎友直、5人兄弟の長男。 名は友善。男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承し、遊撃隊頭取を務める。天覧兜割などで知られ、最後の剣客と呼ばれる。家紋は榊原車。画像は新宿須賀町・西応寺の墓所にて撮影。


宮崎車之助 。1835年 – 1876年10月31日、 藩士。
福岡秋月藩出身。藩士宮崎丹下の次男。読みは、みやざきくるまのすけ。反政府士族の武力蜂起に期待し、肥後の神風連の乱に呼応して、実弟・宮崎哲之助らとともに秋月の乱を起こすも鎮圧され、自刃。家紋は源氏車紋。残された肖像写真より判断。


竹添進一郎 。1842年4月25日 – 1917年3月29日、 漢学者。
熊本藩出身。熊本藩士として藩命により国事に奔走。維新後、天津領事となる。1882年の壬午の変の後、朝鮮弁理公使となり、甲申政変を起こす。東京大学教授となり、『桟雲峡雨日記』『左氏会箋』を残す。家紋は源氏車紋。画像は護国寺にて撮影。


佐藤進 。1845年12月23日 – 1921年7月25日、 医師、医学者。
常陸国太田内堀出身。醸造業高和清兵衛の長男。医師・佐藤尚中の養子となる。佐藤泰然は養祖父。ドイツ留学し医学士の学位を取得。西南戦争、日清戦争、日露戦争において軍医監を務める。順天堂医院院長。家紋は源氏車紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。


林董 。1850年4月11日 – 1913年7月20日、 外交官、政治家。
下総国佐倉藩出身。父は蘭医・佐藤泰然。幕府御典医・林洞海の養子となる。松本良順は実兄。読みは、はやしただす。ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣などを務め、日英同盟に調印した。家紋は源氏車紋。画像は青山霊園にて撮影。


河口慧海 。1866年2月26日 – 1945年2月24日、 仏教学者。
泉州堺出身。読みは、かわぐちえかい。ネパール、チベット地域を探検。ネパールでは梵語仏典を、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集した。主著は『西藏旅行記』『チベット旅行記』。家紋は源氏車に法の字紋。画像は青山霊園にて撮影。


佐藤鉄太郎 。1866年8月22日 – 1942年3月4日、 海軍軍人。
出羽国鶴岡出身。実父は庄内藩士・平向勇次郎。佐藤安之の養子となる。日本海海戦ではロシア艦隊の偽装転進を見破り勝利に大きく貢献する。最終階級は海軍中将。退役後は、学習院教授を経て貴族院議員となる。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


佐藤北江 。1869年12月22日 – 1914年10月30日、 新聞記者。
陸中盛岡藩出身。本名は佐藤真一。自由民権運動で活躍後、「岩手新聞」を経て、「めさまし新聞」に入る。改題後、「東京朝日新聞」で編集長、社会部長を務めた。石川啄木を校正係に採用してことで知られる。家紋は源氏車紋。画像は青山霊園にて撮影。


佐藤幸徳 。1893年3月5日 – 1959年2月26日、 陸軍軍人。
山形県出身。読みは、さとうこうとく。東條英機などの統制派に属する。牟田口廉也(皇道派)に逆らい、インパール作戦において師団の独断退却を行ったことで知られる。最終階級は陸軍中将。家紋は源氏車紋。画像は墓所写真にて確認。


大下宇陀児 。1896年11月15日 – 1966年8月11日、 探偵小説作家。
長野県上伊那郡出身。本名は木下龍夫。読みは、おおしたうだる。『新青年』を舞台に江戸川乱歩夢野久作と並ぶ人気探偵小説家として活躍。NHKの人気ラジオ番組『二十の扉』の解答者としても著名。家紋は丸に片輪車紋。画像は多磨霊園にて撮影。


佐藤惣之助 。1890年12月3日 – 1942年5月15日、 作詞家。
神奈川県川崎市出身。佐藤家は川崎宿の本陣を預かる家柄。佐藤紅緑に師事し俳句を学ぶ。作曲家、古賀政男と組み多くの楽曲を世に送り出す。代表作は『赤城の子守唄』『大阪タイガースの歌』『人生の並木路』『人生劇場』等。家紋は源氏車紋。


石坂洋次郎 。1900年1月25日 – 1986年10月7日、 小説家。
青森県弘前市代官町出身。戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり「百万人の作家」といわれる。第14回菊池寛賞を受賞。代表作は『陽のあたる坂道 』『若い人』など。家紋は源氏車紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


佐藤栄作 。1901年3月27日 - 1975年6月3日、 政治家。
山口県熊毛郡出身。酒造業・佐藤秀助の三男。岸信介の実弟。第61、62、63代内閣総理大臣。日韓基本条約の批准、小笠原諸島・沖縄返還を実現させる。非核三原則でノーベル平和賞を受賞。家紋は六本骨源氏車紋。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。


高柳重信 。1923年1月9日 – 1983年7月8日、 俳人。
東京市小石川区生れ。富沢赤黄男に師事。金子兜太とともに前衛俳句の旗手となる。俳誌「俳句評論」代表、総合誌「俳句研究」(俳句研究新社)編集長を歴任。夏石番矢らを見出した。家紋は熨斗の丸に半源氏車紋。画像は冨士霊園の墓所にて撮影。


野口五郎 。1956年2月23日 -、 歌手、タレント。
岐阜県美濃市出身。本名は、佐藤 靖。妻は三井ゆり。郷ひろみ西城秀樹とともに新御三家の一人として、1970年代の日本を代表する男性アイドルとして活躍。家紋の源氏車紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


榊原郁恵 。1959年5月8日 -、 歌手、タレント。
神奈川県出身。本名は、渡辺郁惠。夫は俳優の渡辺徹。アイドルとして『ナッキーはつむじ風』『ピーター・パン』等、数多くのドラマやCM、芝居で人気を獲得した。家紋の源氏車紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


愚乱・浪花 。1977年2月15日 – 2010年10月6日、 プロレスラー。
栃木県下都賀郡出身。本名は、木村吉公。読みは、ぐらん・なにわ。入場コスチュームを阪神タイガース応援ハッピ、入場曲をかに道楽CMソングとし、大阪色を前面に押し出した覆面レスラー。家紋の源氏車紋はグレートサスケのブログの写真にて確認。


佐藤洋太 。1984年4月1日 – 、 プロボクサー。
岩手県盛岡市出身。中学時にボクシングを始める。協栄ボクシングジム所属。WBC世界スーパーフライ級王者。元日本スーパーフライ級王者。2012年3月27日、判定勝ちを収めて世界王座を奪取。左腕に佐藤家の家紋の八本骨源氏車の刺青を入れている。

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井桁紋 -地から湧き出る命の水の不思議な力の象徴- 乃木希典、井上靖、井深大...

人間のとって最も大事なものは生命の源・水である。
古来、人々は、その水が地中から湧き出る泉、そして井戸をどれだけありがたがったことであろうか。
この井桁紋、井筒紋は、そんな日本人の地から湧き出る水の神秘さと感謝を紋所にしたものである。

また、井戸は冥土との通り道との俗信もあった。小野篁が井戸から地獄の閻魔大王の元に通っていたという伝説や、能楽の「井筒」の物語もそんな中の一挿話である。

井桁紋と井筒紋は類似しているが、通常、井桁紋は菱形、井筒紋は正方形のものを指す。

全国で27位の分布。特に鹿児島県(15位)、和歌山県(18位)、群馬県(19位)で多く見られる。

使用している有名人は以下。


住友政友 。1585年12月31日 – 1652年、 商人。
越前国丸岡出身。住友政行の次男。住友財閥の祖。平家の末裔といわれている。京都では富士屋嘉休と名乗り薬舗・書林の店「富士屋」を開いた。商人の心得を説いた『文殊院旨意書』を残し、その教えは今も住友精神の基礎となっている。


三井高利 。1622年 – 1694年5月29日、 商人。
伊勢国松坂出身。六角氏の旧臣・三井高安の長男・高俊が武士を捨て質屋と造り酒屋を開業。姓は藤原。三井家の基礎を築き江戸本町に呉服店を開業。屋号を越後屋(後の三越)とし、後に両替商も開業。家紋は井筒に三の字。四つ目結紋も使用。


小林平八郎 。? – 1703年1月31日、 武士。
元は米沢藩上杉家の家臣だったという伝承がある。吉良義央に遺恨のある大石良雄ら元赤穂藩の浪人(赤穂浪士)による吉良邸討ち入りに巻き込まれ討ち死にした。家紋は六つ追い重ね井筒紋。豊島区巣鴨の慈眼寺の墓所にて確認。


北村季吟 。1625年1月19日 – 1705年8月4日、 俳人、和学者。
近江国野洲郡北村出身。祖父の宗竜、父の宗円を継いで医学を修めた。俳諧は貞門派に属し山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出。『土佐日記抄』『伊勢物語拾穂抄』『源氏物語湖月抄』などの注釈書も著す。家紋は丸に平井筒紋。


安井息軒 。1799年2月5日 – 1876年9月23日、 儒学者。
日向国宮崎郡清武郷出身。飫肥藩士安井滄洲の次男。読みは、やすいそっけん。その業績は江戸期儒学の集大成と評価される。門下からは谷干城陸奥宗光など延べ2000名に上る逸材が輩出された。家紋は三つ盛鞠挟みに井桁紋。


江川英龍 。1801年6月23日 – 1855年3月4日、 幕臣。
伊豆国韮山出身。伊豆韮山代官・江川英毅の次男。通称は江川太郎左衛門。読みは、えがわひでたつ。洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。家紋は井桁に十六葉菊紋。


三輪田米山 。1821年2月12日 – 1908年11月3日、 書家。
伊予国久米郡出身。日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男。弟・三輪田元綱は足利三代木像梟首事件の犯人。義理の妹・三輪田眞佐子は三輪田女学校(現三輪田学園中学校・高等学校)の創立者。家紋は井桁に木瓜紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


並木胤繁 。1825年 – 1871年、 剣豪。
武州田無村出身。千葉周作の北辰一刀流で免許皆伝する。一般的に、多摩地域は天然理心流の地盤といわれているが田無村は北辰一刀流の流れが根付いていたという。画像は門下生が建てた田無芝久保墓地の墓所にて撮影。家紋は井桁に花菱紋。


井上源三郎 。1829年4月4日 – 1868年1月29日、 新選組の隊士。
武蔵国日野宿北原出身。八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男。土方歳三近藤勇の兄弟弟子。新選組の六番隊組長を務める。NHK大河ドラマ「新選組!」では小林隆が演じる(顔画像)。家紋は丸に井筒紋。画像は日野市の宝泉寺にて撮影。


新井忠雄 。1835年3月5日 – 1891年2月15日、 新撰組隊士。
陸奥国磐城平藩出身。母方の新井家を継ぐ。伊東甲子太郎らと共に新撰組を離脱して御陵衛士を結成。油小路事件で御陵衛士が崩壊すると、薩摩藩邸に逃げ込んで、戊辰戦争では新政府軍に所属した。家紋は丸に井桁紋。画像は谷中霊園にて撮影。


真木長義 。1836年6月28日 – 1917年3月3日、 海軍軍人。
肥前国出身。佐賀藩士・藩医200石、真木長澄の長男。長崎海軍伝習所で学び、「電流」艦長として戊辰戦争に従軍。海軍中将、海軍機関学校長、宮中顧問官、伏見宮別当、貴族院議員を務めた。家紋は井桁に蔦紋。青山霊園の墓所にて撮影。


今井信郎 。1841年11月14日 – 1919年6月25日、 武士。
江戸本郷出身。幕府講武所の柔術師範・窪田鎮勝からは扱心流体術を、榊原鍵吉からは直心影流剣術を習い、講武所の剣術師範代を勤めた。京都見廻組に参加し、近江屋事件で暗躍。坂本龍馬暗殺の犯人は自分であると証言。家紋は、丸に平井筒紋。


井上勝 。1843年8月25日 – 1910年8月2日、 官僚。
長州藩士・井上勝行の3男として萩城下に生まれる。脱藩後に英国に密航し、ロンドンに留学。帰国後は鉄道庁長官として鉄道事業の発展に尽力。日本の鉄道の父と呼ばれる。家紋は丸に隅立て井桁紋。画像は品川東海寺大山墓地。


乃木希典 。1849年12月25日 – 1912年9月13日、 陸軍軍人。
江戸出身。長府藩の藩士、乃木希次の長男として上屋敷に出生。東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ聖将と呼ばれた。最終階級は陸軍大将。明治天皇の後を追って殉死。家紋は四つ持ち合い井桁、五瓜、市松四つ目結。青山霊園の墓所にて撮影。


松旭斎天一 。1853年 – 1912年6月14日、 奇術師。
越前国出身。福井藩陪臣・牧野海平の長男。本名は牧野八之助。後に服部松旭。読みは、しょうきょくさいてんいち。大仕掛けな舞台奇術を志し浅草の文楽座で成功し大道芸の手品を近代的な舞台奇術に発展させた。家紋は井桁紋。画像は霊巌寺にて。


湯本武比古 。1856年1月8日 – 1925年9月27日、 教育学者。
信濃国下高井郡科野村出身。文部省にて「読書入門」を編集。東宮御用掛、学習院・東京高師(東京教育大)教授などを務める。「教育時論」を主幹。著書・訳書などによってヘルバルト教育学普及の一翼を担う。家紋は丸に井桁紋。画像は多磨霊園にて撮影。


伊地知季珍 。1857年4月20日 – 1935年4月7日、 海軍軍人。
薩摩藩出身。父は伊地徳四郎。読みは、いじちすえたか。「扶桑」砲術長として日清戦争に出征。「出雲」艦長に着任し日露戦争に出征。海軍中将、艦政本部長、海軍将官会議議員等を歴任。家紋は丸に隅立て組み井筒紋。青山霊園の墓所にて撮影。


伊地知彦次郎 。1860年1月6日 – 1912年1月4日、 海軍軍人。
薩摩藩出身。薩摩藩士・伊地知季太の二男として生まれる。日露戦争では、連合艦隊旗艦「三笠」艦長として従軍。NHKドラマ「坂の上の雲」では、ダンカンが演じた。最終階級は海軍中将。家紋は丸に組み井筒紋。青山霊園の墓所にて撮影。


石井菊次郎 。1866年4月24日 – 1945年5月25日、 外交官。
上総国長柄郡出身。旧姓は大和久。石井家の養子となる。第2次大隈内閣で外務大臣として、日露協約の締結に尽力。アメリカ合衆国特派大使として石井・ランシング協定を結ぶ。家紋は丸に平井筒紋。画像は青山霊園の石井家墓所にて。


床次竹二郎 。1867年1月6日 – 1935年9月8日、 政治家。
薩摩国出身。読みは、とこなみたけじろう。藩士の家柄。内務大臣、鉄道大臣、逓信大臣、政友本党総裁を歴任。万年首相候補と呼ばれたが、政権獲得の夢を遂に果たせなかった。家紋は切り竹井桁紋。画像は多磨霊園にて撮影。


伊井蓉峰 。1871年9月30日 – 1932年8月15日、 俳優。
東京市日本橋区出身。家業は写真家。本名・伊井申三郎。読みは、いいようほう。川上音二郎一座参加した後男女合同改良演劇済美館を興した。新派劇の黎明期を支え新派の大統領と呼ばれた。家紋は丸に三つ井桁紋。画像は鶴見・総持寺にて。


酒井勝軍 。1874年3月15日 – 1940年7月6日、 オカルティスト。
山形県上山町出身。読みは、さかいかつとき。幼名は山下勇吉。後に酒井姓を継ぐ。日ユ同祖論を唱え、竹内文書の存在を主張する一方で、飛騨高山でピラミッド上野平を発見し『太古日本のピラミッド』を出版。丸に平井筒紋。画像は多磨霊園にて撮影。


中村吉蔵 。1877年5月15日 – 1941年12月24日、 劇作家。
島根県出身。イプセンの影響を受け春雨と号して新社会劇団を主宰の後、藝術座の島村抱月に招かれて戯曲「剃刀」などを書く。1920年に「井伊大老の死」を歌舞伎座で上演。歴史劇を書くようになる。家紋は七宝に井桁紋。画像は豪徳寺にて撮影。


井上範 。1877年8月18日 – 1932年6月24日、 土木工学者。
東京市出身。本名読みは、いのうえはん。40年に大蔵省に入り、大蔵技師、内務技師を経て東京帝大の教授となる。その後、福岡県・若松港、兵庫県・神戸港、神奈川県・横浜港などの築港、改修を手がけた。家紋は井桁紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


實川延若(2代) 。1889年9月1日 – 1980年11月9日、 歌舞伎役者。
大阪府出身。本名は天星庄右衛門。読みは、じつかわえんじゃく。1950年に東京劇場で演じた『山門』の石川五右衛門は歌舞伎史上に残る名舞台と言われた。家紋は重ね井桁紋。替え紋は五つ雁金。画像は地下鉄・田原町駅のレリーフ(花形井筒紋)。


白井喬二 。1889年9月1日 – 1980年11月9日、 時代小説作家。
神奈川県横浜市出身。旧鳥取藩士で警察官吏の父・孝道の長男。本名は井上義道。「怪建築家十二段返し」でデビュー。『神変呉越草紙』『新選組』で大衆文学の草分け的存在となる。『富士に立つ影』はベストセラー。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


井上成美 。1889年12月9日 – 1975年12月15日、 海軍軍人。
宮城県仙台市出身。読みは、いのうえしげよし。いわゆる条約派に属し、米内光政山本五十六らと共に日独伊三国軍事同盟、日米開戦に強硬に反対した。最後の海軍大将として知られている。家紋は井桁紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


花村四郎 。1891年8月30日 – 1963年7月1日、 政治家。
長野県東筑摩郡川手村出身。弁護士。「万朝報(よろずちょうほう)」主筆をつとめた後、政治家に転身。鳩山派で、日本自由党の結成に参加。衆議院法務委員長、第1・第2次鳩山内閣の法相となる。家紋は井桁に桔梗紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


永野重雄 。1900年7月15日 – 1984年5月4日、 実業家。
島根県松江市出身。読みは、ながのしげお。新日本製鐵会長などを歴任し、日本財界の雄として活躍した。戦後日本を代表する経済人の一人。経済同友会代表幹事、経団連・日経連各顧問を務めた。家紋は井桁に花菱紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


矢田津世子 。1907年6月19日 – 1944年3月14日、 小説家。
秋田県南秋田郡五城目町出身。本名は矢田ツセ。はじめモダン派であったが純文学に転進し女流作家として人気を集めた。坂口安吾の恋人とされる。代表作は『神楽坂』『茶粥の記』。家紋は丸に組み井桁紋。画像は東本願寺田無墓地にて撮影。


前田山英五郎 。1914年5月4日 – 1971年8月17日、 大相撲の力士。
愛媛県西宇和郡出身。本名は萩森金松。大関・羽黒山、横綱・双葉山を相次いで張り手戦法で下し前田山の張り手旋風と呼ばれた。第39代横綱となるが横綱通算勝率は5割未満だった。引退後は横綱・朝潮(3代目)、大関・前の山を育てる。画像は総持寺にて。


井上靖 。1907年5月6日 – 1991年1月29日、 小説家、詩人。
北海道旭川町出身。軍医・井上隼雄の長男。井上家は静岡県伊豆湯ヶ島で代々続く医家。1950年 『闘牛』で芥川賞を受賞。1976年に文化勲章受章。代表作『天平の甍』『おろしや国酔夢譚』『風林火山』等。家紋は丸に隅立て井筒紋。


井深大 。1908年4月11日 – 1997年12月19日、 実業家。
栃木県日光町出身。飯盛山で自刃した白虎隊士・井深茂太郎と同じ一族。盛田昭夫と共にソニーの創業者の一人。戦後日本を代表する起業家として世界的にも有名。トランジスタラジオトリニトロンテレビを世に送り出す。家紋は丸に隅立て組み井筒紋。


宮内寒弥 。1912年2月18日 – 1983年3月5日、 小説家。
岡山県出身。本名は、池上子郎。読みは、みやうちかんや。1908年の七里ヶ浜遭難事件のことを描いた『七里ヶ浜』で平林たい子文学賞を受賞したことで一躍話題となった。家紋は井桁に五七桐紋。画像は大庭台霊園の墓所にて撮影。


山崎富栄 。1919年9月24日 – 1948年6月13日、 美容師。
東京府東京市本郷区出身。父・山崎晴弘は日本最初の美容学校(東京婦人美髪美容学校)の設立者。作家・太宰治の愛人の一人であり、最晩年の太宰の看護や執筆活動の介助を続け、共に入水自殺を遂げた。家紋は井桁に根笹紋。画像は永泉寺にて撮影。


井尻千男 。1938年8月2日 – 、 評論家。
山梨県出身。読みは、いじりかずお。拓殖大学名誉教授、拓殖大学日本文化研究所顧問(前所長)。新しい歴史教科書をつくる会顧問。保守派の論客として幅広く活躍している。家紋の丸に井桁紋は2013年新春の対談番組(チャンネル桜)にて確認。


松任谷由実 。1954年1月19日 – 、 ミュージシャン。
東京都八王子市出身。老舗の呉服店の次女として誕生。夫はアレンジャー・松任谷正隆。ニューミュージックを代表する女性シンガーソングライター。代表作は「紙ヒコーキ」「卒業写真」など多数。家紋は平井筒にヨの字紋。荒井呉服店の看板より類推。


新井康弘 。1956年12月5日 -、 俳優。
東京都出身。アイドルグループ・ずうとるびの一員として人気を誇る。現在では、テレビの2時間ドラマや舞台を中心に、実力派脇役俳優として活躍している。家紋の丸に井桁紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


マディ上原 。1957年 – 2009年12月22日、 特殊漫画家。
東京都出身。1981年、谷岡ヤスジに師事。1982年、漫画家として独立。エロ漫画誌、『ガロ』等に不条理四コマなどを発表。漫画家・原律子は元妻。また、根本敬との漫画ユニット「お岩」でも作品を発表。家紋は井桁に木瓜紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
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松紋 -長寿への願いを込めた紋- 松本清張、高島忠夫、細野晴臣...

松は長寿の象徴である。

例えば、『高砂』は、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛でて、人世を言祝ぐ能である。
日本人は松の木の悠然としていて変らない緑に、長寿という普遍的な願望をこの松に託したのである。

香川県は、松の多い土地柄として有名だが、やはりこの松紋の所有者も多い。
その昔、讃岐の国司となってこの地に下った藤原氏がこの松紋を採用、土地に根付き一族を広げていった。
全国では22位だが、香川県でだけ10位に入っているのである。

松紋所有の有名人は以下。


神山郡廉 。1829年2月16日 – 1909年8月20日、 政治家。
土佐国出身。土佐藩士・神山久左衛の五男。読みは、こうやまくにきよ。大政奉還の建白書に連署し、王政復古後、参与に就任。維新後、刑法官副知事、和歌山県権令、貴族院男爵議員等を歴任。家紋は左寄せ三つ松紋。画像は青山霊園にて撮影。


近藤真琴 。1831年10月29日 – 1886年9月4日、 教育家、思想家。
江戸出身。鳥羽藩士・近藤儀智の二男。幕府軍艦操練所翻訳方に出仕。明治六大教育家の一人とされ攻玉社を創立。航海術、測量学、数学、国語学教育の先鞭を付けた。海軍軍人としては最終階級は海軍中佐。家紋は丸に左寄り三階松紋。


長松幹 。1834年1月1日 – 1903年6月14日、 武士、官僚。
長門国出身。名は文仲。通称は別に大蔵、文助。京都で久坂玄瑞らとともに公家と交わる。維新後、新政府の史官となり、修史館監事時代に「復古記」を編修。元老院議官、貴族院議員。家紋は右寄り三階松紋。画像は青山霊園にて撮影。


松岡康毅 。1846年8月14日 – 1923年9月1日、 政治家。
安房国出身。幼名・毅之進、のち康毅。読みは、まつおかやすこわ。法律取調委員、検事総長、農商務大臣、貴族院議員、枢密院顧問官、日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長を歴任。家紋は丸に三つ松紋。画像は青山霊園にて撮影。


大江卓 。1847年11月2日 – 1921年9月21日、 政治家・実業家。
土佐国幡多郡柏島出身。妻は後藤象二郎・次女の小苗。読みは、おおえすぐる。土佐陸援隊に入り倒幕運動に参加。第1回衆議院選挙で当選。大幅な軍縮予算案を査定し、これを可決させた。家紋は三つ松紋。青山霊園の墓所にて撮影。


松村介石 。1859年11月9日 – 1939年11月29日、 宗教指導者。
播磨国出身。父は、明石藩士で漢学者。読みは、まつむらかいせき。日本のプロテスタント系新宗教の指導者として植村正久、内村鑑三、田村直臣と共に、キリスト教界の四村と呼ばれた。家紋は三つ松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


葛生能世 。1874年7月25日 – 1958年2月3日、 右翼。
千葉県出身。読みは、くずうよしひさ。昭和右翼の重鎮。玄洋社の指導者・頭山満の片腕といわれ、内田良平と右翼団体「黒龍会」を設立。敗戦後A級戦犯に指定されたが不起訴となり釈放された。家紋は丸に右寄り三階松紋。多磨霊園にて撮影。


松木直亮 。1876年11月5日 – 1940年5月22日、 陸軍軍人。
山口県出身。読みは、まつきなおすけ。陸大教官、陸軍省整備局長等を歴任。二・二六事件発生に伴い、東京陸軍軍法会議判士を命ぜられ、磯村年陸軍大将らと共に公判を担った。最終階級は陸軍大将。家紋は三つ松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


大原孫三郎 。1880年7月28日 – 1943年1月18日、 実業家。
岡山県倉敷市出身。大地主・大原孝四郎の三男。倉敷紡績、中国合同銀行、中国水力電気会社の社長を務め、大原財閥を築き上げる。また、大原美術館を設立する等文化事業にも力を入れた。画像は、大原美術館内にある丸に向かい二つ松紋。


山本宣治 。1889年5月28日 – 1929年3月5日、 政治家。
京都府宇治出身。料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松の長男。日本共産党系の労農党の京都府連合会委員長。衆議院議員として治安維持法改正などに反対するが、「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。家紋は一重亀甲に右寄り三階松紋。


丸山敏雄 。1892年5月5日 – 1951年12月14日、 宗教家、教育家。
福岡県豊前市合河町出身。倫理研究所の前身・新世文化研究所を設立し、社会教育、研究、文化、出版等の事業を行なう。後に、日本全国に50,000社を擁する倫理研究所として発展させる。家紋は一重亀甲に左寄り三階松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


徳川夢声 。1894年4月13日 – 1971年8月1日、 弁士、漫談家。
島根県益田市出身。東京に育つ。本名は福原駿雄。読みは、とくがわむせい。元祖マルチタレントと言われる。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。日本放送芸能家協会初代理事長。家紋は丸に三つ松毬紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


水原茂 。1909年1月19日 – 1982年3月26日、 野球選手、監督。
香川県高松市出身。高校野球、大学野球で活躍後、読売巨人軍に入団。引退後は巨人、東映、中日で監督を務めた。巨人監督時代は在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝く。家紋は丸に右荒枝付き三階松に株竹紋。画像は鶴見・総持寺にて撮影。


松本清張 。1909年12月21日 – 1992年8月4日、 小説家。
福岡県企救郡板櫃村出身。「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。「砂の器」「点と線」「黒革の手帖」など犯罪の動機を重視する作風の推理小説で知られている。多数。家紋は三つ重ね松紋。画像は富士見台霊園の墓所にて撮影。


木下惠介 。1912年12月5日 – 1998年12月30日、 映画監督。
静岡県浜松市出身。食料品店を営む家の四男。『二十四の瞳』で、ゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞。『木下惠介劇場』『木下惠介アワー』など、多くのテレビドラマを制作。家紋は右寄り三ツ枝松。画像は鎌倉・円覚寺の墓所にて撮影。


石井隆匡 。1924年1月3日 – 1991年9月3日、 ヤクザ。
神奈川県横須賀市出身。本名は石井進。暴力団・稲川会二代目会長、横須賀一家五代目総長。企業経営志向を取り、経済進出する暴力団の先駆けとなる。山口組と一和会の抗争を休戦させる。家紋は丸に右荒枝付き三階松紋。画像は池上本門寺にて撮影。


辻邦生 。1925年9月24日 – 1999年7月29日、 仏文学者、小説家。
東京市本郷区駒込出身。本籍地は山梨県東八代郡春日居町。父はジャーナリスト。母は医家。読みは、つじくにお。立教大学助教授、学習院大学教授等を歴任。代表作は『廻廊にて』『安土往還記』『背教者ユリアヌス』など。家紋は三ツ枝松紋。


高島忠夫 。1930年7月27日 – 、 タレント・俳優・司会者。
兵庫県武庫郡出身。妻は女優の寿美花代、高嶋政宏・政伸は実子。代表出演作は『細うで繁盛記』。料理番組『ごちそうさま』やクイズ番組『クイズ・ドレミファドン!』など人気番組で司会も担当。家紋は三つ松。画像は春秋苑の生前墓にて撮影。


立川談志(7代) 。1936年1月2日 – 2011年11月21日、 落語家。
東京府東京市小石川区出身。本名は松岡克由。読みは、たてかわだんし。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうと、立川流を主宰。参議院選挙に全国区から無所属で当選し沖縄開発庁政務次官も務めた。丸に左三蓋松は立川流の定紋。


岡八朗 。1938年4月16日 – 2005年7月26日、 喜劇俳優。
兵庫県尼崎市出身。本名は市岡輝夫。読みは、おかはちろう。その風貌から奥目の八ちゃんと親しまれ「えげつなー」「隙があったらかかってこんかい!」等のギャグを持つ。墓所の家紋は写真では丸に右寄り三階松系の紋に見えるが現物は未確認。


細野晴臣 。1947年7月9日 – 、 ミュージシャン。
東京都港区出身。祖父は日本人でタイタニック号に乗船し事故から生還した細野正文。大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを坂本龍一、高橋幸宏とYMOを結成、成功を収める。家紋は丸に右寄り三階松。画像は多磨霊園の正文氏の墓所にて撮影。


hide 。1964年12月13日 – 1998年5月2日、 ミュージシャン。
神奈川県横須賀市出身。本名は松本秀人。元X JAPANのギタリスト。現在でも絶大な人気を誇る。ソロ活動では、ギター以外にも作詞、作曲、ボーカル、ベース、プロデューサーなどマルチプレイヤーとしての才能も発揮した。家紋は丸に右寄り三階松紋

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桜紋 -どこかに死の匂いを感じさせる花- 原敬、吉田茂、与謝野晶子...

元々、「桜」は、どこかに死の匂いを感じさせる花であった。

例えば...

古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であった。
源氏物語では桜は凶兆の花であった。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であった。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であった。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であった。

そのため、桜紋は、その人気とは裏腹に広まらなかった。
全国全ての地域において、ベスト30に入っていないのだ。

しかし、一方、桜は、江戸中期から出始めた国文学者によって、徐々に日本の象徴として祀り上げられる様になる。
例えば、本居宣長はこんな歌を詠んでいるのだ。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

そして、明治時代からは、上記の国学的イデオロギーを引き継いで、様々な国家主義的組織の紋章として採用されていくのである。
現代でもその紋が生きているのは、例えば、学習院(左上)、大相撲(右上)、軍(左下)、靖国神社(右下)などの組織だ。

これらの紋は、桜の中でも山桜を入れ込んだ紋である。

有名人で桜紋を使用しているのは以下。


細川忠興 。1563年11月28日 – 1646年1月18日、 武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔。家紋の細川九曜は星が離れているのが特徴。


花柳壽輔(初代) 。1821年2月19日 – 1903年1月28日、 日本舞踊家。
江戸の玩具商・三国屋清兵衛の長男。読みは、はなやぎじゅすけ。日本舞踊界において最大の流派である花柳流の創始者。江戸期から明治初期にかけて『勧進帳』『船弁慶』などの舞台の振付を行う。家紋は花柳桜。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


井上馨 。1836年1月16日 – 1915年9月1日、 政治家、実業家。
長州藩士・井上五郎三郎光享の次男。本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む安芸国人。外務卿、参議、農商務大臣、内務大臣を歴任。元々の家紋は割剣酢漿草菱だが、青山・長谷寺の墓所には桜菱紋(画像)が彫られている。


山縣有朋 。1838年6月14日 – 1922年2月1日、 政治家、陸軍軍人。
萩城下近郊の阿武郡出身。長州藩の中間・山縣有稔の長男。奇兵隊に入って頭角を現し新政府では日本陸軍の基礎を築き国軍の父と称される。内閣総理大臣(第3、9代)。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に大和桜紋と三つ鱗紋。画像は護国寺にて撮影。


桜井勉 。1843年10月6日 – 1931年10月12日、 行政官。
出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石町伊木に出生。内務省地理局長時代には全国の気象測候所の創設を働きかけ、気象観測網の基礎を築いた。山梨県知事、台湾新竹知事、内務省神社局長を歴任。家紋は大和桜紋。画像は谷中霊園にて撮影。


原敬 。1856年3月15日 – 1921年11月4日、 政治家。
盛岡藩出身。盛岡藩士原直治の次男。分家として独立する際に平民となる。その際、家紋も三つ割桜とする。政界に進出し大正7年に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われた。画像は盛岡・大慈寺の墓所にて撮影。


吉田茂 。1878年9月22日 – 1967年10月20日、 官僚、政治家。
東京神田駿河台出身。高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の五男。5度にわたって内閣総理大臣に任命された。サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約を締結するなど、戦後日本を創る。画像は青山霊園の墓所(現在は他所へ移転)にて撮影。


与謝野晶子 。1878年12月7日 – 1942年5月29日、 歌人、作家。
大阪府堺市甲斐町で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む鳳宗七の三女。日露戦争の時に歌った『君 死にたまふことなかれ』は有名。代表作品は、『みだれ髪』『全訳源氏物語』。夫は与謝野鉄幹。元財務相・与謝野馨は孫。画像は多磨霊園にて撮影。


滋野清武 。1882年10月6日 – 1924年10月13日、 飛行家。
愛知県出身。男爵・滋野清彦の三男。通称はバロン滋野。第一次世界大戦の開戦時にフランス陸軍航空隊に志願して陸軍飛行大尉に任命され、受勲する。学生時代、志賀直哉に殴られたという逸話がある。家紋は六つ細川桜紋。画像は谷中霊園にて撮影。


三輪寿壮 。1894年12月15日 – 1956年11月14日、 法律家、政治家。
福岡県糟屋郡古賀村に生まれる。読みは、みわじゅそう。戦前は、労働争議や小作争議で闘う。衆議院議員に初当選後、ゾルゲ事件で尾崎秀実の官選弁護人を務める。戦後は左右社会党の統一を成し遂げる。家紋は丸に剣桜紋。画像は多磨霊園にて撮影。


宇都宮徳馬 。1906年9月24日 – 2000年7月1日、 政治家、実業家。
東京府出身。陸軍大将・宇都宮太郎の長男。読みは、うつのみやとくま。平和共存外交、日ソ国交回復や日中・日朝の国交回復を主張するなど自民党左派として活躍。家紋は左三つ巴紋と丸に雀口桜紋。画像は麻布・賢崇寺の父・宇都宮太郎の墓にて。


埴谷雄高 。1909年12月19日 – 1997年2月19日、 作家、評論家。
台湾の新竹に生まれる。本名は、般若豊。代表作は思弁的な大長篇小説『死靈(しれい)』。世界文学史上未曾有の形而上小説であったが未完に終わる。晩年は吉本隆明とコム・デ・ギャルソン論争で対決。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


吉永小百合 。1945年3月13日 – 、 女優。
東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身。本名は岡田小百合。浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。代表出演作『キューポラのある街』『愛と死をみつめて』『母べえ』等。家紋は雪輪に山桜紋という(伝説)。


水野誠一 。1946年7月8日 – 、 実業家、政治家。
東京都出身。読みは、みずのせいいち。妻は、木内みどり。父親は、フジテレビ社長の水野成夫。株式会社西武百貨店社長、参議院議員、新党さきがけ政策調査会長などを歴任。家紋は丸に三つ葉桜紋。画像は春秋苑の父・水野成夫の墓所にて撮影。


有村治子 。1970年9月21日 – 、 政治家。
石川県出身。読みは、ありむらはるこ。自民党所属の参議院議員。第2次安倍内閣で内閣府特命担当大臣に任命された。高祖父の有村國彦は幕末の志士・海江田信義有村次左衛門の末弟。家紋の雀口桜杏葉は青山霊園の有村家の墓所にて撮影。


狩野英孝 。1982年2月22日 – 、 お笑いタレント。
宮城県栗原市栗駒出身。実家は約1500年続いているといわれる櫻田山神社。神紋は桜。「ホストネタ」をメインの芸とするがイジられキャラでもある。「ラーメン、ツケメン、ぼくイケメン」「スタッフゥ~」等のギャグを持っている。

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