カテゴリー別アーカイブ: J-POP

普通の人のラブソング「純恋歌」

2006年に大ヒットした「純恋歌」(湘南乃風)は普通の人々の普通のラブソングである。
現在でもカラオケランキングで上位に来ているが、今後もJ-POPのスタンダードとして聴かれ、歌われ続けていくだろう。

歌は、独特のレゲエ調のリズム/メロディに乗って物語風に進む。
出会ってから、好きになって、付き合って、喧嘩して、仲直りして、そして、一生「お前」と手を繋ぎ、一生「お前」のために愛を歌う...

ここには、夜空に輝く星のように女性をあがめるロマンティストとしての男がいる。
好きになった女を守りたいと思う善良な男がいる。
時には自分勝手に怒鳴りまくる自分勝手な男がいる。
でも、すぐに反省する単純で素直な男がいる。

そしてそんな男を許す女がいる。

これは、バブルだとか、不況だとか、格差社会だとかいった時代の流れとは無関係な普通の男と女の関係である。
ここには、いさぎよくも、普遍的な若者達の幸福観が正面から歌われているのである。

目立たないけど、社会の多数を占める地道で普通の人々の気持ちを正面から汲み取った「純恋歌」。
彼らが「純恋歌」で通ったラブソングの王道は、最近では、照れ臭すぎて誰も通らなかったド真ん中の「空き道」だったのではないか。

最後に「純恋歌」のプチ疑問。
歌詞の中に出てくる「春の夜風に打たれ、思い出に殴られ、傷重ねて気付かされた大事なもの握りしめ」の握りしめられた大事なもの ってナンだったんだろうか?

まさむね

「そばにいるね」は格差社会を正当化する

2008年の上半期オリコンランキングで「そばにいるね」(青山テルマ feat.SoulJa)が1位となった。
遠距離恋愛を扱ったこの歌に漂う、ゆるい男女の関係のあり方が広く支持された結果だと思う。

どんなに離れていようと心の中ではいつでも一緒にいるけど 寂しいんだよ…

最近のドラマ、映画の恋愛においては、遠距離が勝利するという説(宮台真司氏とか)がある。

例えば映画「恋空」ではそういった恋愛の現代性が典型的に表現されているという。
そして、おそらくこの「そばにいるね」もそういった遠距離勝利の流れにある。

もっとも、この楽曲は、NTTドコモのキャンペーンソングに採用されていた。
それを考え合わせれば、「遠距離恋愛は勝利する」あるいは「遠距離恋愛こそ純粋である」という感性は定額制、割引制加入促進を背後からささえる思想になっているっていうのも明白だよね。
CMで流される口当たりのいい一般論(価値観)が、対象となっている商品を正当化する思想になっているということはマーケティングの常道である。
例えば、「かけがえのない今を大事にしよう(買えるものはカードで)」という一般論が、「とりあえず、今、金を使え!!」というカード会社の本音の、「人生、何があるか分からない(だから愛する人のために)」という一般論が、保険会社の「だから契約しなさい」という誘導を、それぞれ背後からささえる思想になっているのである。

しかし、「そばにいるね」の思想は、携帯電話会社用の思想である以上に、格差社会固定化する思想である事も付け加えなければなるまい。
定額料金の携帯電話の電話越しでやさしい言葉をささやきあう事が「最強の純愛」であるとするならば、そこからはお互いの現状打破しようとするエネルギーは生れてこない。
わざわざお金(車代、デート代、宿泊代等)や時間をかけて、会いに行く必要がなくなってしまうからだ。

俺がもっと金持ちだったら もっとまともな仕事をしてたら…
もしもすべて犠牲にできたのなら 俺は絶対に君を…

上記は「そばにいるね」の相聞歌「ここにいるよ」の中の男から女への一節であるが、男はロマンチックな言葉はささやけるが、忙しさにかまけて半永久的に現状に安住し続けてしまうのだ。
この2人の関係は「心の豊かさ」として感じるか、それとも「下流恋愛思想」として見てしまうかで、この曲への評価は大きく変るだろう。

最後に、5月に大川栄策さんが「そばにいてね」という曲をリリースしています。
大変、まぎらわしいのでCD購入の際は、気をつけてね。

まさむね

団塊にとっての千の風

千の風.gifヒット曲は、時代の息吹を吸い、時代に愛されることによって、メガヒット曲となる。

2006年の紅白歌合戦で歌われ、昨年、メガヒットを記録した「千の風になって」(秋川雅史)は典型的なメガヒットであった。

ちょうど2007年は団塊世代のピーク(1947年生れ)が定年退職を迎えた。
すなわち、この年は、この世代の多くが、仕事→趣味へのギアチェンジした年なのであった。

団塊世代の特徴を一言で言えば、集団就職、大学進学、都会への憧れ等を理由として、故郷を捨ててきた世代なのである。
その青春時代(1960年代後半~1970年代前半)の空気をフォークソングという形式に乗せて表現した詩人が北山修だった。
彼は、団塊世代の共通心情を、風に託した。
彼の描く風は、魂の不在であり、過去の不在であり、故郷の不在であり、愛の不在の象徴であった。

あの時 風が流れても変わらないと言った二人の心と心が 今はもう通わない…「あの素晴しい 愛をもう一度」
帰っておいでよとふりかえってもそこにはただ風が吹いているだけ…「風」
冷たい風にふかれて夜明けの町を一人行く悪いのは僕のほうさ君じゃない…「さらば恋人」

「千の風になって」のヒットは、このような団塊世代の心に、かつて彼らがこだわった風が、再度、吹いた結果ではないのかと想像してみたい。

ただ、この風は、40年前に北山修によって、歌われた不在の象徴としての冷たい風、別の言い方をすれば、現実という風ではなかった。
千の風は、死んだ魂に乗って吹く愛と自由に溢れた暖かい風となって、彼らの心をひきつけたのだ。
おそらく、その風が自由に吹きまくる大きな青空、緑の大地、夜の星空は、かつて団塊世代の幼き頃の思い出の風景だったに違いない。

しかし、その風景は、既に捨てて来てしまったもの、今はもう無い。

まさむね

月-その観念の伝統-

倖田來未が5ヶ月ぶりに新曲を発売した。月の歌だ。

 君とよく歩いたいつもの道と私
 月と歩きながら悲しいメロディ

  「Moon Crying」(倖田來未)

月を歌うことは、「不在」を歌うこと。
不在の対象は、過去の思い出、愛しい人、そして懐かしい場所、と様々である。

一昨年から昨年にかけての大ヒット曲、「三日月」(絢香)もそうだ。

 君も見ているだろうこの消えそうな三日月
 繋がっているからねって強くなるからねって

  「三日月」(絢香)

恐らく、この月=不在の象徴という観念は、万葉の昔からそれほど変わっていない。
 
 天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
大空に輝くあの月は、昔、春日の三笠山に出ていた月と同じ月なんだろうな)

この歌は、遣唐使船、遠い異国の地に渡った阿倍仲麻呂が日本を懐かしんで詠んだ歌だが、この月への感性が、現代のJ-POPにも生きているではないか。
こういった事こそ、伝統だ。

まさむね

歌姫の系譜、YUIに期待

それぞれの時代にはそれぞれの時代に会った歌姫が登場する。
おそらく、大衆の無意識的な願望を広く拾った個性がそれぞれの時代に輝くんだと思う。

例えば、90年代後半、ストリート系コギャルに圧倒的に支持されたのが、安室奈美恵だ。
衝動の赴くままに街へ出ようというメッセージが当時アムラーなる流行を生み出した。

 そんなんじゃないよ 楽しいだけ 止まらない衝動に 従うだけ 「Chase the Chance」

90年代末に登場したがの、浜崎あゆみだ。携帯電話の普及や平成不況によってストリート系が後退する中、表に出てきたのがアダルトチルドレン系の女の子のリアリティを最も体現していたのが彼女である。

 居場所がなかった 見つからなかった 未来には期待できるのか分からずに...「A Song for XX」

アダルトチルドレンが段々、痛い存在だと意識されはじめた頃、に登場したのが倖田來未だ。肉体性を前面に出した彼女は、露骨な関西弁と圧倒的なパワー、無類の明るさでキャバクラファッション時代を代表する。

この頃はやりの女の子 お尻の小さな女の子... 「キューティハニー」

しかし、その倖田來未が例の羊水発言などで失速する中、次の歌姫は誰か。俺的にはYUIに期待したいな。ゆとり世代といわれる彼女達の世代。薄暖かい自由はすでに与えられていた。でも同時に自分の臆病に支配される内向的な世代だよね。

窓ガラス割るような気持ちとはちょっと 違ってたんだ はじめから自由よ...
わかってほしいなんて思わないけど描いた夢を信じきれない弱さにただ支配されてた...「My Generation」

まさむね

ジェロの海雪等 J-POPと日本の古典文学

どんな曲にも必ず、キラリと光る一節を持っている宇多田ヒカルの歌詞。
2001年のヒット曲「Traveling」には、平家物語の冒頭の一節(祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり・・・おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし)が引用されている。

風にまたぎ月へ登り
僕の席は君の隣
ふいに我に返りクラリ
春の夜の夢のごとし

金曜の夜の彼女とのデートで盛り上がる気持ちを歌った曲だが、その盛り上がりに水をさす自分の心の中のスキマを、平家物語の無常観をしのばせる事で刹那的に表現する彼女の文学的センスが光る。

また、その他古典文学を意識したフレーズとしては、ジェロの海雪に出てくる「出雲崎」。
ここは古来からの歌枕の一つで、芭蕉が「奥の細道」の中の名句「荒海や佐渡に横たふ天河」を詠んだと言われているが、おそらく、この海岸から佐渡を眺めた芭蕉は、世阿弥、日蓮、順徳院等、佐渡に流された先人の苦難を偲び、この句をしたためたのであろう。

勿論、秋元康もそれを踏まえての作詞だと思われ。

さてもう一つは、湘南乃風の「純恋歌」に出てくる以下のフレーズ

桜並木照らす おぼろ月
出会った二人の場所に帰りに一人寄り道

「桜」に「朧月」といえば、「源氏物語」の花宴の巻。光源氏とライバルの右大臣家の大事な娘(朧月夜)との危険な恋を暗示するシーンとしてあまりに有名だ。

地元土着型労働者階級の歌声を代表する若旦那(湘南乃風)の教養を感じさせる一節だ。

まさまね

純恋歌&愛唄 老後の手つなぎ願望

純恋歌(湘南乃風)は2006年の、愛唄(Greeeen)は2007年の大ヒット曲、両方とも実質、プロポーズの歌であるが、以下のような共通点がある。

1.君のために一生歌い続けるよ。(ただし歌はヘタ)
2.手も握り続けるよ。
3.お互い老人になってもそれは続けるよ。

これが「結婚」という言葉をつかわない現代風プロポーズなんだろうか。

この歌詞の共通点を見ると感じるのだが、現代の若者は、今の幸せな二人の状態が、働き盛りの年代の様々な問題を一気に飛ばして、そのまま老人にワープすることを理想としているのではないかと思えてくる。

それを裏付ける統計として例えば、最近の「生活に関する満足度調査結果によると、男女ともに、20歳代と70歳代の満足度が高くて、いわゆる働き盛りの30歳代~60歳代のそれは低い。
おそらく、20代の人も、そんな上世代の人々との現実的な接触の中で、あと数十年はつらい日々が続くということを薄々わかっているのではないか。

ロマンスの影に隠れた現実回避願望が透けて見える。と同時に、不安な世の中を背景としていわゆる現役時代は”面かぶりクロール”で泳ぎきり、早くゴールして隠居したいという本音が透けて見えると言い直すべきだろうか。


純恋歌(湘南乃風)より

今すぐ会いに行くよ手を繋いで歩こう
絶対離さない その手ヨボヨボになっても
白髪の数喧嘩してしわの分だけの幸せ
二人で感じて生きて行こうぜ

LOVESONGヘタクソな歌で愛をバカな男が愛を歌おう
一生隣で聴いててくれよ

愛唄(Greeeen)より

ヘタクソな唄を君に贈ろう
めちゃくちゃ好きだと神に誓おう!
これからも君の手を握っているよ

僕の声が続く限り
隣でずっと愛を唄うよ
歳をとって声が枯れてきたら
ずっと手を握るよ

まさむね

「二人」aiko、その視線のリアリティ

aikoが描く歌詞の世界には、少女だけが持っている、あるときは醒めた、そしてある時はシュールな、個性的な視線がある。
aikoの出世作「花火」では、いきなり宇宙から花火を上から見下ろすというインパクトの強い視線を披露した。次作「カブトムシ」での視線はすでに遠い未来。彼氏も既に死んで、自分もおばあさんになっている。
また、「桜の時」では自分の人生を距離を置いて見る冷静な視線がある。その姿は逆らいがたい運命に身をまかせた感じだ。
さらに、「花風」では、「桜の時」の時間軸をさらに進めて、その視線は転生後にまで届いている。

そして最新作「二人」では、彼氏との微妙な距離を感じさせる視線が、冷たくもかわいい。

 夏の星座にぶらさがって上から花火を見下ろして... 「花火」
 あなたが死んでしまって あたしもどんどん年老いて 想像つかないくらいよ... 「カブトムシ」
 ゆっくりゆっくり時間を超えてまた違う幸せなキスをするのがあなたであるように... 「桜の時」
 生まれ変わってもあなたを見つける 雨がやんで晴れる様に... 「花風」
 一緒に撮った写真の中に夢見る二人は写っていたのね 後ろに立ってる観覧車に本当は乗りたかった... 「二人」

これらの視線はそれぞれに、妙なリアリティがあるが、これこそ、そaikoのオリジナリティなんだと思う。

まさむね

ここにいるよ 待ちに待った下流ソング登場

どんな曲でもヒットする楽曲はその時代の現実(雰囲気)を反映しているところがなにがしかある。

そういった意味で、青山テルマ&SoulJAの「ここにいるよ」と(そのアンサーソング「そばにいるね」)は極めて同時代的な歌である。

~(前略)~
俺がもっと金持ちだったら
もっとまともな仕事をしてたら
だがPlease勘違いだけはすんな君に寂しい思いはさせたくねぇが...

~(後略)~
「ここにいるよ」(青山テルマ&SoulJA)

昨今の社会状況を考えたとき、ネカフェ難民の心情を織り込んだマジ歌が必ず出てくるに違いないと思っていたが、これは、まさに格差社会を反映した下流ソングじゃないの?

まさむね

「ゆず」について

「ゆず」の歌は、保守的な労働者階級の歌である。
その不自由さは、バンカラな私小説といった感じの「嗚呼青春の日々」という少々大時代的なフォーク演歌の叫びに凝縮されている。
この歌の特徴は、粗野で素朴な歌詞と、譜割の複雑さだが、そのゴツゴツとしたアンバランスさがちょうど、若者が自分を持て余している感覚のメタファになっていて、歌詞の中の若者像は、この30年間、何も変わっていないのではないかと思わせるほど古典的だ。
リーダーの北川はグローブのケイコとの噂があったけど、どうなったんだろう。なんだか「東神奈川」が「六本木」に恋しているみたいで座りが悪かったよね。
あと、関係ないけど、新曲の「飛べない鳥」の「ほらごら~んよ~」というところは「オラのラ~イオ~ン」って聞こえるのは僕だけだろうか。

まさむね