カテゴリー別アーカイブ: 芸能

何故、1998年に宇多田、浜崎あゆみ、モー娘。aiko、椎名林檎、MISIA達が輩出されたのか。才能は必ず、時代とシンクロする。

最近、”くたびれ”が見える天才・明石家さんま

明石家さんまは、やはり天才だと思う。

小学校の時に、クラスで一番面白い人気者が、そのままずっと一番面白くて、プロになっても一番面白くて、つまり日本一になって、その日本一を30年位続けているという感じなのである。
例えるならば、サッカーのマラドーナや、陸上のボルトみたいに、負け知らずのブッチ斬りでトップになったような存在なのだ。

僕はさんまの存在をみていて凄いと思うのは、彼はあくまでも”表面的”なところである。
奥の深さが見えないところが凄いのだ。

奥深さというのものは、なにか持ち前の文化的背景(特別の知識、思想、世界観、修行経験等)があって、それを自分の中から引き出して、人を笑わせる芸風という意味であるが、ひとは年をとると自然と奥深さに頼ってしまうもなのである。
しかし、さんまは、そういった文化的背景が一切見えない(あるいは見せない)のだ。
そこが逆に凄いところだと僕は思うのだ。

さんまは、常に、その場で一番面白いだろう言葉を自分の中から、あるいは相手から引き出す。
アドリブ力が抜群といえばいいのだろうか、空気を読む力が卓越してるといえばいいのだろうか、とにかくその場限りの面白い事を言える天才なのである。

さんまを語るとき、逆にその他の同格コメディアンと比較するのが一番いいかもしれない。

例えば、北野たけしは、世界の北野としての映画の名声の他、浅草修行時代の体験、元々数学者になりたかったという理系的な冷静さ等の引出しを持っている。
タモリは、新宿ゴールデン街の退廃文化、70年代のアングラ・ナンセンス文化の匂いを、隠しナイフとしていつも忍ばせている。
紳助は、元々、さんまと同じ天才肌だが、さんまと出会って、「こいつに負けた」と思ったらしい。それから、一生懸命に自分自身の”厚み”を構築しようと努力する。田原総一朗の「サンデープロジェクト」にずっと席を置いて政治・経済に対する知識を習得したり、「なんでも鑑定団」に出続ける事によって、本物と偽者に対する感性を磨いているように見える。
また、ダウンタウンの松本も、映画というバックボーンを作りつつある。
そして、世代は異なるが、太田光は、太宰治、宮沢賢治等の日本文学、カートボネガット・ジュニア等のSF(彼の事務所名であるタイタンはカートボネガット・ジュニアの小説「タイタンの妖女」から取っている)等の文学的素養を足がかりに、文学、思想、映画等、かなり幅の広い素養を身に付けている上、「爆笑問題のニッポンの教養」等の番組によって、当代の学者達から多くのものを吸収しつつある。
さらに言えば、それに続く、クリームシチューの上田、劇団ひとりなどはそれぞれまだ修行中である。今後は、間違ってもさんま的な、感性を研ぎ澄ます方向にはいかないだろう。

それに対して、さんまの場合、サッカーとか犬好きとかの個人的趣味はあるものの、いわゆる文化的背景(奥深さ)を一切感じさることはない。
そういう意味において、彼はずっーと”小学生のまま”なのである。

しかし、そんなさんまであるが、近頃、若干の”くたびれ”が見えてきたように思えるのは、僕の気のせいであろうか。
今年の9月で終わってしまった「明石家さんちゃんねる」では、現場の仕切りを次長課長の河本にまかせる場面も多く、特に自分が興味の無い話題(例えば、美少年ネタ)などの時の存在感の無さは、これがあのさんまかと思わせる程のものであった。

一昨日、「踊る!さんま御殿!!」を見ていた時も、若干ではあるがそういった”くたびれ”が見えた。
その”くたびれ”は、編集によって、かなり隠されていたのだとは思うが、ところどころに散見された。
例えば、松村邦洋が物まねを披露すると画面は一瞬、さんまのウけた顔に行くのだが、すぐに離れてしまう。つまり、一瞬、さんまが過剰に(しかし、これが天才的なのだが、自然に、しかも独特に)、ウける事によって場が盛り上がるのだが、その盛り上がり空気の”息の短さ”が、見ているコチラに想像出来てしまうのだ。

とにかく全体のテンポを重視するさんまにとって、編集による助太刀というのが、もしかしたら欠かせないものになってきているのだろうか。
ちょっと残酷な言い方かもしれないが、もう”生”では出来ないのかもしれない、という事すら一瞬感じさせてしまっていたのである。

しかし、さんまが50歳を越え、そのうち60歳、70歳になっても、同様の芸風と、それを披露する場所、人気を保ち続けることが出来れば、その”くたびれ”も一つの味として、孤高の存在になるに違いない。
そういう意味で、さんまには、まだまだ走り続けてもらいたいと僕は思う。

まさむね

ジャイアント馬場は宮沢章夫の理想を体現していた

先日、爆笑問題のニッポンの教養・早稲田大学スペシャル平成の突破力~ニッポンを変えますか?~を見ていたら、宮沢章夫さんが出演していた。
宮沢さんは、80年代に「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」で、90年代前半に「遊園地再生事業団」で演劇界を席巻。「彼岸からの言葉」「わからなくなってきました」等のエッセイも有名だ。
その宮沢章夫さんが今、演劇に必要なものとして「くたびれた肉体」という事を言っていた。

確かに、演劇的に鍛えられた肉体が舞台の上に立つよりも、普通の人が普通に生活していって、年をとっていくと陥る、いわゆる「くたびれた肉体」が舞台の上で普通に歩いている方がおもしろい。

実は、それを実現したのが、90年代の大人計画だった。そこでは、いわゆる肉体的鍛錬をされていない役者達が織りなすリアリティのある混沌劇が展開されていた。
松尾スズキ、温水洋一、宮藤官九郎、阿部サダヲ、池津祥子、井口昇、宍戸美和公等、現在も活躍している役者もいるが、大人計画の舞台は、まさしく、まばゆい演劇空間、宮沢さんが言うところの今後の可能性を感じさせるものであった。

しかし、かつてその可能性を具現する大物が、演劇界とは全然別なところに場所にいた。

それがジャイアント馬場である。

宮沢さんがいうように、演劇界から今後の可能性として待望されていた「くらびれた肉体」と、大衆エンタテイメントの権化であるプロレス界に孤高の存在感をキープし続づけてた大物ジャイアント馬場。
僕の中で見事にハイブリッスパークを起しているのだ。

僕にとって、確実に馬場さんの肉体は、他の追随を許さない孤高の存在であった。まとめるとそれは以下の点においてだ。

1)馬場さんの肉体は、足のサイズも含め、圧倒的に巨大だった。
2)馬場さんの肉体は、アスリートとしては、完全に老いていて、自然体で猫背であった。
3)馬場さんの動きそのものが老人的であり、起き上がる時などにロープを手すりのように使用していた。
(※ちなみに、生前の馬場さんは、定期健診で運動不足です。といわれたという)
4)馬場さんの肉体は、対戦相手や観客をが、思わず気遣はざるを得ない空気を醸造していた。

特に馬場さんの動きは、農耕民族の所作に根ざした日本古来の動きに基礎を置いていたような気がする。
例えば、あの曲がった腰は、長年にわたって田植えをした者のみに特権的に与えられる年季を感じさせたし、技でいえばそのストンピングは麦踏の、ロープを背にした16キックは農作業後に温泉につかる老爺のくつろぎを想起させる。

それは、アングラ舞踏家・土方巽の動き=思想と無意識的通底しているといっても過言ではないだろう。

しかし、馬場さんはそうした宿命的な自分の体躯に対しては、ある種のコンプレックスを持っていたらしい。
一般マスコミが馬場さんを取材するときには必ず、事前に、「大きいですね」とは言わないようにという緘口令があったという。
この、スター性と残酷さの背中合わせの関係。エンタテイメントという言葉の裏に張り付く見世物という本質。
そのことを馬場さんは痛いほど認識していたのではないか。
それゆえに馬場さんが身に付けていた独特の暗さ。我々は忘れることが出来ない。

そして、残念なことにその馬場さんは1999年に他界してしまった。
プロレス界がそれ以降、衰退をたどった事は言うまでもない。
残念ながら、それ以降のプロレス界は、馬場さん(そして猪木)の遺産で食いつないでいると言わざるを得ない。

極論するならば、馬場さんの奇跡的生れ変り以外、プロレス界復活は無いであろう。
それが無理ならば、我々はいつまでも馬場さんの勇姿と、その暗さを心の中に刻んでおきたいものである。

まさむね

2008年FNS歌謡祭 斬らせていただきました

FNS歌謡祭
FNS歌謡祭

恒例のFNS歌謡祭が昨日あった。
4時間を越す長丁場。これだけ長いといいシーンも悪いシーンも、いいアーティストも悪いアーティストもごった煮状態。

勝手に概観を語ってみたい。

ノッケに出てきたのがSMAP。
ツアーの最終日という事で、札幌の会場からの生中継だ。
番組の冒頭にSMAPでつかんでという意図は分かるのだが、演目が無名曲だったのが残念。
「夜空のムコウニ」「世界に一つだけの花」位のサービスがあってもよかったような。
だって、クサっても歌謡祭だからね。
局とアーティストの力関係が露骨にでた瞬間でもあった。
ちなみに、いつもの草彅剛が不在のため、フジの局アナが司会。時々ニュースとか読んでる顔の四角い人。
剛とは四角つながりか。そんな安易な人選でよかったのか。

さて、SMAPのパフォーマンスだが、そこそこ...いや、実は辛かった(笑)...

二番手はWAT。SMAPの後だから、逆に実力を示せばチャンスかと思ったが、こちらも残念、轟沈。

そして、次は大橋のぞみと藤岡藤巻のポニョ。(親父の一人は過労で不在。のぞみちゃん無関心。)
さて、ポニョには、のぞみちゃんが歌えば、それがスタンダードになるという強みがある。
音のはずしも、当て振りの遅れも含めて彼女がやることが正解なのだ。

この後は、順不同。気になったアーティスト羅列させていただきます。

まずは、広瀬香美。
片桐はいりではなく広瀬香美。
周囲にPerfume、Pabo、青山テルマ、絢香を従えてのメドレーの披露。
Perfumeは音声にデジタル処理してないと結構辛い。
Paboの歌はカラオケ並か。
聴かせところは、絢香とテルマの歌合戦だが、押しの強さで絢香に軍配上がる。さすが大阪人。
本人・香美は、残念ながら高音出ず。

芸能人の”お仕事”をバッチリ披露したのが、郷ひろみ。
いつでも、ギャラ分のパフォーマンスは必ずこなす安定感は随一。
おそらく、郷ひろみがいつまでも若く見えるのは、彼が他のアーティストとの比較が成り立たないほどユニークなためか。
逆に言えば、SMAPなんかは、同類として嵐とかNEWSとかと比較されるから、劣化した印象を貫禄でごまかすしかないという辛さはあるよね。

途中、登場してきたのが、自称・エンタマイスターの小倉智昭氏。
たまにカメラが向くゲスト席で一人で、はしゃいで手を叩く。
そんなに首振って”帽子”ずれないか?
マイクを向けられ、嵐のことを「普通のいい子達ですよ」とバッサリ。これって褒めてるの?一応、スターなんだけどさ。
一方、EXILEには気を遣って、尊重。
そのEXILEは2曲披露。艶かしい。可も無く、不可も無く。

今年初といえば、ジェロ。
HIP-HOPのバックダンサー付きのパフォーマンス。
この人、実は、こういう音楽やりたいのかも。
10年後、独り言で「本当は、ダンスミュージック好きだったんだ。演歌はおばあちゃんに無理やり歌わされてたんだ」って告白したりして。
それにしても、この人の持ちネタとしての「おばあちゃん孝行」はいつまで続くのか。
その日本人のおばあちゃんの他にも、おじいちゃん二人、もう一人のおばあちゃんいるだろうに、それらの方々の話はいつも一切無しだからね。

その他、ミスチル、ゆずのトイズ系は無難。
浜崎はSEASONSのアカペラ頑張った。耳大丈夫か。いろんな意味で正念場。客席にTOKIOいたが、カメラ捕らえず。
そして倖田來未。今年を振り返るも、羊水発言には触れず。当たり前か。

それに織田裕二。誰もが山本高広のパフォーマンスが目に浮かんでしまう昨今、周りの人たちが微妙に気を遣っていて、薄暗い苦笑。
一瞬、ゆずの北川とツーショットに。「お互い月9数字取れませんな」とのヒソヒソ話が聞こえてきそうな場面。

そしてV6。簡保さんが踊ってた。それだけ。
TOKIOは地味な扱い。個人的に松岡のドラムとか上手だと思うんだけどさ。
矢島美容室の歌は実は僕は好き。途中マイク飛んだけど、声は聴こえてた。さすがタカさんだ。ただ、この矢島美容室企画って、代理店臭が強すぎない?

番組の間に入る過去の映像。ジュリーや山口百恵、松田聖子、やっぱり時代を創ったアーティストって魅せるよね。
でも一番インパクトがあったのが、尾崎豊。これこそ、一曲入魂というのだろう。
トップを維持しようとするとき、SMAPのように貫禄を出す方向に行くという手段もあるが、尾崎豊のように常にその番組で、一番のパフォーマンスを目指し、闘い続ける姿勢をくずさないアーティストの方がインパクトあるよね。

あっという間の4時間半。最後にまたSMAP。
「この瞬間、きっと夢じゃない」を披露。特にコメントなし。

◆関連エントリー◆
1億3000万人が選ぶベストアーティスト2008斬らせていただきました
MUSIC STATION SUPERLIVE 2008を斬らせて頂きました

まさむね

 

テレビ業界不況を反映した紅白出場者決定

紅白出場者が決まった。

ほぼ、下馬評通りの選出だったが、ミスチルの初出演にはちょっと驚いた。
さすがに、オリンピックのテーマ曲「GIFT」とかも作ってたから、結局は人間関係で押し切られたといったところか。
「大晦日に、他のアーティストと一緒に歌えるのは感激です」とは桜井さんから、伝わっている感想だが、まさしく大人の対応だ。
だったら、今までとうして?っていうのは小さなツッコミ。

今年は、民放キー各社のコンテンツ絡みのアーティストが出揃った。

日テレは「崖の上のポニョ」の藤岡藤巻と大橋のぞみ。
TBSは「私は貝になりたい」から中居正宏と仲間由紀恵。司会に抜擢だ。
フジは「ヘキサゴン」の羞恥心withPabo。
テレ朝は「相棒」の水谷豊。

テレ東だけ、ハロプロ関連落とされて、ちょっと涙目?(正確に言えば、Paboの里田はハロプロだが)

しかし、これほど、各社タイアップ企画のキャラが軒並み登場するっていうのは、いつのまにかどっかで、”橋”を渡ったんだろうね。
とにかく、今期は、CMのスポットが入らなくて、各社減益。特に、日テレ、テレ東が赤字転落らしいからさ、とにかくテレビ業界自体が大ピンチ。なんとか、各社、不動産業(サカスのTBS)とか、コンテンツ事業部系の売上げ(「相棒」のテレ朝)、番組制作費予算カット(フジ)でなんとかしのいでいる状況でしょ。昔の映画会社みたいだよね。
いまや、今は、各社が競っているというより、みんなで斜陽産業を盛り上げようっていう事か。今年のテーマは“ひとの絆(きずな)”らしいが、どこか痛い。

でも、ちなみに各社のワイドショー、夕方のニュースで紅白歌手出場決定って大々的に報道していたわりに、そのニュースの最後で、自社の番宣を5秒位入れる苦しさも笑えた。

その他、初出場で、即納得は、Perfume、ジェロ、青山テルマ、いきものがかり。
ジェロは演歌歌手らしく、「(亡くなった)おばあちゃんのお陰です」って親孝行をアピール。
Perfume、いきものがたりは、それぞれエコCM、合唱コンクール等で”取引口座”がすでにある。NHK御用達系と言えなくも無いか。

個人的に興味深いのは木山裕策。月曜日の深夜番組の「歌スタ」からの成り上がり。
4人の子持ち、病気持ち、オーディション出って三拍子揃った奇跡の新人だ。

紅白には、こういう人生ドラマ系苦労人枠って毎回1~2づつあるよね。
今年は、この人と秋元順子。

そういえば、森進一は「おふくろさん」歌うんだろか。別に聴きたいわけじゃないけど、ちょっと気になる。

でもモーニング娘。落選がショックは僕。地方公務員層を支持基盤においていた彼女達だが、昨今の交付金削減、補助金カットなどの荒波が、地方公務員たちの給料に影響し、パッケージ販売を鈍らせたか!?
「ペッパー警部」も、阿久悠ネタ+前作からの期間などを勘案する限り、満を持したにもかからわず、今ひとつだったしな。
でも、ネットでは、今、紅白関連の話題ってモーニング娘。落選一色。
2ch、その他でも、ファン達の反省会、及び、今後の対策会議のスレが乱立している。
さすが、コンサート終了後、会場外でいくつかのグループでまとまり、「本日のコンサートの反省会」「高橋愛体制後の娘達の将来」等を真剣に議論してくれる暖かい(?)ファンがささえている。
心配しなくても、大丈夫だよ、ミッツィ~。

あと、保釈中の小室哲也は、残念落選。それでも、KEIKOが宇多田ヒカルの協力を得て、「Prisoner of Love」(翻訳すると愛の囚人)歌うとか。
「平気な顔で嘘をついて 笑って 嫌気がさして 楽ばかりしようとしていた ないものねだりブルース ~♪」って、ないか。

まさむね

闘っている女性は美しい ~『女の読み方』書評~

“嫌われる女”が好きだった。いや、好きな女が嫌われてしまう、と言ったほうが正解かもしれない。
なぜ、彼女たちは嫌われたのか?今にして了解できる。
時代風潮に逆らっていたからだ。
時代と闘っていたからだ。
彼女らが”闘っている”その姿にこそ、私は魅せられたのではないか?闘っている女は美しい!単純にそう思う。
今でもそれは変らない。
-「女の読み方 (朝日新書 81) 」中森明夫 P15-

闘う女、そして嫌われる女といえば、まずは、僕の中ではオノヨーコと神田うのである。
中森氏は、勿論、この2人に関してもつづっている。そこで、中森氏の文章を踏まえ、僕なりに、2人について書いてみよう。

まずはヨーコ。

実は、中森氏がSPA!の「ニュースな女!」のコーナーで最初に書いたのがヨーコだったという。
最初という事もあってか、ヨーコが怖かったからか、残念ながら、その文章は硬い。
しかし、それもむべなるかな。60年代をブロンズ化した(本書より)ヨーコを前にしては、人は、思い出を書くか、その強靭さを書くしかないのだから。

今年もジョン・レノン・スーパーライブの季節がやってくる。
ブロンズ化したヨーコの変らない言葉をまた聞くことができるのが楽しみだ。
「夢の力で、世界を変えよう」っていうメッセージを発生するヨーコだが、自身は全く変らないってのが闘女・ヨーコらしくていい。

そして、うの

うのの名前が、持統天皇の幼名、鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が由来である事を本書で初めて知った。
持統天皇は相当に強引な天皇である。
自分の息子の草壁皇子が夭折してしまったために、次の天皇に、孫の文武天皇を強引に即位させるのである。
さらに、これを正当化するために、記紀における天孫降臨を、天照大神の”子”ではなく、”孫”のニニギノミコトにさせたとも言われている。
敢えて言うならば、自分の孫のために、神話の改竄をした天皇なのである。

その持統天皇の幼名を自分の子供につけた親も親だが、子も期待に違わず成長し、モデル、タレントを経ていまやクリエイターとしても成功。
今や、億万長者である。
“うの”という名前のプライドに違わず、自分を強引に貫いている彼女。
尤も、自分では闘っているという意識は無いのかもしれない。

この本には、本当に、いろんなネタがつまっている。
じっくりと読んでみると、この本を起点にして、語ってみたい女性が沢山発見できる。

聖子、アムロ、あゆ、蓮舫、あんな、なっち...

みんな闘っている女達だ。

まさむね

紳助の紳助による紳助ためのバラエティはもう結構だ

毎月、「TVnavi」というテレビ雑誌を読んでいるが、視聴率ランキングにいつも違和感を感じることがある。
関西地区のバラエティ部門において「クイズヘキサゴン」(以下、ヘキサゴンと略す)と「行列の出来る法律相談所」(以下、行列と略す)の視聴率が毎号、ダントツなのだ。

でも、そんな面白いか、このヘキサゴンと行列。

言うまでもなく、この2番組は、島田紳助の司会で進行される。
本来は、それぞれ、クイズ、法律相談がメインなはずなのだが、いつの間にか、紳助の雛壇ゲストに対する、辛らつな仕切り(いじり)の時間がやたらに長く、それ自体が番組の売りとなっている。

そしてゲスト達は、あくまで紳助のネタのためのキャラであることに徹する。
石田純一=女たらし、東野幸次=腹黒、磯野貴理=嘘付き 羞恥心=おバカ、波田陽区=つまらない芸人という具合だ。

ある事ない事織り交ぜて、”紳助組”の内輪ゲストに対してイジりまくる芸は、紳助の持ち技として他の追随を許さない事は認めざるを得ない。
ただ、画面から感じられる紳助とゲストの力関係があまりにも露骨なため、時に、その場のクウキが不愉快に感じられてしまうのだ。

「検索バカ」(藤原智美)によると、「クウキとはその場でできあがる人間同士の力関係です。リーダー的な存在がありそれを軸にできあがる暗黙の秩序といっていいでしょう。」というが、まさしく”ヘキサゴン”と”行列”は、紳助を頂点とした暗黙のクウキを必死に読もうとするゲスト達の競い合いにも見える。
僕には、紳助に場面を振られたゲストが、エサを投げてもらって喜んでいる動物園のサルに見えてしまうのである。

しかし、結局は、ゲスト達の発言は、最終的には紳助の話芸のネタとして消費されていく。
視聴者は、紳助の、紳助による、紳助の時間を見せられる事になる。それは紳助の支配欲を、深読みするならば、コンプレックスの裏側を見せられる事でもある。

一度、番組がこういう風景に見えてしまうと、このクウキの臭みを看過できなくなってしまう。
おそらくこれが、この番組の高視聴率への違和感の原因なんだと思う。

でも、もしかしたら、これは、関西と関東との感覚の違い?
一方、関東では、「笑点」の視聴率がいつも高いっていうのも、これはこれで信じられないのだが...

まさむね

 

漫才には何故、ボケとツッコミがあるのか

漫才には何故、ボケとツッコミがあるのだろうか。
今日はちょっと考えてみた。

元々、日本では、芸能というものは、神様に対して奉納するためのものだった。神楽も祭りも相撲もそうだが、それらの芸能は、神の声や力を人間の世界に降ろすための儀式なのである。
例えば、愛媛の大山祇神社では毎年、春と秋に一人相撲という神事があるが、これは、人間が「稲の精霊」と相撲をとる(ハタから見ると、一人で相撲をとっているように見える)儀式である。

同様の事は、日本の芸能の本流、能楽にも言える。
能の特徴は、超自然的な存在が主人公になっているという点であるが、多くの舞台では、シテ(主役)とワキ(脇役)が登場する。
シテは亡霊や鬼など、”あの世の存在”からの声を舞台に降ろすのに対し、生身の人間である脇役(ワキ)が彼らの話を聞き出し、怨念を消してあげ、”あの世”に帰っていただくという構造を持っているのである。

漫才の直接の源流である三河万歳、尾張漫才等の正月を寿ぐ民間芸能も、太夫という祝詞(神を崇める言葉)を上げる役と、才蔵という太夫の祝詞を繰り返す役の掛け合いの話芸である。
ようするに、これは、あの世の言葉を降ろす太夫=ボケ、それを繰り返す才蔵=ツッコミという漫才の形が見えてくるではないか。

だから、ボケは、いかに普通の人間の思いもつかない言葉(=あの世からの言葉)を吐く事が大事になる。
また、ツッコミはボケが出してくるメチャクチャな言葉によって混沌としてしまった空気を、いかに上手く日常の空気に引き戻すかが腕の見せ所となるのだ。

僕の知っている限り、欧米のコメディアンは基本的に一人芸で観客を笑わせる。日本で言うところの漫談である。
恐らく、その源流には、キリスト教の聖職者の説教のスタイルがあるのだと思う。(一方、日本の落語が正座で行われるのは、それが仏教説教の伝統を汲んでいるのかもしれない。)

もしも、日本のお笑いが、上記のように知らず知らずのうちに歴史的な制約の中にあるとするならば、日本とは別の歴史を歩んだ地域のお笑いを学ぶ事によって、それ以外の可能性が、もっともっと沢山見出せるかもしれない。
ケニアの、グルジアの、ウルグアイの、ベトナムのお笑いがどうなっているのか、僕たちはあまりにも知らない。

このあたり、もっと世界に目を向けてもいいのかもしれないよね。
世界のナベアツなんて口で言ってるだけじゃなくてさ。

まさむね

 

桜の欺瞞性と太田光夫妻

「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書 太田光、中沢新一)の中に太田光が桜に関する小文を書いている。

今、手元にその本が無いので、記憶で書かせてもらうと、この小文の中に彼の妻が、花見で桜を見た後に気分が悪くなって、精神の安定を失ってしまった時の事を書いている。
彼女は、その時、花屋から薔薇の花を買ってきて、部屋の中に飾り、自分の精神を落ち着かせたというのだ。

太田光がその出来事を分析して言う。
桜は、見る人に狂気と毒を想起させる。しかし、自らがそういった狂気と毒を内包していることを隠している。
一方、薔薇は自らの危険性を棘という形で表現している。彼の妻はその薔薇の正直さに安心して、精神が落ち着いたのではないかと。

さらに、彼は、その桜のあり方を、憲法九条に、日本のあり方に、そして、自分自身に重ね合わせる。
自分の中のもう一人の自分の狂気と毒を常に意識し続ける太田光は、全ての物事を、自分の根っからのテーマに直結させて考える。
いや、彼は自分の意志で考えているというよりも、何物かによって考えさせられているといった方が正確なのかもしれない。

そういう時の彼は、正直者だ。
そして正直であると言うことは、表現者にとって最も大事なことだと僕は思う。

さて、桜というイメージに関して、僕も前々からいろんな事を考えている。

古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であること。
源氏物語では桜は凶兆の花であること。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であったこと。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であったこと。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であったこと。

そして、近代国学の祖・本居宣長において、桜は、大和心の、そしてその後の勤皇家によって、武士道の象徴となっていく。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)

しかし、実は、リアルな死や闘いは。桜で象徴されるような可憐なものとは程遠い。
武士道は、死ぬためのイデオロギーではなく、本来は何としても生き延びるための醜い程、姑息なノウハウだったのではないか。
しかし、明治以降、桜はさらに国家主義と結びついて純化していくのだ。

ちなみに、明治国家主義を支えた様々なシステムには、桜が紋所として徴されている。
陸軍、海軍、学習院、靖国神社、そして大相撲...(あんまり関係ないが、狩野英孝の生家の桜田神社も。)

この桜の欺瞞性に対して、太田光、そして、彼の妻は激しく反応した。

やっぱりあの夫婦の感性は天才的だ。

まさむね

太田光と森のくまさん

「爆笑問題のニッポンの教養」はそのタイトルに違わない、まさしく、真正面からの教養番組だと僕は思う。

逆に、最近、雑学とか常識とかを扱うクイズ番組が結構あるけど、こういう番組は決して教養番組ではない。
クイズ番組で優勝したとしても、それは、教養のある人ではなく、知識のある人に過ぎないのだ。

では、教養とは何か。
それは、個人の人格とは切り離せない。
その人が宿命として持っているテーマ(問題意識)と関連付いた知識、思考、思想の事、それを教養と僕は呼びたい。
ただ、多くの人は、自分のテーマなんて意識しないし、忘れてしまっている。
恐らく、ほんの一握りの人だけが、幸か不幸か、自分のテーマに気づく事が出来るのだ。

僕は、太田光こそ、特権的にこのテーマを自覚出来ている人だと思っている。
だから、彼が「爆笑問題のニッポンの教養」において、発する言葉には教養が溢れている。
それでは、太田光のテーマとは何なのか。

恐らく、自分の中のもう一人の自分、と、そのもう一人の自分の怪物性をどうしたらいいかってことだ。
例えば、「爆笑問題のニッポンの教養」で、政治学者の姜尚中氏、日本思想史研究家の子安宣邦氏等との言葉のやりとりの中、太田光は身振り手振りでその事を説明している。
特に秋葉原通り魔事件の犯人・加藤智大を説明する際に、こういう言い方をしていた。(正確ではないんだけど、だいたいこんな感じで言ってたと記憶している。)

人間というものは、どんな人間でも、演出する自分と演出される自分から成っている。
自分(太田光)の例で言うならば、芸人としての自分と、その自分をちょっと離れたところで演出する自分がいる。
でも、加藤智大の場合、いつの間にか、演出する自分自身が怪物になってしまっていた。
それなのに、誰もその事を止められなかった。そこに問題があったと...

恐らく、太田光は、自分の中の2人の間のバランスにいつも繊細にならざるを得ないほど、危うい人格だって事を自覚しているのだ。
例えば、ネットにおける悪意に満ちた書き込みを嫌悪する彼は、その書き込みに、2人の自分が一致してしまったときの人間のグロテスクさを見ているのではないか。
また、彼の芸人としての過剰なまでのおどけた仕草は、2人の自分との距離を安全に保つためのポーズのようにも見える。

実は、太田光について考えるとき、そして同時に彼のテーマである2人の自分について考えるとき、いつも頭の中で流れる歌がある。
それは「森のくまさん」である。

ある日森の中 くまさんに 出会った
花咲く森の道 くまさんに 出会った
くまさんの 言うことにゃ お嬢さん お逃げなさい
スタコラ サッササノサ スタコラ サッササノサ
ところが くまさんが あとから 付いてくる
トコトコ トコトコと トコトコ トコトコと
お嬢さん お待ちなさい ちょっと 落とし物
白い貝がらの 小さな イヤリング
あら くまさん ありがとう お礼に 歌いましょう
ラララ ララララ ラララ ララララ

僕はこう思う。
この森のくまさんは、普段はとても優しい「くまさん」なのだが、ある瞬間、凶暴な怪物になる存在であるという事を自覚している。
しかし、そのタイミングがいつ訪れるのか彼自身にもわからない。
だから、くまさんはお嬢さんに向かって、とりあえず「お逃げなさい」と言うのだ。

そして、このくまさんは僕の中では太田光とぴったりと重なる。

だから彼は常にビクビクしながら生きているのだ。
そして、時に過度に攻撃的になったりするのだ。
あるいは、おどけた演技をしながら生きているのだ。

まさむね

瑛太が演じる草食系男子(タケルと帯刀)に注目

結婚しない、あるいは出来ない男性が増えてるという話を昨日したが、その前段には、恋愛が苦手な男子が増えてるっていう要因もある。

流行の言葉で言えば、草食系男子増殖っていうことか...
この草食系男子というは女の子に対して、恋愛関係にはなりたくない(なれない)、けど、マッたりと一緒の時間を過ごすのは大得意っていうタイプの男の子の事だ(詳細は、「草食系男子の恋愛学」(森岡正博著)参照の事)。

恐らく、若い男っていうものは、好きな女の子と二人っきりになると、いかにヤるかっていう欲望+戦略+妄想で頭が一杯になるっていうのは、昔の話。
最近は、こういうタイプが目立ってきているらしいのだ。

それは、別の言い方をするならば、そういうタイプの男の子に対して、「それもいいんだよ」って、やっと言えるような時代になってきたっていう事かもしれない。

具体的なイメージで言うならば、今、フジテレビで再放送している「ラスト・フレンズ」で、瑛太が演じているタケルっていうのがまさしくこのタイプなんだよね。
タケルは、子供の頃に実姉から受けた性的暴行をトラウマにしていて、SEX恐怖症になっているっていう背景はあるんだけど、シェアハウスにいる他の女の子達に対する扱いが完璧に上手い。
気が弱いんだけど、気が利くし、気が回るし、優しいし、聞き上手なのだ。
だから、「タケルは、他人を幸せにする才能があるよね」って言われたりする。
しかし、”恋愛”は、いつも上手くいかないのだ。
エリ(水川あさみ)からのSEXの誘いには応じられないし、ルカ(上野樹里)への告白は空振りに終わる(これにはルカがレズだという理由があるんだけど)し、ミチル(長澤まさみ)からの告白は受け入れられない。
それでも、そんないろんな事がありながらも、彼女達から絶大に好かれている。上手くやっていけるのだ。凄い才能だ。

一般論で言うならば、恋愛下手な草食系男子が増える事に関して、少子化の視点から眉をしかめる向きもあるのかもしれないけど、周りの人々、社会にとっては、むしろ歓迎すべきことだと思う。
消費しない若者と同時に、周りにストレスを与えない若者像っていうのも、新時代の生き方として、肯定したいところだ。

さて、瑛太が出演しているもう一つのドラマ「篤姫」だが、ここでの彼の役どころは、薩摩藩家老・小松帯刀である。
明治維新の立役者として歴史上では大活躍する彼だが、女性に対してはタケルと同じような、いつも上手くいかなく、情けないスタンスなのが面白い。
篤姫(宮崎あおい)に対しては、結局、愛を伝えることは出来ず、姉さん女房のお近(ともさかりえ)とは、(小松家の養子となる事によって)半ば強制的に結婚させられる。また、京都の屋敷には、芸者のお琴(原田夏希)に上がりこまれるのだ。

次の放送では、このお近に、お琴との同居生活がバレるらしい。
幕末の草食系男子・小松帯刀のアタフタした姿が楽しみだ。

まさむね