カテゴリー別アーカイブ: 歴史・家紋

日本の霊思想考

以前、書いた「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」という思想に関して考えた。

日本人は古来、悪事というものは、悪霊がその人に憑いて行わせると考えていた。
しかし、と同時に、悪霊は同時に強い力を持っているとも考えていた。

だから、逆に力の強い人に敢えて「悪」という形容詞をつけた。
例えば、保元の乱を起した藤原頼長は左大臣であったが、大変な切れ者で、別名、悪左府と呼ばれていた。
また、源義朝の長男で平清盛を暗殺しようとした源義平は悪源太と呼ばれていたのだ。

強い力を持った人の霊は、時に悪霊(=怨霊)にもなるが、手厚く敬えば、善霊になる。
こうして日本人は、怨みを持って死んだ強力な人、例えば、菅原道真や平将門を奉り続けてきた。

そして、同様の事は、生きている人の念(強い感情)にもあてはまると考えた。
強い怨念は、その人の意志を離れて回りに不幸をもたらすと考えられていたのだ。
例えば、「源氏物語」に登場する六条御息所の生霊(物の怪)は夕顔や葵上を死にいたらしめる(写真一番上:能の「葵上」での六条御息所の怨霊)。
光源氏は後にそんな御息所を見舞って機嫌をとり、生霊を鎮めようとする。

日本人の伝統的メンタリティでは、悪い人(悪霊)に対しては、おだてて、ほめて、いい人(和霊)に変わってもらおうとする事こそ、信仰の本質となる。
また、逆に、いい人(和霊)も、扱い次第では悪い人(悪霊)になってしまうことを恐れる。
例えば、靖国賛成派は、心ならずも戦死した英霊を粗末に扱うことによって、それが悪霊となってしまう事を懸念しているのだ(写真中:靖国神社)。

恐らく「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」という思想は、信仰にも近い。

それを考えると、最近、「犯罪者に対して厳し刑を課せ」という論調がかまびすしいが、それは日本の伝統にあっているのだろうかと思わざるを得ない。
悪いことをした人は死刑にしろという人が同時に霊を粗末に扱うなというのがなんとなくしっくり来ないのだ。
靖国賛成派が死刑存置論者である事に違和感を感じるのはそのせいである。

ちなみに、アイヌの宗教では死者の魂を天に送るときに「こいつは悪いことをしたけど、本当はええ奴だから、神の国へ行ったら、ちゃんと心を改めて直るだろう。だから神様、受け取ってやってくれ」というような内容の葬送儀式をするという(梅原猛先生談)。これは上記の日本人の思想と通底しているのではないか。
アイヌ文化(写真一番下:アイヌの民)は、日本文化のルーツであるという魅力的な説は今後、より深く掘り下げて行くべきだと思う。

まさむね

鶴丸の悲しい歴史

JALの飛行機から鶴丸のマークが消えるという。

今月で最後とのこと。
もともとこのマークは、家紋を下敷きにしたデザインなんだよね。

じゃあ、この鶴丸の家紋をつけた有名人を見てみよう。

まずは、足利将軍家に正妻を出し続けた、日野家。足利義政の夫人、日野富子が有名だ。
政治には全く興味のなかったオタク将軍の義政。ある時はケツを叩き、ある時は任せていられないとばかりに政務を取り仕切る。一般に、金儲け主義、悪女の典型とされる。
NHK大河「花の乱」(1994年放映)では三田佳子が演じていました。

また、戦国時代では、織田信長の小姓・森蘭丸で有名な森家の家紋もこの鶴丸。美男子だったという伝説と、本能寺の変で、かない最期を遂げたせいで、なんとなく有名。

そして近年では、コンプレックス文学の最高峰・太宰治(実家の津島家)も鶴丸紋。確認はしていないが、太宰治全集には、この鶴丸の箔押しがついているとか。太宰の最期も玉川上水への入水自殺だった。

いずれにしても、悲しい運命の人が多いよね。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(2)

前回、豊臣秀吉の紋所が桐紋との話をしたが、秀吉の象徴として瓢箪を思い浮かべる人も多いだろう。

これは、家紋というよりも戦場での馬印に使われたようだ。戦に勝つたびにその瓢箪が増えていったとの伝説(千成瓢箪伝説)もあるが真偽はわからない。しかし、当時、秀吉といえば、瓢箪というイメージは一般に共有されていた。

一方、家康は当時の武家にはめずらしく教養のある人で、幼少の頃から様々な古典文学に慣れ親しんでいたという。

それを考慮に入れると家康が東国の王として桐紋を拒否し続け、葵紋にこだわった理由が見えてくる。秀吉の生前、主に西日本は秀吉の勢力下だったが、その象徴の瓢箪(=その花は夕顔)に対抗する理由から、家康は、葵にこだわったのではないか。

というのも、平安時代の宮中で、に七夕に行われた相撲会では、古来より、西からの力士は夕顔を、東からの力士は葵を髪かざりとして土俵に上がっていたという。(ちなみに、花道という言葉の由来はここから出ている。)

そんな故事が、葵紋にこだわった家康の頭をかすめていたというのが、俺の想像だよ。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(1)

徳川家の家紋はご存知、葵である。

NHKの大河ドラマ「篤姫」では薩摩の島津家の分家から将軍の御台所まで上り詰める話であるが、その島津家の本貫は宮崎だったとの説もある。その昔、源頼朝から地頭として派遣された惟宗忠久が、宮崎県都城市あたりの「島津荘」を領地としたのが島津家の始まりというのだ。(ちなみに、この忠久は頼朝のご落胤との噂もある)

だとすると、宮崎から出てきて、徳川家に入り葵紋をつけたという意味で、篤姫に、宮崎あおい(葵)が抜擢された深層が見えてこようというものだ。まぁいつもながら、かなり苦しい説だが...

さて、この徳川政権の基礎を築いた徳川家康は、朝廷からの懐柔策見え見えの桐紋下賜を、何度も断り続けたという。
織田信長、豊臣秀吉はそういうことはなかった。彼らはもらえるものはもらう、利用できるものは利用するのだ。
例えば、愛知県長興寺にある信長の肖像の紋は、織田木瓜でも、揚羽蝶でも無い。正親町天皇から下賜された五三の桐紋だ。

また、秀吉は晩年にすべての自分関連グッズ(身の回りの小物、着物等)にいわゆる太閤桐という独自紋をつけている。成り上がりはいつの世もブランドを志向するということだろうか。

しかし、その後、この桐紋は最も正統な紋所として、脈々と受け継がれ、特に西日本の家の多くが桐を家紋としている。
そして、現在は、日本政府の象徴にもなっている。

木村拓也主演の「CHANGE」の冒頭では、この桐紋(五七の桐)がCHANGEというロゴにモーフィングするシーンが放送されているが、それを見るたび、桐紋の歴史が脳裏をよぎるのであった。

つづく

まさむね

ワビサビは街中にあるよ

日本の美意識の基本概念にワビ&サビというのがある。

ワビは、「ツイてねぇなぁ」という不遇の境地を、サビは「一人ぼっちだなぁ」という感覚を、それぞれ、美意識としてに昇華させた概念なんですね。

見渡せば花も紅葉もなかりけれ裏の蓬屋の秋の夕暮れ (藤原定家)

これは、そのワビサビの境地とも言える歌ですよね。
桜とか紅葉とかいった和歌の題材になるようなものが何にも無い状態だからこそ、しみじみとした情感を感じるってことですからね。日本の美意識の最高峰だと俺は思うね。

このワビサビの境地は、ご存知の通り、千利休の手によって茶道として完成するんだけど、そんな利休の名言。

「侘びたるは良し、詫ばしたるは悪し」

街を歩いていても、確かに、見捨てられたもの、さびしいものほど面白いことがある。逆にこれはこういう意図(深層=真相)があって、こう楽しんでくださいと押し付けてくるテーマパーク的なオブジェは往々にしてうるさい気がする。

詫びて寂びたオブジェが、こちらが勝手に深読み、深感動、勘違い、邪推によって、一気にヒーローになる瞬間がいいんだよね。

俺は、この一瞬の感動の儚さを楽しみたいよね。

まさむね

宮本武蔵の弱さ

宮本武蔵は若い頃、決闘にあけくれ、晩年に「五輪書」を著した。

決闘の動機の多くは、死と向き合った武士道というよりも、何とか生き延びようとする生命への執着だったような気がする。

吉岡三兄弟との戦い、巌流島の決闘、それらにおいて奇策として伝えられる態度にこそ、人間らしい武蔵の姿があった。

逆に言えば、かなり卑怯なのだ。武蔵って奴は。

しかし、晩年に決闘を封印し、少なくとも殺されることがなくなってから、自分の戦いを美化する。

その美化作業にこそ、俺は武蔵の弱さを感じるのであった。

まさむね

東日本と西日本の名前

西日本と東日本では、日本人の名字の分布が大きく異なっている。

目安としては以下のことが言える。

1)西日本の方が字数が少ない名字が多い。
例えば、西日本では、山本、田中が多いが、東日本では斎藤、佐藤が多い。また同じ斎藤でも、西日本では斉藤という名字が多い。
2)東日本では藤がつく名前が多い。
佐藤、加藤、斉藤等の名前は藤原氏の流れを汲むと自称する武士・農民階級に爆発的に広まる。西日本では、藤は下ではなく、上につくケースが多い。例:藤田、藤井等
3)西日本では読み方に濁点がつかない場合が多い。
例えば、山崎。東ではヤマザキだが、西だとヤマサキが多い。また、同様に、中田は東ではナカダだが、西ではナカタが多くなっている。
例えば、サッカーの中田は山梨出身でナカダだが、日本ハムの新人中田は、ナカタだ。
また、その他の名前でも西日本では濁点読みしない例がおおいようだ。例えば、鹿児島出身の中島美嘉はナカシマミカだし、福岡出身の浜崎あゆみの本名はハマサキだ。

最も、上記はあくまで傾向なので、得意げに話をして失敗することもあるのでご注意。

まさむね

桜(4)中世における死霊の宿り木

ねがわくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ (西行)

自分が死ぬんだったら、満開の桜の木の下で死にたいってことでしょうか。これは同時に、桜の花になって生まれ変わりたいっていうのも深読み出来るんじゃないかな。桜の花を生まれ変わりの象徴として、あるい、桜の木を生まれ変わりの霊の宿り木として観念するのが、中世の特徴からね。

例えば、世阿弥の能「忠度」でも、死霊がよみがえるために満開の桜の木を必要としている。また、「西行桜」では、桜の木を宿り木として、老人の精をよみがえらせる。

桜の木は時として、死者を想起させる「幽玄」の場(この世と霊界との通り口)として現れるんだよ。

そういえば、隅田川沿岸にならぶ桜並木は明暦の大火の被災者を追悼するために、徳川吉宗が植えさせてたらしいし、上野の山は彰義隊で死んだ幕府側の勇士のために桜を植えたという。

近代に入ってからは、「桜の木の下に死体が埋まっている」と書いた梶井基次郎が有名だが、その観念は、ORANGE RANGEの「花」まで続いているのかもしれない。

生まれ変わってもあなたのそばで花になりたい...

※この話題に関して、「家紋の文化史―図像化された日本文化の粋」(大枝 史郎)を大いに参考にさせていただきました。

まさむね

桜(3)源氏にとって凶兆の桜

日本文学に燦然と輝く金字塔「源氏物語」。
ここでも桜は美しく描かれているが、同時に不幸への伏線としても描かれている。

最初は「花宴」の巻。桜見の宴会で酔った源氏は、ライバルの右大臣家の箱入り娘・朧月夜との一夜を過ごしてしまう。そして、結局は、この不義が原因で、後の須磨、明石へ流される事となるのだ。

次は、「若葉上」の巻。桜満開の下で蹴鞠をしていた柏木(太政大臣の子)フトしたアクシデントで源氏の正妻・女三宮を見てしまう。そして、結局は、柏木は女三宮をはらませてしまう。このことが、その後に源氏に精神的ダメージを与える。

おそらく、この桜=凶兆という観念は当時の貴族達にも共有されていたんじゃないかな。

4へつづく

まさむね

桜(2)美と不安-紀貫之からコブクロまで

昨日、桜が国家主義的象徴だって話をしたけど、今回は日本の歴史における桜がどのようにイメージされてきたのかを追ってみよう。

まず、古事記。桜といえば、日本神話の中ではコノハナサクヤ姫に象徴される。ニニギのミコト(アマテラスの孫で、天皇の先祖)が、天孫降臨すると、まず、こ美しい姫に一目ぼれをして、結婚を申し込む。
姫の父はもう一人、姫の姉(石の精・石長姫)も一緒に嫁として嫁がせるが、ニニギはそれを拒否。
そのせいで、天皇の子孫は、美と引き換えに永遠の命を失ったという。
ここで、桜は、美の象徴であるとともに、死の象徴でもあるんだよね。

その後、平安時代に入ると、和歌で花と言えば、梅ではなく、桜を指すようになる。

久かたの光のどけき春の日にしず心無く花の散るらむ(紀友則)
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける(紀貫之)

風に舞い散る花こそ、最も日本らしい美意識、そして日本人の悲しい心情を現すというのはこの平安の頃に生まれたんだよね。実はそれが、最近のJ-POPにも引き継がれているんだ。そして、桜の歌を作ると日本人は咲くところじゃなくて散るところを歌にすると国文学者の池田弥三郎先生が言っていたがまさにそうだ。

さくら舞い散る中に忘れた記憶と君の声が戻ってくる... 「さくら」(ケツメイシ)
さくらの花びら散るたびに届かぬ思いがまた一つ...「桜」(コブクロ)
さくらさくらただ舞い落ちるいくつか生まれ変わる瞬間を信じ... 「さくら」(森山直太朗)

3へつづく

まさむね