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会社30年寿命説から考えてみる、まずもって上手に早めにリタイアできる社会にしないと、若者が仕事にありつけるデマンドバスは永遠に来ないのではないか

何かの本に書いてあったのだったか、誰が言っていたのかはわからないのだが、会社の寿命は大体30年くらいだと言われているのを聞いたことがある。会社30年ライフ・スパン説。ここでの30年とはいわゆる最盛期の時期という意味であろう。これは意外に正しい実像かなと思う。ある企業がほんとうにイキがいいのはどんなに長くてもせいぜい30年くらいがよいところだろうと思えるからだ。GMしかり、IBMしかり、マイクロソフト、アップルしかりではないか。

もちろん日本には100年企業は比較的たくさんあるし(たしか金剛組は飛鳥時代以前からだという。最近では経営破綻して高松建設に営業譲渡を行っているようだが)、絶頂期をすぎてもゾンビのようにダラダラと生き残っている企業も結構あることはあるけどね。ほんとうのしたたかな世界企業(ユダヤ金融財閥のような)はそれこそ東インド会社時代から連綿と続いていたりするわけだろうが、それは措くとして。
でもって、この30年の企業体で、これを支える年齢層といえば、理想的には、20代、30代、40代で構成されていることだろう。つまり働き盛りでフルに構成されていて、50代以上は取締役などの一部のマネジメントしかいないこと。上記3世代がフルに輪廻していき、30年一回りを回りきって会社の絶頂の寿命が尽きることが一応の理想形ではないか。こうであれば世代間格差も比較的少なく、その世代世代での良さを享受できてみんなそれなりにハッピーで終われるかもしれない。

ところが今の日本では、この年齢構成が、30代、40代、50代で限定構成されていて30年サイクルさえ回りきらずに終わっているのが実態ではないだろうか。従ってまずそこから年齢的に真っ先に弾き飛ばされているのが、いわゆる20代の若者たちだ。いつまでも彼らの多くがフリーターや派遣社員でいなければならない理由の一つと思われる。上の3世代もそれが分かっていても自分も苦しくてどこにも逃げ場がないので、そこから出ていこうとしない。この目詰まり・悪循環が続いているのが今の日本の硬直した労働市場ではないだろうか。
このあいだ年の初めということで、ある経済セミナーに参加したのだが、そこの大ホールにいた中堅以上の人たち(アラフィー世代?)、世にいう部長さん室長さん課長さんクラスのなんと多いこと! 結局新年早々こんな所に来ている彼らは暇人であり、ほんとうはやらなくても良い仕事に貼りついているだけで、彼らでなくてはできない仕事など実はもうなくなっているのかもしれない(かくいうぼくもその世代に属するのだが)。

でも仕方ないのだ。彼ら・ぼくらにはまだまだ住宅ローンも残っているし、学生の子供もいる、というわけで働かなければならない、まだ必死なのさ!ということになるのだろう。だから、しばしば言われるようにフリーターや派遣の問題とはいっぽうの若者にだけフォーカスした問題として取り上げてもあまり意味がないとぼくは思う。たしかに労働需要の広がり、長い目でみて就職の機会市場を作ることも大事であるが。
むしろ肝心なのは、若者の雇用と表裏一体となっている、いわゆる雇用の流動性を高めること、そのためには、具体的にいえば早く辞めるべき人(たとえば50代の人たち)が辞めやすい社会、早くリタイアしてもそれなりになんとか生きて行ける社会をいかにちゃんと作れるかにかかっていると思うし、その視点が抜け落ちては、いつまで立っても何も解決していかないかもしれない。特に人口も減少していく成熟社会になればなおさらのことだ。

大雑把に言えば、20代から働き始めたらほぼ30年経過して50代になった時点で、まずローン関連はほぼ誰でもが完遂できており多くのクビキから脱していること、後は中高年の多くがボランティアなどの社会参加などをしながらそれなりに自由に生きていけること、そういった多様な選択の下地ができている社会になっていることが理想だろう。
けれどそのためには日本は何よりもまだまだハウジング関連のコストが高すぎるし、ローンを返済したと思ったら、今度は中古マンションがただ同然の売却価値しかないと来ているわけだ(いつまでもフローだけの社会、ストックが効かない社会! その悪しきサイクルから抜け出せないのかな)。こうしたところから根本的にグランドデザインを書き直す必要があるだろうし、それを避けては通れないと思う。これからはいくら叫んでも有名無実の成長戦略に頼ることはできなくなるだろうから。

そういえば武家・貴族社会時代からの隠居という方法は後進に道を譲りやすくするという一面を持つ大人の知恵でもあったと思う。相撲社会では年寄りの制度もあったね。これらは畢竟広い意味でリタイアを含めての処世術だろう。やっぱり世の中を回していくという意味で社会システムをめぐる昔からの知恵は凄かったなと思う。先物取引にしても、今風のエコだってとうに江戸時代からやっていたわけだし。 
今の日本がほんとうに考えなければならないのはいかにリタイアしていくか、坂の上の雲ならぬ、いかに坂を下っていくかを上手に考えていくことに尽きるとも思うのだ。成長ではない、坂の転がり方だ。そう、もうそろそろ「頑張らなくてもいいんです」(吉田拓郎)を本当に考えていかないと。

よしむね

おそらく歌舞伎における伝統とは生きた遺伝子が泳ぐ海なのだろう

ご存知のとおり、歌舞伎座がこの4月で閉館し建て替えに入る。完成は2013年。4月まで「さよなら公演」と銘打って興行が行われているが、今年も初春歌舞伎を観た。
夜の部に行ったので、演目は以下の4つ。
「春の寿」
「菅原伝授手習鑑―車引」
「京鹿子娘道成寺」
「与話情浮名横櫛」
「春の寿」と「京鹿子娘道成寺」は踊りもの。なかでも道成寺は今をときめく勘三郎と団十郎の組み合わせ。玉三郎が時代を超えた天才だとすれば(その踊りのやわらかさ!)、勘三郎はいま中堅世代ではもっとも脂が乗っている。とにかく相変わらず生きのいい踊りを観る楽しさがあった。
 「車引」は布陣が豪華。芝翫、吉右衛門、幸四郎、富十郎、等々。初春公演ならではというところか。特に一堂が会したお仕舞い(エンディング)はなんと豪華な見世物だったことか。「与話情浮名横櫛」は染五郎と福助の人情話。これもそれなりに楽しめる機微のある人情ものだった。  
こうしてみると、歌あり踊りあり人情ものありで、やはりなかなかのエンターテインメントではあった。今、歌舞伎がその充実さからある種のブーム(戦後何番目かの?)になっているというのも分からないではない気がする。長老、中堅、若手と陣容も粒が揃っているし。若手の今後ということではやはりポテンシャルとしては海老蔵であり、女形の期待値では七之助かな。

 ぼくは歌舞伎の専門家ではまったくないが、当時の江戸の人たちは、ぼくらが今3Dで「アバター」を観たり、スターウォーズを観るような感じで歌舞伎を観ていたのではないか、つまりそこにその時代の先端や先行きを感じたり未来を予感したりして、いわば宇宙ものを見るように歌舞伎の舞台を観ていたのではないかと勝手に思っている。歌舞伎役者は今でいえばマイケル・ジャクソンであり、マドンナのようなものであり、おそらく芸能を通じて先端世界と交信してくれるような役割を担っていたのかもしれないな。
「我国の舞踊はつまり遠来のまれびとが大きな家を訪れて、その庭で祝福の歌を謡ひ、舞を舞って行くことに始まったことは、先に申し述べた通りです」(日本藝能史六講、折口信夫)。歌舞伎役者はまれびととして舞台に出て、みんなを代表して、その時代の世相を先んじて生きてくれる(舞い、踊り、歌う)存在だったのかもしれない。

 そもそも歌舞伎には翌年にどんなテーマに基づいた演目を取り上げるかを決める「世界定め」があり、その定めに基づいて顔見世が行われる慣わしだったと言われる。これは今風にいえば婚活がブームだから、来年は婚活をテーマにした作品をもっと上演していこうというようなものだろう。ぼくらはある程度普遍的になった話や舞台を観ているわけだが、江戸時代の人たちには歌舞伎はもっと当時のなまなましい世情と表裏一体のものだったろう。

 そして今歌舞伎を観ていてぼくがあらためて羨ましいと感じるのは、伝統という生きた無形に支えられている歌舞伎役者たちの立ち振る舞いのことだ。特に勘三郎や団十郎の踊りや舞いを観ていると、彼らが歌舞伎の伝統を信じて疑わず、いわば悠々とその海のなかを泳いでいこうとしているように思える。もちろんそこには多大の苦労があることは言うまでもないが。
ただしそこでの伝統とは、なにも形骸化した、決まりごとのようなものではなく、生きたフォルムとして、たえず当事者によって更新されていくフォルム(遺伝子)のようなものだ。型であって型ではなく、デザインとは異なるようで、まさにデザインそのものであるようなもの、肉体という物理が実現するもの。とても柔軟性があり、けれどその背景として連綿とした歴史によって支えられてきたもの、等々。歌舞伎役者たちは多かれ少なかれその生きた遺伝子を受け継ぎ、伝統を信じ、伝統と対話し、その「伝統という同じように刻々と生きている海」のなかを泳ごうとしているように見える。

 これはぼくらのビジネス社会とは対照的だと思う。曲がり角に来つつあるとはいえ、未だぼくらの現代社会ではいかに他者に先んじるか、同じことをしないか、差異をすばやく生き抜くか、伝統や習慣のような形式化したものからジャンプできるか、「かつて」と切れているか、そうしたことがより問われ、そうしたことがビジネスチャンスと捉えられがちな社会だからだ。弱肉強食。だからなるべく振り返ったりしているわけには行かないし、たえず前方の新しいものばかりを見ようとするわけだ。蓄積にならない社会、フローの社会。
そんなこんなに追われているなかで、ほんとうは違う可能性もあるのかもしれないと、そんなことをふと思いながら、ぼくは取り壊される日が近い歌舞伎座を後にしたのだった。

よしむね

歌のあり方について、松田聖子は平成の陰の歌姫、持続するディーバである(その二)

これも少し時間が立ってしまっているのだけれど、大晦日に松田聖子のカウントダウン・コンサートに出かけた。今回で3回目、3年連続である。よくもまぁもの好きということかもしれないが、毎年のことながら会場には結構アラフォーならぬアラフィフ世代も多く男性ファンも相当数見受けられるのだ。おそらく根強い固定ファンがいて、毎年来ているのだと思う。そういえばぼくが通っている理髪店のマスターも松田聖子のファンで、カウントダウンにはぜひ行ってみたいと言ってたっけ。
ぼくは根っからの聖子ファンだったことはない。じゃ何故カウントダウンに来ているかといえば、もともとは家内に誘われて来始めたのだが、その後は松田聖子という持続する現象に興味があるからだということになる。いわゆる歌謡界のアイドル出身で今も現役の第一線で頑張っている歌手といえば彼女くらいしかいない。

松田聖子がアイドル全盛の花盛りだったのは、言わずと知れた80年代だ。アイドルという観点からみて70年代後半が山口百恵の時代だったとすれば、80年代前半は松田聖子の時代。山口百恵や中森明菜にくらべて、その家庭環境や出自をふくめて彼女の特徴はより普通っぽい=普通の女の子に近かったことだろう。なによりも松田聖子は蒲池法子という女の子が歌手になった、のである。
だが、その普通っぽいイメージとは異なり、そのブリっ子ぶりといい、歌のうまさといい、したたかさといい、けっして平均的だったわけではないだろう。だからこそ現在まで長く生き延びてきたとも言える、山口百恵は結婚即引退し、中森明菜はその後フェードアウトしていく中にあって・・・・。
ぼくが松田聖子に今でも興味があるとすれば、それは世の同世代の疲れた男どもよりも、ある意味でよほど個として自立しているから、と答えるだろう。結婚やその前後のスキャンダルを経て、90年代以降はどちらかというと表舞台から離れて潜行しつつ歌手活動を続けていくわけだが、その個としての生き方もふくめて評価したい。

思えば、彼女の歌は80年代当時から、か弱い男に対して、それをしずかに激励(?)しつつ、お互いの関係はけっして進展せず、成就しないという間柄を歌ったものが多かった。そして結局は、お互いにひとりであること。「渚のバルコニーで待ってて。・・・ひとりで来てね。・・・」こうした歌詞で歌われた世界は、その後の80年代の風潮(おたく文化やさびしい個の時代等々)をどこか先取りするものだったと思う。それには作詞家松本隆の功績もあっただろうが。
世の男どもがますますオタク化してゆく中で(最近では草食系男子が流行りだという)、女性たちは強くなり文化史的には女性の時代が続いて現在に至っていると思われるのだが、松田聖子はある意味でその一つの先陣の風となって先行してきたのだと思う。彼女は90年代以降自分で作詞するようになるが、それらの歌も一貫して別れた男に対して、ひとりで生きていくことをしずかに宣言し相手にエールを送るような歌になっている。

松田聖子は今年デビュー30周年だという。「みんな元気?」とカウントダウンの会場で、彼女がステージ上から呼びかける。そして男も女もみんな自分の来し方行き方を投影しながら一緒に彼女の歌を歌うのだ、多分ね。
前回の小田和正の「クリスマスの約束」が歌のリレーという続きだったとすれば、こちらはひとりの女性歌手がとにもかくにもいろんな荒波のなかでも歌い続けてきたというその持続のエネルギーにある。どちらも同じ持続にかかわるもの、そして歌のあり方にかかわる、あり様。歌い続けること、続けることの積み重ね。松田聖子の歌を聞きながら、ぼくは今年も改めてそんなことを思った。

よしむね

ニュー・シネマ・パラダイスの20年

この間、ラジオを「ながら」で聞いていたとき、今年2009年が映画「ニュー・シネマ・パラダイス」(ジュゼッペ・トルナトーレ監督)が公開されてからちょうど20年めだということを改めて知った。これは別に大事件でもなんでもないのだが、公開年である1989年というその区切りの年号といい、ぼくにとってはなにか極めて感慨深いものがあった。もちろん当時ぼくはリアルタイムでこの映画を観た。

20年といえば成人に代表されるように人が生まれていっぱしの大人になる年数だし、経済用語でいえばキチンの波(40ヶ月)、ジュグラーの波(10年)と来てクズネッツの波(20年)を迎えるわけで、世の中の建築需要などが大きく動く年単位に相当すると言われる。
20年ではないが、「澁澤流30年長期投資のすすめ」(澁澤健著、角川SSC新書)などに見られるように長期の運用哲学が花開くことをおっしゃる方もいる。因みにこの方は明治時代の日本経済(資本主義)の礎をつくった渋沢栄一さんの5代目ご子孫だ。つまり20年という単位はなにかが大きく変わってもおかしくない単位の一つであるということ。それだけの年数を自分もすでに生きてしまったわけで、それに対する感慨がなかったといえば嘘になる。

そして1989年という記念すべき年。この年は世界史的にはベルリンの壁崩壊があり、日本がバブル崩壊する直前の年(言わずと知れた大納会のときに付けた日経平均38,915円が歴史的ピークで、年明け以降はこれが急降下してゆくことになる)で、いわば国内海外をふくめた世の中全般が大きく変動してゆく前年にあたっている。
ニュー・シネマ・パラダイスはわざわざ説明するまでもないくらい人口に膾炙している映画で、映画史上では名作中の名作と呼ばれる類の作品。何がしかのランキング投票を行えば必ずベスト10位入りすることは間違いないだろう。あまりにも有名なエンニオ・モリコーネのサウンドトラック(旋律)もどこかで必ず聴いているはずだ。

ぼくが最初この映画に感動したのは、これもまたあまりにも有名なラストの古い映画のキスシーンの数珠つながりのシーンだ。洗礼の水でも浴びるようなフィルムの切れはしたちの映像の連鎖。検閲にひっかからないようにフィリップ・ノワレ演じる映写技師アルフレードがそれらのフィルムを切り刻んでいたわけだが、その「記念品(形見)」を主人公が上映してながめるシーン。ここには過ぎた時への回想とともに、トルナトーレ監督自身による古き映画への紛れもないオマージュもあったはずだ。
映画は生き物であり、おそらくその時々によって何に感動するのか、その印象も確実に変わってゆく。ぼくにとってのニュー・シネマ・パラダイスもその意味では変化し続ける作品なのかもしれないが、今もあらためて惹かれている部分があるとしたら、それはたぶんこの映画がノスタルジーに貫かれた追想の視点で描かれていることだ。主人公の幼年時代への、町をとりまく環境への、高校時代の恋人への、その別れへの、親しい友人への、なによりも大好きだった映画館への、そうした失われたものたちへの、追想のオマージュ。    
そして映画の最後のほうで、アルフレードの死の知らせをうけて故郷へ帰る決心をした主人公はなにかと和解し(過去と現在に連なる時間と?)、その葬式参列の日にかつての知人たちの多くの顔に出会う。そこに見いだされるのは、時が確実に刻みつけた人々の顔の変化であり、それと同じだけ主人公も年を重ねたという事実、そしてそれらがある懐かしさをともなって現れてくるのだ。ちょうどプルーストが「失われた時を求めて」における最終巻の「見出された時」の仮装パーティーで「時」の交差と出会ったかのように?・・・・。

1989年のバブル崩壊のあとの、日本の20年。失われた10年とも20年とも言われる、その長いだらだら坂の低迷。この間の最初の10年でみても、単に経済情勢の激しい変化だけではなく、オウム事件や阪神大震災に代表される大きな社会的な事件や天変地異があった。次の10年でみても不景気なのに異常なくらいのラッシュとなった都市の大規模再開発(六本木、汐留、丸の内)など、とても変化の激しいDecadeだったと言える。そのあまりにも振幅が大きいために誰も正確に語れないような時代。そして今、ぼくたちはニュー・シネマ・パラダイスの主人公と同じように、その日本の周辺のあちこちに、それこそ制度疲労のためかすっかり「老いた」日本の多くの顔たちとその残像に出会っている。

21世紀を前にしてその最後の10年の手前で公開されたニュー・シネマ・パラダイスは、そう思えば予見的な映画だったのかもしれない。それは華やかな未来よりもどこか追憶の過去にひきよせられ、新しさよりも追憶のさざ波に揺れているような映画だからだが、それこそまさに現代の風景そのものにも思える。現代において新しいものはまだあるのか? あるのは追憶だけなのか? 失われた過去への記憶だけなのか? 果たして、ぼくらはこの老いた日本の再生の果てに、ニュー・パラダイスを見ることができるだろうか? 
                                
よしむね

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ぼくらは両極の映画の佳品「サイドウェイズ」と「アンナと過ごした4日間」の間で揺れ動くのだ

最近とても良い2つの映画を見た。映画のタイトルは「サイドウェイズ」と「アンナと過ごした4日間」。どちらも地味な映画なのだが佳品と呼ぶにふさわしい作品だと思う。ここでは映画の解説を書くことが目的ではないのでとにかく作品を見ていただくしかないのだが、以下に少し紹介文めいたサワリを書いてみたい。

「サイドウェイズ」は2004年同名のハリウッド映画のリメイク版。監督は外国人のチェリン・グラック。主演陣は日本人の俳優で小日向文世、生瀬勝久、鈴木京香、菊池凛子の4名。まず役者たちの顔ぶれが良い。物語は解説文をそのまま使わせてもらうと、「ワインの産地、カリフォルニアのナパ・バレーを舞台に、さえない40代の男二人のパッとしない人生が少しずつ動き出していく様をていねいに描く」とある。まあたしかにそのように動いてゆく。そこに同世代といってよい二人の女たち(鈴木京香と菊池凛子)が絡む。
よくある再会と新たな旅立ちのストーリー。しかもみんな中年であり、どこかにほろ苦いテイストをひきずって旅立つことになるのだ。それが陽光明るいカリフォルニアを舞台にして静かに淡々とシニカルにそしてやわらかくある意味では決して気負わずに主人公たちが動いていく。大それた事件が起きるわけではない日常の連鎖の延長の中で、主人公たちは悩み、諦め、観念してゆく。まあそんな物語だが、そういう気負わなさが良い。
結局はなにも解決しないし、勿論多少のドラマ風の味付けはあるのだがすっきりかっこよく終わるようには行かない。売れないシナリオライターとしての主人公の設定や留学や渡航の経験などが題材に扱われていても、特別な人物設定ではないし、舞台となるアメリカも心象風景としてみれば現代日本の延長とそれほど劇的に変わる土地として捉えられているわけではない。人も土地もある意味で非常に等質(均質)であり、リアルなのだといえる。

一方の「アンナと過ごした4日間」はこれとは対蹠的にまったく異常さに基づくような内容になっている。監督はポーランドのイエジー・スコリモフスキー。現代世界の特徴のひとつが等質性にあるとすれば、この映画はそのすべてにおいてこれと反対を行くような設定だ。主人公は病院の火葬場で働くまったく冴えない寡黙な独身男。年老いた祖母との二人暮しだが、ほとんど引きこもりのような二人の生活。やがて祖母の死。そして異常なレイプ事件を目撃。主人公自身も過去に異常な暴力事件(?)に遭った過去を持つ。
それから目撃したレイプ事件の相手の女性(看護婦)への恋。覗き見。それが嵩じての、ストーカーに近い偏執的な行動。ある一夜の物語、その続き。そして愛の告白。絶対的な愛といえるほどの、なにかへの、・・・・等々。
たぶんこんな風にいくらこの映画のことを書いても、この映画の良さはおそらく伝わらないだろうと思う。だいいち映画そのものが本当はことばでくくられることを拒んでいるし、優れた映画ほど映像や音や役者の身振り・演技のすべてをふくめて、言葉で要約することができないものを持っているからだ。ただぼくがこの映画で強く感じるのは、主人公が持つ愚直さと一途さとほとんど狂気に近いような純粋さが持つ、肯定性のようなものだ。あるいはもし別の言葉でいうなら、やはり希望ということ。それでもぼくは君を愛している、と。

ここで扱われている世界はいずれも重く苦しい。何一つ等質ではなく、貧困をふくめて凹凸ばかりのある生活。主人公もおよそ世間の等質性から外れたアウトロー(脱落者?)だ。だが、それでも人は希望を持つことができるし、そうする権利があると、この映画は底のほうで語ろうとしているかのようだ。
いま、ぼくらを取り巻く世界は、ほとんど等質といってよい世界だ。インターネット、携帯電話、パソコン、高層ビル、電気街、ビジネス街。家とオフィスの往復、通勤電車。人が等質に利用し、まずもって等質に生きることが前提の社会だ。多かれ少なかれ先進国の大都市ではほとんど当たり前となった光景とそれらが累々と積み重なった生活。だが何かのきっかけでその等質のすきまから、ふと等質でないものが顔をのぞかせる。それが秋葉原での集団殺人事件につながったりするのかもしれないが。

いずれにしても大事なのは、何が等質で何が異常かを見極めることではないだろう。まずもって好むと好まざるとにかかわらずぼくらは等質の足場に身をおいているのだ(そのことに観念しながらも)。だが、けっして等質でないものへの目配りも忘れることなく、いわばそうしたものと自由に往復できる視線を持っておくことが必要なのだと思う。ちょうど「サイドウェイズ」と「アンナと過ごした4日間」の間で揺れ動き続けること。それこそが必要なのだと。

よしむね

「世界カワイイ革命」と日本ブームについて思う

櫻井孝昌さんの「世界カワイイ革命」(PHP新書)を読んだ。この本を読むと、「KAWAII」という日本語がもう普遍語・世界標準語になっていて、生き方を代表するものとして新しい意味を担っていることが改めてよく分かる。「カワイくなりたい。カワイく生きたい。女の子の気持ちは世界いっしょだと思います。」(文中言)。そして世界中の女の子がどれだけ日本に恋しているかが詳らかにされてゆく。こうした現状をふまえての櫻井さんの要旨は明快であり、日本はこれだけ愛されているのに多くの日本人はまだ鈍感のままで大きなビジネスチャンスにつながるものを失くしていないかということである。日本にはそのためのアイコンが沢山あるのにそれを生かしきれていないということ。ぼくもこの意見に賛成だ。

以前のブログでも書いたことだが、日本人はそもそも他人に評価されることに素直に喜べないような性格の偏屈な傾きがあるようだ。というよりも、実は他者の視線を本当に感じようとしているのだろうかと疑問に思えることがある。他者の視線を感じるためには自分にもかなり自覚的になる必要があるからだ。
つまり自分がよく見えていなければならないし、自分がよく見えていることと他人がよく見えることは表裏一体だと思うのだ。しかし日本人に世界における自分という考えかたが馴染みやすいものかどうか。この問いかけに日本人のぼくらはちゃんと答えることは難しい。そもそも政治的・地理的にも長くアメリカの傘の下で暮らしてきたために、ぼくらは意志的に先導的に世界での役割について発信してゆくことに慣れていないし、日本人は世界という舞台で自分がいまどこにいて、何をしなければならないのかを問いかけることがとても苦手だと思う。

一例を挙げるなら、韓国の企業で三星電子だったと思うが、世界のある市場に製品を売る前に、ある人材を送り込んで一年間まったく自由に過ごさせることで現地に溶け込ませ、その国の文化に始まり何から何まですべてを吸収させて、その現地にあった市場戦略(販売戦略)を考えさせるという研修員プランがあるという。ここまで時間をかけて相手の国のことを研究することを日本企業(=人)はやっているだろうか。そこまで相手のことを見ようとしているとは思えない。

それよりも日本人が往々にしてとりがちな行動として、危機に陥ったときの被害者意識に基づくようないわゆるカミカゼ特攻隊に代表される、なりふり構わず自虐的に振舞うことであったりするわけだ。冷静に相手を見ながら戦略を立てることがとても不得手の国民性に思える。ほんとうに冷静に考えようとするなら、戦闘機一機が軍艦に衝突を重ねていくことは精神に基づいた行為に似てはいても、戦時指揮下における正しく汎用的な軍事行動とは言えないだろう。つまりしばしば言われることだが、日本には戦術あって、戦略なし、ということがいまも多かれ少なかれ続いていると思えるのだ。

日本のある半導体メーカがとても優れたカスタムIC製品を作ったとしよう。過剰スペックすぎて誰も必要としないのだが、上記メーカの人は機能的に最高のものであり、売れないはずがないと考える。機能さえよければ売れて当然だと考えるのだが、結局は世界市場で圧倒的に売れる製品にはならない。世界市場でスタンダードになるためには、機能以外にも、価格の値ごろ感や使い勝手の良さだったり、そのときの力関係だったり、その他様々な要因があるからだ。 
全体のバランスをトータルな視点から考える戦略が必要だからだ。日本の製造業やハイテク企業の多くは近年大きい意味でこの戦略(構想デザイン力)のなさのために失敗を重ねてきている。そうしたなかで戦意喪失し始めているのがいまの日本を取り巻く状況だと考えるのはとてもさびしいことだけれど。

戦後、焼け野原だけが残ったといわれる(もちろん戦後生まれのぼくはその焼け野原を知らない)。バブル崩壊後現在(=いま)に連綿と続く原風景も多くの日本人にとってどこか焼け野原に近いイメージを抱かせるものなのかもしれない。頼るもののない、荒れた土地。瓦礫の街。そうしたなかで、世界中の女の子だけが能動的な生き方として「カワイくなりたい。カワイく生きたい」と願いそれを実践している。人はそれを安易にロリータファッションとのみ定義づけ括ろうとして安心しようとしたりするのかもしれないが。でもこの女の子たちの感性パワーは今を生きることをめぐる結構ほんものの呼び声や価値観に近いなにかなのかもしれないとぼくは思う。
だからこそぼくら(=日本人)は愛するだけではなく、他者から愛されていることにもっと素直に自覚的になって良いのではないかとも思う。繰り返しになるが、自分のことが見えていない人は他人のことも見えないからだ。他人と自分はしょせん一緒、鏡の表裏なのである。

世界(他人)をよく見ること。その評価をふくめてとりあえずいまなにが起きているかを見極めようとすること。世界のニーズとシーズを探ること。この当たり前の原則。ビジネスの基本。せっかくのチャンスなのだから、今回の日本ブームもこの当たり前の原則から、戦略的に行動することがいま何よりも日本の継続的な国益(富)として必要なのだと思う。王道はないからだ。いずれこの日本ブームも廃れていくだろうから、そうであればなお更、この原則に何度も立ちかえることが必要なのではないだろうか。

よしむね

箱根のリゾートSPAでつくづく時間という買い物について想ったこと

先々週末、箱根の某リゾートホテルに家内と一緒に宿泊に出かけた。ぼくの目的はリハビリを兼ねて温泉に浸かること、家内は以前から行ってみたいホテルだったらしいが、結果としてはアロマトリートメントを施術してもらい大いにリラクシングできてご満悦だったようである。因みに彼女自身も自宅でアロマを施術しているアロマセラピストである。ぼくにとっては大江戸温泉通いの延長としての温泉療養の意味合いもあった。そこは強羅温泉のエリアなので温泉の質も格段によかった。

今回上記ホテルに行ってとても新鮮に感じたことがある。そのホテルはいわゆる世界に冠たる一大ホテルグループであり、その雰囲気といい宿泊施設の上質さといい、ホスピタリティーの良さは言うまでもない。ぼくがここであえて上質といっているのは、時間の邪魔にならない、邪魔をしないというほどの意味もある。とても有難かったのはそのホテル内を丹前に浴衣姿で闊歩できたことである。ホテル自体は骨の髄までリゾートホテルでありきわめてモダンな作りであった。

ふつうそんなモダンなホテルのなかを浴衣で歩くことは厳禁といわれても致し方ないとも思えるのだが、そのミスマッチがいわゆる温泉旅館じゃないところで許容されていたことがとても新鮮だった。極端な言い方をすればドレスアップしたカップルのなかを浴衣姿のおじさんが歩いているのだから。ホテルの品位にこだわるやり方もできるわけだ。だがホテルがその縛りを設けなかったのは、やはり温泉に入る人たちのことを考えてだろうな。なんといってもやはり浴衣で温泉に行くほうが便利だからだ。

それから、吹き抜けのリビングフロアーの天井から長い筒のような煙突が下がっていて、その下に薪がくべられた暖炉があり、その爆ぜる音を聞きながらゆったりできることもとてもよかった。ふつう暖炉といえば部屋の隅のほうにあるものだろうが、そこではちょうどフロアーの真ん中に位置するように暖炉が設計されており、寛ぎにきた人たちが取り囲むようにしてその暖炉の火を眺めることになるのだ。グラスを一杯傾けながら、いつまでも飽きることなくその火を眺めながら談笑している泊り客のすがたも絶えなかった。こうした何でもないような設計にみえて、客本位への気配りといい、寛ぎを演出するその意匠の心づくしといい、やはり上質であったといえるだろう。
結局非常に月並みな当たり前の感想になってしまうのだが、サービスとかホスピタリティーとかいろいろな御託を並べても、ぼくらは詰まるところこのホテルでの「時間」を買いにきているのだ。その対価としてお金を払ってゆくのである。その意味では時間こそがやっぱり一番高価なものだ。明日死ぬひとにとって今日という時間ほど何物にも変えがたいものはない。

まさむねさんが{「ここはウソで固めた世界でありんす」とは僕らの台詞だ}のなかで語っているように、「世界に対する違和感、それは現代人に特有の感覚なのだろうか。それは、本当の自分はどこか別の場所に居るべきであり、今、ここに存在するのはウソの自分だという感覚」だけがたしかなものなのかもしれない。だとするなら、そうした不確かさのなかでヒトはより確からしいなにかにスガルしかない。それが唯一根っこのような時間というものなのだろうか。
最近フランスで日本ブームだといわれていると前回書いたけれど、こうも言えるかもしれない。いまフランス人の多く(?)は不確かさのなかで「日本という時間」に確かななにかを感じているのだ、と。それがブームの根源にあるのだ、とも。

「日本という時間」、それは何だろうか。浴衣を着る時間、温泉に入る時間、暖炉の薪をながめながら日本酒を飲む時間、ホテルのギャラリーで焼き物を観る時間、などととりあえず言ってみるが、そのいずれでもない時間。海外の目からみた日本という時間、おそらく生きることに通底させるようななにものかとしての時間、通奏低音としての。日本人のぼくらはそのことにもう少し客観的かつ自覚的になることが必要なのかもしれない。

よしむね

「なんでも腐りかけがおいしい」という斜陽のなかでの日本ブーム

雑誌記事などによるとフランスで空前の日本ブームだという。空前というのがどの程度なのかよく分からないが、同じように日本ブームという意味ではちょうど150年くらい前の日本文化への嗜好(いわゆるジャポニズム)がこれに匹敵するのだろうか。今回の一連のブームのなかでは日本を題材にした小説も結構多く書かれているようだ。最近では本国フランスでベストセラーになったといわれている「優雅なハリネズミ」(これに登場するのは映画監督小津安二郎を思わせるような日本人オズが登場しているそうだ。ぼくはまだ読んでいないが。)という小説もあるらしい。ぼくも今年にはいって日本を題材にした一冊である「さりながら」(フィリップ・フォレスト著)を読んだことがある。夏目漱石、小林一茶、山端庸介(写真家)を主人公に設定しながら、コント風仕立ての枠組みを使って単に日本への関心にとどまらずに、自身の遺児への思いと重ね合わせながら哲学的な省察(同時代への考察)を試みている、抑制の効いた佳品だったと記憶している。

今回の日本ブームはアニメやゲーム、コスプレなどの従来のポップカルチャーのみならず、寿司、禅、焼き物、茶、相撲、歌舞伎など広範な事象への関心の広がりも特徴の一つのようだ(それらが紋切り型の理解であれどうあれ、理解のためには多少の紋切り型が必要だと思う。その意味でぼくは紋切り型について好意的に考えている)。
どちらも見出された国・日本であろうが、およそ150年前に近代国家の仲間入りを果たそうとしていた中で見出された国のかたちと、すでに十分に成熟した国家となって見出された今この段階での見出され方の違いはそれなりに興味深い感じがする。前者には単純に今まであまり知らなかった未知への国(東洋)への興味本位も多少なりともあったとすれば、後者には情報というものがすでに十分に氾濫している最中でもなおかつ興味をそそられる全世界共通のなにかの琴線に触れえたことが背景にあったと思われるもするからだ。その何かはぼくには分からない。それがクール・ジャパン(かっこいい日本)と呼ばれている正体なのだろうか。その一端については日本ブームをめぐる考察(次回作)でも少し考えてみたいが。
もう一つ面白いのは、ちょうどクール・ジャパンと言われ出した時期が、日本が90年のバブル崩壊を経て国力の低下・衰退と重なる時期であることだ。国、敗れて、山河あり、だけではなく、国敗れても人気あり、が続いているわけだ。いわゆる国力と人気の関係、この相反が面白い。

アメリカの世紀であった20世紀についてつらつら考えてみると、国力と人気の持続は陰に陽にけっこう重なっていたように思うのだ。いわゆる50年代・60年代の大衆文化の見本としてのアメリカ(芝生つきの広い家、電化製品に囲まれた豊かな暮らし、車社会)から金融市場の活性化を経た90年代以降のアメリカ(成長神話としてのアメリカン・ドリーム、先端ハイテクと投資・ベンチャービジネスの盛り上がり)まで、それなりに一貫してその人気はアメリカという国の力に支えられて憧れの対象となり羨望の像となり続けたように思う。ベトナム戦争の時代や冷戦の時代も、大きい意味ではまだ国家としてのアメリカの器の大きさは変わらなかったと思うのだ。そしていま時代は「アメリカ後」の世界にむけて動き出そうとしている。人はそれを多極化する世界と呼んでみたり、ポスト・アメリカとしての21世紀=中国の時代と形容したりするのだろうが。

そうした中で日本人気はまさにアンビバレンスななかで起こっている。だがこうした海外での日本への評価・人気というものがどれだけ正しく日本に伝えられてきたかははなはだ疑わしい。TVによる報道に限っても世界のなかのクール・ジャパンについてわりと一貫して伝えてきたのはNHKくらいで、民放からこの手の継続的な報道ニュースがあったことをぼくはほとんど知らない。それからどうも日本人の傾向として自虐的に自己分析することはあっても、他人に褒められることに素直になれない性向があるのだろうか。自分たちの良いものを海外に評価されて始めて、そんなに凄かったのかと気づかされるようなところが往々にしてあるようだ。建築の例をとっても桂離宮などがその最たる事例だろう。逆にいえば日本人は自分たちに自信がないので、いつも外部評価(海外の目)を通じてしか評価づけることができない性なのだろうか。

こうしたことのチグハグさもふくめて、依然日本の本質は変わっていないのかもしれない。ただ斜陽のなかでの日本ブームについて考えるとき、ついつい思い出してしまう映画の中のことばがある。その映画というのは鈴木清順監督の「チゴイネルワイゼン」で、もう大分昔に見た映画なのでその言葉をつぶやいたのが主人公の原田芳雄だったかもはっきりとは覚えていないのだが、たしか何か果物を食べるシーンで「なんでも腐りかけが一番おいしい」とつぶやくセリフがあったことを記憶している。

ちょうど夕日がとても美しく感じられるように斜陽のときのほうがその本質がよりよく反映されるのか分からないが、日本も腐りかけの残照のときが一番おいしいのだろうか。そこにデガダンスの影でもきらめているのか。国力だけの尺度で見るかぎり世界に憧れを持たれていることがとても理解しにくいことも事実だが、なにか奇妙で不思議な印象をもってしまう、昨今の日本ブームという感じだ。

よしむね

たしかにガラパゴス化した国で皆が子泣き爺になっているようだ

まさむねさんが「デフレを受け止めきれない僕らの近未来イメージの不在」で書いているように「事業仕分けの流れでも明らかなように、これまでの日本はあまりにも公共的なバラマキ予算で食べてきた人が多すぎたということなのである。そして、その結果としての900兆円の借金なのである。社会の役に立つ仕事をしていたと思っていた多くの”善意の人”が、実は政府に食べさせてもらっていただけの”子泣き爺”(=お荷物)だったということが白日の下にバレてしまったのだ。」という感想にはぼくもまったく同感だ。

昨今の報道のサマを見ていると、国民の側も報道する側も、税金を取られるほうも取るほうも皆が皆でまとまって、国全体がもう病的なまでにお金の取り合いのことを考えるしかないような袋小路に追い詰められているようにみえてならない。清貧の思想が良いとは思わないが、どこかに、凛として、節度あり、いわゆる自分の分をわきまえ、ほどほどを知る、という引き算の姿勢があってもいいような気がするし(この主題についてはいつかまとまってまさむねさんと一緒に考察してみたいところだ)、一方もっと大きな視点で、つねにどこかに全体最適から考えていくような発想が抜け落ちていると、必ず瑣末な論議の積み重ねで、どこにも出口のない堂々巡りに落ちてゆくことになりかねないとも思えるからだ。

そもそも事業仕分けの前半戦をわりと好意的に報道していたTV局の姿勢も、後半のいわゆる科学技術の事業仕分けに入ってきた段階で、その報道姿勢をやや批判的なトーンに変えだしてきている。ムダの一掃とばかりに、いわゆる科学のような「現在」の役に立たないものを「ムダの視点」だけで切っていいのか、将来の発展のためにはムダもまた必要なのではないかという論調だ。
だが、民放に代表されるTV局自体がいわゆる長年の電波行政の規制の御蔭で競争にさらされることもなく格段に高いサラリーを享受できてきた業界であり、まさにそれこそ事業仕分けの対象にふさわしい存在だろう。さすがに昨今は景気低迷の影響もあり広告収入の大幅な落ち込みと番組の質と視聴率の低下、ネット広告の脅威などで安閑としてはいられなくなってきているようだが。

ここで問題にしたいのは、その報道の仕方に首尾一貫したものがなく、場当たり的なことなのだ。もちろん何が正しいかは確かに誰にも分からないが、たとえば事業仕分けについていうなら、とにもかくにも、そのテーマにかかわりなく聖域なく皆の前で議論する機会になっていることは以前の政治風土よりは良しとするような一貫した評価の姿勢があってもいいし、その逆に批判し続ける姿勢があってもいい。要は、マスコミ自体にはもうまったく主体性がなく、その時々でいいといってみたり、悪いといってみたりする傾向があまりにも強すぎるのだ。近年はその傾向に拍車がかかってきているように思えてならない。
皆が子泣き爺になっているこの国で、たぶんいまもっとも必要なのは、全体をデザインする力=構想力=グランド・デザイン力なのだと、ぼくは個人的に勝手に思っている。それを愚直に発信していくような場こそが必要だと思う。なぜ日本でiPhoneが作れなかったのか。iPhoneを構成している電子部品のほとんどは日本製だったのに、というあまりにも有名な命題・疑問。その答えもまたあまりにもしばしば言われすぎていて、今更繰り返してもしょうがないかもしれないが、日本にはそれを作りあげる構想力を持った人がいなかった、アップルのスティーブ・ジョブスがいなかった、というのがその一番の答えだということに尽きるだろう。

科学技術の事業仕分けに遭遇して、大学の総長たちが集まって危機感の表明会見を行おうと、ノーベル賞の学者先生があつまって反対意見を述べようと、そこに欠けているのは、ではあなたたちは大学教育をどう考えているのか、どうありたいのですか、技術立国というなら、あなた方はそのあるべき姿についてどうデザインしているのか、まずそれを大上段に愚直に常日頃から発信してほしいということだ。その一環で予算削減について批判的に述べるのならそれはそれでいい。だが、ぼくらの目に映るのは、まずもって「これ以上削られたらもう大変なんだ、大変なんだ、競争できなくなるんだ」という大合唱の光景のようにしかみえない。これで生活している研究者たちの暮らしをなんとか支えてほしいという願いが透けてみえるようで悲しい。科学する心の大切さを漫然と話されても心には響かないのだ。
そもそもの何の疑いもないかのように、日本を技術立国と呼ぶこと自体があやしいものだとぼくは思っている。技術立国と呼んでいるその根拠について話せる人がどれだけいるのだろうか、なにをもって技術立国と定義しているのか。ハイテクの先端である半導体や液晶ディスプレイ産業を例にとるなら、製造業としての日本はもう上位の座を韓国、台湾のメーカーに奪われており競争力を失って久しい。携帯電話然り、PC産業然りである。かろうじてその川上に位置する部品産業はまだ競争優位を保っているようだが、需要の盛衰という意味では完全に新興国であるBRICs頼みの構図となっている。

ニホン人の多くが日本でしか通用しない規制に守られて、日本というガラパゴス島のなかで独自の進化を遂げ、独自になんとか生きてきたが、今、それが壊れつつあり、多かれ少なかれみんなが子泣き爺と化して既得権益にしがみつこうとしているのだ(悲しいかな、ぼくもその一部に含まれているのだろう。)
かつて幕末の志士たちにはなによりも次の時代をどうしようかという構想力があったと思う。それがいいか悪いか、正しいか正しくないかは別にして。デザイン力だけはみずみずしいまでに溢れていたと思うのだ。今の日本にはそれがない、というのはとてもさびしい。ものづくり、よりは、むしろデザイン力の復権こそ、とぼくは言いたい。

よしむね

大江戸温泉の無国籍化でブレードランナーのことなどを思いながらわしも考えた

最近、骨折快癒後の腰痛リハビリを兼ねて大江戸温泉に通っている。大江戸温泉が果たして本当の温泉なのか、なぜ大江戸温泉通いなのかにはとくに深い意味はない。比較的家から近いという利便性と手ごろさというのが選んだ理由の一番だ。それに湯による癒しは確かに腰痛には良いようだ。因みに僕の住まいは大田区だが、京浜地区にも近いエリアでいわゆる城南地区ということになる。

さて通いつめて常々思うのは、コンスタントに来ている外人客の存在だ。ここがどれほど日本在住の外人に知れ渡っているのか僕は知らないが、築地市場ほどとは言わないが、案外隠れ人気スポットだったりして! 来訪してくる外人の多様性もそれなりに面白い。会話から聞き取れるかぎりでも、いわゆるイングリッシュやアジア系(中国、台湾、韓国)に限らず、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語等々と思しきことばたちが結構渦巻いていたりするのだ。団体でやってくる客も結構いる。それだけ無国籍化しているわけだ。
この外人客の多さをグローバル化や経済の多様性と結びつけることもできようが、それよりも異邦人からみて大江戸温泉の持つコンセプトの分かり易さが一番の理由かもしれないな。温泉といういかにも日本的な「場」、しかもそこに江戸の持つ見世物屋的な雰囲気(因みにここでの浴衣は江戸時代の浮世絵を図案にした柄もの)が多少味付け演出されていること。そこにリトル・ジャパンのなにかの面影でも感じているのかどうか・・・・。造られているものは、どれも折衷的・ガラクタ的な模造建築でおよそ時代考証的にはいい加減な感じはするのだが。だがここではこれ以上大江戸温泉自体への考察は行わないつもり。
ぼくにとってむしろ興味惹かれるのは、大江戸温泉がいわゆる湾岸エリアの只中にある、という事実だ。江戸時代には存在しなかった海の上の埋め立て地に「大江戸」が存在するという皮肉、構図。

この湾岸というエリアは、特に90年代以降のパースペクティブのなかでは世界的に流行となった湾岸再開発のながれもあり、ほんとうは世紀末をまたいで輝かしい未来都市の何かにつながるはずだった。ウィリアム・ギブスンのSF「ニューロマンサー」のチバ・シティに代表されるような電脳空間のさきがけ、先端都市のイメージ。それをいま代表しているのはかろうじて世界のアキバかもしれないが。
だが結果として今ぼくらの目に映っている湾岸地帯とは、意味のない更地のうえに立つ空虚な記号としてのなにかの施設というビル建物だけとも言える。そこに大江戸温泉も位置しているのだ。たしかに未来にやってきて、ハコ(箱)だけが残ったのだ。

また無国籍化というと、ぼくも大好きなかつてのSF映画「ブレードランナー」(原作はフリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢をみるか?」)で描かれている未来都市のなかの屋台風景に通じるようなアジア的な混沌、猥雑なエネルギーみたいなものを想像したくなるが、お台場に代表されるのはそのような混沌とはおよそ対極にあるものだろう。むしろ無機的で人工的でそれがかもし出すどこか醒めた感じの匂いや距離感といったほうがより正確だろう。今では上海のガイタン地区に代表されるような中国沿岸部の成長性のほうが余程未来に通じる湾岸のイメージに近いであろうし、悲しいかなその意味で日本は国力の衰退をたどる以外に道はないともいえるかもしれないけど・・・・。

でも世の中に絶対というものはないし、かつてこうあれと思ったものが、そうなるとは限らない。今、若者を中心に、工場地帯を遊覧船で回る夜景クルーズツアーが流行っているという。工場地帯の持つ無機性に惹かれる若者が多いらしい。世代が違っても、ぼくもかれらの心情に通じるものは共有している。湾岸や工場がかもし出す廃墟を美しいと感じる心性たち、その群れ。それがまぎれもない今だとするなら、それが所詮かりそめの空虚な箱に過ぎないとしても、そこから出発するしかない、それを受け止めてゆくしかない、と思う。「未来の都市」なんてどこにも存在しないからだ。

よしむね