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雁金紋 -群れ飛ぶ雁に希望を仮託した紋- 柴田勝家、犬養毅、鳩山由紀夫...

群れをなして空を飛ぶ雁の家紋が雁金だ。

鳥に対する人間の願望が家紋として表出したのだと思う。
現代人の発想だと、鳥は自由の象徴ということになるのだが、昔はそうではなかった。

彼岸にいるであろう先祖との使者としての雁、仲良く群れをなす絆の強さの象徴としての雁。
そんなことを考えて家紋として採用したのであろう。

雁金紋で有名なのは、戦国武将の柴田勝家の「二つ雁金」だ。
この家紋の図案は、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した武将・勝家の悲劇を物語っているようにも見えるから不思議だ。

現在の県別分布では、雁金紋の発祥地・長野県と、何故か鹿児島県で比較的多い。
そういえば、梶紋も元々は長野県発祥の紋であるが、鹿児島県にも多い。
長野と鹿児島の間には何か独特の繋がりがあるのであろうか。

さて、雁金紋を持つ有名人は以下だ。


柴田勝家 。1522年 – 1583年6月14日、 武将・大名。
尾張国愛知郡上社村で土豪階層の家に生まれる。織田信長の家臣として近江、摂津など各地を転戦。長篠の戦いにも参加。信長死後、賤ヶ岳の戦い秀吉に敗れ越前北ノ庄にてお市と共に自害。家紋は二つ雁金。画像は勝家の孫・柴田勝重の墓所にて撮影。


平岩親吉 。1542年 – 1612年2月1日、 武将・大名。
三河国額田郡坂崎村で生まれる。家康の小姓として仕える。小田原征伐に戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。関ヶ原の戦い後甲府6万3,000石を、その後、犬山藩主として12万3,000石を領した。家紋は丸に結び雁金。


肝付直五郎 。1835年12月3日 – 1870年8月16日、 薩摩藩士。
生家は肝付家。後の小松帯刀。大河ドラマ「篤姫」では瑛太が演じる。この「尻合わせ四つ結び雁金」が家紋。また、別に鶴の丸紋も使用。ちなみに、小松家の養子入ってからの使用家紋は、「抱き鬼梶の葉」(抱き鬼菊の葉とも)。


花房義質 。1842年2月10日 – 1917年7月9日、 外交官。
岡山藩士で実業家、政治家・花房端連の長男。壬午事変では暴徒に包囲された公使館を脱出して命からがら帰国。事件の損害補償とともに漢城への日本軍駐留を認めさせる。宮内次官、日本赤十字社社長等を歴任。画像は池上本門寺にて撮影。


犬養毅 。1855年6月4日 – 1932年5月15日、 政治家。
備中国賀陽郡庭瀬村で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男。若槻礼次郎・民政党内閣が崩壊したため反対党(政友会)の総裁として第29代内閣総理大臣に就任。五一五事件で凶弾に倒れる。家紋は嘴合わせ三つ雁金。画像は青山霊園にて撮影。


高田実 。1871年5月8日 – 1916年5月24日、 新派俳優。
東京生まれ。川上音二郎一座の「日清戦争」で李鴻章に扮したのが出世役。大阪で成美団を結成。評論「自然主義新演劇を唱ふ」を発表、関西新派の中心俳優として活躍し「新演劇の団十郎」と呼ばれた。家紋は丸に結び雁金紋。画像は金嶺院にて撮影。


小泉策太郎 。1872年12月3日 – 1937年7月28日、 政治家。
静岡県賀茂郡出身。漁師の9人兄弟の長男。『自由新聞』に入社し、幸徳秋水らと親交を持つ。立憲政友会に所属し、田中義一総裁実現に尽力。政界の策士と異名を取る。若き日の林房雄を、共産党運動から転向させたという。家紋は丸に捻り雁金紋


寺田寅彦 。1878年11月28日 – 1935年12月31日、 随筆家。
高知県出身。土佐藩士族・寺田利正の息子。安岡章太郎、別役実とは親戚。夏目漱石の『吾輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデル。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉。家紋は二つ雁金紋。寺田寅彦記念館にて確認。


芦田均 。1879年10月1日 – 1941年8月22日、 政治家。
芦田家は京都府福知山市の豪農。読みは、あしだひとし。敗戦直後の日本政治の中心の1人。社会党・片山哲内閣を引き継ぎ、第47代内閣総理大臣となるが昭和電工事件により総辞職、逮捕される。家紋は桜輪に結び雁金。画像は総持寺にて撮影。


竹田敏彦 。1891年7月15日 – 1961年11月15日、 小説家。
香川県仲多度郡多度津町生まれ。本名は敏太郎。「大阪毎日新聞」記者をへて新国劇に入り文芸部長を務める。のち小説家として多くを書いた。代表作は「薔薇夫人」「母は強し」。家紋は亀甲に頭合わせ三つ雁金紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


瀧口修造 。1903年12月7日 – 1979年7月1日、 美術評論家。
富山県婦負郡寒江村大塚出身。3人姉弟の長男。近代日本を代表する美術評論家、詩人、画家。戦前・戦後の日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱。治安維持法違反容疑で特高に逮捕された。家紋は二つ雁に沢瀉紋。墓所の写真にて確認。


鳩山由紀夫 。1947年2月11日 – 、 政治家。
東京都小石川出身。父・鳩山一夫は初代自民党総裁、第52・53・54代内閣総理大臣。弟・邦夫は元総務相、文相。自身は民主党代表(第2・7代)、内閣総理大臣(第93代)を歴任。家紋は尻合わせ三つ結び雁金紋。画像は谷中霊園の鳩山家の墓所にて撮影。


池畑慎之介 。1952年8月8日 – 、 歌手、俳優、タレント。
大阪府出身。ピーターという芸名も使う。上方舞吉村流四世家元・吉村雄輝 の長男。両親離婚後、母方の池畑姓を名乗る。画像の結び雁金は「父親から譲り受けて、ピーの芸紋にした」と記したブログ記事より。元々は父の養父・高田実(新劇俳優)の家紋。


陣内栄 。大正年間8月1日 – 8月、 「サマーウォーズ」登場人物。
戦国時代から続く陣内家の16代目当主。元教師で、教え子には政治家、官僚、地方の実力者なども多く、政財界に幅広い人脈を持つ。一族はもとより、国を動かせるだけの影響力をもっている。吹き替えは富司純子。家紋は右向き結び雁金紋と変り六文銭紋。

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亀甲紋 -北方を守護する玄武の力にあやかった紋- 浅井長政、手塚治虫、羽生善治...

亀甲紋は、北方を守護する玄武(亀)を表象する紋である。

出雲神社、香取神宮の神紋として知られている。
おそらく、元々、出雲大社は大陸(半島)、香取神宮は蝦夷(東北地方)に対する守りという意味があったのであろう。

ただ、この形状自体が美しいデザインのため、企業のマークとしても使用されている。
例えば、醤油でお馴染みのキッコーマンのマーク。
昭和のはじめに創業者の茂木佐平次が、香取神宮の氏子だったことから亀甲紋をマークに、採用したとのことである。

また、商標、後には会社名としても採用した。

また、ビデオレンタルのゲオ。
こちらのマーク、隅立ての3つの正方形のように見えるが、実は、創業者の遠藤結城氏の家紋であった三つ盛り亀甲のイメージをそのマークに込めたとのことである。

全国では20位。特に多い地域は、秋田県(15位)、徳島県(16位)、北海道(17位)、青森県(17位)、愛知県(17位)、佐賀県(17位)、山形県(18位)、島根県(18位)、香川県(18位)、千葉県(19位)といったところか。

さて、この紋を持つ有名人は以下の通り。


浅井長政 。1545年 – 1573年9月26日、 戦国大名。
近江国出身。浅井久政の嫡男として南近江観音寺城下に出生。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させる。織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが後に信長と決裂。姉川合戦に敗れ追い詰められ自害し滅亡。家紋は三盛亀甲花菱。


直江兼続 。1560年 – 1620年1月23日、 戦国時代武将。
越後国出身。戦国から安土桃山時代にかけて上杉家の生存を賭けた戦いと外交に尽力。2009年の大河ドラマ「天地人」では、妻夫木聡が演じた。三つ盛り亀甲の中の文様は細い葉説と剣花菱説がある。画像は墓所で撮影した三盛亀甲紋。


安松金右衛門 。1611年 – 1686年10月24日、 藩士、郡代。
河内国出身、生国は播磨国。安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し、名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。玉川上水・野火止用水の開削を行う。「算術の達人」と称された。家紋は一重亀甲に左三つ巴紋。平林寺の墓所にて撮影。


竹本義太夫 。1651年 – 1714年10月18日、 浄瑠璃太夫。
摂津国出身。両親は農家。読みは、たけもとぎだいゆう。大坂道頓堀に竹本座を開設し、『世継曽我』など、近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を上演した。浄瑠璃の義太夫節の創始者。家紋は竹亀甲に九枚笹。画像は回向院にて撮影。


川路聖謨 。1801年6月6日 – 1868年4月7日、 旗本、勘定奉行。
豊後国日田出身。読みは、かわじとしあきら。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ小普請組の川路家の養子となる。海防掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺にて撮影。


周布政之助 。1823年5月3日 – 1864年10月26日、 長州藩士。
長門国出身。藩士・周布吉左衛門の五男。周布氏は代々長州藩毛利家に仕えた家柄。財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力。禁門の変第一次長州征伐に際して事態の収拾に奔走。家紋は亀甲に久の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。


税所篤 。1827年12月22日 – 1910年6月21日、 武士、官僚。
薩摩国出身。藩士・税所篤倫の二男。読みは、さいしょあつし。戊辰戦争では新政府軍の軍事費工面などの財政処理を行う。維新後は、関西の各県令、知事、霧島神社宮司等を歴任。家紋は丸に亀甲に唐花紋、亀甲花崩し紋。画像は青山霊園にて撮影。


米倉一平 。1831年 – 1904年6月1日、 実業家。
豊後国出身。読みは、よねくらいっぺい。鳥羽・伏見の戦いで功をたてる。第五国立銀行取締役となり米穀市場を開き蠣殻町米商会所をおこし頭取となる。後に米穀取引所理事長などをつとめた。家紋は亀甲に唐花紋。画像は谷中霊園にて撮影。


岡内重俊 。1842年5月11日 – 1915年9月20日、 司法官。
土佐国土佐郡に藩士岡内清胤の長男として出生。読みは、おかうちしげとし。海援隊に入り秘書役として活躍。維新後、岩倉具視伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。家紋は丸に亀甲に武田菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。


千家尊福 。1845年9月7日 – 1918年1月3日、 宗教家、政治家。
出雲国出身。出雲大社宮司の家に生まれ教派神道出雲大社教を創始。貴族院議員、埼玉・静岡県知事、東京府知事、司法大臣を歴任。「年の始めの 例(ためし)とてで」始まる「一月一日」の作詞者。家紋は亀甲に剣花菱紋。青山霊園にて撮影。


原口兼済 。1847年4月2日 – 1919年6月18日、 陸軍軍人。
豊後国出身。森藩士・林寛吾の四男。同藩士・原口等の養子となる。西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行し樺太全土を占領。貴族院議員も務める。最終階級は陸軍中将。家紋は亀甲に木瓜紋。画像は青山霊園。


寺内正毅 。1852年2月24日 – 1919年11月3日、 政治家。
周防国出身。長州藩士宇多田正輔の三男。読みは、てらうちまさたけ。母方の寺内勘右衛門の養嗣子となる。陸軍大臣、外務大臣、韓国統監、朝鮮総督、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は亀甲に三つ柏紋。


磯野計 。1858年9月 – 1897年12月14日、 実業家。
美作国津山出身。父は津山藩士・磯野湊。読みは、いそのはかる。弁護士から郵便汽船三菱会社社員を経て、起業。横浜で明治屋を創業し、麦酒販売などを行なう。家紋は子持ち亀甲に三つ鱗紋。現在でも明治屋のロゴに三つ鱗が残っている。


下瀬雅允 。1859年7月11日 – 1911年9月6日、 発明家、工学博士。
安芸国出身。広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男。読みは、しもせまさちか。日露戦争における大戦果の一因とされた下瀬火薬を発明。実験事故で指を失ってもなお研究を続けたという。家紋は一重亀甲に右二つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


宮武外骨 。1867年2月22日 – 1955年7月28日、 ジャーナリスト。
讃岐国出身。庄屋宮武家の四男。読みは、みやたけがいこつ。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行い、たびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。家紋は亀甲に七曜紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


山田美妙 。1868年8月25日 – 1910年10月24日、 小説家。
武蔵国江戸神田出身。旧南部藩士・山田吉雄の長男。本名は山田武太郎。読みは、やまだびみょう。言文一致体、新体詩運動の先駆者。尾崎紅葉らとともに硯友社を結成。雑誌『我楽多文庫』を刊行。家紋は丸に三つ割亀甲に花菱紋。画像は染井霊園にて。


岩元禎 。1869年6月12日 – 1941年7月14日、 哲学者。
鹿児島県出身。士族の長男。読みは、いわもとてい。夏目漱石の『三四郎』の広田先生のモデル。極めて採点が厳しい名物教授として知られた。また、志賀直哉にドイツ語を教えた。主著は『哲学概論』。家紋は亀甲に花菱。画像は総持寺にて撮影。


馬場孤蝶 。1869年12月10日 – 1940年6月22日、 作家、翻訳家。
高知県出身。本名は勝弥。読みは、ばばこちょう。島崎藤村北村透谷上田敏らと雑誌「文学界」を創刊。本邦初訳のトルストイ『戦争と平和』を刊行。代表作は 『明治の東京』 『社会的近代文芸』 等。家紋は違い一重反り亀甲。画像は谷中霊園にて撮影。


畑英太郎 。1872年8月28日 – 1930年5月31日、 陸軍軍人。
福島県出身。会津藩士・警察官、畑能賢の長男。陸軍大臣陸軍大将・畑俊六は弟。軍事課長、航空局次長、軍務局長、陸軍次官、兼軍事調査委員長、第1師団長を歴任。最終階級は陸軍大将。家紋は亀甲に根笹紋。画像は多磨霊園にて撮影。


蒲原有明 。1875年3月15日 – 1952年2月3日、 詩人。
東京市麹町隼町に蒲原忠蔵の息子として出生。本名、隼雄。象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され北原白秋三木露風らに影響を与えた。家紋は亀甲に梅鉢紋。画像は麻布・賢崇寺の墓所にて撮影。


平福百穂 。1877年12月28日 – 1933年10月30日、 日本画家。
秋田県角館出身。本名は貞蔵。読みは、ひらふくひゃくすい。自然主義的写生画を目指し自然主義と古典が融合した作品を生み出す。また、伊藤左千夫と親しく歌人としても活動した。家紋は陰亀甲に隅立て陰四つ目結紋。画像は多磨霊園にて撮影。


冠松次郎 。1883年2月4日 – 1970年7月28日、 登山家。
東京府出身。読みは、かんむりまつじろう。日本アルプスや奥秩父の渓谷の多くを遡行し、優れた記録や紀行文を残した。登山の中に沢登りという日本独自の分野を開く。黒部の父とも呼ばれる。代表作は『黒部渓谷』『剣岳』等。家紋は三つ盛亀甲紋。


山本宣治 。1889年5月28日 – 1929年3月5日、 政治家。
京都府宇治に料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松の長男。日本共産党系の労農党の京都府連合会委員長。衆議院議員として治安維持法改正などに反対するが、「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。家紋は一重亀甲に右寄り三階松紋。


丸山敏雄 。1892年5月5日 – 1951年12月14日、 宗教家、教育家。
福岡県豊前市合河町出身。倫理研究所の前身・新世文化研究所を設立し、社会教育、研究、文化、出版等の事業を行なう。後に、日本全国に50,000社を擁する倫理研究所として発展させる。家紋は一重亀甲に左寄り三階松紋。画像は多磨霊園にて撮影。


中川一政 。1893年2月14日 – 1991年2月5日、 洋画家、美術家。
東京府本郷に生まれ、岸田劉生に見出されて画家を志す。多彩な作品を制作し、全てが独学であり自ら「在野派」と称した。妻は千田是也の姉の暢子。次男・は映画監督中川晴之助。孫に女優の中川安奈。家紋は亀甲に花菱紋。雑司が谷霊園にて撮影。


甲賀三郎 。1893年10月5日 – 1945年2月14日、 推理作家。
滋賀県蒲生郡日野町出身。生家は、甲賀郡水口藩の藩士であった井崎家。本名は春田能為。読みは、こうがさぶろう。江戸川乱歩と並び本格派の探偵小説に取り組んだ。代表作は「琥珀のパイプ」「支倉事件」など。家紋は一重亀甲に立ち沢瀉紋。


相良守峯 。1895年4月14日 – 1989年10月16日、 独文学者。
山形県鶴岡市出身。読みは、さがらもりお。東京大学名誉教授、従三位・勲二等瑞宝章・文化勲章受章。木村謹治とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれた。また、日本独文学会の創設にも貢献した。家紋は亀甲に花菱紋。


玉川勝太郎(2代) 。1896年5月1日 – 1969年8月13日、 浪曲師。
東京府牛込区の生まれ。本名は石渡金久。17歳で初代に入門。師匠譲りの関東節任侠物を磨き上げ、『清水次郎長伝』『国定忠治』などを十八番にした。弟子には玉川良一、玉川ゆたか等がいる。家紋は三つ盛亀甲紋。画像は寛永寺第二霊園にて撮影。


堀越二郎 。1903年6月22日 – 1982年1月11日、 航空技術者。
群馬県藤岡市出身。三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて革新的な設計を行う。零式艦上戦闘機の設計主任として知られる。また『風立ちぬ』(宮崎駿著)の主人公としても有名である。家紋の丸に三つ盛り亀甲は多磨霊園の墓所にて撮影。


小林多喜二 。1903年10月13日 – 1933年2月20日、 小説家。
秋田県北秋田郡下川沿村生まれ。4歳の時に北海道・小樽に移住。伯父からの学資を受け小樽高等商業学校へ進学。『蟹工船』を発表し一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集める。非合法の日本共産党に入党。治安維持法違反容疑で逮捕され獄死。


塚本憲甫 。1904年9月16日 – 1974年6月7日、 医学者。
東京府出身。ノンフィクションライターの塚本哲也は長女ルリ子の夫。放射線医学総合研究所の二代目所長、国立がんセンター病院長を歴任するが、自身が癌に罹り在職のまま死去した。家紋は一重亀甲に違い笏紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


立原道造 。1914年7月30日 – 1939年3月29日、 詩人、建築家。
東京市日本橋区橘町出身。家系は桓武平氏の一家系 常陸平氏・大掾氏の一門 鹿島氏の庶流 立原氏。代表詩集『ゆふすげびとの歌』『萱草に寄す』『曉と夕の詩』。家紋は三つ盛り亀甲紋。上の紋は花菱、下の二つは角字(平と東)。画像は多宝院にて撮影。


古橋廣之進 。1928年9月16日 – 2009年8月2日、 水泳選手。
静岡県浜名郡雄踏町出身。水泳界で次々と世界記録を打ち立ててフジヤマのトビウオの異名を取った。日本水泳連盟会長、JOC会長を歴任。家紋は亀甲に花菱紋。画像は「週刊現代」2012年7月21日28日合併号の「著名人のお墓巡り」の記事より。


手塚治虫 。1928年11月3日 – 1989年2月9日、 漫画家。
大阪府出身。5歳から兵庫県宝塚市に育つ。代表作は、『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『ブッダ』『マグマ大使』『どろろ』『ブラック・ジャック』等、多数。ストーリー漫画の父と言われている。家紋は細輪に三つ盛亀甲紋。画像は巣鴨・摠禅寺にて撮影。


有吉佐和子 。1931年1月20日 – 1984年8月30日、 小説家。
和歌山県和歌山市出身。曽祖父は長州藩士の有吉熊次郎。カトリック教徒。『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり文壇デビュー。代表作は『紀ノ川』『恍惚の人』。家紋は一重亀甲に並び矢。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


松永高司 。1936年6月6日 – 2009年7月11日、 実業家。
東京都目黒区出身。松永4兄弟で全日本女子プロレスを創業し、社長・会長を務めた。「女子プロレスの父」の異名を持つ。後に、フジテレビでの試合中継も実現させて女子プロブームを興した。北斗晶のブログの墓参り写真より、家紋は亀甲に花菱紋と判断。


梅宮辰夫 。1938年3月11日 – 、 俳優。
満州・ハルビン市出身。茨城県水戸市で育つ。本名は梅宮辰雄。タレント・モデルの梅宮アンナは娘。代表出演作は『人生劇場 飛車角』『仁義なき戦い』。テレビドラマ、CMでも活躍。家紋は丸に三つ盛り亀甲紋。画像は小平霊園の梅宮家の墓所にて撮影。


落合博満 。1953年12月9日 – 、 プロ野球選手、監督。
秋田県南秋田郡若美町出身。現役時代はロッテ、中日、巨人、日本ハムなどで活躍。3度の三冠王に輝く。2004年から中日ドラゴンズ監督。3度のリーグ優勝に輝く。家紋は息子・福嗣の自伝「フクシ伝説」の表紙の紋付より亀甲と判断。中は梅鉢か。


田中好子 。1956年4月8日 – 2011年4月21日、 女優、歌手。
東京都足立区梅田出身。実家は田中屋釣具店。本名は、小達好子。アイドル歌手でキャンディーズのメンバー。主な出演映像作品は『おしん』『黒い雨』『家なき子』など多数。家紋は亀甲に小の文字紋。画像は、多磨霊園の小幡家の墓所にて撮影。


原由子 。1956年12月11日 – 、 ミュージシャン。
神奈川県横浜市出身。サザンオールスターズのメンバー。本名は、桑田由子。キーボード担当。ソロ作品も数年置きのペースでリリースしている。家紋の亀甲に花菱紋は、生家・原家の家紋。1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


青木達之 。1966年8月15日 – 1999年5月2日、 ドラマー、作曲家。
東京都出身。日本を代表するスカバンド、「東京スカパラダイスオーケストラ」の結成当時からのドラマーとして活躍。小泉今日子などにも曲を提供。列車事故で急逝。画像は多磨霊園の青木家の墓所にて撮影。亀甲紋であることが確認できる。


羽生善治 。1970年9月27日 – 、 将棋棋士。
埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持。通算タイトル獲得数は、大山康晴に次ぎ歴代2位。数々の実績から、将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。紋付姿の写真より、家紋は亀甲に梅紋と判断。


丹下左膳 。江戸時代、 剣士。
作家・林不忘の新聞連載小説、およびその作品内の主人公。隻眼隻腕の異様な姿の剣士。手塚治虫も同名の作品を漫画化している。映画では団徳麿、嵐寛寿郎、大河内傳次郎、阪東妻三郎等が主役を演じている。家紋は一重亀甲に二引両紋。

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蝶紋 -優美さと物悲しさ漂わせる紋所- 大谷吉継、芹沢鴨、小村寿太郎、船越英一郎...

家紋の中で一番、優美なのがこの蝶紋である。

一般的には、平家の代表紋と言われている。
確かに、公家で平家流の平松家、西洞院家などはこの紋を使用しているが、実際、武家の桓武平氏では、この紋はそれほど普及しているわけではない。

ただし、織田信長のように、後から平氏を自称した諸家では、この紋を定紋としたようである。

ところで、よく見ると、揚羽蝶紋で描かれている蝶の目はどこか物悲しい。
壇ノ浦で滅んだ平家を哀れんでいるかのようでもある。

全国分布だが、県別家紋数では、まんべんなく20位~30位くらいの位置をキープしている。
敢えて言えば、三重県(18位)、鹿児島県(18位)、岐阜県(19位)、群馬県(20位)、石川県(20位)などが20位以内に入っている。
逆に宮崎県、徳島県ではベスト30にも入っていない。

さて、この紋を使用している有名人だが以下が確認できている。


織田信長 。1534年5月12日 – 1582年6月2日、 戦国武将。
古渡城主・織田信秀の次男または三男として出生。日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて世に多大な影響を残した武将、大名(戦国大名)。重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い自刃に追い込まれた。画像は信長の陣羽織より。


長谷川等伯 。1539年 – 1610年3月19日、 絵師。
能登国七尾出身。当時の主流・狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち独自の画風を確立。晩年、利き腕である右手の自由を失う。代表作『旧祥雲寺障壁画』『松林図屏風』『花鳥図屏風』。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は京都・本法寺にて撮影。


佐野房綱 。1558年 – 1601年7月31日、 武将。
佐野宗綱の弟。佐野氏は秀郷流の系統。藤姓足利氏の庶流。豊臣秀吉に仕え、小田原征伐のとき、功績により、佐野氏の領地である唐沢山城と3万9000石の所領を安堵される。戦国時代においては、剣術の達人の一人であったと言われている。


大谷吉継 。1559年 – 1600年10月21日、 武将・大名。
近江国出身。秀吉の小姓となり、出世。九州征伐で功を上げ、5万石を与えられ、敦賀城主となる。賤ヶ岳の戦いの際には長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させる。関が原の戦いでは西軍に与し、破れる。家紋は向かい蝶紋。


池田輝政 。1565年1月31日 – 1613年3月16日、 武将・大名。
織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれた。家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。関ヶ原の戦いでは徳川方に与する。また、姫路城を形に改築。家紋は揚羽蝶(左画像は姫路城の瓦の揚羽蝶)、備前蝶。


松平信綱 。1596年12月19日 – 1662年5月4日、 老中。
武蔵国出身。別名・松平伊豆守信綱、知恵伊豆徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として生まれ、松平正綱の養子となる。家光の信を受け武蔵忍藩主、武蔵川越藩主となる。家紋は高崎扇と伊豆蝶紋。画像は菩提寺・平林寺の大河内家墓所にて撮影。


荷田春満 。1669年2月3日 – 1736年8月8日、 国学者・歌人。
京都の神官の子。賀茂真淵本居宣長平田篤胤と共に国学の四大人の一人。賀茂真淵は弟子。主著は『春葉集』『創学校啓』『伊勢物語童子問』。赤穂義士に吉良義央在宅確実の茶会の日を教えたという。画像は養子・在満の墓所にて撮影。


伊勢貞丈 。1718年1月29日 – 1784年7月15日、 有職故実研究家。
伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄。伊勢平氏・平維衡の後裔と言われる名門で江戸時代には徳川氏に仕え中世以来の武家を中心とした制度・礼式を伝える家として残る。「貞丈雑記」「安斎雑考」「軍用記」等を残す。家紋は向かい蝶紋。


大塩平八郎 。1793年3月4日 – 1837年5月1日、 町奉行所与力。
大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。大塩家は代々与力として禄を受けていた。天保の大飢饉の際、人民救済のために大塩平八郎の乱を起す。その乱の際、元々の大塩家の家紋の蝶の丸ではなく桐紋を旗印にした。


芳村伊三郎 。1800年 – 1847年7月27日、 長唄の師匠。
上総出身。芳村伊千五郎が4代目伊三郎を襲名。歌舞伎の世話物の名作「与話情浮名横櫛」(別名お富与三郎)のモデル。春日八郎のヒット曲『お富さん』はこの演目からセリフを取り入れている。家紋は三つ盛り揚羽蝶。画像は品川・天妙国寺にて撮影。


関鉄之介 。1824年12月7日 – 1862年6月8日、 勤王志士。
水戸上町出身。水戸藩士・関新兵衛昌克の子。読みは、せきてつのすけ。水戸学の影響を受けて尊王攘夷運動に乗り出した。桜田門外の変で実行隊長として襲撃を指揮し、井伊直弼を暗殺した。桜田十八士の一人。家紋は揚羽蝶紋。


芹沢鴨 。1827年 - 1863年10月28日、 幕末の水戸藩浪士。
中世に興起した常陸国芹沢村の豪族、芹沢氏から発祥した水戸藩上席郷士、芹沢家の当主貞幹の三男として生まれた。江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加。新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長。暗殺される。


川崎八右衛門 。1834年12月 – 1907年1月13日、 実業家。
茨城県東茨城郡茨城町出身。川崎家は水戸藩第二藩主光圀の時代にとりたてられる。幕末に水戸藩の鋳銭事業に着手、家業である廻船事業をはじめ事業を拡大し東京川崎財閥の前身・川崎組、川崎銀行の創始者となる。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


谷万太郎 。1835年 – 1886年6月30日、 新選組隊士。
備中国出身。松山藩士・谷三治郎供行の二男。兄は谷三十郎、弟は谷周平。三兄弟とも新選組隊士。池田屋事件では土方歳三隊に属し活躍。兄・三十郎の死後には新選組を離脱した。維新後は、大坂で町道場を経営した。家紋は上下向い蝶紋。


山城屋和助 。1836年 – 1872年12月29日、 陸軍省御用商人。
周防国玖珂郡出身。医師・野村信高右の四男。本名は野村三千三。読みは、やましろやわすけ。奇兵隊に入隊し山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦。長州人脈を活かして兵部省御用商人となるが汚職が発覚し自殺。野村家の家紋は浮線蝶紋。


池田章政 。1836年6月16日 – 1903年6月5日、 藩主。
肥後国人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し藩内における信望もあった。明治維新後は侯爵に叙任、従一位・勲一等・麝香間祗候。家紋は池田向い蝶紋。画像は谷中霊園の長男・池田政保の墓で撮影。


チャリヘス 。1838年 – 1897年、 料理人。
スイスのチューリッヒに生まれ、フランスのパリでコックの修業を積み、上海を経て1869年頃に来日。築地精養軒の料理顧問となる。日本におけるフランスパンの開祖として今に語り伝えられる。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園内の外人墓地にて撮影。


池田謙斎 。1841年12月22日 – 1918年4月30日、 医者。
越後国出身。入沢健蔵の次男として生まれ、当時幕府付の医員であった池田多仲の養子となり、適塾へ入学。医学校と東京開成学校の統合により設立された東京大学の初代医学部綜理に就任。家紋は備前蝶紋。画像は谷中霊園にて撮影。


武井守正 。1842年5月5日 – 1926年12月4日、 政治家、実業家。
姫路藩出身。父は士・武井領八。幕末には勤王派として国事に奔走し捕らえらるが維新後出獄し新政府に出仕。鳥取県知事、石川県知事、貴族院勅選議員を歴任。実業界に転じ帝国海上保険などを創立。家紋は花形蝶紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。


吉田清成 。1845年3月21日 – 1891年8月3日、 武士、官僚。
薩摩藩出身。藩の留学生として英米に留学。帰国後、大蔵省に出仕して租税権頭・大蔵少輔を歴任。外務大輔に任命され、井上馨外務卿の元で条約改正にあたる。「吉田清成文書」は有名。家紋は丸に浮線蝶紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


柳川一蝶斎(3代) 。1847年11月 – 1909年2月17日、 手品師。
江戸神田の御用金物屋・青木常次郎の子。本名は青木治三郎。太神楽・曲芸の一座と共に欧州巡業に出る。獅子の曲、独楽の曲など日本手品を得意とし、とりわけ和紙の切れを扇であおいで蝶の飛ぶさまに見せる芸は見事であった。家紋は備前蝶紋。


平田東助 。1849年3月26日 – 1925年4月14日、 官僚・政治家。
山形県米沢出身。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。大逆事件が発生した際は内相として犯人検挙を指揮。山縣有朋の側近として貴族院および宮中における重鎮として元老に次ぐ影響力を保ち続ける。護国寺の墓所も山縣有朋の墓の近くにある。


グラバー・ツル 。1851年 – 1899年3月23日、 女性。
旧士族・談川安兵衛の養女。幕末に長崎を拠点として活躍した英国商人トーマス・ブレーク・グラバーの妻。倉場富三郎の母親。プッチーニのオペラ、『蝶々夫人』の蝶々さんのモデルとされる。家紋は蝶紋と言われている。


小村寿太郎 。1855年10月26日 – 1911年11月26日、 外務大臣。
日向国飫肥藩に下級武士の子として生まれる。大学南校(東京大学の前身)入学。ハーバード大学へ留学。第1次内閣の外務大臣に就任。日英同盟を積極的に主張。日露戦争における戦時外交を担当し、ポーツマス条約の全権委任大使となる。


城泉太郎 。1856年8月17日 – 1936年1月8日、 教育者。
越後長岡藩士・河井資信の長男として生まれる。河井継之助は親戚筋。徳島慶應義塾の二代目校長となる。後に英学の教師をし、自由民権運動に携わる。『通俗進化論』、翻訳書『経世危言』を刊行。家紋は丸に揚羽蝶紋。墓所のある禅林寺にて撮影。


尾崎行雄 。1858年12月24日 – 1954年10月6日、 政治家。
相模国津久井県出身。議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」と呼ばれる。家紋は鬼蔦と五つ蝶紋。青山霊園の義父の尾崎三良の墓所にて撮影。


片岡直温 。1859年10月13日- 1934年5月21日、 実業家、政治家。
土佐国出身。読みは、かたおかなおはる。加藤高明内閣にて、商工大臣として初入閣。若槻内閣で大蔵大臣を務めた際、その失言により、内閣が総辞職に追い込まれた。実業家としては日本生命社長を務めた。家紋は片岡兄弟顕彰碑写真より揚羽蝶紋と判断。


矢部辰三郎 。1863年 – 1924年3月29日、 海軍軍医。
岡山出身。海軍大軍医、軍医校教官、海軍軍医総監、海軍軍医総監等を歴任。フランスのパスツール研究所に日本人第一号として留学し「免疫」という訳語はじめて使用した。最終階級は海軍軍医中将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


千葉胤明 。1864年7月14日 – 1953年6月25日、 歌人。
肥前佐賀出身。最初、佐野常民に師事、竜地会事務職に就く。高崎正風に師事し、和歌を学ぶ。宮内省御歌所勤務。御歌所寄人を務める。明治天皇御製編纂に従事し、後に長く歌会始点者も務める。家紋は浮線蝶紋。画像は青山霊園にて撮影。


山路愛山 。1865年1月23日 – 1917年3月15日、 評論家、歴史家。
江戸淺草出身。幕臣・山路一郎の子。徳富蘇峰の知遇をえ國民新聞記者として政治および史論に筆をとる。日露戦争勃発と同時に『日露戦争實記』を発刊し草木皆兵を論じ愛国心を鼓舞した。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


神戸寅次郎 。1865年1月24日 – 1939年5月17日、 法学者。
静岡県出身。法学科第一期生として慶應に入学。慶應義塾大学新設にあたり法学部教授兼法学部長に就任し慶應義塾学事顧問を務めた。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


平沼騏一郎 。1867年10月25日 – 1952年8月22日、 政治家。
岡山県津山市出身。日本の官僚で第35代内閣総理大臣。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、A級戦犯で訴追され終身刑の判決を受けた。衆議院議員・平沼赳夫は平沼騏一郎の兄・平沼淑郎の曾孫。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


岡本綺堂 。1872年11月15日 – 1939年3月1日、 小説家、劇作家。
東京高輪に生まれて麹町に育つ。英公使館に勤めていた元徳川家御家人、岡本敬之助の長男。本名は岡本敬二。24年間、東京日日新聞の記者として過ごす。代表作は岡っ引捕り物小説の『半七捕物帳』。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


塩田広重 。1873年10月14日 – 1965年5月11日、 外科学者。
京都府生まれ。東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授および同学長を兼任した。胃腸手術の権威として知られる。狙撃された浜口雄幸の治療をしたことでも有名。また老人学の草分けでもある。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。


曽我廼家五九郎 。1876年4月12日 – 1940年7月7日、 喜劇俳優。
徳島県麻植郡鴨島村出身。本名は武智故平。壮士芝居を経て、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名乗る映画『ノンキナトウサン』シリーズが大当たり。トウサン役は五九郎の当たり役となる。家紋は揚羽蝶紋。


小松従志 。1883年1月16日 – 1943年8月5日、 伯爵。
東京府出身。読みは、こまつじゅうし。西郷従道の六男。明治維新の功労者・小松帯刀の子・重春の養子として継爵し伯爵となる。小松家の嫡流の家紋は抱き梶の葉紋であるが、従志の家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


今村均 。1886年6月28日 – 1968年10月4日、 陸軍軍人。
宮城県仙台区出身。父は裁判官の今村虎尾。最終階級は陸軍大将。占領地での軍政統治能力は名将との評価を受ける。水木しげるは「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評した。家紋は浮線蝶紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。


光用穆 。1887年3月10日 – 1943年10月12日、 小説家、翻訳家。
新潟県高田市出身。読みは、みつもちきよし。早稲田大学文学部を出た後、中央新聞に入社し短編小説を数編、書く。葛西善蔵、相馬御風、広津和郎らとともに同人誌「奇蹟」に関わる。H・G・ウェルズの『宇宙戦争』を翻訳した。家紋は揚羽蝶紋。


南雲忠一 。1887年3月25日 – 1944年7月8日、 海軍軍人。
山形県米沢市出身。旧米沢藩士南雲周蔵の次男。真珠湾にあるアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の母港を奇襲攻撃、開戦劈頭の勝利を飾るがミッドウェー海戦では大敗を喫する。最終階級は海軍大将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は鎌倉・円覚寺にて撮影。


一龍斎貞丈(4代) 。1889年 – 1931年12月23日、 講釈師。
本名は、安原大二郎。亭号を昇龍斎として、昇龍斎貞丈と名乗った。5代目・一龍斎貞丈の師匠にあたる。講釈は、日本の伝統芸能のひとつで、高座におかれた釈台と呼ばれる小さな机の前に座り、軍記物や政談を読み上げる。家紋は丸に揚羽蝶紋。


池田義信 。1892年3月10日 – 1973年9月1日、 映画監督。
長野市宇木出身。本名は義臣。栗島すみ子の夫。松竹蒲田撮影所にはいり、11年の「生(な)さぬ仲」で初監督をする。代表作は「船頭小唄」「いろはにほへど」「不如帰」「真珠夫人」。家紋は丸に揚羽蝶。画像は池上本門寺にて撮影。


池田亀鑑 。1896年12月9日 – 1956年12月19日、 国文学者。
鳥取県日野郡福成村出身。「源氏物語」研究の権威で文献学の知見を日本古典文学研究に導入。「源氏物語大成」全8巻を刊行、異本を比較して古典の原型を明らかにする文献批判学研究を行う。紫式部学会の創設する。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


神谷正太郎 。1898年7月9日 – 1980年12月25日、 実業家。
愛知県知多郡横須賀町出身。トヨタ自動車系ディーラーの礎を一代で築き上げ、その豪腕から「販売の神様」と称される。「一にユーザー、二にディーラー、三にメーカーの利益を考えよ」との名言を残す。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。


安藤鶴夫 。1908年11月16日 – 1969年9月9日、 小説家、評論家。
東京市浅草区向柳原町に、義太夫の八代目竹本都太夫の長男として出生。古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒。芸人の好き嫌いが激しかった。『巷談本牧亭』で直木賞受賞。小林信彦、高田文夫等に影響を残す。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。


トニー谷 。1917年10月14日 – 1987年7月16日、 コメディアン。
東京市京橋区銀座に生まれ、小伝馬町に育つ。本名は大谷正太郎。戦後日本の特殊状況を鋭く批評するキャラクターを構築したゲテモノ芸人。リズムに乗りソロバンをかき鳴らす珍芸が売。妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。


宮尾登美子 。1926年4月13日 – 2014年12月30日、 小説家。
高知県高知市生まれ。『連』で婦人公論女流新人賞を受賞。『櫂』が太宰治賞を受賞。作品のテーマは一貫して女性である。代表作は『櫂』『鬼龍院花子の生涯』『宮尾本 平家物語』『天璋院篤姫』『義経』など。家紋の揚羽蝶紋は宮尾家の家紋。


阿佐田哲也 。1929年3月28日 – 1989年4月10日、 小説家、雀士。
東京都新宿区出身。本名は色川武大。色川名義の作品も多かった。代表作は「怪しい来客簿」「離婚」(直木賞受賞作品)「狂人日記」「麻雀放浪記」「次郎長放浪記」。雀聖と呼ばれた。家紋は中陰対い蔦蝶。画像は谷中墓地にて撮影。


萬屋錦之介 。1932年11月20日 – 1997年3月10日、 俳優。
東京府出身。初名・中村錦之助。父は吉右衛門。本名は小川錦一。昭和時代劇を代表する大スター。代表出演映画『宮本武蔵』『風雲児 織田信長』。代表出演テレビドラマは『子連れ狼』『破れ奉行』等。画像は鎌倉霊園の墓所にて撮影。


小山明子 。1935年1月27日 – 、 女優。
千葉県出身。本名は大島 明子。旧姓・臼井。夫は映画監督の大島渚。代表出演作は『絞死刑』『世なおし奉行』など。1969年には『少年』で毎日映画コンクールの助演女優賞を受賞した。家紋の揚羽蝶紋は大島渚の葬儀時の紋付にて判断。


張本勲 。1940年6月19日 – 、 元プロ野球選手、野球解説者。
広島県広島市出身。プロ野球時代には、安打製造機の異名を取り、日本プロ野球で3000安打を記録している唯一の選手。引退後は、プロ野球解説者として活躍。画像は夫人の墓(張本家の墓)にて撮影。家紋の揚羽蝶は”張”の読みから使用か?


中村吉右衛門(2代) 。1944年5月22日 -、 歌舞伎役者、俳優。
藤間久信→波野久信→波野辰次郎と改名。歌舞伎では『勧進帳』『義経千本桜』の武蔵坊弁慶が当たり役。また、テレビドラマでは池波正太郎原作『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵役で有名。画像の揚羽蝶は青山霊園・初代の墓所にて撮影。


大場久美子 。1960年1月6日 -、 女優、歌手。
埼玉県川口市出身。『あこがれ』で歌手デビュー。一億人の妹というキャッチフレーズで、多くのヒット曲を生み出した。代表出演作は『コメットさん』。家紋の丸に揚羽蝶紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


船越英一郎 。1960年7月21日 – 、 俳優。
神奈川県足柄下郡湯河原町出身。本名は船越栄一郎。父は俳優の船越英二、母は長谷川裕見子。大叔父は長谷川一夫。2時間ドラマへの出演が顕著で、「2時間ドラマの帝王」等の異名を持つ。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は父・船越英二の墓所にて撮影。


中村獅童(2代) 。1972年9月14日 -、 歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「レッドクリフ」など。萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね




何故、福男選びは足が不自由な恵比寿様の前で行われるのか

昨日、恒例の開門神事福男選びがあった。

西宮神社は”えべっさん”(恵比寿様)を奉る神社である。
ご存知の通り、恵比寿様は、イザナギ命とイザナミ命との間に生まれた最初の子である。
ところが、不具であったため葦の舟に入れて流され、この西宮に漂着し、海を司る神として祀られたという。

そのために、恵比寿像は座っている、あるいは膝立ちしている。
(写真はJR恵比寿駅前にある恵比寿像)
すなわち、恵比寿様は足が不自由な神様なのである。

さて、開門神事福男選びであるが、元々、1月9日の夜は、”えべっさん”が市中を廻られるということで、氏子は家に篭る風習があったという。
おそらく、その篭りには、”えべっさん”の不恰好な徘徊を見ては失礼だという氏子達の配慮という面もあったのではないかと、僕は思う。

そして、その忌篭りが解かれたと同時に、氏子達は、一斉に神社まで駆ける。
その風習が、現在の開門神事福男選びの起源ということなのだ。
     ◆
しかし、よく考えてみれば、足が不自由な”えべっさん”を前にして、氏子が足を競うというのはどこかおかしくないか。
普通の感覚ならば、逆にえ”べっさん”は嫉妬すると思うのだが。
例えば、弁財天をカップルでお参りすると、そのカップルは別れるという伝説があるみたいに。
しかし、逆に言えば、開門神事の賑わいは、そんな人間の無作法な行事を許してくれるほど”えべっさん”は太っ腹な神様、という事の証明なのではないだろうか。
それだけ太っ腹だからこそ、どんな人に対しても大漁安全、商売繁盛を約束してくれるのだ。
     ◆
あるいは、”えべっさん”は自らの御足を、ある種、スケープゴードにすることによって、氏子に健脚を保障したのかもしれない。
雛人形の川流しが元々、それらを生贄にすることによって、子供達の健康を守るように。
あるいは、縄文時代の土偶は必ず体の一部が壊されて、埋められたという話を聞いたことがある。
それは次に生れてくる子が、五体満足に生れてくるようにとの願いが込められていたというのだ。
     ◆
本当の事はわからない。

もしかしたら、何も考えないで、いつの間にか、なんとかく、そういう儀式になったのかもしれない。
おそらく、その確率が高い。
しかし、そうだとしても、それはそれで、日本的なおおらかさがあって、僕は好きである。

まさむね

西郷隆盛の銅像はなぜ上野の山にあるのか

正月に、たけしの”教科書に載らない”日本人の謎~篤姫はなぜ上野の山に眠るのか~を見た。

東京(江戸)の真北(北辰の位置)にある日光・東照宮、鬼門にある東叡山・寛永寺、裏鬼門の増上寺等が江戸を霊的に守っていることを比較的よく知られている。
また、平将門の体の各部位を奉る神社が、以下のようにそれぞれ五街道の出発点に存在させることによって、悪鬼が江戸に侵入するのを防ごうとしたという話は、「神社の系譜」(宮元健次著)に詳しい。

首塚(首) -大手門(奥州道)
鳥越神社(手)-浅草橋門(奥州道)
神田神社(胴)-神田橋門(日光道)
世継稲荷神社(首桶)-田安門(中山道)
筑土八幡神社(足)-牛込門(中山道)
兜神社(兜) -虎ノ門(東海道)
鎧神社(鎧) -四谷門(甲州道)

「神社の系譜」より

番組では、そういった江戸の霊的な守備陣営を紹介し、その一環として、寛永寺に13代将軍家定と篤姫が埋葬されていて、江戸を守っているという説明がされていた。
確かにその通りだろうし、興味深い話ではある。
しかし、僕としては、さらにもう一歩進めた推理を展開して欲しかったのも事実だ。

さて、上記の「神社の系譜」の最終章にはさらに面白い事実が指摘されている。
かの靖国神社(=東京招魂社)は、最初、彰義隊と官軍との戦い(上野戦争)で火の海と化した上野の寛永寺に営むことになっていたというのだ。
陸軍参与の木戸孝允がその決定をしたらしいのだが、おそらく彼は、寛永寺に換わる江戸の総鎮守として、官軍兵士を顕彰する神社を建てようとしたのだと思う。
しかし、その決定は上野戦争での功労者である大村益次郎の主張によって、現在の九段に再決定することになる。
「上野の山は、徳川軍の霊のさまよう『亡魂の地』だから」というのがその理由だったらしい。

しかし、僕は、当時の明治政府には、徳川の墓所をつぶして、その場所に自分達のための霊的施設を営むだけの自信がなかったのではないかと思う。
まだ、江戸には徳川親派が数多く潜伏している状況の中で、そのあたりに関して、センシティブにならざるを得なかったのであろう。
新政府は、上野の山には手を付けられなかったのである。
そして、その後の明治6年、この上野の山は公園として庶民に解放されることになる。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!とは、後の文学者・梶井基次郎の言葉であるが、彰義隊員の戦死の記憶は、江戸時代から有名だった上野の桜として記録されることになるのだ。

徳川の墓所は、こうして、上野に残存を許されたのである。
「篤姫はなぜ上野の山に眠るのか」と言うのならば、このあたりまで踏み込んでもらいたかった。

一方、九段には、靖国神社(=東京招魂社)が建てられるが、「神社の系譜」によると、その位置は浅草寺(寛永寺の前の江戸総鎮守)から見て、冬至の太陽が沈む方向に、そしてその参道は神田明神に続くような方角に延びているという。
すなわち、靖国神社は、浅草寺と神田明神という江戸の2大パワースポットから力をもらえるような位置、設計になっているというのである。
靖国神社は、徳川以前から存在していた江戸の地霊と真っ向対決するのではなく、協調する姿勢を見せているのだ。

ただし、その後(明治26年)、靖国神社境内に大村益次郎の銅像が建立される。
その視線は、上野の方角に向け、手には双眼鏡を持っている。
一方で地霊とは協調しながら、ここでは、逆にしっかりと徳川の霊に睨みを効かせているのが面白い。
徳川の復帰は認められないが、江戸の人々は味方に付けたかったという思惑が垣間見れるからだ。

さて、大村益次郎の銅像が建てられてから5年後、上野の山には、西郷隆盛の銅像が建てられる。
西郷と言えば、上野戦争で徳川軍を攻めた官軍の参謀であり、彰義隊を壊滅させた男である。
しかも、その後、西南戦争を起こして、新政府にとっても賊軍とされた男である。ちなみに靖国神社に彼の御霊は祭られていないのは有名な話である。
その西郷の銅像はなぜ、上野という地に建てられたのか。
一説によると西郷が上野の山によく散歩に出かけたからというが、どうも、その説には迫力が無い。

僕が思うに、日本には昔から「夷をもって夷を制す」という発想があるが、明治政府は、西郷という傑出した荒魂の力で、彰義隊の魂を未来永劫封じ込めようとしたのではないだろうか。
あるいは、敢えて、犬を連れた着流し姿という隙の多い銅像にすることによって、彰義隊にとって、いつでも殺れるようにと、西郷を差し出したのかもしれない。ようするに、徳川の霊の機嫌をとりたかったのかもしれない。そういえば、位置関係でも、南を向いている西郷像のすぐ背後に彰義隊の墓があるではないか。
申し訳ないが、僕には、ここで、真偽を語るほどの知見はない。

次回は、西郷隆盛の銅像はなぜ、上野の山にあるのか。という番組を、是非やってもらいたいと思うだけである。

まさむね

巣鴨地蔵通り商店街にある紋所

巣鴨地蔵通り商店街はおばあちゃんの原宿と言われるだけあって、物凄い平均年齢の高い人口密集道路である。
僕は1月4日の朝9:30頃に行ってみたのだが、それでも大変な混雑だった。
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この商店街の両脇には煎餅屋とか人形焼屋とか、漬物屋、衣料品店、お土産屋などが並んでいる。
ここだけ昭和の匂いがする。
多分、他の商店街に比べて、店の人の売り声が大きいのと、値札と看板の文字も大きいからそう感じるのだろうか。

僕は、商店街にある家紋を見て歩く。
まずは、商店街に入ってすぐに左にある大きな漬物屋・河村屋さんの蕪の紋所。
おそらくこれは商標なのだろう。紋所というよりは、デザインされた社標だ。

さらに、その先にあったのが、ゼイタク煎餅と人形焼の向井商店さんの分銅紋。
この紋は、公平誤りのない心情を表すといわれ、武士魂を象徴する紋だったらしい。(「家紋を読む」能坂利雄著参照)
おそらく、向井商店さんも、商売に対する誠実さを現したかったじゃないかな?

さらに、しばらく行くと右側に塩大福のみずのさんがある。
ここの紋は、おそらくオリジナルで、水という字をデザインしたものかと思われる。

そして、その先に、とげ抜き地蔵(秘仏)があるのある高岩寺がある。
紋所は檜扇紋だ。そういえば、この商店街の提灯も檜扇が使われている。

ところで、この高岩寺は曹洞宗の寺院、だから境内には稲荷神社があった。
曹洞宗は、実はこの稲荷神社とタイアップする事によって、勢力を伸ばしたんだよね。愛知県にある豊川稲荷は、名前からすると神社だけど、実は曹洞宗の寺院なのである。豊川稲荷は江戸に進出し、大ブレイクした。
曹洞宗と言えば一般的には、厳しい禅修行の世界が思い浮かぶが、一方で、ビジネスに対して積極的であることでも知られているのだ。
例えば、ここの高岩寺のとげぬき地蔵もそうだけど、他に大船観音も曹洞宗の寺院、一般民衆へのアピール(と同時に、御布施集め)に長けている。
また、この高岩寺の近くの曹洞宗の寺院、總禅寺は手塚治虫の墓所があることで知られているが、墓地に入るだけで、線香代ということで200円かかる。
一方、昨年の11月、曹洞宗配下の駒沢大学が、投資に失敗して154億円の損出を出したという事件もあったけど...これはあんまり関係ないか。
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昨年に行った人形町以上に、庶民の街、巣鴨。
家紋も既成のものをそのまま権威として使うのではなく、わかりやすくオリジナル化しているところに特徴があった。

まさむね