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鱗紋 -北条家とモンゴル、その因縁の紋- 正岡子規、川端康成、白鵬...

三つ鱗紋は北条家の紋として知られている。

その昔、北条時宗が家運興隆を祈念して、江ノ島弁才天に参った際に、女房が現れた。
その女房が北条家の家運上昇を予言した後、大蛇になって海中に姿を消した。
そして、その後に残った鱗三枚を持ち帰って北条家の家紋としたというのである。

この三つ鱗は、北条氏が滅びた後も、戦国時代の後北条家も含め家紋として採用した。
今でも、弁財天では波と組み合わせて三つ鱗紋を定紋としている。
写真は、吉祥寺の弁財天の提灯。

さて、この三つ鱗だが、モンゴル出身の横綱・白鵬の紋である。
今から700年前の元寇を迎え撃った北条時宗と同紋というのは、これいかに。

横綱になったことで、日本を制圧したことの印として元寇の復讐を果し、念願の相手の大将の家紋を奪い取ったということなのだろうか。
あるいは、この三つ鱗を身に付けることによって、日本の味方になり、もう一人の横綱・朝青龍を迎え撃つ覚悟の印として三つ鱗を採用したということなのか。

いずれにしても、興味深い。

また、19世紀初末のウィーン分離派の巨匠・クリムトの「幸福への憧れ」にも三つ鱗と同様の文様が見られる。
実際、日本の家紋台帳はヨーロッパに輸出され、アール・デコの芸術家のネタ本になっていたという。
もしかしたら、この絵画に描かれている三つ鱗は、クリムトが、日本美術に影響を受ていたということの証なのかもしれない。

さて、鱗紋の全国分布だが、福岡、大分、大阪、和歌山、三重、神奈川で30位に入っている。
ちょうど、瀬戸内海を通って、太平洋に出て関東までのルートにこの紋が散見されるというのも、面白い。
元々、海上民のシンボルだったのかもしれない。

鱗紋を持つ有名人は以下だ。


北条高時 。1303年 – 1333年7月4日、 武士。
第9代執権北条貞時の三男。鎌倉幕府第14代執権在任中に奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱、正中の変、元弘の変が起きる。新田義貞の鎌倉へ侵攻の際、菩提寺の鎌倉・東勝寺にて自刃。画像はその東慶寺にて撮影した北条鱗紋。


北条早雲 。1432年 – 1519年9月8日、 武将、戦国大名。
室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自。関東一円を支配する戦国大名に成長する北条氏の基礎を築いた。早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。後北条家の家紋は北条鱗(ただし早雲の使用は未確認)。


種子島時堯 。1528年 – 1579年10月21日、 種子島の領主。
種子島氏の第十四代領主。島津氏に属した。種子島に漂着したポルトガル商人から鉄砲を購入。鉄砲を分解させて調べさせ鉄砲製造に成功。種子島銃は、戦国時代に大きな影響を及ぼす。画像は青山霊園の種子島家分家の墓所にて撮影。


平野長泰 。1559年 – 1628年6月8日、 武将。
尾張津島の出身で、若年にて秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」と称えられた。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。徳川秀忠旗下で旗本として仕え、子孫は九代続いて明治まで生き残る。


横井小楠 。1809年9月22日 – 1869年2月15日、 儒学者。
肥後国出身。横井家は桓武平氏北条氏嫡流に発する。松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕政改革をする。また、私塾「四時軒」を開き坂本龍馬井上毅らにも影響を与える。家紋は丸に三つ鱗紋。


島田魁 。1828年2月29日 – 1900年3月20日、 新選組隊長。
美濃国方県郡出身。庄屋近藤伊右衛門の次男。名古屋城内の御前試合で優勝し大垣藩の嶋田才に見初められ養子となり嶋田家を継ぐ。江戸に出て心形刀流を修得。箱館まで戊辰戦争を戦い抜く。西本願寺の夜間警備員として一生を終える。


児島惟謙 。1837年3月7日 – 1908年7月1日、 司法官。
宇和島藩出身。宇和島藩士・金子惟彬の二男。津田三蔵によるロシア皇太子暗殺未遂事件(大津事件)の際には大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き護法の神と評価された。家紋は三つ鱗紋。画像は品川・海晏寺にて撮影。


山縣有朋 。1838年6月14日 – 1922年2月1日、 政治家。
萩城下近郊の阿武郡出身。長州藩の中間・山縣有稔の長男。奇兵隊に入って頭角を現し新政府では日本陸軍の基礎を築き国軍の父と称される。内閣総理大臣(第3、9代)。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に大和桜紋と三つ鱗紋。画像は護国寺にて撮影。


南貞助 。1847年 – 1915年、 英語学者、実業家。
長州藩出身。高杉晋作の義弟。(高杉の父親・小忠太の妹の子で、養子となる。)イギリスに留学。日本で始めて国際結婚(相手は英国人ライザ・ピットマン)をしたことで知られている。家紋は丸に一つ鱗紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


磯野計 。1858年9月 – 1897年12月14日、 実業家。
美作国津山出身。父は津山藩士・磯野湊。読みは、いそのはかる。弁護士から郵便汽船三菱会社社員を経て、起業。横浜で明治屋を創業し、麦酒販売などを行なう。家紋は子持ち亀甲に三つ鱗紋。現在でも明治屋のロゴに三つ鱗が残っている。


横井時敬 。1860年1月29日 – 1927年11月1日、 農学者。
肥後熊本藩士横井久右衛門時教の四男。種籾の塩水選種法を考案。東京農業大学学長として日本最初の私立農学校を大学に昇格させる。「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」という名言を残す。家紋は丸に三つ鱗紋。画像は多磨霊園にて撮影。


入沢達吉 。1865年1月31日 – 1938年11月8日、 医師。
越後国出身。父恭平は藩医。宮内省侍医局勤務後、入沢内科を創始・主宰。日本内科学の確立に貢献。十二指腸虫の感染経路追究などの寄生虫症、レントゲン診断学応用、血色素測定法などの研究をする。家紋は北条鱗紋。画像は谷中霊園にて撮影。


正岡子規 。1867年10月14日 – 1902年9月19日、 俳人・歌人。
伊予国温泉郡出身。松山藩士・正岡常尚の長男。本名は常規。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い日本の近代文学に多大な影響を及ぼす。家紋は丸に鷹の羽紋と丸に三つ鱗紋。画像は子規系図の三つ鱗紋。


川崎卓吉 。1871年3月8日 – 1936年3月27日、 官僚、政治家。
広島県賀茂郡広村に医師の二男として出生。福島県知事、台湾総督府内務局長、殖産局長を歴任。第1回選抜中等学校野球大会の始球式を務めた。政治家としては民政党幹事長、文部大臣、商工大臣を務める。家紋は丸に三つ鱗紋。青山霊園にて撮影。


河東碧梧桐 。1873年2月26日 – 1937年2月1日、 俳人・随筆家。
愛媛県温泉郡千船町にて河東坤の五男として出生。正岡子規に野球を教わる。同級生の高浜虚子を誘い子規より俳句を学ぶ。子規が没すると新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。家紋は丸に三つ鱗紋、副紋は笹竜胆紋。


南俊二 。1882年9月28日 – 1961年12月29日、 実業家。
大阪府出身。製鉄業、砂金鉱業、セメント業に携わった後に、大阪造船所設立。戦後は南氷洋漁業権を確保。億万長者の一人に数えられた。合理的節倹主義の経営方針をつらぬく。日本造船工業常任理事。瓜輪に三つ鱗紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


御船千鶴子 。1886年7月17日 – 1911年1月19日、 超能力者。
熊本県宇土郡松合村にて、漢方医・御船秀益の二女として生まれる。三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見して謝礼2万円を得る。東京帝国大学の福来友吉助教授が「透視」の研究に彼女を使う。家紋は六つ鱗紋。


川端康成 。1899年6月14日 – 1972年4月16日、 小説家。
大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に医師の子として生れる。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『古都』など日本の美を表現した作品を発表。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞。家紋は北条鱗、画像は鎌倉霊園にて撮影。


西竹一 。1902年7月12日 – 1945年3月22日、 陸軍軍人。
東京市麻布区麻布笄町出身。男爵西徳二郎の三男。通称:バロン西。ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。第二次世界大戦に従軍、硫黄島の戦いで戦死。家紋は三つ鱗紋。鱗の背景の草は月桂樹か。画像は青山霊園にて撮影。


横井英樹 。1913年7月1日 – 1998年11月30日、 実業家。
愛知県中島郡の貧しい農家に生まれ東京日本橋の繊維問屋に丁稚奉公。進駐軍出入りの商人となり一財産を築く。白木屋の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出を行う。ホテルニュージャパンの買収で脚光を浴びた。画像は多磨霊園にて撮影。


緒形拳 。1937年7月20日 – 2008年10月5日、 俳優。
東京府東京市牛込区出身。1965年、大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢される。『楢山節考』『火宅の人』で日本アカデミー賞最優秀男優賞受賞。代表出演作品は『鬼畜』『復讐するは我にあり』など多数。家紋の丸に三つ鱗紋は獅子吼霊園にて撮影。


ジャガー横田 。1961年7月25日 – 、 女子プロレスラー。
東京都荒川区出身。本名は、木下利美。初代全日本シングル王者、WWWA世界シングル王座など数々のタイトルを獲得。現在はタレントとしても活躍。愛息・大維志君の七五三時の黒紋付の家紋より、三つ組み合わせ鱗紋と判断。


白鵬翔 。1985年3月11日 – 、 大相撲力士。
モンゴル・ウランバートル市出身。父ジグジドゥ・ムンフバトはモンゴル相撲で6度の優勝。メキシコ五輪のレスリング重量級でも銀メダリストの国民的英雄。第69代横綱。歴代の不知火型・横綱では史上最多の優勝回数を誇る。家紋は丸に三つ鱗紋。


黒川圭介 。1890年頃 – ?、 「風立ちぬ」の登場人物
宮崎駿の漫画「風立ちぬ」の登場人物。主人公・堀越二郎の上司。仕事に対して厳しい反面、二郎の天才性を高く評価しドイツ留学を推薦した。また、二郎と菜穂子との結婚の仲人を務める。その結婚式の時に使用した提灯、妻の紋付より三つ鱗紋と断定。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね




扇紋 -佐竹家を800年以上も守った魔除け紋- 佐竹義宣、福田康夫、タモリ...

昔の貴人は、いつも扇で顔を隠していた。
そして、骨の隙間から外を見ていた。

扇というのは、魔除け用グッズだったのである。
ちなみに、とげ抜き地蔵で有名な巣鴨・高岩寺の寺紋は檜扇紋である。
同時に巣鴨通り商店街の提灯にも檜扇が描かれている。
そのデザインは”おばあちゃんの原宿”を演出しているのだ。
左写真は、高岩寺内で撮影。

一方、鎌倉時代の最初から、大政奉還まで生き延びた大名の佐竹家の家紋は代々扇に月丸紋であった。
「吾妻鏡」には、佐竹四郎が、源頼朝からこの紋を賜ったとの記述がある。
佐竹家を守ってきたのは、その扇の魔力だったのかもしれない。

扇紋は全国では、23位だ。特に突出して多い地域は無いが比較的西日本に多い。京都府、山口県、熊本県で18位が最高、和歌山県(19位)、高知県(20位)といったところが目立つ。佐竹藩のお膝元の秋田県は27位と少ないが、元お膝元の茨城県は21位と比較的多い。

扇紋を使用した有名人は以下。


長野業政 。1491年 – 1561年12月28日、 戦国時代の武将。
長野憲業の子として出生。本姓は在原氏で、祖先は在原業平と称する。官位は伊予守。長野氏は上野西部の豪族で、周囲の国人の取りまとめ役のような立場であった。勢力としては関東管領・山内上杉家に属していた。上野国・箕輪城主。家紋は檜扇。


古田織部 。1544年 – 1615年7月6日、 戦国時代の武将。
茶人の古田重定の子。信長秀吉の家臣だが一般的には茶人として有名。利休七哲の一人。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、茶器製作・建築・造園などにわたって織部好みと呼ばれる一大流行をもたらした。家紋は三つ引両紋と丸に地紙紋。


角倉了以 。1554年 – 1614年8月17日、 豪商。
近江国犬上郡吉田村出身。本姓は吉田氏。佐々木氏の分家。朱印船貿易の開始とともに安南国などとの貿易を行う。幕命により大堰川、富士川、高瀬川、天竜川等の開削を行った。家紋は扇地紙に片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園の別の角倉家墓所にて撮影。


佐治一成 。1569年 – 1634年11月16日、 武将、大名。
尾張佐治氏は、知多半島の大野を中心とする西海岸地域を領する一族。浅井長政の娘・江を妻に迎える。本能寺の変で、織田信長横死後、次男・織田信雄に仕える。家紋は日の丸扇紋。顔画像は大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」で一成を演じた平岳大。


佐竹義宣 。1570年8月17日 – 1633年3月5日、 武将、大名。
父・義重の隠居により家督を相続し、佐竹氏十九代当主となる。豊臣秀吉の小田原征伐の際に参陣し所領を安堵された。関ヶ原の戦い時に西軍の立場に立つが、父が東軍についたため出羽・久保田21万石へ減転封されるものの家名存続は許された。


秋田実季 。1576年 – 1660年1月11日、 武将、大名。
安東愛季の長男。読みは、あきたさねすえ。豊臣秀吉より出羽・秋田5万2千石の安堵を認められたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康に常陸・宍戸に転封される。嫡男の俊季の代に陸奥・三春に移され、幕末まで存続した。家紋は檜扇に違い鷲の羽紋。


松平信綱 。1596年12月19日 – 1662年5月4日、 老中。
武蔵国出身。別名・松平伊豆守信綱、知恵伊豆徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として生まれ、松平正綱の養子となる。家光の信を受け武蔵忍藩主、武蔵川越藩主となる。家紋は高崎扇と伊豆蝶紋。画像は菩提寺・平林寺の大河内家墓所にて撮影。


貝賀友信 。1650年 – 1703年3月20日、 侍。
赤穂藩浅野家家臣吉田助兵衛の二男として誕生。本姓は藤原氏。貝賀新兵衛の養子となる。読みは、かいがとものぶ。穂藩では中小姓・蔵奉行。赤穂四十七士の一人。吉良義央邸討ち入りでは弥左衛門は表門隊に属し、門の警戒にあたった。家紋は重ね扇紋。


岡本黄石 。1811年 – 1898年4月12日、 家老。
彦根藩家老・宇津木久純の子。岡本業常の養子。読みは、おかもとこうせき。攘夷を促す建白を行い、藩主・井伊直弼に疎まれるが桜田門外の変の後は藩政を主導。戊辰戦争の際には藩論を新政府軍側にまとめた。家紋は檜扇紋。画像は豪徳寺にて撮影。


高橋多一郎 。1814年 – 1860年4月13日、 水戸藩士。
水戸藩士・高橋諸往の長男。藤田東湖らに学び、尊王攘夷論に傾倒。安政の大獄で水戸藩への弾圧を強める井伊大老を倒すために暗躍。薩摩藩士・有村雄助らと共に井伊大老暗殺を計画し、関鉄之介らと桜田門外の変を起こす。家紋は高崎扇紋。


仁礼景範 。1831年4月6日 – 1900年11月22日、 海軍軍人。
薩摩藩士の子弟。読みは、にれかげのり。総理大臣斎藤実の義父。薩英戦争に参加。横須賀鎮守府長官、海軍大学校長などを歴任。第2次伊藤内閣の海軍大臣に就任し、海軍備の充実に力を注いだ。家紋は筋入り三本骨三つ扇紋。画像は青山霊園の墓所にて。


三遊亭圓朝(初代) 。1839年5月13日 – 1900年8月11日、 落語家。
江戸出身。父は橘屋円太郎。本名は出淵次郎吉。歴代の名人の中でも筆頭に巧いとされる。「芝浜」「文七元結」「牡丹燈籠」等を創作。言文一致体を一代で完成させ現代の日本語の祖といわれる。家紋は高崎扇。画像は全生庵の墓所にて撮影。


別府晋介 。1847年 – 1877年9月24日、 薩摩藩士。
薩摩国鹿児島郡吉野村出身。桐野利秋は従兄。戊辰戦争では、川村純義指揮の元、勇戦した。外務大丞・花房義質の随員として朝鮮を視察。西南戦争では、篠原国幹・村田新八らとともに薩摩方につき、最後、西郷隆盛を介錯した。家紋は、丸に日の丸扇紋。


渡辺洪基 。1848年1月28日 – 1901年5月24日、 政治家、教育者。
越前国出身。医者の長男。読みは、わたなべひろもと。岩倉具視欧米使節団に随行。東京府知事、東京帝国大学初代総長などを務める。工手学校(工学院大学の前身)を築地に設立。家紋は三つ日の丸雁木扇紋。画像は青山・長谷寺の墓所にて撮影。


浅野総一郎 。1848年4月13日 – 1930年11月9日、 実業家。
越中国氷見郡出身。医師淺野泰順の長男。妻は板垣退助の四女。長女、マツは穂積八束妻。浅野セメントを核として、浅野財閥を一代で創設する。川崎市にある扇町は、家紋の扇紋にちなむ。家紋は半開きの扇紋ということから浅野扇紋と判断。


矢野龍渓 。1851年1月2日 – 1931年6月18日、 官吏、著作家。
豊後・佐伯藩の中級武士の家系。本名は矢野文雄。読みは、やのりゅうけい。大蔵省に入るが、明治十四年の政変で政界を追われる。東京専門学校設立に携わり役員に就任。主著は『経国美談』。家紋は三つ追い雁木扇紋。画像は多磨霊園にて撮影。


北里柴三郎 。1853年1月29日 – 1931年6月13日、 細菌学者。
熊本県阿蘇郡出身。評論家・蔵原惟人は甥。破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。「細菌学の父」として知られる。北里研究所、慶應大学医学部を創設。家紋は檜扇に左三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて。


金子堅太郎 。1853年3月13日 – 1942年5月16日、 官僚・政治家。
福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男。岩倉具視欧米使節団に同行して米国留学。伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に参画。専修大学創立に携わる。日本大学初代校長、二松學舍大学舎長も務める。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


小藤文次郎 。1856年4月8日 – 1935年3月8日、 地球科学者。
石見国津和野出身。読みは、ことうぶんじろう。地質学、鉱物学、火山学、地震学など、幅広く学び、濃尾地震の際に、発生から約2週間後に現地入りして調査を行い、後にその結果から断層地震説を発表。家紋は地紙に文字紋。画像は多磨霊園にて撮影。


橘家圓喬 。1865年12月26日 – 1912年11月22日、 落語家。
東京出身。本名は柴田清五郎。7歳の若さで三遊亭圓朝(初代)門下に入門。「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」を得意とした。後世に大きな影響を与えた名人。「魚売人」「二人癖」など20種類ほどのSPレコードを遺している。家紋は三遊亭と同じ高崎扇紋。


徳富蘆花 。1868年12月8日 – 1927年9月18日、 小説家。
肥後国出身。父は横井小楠門下の俊英、徳富一敬。本名は徳富健次郎。読みは、とくとみろか。思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰(猪一郎)は実兄。自然詩人として出発し、小説『不如帰』はベストセラーになった。家紋は丸に扇紋。蘆花記念館で確認。


久原房之助 。1869年7月12日 – 1965年1月29日、 政治家。
山口県萩市出身。鮎川義介は義兄。日立、日産創立の基盤となった日立銅山や久原財閥の総帥として鉱山王の異名を取る。政治家としても逓信大臣、立憲政友会総裁を歴任。二・二六事件にも深く関与したという。家紋は五つ雁木扇紋。肖像画像にて確認。


吉住小三郎(4代) 。1876年12月15日 – 1972年2月27日、 唄方。
東京生まれ。吉住勘四郎の子。長唄の唄方。東京音楽学校長唄選科教授、日本芸術院会員、人間国宝、文化勲章受章、文化功労者。代表作曲「鳥羽の恋塚」「醍醐の花見」「新平家物語」等。家紋は三本並び扇紋。画像は南麻布・西福寺にて撮影。


中野正剛 。1886年2月12日 – 1943年10月27日、 政治家。
福岡県出身。父は旧福岡藩士中野泰次郎。読みは、なかのせいごう。東京日日新聞、朝日新聞で政治評論を行う。政治家になってからは東條首相の独裁に反対。倒閣工作を謀った容疑で憲兵に拘束され自殺。家紋は丸に中陰地紙に橘紋。画像は多磨霊園。


満谷国四郎 。1874年11月10日 – 1936年7月12日、 洋画家。
備中国賀陽郡門田村出身。1900年に、水彩画「蓮池」をフランスで開かれた大博覧会へ出品して三位になり銅メダルを獲得した。代表作は「車夫の家族」「椅子による裸婦」など。家紋は丸に重ね五本扇紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


曾我廼家五郎 。1877年9月6日 – 1948年11月1日、 喜劇役者。
大阪府堺市か岸和田市出身の二説あり。本名は和田久一。日露戦争をネタにした「無筆の号外」が大当たりした。自らが選んだ脚本を、三十六歌仙にあやかり「36快笑」として天満天神に奉納する。家紋は扇を浮線蝶の擬態に使用した浮線扇紋。


岩井粂三郎(5代) 。1882年6月28日 – 1945年4月13日、 役者。
東京浅草の花川戸に出生。本名は岩井久次郎。父親は四代目岩井粂三郎。屋号は大和屋。当たり役は『伽羅先代萩』の政岡や『嫗山姥』の八重桐。告別式で大名跡・九代目・岩井半四郎が追贈された。谷中・本寿寺の岩井家の墓所の家紋は三つ追い雁木扇紋。


宮原晃一郎 。1882年9月2日 – 1945年6月10日、 文学者、翻訳家。
鹿児島県出身。本名は知久。読みは、みやはらこういちろう。「海の子」を作詞し文部省の懸賞に応募。尋常小学唱歌に登用される。新聞記者を経て翻訳家となる。代表作は「竜宮の犬」など。家紋は丸に三つ扇紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


賀屋興宣 。1889年1月30日 – 1977年4月28日、 政治家。
広島市出身。父は国学者の藤井稜意。母の伯父の賀屋姓を継ぐ。読みは、かやおきのり。戦前は大蔵大臣として軍事費中心の予算を組みA級戦犯に指名されたが、戦後は右派系自民党議員として活躍。家紋は丸に二つ日の丸扇地紙紋。画像は多磨霊園にて撮影。


山口多聞 。1892年8月17日 – 1942年6月6日、 海軍軍人。
東京市小石川区出身。旧松江藩士の山口宗義の子。読みは、やまぐちたもん。軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任。太平洋戦争では真珠湾攻撃に参加。ミッドウェー海戦で戦死。最終階級は海軍中将。家紋は檜扇紋。画像は青山霊園にて撮影。


堀内寿郎 。1901年9月17日 – 1979年6月27日、 理学博士。
北海道札幌市出身。読みは、ほりうちじゅろう。科学反応速度理論の研究では世界的な功績を残した触媒研究の世界的な権威。湯川秀樹らと共に第30回恩賜賞を受賞。北海道大学学長も務める。家紋は高崎扇紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


浪越徳治郎 。1905年11月15日 – 2000年9月25日、 指圧師。
香川県仲多度郡多度津町出身。東京市小石川区に指圧学校を設立。マリリン・モンローに素手で触って指圧した唯一の日本人。「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」は得意フレーズ。家紋は丸に五本扇紋。画像は小石川・伝通院の墓所にて撮影。


武藏山武 。1909年12月5日 – 1969年3月15日、 大相撲力士。
神奈川県橘樹郡日吉村の農家に生まれる。本名は横山武。新十両・新入幕・新三役など全てで当時の最年少記録を樹立。最高位は第33代横綱。幕内戦歴は174勝69敗2分71休。幕内最高優勝1回。家紋は丸に雁木檜扇紋。画像は日吉・金蔵寺にて撮影。


新藤兼人 。1912年4月22日 – 2012年5月29日、 映画監督。
広島県佐伯郡出身。本名は新藤兼登、読みはしんどうかねと。妻は乙羽信子。社会派の映画監督の巨匠。代表作品は『裸の島』『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』『午後の遺言状』『一枚のハガキ』等。家紋は浅野扇紋。画像は鎌倉霊園にて撮影。


田中英光 。1913年1月10日 – 1949年11月3日、 作家。
東京市赤坂区出身。ただし両親は高知県の出身。息子は推理小説家、SF小説家の田中光二。太宰治に弟子入り。その自殺に大きな衝撃を受け後に禅林寺の太宰の墓前で自殺する。代表作『酔いどれ船』『愛と憎しみの傷に』。家紋は隅切り角に地紙。


高木彬光 。1920年9月25日 – 1995年9月9日、 推理小説作家。
青森県青森市出身。医者の家系。本名は高木誠一。『能面殺人事件』で第3回探偵作家クラブ賞を受賞。代表作は『人形はなぜ殺される』『成吉思汗の秘密』『白昼の死角』等。家紋は隅切り角に重ね地紙。地紙とは扇に貼る紙。画像は大吉寺にて撮影。


寺田ヒロオ 。1931年8月4日 – 1992年9月24日、 漫画家。
新潟県新発田市出身。本名は、寺田博雄。漫画「まんが道」、映画「トキワ荘の青春」などで、伝説的なトキワ荘のリーダーとして描かれている。代表作は『背番号0』『暗闇五段』等。家紋は五本骨日の丸扇紋。画像は茅ヶ崎・浄見寺の墓所にて撮影。


バーブ佐竹 。1935年2月7日 – 2003年12月5日、 歌手。
北海道釧路市出身。本名は佐武豊。『女心の唄』でレコードデビュー。250万枚を超える大ヒットとなり、翌年の第7回日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も『ネオン川』『カクテル小唄』がヒット。家紋は五本扇に月紋。墓所画像にて確認。


松尾和子 。1935年5月17日 – 1992年9月25日 歌手。
東京都大田区出身。「誰よりも君を愛す」(和田弘とマヒナスターズとの共唱)が大ヒットし、スターダムにのし上がり、後にムード歌謡の女王と称される。その後も「お座敷小唄」「再会の朝」等のヒットを飛ばす。家紋の丸に地紙紋は杉並の西照寺にて撮影。


福田康夫 。1936年7月16日 – 、 政治家。
東京府東京市世田谷区に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる。内閣総理大臣(第91代)。『低炭素社会』を目指す「福田ビジョン」を提唱した。 家紋は丸に五本骨扇紋。家紋画像は福田家の菩提寺・徳昌寺(群馬県高崎市)の墓所にて撮影。


尾上菊五郎(7代) 。1942年10月2日 – 、 俳優、歌舞伎役者。
東京都出身。本名は寺島秀幸。屋号は音羽屋。妻は、富司純子。長女は女優の寺島しのぶ、長男は歌舞伎俳優の五代目尾上菊之助。いわゆる、三之助の一人。家紋は重ね扇に抱き柏紋。画像は雑司が谷霊園の五代目尾上菊五郎の墓所にて撮影。


タモリ 。1945年8月22日 – 、 お笑いタレント、司会者。
福岡県福岡市南区出身。本名は森田一義。株式会社田辺エージェンシー所属。『笑っていいとも!』『ミュージックステーション』『タモリ倶楽部』『世にも奇妙な物語』でMCを務める。「笑っていいとも!」にて家紋は丸に五本骨扇であることを告白。


三遊亭小遊三 。1947年3月2日 -、 落語家。
山梨県大月市出身。本名は天野幸夫。古典落語専門で、長屋ものを得意としている。1983年(昭和58年)3月 真打昇進・同年10月16日から『笑点』にレギュラー出演を続ける。東京オリンピックの聖火ランナーに抜擢されている。家紋は高崎扇紋。


井上純一 。1958年8月14日 -、 俳優。
東京都世田谷区松原出身。元妻は女優・声優の戸田恵子。『恋人ならば』でソロレコードデビュー。映画『はつ恋』にていきなりの主演も果たす。家紋の三つ扇紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


原田真二 。1958年12月5日 -、 シンガーソングライター。
広島県広島市榎町出身。1977年に吉田拓郎プロデュースにより「てぃーんず ぶるーす」でデビュー。「キャンディ」「シャドー・ボクサー」とヒットを飛ばす。家紋の丸に五本扇紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。


藤森慎吾 。1983年3月17日 – 、 コメディアン、司会者。
長野県諏訪市出身。愛称は「しんご」。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。中田敦彦と組んだオリエンタルラジオのツッコミ担当。『武勇伝』ネタで有名。「笑っていいとも!」にて家紋は家紋は五瓜に檜扇であることを告白。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
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鶴紋 -最も優美で華やかな紋- 森蘭丸、杉田玄白、太宰治...

多くの家紋の中で最もデザインが優れた家紋はおそらく、鶴の丸紋であろう。

その証拠にこの紋のデザインは様々に、変形され、社章などになって進化している。
一番有名なのが、日本航空の鶴のマークだ。
一時期、JASとの合併によって、この鶴の丸が機体についた飛行機は姿を消してしまったが、再度、復活した。それも、このマークが持つ伝統と美の力によるところか。
もともと、日航が社章を作るときに、フランスの高名なデザイナーに依頼したのだが、そのデザイナーから「日本の伝統にも素晴らしいものがある」と切り返され、鶴の丸をベーシックデザインとして採用したとの話が伝わっている。

また、清酒・白鶴のイメージも鶴の丸の影響を受けている。
鶴の首の方向、円の歪みなど、いくつかの点で異なっているが、鶴の丸をもとにしたデザインであることは確かなようだ。
白鶴酒造公式HPにはこのマークについて以下のような記載がある。

シンボルマークは、白鶴酒造が伝統的に使用してきた商標名「白鶴」を、現代的に感動あふれる形で表現したものです。
この躍動感あふれるフォルムは、力強い翼で鶴が天高く飛翔する姿を示しています。翼は鶴の頭部を保護するように楕円形になっており、日輪のような羽がダイナミックな感じを与えています。
このシンボルマークは昭和54年、業界に先駆けてCI(コーポレート・アイデンティティー)システムを導入した際に、スローガン「時をこえ 親しみの心をおくる」とともに設定されました。
現在では、このマークは多くの人々から認知され、親しまれており、日本のCIの代表例の一つとされています。

さらに、鶴の丸は、日蓮宗の寺紋としても知られている。
寺紋を見るには、門の脇の塀の端に瓦を見るのが一番わかりやすい。
写真は、「恐れ入りやの鬼子母神」で有名な真源寺の寺紋だ。
ちなみに、真源寺が所属する本門流には、あの信長が討たれた時に滞在していた本能寺も所属している。

さて、鶴紋の普及に関してであるが、全国で29位、決して多くは無い。ただ、青森県だけは12位と多いようだ。
確かに、津軽は、鶴紋を使用していた南部家から別れた津軽家の領地だったという事が一因かもしれないが、南部家の本家である岩手県ではそれほど多くない(29位)を考えると、別の理由があるのかもしれない。
その他、比較的に多い地域は、北海道(21位)、秋田県(21位)、宮城県(22位)、愛媛県(22位)、広島県(25位)、福井県(26位)、徳島県(26位)。

さて、鶴紋を使用している有名人だが、以下。


日野富子 。1440年5月20日 – 1496年6月30日、 将軍正室。
山城国に出生。公家・日野家の出身。室町幕府8代将軍足利義政の正室。関所、米相場、高利貸しからの賄賂等で得た財力によって室町幕府を運営。大河ドラマ「花の乱」の主役(三田佳子)。家紋は鶴の丸紋。画像は青山霊園の日野家の墓所にて。


蒲生氏郷 。1556年 – 1595年3月17日、 武将。
蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。織田氏家臣から、豊臣家(羽柴家)家臣となる。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。またキリシタン大名で洗礼名はレオン。家紋は蒲生対い鶴と左三巴。


森蘭丸 。1565年 – 1582年6月21日、 戦国時代の武将。
家系は清和源氏のひとつ河内源氏の棟梁 源義家の七男(六男?)源義隆を祖とする森氏。信長と衆道の関係にあったとされ、そのため稚児・児小姓として織田信長に優遇されたとの俗説が流布している。本能寺の変で主君・信長と共に討ち取られた。


南部利直 。1576年4月13日 – 1632年10月1日、 武将。
南部信直の長男として三戸の田子城にて出生。南部家は河内源氏流。関ヶ原の戦い時に領内で一揆を鎮圧し、家康から所領を安堵され盛岡藩の藩祖となる。定紋は南部鶴だが、割り菱、鶴菱も使用。画像は護国寺の南部家墓所にて撮影。


関孝和 。1642年3月? – 1708年12月5日、 和算家(数学者)。
上野国藤岡出身。関家の養子となる。本姓は内山氏。『発微算法』を著し筆算による代数の計算法を発明。和算が高等数学として発展するための基礎を作る。行列式や終結式の概念を世界一早い時期に提案。家紋は右向き舞鶴。画像は浄輪寺にて撮影。


杉田玄白 。1733年10月20日 – 1817年6月1日、 蘭学医。
江戸、牛込の小浜藩酒井家の下屋敷に生まれる。杉田氏は近江源氏・佐々木氏の支族である真野氏の家系。前野良沢らと『ターヘル・アナトミア』を和訳し『解体新書』として刊行。回想録として『蘭学事始』を執筆。画像は栄閑院にて撮影。


高山彦九郎 。1747年6月15日 – 1793年8月4日、 尊皇思想家。
上野国新田郡細谷村の郷士高山良左衛門の二男として生まれる。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身とされている。勤王の志を持ち、各地を遊歴して勤王論を説く。家紋は京都三条大橋にある皇居望拝姿の台座の丸に十字紋と鶴の丸紋。


戸塚静海 。1799年 – 1876年1月29日、 蘭方医。
遠江国掛川宿の医師、戸塚隆珀の三男。読みは、とつかせいかい。将軍徳川家定の急病に際し薩摩藩医より幕府医師に登用。法眼に叙せらる。伊東玄朴・坪井信道とともに江戸の三大蘭方医と呼ばれた。家紋は向い鶴紋。画像は谷中霊園にて撮影。


大鳥圭介 。1833年4月14日 – 1911年6月15日、 幕臣、官僚。
播磨国赤穂郡赤松村の医師・小林直輔の子として生まれる。戊辰戦争では主戦論を唱え、伝習隊を率いて宇都宮や今市、会津を転戦。榎本武揚と合流するが、箱館五稜郭で降伏して投獄された。出獄後、新政府に出仕して殖産興業政策に貢献した。


肝付直五郎 。1835年12月3日 – 1870年8月16日、 薩摩藩士。
生家は肝付家。後に小松家の養子となり帯刀と名乗る。大河ドラマ「篤姫」では瑛太が演じた。肝付家の家紋は尻合わせ四つ結び雁金と鶴の丸紋。また、小松家の養子入ってからの使用家紋は抱き鬼梶の葉紋。画像は青山霊園の肝付家の墓所にて撮影。


南部甕男 。1845年7月19日 – 1923年9月19日、 司法官僚。
土佐国大野見村出身。土佐藩郷士・陽明学者の南部従吾の長男。読みは、なんぶみかお。土佐勤王党に加盟。文久の政変では三条実美に従って長州へ亡命し大宰府にも随行。維新後は法曹会の設立に尽力。家紋は丸に向かい鶴紋。青山霊園にて撮影。


柳原愛子 。1859年6月26日 – 1943年10月16日、 天皇の典侍。
皇太后宮小上臈として出仕し、掌侍を経て権典侍となる。読みは、やなぎわらなるこ。伯爵・柳原前光の妹。「筑紫の女王」柳原白蓮は姪。大正天皇の母として明治天皇の没後は準皇族の扱いを受ける。家紋は鶴の丸紋。画像は目黒の祐天寺にて撮影。


森槐南 。1863年12月26日 – 1911年3月7日、 漢詩人、官僚。
尾張国名古屋出身。父・森春濤は漢詩人で尾張藩の儒者。読みは、もりかいなん。明治漢文学の中心的存在で随鴎詩社を主宰。官僚としては枢密院属、式部官を歴任。伊藤博文狙撃の際に同行し被弾。家紋は反り六角に鶴の丸紋。画像は多磨霊園にて撮影。


古島一雄 。1865年9月20日 – 1952年5月26日、 ジャーナリスト。
但馬国豊岡出身。古島家は旧豊岡藩士。雑誌「日本人」、日本新聞などの記者を務める。衆議院議員としては犬養毅の側近として行動を共にする。玄洋社の頭山満と結んで孫文を援助し辛亥革命を陰から助けた。家紋は鶴の丸紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


三鬼隆 。1892年1月14日 – 1952年4月9日、 実業家。
岩手県花巻市出身。読みは、みきたかし。日本製鐵・八幡製鐵(現・新日本製鐵)元社長。鉄鋼業界の大御所だった。経済復興会議副議長、日本経営者団体連盟会(日経連)第2代会長等も務める。家紋は鶴の丸紋。画像は多磨霊園にて撮影。


今東光 。1898年3月26日 – 1977年9月19日、 小説家、代議士。
横浜市伊勢町にて代々津軽藩士の家系の長男。読みは、こんとうこう。新感覚派作家としてデビュー。『お吟さま』で直木賞を受賞。主著は『朱雀門』『悪名』等。生前、日航機の鶴丸のマークを見て「自分の家紋を使ってもらった」と言っていたという。


太宰治 。1909年6月19日 – 1948年6月13日、 小説家。
青森県北津軽郡金木村出身。県下有数の大地主・津島源右衛門の6男。本名は津島修治。自身「私の生れた家には誇るべき系図も何も無い。」と述べている。代表作は「斜陽」「人間失格」「走れメロス」等。画像は禅林寺にて撮影。


網野善彦 。1928年1月22日 – 2004年2月27日、 歴史学者。
山梨県東八代郡御坂町にて、江戸時代から続く地主の末男として誕生。中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし日本中世史研究に大きな影響を与えた。代表作品「異形の王権」「日本中世の非農業民と天皇」。


津島雄二 。1930年1月24日 – 、 政治家。
東京府(東京都杉並区)生まれ。旧姓は上野。太宰治の長女・園子と結婚、入婿。自由民主党所属の前衆議院議員。厚生大臣、党役職を歴任。平成研究会に加入し、旧橋本派の会長に就任し、同派閥を率いる。家紋は太宰治と同じ鶴紋。


徳田虎雄 。1938年2月17日 – 、 政治家、医師。
鹿児島県徳之島町出身。医療法人徳洲会理事長。元自由連合代表、元衆議院議員、元沖縄開発政務次官。地方自治体や医師会と対立しながらも、全国各地に病院や診療所を開設し日本で最大規模の病院・医療事業グループ・徳洲会を築く。家紋は向い鶴紋。


綾部伴子 。1940年12月27日 – 2000年7月7日、 劇作家。
東京都出身。本名は丸茂智惠子。『木曜ゴールデン』『火曜サスペンス』等の二時間ドラマや昼帯の連続ドラマの脚本を手がける。代表作は『ママは大ピンチ』。父は国学院大教授で文学博士の丸茂武重。家紋は舞い鶴。画像は多磨霊園にて撮影。


魁皇博之 。1972年7月24日 -、 元大相撲力士。
福岡県直方市出身。本名は古賀博之。友綱部屋所属。最高位は東大関。引退後は年寄・浅香山を襲名。通算勝星1047勝、幕内勝星879勝、大関勝星524勝は歴代1位を記録。通算成績は1047勝700敗158休。優勝5回。家紋は向かい鶴。


若の里忍 。1976年7月10日 -、 大相撲力士。
青森県弘前市出身で鳴戸部屋所属。本名は古川忍。金星は2個(若乃花1個、朝青龍1個)。上位陣・実力者には強く殊勲賞を4回獲得している(2011年11月現在)。家紋は鶴の丸紋。鳴戸親方(隆の里俊英)の葬儀時の紋付で確認。


渡辺小五郎 。江戸時代後期、 南町奉行所見廻り同心。
東山紀之が演じる必殺仕事人2009の登場人物。普段は、事なかれ主義の情けない同心だが、仕事人としての腕は一流。渡辺という姓に対応する紋は一般的には三星に一の字の”渡辺星”であるがここではおしゃれな、六角光琳鶴を使用している。

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菊紋 -後鳥羽上天皇の意地が生み出した優美な紋- 西郷隆盛、夏目漱石、野口雨情...

天皇家が菊紋を使用し始めたのは、後鳥羽上皇の頃からだといわれている。

後鳥羽天皇(後の上皇)は、平氏が持ち去ったため、三種の神器が無い状態で即位せざるを得なかった。
後に、神器のうち、勾玉と鏡は戻ったが、本物の剣は壇ノ浦に沈み、戻ることは無かったのである。

しかし、剣の無い天皇は、刀を打つ事を好み、自分専用の鍛冶場を庭に創らせたという。
さらに、力で幕府を倒そうと承久の変を起こしたが、失敗し、隠岐に流され、その地で崩御。

おそらく、天皇の刀へのこだわりは、剣無しで即位した自分の正当性に対するコンプレックスへの補償行為だったのではないだろうか。

そして、天皇は、自分の刀に優美な菊の紋章を入れた。
台頭する武家文化に対抗べく王朝文化の最後の維持をこの紋章に込めたのである。

その後、この菊紋は天皇を象徴する紋となる。
江戸の時代こそ、一般庶民にも広まったこの紋であるが、明治になると国家主義とも結びつき、権威を持った。

比較的多い地域は東京都(24位)、宮崎県(25位)、愛知県(27位)、北海道(28位)。茨城県、福井県、滋賀県、京都府、兵庫県、広島県、福岡県で29位。

さて、菊紋を用いた有名人であるが、以下の通りである。


楠木正成 。1294年 – 1336年7月4日、 南北朝時代の河内の武将。
河内国石川郡出身。伊予橘氏の橘遠保の末裔。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍するが湊川の戦で敗れ自害。明治以降大楠公と称される。後醍醐天皇から下賜された菊紋を菊水紋として使用。画像は楠木家の菩提寺・楠妣庵観音寺の菊水紋。


由井正雪 。1605年 – 1651年9月10日、 軍学者。
静岡県清水区由比町の紺屋の子として生まれるが、江戸へ奉公に出て楠木正成の子孫の軍学者・楠木正辰の婿養子となる。神田連雀町に軍学塾「張孔堂」を開いた。「慶安の変(由井正雪の乱)」を起こし駿府にて自害。菊水紋は養子先の楠木家の家紋。


江川英龍 。1801年6月23日 – 1855年3月4日、 幕臣。
伊豆国韮山出身。伊豆韮山代官・江川英毅の次男。通称は江川太郎左衛門。読みは、えがわひでたつ。洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱く。反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。家紋は井桁に十六葉菊紋。


増田甲斎 。1820年 – 1885年5月31日、 ロシア外務省の役人。
遠江国掛川出身。藩士・立花四郎右衛門の次男。読みは、ますだこうさい。ロシアに密航を企てる。ロシア正教会に改宗後、ロシア外務省の役人、ペテルブルク大学の日本語の講師となった。家紋は十六菊に三つ引両紋。画像は高輪源昌寺にて撮影。


得能良介 。1825年12月18日 – 1883年12月27日、 武士、官僚。
薩摩国鹿児島城下新屋敷出身。薩摩藩士・得能直助の長男。維新後、大久保利通の推挙によって大蔵大丞兼民部大丞に任じられる。その後、司法大丞、印刷局長、初代大蔵技監等を歴任。家紋は丸に三つ割菊に三の字紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


外島機兵衛 。1826年7月5日 – 1868年3月30日、 会津藩士。
会津出身。藩士・堀藤左衛門の次男。外島家の養子となる。藩主・松平容保に従って上洛。鳥羽・伏見の戦いでは兵糧などの調達にあたる。家紋は菊水紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。顔画像は、テレビドラマ「白虎隊」で機兵衛を演じた大河内浩。


那珂通高 。1827年 – 1879年5月1日、 折衷学派儒学者。
盛岡藩藩医江幡道俊の次男。読みは、なかみちたか。戊辰戦争後は奥羽越列藩同盟参加藩の幹部として責任を問われるが、維新後は大蔵省・文部省に出仕して「古事類苑」「小学読本」編纂に携わる。家紋は十六菊に一の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。


西郷隆盛 。1828年1月23日 – 1877年9月24日、 藩士、政治家。
薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長子。薩長同盟の成立や王政復古に成功し戊辰戦争を巧みに主導した。大久保利通や長州藩の木戸孝允と並び維新の三傑と称される。家紋は天皇より下賜された抱き菊の葉に菊紋。元の家紋は鷹の羽とも言われる。


木戸孝允 。1833年8月11日 – 1877年5月26日、 武士・政治家。
長門国萩呉服町萩藩医 和田昌景の長男として出生。桂家の末期養子となる。尊王攘夷派の中心人物。西郷隆盛大久保利通とともに維新の三傑として並び称せられる。桂小五郎時代は丸に三つ星紋。画像は多磨霊園にある類縁・木戸幸一の墓所にて撮影。


松方正義 。1835年3月23日 – 1924年7月2日、 薩摩藩士、政治家。
薩摩国出身。第4代、6代内閣総理大臣。大蔵卿時、緊縮財政を行い深刻なデフレ(松方デフレ)を招いた。私生活では26子を儲け、長與專齋岩崎家、山本権兵衛森村市左衛門等と婚姻関係を結ぶ。家紋は抱き菊の葉に抱き茗荷紋。画像は青山霊園。


永山武四郎 。1837年5月28日 – 1904年5月27日、 陸軍軍人。
薩摩国出身。藩士・永山盛広の四男。北海道庁長官となり、北海道の開拓と防衛に情熱を傾け、「屯田兵の父」と呼ばれた。軍人としての最終階級は陸軍中将。家紋は丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋。画像は青山霊園の弟・永山盛輝の墓所にて撮影。


西郷従道 。1843年6月1日 – 1902年7月18日、 海軍軍人。
薩摩藩鹿児島城下加治屋町出身。西郷隆盛の弟。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。妻、清子は得能良介の長女。四男は上村彦之丞、六男は小松家の嗣養子。最終階級は元帥海軍大将。家紋は三つ寄り菊葉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


高島鞆之助 。1844年12月18日 – 1916年1月11日、 陸軍軍人。
薩摩国出身。藩士高島喜兵衛の四男。読みは、たかしまとものすけ。第1次松方内閣の陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。大阪偕行社附属小学校(現在の追手門学院小学校)を創設。陸軍大将野津道貫は義弟。家紋は抱き鬼柏に剣菊紋。画像は青山霊園にて撮影。


山田平左衛門 。1845年6月22日 – 1906年1月6日、 民権運動家。
土佐国高知城下帯屋町出身。父は土佐藩(馬廻役・580石)山田清粛(八蔵)。戊辰戦争に従軍し軍功を上げる。征韓論に敗れて高知に帰り、板垣退助植木枝盛らと立志社の設立に参加。第2代社長となり自由民権運動を主導した。家紋は菊水紋。


日高壮之丞 。1848年4月26日 – 1932年7月24日、 海軍軍人。
薩摩国出身。薩摩藩士・宮内清之進の次男。日高籐左衛門の養子となり家督を相続。NHKドラマ「坂の上の雲」では中尾彬が演じた。最終階級は海軍大将。幾多の軍功によって男爵位を受勲。家紋は割り杏葉菊に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。


益田孝 。1848年11月12日 – 1938年12月28日、 実業家。
佐渡国出身。明治維新後、世界初の総合商社・三井物産の設立に関わる。草創期の日本経済を動かし三井財閥を支えた。更に日本経済新聞の前身・中外物価新報を創刊。実妹の繁子は瓜生外吉に嫁ぐ。家紋は三つ割り菊紋。画像は総持寺にて撮影。


上村彦之丞 。1849年6月20日 – 1916年8月8日、 海軍軍人。
薩摩国出身。薩摩藩漢学師範・上村藤一郎の長男として生まれる。最終階級は海軍大将。渾名は船乗り将軍。日露戦争の日本海海戦では判断よくバルチック艦隊の進路を塞ぎ、戦勝の重要な基因をなした。家紋は抱き菊の葉紋。画像は青山霊園にて撮影。


東郷正路 。1852年4月19日 – 1906年1月4日、 海軍軍人。
越前国出身。父は福井藩士・東郷晴霞。日清戦争時は「鳥海」艦長、「西京丸」艦長を、日露戦争では第6戦隊司令官として出征し、黄海海戦、日本海海戦に参戦し、後に海軍中将となった。家紋は抱き菊の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


菊池武夫 。1854年8月21日 – 1912年7月6日、 法学者。
陸奥国岩手郡出身。穂積陳重江木衷高橋健三元田肇等と英吉利法律学校を創設し、中央大学初代学長に就任した。他に、司法省民事局長、東京弁護士会会長、貴族院勅選議員等も務めた。家紋は菊水紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。


青山幸宜 。1854年12月9日 – 1930年2月5日、 郡上藩青山家11代。
第6代藩主・青山幸哉の長男として生まれる。版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、廃藩置県で免職された。その後は実業家、貴族院議員となって活躍した。市川米庵に書を学び、多くの名筆を残した。家紋は青山紋。菩提寺である梅窓院の墓所にて撮影。


大橋新太郎 。1863年9月11日 – 1944年5月5日、 出版業者。
越後国長岡出身。博文館創業者大橋佐平の三男。父没後、博文館館主となり、博文館印刷所(現在の共同印刷)、日本書籍株式会社を設立。衆議院議員・貴族院議員もつとめる。家紋は杏葉菊菱紋。画像は護国寺の墓所にて撮影。


山之内一次 。1866年12月12日 – 1932年12月21日、 政治家。
薩摩国出身。藩士・山之内時習の長男。読みは、やまのうちかずじ。青森県知事、逓信省鉄道局長、第1次山本内閣内閣書記官長、貴族院勅撰議員、第2次山本内閣鉄道大臣などを歴任。家紋は丸に十六剣菊紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


夏目漱石 。1867年2月9日 – 1916年12月9日、 小説家。
江戸牛込馬場下出身。数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子。千円札の図柄としても著名。代表作は『坊ちゃん』『我輩は猫である』『こころ』など。家紋は井桁に菊紋とも言われるが雑司が谷霊園には菊菱紋(画像)がある。


尾上梅幸(6代) 。1870年11月8日 – 1934年11月8日、 役者。
尾張国名古屋出身。父は尾上朝次郎本名は寺島榮之助。屋号は音羽屋。昭和初期を代表する名女形役者。十五代目市村羽左衛門の名相方とうたわれ墓も隣にある。役者としての家紋は重ね扇に抱き柏だが、雑司が谷墓地の墓所の家紋は杏葉菊紋。


伏見宮博恭王 。1875年10月16日 – 1946年8月16日、 海軍軍人。
伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加。艦長や艦隊司令長官を務めるなど皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富。家紋は伏見宮裏菊紋。画像は息子・博英の墓所にて撮影。


有島武郎 。1878年3月4日 – 1923年6月9日、 作家。
東京市小石川出身。旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の長男。作家の里見とんは弟。長男は俳優の森雅之。同人「白樺」に参加。代表作は『カインの末裔』『迷路』。家紋は丸に雪持ち笹だが、多磨霊園の墓所には抱き菊の葉に雪持ち笹紋も見える。


野口雨情 。1882年5月29日 – 1945年1月27日、 童謡作詞家。
茨城県出身。生家は廻船問屋を営む名家。野口家は、楠木正成の弟、正季が先祖と伝えられているという。代表作は、『シャボン玉』『こがね虫』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など多数。家紋は菊水紋。画像は小平霊園所に撮影。


小松輝久 。1888年8月12日 – 1970年11月5日、 華族、海軍軍人。
東京府出身。北白川宮家。長兄・恒久王は特に竹田宮家を創設し自身は臣籍降下し小松侯爵家を創設。終戦間際まで帝国海軍の軍務に服し、最終階級は海軍中将。戦後は平安神宮宮司を務める。家紋は三つ割菊紋。画像は護国寺にて撮影。


恩地孝四郎 。1891年7月2日 – 1955年6月3日、 写真家、詩人。
東京府出身。宮内省式部職・恩地轍の四男。読みは、おんちこうしろう。前衛的表現方法を用いた芸術家としてあらゆるジャンルで活躍。代表作は自身の詩や版画との組み合わせた写真集『飛行官能』『博物誌』。家紋は楠木氏家臣からの流れの菊水紋。


甲斐庄楠音 。1894年12月23日 – 1978年6月16日、 日本画家。
京都出身。甲斐庄氏は楠木正成末裔を称した旗本の一族。読みは、かいのしょうただおと。大正末期の暗い風潮を象徴したデカダンス画家の代表。代表作『青衣の女』『横櫛』等。家紋は菊水紋。画像は文京区・吉祥寺にて撮影。


笹川良一 。1899年5月4日 – 1995年7月18日、 政治運動家。
大阪府三島郡豊川村の造り酒屋の長男。衆議院議員、財団法人日本船舶振興会会長、福岡工業大学理事長を務めた。戦後は政財界の黒幕として「日本の首領(ドン)」と呼ばれた。家紋は半菊に一の字紋。顔画像は高見山の引退興行での紋付姿。


中村泰三郎 。1912年1月24日 – 2003年5月13日、 抜刀家。
山形県上山市出身。実践剣術・戸山流抜刀術を修練し中村流抜刀道を創始。国際居合抜刀道連盟(国際抜刀道連盟の前身)を組織。国際武道院より抜刀道十段を授与される。橋本龍太郎山岡鉄舟愛刀「左文字」の写しを献上した。家紋は丸に菊水紋。


石井ふく子 。1926年9月1日 – 、 テレビプロデューサー。
東京都出身。父(養父)は劇団新派の俳優・伊志井寛。TBSのプロデューサーとして「肝っ玉かあさん」「ありがとう」「女と味噌汁」「おんなの家」「渡る世間は鬼ばかり」等を手がける。家紋は菊杏葉紋。谷中・瑞輪寺の伊志井寛の墓にて撮影。


綿貫民輔 。1927年4月30日 – 、 実業家、政治家。
富山県南砺市出身。父・南佐民は兵庫県淡路島の出身で楠木正成の系譜だが、井波八幡宮の宮司を務める綿貫家の婿養子に入る。自民党の重鎮であったが郵政民営化を巡る党内抗争の結果、離党し国民新党を結成。菊水紋は南家の家紋。


北白川道久 。1937年5月2日 – 、 元皇族。
東京府出身。1947年10月14日に皇籍離脱し、以後は北白川道久となる。伊勢神宮の大宮司に就任。紀宮清子内親王(現・黒田清子)の結婚式において、斎主を務めた。現在は、神社本庁統理。家紋は北白川菊紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。


嵐山光三郎 。1942年1月10日 – 、 作家。
静岡県浜松市出身。本名は、祐乗坊英昭。2012年日本文藝家協会理事。独特の文体でのエッセイを多数の雑誌に発表。椎名誠らとともに「昭和軽薄体」と呼ばれた。家紋は三つ割菊紋。画像は高尾霊園にある祐乗坊家の墓所にて撮影。


竹田恒泰 。1975年 – 、 法学者。
東京都出身。家系は伏見宮家より分かれた北白川宮家の分家にあたる竹田宮家。明治天皇の女系の玄孫に当たり、皇太子徳仁親王の三いとこにあたる。竹田恒和は父。家紋の横見菊は、「たかじんのそのまで言って委員会」出演時の紋付より。


青山久蔵 。江戸時代後期、 北町奉行所与力。
テレビ朝日系で放送された「八丁堀の七人」という時代劇の主人公の一人(もう一人の主人公は片岡鶴太郎演じる仏田八兵衛)。村上弘明が演じた。青山という姓より、徳川譜代の青山氏の庶流を想定していると推定される。家紋は丸に立ち葉菊紋。

有名人の家紋索引(あ行~さ行) (た行~わ行)
まさむね