70 年代ユーミンの役割

桑田佳祐の楽曲は、彼の内面的な妄想をモティーフにしているのに対して、もう一人のスーパースターのユーミンは、あくまで自分の外部の風景と物を楽曲に、歌い込みながら、リスナーに対して新しい価値観とライフスタイルを啓蒙していく。

例えば、ユーミンの初期の楽曲でバンバンに提供した「『いちご白書』をもう一度」は1975年に大ヒットするのだが、この曲のテーマは、学生闘争時代(60年代後半~70年)へのノスタルジーであるとともに、過去への絶縁歌である。
無精ヒゲを伸ばして、学生運動に参加した「僕」は、髪を切って就職して、その時代を捨てる。
当時の時代を映した「いちご白書」のリバイバルポスターに懐かしさを感じる。あくまで過去の遺物として。

また、翌年に発表した「中央フリーウェイ」、象徴的ではあるが、この楽曲も、新しい時代の価値観を表現している。

中央フリーウェイ
調布基地を追い越し
...
片手で持つハンドル 片手で肩を抱いて
愛しているって言っても聞こえない
風が強くて
...
中央フリーウェイ
右に見える競馬場 左はビール工場

調布基地(1974年に米軍から都と市に返還)、これは安保反対、60年代の政治闘争の象徴だった。
この調布基地をあっさりと追い越し、その先にあるのが、新しい価値観だ。
彼女に肩に手を回して高速を走る、これこそ新しい若者の憧れのスタイル。
同時に、ギャンブル=競馬場、酒=ビール工場を横目で見る。これらは、新らしい享楽主義の象徴だ。

こうして、70年代~80年にかけての若者は、ユーミンの楽曲を聴きながら、新しい価値観を自然に身に付け、新しい恋愛の作法を学んでいった。

例えば、「A HAPPY NEW YEAR」は、家族と雑煮を食いながら、テレビを見る位がせいぜいだった僕たちの正月に、街路樹のある街を走りながら恋人に会いに行くという正月というものもあるのだという事を教えてくれた。

「手のひらの東京タワー」では、金色の東京タワーの鉛筆削りを恋人にプレゼントするのだが、その時、彼女は彼氏につぶやく。

子供じみていると 捨ててしまわないで
つぎはあなたの夢 私に下さい

乾坤一擲の名セリフだよね。

ところで、この鉛筆削りには「根性」の刻印はあったのだろうか。

まさむね

桑田佳祐 普通のモテない男の妄想歌

加勢大周が覚醒剤、及び大麻の不法所持で逮捕された。

加勢大周といえば「稲村ジェーン」だ。
駄作だという人も多いようだが、僕は逆。桑田さんのいろんな想いが詰まった名作だと思う。
見れば見るほど、奥深いんだよね。

暑かったけど 短かったよなぁ…夏

この映画のキャッチコピーがこれだ。
期待に胸を躍らせながら迎えたのはいいけど、何もなかった夏。
誰しもが経験したホロ苦い青春の1ページ、「稲村ジェーン」のテーマの一つなんだけど、それは、桑田佳祐の音楽のモティベーションでもあると思う。

あるデータによると1955年~1964年生まれの70%位の男性の結婚前に付き合った女性の数は3人位までという。
結婚する平均年齢を30歳位とすると、15歳~30歳の15年で3人というのは、どう考えても多いとは言えない。
また、ちなみに結婚まで一人ともお付き合いしたことない男は15%いるらしい。
ようするとほとんどのこの年代の男は基本的にはモテてないのである。

桑田さんの音楽が多くの人の共感を呼ぶのは、この年代に属する彼の”モテなかった夏の記憶”が歌の歌心の根本にあるからだというのが僕の説だ。

C調言葉に御用心、経験Ⅱ、マンピーのG★SPOT、ゆうこのマンスリーディ、いなせなロコモーション、気分しだいで攻めないで…

桑田さんの曲って猥歌が多いでしょ。
70年代の学生って異性と知り合える機会が少なかったから、大多数のモテない男同士は、誰かの下宿とかで、ギター弾きながら、みんなで猥歌を歌って発散したんだよね。
桑田さんの音楽ってこういう発散の男文化の尻尾をひきづってる。(ところで、最近の若い人の間で猥歌文化ってまだ生き残っているのかな?)

恐らく、桑田さんの青春も、上記データで見られるような普通の男達と変らなかったんじゃないかな。
最初、桑田さんが青学の軽音楽部に入った時、後に奥さんになる原由子は友達と「あの人、怖くて気持ち悪いから近寄るのやめようね」と話をしたという。
また、この2人が結婚する時、桑田さんは「俺は童貞だから」と言い張っていたけど、まんざらでもない感じがしたものだ。

モテなかった男の作品は、だから、現実には役立たない。

一般的にポップミュージックというのは、視聴者にとって、資本主義的啓蒙の側面がある。
例えば、ユーミンの歌詞に出てくるちょっとしたフレーズは、多くの視聴者にとって、憧れるべきニューライフのアイテムになっている。
これらのフレーズは、若者の消費行動の斜め上にあって、知らず知らずのうちに、ある方向に人々を導くものだ。

緑のクーペ(DESTINY)、窓辺に置いたイス(翳りゆく部屋)、裏通りの飲茶(昔の彼に会うのなら)…

しかし、一方、桑田さんの楽曲にはこういった憧れの消費財が出てきて、それが僕たちを巻き込んでくる事はあまり無い。
それは、彼が歌を作るときの視線が、現実のモノに向いてないからだ。彼の歌は、頭の中の妄想で成り立っているのだ。

しかし、この妄想のエネルギーはとっても強い。
桑田さんの曲が未だに、人々の心をつかんで離さないのは、彼のいろんな想いがつまったエネルギーの強さによるところが多いのではないか。

これは、映画「稲村ジェーン」の魅力にも通底しているのだ。
この映画、もう一度、じっくりと見たい。

まさむね

麻生さん運が強いかも

解散/総選挙の日程がわからなくなってきた。
一説によると、来年の1月以降になる可能性もあるという。

解散権を握る麻生さんは、今回の米金融危機を言い訳にして、補正予算を通した。
新テロ特別措置法も、衆議院での3分の2を使わなくても、衆参、民主党が賛成して通しそうな勢いだ。
さらに、景気対策の第2弾として、与党に追加緊急経済対策の指示を出したという。
どんどん実績を上げているのだ。

麻生さんは、先日の予算委員会でこう述べた。

「解散というものを国民が望んでいるかといえば、私はそれよりまずは景気対策だという気持ちの方が強いと思う」

これは一定の説得力を持つ。ここで解散となって、選挙活動している間に、のっぴきならない状態になったら、大変な事になるかもしれないからね。
勿論、大変な事になるかどうかなんて実は、誰もわからないんだけど、そうなった場合どうするの?って言われたら、誰も反論できないのが今の状況。

しかし、こうなったら麻生さん、強いよね。
上記したように、ねじれ国会をものともせず、どんどん自分のやりたい事が出来る。
民主党は、解散してもらいたいもんだから、言う事を聞かざるを得ない。
でも、この緊急事態に、審議を引き延ばしてるとか、下らん事で反対しているって国民に思われたら、それこそ、民主党は国民の事を考えていないって印象になっちゃうからね。
また、民主党の麻生さんを攻める武器が、公明党の政教分離問題とか、大臣の失言とか、社保庁の不始末とか、いかんせん、緊急性が無いって言うのが、弱いよね。
それに、こんな時、小沢さん風邪ひいてるし。

という事で、現在、民主党をはじめ公明党、自民党内でも早く選挙をやりたい連中を手玉にとってる麻生さんって、政治力あるよね。
アメリカの金融危機という要因があったにせよ、こういった立場を作っちゃったんだから、小泉さん並みに、運がいい人かも。尤も、今のところの結果論だけどね。

さて、この総選挙に関して、総裁選の頃から日程は10月26日だとか、11月2日だとか、決定事項みたいに言ってきた朝日新聞をはじめとしたマスコミは、一体何だったの?
狼少年なの?反省したの?

そんな中、フリーのジャーナリストの上杉隆さんは一貫して、「麻生さんは、自分で実績を作らないうちは、解散しないよ、だから、11月初めの選挙なんてありえない」って言い続けてきた。
ほとんど、彼一人、そういい続けてきた。
今回の件で、上杉氏の慧眼に敬服するとともに、記者クラブっていうところがいかに、”空気”の中でしか動いていないって事がわかったよね。

彼の新著「ジャーナリズム崩壊」は、その記者クラブの問題点を鋭く突いているらしいんで、是非、読んでみたい。

まさむね

愛こそはすべての 2面性

現在、docomoのCMのBGMとして使用されているビートルズALL YOU NEED IS LOVE(愛こそはすべて)。

この曲は、決して名曲ではない。ビートルズ初期作品のほとばしるようなエネルギーも感じなければ、ドチラかと言えば、ポール=マッカートニーが得意とするYESTERDAYやHEY JUDE、LET IT BEのような美しいメロディであるわけでもない。
どちらかと言えば変な曲なのである。

勿論、作者は、ジョン=レノン。

拍子は変(これ何拍子?)だし、ジョンのソロ部分のボソボソとした歌詞は字余りだ。
途中のジョージのギターソロも最後、うやむやな感じで終わる。
全体的にダラダラしていている。
オープニングにはフランス国家を使ったり、、エンディングには、グレン・ミラー楽団の「イン・ザ・ムード」等が引用されていたり、微妙に凝ったりしている。

でも、何故かこの変な曲は21世紀になっても、決して死んでいない。不思議だ。
逆に、若い人にとっては、この曲が最も身近なビートルズソングなのかもしれない。

時代を超えて残っていくものって、やっぱりそれなりに、魔力があるんだろうけど、1970年代、僕はこの曲に対して、こんなスタンダード曲になるなんて思ってなかったような気がする。

でも、この曲の歌詞を解釈してみると、面白いよ。
ALL YOU NEED IS LOVE って「愛こそはすべて」って訳されてるけど、決して内容は”愛”を称えた歌ではないんだ。
どちらかと言えば、「愛があればね」っていう方がニュアンスに近いと思う。

出来ない事をしようったって無理だ
歌えない歌は歌えないしね

作れないものは作れないよ
救いようのない人は救えない

未知のものを知ろうとしたって無理だ
見えないものは見えないでしょ

でも、自分らしくは生きられるのさ

愛があればね
愛があればね
愛があればね

これは僕が本当に意訳したので、興味のある人は原詞にあたってね。大意はそんなに違ってないと思うよ。

この歌詞を見ると、この時期(1967年当時)のジョン=レノンのネガティブな状況観と、「愛」をコンセプトとすることによって、その状況をなんとか乗り切ろうとするポジティブな思想、つまりネガティブ・ジョンとポジティブ・ジョンの2面性が感じられる歌なんだ。
ジョンは愛の伝道師みたいに祭り上げらたりするけど、反面で、どうしようもなく暗い面も持っていたんだよね。彼はこうも言ってる。

愛と平和を語る者というのは常にもっとも暴力的な人間だ。(ジョン=レノン)

僕は、ジョンの、この自虐的でリアルな”毒”を忘れたくない。

まさむね

狩野英孝や鼠先輩の意義

人生相談体質の芸能人っているよね。
こういう体質の人たちは、人生相談するのも、されるのも得意だ。目が光り輝くんだよね。

勝手にカテゴライズするとこんな感じかな。
元不良系
加藤晴彦、宇梶 剛士、義家弘介
オカマ系
美川憲一、美輪明宏、IKKO、マツコ.デラックス
水商売系
デヴィ夫人、細木数子、城咲仁、室井佑月
(他に、スピリチュアル系、成上がり系、苦労系等あり)

他人の相談を聞くという事は相手の弱みを握るということであり、自分の相談を他人に持ちかけるというのは、敢えて隙を見せることである。
彼らは、それによって、他人との距離を縮める術に長けているのだ。
そして、他の芸能人よりも視聴者との距離が近い(ように見える)人生相談体質の芸能人、その近さは、魅力であるが、一方、胡散臭さでもあるよね。
この胡散臭さは、具体的に、彼らの目の鋭さに表現されてる。
あの他人を値踏みするような視線って怖くない?僕的はちょっと引いちゃうな。

逆に、いくら人生相談系の格好をしていても、体質的にそれと別種な芸能人(実は他人にあんまり関心のないタイプのナルシスト)は安心だ。
お互いの距離が近すぎるスタジオバラエティの暑苦しさを中和するキャラとしての狩野英孝や鼠先輩の意義(使い勝手)はそのあたりにあるんだと思う。

まさむね

TBS 、大丈夫か?

このところの番組改編期におけるTBSの特番が酷い。
ざっと挙げてみると以下の番組だ。

09/30 みのもんたVS国会議員ずばッとコロシアムⅤ
10/01 K-1ワールドMAX2008トーナメント
10/04 ROOKIES SP
10/05 キングオブコント08

全てゴールデンタイムでの放送だし、一応、番宣もやっていたから、それなりに期待していたんだけど、次々と裏切られ続けた。
尤も、ただ、つまらなかったというだけならまだしも、番組制作者側の視聴者を舐めてるとしか思えない安易さが透けちゃってたよね。

まずは「みのもんたVS国会議員ずばッとコロシアムⅤ」。雛壇に並んだ与党、野党の議員達。一言掛ければ飛んできそうなメンバーが勢ぞろいしたという感じ。
自民党は山本一太、平沢勝栄達、野党は、原口一博、森ゆうこ、小池晃、そして福島瑞穂等、の面々だ。
そして、いろんな政策に関してYES、NOの札を上げさせてコメントを求めるという展開なのだが、この白黒はっきりさせようという、いわゆる”ずばッと方式”は、問題を単純化させて、議論が全く深まらない。
それどころか、仕切りきれないみのさん、スタジオはいつものカオス状態へ。
さらに、例によって、貧しい母子家庭や、老老介護の現場のビデオが流れ、気の毒顔のみのさん、官公庁での無駄遣いの例としてわざわざスタジオに持ち込まれたゴルフクラブやマッサージチェアを見て、あきれ顔のみのさん。幾度と無く繰り返された光景がまだ、そこにあった。辟易。
そして、番組の最後に、みのさんが、あなた達の老後は不安ですか?と、議員達にYES、NOの札を上げさせるのだが、と同時に2chの実況板には「まず、お前から上げろよ、億万長者・みの」という書き込みが上がった。

次はK-1。トーナメントの準決勝と決勝で魔裟斗がそれぞれダウンを奪われるも、なぜかドローの判定で延長戦になり、両試合とも勝ってしまうという展開。
興行として、テレビ番組としては(いわゆる大人の事情としては)、この結果は確かに正しかったのかもしれない。魔裟斗が優勝するほうが、会場も興奮するし、絶対数字取れるからね。
しかし、K-1をスポーツとして見てた人にとっては???だったのではないか。
この日の結果(裁定)は、瞬間的にはよかったかもしれないけど、長い目で見るとボディブローのように、K-1にダメージを与えると思う。
全国の普通のライトユーザー達の「あ~、やっぱりね」という、薄暗いつぶやきを馬鹿にしてはいけないのだ。

さらに、ROOKIES SPだ。
連ドラの最終回で秋にスペシャル放映決定みたいな告知があって、ROOKIESファンを色めき立たせる。
しかも、最終回の最後に謎の男のうしろ姿。あれは誰だ?いやがおうにも期待するではないか。
しかし、今回の2時間半のスペシャルは、今までの総集編、限りなく再放送に近いシロモノだった。しかも、最終回にあった男のうしろ姿も無く…
いつ、新しい展開になるのかわからないから、目が離せないと思いながら見続けた僕の2時間半は何だったのだろうか。

そして、昨日の「キングオブコント08」。
決勝にはバナナマンとバッファロー吾郎が残る。
僕はこのバッファロー吾郎という上方芸人知らなかったんだけど、19年目のベテランらしい。
19年もの間、東京方面では無名だったという理由がよくわかる熟練のつまらなさだ。しかもコント意外の時もカメラが向くといちいち、わざとらしい”変顔”をするその感覚からして昭和なのだ。
しかし、なんと、このバッファロー吾郎が優勝、で、1000万円をゲット。
インタビューでは、ダウンタウンを初めみんな(業界内の人々)に感謝の言葉。
審査員は予選で落ちた芸人達。長年、面倒見てくれた大先輩に花を持たせよう的意図が見え見えの薄ら暖かいインサイダー裁定はあまりに露骨だった。
空気が読める司会の松ちゃんだけ微妙な表情だったが、この企画、多分、来年は無いなとまで思わせた。
勿論、その晩、バッファロー吾郎のブログは炎上。

それにしても、ここまで問題番組を連発するTBS、大丈夫か。
悪いのは何だろうか。プロデュース能力の劣化?予算の削減?それとも、全部見ちゃった僕(達視聴者)?

まさむね

高級時計のある世界

pige.gifちょっと前に終了してしまった「クリームなんとか」というお笑いのバラエティ番組の最終回、売れっ子の芸人(有田鉄平、河本準一、ナベアツ達)が自分が身に付けている服や時計や財布等を鑑定してもらうというコーナーがあった。

驚いたのは、彼らが一様に、100万円、200万円もする高級ブランド時計を持っていたということだ。
今まで、高級時計趣味の世界を全く知らなかった僕にとって、お笑い芸人の全員が高級ブランド時計を持っているのを見た時、それはカルチャーショックに近い衝撃だったよね。

さて、人は何故、ブランド時計に惹き付けられるのだろうか。
恐らく、所有物はその人のステータスを表現している。その事は同時に、ステータスの高い世界の住人へのパスポートを手に入れることでもあるんだろう。
芸人達は、高級時計をする事によって、その高級時計の価値がわかる世界に入ったっていう実感を得てるんじゃないかな。
逆に言えば、200万円の時計は、庶民レベルの世界では、ある意味、全く、無価値だからね。

でも、高級時計を持つメンタリティをもう少し分析すると、もっと深いものがあるのかもしれない。
そこには、世界最高級の職人技への尊敬の念が込められているんだと思う。
また、それぞれのメーカーには愛好者の連綿たる歴史があって、その歴史物語に対する愛着もあるんじゃないかな。
例えば、ロンジンは、島津忠義が西郷隆盛に贈った懐中金時計のメーカーであるとか、パネライは、藤原紀香と陣内智則の結納を交わした際、藤原紀香が結納返しとしてこの特注時計を贈ったとか、パテックフィリップの愛好者には、ヴィクトリア女王、ワグナー、トルストイがいたとかね。(高級腕時計ブランドガイドのHPより)

時計趣味っていうのは、恐らく、こういった歴史的、精神的、あるいは物語的な背景も含めて多層的に時計に惹かれるってことかもしれないよね。

だから、それは持ち主にとっては、凄く大事な物なんだろうな。

そういえば、あの三島由紀夫は、その最期、割腹自殺をするために自衛隊に向かった時、いつも左腕にしていた世界三大高級時計メーカーの一つのスイス製のオーデマ・ピゲ(写真)ではなく、敢えて、実用的で安価な時計をしていったという。
自分の最期の集大成の時間を、オーデマ・ピゲでは刻みたくなかったのかな?その真意は永久に謎だよね。

まさむね

「篤姫」の家紋に物申す

satumakamon.gif篤姫のような本格的な時代ドラマを見ていると、僕はどうしても(若干の悪意を含みながら)登場人物の家紋に目が言ってしまう。

いつも気になるのが、徳川家茂と一橋慶喜の家紋が同じに見える事。
ものの本によると、三つ葉葵でも、徳川宗家の家紋は3つの葉が中心がくっついているが、一橋家では離れていたらしい。
まぁウチはまだアナログテレビなので、微妙な差異は見分けられないんだけどね。

そして、今日の「篤姫」で気になった事。

本日の放映回では、西郷隆盛が島津久光に許されて薩摩の軍役に復帰するのだが、その際、紋付を羽織っていたのだが、その家紋が「抱き菊葉に菊」(写真真中)だった。
確かに、西郷さんといえば、この「抱き菊葉に菊」と言われているのだが、この家紋は明治天皇から下賜されたもののはずだ。
という事は、禁門の変(1864年)の時点で西郷隆盛がこの紋付を着ているのはおかしいのではないだろうか。

それでは、西郷の元々の家紋は何だったのであろうか。
多磨霊園にある、西郷隆盛の弟の西郷従道の墓の家紋は写真一番上だ。
これが、梶の葉なのか、菊の葉なのか、僕にはちょっとわからない。
しかし、ここからは推測だが、元々、菊の葉の家紋だった西郷家の隆盛に対して、明治天皇が「私をずっと守ってほしい」という意味を込めて、その菊の葉が囲む菊の花の紋を与えたのではないか。

さて、西郷と言えば、大久保だが、青山墓地にある大久保利通の墓にある家紋は写真一番下。僕には藤巴紋に見える。
ちなみに、この藤巴紋は、寅さんで有名な渥美清の本名、田所康雄の家紋でもある。

家紋を調べていくと、全然別のキャラクタの人々が同じ紋を持ってたりするから面白い。

まさむね

あの農水次官は何故、責任は無いと言ったの?

ちょっと前の話だが、事故米についてである。
最初、農水省の白須事務次官は「責任は一義的には食用に回した企業にある。立ち入り調査は不十分だったが、農水省に責任があるとは考えていない」と発言した。
ところが、その後、農水省に対する批判の声が湧き上がり、結局、謝罪、更迭に追い込まれた。

しかし、僕が気になったのは、この事務次官が何故、農水省に責任が無いと断言したのかということだ。
この発言の後、元々、官僚は責任感も、倫理観も無く、自己保身に走ったのだろうみたいな言い方、あるいは、最近の官僚は劣化していて、「こう言ったら、どうなる」みたいな見通しも出来なくなった、ようするに官僚馬鹿論的な言説が支配的になっていった。
しかし、本当に、彼らは無責任で馬鹿なのだろうか。

当たり前の事だが、官僚は法律に従って動いている。MA米に関して、その流通に関して、どういった法律の下に動いているのか、僕は知らないが、恐らく、食用に出来ない米に関しては、業者との間に、「食用に転用しない」趣旨を明記した契約をして取引をしているんだと思う。
一応、本当に食用に転用しないように調査に入るという契約項目もあったのかもしれない。

だとしたら(上記の契約云々っては僕の想像なので全く違った事情があったのかもしれないけど)、三笠フーズに結果として騙された農水省が悪かったというのは、どこかアンフェアな気がするのだ。無能力だったという批判はありえるとは思うけどね。
農水省は騙されて気の毒だという意見が、例は悪いかもしれないけど、オレオレ詐欺にひっかかった老婆が気の毒だ、というのと同じように全く聞かれなかったのは、僕は意外だった。

あるいは逆に農水省の役人が彼らを縛る法律を超えて、一次流通から、ブローカーを経てメーカー、販売店を調査して膨大な人的資源を使っていたとしたらどうなのだろうか。おそらく、そんな事をしていたら、農水省はパンクしてしまうだろう。
それより何も、こういった職務外の仕事を勝手にする事自体の方が問題だろう。

実は、僕たちは、官僚に関して、彼らが何を考えているのか、あまりにも知らないのではないか。
たまに、官僚OBという人々がテレビに出てきて、いろいろと批判はしているが、それは、無駄が多いとか、天下りはひどいといった紋切型の言葉だけしか聞かれない。

白洲事務次官は、何故、農水省に責任は無いと言ったのか、本当の事を今からでも聞きたい。

まさむね

大相撲、その”粋”の危機

「週刊現代」の八百長疑惑記事をめぐって、大相撲協会が提訴し、横綱・朝青龍が出廷した。

信じがたい事だ。
土俵の上での勝負が真剣だったのかどうかという事を法廷で決めてもらうなんて、大相撲も堕ちたものだ。

確かに、大相撲と八百長は切っても切れない縁だ。
ただ、それはだから大相撲はインチキだという事ではない。
どれが”実”で、どれが”虚”かを妄想をめぐらせてあれこれ詮索する。これぞ”通”の楽しみというものではないだろうか。

また一方、先場所、立会いに両手をつくという基本動作が、再度、厳格化され、おかげで多くの力士が戸惑ったという出来事があった。
朝青龍は、この立会いの厳格化のせいで調子を崩したとも言われている。

大相撲って伝統の国技だったんじゃないの?立会いっていう基本的な部分のルールが未だに曖昧って、なんという大らかさなのだろうか。

恐らく、これらの大相撲的大らかさを、そのものとして楽しめる”通”の振る舞いを”粋”という。
なんでも、わかりやすく、明確にしたいという子供っぽい態度を”野暮”という。

八百長問題、ルール問題、男女差別問題、理事会問題、暴力問題、それぞれの問題は、各個にどんどん野暮な方向に進んでいるような気がする。

気が付いてみたら、大相撲がただのスポーツになっていたなんてゴメンだ。

まさむね