創価学会は民族である。 ~『平成宗教20年史』書評~

要するに、創価学会の会員にとって、自分達の人間関係を維持するために、信仰という要素はほとんど必要とされなくなった。集まりがあれば、一緒に南無妙法蓮華教と唱えるかもしれないが、それは、習慣にすぎなくなっている。座談会では、日蓮の仏法にもとづく特殊な仏教用語が用いられるにしても、それは仲間内で使われる隠語のようなものにすぎない。
こうした創価学会の実態を見ていると、私は次第に、創価学会というのは必ずしも宗教組織ではないのではないかと考えるようになってきた。それは、むしろ「民族」に近いものなのではないか。最近では、そのようにさえ考えている。
-「平成宗教20年史」(島田裕巳)P218-

戦後、多くの若者が都会に出てきた。
いわゆる集団就職というやつだ。
彼らは、それまで、彼らを育んできた故郷、先祖、家族といった共同体から引き剥がされ、個々人がバラバラな存在として、都会に投げ出されたわけである。
そんな彼らの心のよりどころとして、爆発的に会員を増やしていったのが創価学会だ。
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その時代、明らかに創価学会は一定の役割があった。
そして、時に周囲とぶつかりながら、時に排他的と言われながらも、政治勢力として公明党を進歩発展させ、自分達の権利も社会に認めさせようと努力し、独自の発展を遂げてきた。
そして、そのようにして時を経て、現代は、その時代に創価学会に入会した人々の二世、三世の時代になっている。
彼らは生れついての学会員である。
周囲も学会の人が多い。
その教えに沿って教育される機会も多い。
したがって、その世界観、人間観、日本観なども、教えに沿って形成されていく。
さらに、人間関係も学会を中心にして形成される。
住環境も、学校も、仕事も、結婚もその創価学会の世界の内部で完結して行われるようになる。

彼らにとっては、逆に、創価学会に背を向ける事自体が不自然なことだし、考えられないことなのだ。
勿論、その事自体、他の人が文句を言う筋合いの問題ではないし、尊重されるべきものだと思うが、上記の状態を踏まえて、敢えて極論するならば、日本にあって、日本ではない存在、それが創価学会という存在なのである。
冒頭でも記したように、本書の著者である島田裕巳氏は、このような状況を指して、創価学会は「民族」であると述べているのだ。
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おそらく、2CHなどで、創価学会が必要以上に攻撃されるのは、多くの人々にとって創価学会という存在には、他民族の匂いがするからなのであろう。
それは、例えば、池袋にチャイナタウンが出来るというニュースに対して、漠然とでも不快感を感じてしまう感性と同根の嗅覚なのだと思う。
その嗅覚自体が、いい悪いという事をここで判断する力も意志も私にはないが、少なくとも本書が「民族としての創価学会」という新しい観点をもたらしてくれたという事だけを指摘しておきたかったのである。
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バブル経済からの時代からバブル崩壊直後に流行した宗教に近い現象として、自己啓発セミナーというものがあった。
-「平成宗教20年史」(島田裕巳)P50-

本書が面白い点は、平成の時代を概観し、いわゆる宗教だけではなく、少しでも宗教的と思われるような出来事(例えば、サイババ、酒鬼薔薇、ヤマギシ会、靖国神社、スピリチュアルブーム等)も扱っているということだ。
さらに、興味深いのは、昭和の終わり頃から出現した「自分探し」をする若者の答えを提供した動きの一つとして自己啓発セミナーをも視野に入れている点だ。

僕は、この自己啓発セミナー系のビジネスが現在でも盛況なのかどうは知らないが、不況の中、自己啓発セミナー受講のような高額ビジネスは厳しくなっていくと思う。しかし、一方で、人々が潜在的に持っている「自分探し」の終着駅探しの欲求はなくなるわけではない。必ず残る。
そして、その欲求は、別の方向に流れていくに違いないと思われる。

宗教以外のもので、その先にあるのは何なのだろうか。
おそらく、最近、最もブレイクしている勝間和代さんのビジネス本などもその一つではないかと僕は密かに思っている。
自著の中で、「勝間本からのご利益」などと言っている”信者”の言葉を堂々と載せているのを見ると、そんな匂いを感じなくもないのだ。平成宗教20年史の次に来る21年目、すなわち来年、勝間ブームの行く末にちょっと興味がある。

まさむね

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