紳助の紳助による紳助ためのバラエティはもう結構だ

毎月、「TVnavi」というテレビ雑誌を読んでいるが、視聴率ランキングにいつも違和感を感じることがある。
関西地区のバラエティ部門において「クイズヘキサゴン」(以下、ヘキサゴンと略す)と「行列の出来る法律相談所」(以下、行列と略す)の視聴率が毎号、ダントツなのだ。

でも、そんな面白いか、このヘキサゴンと行列。

言うまでもなく、この2番組は、島田紳助の司会で進行される。
本来は、それぞれ、クイズ、法律相談がメインなはずなのだが、いつの間にか、紳助の雛壇ゲストに対する、辛らつな仕切り(いじり)の時間がやたらに長く、それ自体が番組の売りとなっている。

そしてゲスト達は、あくまで紳助のネタのためのキャラであることに徹する。
石田純一=女たらし、東野幸次=腹黒、磯野貴理=嘘付き 羞恥心=おバカ、波田陽区=つまらない芸人という具合だ。

ある事ない事織り交ぜて、”紳助組”の内輪ゲストに対してイジりまくる芸は、紳助の持ち技として他の追随を許さない事は認めざるを得ない。
ただ、画面から感じられる紳助とゲストの力関係があまりにも露骨なため、時に、その場のクウキが不愉快に感じられてしまうのだ。

「検索バカ」(藤原智美)によると、「クウキとはその場でできあがる人間同士の力関係です。リーダー的な存在がありそれを軸にできあがる暗黙の秩序といっていいでしょう。」というが、まさしく”ヘキサゴン”と”行列”は、紳助を頂点とした暗黙のクウキを必死に読もうとするゲスト達の競い合いにも見える。
僕には、紳助に場面を振られたゲストが、エサを投げてもらって喜んでいる動物園のサルに見えてしまうのである。

しかし、結局は、ゲスト達の発言は、最終的には紳助の話芸のネタとして消費されていく。
視聴者は、紳助の、紳助による、紳助の時間を見せられる事になる。それは紳助の支配欲を、深読みするならば、コンプレックスの裏側を見せられる事でもある。

一度、番組がこういう風景に見えてしまうと、このクウキの臭みを看過できなくなってしまう。
おそらくこれが、この番組の高視聴率への違和感の原因なんだと思う。

でも、もしかしたら、これは、関西と関東との感覚の違い?
一方、関東では、「笑点」の視聴率がいつも高いっていうのも、これはこれで信じられないのだが...

まさむね

 

イノセントラブとスキャンダル勝負あった!?

月9ドラマ「イノセントラブ」の展開があまりにも息苦しい。
堀北真希演じる佳音の”心情”にベッタリと寄り添わないと、とても見続けるのはつらい。
客観的に、彼女の行動を追っていくと、覗き、盗み聞き、不法侵入、出まかせの嘘、その場のごまかし等が満載で、奇行少女といった感じだ。
おそらく、殉也(北川悠仁)の絶対的心の広さ(何をやっても最終的に許す優しさ)があるから物語がかろうじて成立しているのではないか。

こういった純愛物は例えば、「恋空」なんかもそうだけど、映像にしちゃうとイメージが限定されすぎちゃって、感情移入しにくくなっちゃうんじゃないかな。
時代の流行っていう意味で、厳しいような気がする。
80年代の大映ドラマや90年代の野島ドラマ等の不幸物は、もう喜劇としてしか見られないからね。

一方、日曜劇場「スキャンダル」の華やかな展開は「イノセントラブ」の息苦しさと好対照だ。
第4話を終わった時点で、先が全く読めない。
今まで隠されていた過去、お互いの人間関係が、どのように、露呈していき、そして収束していくのか。
沢山いる個性的な登場人物達がそれぞれに、事件と過去に巻き込まれていく、その展開は、新しさを感じるよね。
今後、このドラマの感覚を模したドラマが多産される予感すらする。

さて、この「スキャンダル」は「セックス・アンド・ザ・シティ」の多大な、影響下にあると言われている。
だとするならば、「セックス・アンド・ザ・シティ」同様に、主役の4人のライフスタイルとか年齢とかを元にして、それぞれが着ている服のブランドやセリフの言い回しのコード(意味)が理解できればもっと楽しいんだと思う。
金持ちの奥さんってこういうブランド着るんだよなとか、役人の奥さんはこういう色好きだよねとか、年増OLってこういう言い方するよねとか、みたいな、いわゆる、あるある感覚を楽しむのも一つの楽しみ方だよね。
でも、僕にはそれを解読する知識は無いのが、残念。
唯一、前回、みんながたまき(桃井かおり)の家に泊まるシーンで、たまきがその場で用意した寝巻き用のTシャツが、ストーンズ、キッス、クラッシュ等のロック物だった事で、たまきの趣味と部屋の汚さの起源がわかる程度だ。

「イノセントラブ」の浅野妙子と「スキャンダル」の井上由美子。
浅野は「ラブジェネレーション」「神様、もう少しだけ」「大奥」「ラスト・フレンズ」、井上は、「ギフト」「GOOD LUCK!!」「14才の母」「ファーストキス」等を手がけている。

1961年生まれの現代を代表する二人の脚本家だが、今回の「イノセントラブ」と「スキャンダル」の勝負は見えた!というのは早計だろうか。

まさむね

 

渋谷警察署裏の金王神社を散歩

渋谷駅東口を出ると大きな歩道橋がある。
渋谷で、時間がある時は、この歩道橋のエレベータに乗ってみよう。

実は、このエレベータってちょっと前に一世を風靡したシンドラー製なんだよね。
歩道橋のエレベータだから、2Fまでなんだけど、一瞬のスリルが味わえる。
本当に微妙なスリルなんだけどさ。

さて、この歩道橋を渋谷東警察署の方に降りて、警察署の横の道に入ってちょっと行くと金王八幡宮がある。
ここは、今から900年位前、このあたりを治めた渋谷氏の居城があったんだってさ。
だから、渋谷の中心って歴史的に言えば、このあたりだったんだよね。

この、金王八幡宮、ビル街の中の異空間。鬱蒼とした敷地内に、木の幹に穴が開いてる御神木もあったりする。実はこの八幡宮って東京には結構あるんだよ。
代々木八幡、大宮八幡、世田谷八幡、鷺宮八幡、太子堂八幡、北澤八幡、雪谷八幡、碑文谷八幡、蒲田八幡...
どちらかといえば、渋谷、世田谷、目黒あたり、東京の西南に多い。
このあたりに、源氏に従う武士が多かったんだろうね。八幡宮は源氏の氏神だからね。

ちなみに、逆に東京の西北には氷川神社が多い。
一方、東京の東側には神田明神なんかもあるけど、平氏の根拠地だったかもね。

ちなみに、よく、渋谷っていうのは谷が多いから渋谷って呼ばれてるって説も聞くけど、歴史的にはどうなんだろう。
渋谷氏といえば、遠く歴史を経て、日露戦争で活躍した東郷平八郎もつながっている。
この渋谷区の原宿に東郷神社があるってのもなんかの因縁かもしれないね。

まさむね

 

 

 

筑紫さんはオナラが臭そうな人だった

筑紫哲也さんがガンで亡くなった。

僕たちの世代にとって、ジャーナリストと言えば、筑紫さんの顔が思い浮かぶ程、”それらしい”人だった。
このキャラクタ力は強固だ。
そういう意味でマスコミ既得権の代表者みたいな人だったよね。

だから、同業者であるマスコミ人はあまねく、筑紫さんに哀悼の意を示す。
「週刊ニュース新書」の田勢康弘さん、「JNN報道特集」の田丸美寿々さん、そして鳥越俊太郎さん達は異口同音に、「ブレない人」という言い方をしていた。
ブレないという事は、いつも同じ事を言っていたという事でしょ。
既に視聴者が持っているイメージ通りに振舞って、新しいこと考えなくていいんだから、ある意味、楽な立場だったんだろう。キャスターの発言で面白かったのは、安藤優子さん。「1980年頃、アメリカからの報道時、私が筑紫さんの通訳をしたんですよ。」って、ここに来て、朝日新聞・ワシントン特派員が看板の筑紫さんの英語力の無さを暴露するか!?こういうのを無邪気な悪意って言うんだろうな。

一方、2chでは、彼の事ボコボコ。
「慶んで、哀悼の意を表します」「日本の癌も癌には勝てず」「癌細胞に感謝!」等、そこまで言うか。
ニュー速+でのスレ数は、1日で30を越える。アメリカ大統領選挙、小室問題をはるかに上回る。大人気だ。

いつもそうだが、マスコミの言論とネットの反応の相反を再確認させられた。

僕の個人的な印象では、オナラの臭そうな人。
換言すれば、裏ではいつもいいもの食べてそう、あと、肉とか、辛い物好きそうな人だったよね。

まさむね

小室哲哉、夢に裏切られた男

僕がここで書いてみたいのは、彼がいろんな人に騙され、いろんな人を騙そうとして詐欺罪で逮捕される経緯というような裏の話ではない。
彼の音楽が1998年あたりから、何故、売れなくなったのかという事と、彼は何故、アジアに進出しようとして、そして失敗したのかという問題だ。

小室さんのプロデュース曲が次々とミリオンヒットを続けていた時期、それは1990年代の中盤から後半にかけてだ。
時は、女子高生ブーム全盛。僕の個人的なことを言えば、この頃、「女子高制服図鑑」とか「100万人の女子高生」というCD-ROMの制作にかかわっていた。
同じ頃、彼がプロデュースした安室奈美恵や華原朋美は、コギャル達のカリスマと言われ、楽曲は、ストリートコギャルの応援歌としてもてはやされていた。
小室さんの作る曲、詞は確実に彼女達をリアルに捉えていたのだ。

Lonelyくじけそうな姿 窓に映して
あてもなく歩いた 人知れずため息をつく
I’m proud 壊れそうで崩れそな情熱を
つなぎとめる何かいつも探し続けてた

-I’m proud -(華原朋美)

今日もため息の続き
1人街をさまよっている
エスケープ昨日からずっとしてる
部屋で電話を待つよりも歩いてる時に誰か
ベルを鳴らして!

-SWEET 19 BLUES-(安室奈美恵) 

当時、小室さんは、これらの曲を、スタッフ達と十分に、戦略を練って作っていたんだと思う。
そしてその戦略は見事成功した!
音楽業界におけるマーケッティングというものが、まだ、嫌らしさとも、嘘っぽさとしてとも、意識されていなかったこの頃、コムロサウンドは街を席巻したのである。

しかし、1998年頃に潮目が変った。それは音楽界だけでなく、社会的にも変った。

この頃、この社会的変化を象徴する二つの事件が起きている。

一つが、山一證券の廃業だ。
これは、「学校に行って、いい企業に入って真面目にやっていれば一生安泰」という夢の崩壊の象徴である。
そしてもう一つが、和歌山の砒素入りカレー事件だ。
こちらも「日本中どこにでもある共同体。そこに普通に暮らしていれば安心」という夢の崩壊の象徴である。

社会学者の山田昌宏氏は、この年に起きた、大きな社会的変化を1998年問題としてまとめている。
以下に上げるものの数が、この年に激増しているというのだ。

自殺者数
青少年の凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦)の数
成人事件の強制わいせつ認知件数
セクハラ相談件数
児童虐待相談処理件数
離婚件数
できちゃった結婚の数
不登校児童の数
高校の中退率

このような現象は、それまで日本を支えていた社会システムの崩壊と言い表せると思う。
そして、コギャル達は、厳しい現実を前に、夢から醒めて、ルーズソックスを脱ぎ、ストリートから、それぞの家の中へと戻っていた。
それとともに、彼女達の応援歌=コムロサウンドも街から消えていったのである。彼が生み出したミリオンヒットは、1997年の安室奈美恵のCan you celebrate?と華原朋美のHate tell a lieが最後になった。コギャルの卒業ソングと解釈されたCan you celebrate?と、”嘘”との決別を表現していたHate tell a lieが、小室さんの最後のミリオンヒットとなった事実は、音楽シーンの流行にとって、誠に示唆的であったと思う。

一方、音楽界では1998年という年は、多くの画期的な新人が登場している。
宇多田ヒカル、浜崎あゆみ、aiko、椎名林檎、MISIA等、自分の個性を、自分の言葉とサウンドで表現できるミュージシャンの多くはこの年のデビューである。
大人が作って、タレントに歌わせ、タレントと同世代の女の子がCDを買い、メガヒットを記録するといった業界にとって幸福な時代。実は、この頃には既に終わっていたのかもしれない。
別の言い方をするならば、多くの視聴者はこの頃、より、共感出来る曲、リアルで本物の叫びとサウンドを求めたのである。
しかし、残念な事に、小室さんはこの流れについていけなかった。この年、彼の主な仕事は、鈴木あみをデビューさせることだったのだから。

勿論、パブリックイメージとしての小室哲哉は、まだ全盛である。特に小室さんを利用しようとする人々にとっては。
その翌々年の2000年の沖縄サミットでは、各国首脳の前で小室哲哉プロデュースの「NEVER END」という曲が披露されている。
小室さんの人生の絶頂とも言えるイベントである。

しかし、水面下では既に、終わっていた小室さんにとって「NEVER END(決して終わらない)」という曲は、今から見ると皮肉にしか聴こえない。

Never End Never End 私たちの未来は
Never End Never End 私たちの明日は
Fantasy 夢を見る 誰でも夢を見る
数えきれない やさしさが支えてる

-NEVER END-(安室奈美恵)

さて、この「NEVER END」では、Fantasy(夢)が歌われているが、実は、小室さんにとってのFantasy(夢)は2つあった。
一つは、「小室哲哉の楽曲は時代を超えて、永遠に通用するものだ。」という夢であり、それは上記のような時の流れによって否定されてしまった。

そしてもう一つは、「小室哲哉の楽曲は国境を越えて通用するものだ。」という夢であった。
実際に、今日の小室さんの転落の大きな原因は、彼の大陸進出の失敗と言われている。
実は、彼はここでもFantasy(夢)に裏切られたのである。

『Jポップとは何か』(烏賀陽弘道)によると、「Jポップ」という名称が運んだのは「日本のポピュラー音楽が世界に肩を並べるようになった」というファンタジーだったという。
すなわち、元々、Jポップという名前には、ある種の欺瞞があったというのだ。
それは、日本国内市場向けの音楽であるにもかかわらず、Jポップという名前によって、あたかも世界で通用しているかのようなイメージを生み出し、それによって国内市場で成功させようとしたのだという。
これは、”世界の”という冠詞をつけることによって、国内向けに売り出そうとする手法と同じ発想だ。世界のジャイアント馬場とか、世界の北野武とか、世界の三宅一生とか...

恐らく、小室さんは、このJポップのFantasy(夢)をベタに信じてしまったのだ。
しかも、先導するのは自分だという自負もあったんだと思う。

しかし、夢は夢だったのである。本来だったら、アジア市場を研究して、海賊版天国である事を踏まえるべきだった。パッケージはあくまでも宣伝という位置づけにして、コピーされることを前提に、とにかく認知度、高級なイメージを広めて、ライブでビジネスという方向も考えられたかもしれない。

このように、小室哲哉は、楽曲・才能の永遠性という夢、世界性という夢、いろんな意味で、夢に裏切られてしまったのだ。

さらに言えば、小室さんは、逮捕直前、最後の最後に誰かが救ってくれると夢想していたともいわれている。「NEVER END」における、”数えきれない やさしさが支えてる”という夢にまで、彼は裏切られたのである。

まさむね

小金井公園近くの八幡宮を散歩

家の近所に小金井公園がある。
その片隅に八幡宮があったのでお参りしてみた。

本殿には、左巴の神紋の彫刻。八幡様の象徴だ。

神社敷地内には、八幡宮の他、猿田彦神社、三峰神社、榛名神社もあって、公園造成時に、公園内にあった祠を一箇所に集めたようだ。

日本にあるほとんどの神社はこうして、主神の他にいろんな神様が祭られている。それぞれの神様は、なんの関連もないんだけど、一緒にいると馴染んでくるんだよね。
ちなみに、八幡宮は、応神天皇、三峰神社は、日本武尊がそれぞれ祭神だ。両方とも武勇の神である。ただ、三峰神社のお遣いは狼なので、犬と同様、子守の神としても崇められている。

一方、猿田彦神社は交通安全の神・猿田彦が祭神。「火の鳥-黎明編」(手塚治虫)の、サルタヒコのモデルだよね。

神社を見学するときのポイントは、奉納の名簿。その地方の有力者(氏子)が一目でわかるからね。
内田、高橋、宮崎、庭田等の名前が見える。「だから、何だ?」ってわけないんだけど、その土地で頑張って生きてきた人たちの事が、一瞬、イメージできるよね。

まさむね

「久米宏のテレビってヤツは!?」を見た

この番組、インターネット時代を踏まえ、テレビが、テレビというシステム自身に対する自意識を打ち出しているスタイルは、今後の展開では期待できそうだ。
ようするに、「テレビってここまでしか出来ませんよ。」というテレビの限界を提示しつつ、「インターネットに対して、テレビはどんな役割が出来るのだろう。」的な問題意識をどれだけ、表現出来るのかにかかっている。
テレビやマスコミが、本当に隠したいところを隠すために、見せてもいいけど、今までは隠していたところをチラっと見せるだけでは意味がないと思う。

例えば、昨日の放送では、堀江貴文さんがゲストだったんだけど、久米宏が、堀江さんが今、どれくらいの資産が残っているのかを執拗に聞いていた。
でも、僕が見たいのは、お金の話をするんだったら、そのスタジオに居る局社員のプロデューサ、カメラマン、製作会社のディレクター、その下請けの大道具さん、ゲスト、ゲストのマネージャー、代理店の担当者、そして久米さん自身の、それぞれの1時間のギャラを比較して、それら全員で討論して、テレビ業界というものがいかに格差社会なのか、を考えるというくらいの自意識なのである。
その他、メディアのクロスオーナーシップ問題、記者クラブや電波権等のテレビ局の特権、地デジの利権等に関しても掘り下げてほしいものだ。

さて、昨日、ブログの話に及んでいたけど、福岡政行さんは、ブログには不確かの情報が沢山あって信用できないというような事を言っていたが、恐らく、この人、ブログにあんまり興味ないのだろう。
僕自身のブログはそうでもないけど、ブログ論壇といわれるような人々のブログでは、情報のソースの提示は勿論の事、それを踏まえて、事実と思考、感想をわかりやすく積み上げていくという文体のものが多い。

逆に、「永田町の右の方からの風で、云々」「小沢氏周辺によると、云々」みたいな曖昧な言い方をするマスコミの方が、胡散臭く感じられているって事、わかっているのだろうか。
来週は上杉隆さんが出るらしい。楽しみだ。

まさむね

 

米大統領選挙、オバマ氏当選

米大統領選で民主党候補のオバマ上院議員が勝利した。
歓喜する人々を見るとこちらも感動してしまった。アメリカ大統領選っていいなぁ。

報道によると公約は以下のようなものだという。

 

銀行への公的資金投入。
住宅ローン債務者救済。
公共事業に、約2兆5000億円を投入。
中間層の労働者への減税。
16カ月以内の米軍戦闘部隊のイラクからの撤退。
アフガンやパキスタンでのアルカイダ掃討作戦の強化。

CHANGEというスローガンの割には、普通で目新しい感じがしないのは僕だけだろうか。
行政システムや政治システムの変革といった根本的なCHANGEではないのは、アメリカは、そのあたりのシステムが既に出来上がっているからなのであろうか。

恐らく、黒人初の大統領誕生といった、大きな意味でのアメリカの歴史のCHANGEなのだろう。
ただ、オバマ氏自身はこの点はあまり強調されていないように思われる。
まだまだいろいろと事情があるんだろうな。

ところで、僕が気になっているのは、今回の選挙でネイティブアメリカン達の投票行動だ。黒人の95%、スパニッシュの65%がオバマ氏支持だったらしいけど、彼らはどうだったのだろう。
アメリカやカナダの田舎町に行くと場末のバー兼ストリップショー権カジノみたいなところで彼らって、たむろしているでしょ。
彼らの暗い目から見たら、オバマ氏ってどのように映るのだろうか。

小浜市とか小浜温泉の人々なんてどうでもいいから、そういうところを報道してもらいたい。

まさむね

漫才には何故、ボケとツッコミがあるのか

漫才には何故、ボケとツッコミがあるのだろうか。
今日はちょっと考えてみた。

元々、日本では、芸能というものは、神様に対して奉納するためのものだった。神楽も祭りも相撲もそうだが、それらの芸能は、神の声や力を人間の世界に降ろすための儀式なのである。
例えば、愛媛の大山祇神社では毎年、春と秋に一人相撲という神事があるが、これは、人間が「稲の精霊」と相撲をとる(ハタから見ると、一人で相撲をとっているように見える)儀式である。

同様の事は、日本の芸能の本流、能楽にも言える。
能の特徴は、超自然的な存在が主人公になっているという点であるが、多くの舞台では、シテ(主役)とワキ(脇役)が登場する。
シテは亡霊や鬼など、”あの世の存在”からの声を舞台に降ろすのに対し、生身の人間である脇役(ワキ)が彼らの話を聞き出し、怨念を消してあげ、”あの世”に帰っていただくという構造を持っているのである。

漫才の直接の源流である三河万歳、尾張漫才等の正月を寿ぐ民間芸能も、太夫という祝詞(神を崇める言葉)を上げる役と、才蔵という太夫の祝詞を繰り返す役の掛け合いの話芸である。
ようするに、これは、あの世の言葉を降ろす太夫=ボケ、それを繰り返す才蔵=ツッコミという漫才の形が見えてくるではないか。

だから、ボケは、いかに普通の人間の思いもつかない言葉(=あの世からの言葉)を吐く事が大事になる。
また、ツッコミはボケが出してくるメチャクチャな言葉によって混沌としてしまった空気を、いかに上手く日常の空気に引き戻すかが腕の見せ所となるのだ。

僕の知っている限り、欧米のコメディアンは基本的に一人芸で観客を笑わせる。日本で言うところの漫談である。
恐らく、その源流には、キリスト教の聖職者の説教のスタイルがあるのだと思う。(一方、日本の落語が正座で行われるのは、それが仏教説教の伝統を汲んでいるのかもしれない。)

もしも、日本のお笑いが、上記のように知らず知らずのうちに歴史的な制約の中にあるとするならば、日本とは別の歴史を歩んだ地域のお笑いを学ぶ事によって、それ以外の可能性が、もっともっと沢山見出せるかもしれない。
ケニアの、グルジアの、ウルグアイの、ベトナムのお笑いがどうなっているのか、僕たちはあまりにも知らない。

このあたり、もっと世界に目を向けてもいいのかもしれないよね。
世界のナベアツなんて口で言ってるだけじゃなくてさ。

まさむね

 

C 型肝炎治療の副作用 顔面痒みが辛い

C型肝炎の病状が進展しない。

4月と8月に人工透析治療をそれぞれ2週間づつ行い、週1回のインターフェロン注射と、朝晩のレベトール投薬を続けているが、ウィルスの数値は下げ止まってしまった。
すなわち、体内のC型肝炎ウィルスはまだ残存している状態なのだ。
1回目の人工透析治療は、かなり有効だったようだが、2回目はそれほどでもなかったという事なのだ。

今の問題は、顔面、頭皮、耳などが激しく痒い事。
薬と注射の副作用らしいけど、それが四六時中なのでちょっとまいる。

極端に言えば、「ブラッディマンディ」(TBS土曜ドラマ)の感染症患者のように、左右の頬っぺたと額の真ん中、右眉の上が赤く貼れちゃっているんだよね。

今、すぐに治療方法を変えるわけにもいかないし、ちょっと悩ましいところだ。

まさむね