「モンスターペアレント」とは誰だ?

フジテレビ火曜日22:00からの「モンスターペアレント」が面白い。

大筋で言えば、米倉涼子扮するやり手の国際弁護士が、ある町の教育委員会の依頼を受け、学校に理不尽な要求を突き付ける保護者と対決するドラマである。

しかし、法律を駆使して、白黒つけるようなグローバリゼーションの世界の住人が、突然に、談合と協調を行動原理とする村落共同体(教育委員会と学校)に迷い込み、法律も協調性も無いモンスターペアレント達に向き合い、自分の手法で物事を解決しようとするが、うまくいかない(結局いつも頭を下げさせられる)のである。

モンスターペアレントの第一回目は木村佳乃、そして二回目が南野陽子。

はたから見ていると(ワイドショー的感覚で見ていると)、全く不条理な要求を突きつけて来るそれらの保護者に対して、法律という武器を封印された米倉涼子が二連敗。

二回目までを見る限り、強さから言えば、個人の論理>共同体の論理>法の論理の順とされてしまっているところに、妙なリアリティがある。

米倉のストレスの溜め方、あるいは、いつ反撃出来るのかという興味が、次回からの放映をさらに楽しみにさせるという演出は、毎回、視聴者に対して、ストレスを解消させる事を主目的として提供されている他のドラマに比べてユニークである。

しかし、話の主題はおそらく、毎回登場するモンスターペレント達に手を焼き、その人間的レベルの低さを軽蔑していた米倉が、共同体の論理を理解できていないという意味では、実は母親達と全く同じなのだという事に気付いていくという方向になっていくに違いない。

おそらく、国際司法の現場では負け知らずの米倉が、己の知らない自分自身のモンスター性に気付くという展開がオーソドックスだと思われるが、はたしてどうなるであろうか。

まさむね

ROOKIESと戦後処理

今後、日本社会が、増加する下流層をどうすべきかという方向性(価値観)は2つあると言われている。

下流の人々の幸せを完全に保障するEU型
下流の人々にも等しく階級上昇の思想とチャンスを与えるというアメリカ型

TVドラマ「ROOKIES」のストーリーは、上記の2つの葛藤ドラマであると以前に書いたが、ここ数回の放送を見ていると上記に加えて、別のテーマが浮上してきているように思える。

それは過去の罪は消せるのか?消せるとしたら、どうしたらいいのか?というテーマだ。

前の年の夏の甲子園大会予選で大乱闘を起した二子玉川学園野球部員は周囲の、教師、他の生徒、先輩、後輩、他の高校、そしてマスコミ等から、過去の過ちを攻め立てられる。
それに対して、野球部員は、暴力を抑制し、努力している姿を周囲に見せる事によって、自分達がもう、かつての彼らではない事を証明しようとする。

これは、ちょうど、戦後の日本が先の大戦での罪科をどのように乗り越えていけばいいのかという戦後処理のテーマのアナロジーとなっている。
このドラマを、憲法九条によって武力を抑制された日本が、今後も繰り返されるであろう他国や反体制勢力からの謝罪/賠償要求に対して、どのように対応したらいいのかという事の一つの解決策を提示しているというのは評価しすぎであろうか。

まさむね

松田聖子と中島みゆき

松田聖子と中島みゆきが富士フィルムのスキンケア商品のCMで共演した。

イメージで言えば、この2人、正反対のポジションにいる。

お嬢様と労働者
バルコニーと四畳半
憧れと恨み
青い珊瑚礁と冷たい雨
そして特権と宿命…

しかし、2人を象徴する言葉を対比させてみると、それが多くの女性が持っている表/裏の2面性に対応していることに気付かされる。
それは、多くの女性は、自分の中に松田聖子と中島みゆきを持っているという事でもある。

例えば…

平日は松田聖子、土日は中島みゆき
昼は中島みゆき、夜は松田聖子
上半身は松田聖子、下半身は中島みゆき…

CMの中では、宿命(動かない犬が表象している?)を動かそうとして動かせない中島みゆき。

それを、特権階級的な余裕で見守るお嬢様・松田聖子。

そして、二人の視線が合い微笑む。
気持ちが触れ合う最高のシーンだ。
同時にそれは、視聴者の中の二人が自然と融合する瞬間でもある。のかな?

まさむね

寺山の肝炎もC型か?

●C型肝炎、陰性手前でウィルス値停滞。ウィルスも死に物狂いですからとは陽気なお医者様。
白血球の値が週によって上下。原因は不明。
インターフェロンを毎週投与しているせいか、だるい毎日。

●最近、寺山修司も肝炎だった事、肝硬変で死んだ事を知り、興味さらに深まる。
はたして、C型だったんだろうか?

●イーモバイル、米民主党大統領候補オバマ上院議員の演説をパロディー化し、背広姿のサルが民衆に演説を行うという内容のCMを放映中止に。
黒人への人種差別的表現だとの指摘を受けたためという。
TVドラマ「CHANGE」の朝倉啓太首相への冒涜に対するJ系圧力、あるいは自主規制かと思ったのに…

●中国産ウナギ偽装問題の魚秀社長、『人生の素晴らしさに気づく』 の著者・中谷彰宏氏と同姓同名なのが、意味無く笑える。
そのイケメンはは無用の長物か。

●養殖海老詐欺のワールドオーシャンファームの黒岩会長。作り笑いがそのまま固まったような顔に大笑い。

●毎日新聞変態記事報道問題、マスコミでの扱いとネットでの炎上の落差激しすぎ。
毎日側の「記事配信を停止することで、批判におこたえしたい」で逃げ切れるとか。
俺の知っている限り、唯一、テレビではミヤネ屋が報道。「内容が過激すぎてテレビでは紹介できません」には笑った。

●偽装横行の昨今、こうなったらマスコミには他社追随報道ではなく、公正な取材報道を熱望。

例えば、田舎の乾物屋で期限切れのレトルトカレー販売容疑とかで、女店主(81才)への独自の追い詰めインタビューとかの「勇気」に期待。

●また、マスコミには、全世界の特派員に観光地での日本人の記名落書を収集してもらい、実名報道してもらいたいです。

まさむね

団塊にとっての千の風

千の風.gifヒット曲は、時代の息吹を吸い、時代に愛されることによって、メガヒット曲となる。

2006年の紅白歌合戦で歌われ、昨年、メガヒットを記録した「千の風になって」(秋川雅史)は典型的なメガヒットであった。

ちょうど2007年は団塊世代のピーク(1947年生れ)が定年退職を迎えた。
すなわち、この年は、この世代の多くが、仕事→趣味へのギアチェンジした年なのであった。

団塊世代の特徴を一言で言えば、集団就職、大学進学、都会への憧れ等を理由として、故郷を捨ててきた世代なのである。
その青春時代(1960年代後半~1970年代前半)の空気をフォークソングという形式に乗せて表現した詩人が北山修だった。
彼は、団塊世代の共通心情を、風に託した。
彼の描く風は、魂の不在であり、過去の不在であり、故郷の不在であり、愛の不在の象徴であった。

あの時 風が流れても変わらないと言った二人の心と心が 今はもう通わない…「あの素晴しい 愛をもう一度」
帰っておいでよとふりかえってもそこにはただ風が吹いているだけ…「風」
冷たい風にふかれて夜明けの町を一人行く悪いのは僕のほうさ君じゃない…「さらば恋人」

「千の風になって」のヒットは、このような団塊世代の心に、かつて彼らがこだわった風が、再度、吹いた結果ではないのかと想像してみたい。

ただ、この風は、40年前に北山修によって、歌われた不在の象徴としての冷たい風、別の言い方をすれば、現実という風ではなかった。
千の風は、死んだ魂に乗って吹く愛と自由に溢れた暖かい風となって、彼らの心をひきつけたのだ。
おそらく、その風が自由に吹きまくる大きな青空、緑の大地、夜の星空は、かつて団塊世代の幼き頃の思い出の風景だったに違いない。

しかし、その風景は、既に捨てて来てしまったもの、今はもう無い。

まさむね

光源氏は何故、光なのか

光源氏.gif天皇の皇統が変るときに、その漢風諡号(おくりな)に「光」がつく事が知られている。

天武系の皇統が称徳天皇で途絶えた時、天智系から即位した天皇は、光仁天皇との諡号がおくられた。
また、陽成天皇が廃された後、2代前の文徳天皇の弟、が即位。光孝天皇との諡号がおくられている。

興味深いのは、それぞれの「光」天皇の前の天皇(系統が途絶えた天皇)は2人とも歴史的な評価が極めて良くない。
例えば、称徳天皇は、道鏡という怪僧にイカれて、皇位を譲ろうとしたとか、陽成天皇は、三種の神器の一つの勾玉を覗こうとした、宮中で殴殺事件を起した等という薄暗い噂によって、不徳の天皇のレッテルを貼られているのである。
ちなみに、江戸時代の後陽成天皇は、その子の後水尾天皇との仲が悪かったが、後水尾天皇は、父帝を貶めるために、敢えてこの追号を選んだと言われている。

さて、「源氏物語」が紫式部によって書かれ、宮廷で大ブームを起していた時代、この書物は、正史には絶対書けない宮廷秘話が物語の形態を借りて表現されているというのは、公家の間では暗黙の常識となっていた。

同様に上記の「光」が、別系統の天皇名につけられるという事も常識だったはずだ。

それを考え合わせると「源氏物語」の主人公が、「光」の君と呼ばれたという事は、この物語の展開を暗示する伏線となっているということも分かる人には分かったのではないか。
その通り、物語の中では、桐壺帝の後を継いだ長男の朱雀帝の後、朱雀帝とは別系統の光源氏の子が冷泉帝として皇位につくのであった。

源氏物語の奥深さはこういった素人の邪推をもゆるす懐の深さにもあるのではないかと思う。

まさむね

寺山と永山と加藤智大

今回の秋葉原の通り魔事件に触れて、今から40年前に起きた永山則夫の連続ピストル射殺事件の事が気になりだす。

母親との確執、特異な少年時代、北の大地霊、染付いた訛り、劣等感…

寺山修司が内面に抱えたコンプレックスは、同様に永山則夫が抱えた問題でもあり、それは同時に、加藤智大の底流にも流れているものか。

『永山は殺人鬼という名の異常者か?そうではない。もしも、永山が最後に手に入れたのが、ピストルでなく、想像力だったとしたら、この事件はまったく性格の異なったものになったにちがいない。』

寺山修司は永山則夫に関して、上記のようにコメントした。

今、寺山が生きていたら、今回の事件をどのように評した事であろうか。

まさむね

源氏物語は奇跡だ。

源氏物語.gif言うまでもないが、源氏物語は今から1000年も前の平安中期に書かれた長編物語である。

桐壺帝の子・光源氏とその後妻・藤壺とのスキャンダル
光源氏と姫君達との恋バナ
六条御息所の怨霊が巻き起こす怪奇
源氏と右大臣家との権力闘争
王朝の雅な描写
物語の底に流れる仏教観
前衛芸術(本文の無い巻で源氏の死を表現)

あらゆる要素を含んだ懐の深い孤高の文学であることに異論を唱える人はあまりいない。

ここには、ワイドショー的な俗悪と繊細な文学的描写が絶妙なバランスで存在しているのだ。

それは、現代から見ても、突出している。
例えば、1000年経った現代でも、誰が皇室のスキャンダルを小説に描けるだろうか。

井沢元彦氏は、この物語は、藤原北家がそれまでの政争の過程で潰してきた源氏を初めとする諸氏の怨念の鎮魂の物語だという。
傾聴に値する意見だし、今後、定説にすべく、より検証されいくことを期待したい。

それにしても、一般的に、歴史的名作というものは、その他の無数の作品のピラミッドの頂点に現れるものだと思う。
それなのに、源氏物語はいきなり頂点が出来ちゃったようなものだ。
奇跡というのはそういうことだ。

しかし、この物語の不幸は、日本人のほとんどがこの物語を原語で読んだことが無いという事だ。
現代語訳でも、それほど読まれていない事だ。
日本人の伝統云々を口にする輩はまず、この物語を手にとって欲しい。
勿論、私も何度目かの挑戦をしようと思う。「桐壺の巻」の壁は高い…

まさむね