団塊にとっての千の風

千の風.gifヒット曲は、時代の息吹を吸い、時代に愛されることによって、メガヒット曲となる。

2006年の紅白歌合戦で歌われ、昨年、メガヒットを記録した「千の風になって」(秋川雅史)は典型的なメガヒットであった。

ちょうど2007年は団塊世代のピーク(1947年生れ)が定年退職を迎えた。
すなわち、この年は、この世代の多くが、仕事→趣味へのギアチェンジした年なのであった。

団塊世代の特徴を一言で言えば、集団就職、大学進学、都会への憧れ等を理由として、故郷を捨ててきた世代なのである。
その青春時代(1960年代後半~1970年代前半)の空気をフォークソングという形式に乗せて表現した詩人が北山修だった。
彼は、団塊世代の共通心情を、風に託した。
彼の描く風は、魂の不在であり、過去の不在であり、故郷の不在であり、愛の不在の象徴であった。

あの時 風が流れても変わらないと言った二人の心と心が 今はもう通わない…「あの素晴しい 愛をもう一度」
帰っておいでよとふりかえってもそこにはただ風が吹いているだけ…「風」
冷たい風にふかれて夜明けの町を一人行く悪いのは僕のほうさ君じゃない…「さらば恋人」

「千の風になって」のヒットは、このような団塊世代の心に、かつて彼らがこだわった風が、再度、吹いた結果ではないのかと想像してみたい。

ただ、この風は、40年前に北山修によって、歌われた不在の象徴としての冷たい風、別の言い方をすれば、現実という風ではなかった。
千の風は、死んだ魂に乗って吹く愛と自由に溢れた暖かい風となって、彼らの心をひきつけたのだ。
おそらく、その風が自由に吹きまくる大きな青空、緑の大地、夜の星空は、かつて団塊世代の幼き頃の思い出の風景だったに違いない。

しかし、その風景は、既に捨てて来てしまったもの、今はもう無い。

まさむね

コメントは受け付けていません。