ROOKIES の思想の起源

遂に、入院が明日に迫った。
本ブログも最低、2週間程度、休止させていただきます。

さて「ROOKIES」の最終回で川藤先生はナインに向かって檄を飛ばした。

臆病でためらいがちな人間にとっては一切が不可能だ。
なぜなら、一切が不可能のように見えてしまうからだ。
あきらめて振ったバットには絶対、ボールはあたってくれない。
だが、自信を持って振れば目をつぶってだってあたることがある。
お前たちが努力して、手にした最大の宝、可能性だ。

確かに素晴らしい言葉だ。

でも、これは自分の悪い癖なのだが、素晴らしい言葉は、そのまま受け取ればいいものの、この思想の起源は何か?などと余計な事を考えてしまう。
恐らく、この発想は、アメリカ発祥のニューソート思想(気持ちを前向きに持つ事によって運命が開けるという考え方)が、生長の家等の新宗教や、自己啓発セミナー等に乗って入ってきたもので、日本の伝統社会の中から自然に出てきたものではないだろう。

僕も大好きな「ROOKIES」であるが、上記の川藤先生の言葉に対して、「じゃあ、その可能性を保証するのは何?」という疑問をぶつけてみれば、容易に「神」という発想に行き当たるような気がする。そして、この発想は「大事なのは、信じる事だ」という信仰にも近いように思える。

心の中にすんなりと入り込んで来る考え方でも、ちょっと距離を置いて見てみると、微妙な問題が透けて見える事がある。

まさむね

ROOKIES に心奪われた俺って何?

ROOKIES最終回は感動的だった。

一人の主人公の人気で引っ張るのではなく、各メンバーがそれぞれの見せ場を作った脚本と演出の力量は素晴らしかった。

個人的には、安仁屋(市原隼人)がベンチ裏で泣くシーンが一番。
野球帽のひさしが、男の涙を隠すためにあるという事を改めて思い出させてくれた。
また、御子柴(小出恵介)が奇跡の満塁ホームランを打って、感動のあまり歩きながらダイヤモンドを一周するシーンが二番。
実際に虫垂炎で入院したという小出君。本当に痛くて走れなかったのかも。
そして、球場に入れず、携帯ラジオを聴く川藤先生(佐藤隆太)が、不良達に絡まれた場面で、彼を救った上坂(遠藤要)の男気もGJ。
こういったサイドストーリーがこの物語を豊かにしてくれている。

恐らく視聴率では、「ごくせん」や「CHANGE」のほうが上であろうが、視聴率では計れないインパクトこそ、今の時代、重要だ。
例えば、そのインパクトは、2chのテレビドラマ板のスレ数に現れる。
「ROOKIES」は91にまで伸びた。通常のヒットドラマのスレ数の3倍以上だ。ちなみに、「CHANGE」は30、「ごくせん」は25だった。

しかし、一方で、今回の「ROOKIES」にかけるTBSの番宣攻勢は辟易の感がある。
ドラマの全放送時間が13時間位なのに、なにせ番宣に40時間以上かけたそうだ。
去年、今年とスポット広告料の激減という現実的な背景はあるにしても、一昔前まではあった「公共の電波でこんなことを…」という自制心はどこへいったのか。
しかも、その、なりふり構わない力の入れ方を番宣内で自慢する。
恥じらいのカケラも無い。

しかし、本放送は勿論の事、番宣(再放送やダイジェスト版も含)もほとんど、全て視聴し、さらにYoutubeで各本放送をそれぞれ3回は再確認(再涙)してた俺って、何?

まさむね

ドラマに見る階層とテレビ

テレビ各局で地デジキャンペーンが激しい。

僕個人的には、デジタルになって画像の質がよくなることによって、葬式時に紋付を着た芸能人の家紋が確認しやするくなる(だろう)という楽しみがあるが、一般の人にとってはどうなんだろう。面倒くさいというデメリットの方が大きいような気もする。まぁ、あと3年後だから、その時の混乱は別の意味で楽しみだ。

さて、その地デジと連動して、一方で徐々に普及しつつあるのが、薄型テレビだ。
総務省の統計によると2008年に入って、約3分の1の世帯に普及しているという。(本当か?)

最近のドラマで気になるのが、所有するテレビによって登場人物の所属階層を表現しているという巧妙な嫌らしさだ。
無意識的に薄型=上流、ブラウン管=下流というメッセージ(すなわち、早く買い換えろメッセージ)が送られているような気がする。

典型的なのは、テレビ朝日の「四つの嘘」だ。

高級官僚の家=巨大な薄型テレビ(※しかも背面はガラス張りの庭)
独身の女医の高級マンション=巨大な薄型テレビ
仏壇屋のリビング=普通の薄型テレビ
ボクサーのアパート=普通のブラウン管テレビ
古本屋の奥の居間=テレビ確認できず

今後、他のドラマでもチェックしていきたいと思う。

まさむね

篤姫と世界に一つだけの花

先日、篤姫の「己の心に従って行動せよ。」という行動原理に関して話をした。

この行動原理の基となる価値観は、我々の”外”のどこかに普遍的な真実が存在しているのではないということだ。

逆に言えば、真実はそれぞれの個人の中にある、尊重されるべきは個性だという事にもつながる。

2003年3月に発売され、今世紀最大のヒット曲となったSMAPの「世界に一つだけの花」は、このような”個性主義”の応援歌としてあまりにも大きな影響を社会に与えた。最近では、学校の卒業式などでも歌われるという。
でも、この歌を歌わせて、ハイさようならっていう学校はいいかもしれないが、現実社会は、この歌のようにはいかない。(元々、花屋の店先に並んでいる花は品種改良をされ、間引きを逃げ抜けたエリートじゃないかっていう批判もある。)

先日、家の近くの花屋の店先で、店長が店員に花を投げつけて、なにやら怒っていた。悲しすぎる光景であった。

最初は、ナンバーワンになろうと思ったけど、この歌の影響でオンリーワンでもいいかって悟り、競争から降りたはいいけど、社会から、オンリーワンなんて不要ってNoを突きつけられた挙句、就職できなくて、ロンリーワンという名のニートになってしまった人、多いんじゃないかな。

現実はいつも残酷だ。

まさむね

篤姫の行動原理は極めて現代的だ。

NHK大河ドラマの主人公の思想には放送当時の社会の価値観が反映されている。

例えば、私が見た限り、何度もドラマ化された戦国時代の信長や秀吉、家康達は、例外なく、「いくさの無い平和な世の中」を最終目標としていた。そこでは、”家”を存続させるためには、敵は滅ぼさなければらないという、当時としては当然の価値観は周到に隠されているのである。

そして、現在、放映されている「篤姫」においても、歴史上人物の行動原理に、現代の価値が入り込んでいるという現象はいくつか見られる。
気付いたものの一つ目。篤姫の薩摩時代、義父の島津斉彬に「何故、薩摩が軍備増強するのかわかるか?」と問われた篤姫は「それは戦をしないためです」と明確に回答し、斉彬を驚かせるという場面があった。
これは、(いい悪いは別にして、)明らかに、現在の自衛隊を正当化する理論と一致する。

もしかしたら、このような価値は、ここ10年位前から、ようやく表明できるようになったのではないだろうか。
例えば、1973年の「国盗り物語」における信長、1981年の「おんな太閤記」における秀吉が、このような価値表明をしていただろうか。興味深いところだ。

そして二つ目は、篤姫の「己の心に従って行動せよ。」という行動原理だ。これは、何度も繰り返し放送されているが、母からの言葉であり、先週放送の「二つの遺言」では斉彬からの最後の手紙にも記されていた。

恐らく、この行動原理は、砕いて言えば、「価値観は人それぞれだ」「自分が何をしたいのかを考えろ」「自分の感性に従って行動しろ」「自分の行動は自分で責任を持て」という極めて現代的、民主的なものだ。
今回の「篤姫」の人気の秘密は、彼女のこうした現代的行動原理が、様々な旧弊かつ閉塞的な状況を打破していく痛快さにあるに違いない。

さて、本日(20日)の放送でも、他言は禁止されていた将軍の死という秘密を、自分の感性のおもむくままに側室と生母に伝える事によって、それぞれのギクシャクした女同士の関係を修復し、篤姫から天璋院へと成長していく。

今後、ドラマは、大老の暗殺、和宮降下、江戸城開城というように劇的な展開を迎えることが予想されるが、その都度、彼女の行動原理はどのように状況を打開していくのか。楽しみである。

まさむね

「四つの嘘」と「アラフォー」

テレビ朝日系ドラマ「四つの嘘」(木曜、午後9:00~)が今週から始まった。

原詩文(永作博美)は、高校時代の同級生の戸倉美波(羽田美智子)の恋人の河野圭史(仲村トオル)を奪って、結婚するが、娘出産後に離婚。
河野が海外で事故死したというニュースをきっかけに、同級生の西尾満希子(寺島しのぶ)、灰谷ネリ(高島礼子)と再会するが、さらに、その場に河野と同じ事故で美波も死んだというニュースが飛び込んでくる。

第1回目のあらすじはこんなところだが、今後、高校時代の同級生4人の日常生活、過去に潜むそれぞれの嘘があばかれつつ、それぞれの人生が展開していくという予告だ。

前クールの「Around 40~注文の多い女たち~」(以下「アラフォー」と略す)と近接したテーマを扱っているだけあって視聴者としては、「アラフォー」との対比で「四つの嘘」を見ていくというのも一興か。

40歳という、女性にとっては自分の人生の価値観(方向)を決める最後のターニングポイントで、女性達は、主に以下の価値観の間で揺れ動くようだ。
「仕事」「家庭」そして「男性」だ。
2つのドラマでは、この3つの典型的な価値観を以下のような女優達が体現している。

仕事に価値を求める女は、「アラフォー」では、天海祐希が、「四つの嘘」では、高島礼子が演じる。

双方ともこの歳になるまで独身。年下の男性との恋と仕事との間で揺れる。「仕事」という価値で突っ張りきれるのかがテーマだ。
ちなみに、二人とも医者であるが、天海が精神科医なのに、対して、高島は脳外科医だ。

とりあえず、家庭の主婦として収まっているのは、「アラフォー」では松下由樹、「四つの嘘」では寺島しのぶだ。
子育ても一段落しているが、退屈な日常への嫌悪感から、他の男性や仕事に憧れをいだく。

が、結局は家庭中心主義の枠から出られないのであろうか?

そして、最後に「男性」に頼って幸せを見つけようとするタイプ。「アラフォー」では、大塚寧々、「四つの嘘」では、永作博美である。
「アラフォー」での大塚の結婚は見事に失敗するが、「四つの嘘」での永作の若いボクサーとの恋はどうなるのか?
いずれにしても、自分の価値観とは微妙に違う「男性」との付き合いがこの年齢で可能かというテーマをかかえる。

「アラフォー」の演出がコミカルを基調としていたのに対して、「四つの嘘」はシビアで暗い。
出演者も微妙に映画系の女優を配しているのは、作品に奥行きを持たせようとしているのか。

視聴率はともかく、しばらくは見続けてみようかと思う。

さて、最後に苦言。4人の配役であるが、現在の4人と、高校時代の4人とのキャラ的結びつきが甘い。もっとちゃんと選べばいいのに。
また、若い男優陣が無名。のちに有名になった時に、「あの時のあの人か」って思い出す楽しみもあるんだけど。
予算不足(主要4人のギャラ使いすぎ)の感は否めない。

まさむね

「モンスターペアレント」とは誰だ?

フジテレビ火曜日22:00からの「モンスターペアレント」が面白い。

大筋で言えば、米倉涼子扮するやり手の国際弁護士が、ある町の教育委員会の依頼を受け、学校に理不尽な要求を突き付ける保護者と対決するドラマである。

しかし、法律を駆使して、白黒つけるようなグローバリゼーションの世界の住人が、突然に、談合と協調を行動原理とする村落共同体(教育委員会と学校)に迷い込み、法律も協調性も無いモンスターペアレント達に向き合い、自分の手法で物事を解決しようとするが、うまくいかない(結局いつも頭を下げさせられる)のである。

モンスターペアレントの第一回目は木村佳乃、そして二回目が南野陽子。

はたから見ていると(ワイドショー的感覚で見ていると)、全く不条理な要求を突きつけて来るそれらの保護者に対して、法律という武器を封印された米倉涼子が二連敗。

二回目までを見る限り、強さから言えば、個人の論理>共同体の論理>法の論理の順とされてしまっているところに、妙なリアリティがある。

米倉のストレスの溜め方、あるいは、いつ反撃出来るのかという興味が、次回からの放映をさらに楽しみにさせるという演出は、毎回、視聴者に対して、ストレスを解消させる事を主目的として提供されている他のドラマに比べてユニークである。

しかし、話の主題はおそらく、毎回登場するモンスターペレント達に手を焼き、その人間的レベルの低さを軽蔑していた米倉が、共同体の論理を理解できていないという意味では、実は母親達と全く同じなのだという事に気付いていくという方向になっていくに違いない。

おそらく、国際司法の現場では負け知らずの米倉が、己の知らない自分自身のモンスター性に気付くという展開がオーソドックスだと思われるが、はたしてどうなるであろうか。

まさむね

ROOKIESと戦後処理

今後、日本社会が、増加する下流層をどうすべきかという方向性(価値観)は2つあると言われている。

下流の人々の幸せを完全に保障するEU型
下流の人々にも等しく階級上昇の思想とチャンスを与えるというアメリカ型

TVドラマ「ROOKIES」のストーリーは、上記の2つの葛藤ドラマであると以前に書いたが、ここ数回の放送を見ていると上記に加えて、別のテーマが浮上してきているように思える。

それは過去の罪は消せるのか?消せるとしたら、どうしたらいいのか?というテーマだ。

前の年の夏の甲子園大会予選で大乱闘を起した二子玉川学園野球部員は周囲の、教師、他の生徒、先輩、後輩、他の高校、そしてマスコミ等から、過去の過ちを攻め立てられる。
それに対して、野球部員は、暴力を抑制し、努力している姿を周囲に見せる事によって、自分達がもう、かつての彼らではない事を証明しようとする。

これは、ちょうど、戦後の日本が先の大戦での罪科をどのように乗り越えていけばいいのかという戦後処理のテーマのアナロジーとなっている。
このドラマを、憲法九条によって武力を抑制された日本が、今後も繰り返されるであろう他国や反体制勢力からの謝罪/賠償要求に対して、どのように対応したらいいのかという事の一つの解決策を提示しているというのは評価しすぎであろうか。

まさむね

ROOKIESの喧嘩とIWGPの暴力

「ROOKIES」は何かと古典的なドラマである。

学ラン、リーゼント、麻雀等、不良学生達のアイテムが古典的であるというのは言うまでもなく、喧嘩の作法がそうなのである。
例えば、今から8年前に放送された「池袋ウエストゲートパーク」の暴力に比べると、正拳+涙によって成り立っている「ROOKIES」の喧嘩は極めて正統的だ。

恐らく「拳」は、蹴りや、ましてや武器使用に比べ、正義のイメージが強い。
そして、涙はその正義を心情的にバックアップしているのだ。

「ROOKIES」での新庄(城田優)の正拳
同様に、感情を爆発させる新庄

それに比べると「池袋ウエストゲートパーク(I.WGP)」では、感情の発露による已むに已まれぬ喧嘩というよりも、敵を徹底的に潰す暴力が際立っている。

「池袋ウエストゲートパーク(I.WGP)」」でのタカシ(窪塚洋介)の裏拳
同様に、タカシのマウントポジションからのボコボコ
そして、喧嘩後のふざけたデモンストレーション

「池袋ウエストゲートパーク(I.WGP)」」の時代は、PRIDEを初めとする残酷系格闘技全盛時代だ。
マウントポジションも裏拳も、その時代の空気を十分に吸ったパフォーマンスであったに違いない。
「ROOKIES」の喧嘩とは同じ暴力とはいえ、それはあまりにも異質だ。

先ほども述べたが、一方「ROOKIES」の喧嘩の作法は、時代を超えた正統性を備えている。
恐らく、この作法は、日本人にとっては、歌舞伎、時代劇、ヤクザ映画、青春ドラマ等によって延々と刷り込まれ続けたイメージである。

そして、その裏には以下のような日本古来の人間洞察がある。

「悪い人なんていない。已むに已まれず暴力を振るってしまった人も本当はいい人に違いない。」

「ROOKIES」が古典的というのはそういう意味である。

まさむね

ラストフレンズとは誰だったのか

俺は最初から、このドラマのタイトルの「ラストフレンズ」とは誰にとっての誰と誰なんだろうというのを一つのテーマとして見続けてきた。

ところが、最終回の最後の手紙の朗読を聞いて、驚愕した。


元気ですか。エリ、オグリン。
赤ちゃんの名前を決めました。
藍田ルミ。
ルカのルに、ミチルのミ、ルにはタケルのルも入っているんだよ。
私達は4人でまたあのシェアハウスに暮らします。

家族、友達、夫婦、恋人
そのどれかであるようで、どれでもない私達だけど、
壊れやすいこの幸せを大事にして、
行けるところまでいこうと思っています。

これまでもずっと友達でいよう。
出来ればずっと別れずにいよう。
そして、たとえ何かがあって分かれても
また、いつか出会って笑い合おう。

My dear friends.
You are my last friends.

ラストフレンズ とは、ミチルにとって、エリ(水川あさみ)とオグリン(山崎樹範)の事だったのだ。
この手紙は、差出人のミチルが、宛先のエリとオグリンに対して、私とルカとタケルとルミ(ミチルとソウスケの子)の4人は、家族、友達、夫婦、恋人のうちどれでもない特別の関係だけど、「あなた達は、最後に残った友達だ。」と差別する内容になっている。かなり冷たいではないかとも受け取れる。
しかし、逆に言えば、このドラマの中で、シェアハウスの一員でありながら、常に地味な存在だった二人の脇役に、ドラマタイトルでもあるラストフレンズの称号を与えたこの結末は、やさしさに満ち溢れた結末だったとも言えるかもしれない。

また、このドラマの主題を敢えて上げるならば「大事なのはありのままの自分とそんな自分を大目に見てくれる友人」という価値観の確認ということだろうか。

ミチル(長澤まさみ)は最後まで状況の変化に流されるキャラクタを脱皮することができない。すなわち、自立という道から逃げる。
ルカ(上野樹里)の性同一性障害を踏まえて、別のパートナーを探すという道を閉ざす。
また、タケル(瑛太)は、姉との問題も残されたままで、SEX恐怖症を解決しようともしない。(来週、放映されるという特別編に期待!!)

結局3人(ミチルの子を含めると4人)は、自分達の価値観や生き方を温存してくれるパラダイス、シェアハウスに戻って話は終わるのだ。

最終回は「未来へ」という副題であったが、その内容は恐ろしく臆病で現状肯定的なものであったと言えなくもない。

まさむね