似すぎてないか「イノセント・ラヴ」と「ラスト・フレンズ」

「イノセント・ラヴ」の展開が、ますます「ラストフレンズ」に近づいてきているように思う。
勿論、両方とも、浅野妙子脚本、スタッフも同じというから、同じような色合いのドラマになるということは予想されていたことだが、登場人物達の苦悩の種類まで似ているのだ。

例えば、「ラストフレンズ」の瑠可(上野樹里)は、性同一障害を自分の中に抱え込み苦悩するが、「イノセント・ラヴ」の昴(成宮寛貴)は殉也への同性愛という感情を抱えている。
おそらく、次の展開としては、昴の、殉也(北川悠仁)への想いが、や殉也本人、あるいは聖花(内田有紀)にバレることによる新たな苦悩発生の可能性が高い。

また、「ラストフレンズ」のタケル(瑛太)は姉からの性的虐待を受け、そのトラウマにより、女性恐怖症に苦しむが、「イノセント・ラヴ」の佳音(堀北真希)も父親からの性的虐待を受けていた。
さらに、その虐待に対して、彼女はついにナイフを持ち出し、父親を刺殺するが、その現実を受け入れる事が出来ない彼女はその事実を無意識的に意識から排除、いわゆるPTSD状態なのである。
そして、彼女の兄・耀司(福士誠治)は、その事実を隠蔽するために自分が罪を背負い、家に火をつけるという過去を持ってる。しかも、耀司自身も妹の佳音に対して近親相姦的な恋愛感情を抱いているのである。

さらに「ラストフレンズ」の美知留(長澤まさみ)とその恋人の宗佑(錦戸亮)は、小さい頃からネグレクト状態で育てられるという生育環境のため、宗佑は美知留にたいしてDVを行ってしまう。
また、逆に美知留も宗佑からのDVに対して無意識的な依存関係に陥っている。

心の傷という意味では、本日の放映された「イノセント・ラヴ」の第8話でも、殉也が深い失恋状態から常軌を失う。
婚約者の聖花のために、献身的に尽くしてきた殉也だが、彼女の愛が殉也にはなかったという現実を思い知らされ、呆然としてしまうのだ。

ようするに2つのドラマとも、登場人物達は、それぞれの心と闘わなければならない状態なのだ。
それゆえに、彼ら、彼女らは、一様に暗い。
また、だからこそ、一様に優しく思いやりがある。
さらに、現実世界における、いわゆる欲望に関して希薄である。
それは勿論、性的関係においてもそうだ。「イノセント・ラヴ」では殉也は佳音との間にSEXを匂わすものは一切無いのだ。

浅野妙子ドラマが現代人に受けているとすれば、おそらく、内面的苦悩を抱えた若者、あるいはそれに共感出来る人々が確実に増えているという事ではないだろうか。
それは、同時に、心の闘いを乗り越えるために、他者からの絶対的承認、すなわち愛が必要なのだということを切実に感じている人々も増えているという事だと思われる。

日本の恋愛史について特に詳しいわけではないが、多くの日本人にとって、恋愛というものは長らく、結婚のための通過点であった。
というよりも、おそらく恋愛経験をする以前に、人々は結婚したし、あるいは、性的な対象として相手を希求し、そしてそれが実現するに及び、結婚に至るという流れだったと思う。

しかし、「イノセント・ラヴ」も「ラストフレンズ」も、登場人物達の関係の先に結婚という道筋が強く見えてこない。
それが、現代的といえば、確かにそうかもしれない。
ここ数年、いわゆる”出来ちゃった結婚”が増加しているという事実もそれを裏付けている。
結婚というものが恋愛の結果ではなく、妊娠の結果としてしかないという事を意味しているからだ。

おそらく、このような若者のメンタリティが続くとするならば、少子化はますます進むであろう。
託児所を沢山作るということは、それはそれで大事なことではあるが、少子化対策の本質とはずれているようにも思える。
元、TVの番組ADだった小渕優子大臣。
お分かりかとも思うが、予算を使うことばかり考えないで、根本に立ち返り、これらの最近のドラマをご覧になられたらいかがだろうか。(余計なお世話か?)

さて最後に全く関係ないが、神父役の内藤剛のクレジットに特別出演とあるが、ほぼ毎回出演しているし、失礼だが、それほどの大物だろうか?
ちょっとした疑問でした。

まさむね

「29歳のクリスマス」と「ラストフレンズ」の埋め難い時代差

「29歳のクリスマス」(以下「29X」と略す)の再放送を見ていると、今年の春に放映された「ラストフレンズ」(以下「LF」と略す)とどうしても比較してしまう。

男女(3人以上)が一つ屋根の下に暮らす青春群像ドラマである点、木曜日22:00~といういわゆる大人のドラマ枠での放送という共通点はあるものの、2つのドラマには、どうしようもない時間の隔たりがあるような気がする。
その隔たりは14年間。
その間、平成の大不況、金融ビックバン、構造改革等いろいろな事があった。
多くの人の生活実感として、時代は閉塞感を増している。あらゆる意味で、将来に対する希望がなくなってきているのだ。

おそらく、それらの社会状況の変化がこの2つのドラマの間に横たわっているのではないか。

2つのドラマを比べてみると、登場人物の元気さがまるで違う。
「29X」における典子(山口智子)、彩(松下由樹)、賢(柳葉敏郎)はお互い同士、思いやるが、それは、互いに世話を焼きあうという積極的な振る舞いで表現する。
だから、すぐに喧嘩になる。自分の価値観を相手に押し付けようとして、そして反省して、の繰り返しなのだ。

一方、「LF」における岸本瑠可(上野樹里)、藍田美知留(長澤まさみ)、水島タケル(瑛太)がお互いを思う気持ちは「29X」には劣らない。
ただ、彼女らは極めて大人しいのだ。
ある意味、老成しているといっていいかもしれない。
そして、「LF」の3人は、お互いの領域に踏み込む事はしない。あくまでも、相手にとって、好ましいキャラになろうとする。
それが現代の優しさの倫理なのであろう。
最終的に、3人は、お互いのトラウマを癒しあう関係になるのだ。

これは、いわゆる時代の閉塞感という事と大いに関係があると思う。バブルと地続きの90年代前半、「29X」の時代、彼女達はまだ、努力すれば社会的に上昇出来るという価値観の中にいる。
しかし、一方、「LF」では、そういった社会に対する、あるいは、努力に対する信頼感が感じられない。だからこそ、彼女達は手に職をつけて生きていこうとするのだ。

また、「29X」の登場人物達はいつも、目の前の世界に対して戦いを挑んでいるのに対して、「LF」では、いつまでも過去のトラウマ、自分の宿命との戦いがメインとなっている。
例えば、「29X」では、典子は、仕事上の挫折や恋愛等の外の世界と戦うが、「LF」の瑠可は、性同一性障害に悩み抜く。
彼女の戦う相手は、自分の中にあるのだ。
ACとか性的虐待とか、性同一性障害などという極めて限定的だと思われていた症例が、社会の前面に出てきて、人々にリアリティのある言葉として認知されてきた現代、とそれ以前の時代。
大げさに言えば、「29X」と「LF」の間には、そういった時代の段差を感じさせるのである。

また、2つのドラマに横たわる幸福観の違いにも目を惹かれる。
「29X」では、幸福=結婚という価値が素朴にも信じられている。
典子が彩に叫ぶ。「どうして私だけ幸せになっちゃいけないの?!」
ここで言う幸せとは、恋愛=結婚のラインに乗る事なのだ。

ところが、「LF」では、結婚は全く大きなテーマではない。
シェアハウスでにおいて、脇役として存在していた滝川エリ(水川あさみ)と小倉友彦(山崎樹範)が結婚はするのだが、それはあくまでもサブの扱い。
そういう生き方もありますよ的な扱いにすぎないのだ。

こんなに異なった世界の2つのドラマではあるが、面白い事に、最後の結末が奇妙な一致を見せる。
両方とも、みんなで育児をすることによって、新しい関係を築こうとするのだ。
もちろん、「29X」ではそうなる過程で、さんざん罵倒、葛藤、喧嘩があるのに対して、「LF」では微笑み一つで物事が進んでいく。
確かにその違いはある。
ただ、2つのドラマの最後に提示される新しい生き方が近いという事に、もしかしたら、時代が変っているように見えるのは表面的なことで、実は女の情(子供に対する愛情)というものは根本的には変らないという事を見るべきなのかもしれない。

また、ちょうど本日、今年の流行語大賞を獲得した「アラフォー」というもう一つのドラマでも、最後に、森村奈央(大塚寧々)の子供を、 緒方聡子(天海祐希)と竹内瑞恵(松下由樹)が可愛がるというシーンが出てくるが、それも「29X」と「LF」と同様に、子供をみんなで育むことこそ時代の閉塞感を打破することに繋がるということなのであろうか。

まさむね

ラストフレンズとは誰だったのか

俺は最初から、このドラマのタイトルの「ラストフレンズ」とは誰にとっての誰と誰なんだろうというのを一つのテーマとして見続けてきた。

ところが、最終回の最後の手紙の朗読を聞いて、驚愕した。


元気ですか。エリ、オグリン。
赤ちゃんの名前を決めました。
藍田ルミ。
ルカのルに、ミチルのミ、ルにはタケルのルも入っているんだよ。
私達は4人でまたあのシェアハウスに暮らします。

家族、友達、夫婦、恋人
そのどれかであるようで、どれでもない私達だけど、
壊れやすいこの幸せを大事にして、
行けるところまでいこうと思っています。

これまでもずっと友達でいよう。
出来ればずっと別れずにいよう。
そして、たとえ何かがあって分かれても
また、いつか出会って笑い合おう。

My dear friends.
You are my last friends.

ラストフレンズ とは、ミチルにとって、エリ(水川あさみ)とオグリン(山崎樹範)の事だったのだ。
この手紙は、差出人のミチルが、宛先のエリとオグリンに対して、私とルカとタケルとルミ(ミチルとソウスケの子)の4人は、家族、友達、夫婦、恋人のうちどれでもない特別の関係だけど、「あなた達は、最後に残った友達だ。」と差別する内容になっている。かなり冷たいではないかとも受け取れる。
しかし、逆に言えば、このドラマの中で、シェアハウスの一員でありながら、常に地味な存在だった二人の脇役に、ドラマタイトルでもあるラストフレンズの称号を与えたこの結末は、やさしさに満ち溢れた結末だったとも言えるかもしれない。

また、このドラマの主題を敢えて上げるならば「大事なのはありのままの自分とそんな自分を大目に見てくれる友人」という価値観の確認ということだろうか。

ミチル(長澤まさみ)は最後まで状況の変化に流されるキャラクタを脱皮することができない。すなわち、自立という道から逃げる。
ルカ(上野樹里)の性同一性障害を踏まえて、別のパートナーを探すという道を閉ざす。
また、タケル(瑛太)は、姉との問題も残されたままで、SEX恐怖症を解決しようともしない。(来週、放映されるという特別編に期待!!)

結局3人(ミチルの子を含めると4人)は、自分達の価値観や生き方を温存してくれるパラダイス、シェアハウスに戻って話は終わるのだ。

最終回は「未来へ」という副題であったが、その内容は恐ろしく臆病で現状肯定的なものであったと言えなくもない。

まさむね

ドラマに見る階級の残酷さ

TBSドラマ「Around40-注文の多いオンナたち-」の最終回は、格差社会を反映してか、階級の異なる男女がことごとく結婚しない、あるいは離婚するという、ある意味、残酷な結末となった。

結婚せずに医者として、自己実現しようとするす聡子(天海祐希)は臨床心理士の恵太朗(藤木直人)との婚約を破棄し、病院の院長に就任する。
雑誌編集者の奈央(大塚寧々)は、いわゆる勝ち組のセレブ夫との仮面生活に嫌気がさし、ゴージャスな生活を捨てて、離婚して一人で子育て自立を目指す。後に、幼なじみのシェフ(筒井道隆)と結婚か?
また、瑞恵(松下由樹)は、長年連れ添って子供もいた旦那との間にいろいろ問題もあったが、結局は結婚というシステムの中で幸せを再確認する。

もちろん、上記のように階級の残酷さという現実(リアリティ)はオブラードに包み込まれ、口当たりのいいドラマとして仕上がっていたと思う。
人生いろいろと言った人がいたが、まさしく、それぞれの生き方を尊重した、ターゲットユーザーの嗜好にあったいい意味での予定調和を見せてくれた。

しかし、この「Around40」で示された、建前(人それぞれの価値観重視)と現実(階級の残酷さ)は、実は、もう一つのTBSドラマ「ラストフレンズ」とも通底している。

結局、一般的な意味での勝ち組である航空会社の正社員であったエリ(水川あさみ)とオグリン(山崎樹範)の2人が結婚。
そして、無職の母子家庭のミチル(長澤まさみ)と、アルバイトをしながら一流のモトクロスレーサーを目指すルカ(上野樹里)、バーテンとヘアメイクアーティストで食いつなぐタケル(瑛太)は共同生活を選択するのだ。

「Around40」と「ラストフレンズ」。双方とも友情、個性という言葉で曖昧にされているが、階級の残酷さこそ共通テーマという見方も出来るのではないか。

まさむね

ラストフレンズは盗聴ドラマだ

 ラストフレンズは盗み聞きドラマだ。
主なシーンの順を追ってみよう。
ミチルの母が部屋で男と乳繰り合っている所をミチルが盗み見(第1話)
ソウスケがミチルに暴力を振るっている所をルカが盗み見(第2話)
ミチルが卒業アルバム(ソウスケにルカの顔を塗りつぶされた)を見ている所をソウスケが盗み見(第3話)

オグリンが妻が別の男とデートしているシーンを、オグリンとエリが盗み見(第4話)
シェアハウスを出ようかと思っているとミチルがタケルに話している所をルカが盗み聞き(第6話)
タケルがルカに優しくするも、ルカに拒絶された所をミチルが盗み聞き(第7話)
ミチルがタケルにした告白をルカが盗み聞き(第7話)
オグリンが妻と会っている所をエリが盗み見(第7話)
ルカが見ていた性同一障害のサイトをエリが盗み見(第8話)
ルカとタケルが井の頭公園で抱き合っている所をミチルが盗み見(第8話)
ルカとタケルの楽しそうな会話をミチルが盗み見(第9話)
ルカがミチルを異性として好きだとタケルに話している所をミチルが盗み聞き(第10話)
ミチルがシェアハウスを出たいとタケルに相談している所をルカが盗み聞き(第10話)

ほぼ、1話に1回のペースだ。上記の他にもの覗き見(特にソウスケのミチルに対する)は別途満載、街での偶然の見掛けは沢山あったがここでは省略。

恐らく、5人の男女が一つ屋根の下で暮らすという設定は、盗み聞きドラマには欠かせない設定だったんだろうか。

しかし、我々の感覚からすると、彼らの不用意さは、あまりにもリアリティがない。
この不用意さは、若者特有の経験不足と解釈すべきなのか。あるいは現代の若者に特有の思いっきりのよさと解釈すべきなのだろうか?

ちなみに最終回は、話を回収する会だったため、盗み聞きはありませんでした。

まさむね

ラストフレンズ 三低男の典型

バブルの頃のモテる条件は3高(高学歴、高身長、高収入)だったが、今は3低(低姿勢、低依存、低リスク)というらしい。
「ラストフレンズ」のタケル(瑛太)はまさしくその条件にぴったりのイイ男だ。

常に、相手の事を気遣う姿勢の低さは、同居人?のミチル(長澤まさみ)から「タケル君は誰をも幸せにする才能があるね。」って言われる。
また、昼間はヘアメイクアーティスト(まだ半人前だが)、夜はバーテンダーと働き分ける彼は、ほそぼそながら自立し、自分の道を進もうとしている。精神的にも経済的にも相手を束縛せず同時に、依存しないタイプだ。

そして3つ目。セックスレスの彼は、ある意味、最高に低リスクな男だ。

※低リスクとは実は、公務員的な将来性のリスクが少ないということらしいが、それだと宗佑(錦戸亮)とかぶるのであえて、別解釈しちゃった。

まさむね

ラストフレンズ 青い鳥、新約聖書、古事記からの飛び出た三人

フジテレビ 木曜日10:00からの「ラストフレンズ」が佳境に迫っている。

長澤まさみ(ミチル)、上野樹里(ルカ)、そして瑛太(タケル)が出演しているが、私が個人的に気になっているのが、左記3人の名前がそれぞれ、童話、聖書、神話をぼんやりと想起させることだ。

言うまでも無く、ミチルは、「青い鳥」(メーテルリンク)に出てくる女の子の名前と同じだ。その童話では、幸せを探して、お兄さんのチルチルと様々な冒険をして、最後に自分の家で青い鳥=本当の幸せを見つける。「ラストフレンズ」のミチルは、幸せをさがしてフラフラする弱い女の子だが、最終的に幸せが見つけられるか楽しみだ。

ルカと言えば、キリスト教の聖人。新約聖書のルカ伝の著書として名高い。
ドラマの中のルカは、性同一障害者として他人に言えない悩みを抱えるが、宗教的(精神的)高みに達することは出来るのか。

タケルの名前はあまりにも有名。古事記に出てくる英雄(ヤマトタケル)だ。ただし、彼は父親に疎んじられ、熊襲や蝦夷征伐のために、日本中を放浪し、最後は力尽きて白鳥となったという悲劇的な存在だ。
ドラマの中のタケルは子供の頃に姉から性的悪戯を受け、それがトラウマになってしまった青年だ。自分の悩みを克服できず、最後美しく死んでしまうのか?

最終章を残した段階での勝手な妄想でございました。

まさむね