紳助の紳助による紳助ためのバラエティはもう結構だ

毎月、「TVnavi」というテレビ雑誌を読んでいるが、視聴率ランキングにいつも違和感を感じることがある。
関西地区のバラエティ部門において「クイズヘキサゴン」(以下、ヘキサゴンと略す)と「行列の出来る法律相談所」(以下、行列と略す)の視聴率が毎号、ダントツなのだ。

でも、そんな面白いか、このヘキサゴンと行列。

言うまでもなく、この2番組は、島田紳助の司会で進行される。
本来は、それぞれ、クイズ、法律相談がメインなはずなのだが、いつの間にか、紳助の雛壇ゲストに対する、辛らつな仕切り(いじり)の時間がやたらに長く、それ自体が番組の売りとなっている。

そしてゲスト達は、あくまで紳助のネタのためのキャラであることに徹する。
石田純一=女たらし、東野幸次=腹黒、磯野貴理=嘘付き 羞恥心=おバカ、波田陽区=つまらない芸人という具合だ。

ある事ない事織り交ぜて、”紳助組”の内輪ゲストに対してイジりまくる芸は、紳助の持ち技として他の追随を許さない事は認めざるを得ない。
ただ、画面から感じられる紳助とゲストの力関係があまりにも露骨なため、時に、その場のクウキが不愉快に感じられてしまうのだ。

「検索バカ」(藤原智美)によると、「クウキとはその場でできあがる人間同士の力関係です。リーダー的な存在がありそれを軸にできあがる暗黙の秩序といっていいでしょう。」というが、まさしく”ヘキサゴン”と”行列”は、紳助を頂点とした暗黙のクウキを必死に読もうとするゲスト達の競い合いにも見える。
僕には、紳助に場面を振られたゲストが、エサを投げてもらって喜んでいる動物園のサルに見えてしまうのである。

しかし、結局は、ゲスト達の発言は、最終的には紳助の話芸のネタとして消費されていく。
視聴者は、紳助の、紳助による、紳助の時間を見せられる事になる。それは紳助の支配欲を、深読みするならば、コンプレックスの裏側を見せられる事でもある。

一度、番組がこういう風景に見えてしまうと、このクウキの臭みを看過できなくなってしまう。
おそらくこれが、この番組の高視聴率への違和感の原因なんだと思う。

でも、もしかしたら、これは、関西と関東との感覚の違い?
一方、関東では、「笑点」の視聴率がいつも高いっていうのも、これはこれで信じられないのだが...

まさむね

 

漫才には何故、ボケとツッコミがあるのか

漫才には何故、ボケとツッコミがあるのだろうか。
今日はちょっと考えてみた。

元々、日本では、芸能というものは、神様に対して奉納するためのものだった。神楽も祭りも相撲もそうだが、それらの芸能は、神の声や力を人間の世界に降ろすための儀式なのである。
例えば、愛媛の大山祇神社では毎年、春と秋に一人相撲という神事があるが、これは、人間が「稲の精霊」と相撲をとる(ハタから見ると、一人で相撲をとっているように見える)儀式である。

同様の事は、日本の芸能の本流、能楽にも言える。
能の特徴は、超自然的な存在が主人公になっているという点であるが、多くの舞台では、シテ(主役)とワキ(脇役)が登場する。
シテは亡霊や鬼など、”あの世の存在”からの声を舞台に降ろすのに対し、生身の人間である脇役(ワキ)が彼らの話を聞き出し、怨念を消してあげ、”あの世”に帰っていただくという構造を持っているのである。

漫才の直接の源流である三河万歳、尾張漫才等の正月を寿ぐ民間芸能も、太夫という祝詞(神を崇める言葉)を上げる役と、才蔵という太夫の祝詞を繰り返す役の掛け合いの話芸である。
ようするに、これは、あの世の言葉を降ろす太夫=ボケ、それを繰り返す才蔵=ツッコミという漫才の形が見えてくるではないか。

だから、ボケは、いかに普通の人間の思いもつかない言葉(=あの世からの言葉)を吐く事が大事になる。
また、ツッコミはボケが出してくるメチャクチャな言葉によって混沌としてしまった空気を、いかに上手く日常の空気に引き戻すかが腕の見せ所となるのだ。

僕の知っている限り、欧米のコメディアンは基本的に一人芸で観客を笑わせる。日本で言うところの漫談である。
恐らく、その源流には、キリスト教の聖職者の説教のスタイルがあるのだと思う。(一方、日本の落語が正座で行われるのは、それが仏教説教の伝統を汲んでいるのかもしれない。)

もしも、日本のお笑いが、上記のように知らず知らずのうちに歴史的な制約の中にあるとするならば、日本とは別の歴史を歩んだ地域のお笑いを学ぶ事によって、それ以外の可能性が、もっともっと沢山見出せるかもしれない。
ケニアの、グルジアの、ウルグアイの、ベトナムのお笑いがどうなっているのか、僕たちはあまりにも知らない。

このあたり、もっと世界に目を向けてもいいのかもしれないよね。
世界のナベアツなんて口で言ってるだけじゃなくてさ。

まさむね

 

桜の欺瞞性と太田光夫妻

「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書 太田光、中沢新一)の中に太田光が桜に関する小文を書いている。

今、手元にその本が無いので、記憶で書かせてもらうと、この小文の中に彼の妻が、花見で桜を見た後に気分が悪くなって、精神の安定を失ってしまった時の事を書いている。
彼女は、その時、花屋から薔薇の花を買ってきて、部屋の中に飾り、自分の精神を落ち着かせたというのだ。

太田光がその出来事を分析して言う。
桜は、見る人に狂気と毒を想起させる。しかし、自らがそういった狂気と毒を内包していることを隠している。
一方、薔薇は自らの危険性を棘という形で表現している。彼の妻はその薔薇の正直さに安心して、精神が落ち着いたのではないかと。

さらに、彼は、その桜のあり方を、憲法九条に、日本のあり方に、そして、自分自身に重ね合わせる。
自分の中のもう一人の自分の狂気と毒を常に意識し続ける太田光は、全ての物事を、自分の根っからのテーマに直結させて考える。
いや、彼は自分の意志で考えているというよりも、何物かによって考えさせられているといった方が正確なのかもしれない。

そういう時の彼は、正直者だ。
そして正直であると言うことは、表現者にとって最も大事なことだと僕は思う。

さて、桜というイメージに関して、僕も前々からいろんな事を考えている。

古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であること。
源氏物語では桜は凶兆の花であること。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であったこと。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であったこと。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であったこと。

そして、近代国学の祖・本居宣長において、桜は、大和心の、そしてその後の勤皇家によって、武士道の象徴となっていく。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)

しかし、実は、リアルな死や闘いは。桜で象徴されるような可憐なものとは程遠い。
武士道は、死ぬためのイデオロギーではなく、本来は何としても生き延びるための醜い程、姑息なノウハウだったのではないか。
しかし、明治以降、桜はさらに国家主義と結びついて純化していくのだ。

ちなみに、明治国家主義を支えた様々なシステムには、桜が紋所として徴されている。
陸軍、海軍、学習院、靖国神社、そして大相撲...(あんまり関係ないが、狩野英孝の生家の桜田神社も。)

この桜の欺瞞性に対して、太田光、そして、彼の妻は激しく反応した。

やっぱりあの夫婦の感性は天才的だ。

まさむね

太田光と森のくまさん

「爆笑問題のニッポンの教養」はそのタイトルに違わない、まさしく、真正面からの教養番組だと僕は思う。

逆に、最近、雑学とか常識とかを扱うクイズ番組が結構あるけど、こういう番組は決して教養番組ではない。
クイズ番組で優勝したとしても、それは、教養のある人ではなく、知識のある人に過ぎないのだ。

では、教養とは何か。
それは、個人の人格とは切り離せない。
その人が宿命として持っているテーマ(問題意識)と関連付いた知識、思考、思想の事、それを教養と僕は呼びたい。
ただ、多くの人は、自分のテーマなんて意識しないし、忘れてしまっている。
恐らく、ほんの一握りの人だけが、幸か不幸か、自分のテーマに気づく事が出来るのだ。

僕は、太田光こそ、特権的にこのテーマを自覚出来ている人だと思っている。
だから、彼が「爆笑問題のニッポンの教養」において、発する言葉には教養が溢れている。
それでは、太田光のテーマとは何なのか。

恐らく、自分の中のもう一人の自分、と、そのもう一人の自分の怪物性をどうしたらいいかってことだ。
例えば、「爆笑問題のニッポンの教養」で、政治学者の姜尚中氏、日本思想史研究家の子安宣邦氏等との言葉のやりとりの中、太田光は身振り手振りでその事を説明している。
特に秋葉原通り魔事件の犯人・加藤智大を説明する際に、こういう言い方をしていた。(正確ではないんだけど、だいたいこんな感じで言ってたと記憶している。)

人間というものは、どんな人間でも、演出する自分と演出される自分から成っている。
自分(太田光)の例で言うならば、芸人としての自分と、その自分をちょっと離れたところで演出する自分がいる。
でも、加藤智大の場合、いつの間にか、演出する自分自身が怪物になってしまっていた。
それなのに、誰もその事を止められなかった。そこに問題があったと...

恐らく、太田光は、自分の中の2人の間のバランスにいつも繊細にならざるを得ないほど、危うい人格だって事を自覚しているのだ。
例えば、ネットにおける悪意に満ちた書き込みを嫌悪する彼は、その書き込みに、2人の自分が一致してしまったときの人間のグロテスクさを見ているのではないか。
また、彼の芸人としての過剰なまでのおどけた仕草は、2人の自分との距離を安全に保つためのポーズのようにも見える。

実は、太田光について考えるとき、そして同時に彼のテーマである2人の自分について考えるとき、いつも頭の中で流れる歌がある。
それは「森のくまさん」である。

ある日森の中 くまさんに 出会った
花咲く森の道 くまさんに 出会った
くまさんの 言うことにゃ お嬢さん お逃げなさい
スタコラ サッササノサ スタコラ サッササノサ
ところが くまさんが あとから 付いてくる
トコトコ トコトコと トコトコ トコトコと
お嬢さん お待ちなさい ちょっと 落とし物
白い貝がらの 小さな イヤリング
あら くまさん ありがとう お礼に 歌いましょう
ラララ ララララ ラララ ララララ

僕はこう思う。
この森のくまさんは、普段はとても優しい「くまさん」なのだが、ある瞬間、凶暴な怪物になる存在であるという事を自覚している。
しかし、そのタイミングがいつ訪れるのか彼自身にもわからない。
だから、くまさんはお嬢さんに向かって、とりあえず「お逃げなさい」と言うのだ。

そして、このくまさんは僕の中では太田光とぴったりと重なる。

だから彼は常にビクビクしながら生きているのだ。
そして、時に過度に攻撃的になったりするのだ。
あるいは、おどけた演技をしながら生きているのだ。

まさむね

瑛太が演じる草食系男子(タケルと帯刀)に注目

結婚しない、あるいは出来ない男性が増えてるという話を昨日したが、その前段には、恋愛が苦手な男子が増えてるっていう要因もある。

流行の言葉で言えば、草食系男子増殖っていうことか...
この草食系男子というは女の子に対して、恋愛関係にはなりたくない(なれない)、けど、マッたりと一緒の時間を過ごすのは大得意っていうタイプの男の子の事だ(詳細は、「草食系男子の恋愛学」(森岡正博著)参照の事)。

恐らく、若い男っていうものは、好きな女の子と二人っきりになると、いかにヤるかっていう欲望+戦略+妄想で頭が一杯になるっていうのは、昔の話。
最近は、こういうタイプが目立ってきているらしいのだ。

それは、別の言い方をするならば、そういうタイプの男の子に対して、「それもいいんだよ」って、やっと言えるような時代になってきたっていう事かもしれない。

具体的なイメージで言うならば、今、フジテレビで再放送している「ラスト・フレンズ」で、瑛太が演じているタケルっていうのがまさしくこのタイプなんだよね。
タケルは、子供の頃に実姉から受けた性的暴行をトラウマにしていて、SEX恐怖症になっているっていう背景はあるんだけど、シェアハウスにいる他の女の子達に対する扱いが完璧に上手い。
気が弱いんだけど、気が利くし、気が回るし、優しいし、聞き上手なのだ。
だから、「タケルは、他人を幸せにする才能があるよね」って言われたりする。
しかし、”恋愛”は、いつも上手くいかないのだ。
エリ(水川あさみ)からのSEXの誘いには応じられないし、ルカ(上野樹里)への告白は空振りに終わる(これにはルカがレズだという理由があるんだけど)し、ミチル(長澤まさみ)からの告白は受け入れられない。
それでも、そんないろんな事がありながらも、彼女達から絶大に好かれている。上手くやっていけるのだ。凄い才能だ。

一般論で言うならば、恋愛下手な草食系男子が増える事に関して、少子化の視点から眉をしかめる向きもあるのかもしれないけど、周りの人々、社会にとっては、むしろ歓迎すべきことだと思う。
消費しない若者と同時に、周りにストレスを与えない若者像っていうのも、新時代の生き方として、肯定したいところだ。

さて、瑛太が出演しているもう一つのドラマ「篤姫」だが、ここでの彼の役どころは、薩摩藩家老・小松帯刀である。
明治維新の立役者として歴史上では大活躍する彼だが、女性に対してはタケルと同じような、いつも上手くいかなく、情けないスタンスなのが面白い。
篤姫(宮崎あおい)に対しては、結局、愛を伝えることは出来ず、姉さん女房のお近(ともさかりえ)とは、(小松家の養子となる事によって)半ば強制的に結婚させられる。また、京都の屋敷には、芸者のお琴(原田夏希)に上がりこまれるのだ。

次の放送では、このお近に、お琴との同居生活がバレるらしい。
幕末の草食系男子・小松帯刀のアタフタした姿が楽しみだ。

まさむね

聖子とヨーコ

seiko.gifいまの私がいちばん好き
もっと自分を好きになる

最近、松田聖子が出演するDiosa(ヘアカラー)のCMのコピーである。
いまだに輝き続ける彼女に相応しいキャッチだ。

「自分らしく生きる」という誰でも出来そうで誰にも出来ないスタイルを貫く松田聖子。
彼女には、支持するファンが存在すると同時に、彼女に対して、嫌悪感を隠さない人々もいる。その人生は、その嫌悪感に対する闘いの歴史でもあった。
しかし、彼女が立派なのは、どんなに逆風が吹いても彼女は逃げなかった事だ。
ある芸能記者によると、「どんな状況でも松田聖子は取材に応じる」そうである。
そして、彼女はいつも”松田聖子”であり続けるそうだ。

闘い続けた女性だけが表現できる迫力、今回のCMにはそんなものを感じる。
来週22日(水)に発売予定のニューシングル「あの輝いた季節」は、またヒットチャートを賑わしてくれる事だろう。


世界中のすべての時計を二秒ずつ早めなさい。
誰にも気づかれないように。

これは、松田聖子がデビューする30年程前に、アメリカに渡り、前衛芸術家として活躍、後にビートルズのリーダー、ジョン=レノンと結婚、ビートルズ解散の元凶と言われ、世界中からバッシングを受けたオノ・ヨーコが、60年代初頭に著したインストラクションアート(命令文による詩集)「グレープフルーツジュース」の中の
一節だ。
彼女は一般的にはジョンの妻としてのみ有名であるが、ジョンと出会う前から芸術家として素晴らしかったのだ。
この2行を読んでもらえば、分かる人にはわかるよね。

ちなみに、彼女は今でも毎年、日本のアーティストを集めて武道館でチャリティコンサートを行っている。
今年も12月8日にあるらしい。奥田民生、斉藤和義、ボニピン達に加えて、今年は、Salyu、絢香や宮崎あおい達も出るらしい。
ヨーコもまた闘い続けた女のみが出せるオーラをいまだに持っている。今年のステージも今から楽しみだ。

さて、松田聖子とオノ・ヨーコは実はある共通点があるのだ。
知る人ぞ知る事実なのだが、二人とも九州の柳川・立花藩の家老の家の末裔なのだ。
ちなみに、松田聖子の蒲池家の家紋は左三つ巴(一番上)、オノヨーコの小野家の家紋(一番下)は一つ引両だ。
世が世なら、この二人の家老の姫達がそれぞれの立場で顔を合わせていたかと想像するのも一興か。
そんな城内ってもしかしたら、まわりは大変だったかも…

それにしても、柳川って僕も一度行った事があるんだけど、大林宣彦監督の「廃市」の舞台になった、美しい運河(写真中)の街だ。
この映画のタイトルでもイメージ出来るように、ある意味、消えゆく日本美の象徴みたいな街なんだよね。

ちなみに、この「廃市」には先ごろ亡くなられた峰岸徹さんも出演されておりました。合掌。

まさむね

虚実の狭間に生息していた三浦和義の死

ロス疑惑銃撃事件、共謀罪の容疑でロサンゼルスに移送された後、拘留中に三浦和義が自殺した。

しかし、この人、ロス銃撃事件(1981年)から、この自殺まで何が本当で何が嘘かという曖昧なエリア、すなわち虚実の狭間に居続けた存在だった。

彼は、TV取材に対して、積極的に顔を出し、子供の頃の石原裕次郎との浅からぬ因縁を自慢げに語ったり、不良で、少年院に7年間、お世話になった伝説をもったいぶって披露する。
また、日本での無罪が確定した後、くだらない万引きを繰り返す。
こういった三浦氏の、疑惑をさらに膨らますその胡散臭い振る舞いには、注目される事を運命付けられた者のみが持つ独特のセンスが感じられたものだ。

ちなみに、虚構と現実が最も華やかに交錯したあの80年代、テレビのワイドショー登場回数で群を抜いたのは、男性では三浦和義だったが、女性では圧倒的に松田聖子だった。
恐らく、三浦和義が虚実の狭間に存在した事によって、視聴者の興味を引き続けたのと同様に、松田聖子も似たようなポジションに存在したのだ。
あの泣きは本当だったのかどうかとか、涙が流れたかどうかみたいな(ブリッ子)論議があったり、結婚だの、出産(ママドル)だの、浮気だの、不倫だの、離婚だの、再婚(ビビビ婚)だの、そしてバッシングだの、ワイドショー視聴者は十分に彼女自身の生き方を消費したのである。

大雑把な言い方だが、90年代まで、僕たちも、芸能界的虚実の世界を余裕を持って楽しむセンスを持っていたような気がする。

実はこの虚実を股をかけたエンタテイメントって日本芸能の伝統なんだよね。
例えば、「源氏物語」だって、紫式部によって書かれた当初は登場人物が、実際にあった貴族社会の噂話が上手くアレンジして散りばめられていたそうだ。この書物がそれまでの物語とは一線を画す名作として評価されたのは、この虚実の扱いの絶妙さがあったんだよね。
また、近代の小説だって、例えば、三島由紀夫の「仮面の告白」なんて、どこまで本当?みたいなスキャンダラスな視線が、この作品をベストセラーに押し上げている。

しかし、最近、こういった虚実の世界を楽しむという”粋”な作法が、だんだん衰退してきているのではないか。
一方、虚と実を判然と分けないといけないみたいな倫理観が跋扈しているのだ。
大相撲の八百長論議等を聞いていても、協会側の余裕の無さ、視聴者側の野暮な振る舞いが、僕には気になる。

そんな中で、突然、三浦氏の自殺が報道された。

ロマンチックな言い方をするならば、虚実の狭間で生息し続けた三浦という生き物が、そんな時代風潮の中、白黒はっきりさせられる直前に自らの命を絶った。

泥沼でしか生きられないウナギ犬が陸にあげられて死んじゃった、みたいな哀れさを感じる。

まさむね

狩野英孝や鼠先輩の意義

人生相談体質の芸能人っているよね。
こういう体質の人たちは、人生相談するのも、されるのも得意だ。目が光り輝くんだよね。

勝手にカテゴライズするとこんな感じかな。
元不良系
加藤晴彦、宇梶 剛士、義家弘介
オカマ系
美川憲一、美輪明宏、IKKO、マツコ.デラックス
水商売系
デヴィ夫人、細木数子、城咲仁、室井佑月
(他に、スピリチュアル系、成上がり系、苦労系等あり)

他人の相談を聞くという事は相手の弱みを握るということであり、自分の相談を他人に持ちかけるというのは、敢えて隙を見せることである。
彼らは、それによって、他人との距離を縮める術に長けているのだ。
そして、他の芸能人よりも視聴者との距離が近い(ように見える)人生相談体質の芸能人、その近さは、魅力であるが、一方、胡散臭さでもあるよね。
この胡散臭さは、具体的に、彼らの目の鋭さに表現されてる。
あの他人を値踏みするような視線って怖くない?僕的はちょっと引いちゃうな。

逆に、いくら人生相談系の格好をしていても、体質的にそれと別種な芸能人(実は他人にあんまり関心のないタイプのナルシスト)は安心だ。
お互いの距離が近すぎるスタジオバラエティの暑苦しさを中和するキャラとしての狩野英孝や鼠先輩の意義(使い勝手)はそのあたりにあるんだと思う。

まさむね

モーニング娘。の奇跡

「ハロモニ@」の放送が終了した。
最近、他の番組でモーニング娘。を見る機会が激減していたので、この番組の終了はまことに残念だ。
この番組の視聴率が0.1%になった、みたいな、つらい情報がしばしば流れていたので、いつかはこうなる日が来るかもと思っていたが、その時はあっさりと訪れてしまった。

くしくも、そのハロモニ@の最終回が放映された週にモーニング娘。の最新シングル「ペッパー警部」が発売された。
本日のオリコンウィークリーでは3位、売上げ枚数は、発売枚数は1週目で38,596枚だ。

この数字は高いのか、低いのか。

一般大衆的な感覚では、はっきり言って、モーニング娘。は過去のグループである。
しかし、業界全体として、CDの発売枚数が激減している中でこの数字は決して悪くない。
いや、逆に言えば、モーニング娘。は凄い。あるいは極論すれば奇跡ではないのか。

下記の通り、CD発売1週間での発売枚数(生涯売上枚数ではない)は、ここ4年位、若干の上下はあっても、それほど変っていないのである。

2008/09/24 ペッパー警部 38,596枚 3位
2008/04/16 リゾナント ブルー 48,086枚 3位
2007/11/21 みかん 28,082枚 6位
2007/07/25 女に 幸あれ 43,364枚 2位
2007/04/25 悲しみトワイライト 53,551枚 2位
2007/02/14 笑顔YESヌード 40,884枚 4位
2006/11/08 歩いてる 40,967枚 1位
2006/06/21 Ambitious! 37,065枚 4位
2006/03/15 SEXY BOY 36,531枚 4位
2005/11/09 直感2 43,535枚 4位
2005/01/19 THE マンパワー!!! 51,421枚 4位
2004/11/03 涙が止まらない放課後 50,967枚 4位
2004/05/12 浪漫 36,531枚 4位
(オリコンのHPによる)

世間の視線からモーニング娘。が”消えて”しまった中、上記の数字は、このグループのファンの忠誠心の異常な高さを示していると思う。

もともと、モーニング娘。はASAYANというオーディション番組から出てきたユニットである。1997年につんく♂が開催したオーディションに落選したメンバー(中澤裕子.石黒彩.飯田圭織.安倍なつみ.福田明日香)が敗者復活を期して結成されたグループである。
それゆえ、彼女達の初期のウリはハングリー精神だったのだ。だらか、彼女達のパッケージ写真の流れを見ていくと、「サマーナイトタウン」「抱いてHOLD ON ME」から、メジャースターダムの地位を確立した「LOVEマシーン」まで、決して笑っていない。
逆にこちらに対して挑戦的な視線を向けているではないか。特に安倍なつみのギラギラした態度は、初期のモーニング娘。を象徴している。

さて、このグループをささえるファンたちは、伝統的なアイドルオタク達がアイドル史の流れでファンになったというよりも、いわゆるアイドルヴァージンの男達がモーニング娘。登場の衝撃によって、オタク心を喚起され、ファンになったと言われている。
すなわち、「最初がモーニング娘。」っていうファンが多いんですね。
それが、彼らの忠誠心の高さの原因とされる事が多い。

と同時に、ある社会学者の調査によると、モーニング娘。のファンには地方公務員が多いというが、彼らの職業倫理がファン倫理に横滑りしているのだ。それが、彼らの忠誠心の強さの一因になっているのかもしれない。
ファンクラブの退会理由の一番が「一身上の都合」であるという伝説があるが、モーニング娘。のファン層を考えると、むべなるかな、って感じなのである。

もし、今後、モーニング娘。の人気が下降する日が来るとすれば、地方改革、金融不況の果てに、地方公務員のリストラあるいは、その財布を脅かす状況が進行した時であろう。

いや、そんな時が来ても彼らは忠誠心を持ち続けるのかもしれないし、持ち続けてほしい。

まさむね

鉄板少女から和宮への見事な転身

「篤姫」での堀北真希がなかなか素晴らしい。

徳川家茂(松田翔太)に対する愛と孝明天皇(東儀秀樹)の妹・皇女・和宮としての立場の間での葛藤、天障院(宮崎あおい)との信頼の醸成、公家衆の陰湿さ(彼女達は身内であるが)に対する不快感等を微妙な表情で演じ切っているように思えるのだ。

実は昨年、和宮を堀北真希が演るということが発表された時、僕は、かなり違和感を感じた。
僕の中で堀北真希って言えば、「鉄板少女アカネ」だったのだ。
それは、コテコテの庶民キャラである。
その彼女が皇女を演じるって大丈夫っていう風に思っちゃったわけだ。

しかし、「篤姫」では彼女は素晴らしく演じている。彼女はもしかしたら凄い才能があるのかも。

ただ、苦言が一つ。

テレビナビのインタビューで以下のように述べているのだ。
「家茂さんとの収録では、実はラブシーンが大変でした(笑)。寄り添うだけでも、かつらが気になってしまい、寄り添うカタチをキープ!みたいな...(笑)」
この雑誌を見た後、家茂と和宮のラブシーンでは、彼女のかつらに目が行ってしまう。集中して見れなくなったじゃないか。
こういうこぼれ話って放映後の後日談にしてほしいよね。

このあたり、まだまだ、真の女優になりきれていないということか。あるいは周りのスタッフの問題か?

まさむね