何故、矢口なのか。

何故、矢口なのか。
モーニング娘。の中でも一際小さく、二の腕も太い。誰しもが一度は「何故矢口なのか。」とつぶやきたくなる瞬間、我々はすでに矢口の術中にはまっていると言わざるを得ない。
「LOVEマシーン」で最後の「ラブマシ~ン」そして、「ダンスサイト」では「セクシ~ビ~ム」と常に、ポイントポイントでそのポジションを確保する彼女はそれなりにつんくの評価も高いのだろう。確かに、権威的あるいはあやしげな人気投票でもいつも上位をしめる彼女の魅力は、ロリコン向けという言葉では語り尽くせない。
それよりも、SPEED無き後、小学生をターゲットとした空き家に忍び込んだ感のあるモーニング娘。の立派な戦力だと言っておきたい。
しかし、それでもなお私は今日もどこかで思わずつぶやいてしまう。
「何故矢口なのか。」と。

まさむね

これからは後藤だ。

学業に専念するために脱退した福田明日香は、なんかのクイズ番組で、「フランスの首都は?」と聞かれて答えられず、彼女の将来に思いを寄せるファンをはなはだ不安に陥れたものだが、その後釜として、昨年9月にモー娘に就職した後藤真希は逆に、「今、学校で数学どこまで進んだの?」とお笑いに聞かれ、「今、冬休みですから。」と言い切り、学業なぞはアイドルになれなかった者どもの苦役に他ならないわとでもいいたげな表情をちらっと見せた。
彼女の成長こそ、我々が今後、主題として楽しむべき物語なのではないかとその時、私は確信したのである。モーニング娘。の中では早くも2曲目でなっちと並ぶメインの位置をキープした彼女の屈託のなさ(=増長した感じ)と、まだプロになりきれないあまったれた感じが現時点での彼女の魅力である。
しかし、ただの街の娘とアイドルの中間的存在でいつまでも行けるわけでもなく、成長物語の先にある彼女は今の時点では想像もしたくないというのが我々の正直なところではないだろうか。

まさむね

飯田と保田とモンテクリフト伯

飯田と保田がどの人なのか、週末テレビでその事だけど真剣に見たので知ることができました。この年になると真剣に学ばなければ知識が身につかないのは悲しいことです。保田は、いつも見いてメンバーの中で一人だけコイツちょっと場違いなんじゃなないのかなって思っていた人でした。飯田は怒り顔の人ですね。

ニシムラさんの署名にいつも「。」が最後についているのはモー娘「。」なわけですね

そういえば、監禁少女(なんていう言い方だ!)は両親や自分の名前を忘れないために書き留めて覚える努力をしていたそうですね。(涙 中国の日本人孤児のようだ)彼女のこれからに安らぎが訪れて欲しいけどマスコミが黙っていないでしょうね。映画以上ですもんね、まさにショーシャンクの空にやモンテクリフト伯-岩窟王-の様な人生です。犯人はコレクター(犯人)+ヒッチコックのサイコ(母親)ってかんじですかね。これからはジャンバルジャンな人とかゴリオ爺さんな人とか登場して欲しいですね(いったいどんな?)

監禁中の彼女の現実は夢想する頭の中だけだったのかなあ

自転車後日談は実は家族中ぐるで、こっそり自転車を取り返しにきたら面白いね。

ところざわ

新潟とモーニング娘の保田圭

新潟の誘拐監禁事件は、その9年間、少女がずっと何を考えていたのかが気になる。人は9年間もの間、脅えつづけてだけ生きていけるものだろうか。
彼女の頭の中には、どのようなイメージ、願望、物語がうごめいていたのだろうか。人間って何にも考えない事って難しいものだ。
さて、話は変わって、モーニング娘。である。この中で将来性があるのは誰かと聞かれれば、私は間違いなく、安倍、中澤、市井の3人と答えるだろう。その理由は簡単。安倍と市井には聡明さと野望があり、中澤には芸としたたかさがあるからだ。
しかし、わからないのは後藤と矢口。そして、将来性があまり見えないのが、飯田と保田である。
ただ、私はだからこそ、飯田と保田に注目してしまう。逆に今だからしか2人を楽しめないような気がするからだ。飯田の不気味さは前回話したので今回は、保田について。
彼女を見ていると今、現在が最高の時間であるっていう事を余すところ無く表現している。別な言い方をすれば、10年後の保田は想像もしたくないと思わせるものがある。「LOVEマシーン」のミュージッククリップでは逆に「未来は♪」っていうところだけが、彼女のアップであるところが、逆に皮肉である。
ベテラン歌手にも、バラドルにも俳優にも成れないであろう彼女の今を見る事は、せつない桜を見るようなものだ。福田や石黒のようにスパってやめることが彼女にできるかどうか。彼女にはそれほどの聡明さはないだろうが。

まさむね。

坂口安吾とモーニング娘。

かつて、坂口安吾は「突然、何かに突き放されるような感じ」の事を文学における「ふるさと」という言葉で表現したが、これは、例えば、ジャイアント馬場を見ていたときに感じた一瞬の沈黙とか、漫画ならばつげ義春なんかにも感じるような冷たさとも通じるものなのじゃないかと思っている。
こういう観念に取り付かれてしまうと、どうもそれからは自分が何かを見るときの指標としてこの「ふるさと」探しという事がメインテーマになってしまう。
そこで、モーニング娘である。別に彼女たちの「ふるさと」という曲の事を言いたいのではない。僕はそのモーニング娘。の飯田香織に、そんな感じを感じたのだ。彼女の自分を持て余した感じ、居心地の悪さは、モーニング娘。でも異色中の異色である。
それは中澤のあねさん的なサバサバした魅力とも、なっちの正統的なアイドル性よりも、後藤のまだアイドルになりきれないが、その成長物語よりも、市井さやかの健康な向上心よりも、矢口のロリコン的なエロスよりも、保田のアイドルにしかなれなかったと言わんばかりのハツラツな馬鹿よりも、実は僕の目をひくのであった。

おそらく沖縄アクターズスクールからは逆立ちしても登場し得ないような彼女たち、特に飯田に僕は注目したい。

まさむね。

伝栗発見&椎名林檎

伝栗計画はついに、見つかってしまいました。下の2つのサイトで発見されてしまいました。(By goo)
http:// infoserv.sut.ac.jp/ j-siken/ H9a1/ af16.html

http:// www.normanet.ne.jp/ ~ww500002/ ol_tube/ ol_tube_13.html
さて、それはともかく、椎名林檎である。かつて、細野晴臣が、音楽にとって、大事な三つを以下のように表現した。
下半身ムラムラ
脇の下ゾクゾク
頭クラクラ
これは、ようするにリズムとメロディとコンセプトという事らしい。特にコンセプトに関しては、その音楽家のどうしようもない衝動というであって、けっしてマーケッティングのプランということじゃないということ。
そこで、椎名林檎である。新宿系という事で売り出している彼女の「ギブス」発売というポスターが新宿の二丁目に大きくある。どだいエンターテインメントに「ギブス」はないだろうと思って、その歌を聴いてみる。衝動だけで作ったような歌だった。
いつか沖縄アクターズスクールの校長とかいう男がテレビで、自分の学校を出た生徒達を自慢しながら、個性やノビノビとか自分を大事にすることとかが身につく教育とか言っていたが、それはせいぜい商品としての個性やノビノビだろうと思った。明らかにたんなるイデオロギーだ。
もしも、椎名林檎がそこの学校の生徒だったら、僕はその校長を少しは信じてもいいような気がした。

まさむね。

サッカーは嫌い

今朝、安室が、その母の死以降の気持ちをインタネットで告白ってワイドショーでやっていました。それで安室の暗さもちょっとは納得できたっていうところでしょうか。
でも、TBSのワイドショーで、安室ちゃんのインタビューをご覧くださいって言うから、思わず身を乗り出したのに、出てきたのは何故か瀬川暎子の映像だったのには、思わず目眩がしました。しっかりしてくれよTBSという感じでした。
昨日は、野球の話だったので、今日はサッカーの話。いきなりですが、僕はサッカー観戦が嫌いです。一度、カナダでメキシコVSカナダという試合を観た事があるんですが、その時、トイレに行っている間にカナダが1点入れて、それで、そのまま1対0でカナダの勝ちっていう試合を観てから、生観戦はしていません。
大体あの、試合の展開の速さがおそらく、日本人の観戦(観見世物)のリズムに合わないんだろうな。野球だったら観るべき所と、休憩すべき所が明確に存在するし、元々相撲もそうです。明治時代の記録とか見ると、大相撲の仕切りで延々2時間も組み合わなかったなんていうのがあるんだけど、それってようするに、延々2時間、裸の大男が塩を撒きつづけるのを見てたって事ですよね。
そういうよく分からない風景をも見世物化していた我々の先祖のセンスにちょっと唖然。
世阿弥の花伝書に「秘すれば花なり」というのがあるけど、やっぱり見世物の本質は実は、想像させることにあるんじゃないでしょうか。馬場さんのプロレスだって結局、あの人本気出したら、めちゃくちゃ強いんじゃないの?いや、めちゃくちゃ弱いんじゃないの?っていう想像域の広さで我々を楽しませてくれたわけですよね。
まぁ、そういう意味でサッカーって想像から最も遠いスポーツだと思います。結果がすべてというか。その結果の全て性がサッカーくじなんていうものを呼び寄せたわけですからね。
前もちょっと言ったけど、ヒール性を失った文部省が、サッカーくじで金儲けしてさらに、お子様にサービスする気でしょうか。

まさむね。

久米ヒロシと孫

ルミコの件はそうなったら凄いけどね
昔の映画みたいな話で現代じゃありえないかも

筑紫じゃないけど、先日、ニュースステーションに孫がゲストででていて、久米とまあどーしょーもない対談をしたのだけど、その中で久米の孫の月収を突然質問し出して、孫はモゴモゴしなから500万程度とこたえていたけど、孫には逆に久米にイクラか切り替えして聞いてほしかったですね
久米はその胸元への質問でインタビューアとして自我自賛したかったのだろうけど、なんか引いてしまいました。
まあ、その後、儲けているのにその程度とフォローしていましたけど、久米はあいかわらず庶民の見方みたいなポジションに立ちたかったのでしょう
でも、もう、誰でも感じているとおもいますが、
孫も虚像に満ちているけど久米も大差ないと感じていると思います

筑紫はもう知識人として自分でアガリの立場にいることを認識していて、その立場の立脚点が今までの文学やヨーロッパ映画やオペラだったりするのでインターネットとか新興勢力を毛嫌いしていますよね

立花隆や筑紫や久米も扱っているものが多少違うだけでワイドショーの司会の小倉某と大差ないと感じてます
逆に扱っているものが等価であることに気づかずにいる分裸の王様なのでしょう

ところざわ

ルミ子と賢也&筑紫と馬場さん

賢也とルミ子の「攻防」について、確かに、賢也がルミ子に渡したお金をずっと貯めていて、最後にそっくりそのまま、返すというのはロマンチックなシナリオですね。
で、多分、ルミ子がこの「攻防」に逆転勝ちするにはそうするしかないかも。
先日、ルミ子の母親が、特ダネで独占インタビューやっていて、ルミ子の出した条件がキツイのはそれほど、ルミ子が賢也を愛していて、賢也に帰ってきて欲しいからだ。とルミ子を擁護していたそうですが、だったら、逆に1億円あげるから、帰ってきてと言うべきじゃないかと思いました。
さて、筑紫哲也の知ったかぶりの件ですが、僕が他の人に比べて少しは知識があるのはプロレスというジャンルだと自負しているんですが、だからこそ、ニュース番組の真のクォリティを計るのに、そのニュース番組がプロレスを扱った時の情報の正確さとか、視点のするどさというのを使います。もしも、その記事がいいかげんな物なら、それから類推して他のニュースだって結構、アレだなと思うわけです。
そこで、筑紫哲也のニュース23を僕が信用しないのは、昨年1月末に馬場さんが亡くなったときの23のいい加減な報道に根拠を置いています。そこには、若き日の馬場の姿として、台湾出身の相撲上がりの羅生門というレスラー(このレスラーも巨人症で確かに馬場さんに似ている)が堂々と出ていました。あの時は悲しみを通り越しました。
また、筑紫哲也じゃないけど、日刊スポーツのコラムで、この羅生門が出演していた黒沢監督の「用心棒」を誉め、黒沢の目にかなった馬場という紹介の仕方をしていたのには、黙っていられず、その著者に思わずメールを送ってしまいました。その時は一応、返事が来たんですが、悪びれる様子もなく、「その件はすでに訂正しました。」という文面で、ますます腹がたちました。

まさむね。

とりあえず立花隆(他の話題は後日)

よくぞ、話を振ってくれたという感じですが、僕も立花隆に関しては言いたい事がありました。
おそらく立花隆というのは一つのシステムなんでしょうね。今、最も新しくて、知的で、意義深いテーマを見つけてきては、手の者に(昔は)大宅文庫とか(今は)インターネットで情報収集させたり、その道何十年という人から話しを聞いたりして、武装し、これで大丈夫となったら、世間に啓蒙するというシステムとしての立花隆。
それはそれで、存在意義はあると思いますが、僕が気になるのは、その彼が選ぶテーマに関してです。結局のところ、どんなテーマを選ぶかというのが彼の唯一知的なところなわけだから、そこに偏見とか、カンの悪さとか、権威主義とかが入ってくると、それは見れたモノではないですよね。
数年前、彼が大宅壮一ノンフィクション賞の審査委員をやっていましたが(今もやっているかもしれないけど)その時、井田真木子というライターの「少女プロレス伝説」という、女子プロレスという場で見た現代少女考が最終選考まで残りました。長与千種とか神取忍とかのルポは、プロレスファンから見ても優れたものでした。
そこには、例えば、神取が元ビューティペアのジャッキー佐藤にガチンコを仕掛けた時の子細なプロセス等が記されていました。相手を完全にギブアップさせるには、次の3つが必要なのだそうです。
1:相手に激痛を与える事
2:相手の動きを完全に封じる事
3:もしかしかた殺されるという恐怖を与える事
僕は寡聞にして、今までこれほど明確な格闘技の思想を聞いた事がありませんでした。こんな神取の声を聞き出すだけでもこの「少女プロレス伝説」はすごい。(その他の部分も勿論、面白い)
で、この本を前にして立花隆はこういう主旨の論評をしたというのです。
「作者の筆力は認めざるを得ない。ただ、ノンフィクション作品はそれが扱っている対象がとるに足りないようなものでは全く価値が無い。」
具体的には、それ以来、私は立花隆の敵となったのでした。
追伸 それにしても、あの風貌は20年も変わっていないというのは不気味だ。

まさむね。