徳川葵紋と豊臣桐紋(2)

前回、豊臣秀吉の紋所が桐紋との話をしたが、秀吉の象徴として瓢箪を思い浮かべる人も多いだろう。

これは、家紋というよりも戦場での馬印に使われたようだ。戦に勝つたびにその瓢箪が増えていったとの伝説(千成瓢箪伝説)もあるが真偽はわからない。しかし、当時、秀吉といえば、瓢箪というイメージは一般に共有されていた。

一方、家康は当時の武家にはめずらしく教養のある人で、幼少の頃から様々な古典文学に慣れ親しんでいたという。

それを考慮に入れると家康が東国の王として桐紋を拒否し続け、葵紋にこだわった理由が見えてくる。秀吉の生前、主に西日本は秀吉の勢力下だったが、その象徴の瓢箪(=その花は夕顔)に対抗する理由から、家康は、葵にこだわったのではないか。

というのも、平安時代の宮中で、に七夕に行われた相撲会では、古来より、西からの力士は夕顔を、東からの力士は葵を髪かざりとして土俵に上がっていたという。(ちなみに、花道という言葉の由来はここから出ている。)

そんな故事が、葵紋にこだわった家康の頭をかすめていたというのが、俺の想像だよ。

まさむね

徳川葵紋と豊臣桐紋(1)

徳川家の家紋はご存知、葵である。

NHKの大河ドラマ「篤姫」では薩摩の島津家の分家から将軍の御台所まで上り詰める話であるが、その島津家の本貫は宮崎だったとの説もある。その昔、源頼朝から地頭として派遣された惟宗忠久が、宮崎県都城市あたりの「島津荘」を領地としたのが島津家の始まりというのだ。(ちなみに、この忠久は頼朝のご落胤との噂もある)

だとすると、宮崎から出てきて、徳川家に入り葵紋をつけたという意味で、篤姫に、宮崎あおい(葵)が抜擢された深層が見えてこようというものだ。まぁいつもながら、かなり苦しい説だが...

さて、この徳川政権の基礎を築いた徳川家康は、朝廷からの懐柔策見え見えの桐紋下賜を、何度も断り続けたという。
織田信長、豊臣秀吉はそういうことはなかった。彼らはもらえるものはもらう、利用できるものは利用するのだ。
例えば、愛知県長興寺にある信長の肖像の紋は、織田木瓜でも、揚羽蝶でも無い。正親町天皇から下賜された五三の桐紋だ。

また、秀吉は晩年にすべての自分関連グッズ(身の回りの小物、着物等)にいわゆる太閤桐という独自紋をつけている。成り上がりはいつの世もブランドを志向するということだろうか。

しかし、その後、この桐紋は最も正統な紋所として、脈々と受け継がれ、特に西日本の家の多くが桐を家紋としている。
そして、現在は、日本政府の象徴にもなっている。

木村拓也主演の「CHANGE」の冒頭では、この桐紋(五七の桐)がCHANGEというロゴにモーフィングするシーンが放送されているが、それを見るたび、桐紋の歴史が脳裏をよぎるのであった。

つづく

まさむね

ワビサビは街中にあるよ

日本の美意識の基本概念にワビ&サビというのがある。

ワビは、「ツイてねぇなぁ」という不遇の境地を、サビは「一人ぼっちだなぁ」という感覚を、それぞれ、美意識としてに昇華させた概念なんですね。

見渡せば花も紅葉もなかりけれ裏の蓬屋の秋の夕暮れ (藤原定家)

これは、そのワビサビの境地とも言える歌ですよね。
桜とか紅葉とかいった和歌の題材になるようなものが何にも無い状態だからこそ、しみじみとした情感を感じるってことですからね。日本の美意識の最高峰だと俺は思うね。

このワビサビの境地は、ご存知の通り、千利休の手によって茶道として完成するんだけど、そんな利休の名言。

「侘びたるは良し、詫ばしたるは悪し」

街を歩いていても、確かに、見捨てられたもの、さびしいものほど面白いことがある。逆にこれはこういう意図(深層=真相)があって、こう楽しんでくださいと押し付けてくるテーマパーク的なオブジェは往々にしてうるさい気がする。

詫びて寂びたオブジェが、こちらが勝手に深読み、深感動、勘違い、邪推によって、一気にヒーローになる瞬間がいいんだよね。

俺は、この一瞬の感動の儚さを楽しみたいよね。

まさむね

宮本武蔵の弱さ

宮本武蔵は若い頃、決闘にあけくれ、晩年に「五輪書」を著した。

決闘の動機の多くは、死と向き合った武士道というよりも、何とか生き延びようとする生命への執着だったような気がする。

吉岡三兄弟との戦い、巌流島の決闘、それらにおいて奇策として伝えられる態度にこそ、人間らしい武蔵の姿があった。

逆に言えば、かなり卑怯なのだ。武蔵って奴は。

しかし、晩年に決闘を封印し、少なくとも殺されることがなくなってから、自分の戦いを美化する。

その美化作業にこそ、俺は武蔵の弱さを感じるのであった。

まさむね

東日本と西日本の名前

西日本と東日本では、日本人の名字の分布が大きく異なっている。

目安としては以下のことが言える。

1)西日本の方が字数が少ない名字が多い。
例えば、西日本では、山本、田中が多いが、東日本では斎藤、佐藤が多い。また同じ斎藤でも、西日本では斉藤という名字が多い。
2)東日本では藤がつく名前が多い。
佐藤、加藤、斉藤等の名前は藤原氏の流れを汲むと自称する武士・農民階級に爆発的に広まる。西日本では、藤は下ではなく、上につくケースが多い。例:藤田、藤井等
3)西日本では読み方に濁点がつかない場合が多い。
例えば、山崎。東ではヤマザキだが、西だとヤマサキが多い。また、同様に、中田は東ではナカダだが、西ではナカタが多くなっている。
例えば、サッカーの中田は山梨出身でナカダだが、日本ハムの新人中田は、ナカタだ。
また、その他の名前でも西日本では濁点読みしない例がおおいようだ。例えば、鹿児島出身の中島美嘉はナカシマミカだし、福岡出身の浜崎あゆみの本名はハマサキだ。

最も、上記はあくまで傾向なので、得意げに話をして失敗することもあるのでご注意。

まさむね

桜(4)中世における死霊の宿り木

ねがわくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ (西行)

自分が死ぬんだったら、満開の桜の木の下で死にたいってことでしょうか。これは同時に、桜の花になって生まれ変わりたいっていうのも深読み出来るんじゃないかな。桜の花を生まれ変わりの象徴として、あるい、桜の木を生まれ変わりの霊の宿り木として観念するのが、中世の特徴からね。

例えば、世阿弥の能「忠度」でも、死霊がよみがえるために満開の桜の木を必要としている。また、「西行桜」では、桜の木を宿り木として、老人の精をよみがえらせる。

桜の木は時として、死者を想起させる「幽玄」の場(この世と霊界との通り口)として現れるんだよ。

そういえば、隅田川沿岸にならぶ桜並木は明暦の大火の被災者を追悼するために、徳川吉宗が植えさせてたらしいし、上野の山は彰義隊で死んだ幕府側の勇士のために桜を植えたという。

近代に入ってからは、「桜の木の下に死体が埋まっている」と書いた梶井基次郎が有名だが、その観念は、ORANGE RANGEの「花」まで続いているのかもしれない。

生まれ変わってもあなたのそばで花になりたい...

※この話題に関して、「家紋の文化史―図像化された日本文化の粋」(大枝 史郎)を大いに参考にさせていただきました。

まさむね

桜(3)源氏にとって凶兆の桜

日本文学に燦然と輝く金字塔「源氏物語」。
ここでも桜は美しく描かれているが、同時に不幸への伏線としても描かれている。

最初は「花宴」の巻。桜見の宴会で酔った源氏は、ライバルの右大臣家の箱入り娘・朧月夜との一夜を過ごしてしまう。そして、結局は、この不義が原因で、後の須磨、明石へ流される事となるのだ。

次は、「若葉上」の巻。桜満開の下で蹴鞠をしていた柏木(太政大臣の子)フトしたアクシデントで源氏の正妻・女三宮を見てしまう。そして、結局は、柏木は女三宮をはらませてしまう。このことが、その後に源氏に精神的ダメージを与える。

おそらく、この桜=凶兆という観念は当時の貴族達にも共有されていたんじゃないかな。

4へつづく

まさむね

桜(2)美と不安-紀貫之からコブクロまで

昨日、桜が国家主義的象徴だって話をしたけど、今回は日本の歴史における桜がどのようにイメージされてきたのかを追ってみよう。

まず、古事記。桜といえば、日本神話の中ではコノハナサクヤ姫に象徴される。ニニギのミコト(アマテラスの孫で、天皇の先祖)が、天孫降臨すると、まず、こ美しい姫に一目ぼれをして、結婚を申し込む。
姫の父はもう一人、姫の姉(石の精・石長姫)も一緒に嫁として嫁がせるが、ニニギはそれを拒否。
そのせいで、天皇の子孫は、美と引き換えに永遠の命を失ったという。
ここで、桜は、美の象徴であるとともに、死の象徴でもあるんだよね。

その後、平安時代に入ると、和歌で花と言えば、梅ではなく、桜を指すようになる。

久かたの光のどけき春の日にしず心無く花の散るらむ(紀友則)
桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける(紀貫之)

風に舞い散る花こそ、最も日本らしい美意識、そして日本人の悲しい心情を現すというのはこの平安の頃に生まれたんだよね。実はそれが、最近のJ-POPにも引き継がれているんだ。そして、桜の歌を作ると日本人は咲くところじゃなくて散るところを歌にすると国文学者の池田弥三郎先生が言っていたがまさにそうだ。

さくら舞い散る中に忘れた記憶と君の声が戻ってくる... 「さくら」(ケツメイシ)
さくらの花びら散るたびに届かぬ思いがまた一つ...「桜」(コブクロ)
さくらさくらただ舞い落ちるいくつか生まれ変わる瞬間を信じ... 「さくら」(森山直太朗)

3へつづく

まさむね

桜(1)その国家主義的象徴

武士道という観念は、武士が具体的な戦闘で死ぬ必然性が無くなった江戸時代に入ってからイデオロギー化した。
その武士道を精神運動として美学的にサポートしたのが本居宣長をはじめとする国学者であった。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花 (本居宣長)

靖国神社の遊就館に入ると最初に飛び込んできたのがこの和歌である。この頃から、桜とナショナリズムが融合していったんだろうな。そして、武士道というイデオロギーもそれに近いところに存在していた。

実際は、江戸時代の後期には、武士階級はほとんどが事務員と化していた。また、仕事の無い旗本なんかは隅田川に船を浮かべて、桜を見ながら粋だとかなんとか言っていたんだろう。
だから、彼らに実際の戦闘行為が出来たかというとはなはだ怪しい。例えば、現代の公務員にいきなり刀や槍を持たせて戦えというのと同じように、当時の武士階級に、無理やり、先祖伝来の具足を付けさせて戦場に駆り出したのが、長州征伐や鳥羽伏見の戦いだったんだろうね。
そしてそこでは、多くの直参、旗本達は愚痴を言いながら、アリバイ作りのためにとりあえず、戦場に赴いたんだと思う。

逆に、幕末の戦闘において、奇兵隊とか新撰組とかの非武士階級の方が武勇をとどろかせたのは、むしろ彼らのほうがより、意識的に「武士とは何か」「戦うとは何か」「そして何のために死ぬのか」を考えるポジションにあったからだ。

ところが、その答え、一体誰のために死ぬのかという思想が、この幕末から明治維新にかけて大きくかわったんだよね。江戸時代にあった家のために死ぬ、藩のためにしんで名誉を残すというロジックが、この時期、国家のために死ぬというイデオロギーにスリ替わったんだよね。

その、国のためにパッと散ってこそ、大和心という思想の象徴として、山桜紋が国家主義的戦略組織の印として散見されるようになる。

陸軍、海軍、学習院、靖国神社、そして大相撲、今でもこれらの組織の紋所には山桜が使われているんだ。
戦国時代より以前には、桜紋はほとんど広まらず、逆に「桜」は死霊を呼び寄せる、あるいは不吉な予兆として意識されていたのに、そういった日本の伝統は幕末>明治に強引に変わったんだよね。

2へつづく

まさむね

七曜は安産祈願

七曜紋は、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の七つの星を家紋にしたものとも、北斗七星を家紋にしたものとも言われている。後者は妙見信仰をもとにしている。

一般に星は、海の民や狩猟民の守りである。農耕民と違って、それらの民は星の運行、方角を性格に把握する事がが生死を分けるほど大事だと考えられていたからだ。志摩の九鬼氏は七曜を家紋としているが、戦国時代には日本一の水軍として織田信長に従った。また、東北地方南部の星宿信仰のある地域にもこの家紋を持つ者が多いが、それらの人々は元々狩猟民だったのかもしれない。

さて、この七曜は江戸時代以降は、七面大明神信仰と結びつき、何故か安産の守り神ともなる。田沼意次の父意行は子供に恵まれなかったが、出産・安産守りの七面大明神に祈誓をかけ、意次が生まれた。田沼家はここから七曜を家紋にしたと伝えられている。

ちなみに、映画「恋空」でも安産を願う彼氏(三浦春馬)が七曜が入った安産守りを彼女に買っていくシーンがある。

まさむね